方広寺鐘銘事件について

2016年09月03日 10:48

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/03(土) 10:00:07.73 ID:K223baAA
方広寺鐘銘事件について、難波戦記、片桐伝記、北川覚書などに記される所によると、
これが幕府から豊臣家を咎めた第一の理由であり、大坂の陣はこの事を理由に起こったように
記せられている。これは甚だしい妄説である。

幕府が片桐且元を召して告げた七ヶ条の御難題と、鐘銘事件は関係がない。
もちろんその七ヶ条の末の一ヶ条に、鐘銘に関東呪詛の文有りとの文言があるが、この事について
強く諌めてはいない。

いまここに、この鐘銘について記しているのは、世の人々皆が、この鐘銘より兵乱が起こったという説を
疑わず、童すらそう知っているためである。

この鐘銘の草案は前年の冬、片桐且元より本多佐渡守に遣わされ、「何か問題が有ればすぐに伝えてほしい」と
言いおかれている。しかしあえて供養の日に至って、板倉勝重より「関東調伏の文有りし故、供養は
延期するように」とその停止を求めた。これは本多正信板倉勝重らの謀臣がこのように謀ったのでは
ないだろうか?
その奥意は深く計り難い。

(慶元記)



56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/03(土) 19:52:23.95 ID:wB+53SAg
今でも通説だよね
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片桐の忠言はこの時に顕れた

2016年05月26日 15:34

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/25(水) 22:58:06.80 ID:4/B3iYED
大阪冬の陣の講和に向けた動きが始まる中、大阪城の首脳である織田有楽、大野治長
豊臣秀頼の御前にて、このように講和の受け入れを勧めた。

「両将軍家より、御和睦の事を再三仰せ遣わっています。その上意疎意あるまじと、
神文を進ぜられるとの事です。

この度の合戦においては、日本国中の軍勢が雲霞のごとく集まり昼夜攻め戦いましたが、
我々にはさほどまでの負けもなく、これによって君のご威光は天下に秀で、人々はその武威を
皆恐れるほどです。然れば、また重ねて時節到来の時期が来れば、味方に属するものも多いでしょう。
また大御所も既に七十余歳。御余名も久しくはないでしょう。彼が薨去すれば必ず変があります。
その時は天下の大名2つに分かれ、合戦が起こり我らの存在が大きくなること疑いありません。」

秀頼はこれを聞くと
「お前たちが申すこと、一々道理が有る。だがその内容は結局、この戦が始まる前に片桐且元
私を諌めたものと同じではないか?

であるのに、その諌めを排除して今度の難儀に及び、ようやく今になって片桐の諫言に従うとは、
運の極まりである。
しかし運を天に任せ敵を討ち果たそうと思っても、今は皆和睦を好む。ここに至っては恥を忍んで
降を乞い、士卒の生命を継ぐ事を以って、軍勢の恩賞とするしかない。
早く和睦を調えよ。

片桐の忠言はこの時に顕れた。私は後世から嘲笑をうけ、その恥辱を雪ぐことも出来ない。」

そう、目に涙を浮かべて言った。有楽も治長も顔を赤らめたものの、秀頼が和睦を許諾したことに
喜悦して退出した。

(新東鑑)




651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 00:09:41.77 ID:36WfMBtD
その恥辱を雪ぐことも出来ないって断定しちゃダメでしょう。
家康の寿命尽きたら合戦になるって話てるんだから勝てばいいんだし、
そして結果がわかってる後世に書かれたってわかっちゃうという二重の意味で

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 09:29:40.29 ID:kWfovEN6


653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 09:56:11.27 ID:o5U5k782
最初に且元の進言を退けたのに結局はそれに従うことになったからだろ
後に合戦に勝てばよいとかそういうことではない

道に叛くより義を守って滅亡するに敷かず

2016年04月26日 19:28

564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/26(火) 05:12:43.08 ID:g3d8honN
摂津国野里村の三右衛門は、農民ではあるが勇を好み勢い強き故にて、一度兵を起こせば
隣邑尽くこれに属した。

