fc2ブログ

彼は人体静かにして、公儀つきも良く

2021年05月13日 17:49

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/13(木) 16:20:17.66 ID:HSTG9AXZ
生駒左近(光政様ノ家士也)はかつて、織田常真(信雄)に小々姓として仕えていた時、
信雄は何かの用があって左近に、「ここより内に人を入れてはならない。」と申し付けた。
そこで左近がその口で番をしていると、信雄家中で出頭の者がそこを通ろうとしたため、
先に信雄より申し付けられた事を申して止めたが、それを聞かず通ろうとしたため、
左近は彼を斬り殺した。その後、若輩では有るが理に当たるとして、褒美が与えられた。

彼は人体静かにして、公儀つき(上の覚え)も良く、それ故か武州様(池田利隆)より、
光政様の御守として付けられた。しかも、少し私曲があり、その故か、その頃生駒家が断絶
しそうになっており、当主の死も間近であるということで、左近がそれを相続するよう
仰せになられた。庚申(1680年)十一月十九日、備前西の丸御内所にて御物語された。

烈公間話



スポンサーサイト



加藤左馬助殿は、常に動じない人であった

2021年05月12日 18:49

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/12(水) 14:31:04.74 ID:H+XpSd11
未の年の正月、岡山に於いて物語された事である。

加藤左馬助(嘉明)殿は、常に動じない人であった。
(秀吉公が伏見に御座の時)殿中に於いて地震があった時も動じず、
また虎が朝鮮国より進上の時、虎の置かれていた大書院の縁を通る諸大名は、虎を恐れて
皆少し退くといった体であった。
山崎甲州(山崎家治カ)も気味悪く思われ、引き退こうとした時、左馬助殿を見ると、
彼は柱にもたれ、嘘眠りをして居られた。(柱ニモタレウソ子ムリテ被居)
これを見て、歯を食いしばって甲州も退かなかったと、甲州が光政様に物語されたという。

烈公間話



165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/12(水) 15:40:33.86 ID:qwZOPA/Q
嘘眠り見抜かれてちょっと恥ずかしい

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/12(水) 23:41:50.58 ID:ipb/lOQ8
他人の失態を見るのは失礼だから眠ったフリをしたんだよ

167 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/14(金) 06:40:52.21 ID:Ra1/CEvj
この逸話、かれこれ4回くらいこのスレで出てるけど登場人物が加藤清正と加藤嘉明のバージョンもあったりするけど、出典によって内容が違うんだろうか?

ヒハヒハして難儀をしたのだ

2021年05月11日 18:14

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/11(火) 15:42:42.15 ID:mvGajSim
ある時、信長公より御成敗人(信長ノ舎弟、武蔵(織田信勝)ト云)をする事を仰せ仕ったものの、
手討ちに失敗し(三人に仰せ付けたが、討ち損じたという)、かの者が逃げた所を、廊下において
勝入様(池田恒興)が刺殺された。

その後、御家来共に物語された
「脇差はどうであっても重いものを用いるべきだ。先の手討ちの時、薄い脇差を差していたため、
ヒハヒハして(原文ママ、ヒラヒラか)難儀をしたのだ。」
そのように言われ、その後新身を大道(刀工、陸奥守大道か)に、重ね厚く、大平に御打たせ、それを
御陣刀に用いられた。これは御討死の時まで御指しになられ、今は永井家に伝わっている。

烈公間話



船より突き落とされた

2021年05月10日 16:14

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/10(月) 14:47:01.42 ID:PHXB85F7
長篠の合戦に於いて、徳川軍の青木(一重)は勝頼敗軍の時、数人と船に乗って川を越え、
敵船へ飛び乗ろうとしたが、これに敵も気付いて船より突き落とされた。

しかし青木は川中をくぐり、時々顔を出して呼吸しつつ、その敵船に遅れず付いていき、
向かいの岸際にて浮き上がり、彼を突き落とした兵を見つけると、再び水中に潜って
その兵の前で浮き上がり水中に引きずり込み、水中に於いて首を取ったという。

烈公間話



子か親かは知らず、子とは申しがたき者であった

2021年05月08日 16:50

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/08(土) 16:45:50.16 ID:1sAr4HI5
姉川合戦の時、家康公に従い奉る青木民部(一重)が、真柄というつわものの首を取った。

