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津村正恭の譚海より、戦国時代の連歌

2023年03月20日 19:49

723 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/19(日) 18:40:00.58 ID:3oOcadZo
津村正恭譚海に戦国時代に連歌が流行っていた話が二つ載ってたので

その1 松永弾正

松永弾正がある人のところで連歌をしていた。「薄にまじる蘆のひとむら」という句に上手くつけられずに悩んでいると、松永の宿舎から使いが来てこっそり何事かささやくが、弾正は相変わらず上手い句をつけようと悩んでいる。そんなことが二度三度あって、やっと「古池の浅きかたより野となりて」とつけると、すぐに「火急の用ができましたので失礼します」と帰ろうとする。隣の人が「何事ですか」と聞くと、松永答えて、「先ほどより宿所のほうに野武士が蜂起して押し寄せて来たとのことで、急ぎ参って追い散らしてきます」

724 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/19(日) 18:42:16.04 ID:3oOcadZo
その2 政宗と小十郎と紹巴

里村紹巴が松島見物に仙台に旅した時のこと。政宗卿が城内で片倉小十郎と四方山話をしている時に、「この頃紹巴が京都より下ってきて連歌を盛んにしているそうだ。一つ、紹巴を読んで俺もやってみよう」と仰って紹巴を呼んだ。すぐに紹巴はやってきて連歌が始まった。ホトトギスが鳴いていたので、政宗卿が「鳴け聞こう身が領分のホトトギス」と発句されると、小十郎横で胡坐をかいたまま、脇を付けましょうと言うと「鳴かずば黙って行けホトトギス」とつけた。紹巴おかしく思ったのか、「どうなりと御意に従えホトトギス」と第三句をつけた。

そこまで悪い話じゃないですが。

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/19(日) 19:36:12.35 ID:Ur/zFVEA
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13262.html
「古池の浅き方より野となりて」

こっちだと安宅冬康の短歌

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6643.html
「鳴け聞こうわが領分のほととぎす」

こっちだと藤堂高虎となっているが、普通は加藤清正として知られる



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伊達ノ士濱田治部ノ忠勇

2018年08月05日 18:06

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/04(土) 21:46:26.95 ID:c/zRkiu+
伊達ノ士濱田治部ノ忠勇

伊達政宗は能士を持たれた人である。浜田治部は武功ある者であった。政宗が会津表へ出陣なさった時、
家康公より御使者をもって「早く会津表を引き払い、岩手沢へ帰陣されよ」と御指示があったので、

政宗は家老の片倉備中(景綱)を呼び、「白石城を攻め落としていながら捨て退くのもいかがなものか。
かといって城代を残し置くのも危うい。どうしたものか」と仰せになった。

これに片倉が「近ごろ、白石城に置かれている浜田治部を召して城代を仰せつけると良いでしょう」と
申したことにより、政宗が「浜田を呼び出して言い渡せ」と仰せになったので、片倉は畏まって治部に

言い渡され「白石城において貴辺の武功が優れていることにより、かの城に留め置かれることになった。
此度、内府公の御下知により岩手沢へ御引き取りなさるようにと議定された。これによって白石城を

捨て置くのも口惜しき御事なれば某に守らせるべきかといえども、諸事を御相談のうえで某は召し置かれ
がたいとの仰せである。そこで、御辺をかの城に留め置かれるとの御内談である。望み申す輩も多き中で
御辺がこの城に留まることは武士の本意であろう」

と片倉は浜田に申された。この時、政宗も「近頃の無理な所望ではあるが、他に残し置くべき者もいない
ので其の方が白石の城番を勤めてくれよ」と申された。治部はこれを承るも、「人多き中で若輩の某を

召しなさり、敵地に残し置かれるとは冥加に叶ったことではございますが、もとより不肖の某ですから
どうか功者を残しなさって、某はその指図を受けて城を守り申したく存じます」と言った。

しかし、政宗も片倉も同音に「ただ其の方一人しか留まるべき者はいない」とのことだったので、治部は

「このうえは仰せに任せます。敵がもし攻め掛かってきたなら突き出て討死するか腹を切るまでのこと。
何よりも易きことでございます。このどちらも苦しからぬことですから畏まり申した」と、申し上げた。