片桐且元が大阪を脱出し茨木城に入る時、大阪より摂州堺の政所を攻めると聞いて、
騎歩ニ百ばかりを遣わして政所を救おうとしたが、三右衛門は近隣の郷民を集め、
この且元の軍の大半を討ち捕った。これに且元は歯噛みをして怒ったが力及ばず、
後に大御所(徳川家康)が天下を定めた時に、且元はなお鬱憤解けず、これを訴え
それによって三右衛門を召しこの事を責めた。

三右衛門は且元をキッと睨むと
「貴殿は故太閤の重恩を担い、権を取り威をも逞しくされたのだから、死を以って忠を
尽くされるべきなのに、危難にあたって君を忘れ身を顧みた。これは武臣の本意に非ず!

我らその時は貴殿が敵であるのか味方であるのか、その心中すら計りかね、そのため
貴殿の士卒を討ち捕ったのであり、あながちに罪とするべきではありません。
道に叛くより義を守って滅亡するに敷かず。いま貴殿は、自らを恥じないどころか、
却って人を讒言するとは言語道断である!」

そう、憚ること無く申すと、且元も閉口した。

大御所は三右衛門の言葉を聞くと
「弁才勇義があり、只者ではない。統治において道があれば、彼は良き締りにもなるであろう。」
そういって三右衛門を宥免したという。

(慶元記)



565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/26(火) 09:55:02.01 ID:Pv/ahYrZ
つ胃薬

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/26(火) 19:20:45.39 ID:Zj1szefR
武士が近隣の郷民に負けることも恥な気がするけど

武夫の名を汚すまじ

2016年04月16日 17:41

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/16(土) 17:32:27.72 ID:eKrsW2py
豊臣秀頼家臣の石川伊豆守貞政は、片桐且元の討ち手の役を仰せ付けられていたが、且元と一味して
襲撃に先立って知らせたため、大阪において且元を討ち漏らす事となった。
そのため大阪では

「ならば石川貞政も誅するべし!」

との風聞が頻りであった。貞政は之を聞くと、元来武勇の聞こえある武士であったので、
ある日の暮れ頃に出仕し、大野治長、渡辺糺らを討ち果たさんばかりの勢いで殿中に上がり、
座中を睨み付けて言った

「この貞政、逆意有るに依って誅せられると承り、参上いたした!
誰でも、その命を承った者は貞政の頸を刎ねて上覧に備えるが良い!」

そう大音声を発し、仁王立に立った。
しかしそのような命令は出ておらず、誰も彼に立ち向かって勝負しようという者は居なかった。

貞政は暫く待ったが、大野、渡辺も姿を見せぬので、宿所へ帰り若党一人に薙刀を持たせて
玉造口から泉州堺まで移動した。家来たちは取るものもとりあえず、武具馬具のみを整えて
あとから追いついた。
そこから河内路を経て片桐且元の茨木城に向かい、且元に会ってこう言った

「大野、渡辺らが寄り来たらば、私も貴方とともに籠城してこれを防ぎたい。」

しかし且元は、この提案に肯かなかった

「傍輩と相語らって籠城すればこれは反逆である。私は謗臣たちが寄せくれば、恨みの矢一つを
射てから切腹し、武夫の名を汚すまじと思っている。であれば、あなたが当城に在るのは、
義において外れた所である。
幸いなことに織田常真が京都に居るので、これより直に上京するといい。」

貞政もこれに信服し、それより茨木を出て京都に上り、板倉伊賀守と対面して大阪の有様を語ると、
板倉は

「大阪には、既に御反逆の用意がある中、あなた方はこれを知って京都に逃れられたこと、
両将軍も定めてご満足でしょう。」

そういって屋敷を与え、日々の賄いも申し付けた。こうして織田常真、石川貞政の両名を京に留まらせることが
出来たのは、板倉伊賀守の智謀の深さゆえであった。

(慶元記)