去る人(能勢小十郎也)が民部に尋ねた
「あなたが討ち取ったのは真柄(直隆)とも云われ、又真柄の子(隆基)であったとも云われますが、
如何なのでしょうか」

青木、答えて
「非常な大兵と競り合いをし、後ろが片岸にて、後ろに落ちた所を押し付け首を取りました。
非常な大兵であったので、人の子であるとは申しがたき者でありました。」と申されたという。
(子か親かは知らず、子とは申しがたき者であったと申されたという)

真柄という者は、隠れ無き大兵の功の者であった。

烈公間話



159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/08(土) 17:03:20.85 ID:DMf9X1nm
一尺八寸の大太刀を振るうだけあって人の子とは思えなかったと

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/08(土) 23:03:17.69 ID:MhUssHkc
化け物過ぎてミスった所を討ち取ったとちゃんと申告しててえらい

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/09(日) 04:00:47.57 ID:2V8oYE+e
神子田のように自分を貶めてまた主人も貶めるくらい豪傑じゃないとね

すぐに恒興公は

2021年05月07日 17:23

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/07(金) 15:33:36.81 ID:c8NMKRSI
長久手の戦いの時、(信雄・家康方の)岩崎城には丹羽勘助(丹羽式部先祖)が取り籠もっていた、
しかし勘助は出陣しており、留守としてその舎弟・次郎助が在った。

池田信輝(恒興)公はこの岩崎城を攻め落とし、城中の人兵を斬り滅ぼした。次郎助は土肥飛騨が
討ち取った。

「ここにて一端、御備えを据えるべきです。」と、池田家の御家老共はたって申し上げたが、
恒興公は「少しでも早く三河の岡崎を取りたい。」と思し召し、お急ぎの故、先行させた先手は
矢作の橋の際まで行き着いていたという。しかしこの時、跡より鉄砲の音聞こえたため引き換えされたが、
すぐに恒興公は討死なされたという。

烈公間話



岡野紅雪という人が有り

2021年05月06日 19:02

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/06(木) 15:12:03.47 ID:3pTNnCr4
岡野紅雪(板部岡江雪斎)という人が有り、彼は現在の、岡野孫九郎の先祖である。
この江雪斎は小田原北条家の旗下であり、小田原落城の時、彼は生け捕り縛められ、
秀吉公の御陣に連行された。

これを聞いて秀吉公は仰せになった、「真田御陣の時(名胡桃城事件の事か)、この岡野は
表裏第一の不届き者であった。磔にも致したい者である。様子、委細を尋ねよ。」

そこで使いを以て尋ねると、江雪斎は
「この事は人伝えではなかなか申し上げられる事ではない。直に申し上げる。」
と、縄を取って引き立てるよう要求した。
この事を秀吉公はお聞きに成り、「苦からず」と、彼を御前に召し出した。
そして一々にお尋ねになったが、江雪斎はそれら一々に申し訳を仕り、そのため一命は
お助けと成り、秀吉公の御咄衆と成った。

ある時、京都に於いて能の御興行の時、秀吉公に家康公が仰せに成った。
「小田原北条は、関八州の大将なれども、久しく城で堪える事が出来ず、わずか百日ばかりにて
落城し降参しました。本来ならこのような時の御物語の相手にも成るべき者であったのに、
籠城したにもかかわらず、不甲斐なく百日ばかりにて落城したのは、非常に残り多きことです。」

この時、かの江雪斎がその末座に有り、罷り出て申した
「天下の人数を引き受け、北条であればこそ、百日も持ちこたえたのです。その上あの時は、
北条が第一に頼みにしていた家康公にも見放されており、そうであった以上、仕様も無かったのです。」
と申した。

これに秀吉公からの返答もなく、家康公も言葉もなかった、という。

烈公間話



151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/06(木) 18:22:57.84 ID:e/D2hHJL
うわぁこいつくうきよめよ

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/06(木) 20:42:16.07 ID:K6sXGfC5
いかにも弁舌の人

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/07(金) 10:55:01.07 ID:a2A2XpA5
信長の野望でなんか名前長くて政治に使える人だ