政宗は聞きも終わらぬうちに「突き出るのは謀のないようなものだ。堅固に城を持ち抱えて叶わなければ
腹を切ってくれよ。三日籠城してくれれば私が後詰する。愛宕八幡も照覧あれ、見殺しはしない」

と仰せになった。治部はまた返答申して、「某を救うために御出馬されれば内府と御誓約を違えましょう。
ただ御捨て殺しくださるとのことならば御受け申し上げます」と言った。

これに片倉備中が聞きも終わらぬうちに、「そちはそち、殿は殿の勤めをなさることだ」(そちはそち、
殿は殿の勤め有べし)と言うと、浜田は了承して退出したということである。

――『日本戦史 関原役補伝(校合雑記)』


我々の内実は、

2017年01月03日 16:42

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/03(火) 14:12:08.99 ID:NcThKzBi
関が原が始まろうとする頃、伊達政宗は自領への帰還を急ぎ、相馬領を通過する。
ここで政宗の家臣である片倉小十郎景綱は、政宗を迎えるためと、鹿島町に先行してそこの宿泊した。
この鹿島町は田中城の近辺であり、田中城には相馬家当主・相馬義胤の父、盛胤の居城であった。

片倉小十郎は草野左馬充、鈴木掃部左衛門を案内として、盛胤の家老である佐藤左近を呼び出し対面した。
左近を通して盛胤に刀、次郎郷胤に脇差しを進上し、その上で左近にこう語った

「今度、政宗は領地への下向につきこう命じました。

『冨塚近江は上下1500の人数にて岩城領に向かえ。我々片倉父子は上下1000人にて御領内の鹿島に
向かえ、矢田勘解由兵衛は上下3000の人数にて駒ヶ嶺領に向かうべし。』

これについて考えるに、世上の浮説ににおいて、佐竹、岩城、相馬、那須の面々が、長尾景勝に同意され、
石田治部少輔に与して家康公に敵対されると言われています。
これに対し我が主君政宗は無二の家康公の御方ですので、これらを警戒する必要があるのです。

憚り多きことですが、相馬と伊達は代々の縁類ですから、私ごときでもそのお為良かれと考え、
全く粗略にすることはありません。

もしも、一旦治部少輔にお志があったとしても、それはお諌めになるべきです。
何故ならば、今天下に、家康公に比するような大将は誰も居ないからです。
治部少や景勝が時の威勢に誇ってとやかく申されようとも、彼らが末まで全う出来る事はありえません。
それに与した人々の家は、滅亡するでしょう。

家にとって大切なのは社稷であり、主人は一代のものですから、時に至っては義を失っても
それは仕方のない事です。ただ期して末の所をよく吟味して頂きたいのです。」

左近はこれに
「底意を残さぬ懇切なお話、委細承りました。これについて先ず、盛胤に聞いてまいります。」
そう答えて退出し、田中城の盛胤に、片倉小十郎の語ったことを逐一申し上げた。
盛胤はこれを聴くと

「世上の浮説について、そういうものも有るだろう。だが我々は全く治部少輔に与していないし、佐竹や
景勝にも与していない。我々の内実は、小十郎も推察しているだろうが、累年の合戦のため諸士はおおかた死に、
今漸く、その子供たちを養育している段階であり、人数を持っていないのだ。なので家康公のお為といっても、
一体何が出来るだろうか?万一、家康公より御催促があれば、その時は50,30であっても召し連れて
参ずるつもりである。

政宗が家康公の御方に参るのならば、伊達との国境に番士を置くべきではない。また伊達家の人数の往来の自由も
認めよう。もし伊達方が相馬に対して隔意を持たれてはどうにも出来ない。内々にこの旨を伝えるように。」
そう語り、佐藤左近は立ち戻りこれを小十郎に詳しく申し聞かせた。

小十郎は
「そういう御心入であれば御家長久、珍重であります。しかし返す返すも、お諌め申し上げるべきです。
義胤公へのお諌めこそ第一です。」
そう申し、政宗に対しても盛胤の考えを伝えた。