且元の書状

2016年04月15日 18:43

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/15(金) 17:59:53.48 ID:Qv6X6gsX
大阪冬の陣の直前、片桐且元がその大阪屋敷から退去した時、その屋敷の床の中央に一通の書状が
置かれていたという。それは織田有楽斎宛のものであった。中を見てみると、こう書かれていた

『且元、計らざる災いにかかり、城中を追い出されてしまいました。
私は関東に対して、力を尽くして豊臣家を守ろうとした、その寸忠は全て仇となってしまいましたが、
私は、秀頼公の御身の上が今後もつつがなく渡らせられることを望むばかりです。

今、且元が大阪を退いたことが関東に聞こえれば、定めて御不審を持たれるでしょう。或いは乱の
基とも成るかもしれません。

この上は、外に策もありません。ただ御台所(千姫)を早々に本丸へと引き取ることが肝要です。
夢々ご油断あるべからず。』
しかし、大野治長らは早々にこの策を用いず、終にその意図を外してしまったのである。

御台のことは、難波戦記やその他の書にも、大阪落城の時に坂崎出羽守が盗みとって岡山の御陣へ
お供した、とあるが、その説は否定されるべきものである。

(慶元記)



是れ、大阪が社稷を失うの第一と成れり

2016年04月13日 15:16

519 名前:1/2[sage] 投稿日:2016/04/13(水) 11:54:58.69 ID:9iw9dGpA
片桐且元が駿府にて幕府との交渉にあたっていた時、大阪においては、「今回は秀頼公の御使者(且元)
ばかりにて淀様からの御使者が無い」と、前々より関東に下った経験があり物馴れた女中三人を下し、
ご機嫌伺いとして江戸駿府の様子を見てくるようにと、大蔵卿局(大野治長母)、二位局淀殿女中頭)、
正栄尼(渡辺糺母)の3人を八月二十三日に出発させた。八月晦日に駿府に到着すると、この三女は
早速片桐且元と対面し、そこから下向の理由を家康側室・阿茶局へと連絡すると、明日登城すべき旨
申し来たため、三女は喜んで用意した。

九月朔日、八つ時(午後2時頃)三女は徳川家康の御前に召し出された。家康は三女の口上を直に聞き、
「秀頼公夫婦、並びに母儀にも恙無く大慶に思う。」と答えた。
三女は謹んで申し上げた
「今度、鐘銘において韓長老が不調法を行ったため御機嫌宜しからず、供養などまで延期を仰せられた事は、
御母子も殊更困惑されています。」
これに対し、家康
「それは世上の聞こえを憚って一段と申し付けたまでの事であり、苦しからず思っておる。」
こう言う家康は機嫌も常と変わらなかったため、三女は大いに喜んで宿舎に帰り、早速飛脚を以って
大阪へ注進。翌日、江戸へと出発した。

そして江戸への御礼を終え、十一日に再び駿府へと戻り阿茶局と対面して江戸の様子を報告した。
阿茶局は御前より下されたという御菓子を贈りながら言った
「今後はあなた方とも、しばしばこの様にお付き合いできますね。ほんとうに嬉しい。」
「…は?どうしてそのように仰るのですか?」

阿茶局は意外そうに
「ご存知ありませんか?しかじかの事により、淀様が関東に下向なさること、片桐且元が大方お請けして、
品川表にて御屋敷の地までも願いの通りに許可されましたから、おっつけ御下向あるでしょう。
その折にはあなた方もお供として同行されるでしょうから、このように申したのです。

さらに且元は本多正信の縁者に仰せ付けられましたし、尚以ってめでたい事です。」

三女は聞くごとに耳驚き、挨拶もそこそこに暇乞いをして、十二日の早朝、駿府を立ち退いて道を急ぎ
遠州浜松の付近で且元に追いついた。三女は先ず万事を知らぬふりをして申した