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/07(金) 14:25:21.65 ID:s81hAZ4r
豊臣徳川側の史料ばかり残るから
家康は巻き込まれてはたまらんと必死に氏政・氏直上洛交渉してたように見えるけど
交渉の過程では北条(江雪)側に、家康は結構ムシのいいこといってのかもしれんな
「第一に頼みにしてたんだけど土壇場で見放された」とわざわざ一言言いたくなるぐらいには

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/07(金) 15:12:10.04 ID:C4fPMGID
これだけ骨のある人は口説の徒とは呼べないな

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/08(土) 01:05:46.45 ID:9hD7S84G
「秀吉に直接言うわ」って返答に対し、秀吉が激怒して江雪を詰問、
江雪はあくまで主君氏直を辱めない返答をして感心された
って流れの本もあるしな

「北条雑魚でしたね」って家康の話の振り方がまずい
こうなると江雪としては黙っちゃいられない

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/08(土) 15:07:58.15 ID:xqDxwrce
見放したって言うけど散々上洛を勧めたのに応ぜず面目を失わせた雑魚が悪い

大殿様は御討死されてはおりません

2021年05月05日 17:49

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/05(水) 15:56:59.97 ID:EaH3ck5c
長久手合戦にて、池田勝入公(恒興)が御討死に成ったと輝政公がお聞きに成り、敵陣へ
駆け込もうと成されたのを、伴道雲(大膳父ナリ)が御馬口に取り付き

「大殿様は御討死されてはおりません、御退きに成られたのを、私は見ました!
こちらの方にお越しになってください!」

と申し、無理に御馬を引き退かせた。

烈公間話



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/06(木) 10:27:33.03 ID:saBtFYXk
物知らずで申し訳ないんだけと、池田さんとこの大膳とはどなた?

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/06(木) 11:11:11.57 ID:y9wa6Qwj
番(ばん)大膳景次
この逸話の番藤左(右?)衛門は輝政に助けたことを恨まれて恩賞をもらえなかったけど、
輝正の息子の利孝隆の代で恩賞を貰ったとか

尾張家はこのように、御入魂であったのである。

2021年05月03日 19:08

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/03(月) 16:53:05.12 ID:xtvZpTjR
池田輝政様の御逝去の時、武蔵様(池田利隆)は江戸に在った。
帰国のための御暇を得る時分であったため、武蔵様にはこの事を申し上げず、お聞き無きように、と
御老中の内意であったため、御暇が出た後にお聞きになり、これへの御愁傷は大方成らないものであった。

直ぐに帰国の途につき、成宮にて尾張大納言殿(徳川義直)より、成瀬隼人正が御使として出られ、
その他にも御家来衆が武蔵様を迎えるために御出になった。

武蔵様の御愁傷の様子を隼人正は見て
「左様に御愁傷されていては、幼少の御舎弟たちを、今後お取り立てなさることも出来ません。
御酒を参らせられますように。」
と、御酒を乞い、先ず自分が中椀にて二つばかり呑み、武蔵様へ進上した。武蔵様が無理に呑まれた時、

「そろそろ潮時が良いでしょう。早く御船に召してください。」

と言って、実は未だ潮時の前であったのだが、御船を召された。しかし潮時前であったので
船が出されぬままであったのを、隼人正は股立を高く取り自身海に飛び込み、武蔵様が召した船を
押し出した。隼人正がこのような体であったので、他の尾張家の諸士も各々海に飛び込み船を押した。
これにより船は浮き出た。

池田輝政公の御妹は浅野紀伊守(幸長)の室であり、また尾張殿は紀伊守の聟君であった。
然れば、尾張殿の御内室は武州様の姪子である。それ故に、尾張家はこのように、武蔵様に対して
御入魂であったのである。

烈公間話



池田輝政の死

2021年04月30日 16:56

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/30(金) 14:31:25.20 ID:s9vSCkNd
ある年の十月、物語されたことである。
池田輝政様が姫路に於いて右京殿(池田政綱)の屋敷にお越しになり、その日より御気色悪しく、
御城へと帰られたが、この時鳥が多く飛び来て、御駕籠に当たったという。これは春の事であった。

まもなく御快気され、江府(江戸)へ御参勤成された。同八月頃に御帰国、翌慶長十八年に、
また御気色が悪化し、その時、座敷の書院、床の障子にまた、鳥が数多飛んで来て当たったという。