片倉小十郎はこの地に1日滞留して、2日目に政宗のお供をして帰っていった。
その後程なく、景勝領であった白石を、政宗が攻め取った。

(奧相茶話記)



【ニュース】大坂夏の陣の史料発見

2016年03月30日 19:21

538 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/03/29(火) 09:44:26.25 ID:PPqJsMzz
松山藩主だった松平定行の弟、定実(1597~1632年)が徳川家康の旗本として参陣した大坂夏の陣での功績を伝える書状が見つかり、
愛媛県内の高校教諭や郷土史研究家らでつくる「伊予史談会」が28日発表した。
伊達政宗らが定実とその家臣にあて、軍功を挙げたが、軍令に違反し蟄居(ちっきょ)していた定実を擁護するような内容が記されているという。
同史談会によると、書状は8通あり、政宗のほか、政宗の家臣の片倉小十郎、福山藩初代藩主の水野勝成ら6人の花押が記されている。
定実の子孫にあたる松平定理さん(86)の松山市内の自宅に残っており、昨年11~12月に内容を確認した。

定実については「久松家譜」などに夏の陣で軍功を挙げたが、軍令に違反したとして家康の怒りを買い、合戦後は蟄居していたと記されている。
書状には「自分とともに最前線で活躍されたことを存じている」(勝成)などと定実の軍功が記され、
「家康様からお尋ねあれば、活躍を申し上げる」(政宗)といった定実を擁護する記述も確認でき、
「久松家譜」の原文にあたる資料としている。

同史談会常任委員の井上淳さん(49)は
「大坂夏の陣で武将に関する資料が一度に複数見つかるのは珍しいのではないか。定実の戦場の様子も詳しく記されている」と話した。

http://www.sankei.com/region/news/160329/rgn1603290028-n1.html



539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/29(火) 13:54:16.62 ID:ERoemA1V
これで最後っつー戦で指揮官が先頭にたって闘ったから諌めたんでしょ
前線で死んでいいのは外様だけだよ

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/29(火) 19:35:25.79 ID:yIVUvw+v
伊達政宗らの書状がまとまって見つかった」って書くと「そりゃ1シーズンに一枚くらいは出るだろう」と思うが、
「大坂夏の陣関連の書状が見つかった」と書くと確かに珍しいと思う

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/29(火) 20:58:29.31 ID:jgJAHo4N
戦後を支えるべき旗本が最前線って
そりゃ怒るわな

援軍

2015年03月04日 18:43

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/04(水) 01:25:36.12 ID:iPFCdSRy
援軍

慶長5(1600)年9月13日、直江兼続の大軍の前に畑谷城がまたたく間に落ちると、最上領内は大騒ぎとなった

最上義光は嫡男の最上義康を北目城の伊達政宗の下に遣わし「急ぎ援軍を賜る様」懇請した

義康が北目城に向かうのと前後し、西山形には二万余の直江軍が着陣。長谷堂城守備の志村伊豆(志村光安)と対峙した

北目城に馬をとばした義康に政宗は直ちに面会し、最上陣の粡(あらま)しを聞いた

政宗は少し席を外し重臣の片小(片倉景綱)に意見を求めた

景綱「最上は捨てて山形は直江にくれてやりなされ」

政宗「義光とは過去に諍いはあったが、修理太夫(最上義康)に怨恨はない。本当にそれでいいのか?」

景綱「それでは兵を出してはどうでしょう。ただし無駄な戦いはせずに最上と直江を争わせましょう
勝った方も疲弊するでしょうから残ったものを叩き、それから山形城を手中にしてはいかがでしょう?」

政宗「家康殿に上杉を相手に戦っている姿勢を見せねばなるまい。それに山形城にいるであろう母を見捨てることはできぬ」

政宗は「すぐに援兵を向かわせます。留守壱岐(留守政景)と屋代勘解由(屋代景頼)を先手としてまずは兵3000ほど出し
後から茂庭等も遣わしましょう
共に上杉を討とうではありませんか」と義康を励ました