「かねて案じていたのと違い、大御所の御機嫌も甚だ宜しく、互いに安堵いたしました。」
且元
「そうではない。関東には様々な思惑があって、今回且元には御難題を仰せ出され、私は甚だ迷惑している。」
三女が強いてその訳を尋ねると、且元は三ヶ条の趣き(豊臣家の大阪からの転封、もしくは秀頼の江戸への参勤、
又は淀殿の江戸への下向)を以ってこれを語った。三女は問うた

「この内何れを関東の意に任せるのでしょうか?」

520 名前:2/2[sage] 投稿日:2016/04/13(水) 11:56:09.09 ID:9iw9dGpA
且元は胸中に深慮有りといえども、天下の大事であるからここで軽々しく女に語るべきではないと考え、
あえて「これ皆天下の御大切である。であるが御所替にもまた御参勤にも及ばぬよう、淀様が御下向の儀さえ
御得心あれば、事済むものである。各々帰られれば、この段たって申し上げて欲しい。」と申した。

三女は心に思った。『且元は駿府で既にこの事をお請けし、その上本多正信の縁者になったので、万事関東の意に
叶うよう取り計らうのも当然だ。』そう察すると、先ず「尤もの事です」と同意したふりをして、
そこからいよいよ且元の所存を聞き出そうと同道して上った。近江国土山に宿した夜、且元は三女に申した
「私は去る八月大仏供の延期についての交渉で関東に下り、久しく駿河に逗留していたため、今度の駿府の模様を
板倉伊賀守殿に報告すべきことがある。次の機会にしようとすればまた延びのびになってしまうので、ここから
直に京都に立ち寄り用事を済ませて大阪に下る。あなた方は先に大阪に上られよ。」

こうして三女は土山から直に大阪に登り、九月十九日到着。そして関東のあらまし、また且元の方針を
散々に讒言した。
日頃から関係の悪かった且元の事であるから、三女は言葉を揃へ、中でも正栄尼が申したのは、
「仄かに聞いたことによると、淀様を大御所の御台にもなされるとか。将軍の御台所と御連枝の淀様が
左様な儀は人倫の道にあるまじきこと!これも且元が申し勧めているそうです。その証拠に、淀様が
関東へ下ることが決定すれば品川にて御屋敷地を下さると固く約束なされたとのことです。これは
阿茶局が申していました。その上且元は、君にも伺うこと無く本多佐渡守と縁者に成りました。
これは上を蔑ろにする行為です!」

このように言葉巧みに申し上げると、淀殿も甚だ怒り「私は賤しくも織田信長の姪、浅井備前守長政の娘であり
秀吉にまみえたことさえ常々口惜しく思っていたのに、今関東に人質として下される事思いもよらぬ!
その上家康の妻と成るなど、無念の至りである。秀頼、もし私を関東に下すというのなた、生きて恥を
抱えるより、ここで剣に伏せるにしかず!」そう涙を流して訴えた

秀頼も「母を売って何の面目があるだろうか。それは考えもできないことだ。片桐が登城すれば
その実否を正そう」と発言した。

大野治長、渡辺糺といった奸臣たちは、普段から且元を強く憎んでいたため、折を得たと様々に
讒言を構えた。

是れ、大阪が社稷を失うの第一と成れり。

(慶元記)


片桐且元の「十一ヶ条」

2016年04月12日 16:37

516 名前:1[sage] 投稿日:2016/04/11(月) 23:05:09.37 ID:IoCtMYLU
いわゆる方広寺鐘銘事件への対応で駿府の家康のもとに交渉に赴いた片桐且元は、家康よりの豊臣家への
糾弾に対し、本多正純へ次のように反論した

「今度御前において七ヶ条の仰せを蒙り、甚だ困惑しております。このこと、帰国を許されれば
秀頼公に委細申し上げたく思いますが、ここであなたにお尋ねしたいことが有ります。
問題がなければ、貴殿より大御所様にお聞かせして頂きたい。