まもなく、逝去された。これは加藤九左衛門が覚えており、光政様に物語申し上げた内容である。
輝政様の逝去は、慶長十八年正月二十五日、享年五十歳であった。

烈公間話



693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/01(土) 21:01:22.25 ID:ADexeFwu
弱った輝政を見て喰ろてやるチャンスだと思ったんやな

只今秀吉公御死去

2021年04月29日 17:38

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/29(木) 14:39:47.50 ID:f09WRf9y
庚午(1630年)十二月に書写、丁巳(1617)年、池田光政様が御咄遊ばした。

秀吉公の御卒去は深く秘密とされたが、この時石田治部(三成方)より八十島と申す者が
使いとして、東照宮(家康)へ内密に申して曰く

「只今秀吉公御死去」

と申し上げた。

その後、秀吉公の御使者より東照宮に、蜜漬けが届けられた。
そしてその後、浅野弾正(長政)が御使として、御肴を持参して参られるということを
東照宮に申し上げた。

普段であれば、御使者が参った時は袴、肩衣を召して御馳走遊ばされていたのだが、
この時東照宮は以ての外の御様体にて、「弾正これへ」と召した。
弾正参り、御口上を申し上げた。
神君はややあって、以ての外の御機嫌にて

「今まで、死したる人の方より、使者を以て音信が有るという事は承ったことがない。
先程来た蜜漬けにも大毒満々たる故、この庭のふみ石にて打ち破って置いた。」と仰せになった。

弾正は
「そのようなことは有りません!」と色々弁明を申し上げた。
神君は
「治部方より御死去の日、注進があり、委細聞いたのだ。」と仰せに成られた。
浅野は申した

「石田を始め、堅く誓紙を取り交わしたというのに、彼が約束を変じた故に面目を失いました。
この申し分が実際の所であり、重ねて御奉公申し上げるでしょう。」
と申した。

その心の故に、関ヶ原にて御味方仕ったのである。

烈公間話



691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/01(土) 08:27:11.36 ID:yZrxDgdY
>>689
老人に甘いものは毒、もう糖尿病なんてあったのか

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/01(土) 10:36:30.64 ID:xYlT6RcQ
>>691
米を大量に喰うから糖尿病(飲水病だっけ?)はあったけどこの文の趣旨はそれじゃない

松永弾正は、世智に悪しき、賢き者

2021年04月28日 18:52

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/28(水) 16:44:31.88 ID:zJjq0Haf
松永弾正(久秀)は、世智に悪しき、賢き者であった。
彼は鍛冶屋、紺屋を見て、「三年の間、この両職を勤めるという気持ちで奉公すれば、
立身致すだろう。」と言ったという。
夏に鍛冶屋を仕って暑さを堪忍し、冬は又、紺屋での水使いを堪忍する、という事である。

また串柿の竹を三尺に極める法を定め、「一間の半分の所の塀の小舞(屋根や壁の下地で、
竹や貫を縦・横に組んだもの)に使うのに良い」、と申したのだという。

烈公間話



南部越後について

2021年04月27日 18:20

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/27(火) 14:20:54.68 ID:EBmutGnO
南部越後について、彼は滝川殿(一益)の侍であり、滝川縫殿(当家番頭家次)の父出雲(辰政)の
父である。武勇有る能人であった。

かつて信長公が「小田原その他の敵を押さえるように。」と仰せに成られたが、南部越後
滝川家に従っての初合戦に参加しなかった。その時滝川は、使者を以て「どうして合戦に参加
しないのか」と、厳しく尋ねた。南部は答えて曰く
「御家中の士、この戦で皆武功をなされており、私ごときがここで働いても目に立たないためです。」
と答えた。そして重ねての軍で大きな手柄をしたのだという。

またある時、敵の城を攻める時に、柵際へ味方が大勢付いたが、ここで南部越後は「この柵をくぐって
行き、敵城に乗ろう」と考え、兜をくぐらせて見た所で、敵は門を叩き鬨の声をあげた。
その大音に驚き、味方はどっと逃げた。ところが越後は、大きな前立てを打った兜を着け、
その前立てを傾けて柵を潜ろうとしていた時であったので、前立てが柵にひっかかり、味方の勢が
敗走した中、南部越後一人がこらえて留まっていると見えた。
これを見た味方の勢は引き返した。これも大いなる功名となった。