義康は感涙し、ただただ頭を下げ政宗に感謝の辞を述べた

政宗(●Д゚)「…つー訳で政景は山形に援軍に行ってくれ。準備が出来たら屋代や茂庭とかもおいおい後から追加で行かせるから、
積極的には戦わないで、追って指示をするまで臨機応変に山形勢に合わせておけ」

9月21日、留守政景は兵1200を率いて笹谷口から山形へと入った

義光は留守政景を山形城に招くと軍議を開いた

義光(´・ω・`)「こたびの援軍誠に感謝致します!徳川様のために合力をし、是非に戦線を維持しましょう!」

…後に屋代景頼が増援として着陣したが、すぐに松川方面へと引き抜かれ、茂庭や他の将が代わりに来る事もなかった

「最上記」「伊達治家記録」

伊達家の記録では最上陣の援軍を馬上五百騎、鉄砲七百挺、兵三千(~五千)とし、
最上方の記録では伊達家からの援軍の数を騎馬百五十、その他徒士都合合わせ千百二十余としている




512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/04(水) 07:58:32.84 ID:fsAMEkax
>>508
オチが政宗らしいw

片倉小十郎景綱が幼女をたすけた話

2014年06月03日 18:51

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/02(月) 21:10:37.77 ID:TMq+qp0i
この話ないような気がしたので。

片倉小十郎景綱が幼女をたすけた話(政宗はでてきません)

「高玉合戦の際、いよいよ落城というときになって高玉太郎左衛門は妻子を殺そうとした。
しかし乳母が必死にいうので、生まれ年三歳の女児を抱いて脱出させた。
すぐに略奪にあい、乳母は切られたが、女児を下に敷き、ふせて倒れた。
夜になって軍がひきあげたところ、傷が浅かったので乳母はおきあがり、高倉近江の処へ駆け込み、
助けを求めた。
近江はかくまって何か問題があると困ると思い、片倉小十郎景綱に詳細を告げた。
小十郎は「一度切られた者であるから、助けましょう。
もし政宗から尋ねられたら、御前でのことは私がどうにかしましょう」と言った。
助けられた女児は成長後蒲生源左衛門家中の妻となったと聞いた。」

by 伊達成実『成実記』他

後世に書かれた『治家記録』では、近江が男児を女児であると誤魔化したとあり、
成長後新左衛門と名乗った男児だったと記されている。
どっちかわからん。



80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/03(火) 21:14:22.74 ID:HqctO1nh
まーくんって子供好きなイメージがある

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/04(水) 00:15:10.68 ID:kjB8zATs
もう一戦ねえかなぐらい思ってたんだろう

片倉小十郎景綱「もっとお慎みください」

2013年11月16日 19:09

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 23:04:46.65 ID:3zaQi9xN
それじゃ政宗を投下しよう

伊達政宗兼松又四郎と喧嘩の事

陸奥守政宗が殿中御能の際に兼松又四郎と言う旗本に対して無礼を働いた。

又四郎が握り拳で政宗の顔面を殴りつけると、政宗は手をうって笑い「さても
男なり男なり」と興ぜられた。

帰館後に家老片倉小十郎に「別に危ないことでもなかったが、小身者を相手に
本気になる事ではないので面白くいなしてきたよ」とお話になられた。

小十郎は「左様もっともでございますな。しかし小身衆に無礼を働いたり
しないよう、もっとお慎みください」と答えた。

(翁草)

既出逸話のバージョン違いだが小十郎に突っ込まれるバツの悪い話




784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 23:16:56.26 ID:sPvyXrI7
諱って同時代人も知ってることは知ってたん?

