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片倉家の「当引長光」

2015年03月24日 18:40

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/23(月) 20:15:44.56 ID:c6wqUJta
大阪の陣が終わったあと、島津家久(忠恒)伊達政宗を伏見屋敷に尋ねた事があった。
政宗もこれを喜び様々に饗応する中、家久は「御当家の片倉小十郎(重長)をこの席に呼んでほしい」と
望んだため、政宗も早速小十郎を呼び出した。

家久は小十郎に
「今度の大阪表でのあなたの戦功は、比類ないものであった。この刀は「当引長光」という
名物で、私が太閤殿下の御遺物として賜った物であるが、あなたと今日対面のしるしに
進ずるものである。」
と、刀を取って与えた。

しかし小十郎重長
「誠に忝く思いますが、太閤殿下の御遺物を私に頂戴するというのは、あまりに恐れ多きことです。
この御刀は主人政宗に遣わして頂ければ、私にとってもこの上なき喜びです。」
そう言って辞退した。

そこで家久は改めて政宗に贈ったと、片倉代々記にある。

この長光は天和三年になって、伊達綱村より重長の孫の小十郎村長が賜り、それ以後片倉家の重宝となった。

(刀剣談)




782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/23(月) 22:40:06.69 ID:O5vstNqz
>>780
こいつ絶対なにか悪だくみがあって小十郎に刀贈ろうとしただろ・・・(疑心暗鬼)

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/23(月) 22:56:05.13 ID:wUXvendR
>>780
政宗は普通に刀を与えたのか。らしくねえなw

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/24(火) 00:44:14.58 ID:TA9Me2gv
>>783
刀与えたの政宗の曾孫やぞ

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片倉家の『肌小袖』

2015年03月22日 16:08

764 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/03/22(日) 00:07:50.70 ID:Ulg04xYJ
片倉家に『肌小袖』という名刀がある。
これは片倉小十郎景綱が、嫡子重長元服の時、伊達成実を烏帽子親に頼んで元服式を執り行ったが、
そこで成実は大原真守の鍛えた一刀を取り出し

「これは我家重代の太刀で、『肌小袖』と申す。今日の祝儀に進上いたす。」

と渡した。しかしこの時重長は、一言の礼も言わなかった。

後年、大阪の陣。
重長は父景綱に代わり大阪城攻めの先陣をしたが、道明寺口にて真田の部隊と戦い、
この『肌小袖』にて敵4騎を斬って落とした。

戦いのあと、重長は伊達成実の前に出て
「今日こそこの刀を頂いた御礼を申し上げます」
そう丁重に述べた。

この時の戦いで重長は、敵に猩々緋の羽織を切り破られ、また肌小袖の刀も帽子の部分が折れたという。

(刀剣談)

最上義光
765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/22(日) 00:57:30.74 ID:HUNaw6cP
ようわからん

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/22(日) 06:29:49.99 ID:K8gBbKEj
自分でその刀の真価を発揮してから堂々と礼を言った
そんなに変な話だろうか

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/22(日) 08:33:20.55 ID:JWEMzgqp
手柄をたてられなかったら礼も云わずに知らんふりしちまうかな?

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/22(日) 11:50:24.83 ID:WOS2hXe7
その刀使って切腹か
手柄を立てられなかったことを詫びて返却ってなって
悪い話の方に投稿される

770 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/03/23(月) 06:30:37.86 ID:N21UW2xw
>>769
それやったら無礼すぎるわ
自分の腹しか切れない刀です!みたいじゃん

伊達政宗が島津家に招かれて

2011年04月30日 00:01

273 名前:dokuganryu[] 投稿日:2011/04/29(金) 07:02:25.28 ID:VwYr+wlJ
出典は不明。島津家の記録らしい。
大阪夏の陣が終ってから、伊達政宗が島津家に招かれた。
当時、島津家では、よく武功話を家臣に聞かせることをしていた。
また、政宗と家久(忠恒)は結構交流があって、よくバカ騒ぎをしていたことから
今回は、島津家臣の前で大阪の陣の講演をして欲しいということになった次第であった。
政宗は当然のことながら、自慢の『鬼小十郎』こと片倉重綱(重長)を伴って参上。
主役は『鬼小十郎』となり、話が終わり、家久が『さてはさては、伊達殿はよい家臣をもたれたものだ』
といって腰のものを鬼小十郎に与えようとした。
小十郎すかさず、『ありがたきしあわせなれど、伊達家臣なればいただくわけにはまい
りませぬ。わが君に下されますようお願いいたしまする』
家久は『みなのもの、伊達殿はこのようなよき家臣に支えられておる。島津家もこうなくてはならん』
といい、政宗はおおいに面目を保ったとのこと。




274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 09:20:24.84 ID:dKG3VviG
夏の陣の後、伊達の悪事を暴いたの忠恒だよねw

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 14:01:45.64 ID:rYHzIC5X
片倉さん、本当にLoveマーくんだなw

片倉重綱と真田信繁の娘・いい話

2008年10月16日 10:43

617 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/08/02(土) 12:43:09 ID:8+4he+Ff
お梅(真田信繁の娘)と伊達家重臣、片倉重綱(重長)

大坂城落城の時、一人の娘(16歳)が徳川の先陣を勤める伊達家の片倉隊の前に現れた。
白の鉢巻きに薙刀姿の娘を見た重綱は、捕らえるとそのまま国に連れ帰り、後妻とした。
(信繁と重綱とは何度か戦いを交えており、自分が死んだ後、娘を重綱に託そうとして、
 梅に言い聞かせて置いた。)

重綱は、智勇優れた真田家の娘、梅を妻としたことを誇りにした。
そして片倉家の家紋はこれ以降、真田と同じ六文銭に変えられた。

時代は下り、松代藩三代藩主、真田幸道が伊達藩へ寄ったとき、
眞田と同じ家紋を付けた家臣がいるのを見てたいそう驚いたという話が残っている。




625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/03(日) 13:07:29 ID:yhAuYTru
兼続はどっちかというと内政に天才を感じる。
120万から30万石になった時、家臣をできるだけ解雇しないで
なんとか生活が立ち行くようにした手段は鷹山が手本にしたというから、
ま、なんだ、来年がたのしみだな。

>>617
重綱の戦ぶりを見て、娘を託せるのはこの男しかいないと
矢文で重綱に娘との婚姻を頼んだという説もある。
あの真田に認められたのだ、という感激が六文銭の家紋への変更となったんだろう。
伊達家きっての美男子で当時29歳、於梅も悪い気はしなかったと思うな。

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/03(日) 16:10:10 ID:hX+Cea4o
>>617>>625
え? 片倉家の家紋って六文銭になったの?
主君政宗から九曜紋を拝領してるのに変えるはずないと思うんだが・・・。
重長が梅と同時に保護した大八の家紋じゃないか?
大八は信繁の次男で梅と同時に片倉家に保護され、片倉守信と名乗ってる。
確か息子の代で真田に復姓してたような・・・。

まぁ何にせよ幕府から信繁の血筋を守りぬいた片倉家は立派だな。