後で南部は云った「私は勇気があってこらえていたのではない。先に言った通り、やむを得ず
ああなったのだ。」

しかしこの言葉によって、猶々手柄と成った。日頃武功が多かった故である。

この越後は、武蔵様(池田利隆)御家に罷り在り、大阪御陣の時、片桐市正(且元)の
大阪よりの退き口において、大阪方がこれへの追尾を行った。
尼崎には建部内匠(政長)が居り(当時十二歳)、武蔵様よりその補佐として南部越後
遣わされ、彼も尼崎に居た。

この時、尼崎勢は市正を助けず、この事を市正は東照宮(徳川家康)へ
『武蔵守は大阪に内通しているのではないか』
と申し上げた。
そのため、これに対して番大膳が東照宮の元に罷り出て、申し訳を仕った。

東照宮の仰せに曰く
「武蔵守の手に南部有り。しかも彼は尼崎の城に在って、なにか理由も無く片桐且元
助けないということは有るまじきと思ったのだ。」と仰せになった。

烈公間話



141 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/04/27(火) 19:04:23.09 ID:fKzeA+2Y
南部越後は北勢四十八家の一つ、富田城主南部家の人物とされ
蒲生氏郷の配下の時代にキリシタンになったといいます
浪人後に輝政に三千石で召しだされたと

鳥取藩のキリシタン史で名前の出てくる医師森元交(もりげんこう)も南部越後の子だとか

難波戦記によると、御宿越前は

2021年04月26日 18:19

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/25(日) 23:29:35.67 ID:TIXyTC0r
難波戦記によると、御宿越前(勘兵衛)は、(大阪夏の陣、天王寺・岡山の戦いで)討ち死にした時、
殊に強く戦ったため、白糸の具足が血に染まり、赤糸に見えたという。

これについて、池田光政様に、先の松平出羽守殿(松平直政カ)が物語されたことによれば、
御宿は元来、左手の指が欠損しており(元来左手無手棒ニテ候)、その最期の時は、赤糸の具足を着し、
指の欠損したまま、鑓を持って居たのを、越前(松平)家の何某がこれを能く見知っていたため、
そのまま討ったということである。

出羽守殿は越前家の手勢の事を詳しくご存知のはずであり、であれば、これが本説であるのだろう。
御宿は指が欠損していた故に、強く戦える状態では元来無かったのである。

烈公間話



686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/26(月) 10:50:42.87 ID:Omwm547S
出羽守「元来の渡辺勘兵衛の左指デワー」

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/26(月) 17:15:15.59 ID:rhtGunLN
http://samidare.jp/yoshiaki/data/15407904041.jpeg
出羽守のポリコレ棒をくらえ!

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/26(月) 18:36:23.46 ID:PQIaL2a9
小指切れてたら槍握るの大変だろなあ
ましてや親指だったら不可能でしょ

ハタラキタル茶湯

2021年04月24日 17:17

千道安   
133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/24(土) 12:14:21.18 ID:cbP7yFL3
千道安方へ、ある人が茶湯に行くと、庭に朝顔多く、花の盛りで、路地も見事であった。
この人はその見た通りを、利休に語った。利休は「申された事、未だ知らない。」と、
日を定めて道安に茶湯を所望した。

その日、行って路地を見ると、朝顔は一葉も無かった。「これは」と思っていると、
床の間の花入に、朝顔一輪が入れ置かれていた。

「既に数人に見古させた花を、庭にて父に見せ奉っては賞翫と成らない」との事であった。

このようなものが、ハタラキタル茶湯である。総じて、茶湯の心とはこういった事であるという。

烈公間話



134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/24(土) 12:17:35.26 ID:okynbCIm
利休自身の逸話ではなかったのか

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/26(月) 12:47:05.64 ID:+AWW44bc
>>133
花の慶次で風評被害きっつい息子かー

当時の数寄者達は感じ入ったと言うが

2021年04月23日 17:56

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/23(金) 15:30:44.96 ID:dXmDSpBq
古田織部が家康公より逆心の咎めを受けた時、