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 23:22:29.30 ID:np5pVfdE
政宗は何やったんだろう?w

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 23:25:27.19 ID:5sGX4E/5
知らないと諱を避けたり出来ないだろうな。

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 23:26:17.73 ID:dtT0Jbo2
秀吉とか輝元とか大身の殿様の諱なら庶民でも知ってたみたいね
今の総理のフルネームを皆知ってるような感覚だろうか
あと政宗w

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 23:57:10.10 ID:nUvtZ25J
>>783
ありがとう政宗。なにをやらかして、顔面殴られたか気になるな。報復しなかったんだろうか。

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/16(土) 01:02:23.01 ID:gu7a5FSK
小十郎をして、殴られて仕方ないって言いたげな無礼って

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/16(土) 04:45:10.73 ID:u8aZHzyB
>>783
> 兼松又四郎と言う旗本

> 織田信長に仕え、桶狭間の戦いで初陣を飾る。最初は下級武士であったが、戦功を挙げて信長の馬廻衆として活躍。
> 本能寺の変後は、尾張に戻り織田信雄に仕えて、小牧・長久手の戦いでも信雄に属して戦っている。
> 信雄の没落後は、羽柴秀吉の黄母衣衆として活躍、豊臣秀次に一時属するが、秀次の死後は再び秀吉に仕え、
> 秀吉の没後は徳川家康に仕えた。慶長5年(1600年)、会津征伐に家康に従い、西に転じて岐阜城攻め、関ヶ原の戦いに従軍した。
> 戦後、家康の子の松平忠吉の与力となり2600石を知行。忠吉が早世したのち、徳川義直に仕え、尾張藩士となった。
> 墓所は政秀寺。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%BC%E6%9D%BE%E6%AD%A3%E5%90%89

あの時代の代表的勇者の一人なんですがそれは

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/16(土) 07:02:03.01 ID:f2LLvC2b
びびって逃げたのを誤魔化してるようにも思える

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/16(土) 08:58:44.17 ID:X1030b2m
政宗の場合はビビって逃げたわけでもない
生ける伝説のような古武士に殴られても「じゃれあって来たぜハハハ」で
めげないからある意味頑固だし大物

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/16(土) 09:44:09.13 ID:oINKhTys
いつも一緒にやらかしてる小十郎に窘められるレベルの無礼、というのが気になる

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/16(土) 11:06:46.22 ID:69NhvA7o
この政宗人気もやっぱ大河のおかげだよなあ

直江と浅井さん姉妹はどこで間違ったか

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/16(土) 11:10:05.69 ID:TemEYKW7
脚本家の違いだな
来年もクロカンもクドカンが脚本やれば、視聴率だけは上がるかも
戦国板の評価は分からんけど

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/16(土) 11:12:20.86 ID:rJ21uoQ/
直江は内容はともかく、大河で人気にはなったんじゃないか

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/16(土) 11:13:05.98 ID:nFLMar6P
直江は原作の時点でつまらんから…GOは知らないが

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/16(土) 11:48:58.97 ID:iv59GlGc
政宗はどこ切り取ってもネタ出てくるからなぁ。

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/16(土) 13:16:37.11 ID:+2ms3m1w
中間管理職出世物語より社長立志伝の方が

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/16(土) 14:56:32.45 ID:/qsd9jKl
>>790
元亀元年(1570年)の姉川の戦いに従軍し陣中で正月を迎えて、河原に自生していた蘆で臨時に飾りを作り、
武運を祈ったのが門松の始まりという。

こっちのほうがびっくりしたわ
これ本当なのけ

恐るべきは伊達主従の口車

2013年08月12日 19:51

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/11(日) 23:44:58.84 ID:3dCBIko2
「奥羽両国は政宗様のものだ。そう秀吉が言ってた」
ビッグマウスは主君だけでなく、その家臣もだった

いわき市に残されている文化財の一つ 片倉小十郎景綱の書状  より

 ttp://is2.sss.fukushima-u.ac.jp/fks-db//txt/10090.002/html/00180.html 以下に引用元 画像有り

「~伊達政宗の家臣・片倉小十郎景綱(一五五七~一六一五)が、天正十八年(一五九○)六月十四日、
 岩城常隆の執権(家老)の志賀甘釣斎武治・右 衛門尉武清親子に宛てたものである。」 ここまでが引用

「~書状の概略は次の通りである。

 主人の政宗が秀吉のもとに行き万事思い通りとなった。岩城家も進退がうまく行くよう政宗が申し入れて置いた。
 秀吉喜んで、政宗に出羽・陸奥両国を任せると言っていた。岩城家は政宗の取り成しで別状はないから、
 秀吉への用向きは政宗に相談すると良い。それをしなければ秀吉は望みを叶えてくれないから予め貴方に申しておく。

 奥羽両国は政宗が支配することになった。そのため相馬が政宗の不在中に伊達を攻めたので相馬を討つことにした。
 だから岩城も遅れずに参加するよう常隆様に申してください。そのことが常隆様の御為になります。」 ここまでが引用

だが、現実は政宗は奥羽統一どころか会津没収・減封な訳で、岩城常隆はこの後、鎌倉で病死…家督は佐竹家へ。
もし、常隆がこの書状を鵜呑みにしたまま小田原に参陣したならば、直面した現実はさぞや厳しかったであろうと推察する。

恐るべきは伊達主従の口車、いや、戦国の世ということであろう…




870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/12(月) 10:23:11.05 ID:3VREAz16
>>869
>>ビッグマウスは主君だけでなく、その家臣もだった

そういうことじゃないんじゃないの?それ。
日付から考えたら、必死になってハッタリかましてるとしか解釈できねえんだが。

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/12(月) 11:04:42.52 ID:9eqnP8j/
秀吉と直接面会されると困るから、なんとかして止めさせようとしたんじゃないの?

872 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/08/12(月) 11:12:55.56 ID:MuawoCkT
>>870
いわゆる、武略ですな。

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/12(月) 15:04:17.45 ID:4HWbpmGu
自分もビッグマウスとはまた違うように思う
あとでお取り潰しになった石川とかを一門首座にしてたりするから、あの時はうちのせいでゴメンナサイな意識はあったと思うけどなあ
この岩城常隆の子の政隆を一門にいれたりしてるし

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/12(月) 19:54:08.17 ID:MkPOZj5f
>>873
石川についてはそうだろうね
主家から見た傘下大名の処遇という点で
毛利を倣って二人の叔父(政景・昭光)を伴って参陣
していれば状況は変わっていたのかもしれない

政隆の厚遇については、政宗が慕っていた祖母・栽松院が
岩城家出身というのが大きいのでは?
また後年、亀田藩岩城氏が政隆の家系である、岩谷堂伊達家から
養子を迎えている等、旧大名の血筋を保護する事で勢力拡大の
チャンスを狙っていたのかもしれない

政宗がたまげて

2013年01月17日 19:51

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/17(木) 12:55:07.24 ID:WvC7pKkI
先日図書館で借りた、東北の語り部から聞いた艶笑話(エッチな笑い話)をまとめた本に載ってた逸話
原文は東北弁バリバリですので翻訳して・・・

伊達政宗がある戦の時、相当激しい戦で盛んに矢弾が飛んでくるので、
立って行けないので畑の中を這って進んでいったそうな
すると、家老の片倉小十郎がその後ろから行って、
政宗の股ぐらに手を入れて金玉をガッ!と握った。そんなもんだから政宗がたまげて

「こら、何をする!」
「殿、この戦は勝ち戦です」
「何故だ?」
「殿の金玉がぶらりとさがっています」

と小十郎は言ったそうな


勝ち戦ってことでいい話に書き込んでみましたが、小十郎何やってんだww
・・・しかし、何故に金玉がぶらさがってると勝ち戦?
緊張で縮こまってないから余裕あるってこと?教えてエロイ人(´・ω・`)




122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/17(木) 14:12:55.27 ID:xGWKjNeo
鮭様でもわからんかと
まーくんがDQNなのはやっぱ小十郎のせいなんだろうなw

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/17(木) 14:51:25.21 ID:baYWWs4p
玉(ぎょく)が動けなくなったら詰んでしまうからな

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/17(木) 14:54:45.32 ID:TShLZXlu
タマが飛ぶ中タマを握るとは片倉も大したタマよ…

125 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/01/17(木) 17:20:15.20 ID:kNCidfLH
>>121
それな、神様仏様稲尾様の稲尾が監督やコーチをライオンズやドラゴンズやオリオンズしてたときもそんなことしてた。