「申し分を仕れば助かることも有るだろうが、この上において申し分をするのは見苦しい。」

と言って、申し分する事なく切腹した。
これについて、当時の数寄者達は感じ入ったと言うが、本当に身に誤りが無かったのであれば、
申し分をしたであろう。彼が切腹したのは、実際に逆心があった故ではないだろうか。
それは大阪城内への内通の罪であるという。

烈公間話



日頃の数寄が出たのだ

2021年04月22日 17:16

千利休   
132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/22(木) 15:29:59.99 ID:/XbN5Ghq
千利休が大徳寺の山門を建立し、自分の人形を木を以て作り、ヘントツ(羽織のような僧衣)を着て
頭巾に杖をつかせ、雪踏を履かせ(雪踏は利休が初めて作ったと云う)、高所に置いた。

秀吉公はこれをご覧に成って、「公家衆を始め礼儀ある門に、推参至極の仕形である!」とて
大いに怒り給われ、その罪にて利休は切腹した。
その時、脇差が包まれているものを取り、巻き直し両端を揃え、能く見て切腹仕った。
「日頃の数寄が出たのだ」と、当時の数寄者たちは感じ入ったという。

烈公間話



天下の茶湯指南は、

2021年04月21日 18:46

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/21(水) 16:01:16.20 ID:sY+axhzY
千利休、同道庵(道安)、古田織部についての事、
細川三斎(忠興)が利休に問うた
「貴老が五百八十年後にあい果てるとして、それ以後に天下の茶湯指南は、誰にて有るべきでしょうか」

利休答えて曰く
「倅の道庵については、彼はハタラキタル茶湯であります。しかしながら人柄が悪く、天下の指南は
成らないでしょう。古田織部がそう有るべきでしょう。」
と申した、その後、果たしてその様になった。

烈公間話



古田について、上記のように諸人崇敬したのだが

2021年04月20日 16:55

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/20(火) 14:14:29.64 ID:O4Ie7grK
古田織部について、彼は家康公の御意に入り、御懇意であった。
茶湯の者で、その上古田は度々功名があったのだが、世上に於いては茶湯のことばかり
沙汰され、武名を語られることは少なかった。これは茶湯が害と成ったのである。

家康公が、御庭の物数寄を古田に致させた所で、円座を御手自ら古田のために敷いたという。
これによって、諸大名は殊の外古田を敬った。

駿府にて、(池田)輝政様を始め諸大名が、御館に於いて、列座して料理を食していた半ば、
古田が表れ来ると、皆座を立って膳の前に座らなかった。
その時、「茶道がありますので数寄屋を見られるように。」
と、連れ立って数寄屋を見せ、脇道より帰されたという。

古田について、上記のように諸人崇敬したのだが、冥加尽きて逆心したのだという。

烈公間話



名誉の返答であった

2021年04月19日 17:40

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/19(月) 14:59:21.84 ID:GCe/x5AD
加藤清正は常陸守殿(徳川頼宣)の御縁者を仰せ付けられた。
東照宮(家康)の仰せに(駿府に於いての事也)
「常陸守の事、清正の婿に申し合わせた上は、諸事子息同然に心得給え。」

清正が退出し御次間へ出た時、彼に御当家(徳川家)の家臣衆が申した。
「只今の仰せについては、定めてご満足であったでしょう。」

清正は云った
「尤も、忝なく存じています。さりながら、昔の秀吉公の御厚恩は忘れ奉りません。」

御当家の老臣達は返答の仕様もなく居た所に、成瀬隼人正(正成)が間に入り
「その思し召し、御尤も至極であります。又家康公の御恩を蒙った者も、またその通りに
家康公の恩を重く存ずるのです。」

と申した。名誉の返答であった。

烈公間話



129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/22(木) 00:58:17.21 ID:Tox4w0bR
>>126
なんで徳川の縁者になったら秀吉の御恩を忘れるということになるの?
秀頼自体が徳川の縁者なのに

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/22(木) 07:34:02.37 ID:ard2cif5
表面しかモノが見れないのね

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/22(木) 08:16:09.72 ID:0Qbsx+fU
そもそも秀頼なんて秀吉の種じゃないだろって当時の人も思ってそう