マウンドに行って、囲んで陰つくらせて、股関を掴み、縮みあがっていたら交代、というのをな。

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/17(木) 17:44:55.13 ID:WLiED+HF
>>121のようなタマタマの話は結構あるよね~
誰だかも思い出せないけど

大将の股間に流れ弾が飛んできて、
裏筋をカスって大騒ぎになったけど、一人歓心してる人がいるのでその訳を聞いてみると云々って感じ

忠臣の系譜

2012年05月18日 21:05

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/18(金) 10:07:52.61 ID:oBHBdhvo
青葉祭り2年ぶり開催記念投下

忠臣の系譜 1/2

目玉ぶった切ったり焼きごて当てたり祝いの席で刀抜いたり子供殺すの止められたりと、
主君と濃すぎる絆を育んだ片倉小十郎景綱は1615年病没した。享年59歳であった。
忠臣として名高い景綱だが、一度出奔を図ったことがある。
梵天丸の守役となってしばらくしてからのことで、経緯ははっきりしないのだが
「こんな田舎でずっと最低賃金でとかありえねえ」というような事情らしい。
姉喜多に諭されて思いとどまった景綱は以後は幼い主を守り立てんと決意し、目玉ぶっ(ry)たりしながら
命懸け(息子のも)で伊達家に仕え、秀吉や家康からスカウトされても断りその生涯を政宗に捧げた。
己が半身ともいえる側近中の側近の死に政宗は大いに嘆きいり、三日間誰とも会わず食も断ったともいう。

景綱の没後も政宗の片倉家への信頼は些かも揺らぐことはなかった。
伊達家のホープとして早くから中央に出ていた二代目重綱は大阪の陣で獅子奮迅の活躍をし、
その武名はさる事情で→http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3145.html
参陣していない島津家久からも重綱△とほれ込まれるほど(金吾的意味ではなく)轟き、「伊達家の片倉」の名を不動のものとした。
幕府にも一目置かれ、美男子で男女問わずモテまくり、二周り年下の阿梅とはラブラブと
リア充全開の重綱は政宗の自慢の家臣であった。

1636年、死期を悟った政宗は最後の参勤の途につく。
重綱の居城白石に着いた頃にはすっかり弱っており、食事もろくにとれなくなっていた。
翌日、心配し町外れまで籠に付き添った重綱を政宗は励ました。
「明日にも天下に大事があればご先駆を承り、お前に先陣を務めさせ、成実に指揮をとらせ、
三人心を合わせれば、また一花咲かせられよう。留守の間、国の守りはお前に頼んだぞ。だが、」
死を予感してから初めての弱音が零れる。
「おそらくは、もう会えぬだろうな」
老いた主君の独眼から涙がこぼれ、鬼と呼ばれた男も声を上げて泣いた。

出立間際、政宗は見送りに出ていた重綱の嫡子三之助に自分の脇差をさしてやり、
「小十郎はいつも良い子を持つな。祖父や父に負けぬ立派な武士に育てよ」と頭をなでた。
この幼い少年が後の三代景長で、寛文事件の際には混乱した国元を見事に取り鎮め、伊達家の安泰に大きく貢献する。
初代景綱の小田原参陣のすすめ、二代重綱の大阪の陣での武功とともに讃えられる片倉家の三功である。

授かった脇差を握り締め旅立つ主を見送った三之助はおよそ一月後、物言わぬ棺を迎えることになる。


196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/18(金) 10:16:00.73 ID:oBHBdhvo
忠臣の系譜 2/2




そして三世紀の時が流れた。



1974年10月某日、仙台経ヶ峰は軽い興奮と緊張に包まれていた。
戦災で焼失した伊達政宗霊廟・瑞鳳殿を再建するため9月から開始された発掘作業は順調に進み、
ついにこの日政宗その人が眠る石室が開けられるのだ。
ゆっくりと重いふたが開かれ、閉ざされていた墓室に三世紀ぶりに日の光が差し込んでいく、
その光景を万感の面持ちで見つめる一人の男性の姿があった。
片倉家15代当主、片倉信光氏である。
氏は当時白石で長く病床にあり、一人で歩くのもやっとであったが、
「政宗公の石室が開かれるというのに、俺が行かないで誰が行くか」と心配する家族の反対を押し切り駆けつけたのだった。
かくして政宗は当代小十郎が見守る中、長い眠りから目覚めることになった。

ざわめきがやんだ。
皆が固唾を呑んで見守る中、時の流れにくすんだ頭骨が丁重に取り上げられ、秋の陽に鈍く光る。
伊達政宗と片倉小十郎、338年ぶりの再会だった。


信光氏は父の代から政宗を祀る青葉神社の宮司を務めており、氏の逝去後はご子息の16代当主が引き継いでいる。
杜の都が最も美しい5月、政宗の命日にあわせて行われる青葉祭りでは、
祭神の魂を乗せた神輿が様々な災害を越えて100万都市となった仙台の街を巡る。
御霊移しの儀式を行い、渡御に付き従うのが宮司の重要な役目である。
「儀式の時、政宗公が私に話しかけてくることもあるんですよ」
忠臣の子孫は笑う。
「我が家は伊達家あっての家です。片倉は政宗公のために武士となり、また神職に戻りました。
そして初代が政宗公に生涯お守りすると誓ったからこそ、私が今ここにいます。
私の中で政宗公は決して歴史上の人物ではなく、今も生きていて、朝に夕に対面しているお方です。」
初代との出会いから四世紀半、そう語る片倉家の末裔に政宗は今も守られている。


時を越えた、とある主君とその忠臣のお話。






197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/18(金) 12:31:49.91 ID:xnPBBy3t
政宗の話なのに目から汗がでるとは

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/18(金) 12:38:05.40 ID:0FbzrTOt
政宗が神様とかw

と一瞬思ったが、よく考えると日本の神様大体あんな感じな気もする

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/18(金) 14:29:54.02 ID:fFzwPPP/
天変地異を起こしても神
疫病流行らせても神
祟っても神


200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/18(金) 16:21:28.80 ID:dcECYIS2
むしろ大名ともなればだいたい神社に祀られてるよね。

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/18(金) 16:23:12.64 ID:lvaNHymq
咳をしても一人

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/18(金) 17:07:37.37 ID:78RGZVm7
さわらぬ政宗に以下略。

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/18(金) 19:53:25.94 ID:MZuWqOss
>>195
二周り年下ならまだ男子を授からんでもないだろうに
早々に養子を貰われるとか阿梅さん哀れ

姉の見る目

2012年02月02日 21:59

701 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/02(木) 01:22:57.02 ID:+k99GtUy
伊達家に仕え、その跡取りである伊達政宗の守役を19歳のころから勤めていた片倉景綱には
正宗の養育係であった喜多という異父姉がいた。この喜多は、文武両道に通じ
男性にも引けを取らない賢女だったと伝えられ、一説には、景綱は待遇に不安を感じて

「諸国を巡って名将に仕え、天下に名を広げたく思います。」

と、姉に相談したところ、

「主君を裏切れば天がそれを許さないでしょう。誠意をもってお仕えする事が
 貴殿の幸せにつながります。」

と諭され、景綱は思い留まったという。その後の政宗の飛躍ぶりは言わずもがなである。
以上、姉の見る目は正しかったというお話。




702 名前:700[sage] 投稿日:2012/02/02(木) 01:35:58.11 ID:1y8j49HQ
>>701
やはり養育者の人選は重要だ
現代は学校の先生選べないから、
自分の子供がオカシナ教師の受け持ちになったらと考えると恐ろしい

733 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/03(金) 20:04:29.05 ID:lNzRr7sA
>>701「伊達の鬼 片倉小十郎」という漫画だと、出奔する弟を路上で待ち
受けて「思い止まらないなら、お前を討って自害する」という場面になって
いたな。

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/03(金) 20:07:18.51 ID:8HE5RLeU
>>733
路上で待ち受けてを、なぜか「路上で持ち上げて」と空目してしまい
ずいぶん剛強なお喜多さんの出てくる漫画だと思ってしまったw