一、慶長五年の関ヶ原合戦のあと、大阪の蔵入りを百万石と定められ、秀頼公を外様大名にように
  扱われていることは、御母子が常に憤られていることです。これが一つ。
一、七手組を警備に用いているのはひとえに大阪警護のためであって、専ら秀頼公を敬っているように
  見えますが、その実は却ってそうではなく、関東に対して別心のある者が出た時、それを速やかに
  防ぐためなのです。なので幕府の懸念は我々には理解できません。これが二つ。
一、我々兄弟は執事として大阪に在りますが、諸人はまったく心服しておらず、その職を全うできる
  状況ではありません。先に大仏殿再興に関する奉行をしていた時も、ただ空しく長い月日を
  浪費していただけでした。これらは家臣である私の身ではどうにも出来ることではなく、ただ
  困惑しながら日を送っている有様です。
  今の立場は私に対し、関東のご指図によって俄に仰せ付けられた物ですから、そのせいでも有るでしょう。
  一体私に何の過怠があって、大阪に付けられたのでしょうか!?今はただ、御役御免して頂くことを
  ひとえに願い奉るところです。これが三つ。
一、二代将軍(秀忠)の将軍宣下、ならびに氏の長者の御綸紙が関東に下りましたが、この際大阪には
  一応のお届けもありませんでした。大御所の将軍宣下の際は、秀頼公も未だ弱冠にも至っていません
  でしたから話もわかりますが、秀忠公においては大阪へのお届けの儀も有るべき筈なのに、絶って
  その御沙汰はありませんでした。
  そもそも古今の武将たるもので、この征夷大将軍の職を重要視するのは、一人秀頼公に限ったものでは
  ありません。誠に、枯骨が蘇生した喜びも、この職に勝るものではないでしょう。だからこそ秀頼公は
  これを常に羨み、母君はまた憤っていますが、これもあながち理のないことではありません。
  先日、御前において左近中将様(松平忠吉)が亡くなられた時、そのお悔やみに日にちを得て後に
  平侍を以って御追悼を申し上げたのは失礼であると、ごもっともな仰せが有りました。然るに、
  将軍の宣下があったのに大阪に在る大小名に、皆駿府、江戸への参勤をすべしというお届けが無かったのは、
  何れに用捨があるのでしょうか?これ四つ。
一、太閤殿下が薨去のみぎり、五大老三老五奉行、そのほか列侯牧伯には各々盟約を捧げ、秀頼公15歳に
  成られたら天下の政を知らしむべしとのこと、これ天地にあるもの皆知らぬということありません。
  ですが殊更に虚談を構えて、秀吉公が
  『秀頼公15歳とならば天下の政道を任すべし。但し、もしその器に非ずんば譲ってはならない。
  天下は一人の天下にあらざるなり。』
  そう遺言されたと云々されています。
  はっきり言いますが、秀吉公は堯舜のような君主ではありません!どうして我が子を捨てて他人にこれを
  与えるでしょうか!?このことは最も大切な儀であります。これ五つ。
一、朝鮮人、オランダ人らが来訪の時も、直に皇都へ至りそこから江戸駿府に下って礼をなしました。
  異域からは長らく来朝の事ありませんでしたが、太閤の武威を以って朝鮮人を日本に来訪させることを
  得ました。であるのに先年の来訪の時も大阪へは入りませんでした。また毎年オランダ人が来ていますが、
  大阪に来ることはありません。これらの事、秀頼公の恥辱は日本ばかりか外国までの恥辱です。これも
  母子が常に鬱屈しているところです。これ六つ。
一、この事は砂を噛むような瑣末な事であり、もとより言うに足らぬものですが、四座の猿楽から絵所に至るまで
  皆駿府に呼び寄せられ、大阪には一人も置かれません。これらも御無礼と成るのではありませんか?

517 名前:2[sage] 投稿日:2016/04/11(月) 23:05:36.34 ID:IoCtMYLU
一、先日御前において、秀頼公に対し、福島正則、加藤清正、黒田長政、浅野長晟、加藤嘉明といった
  諸大名が別して御入魂である事は、秀忠公に対して無礼であるとの仰せが有りました。ですが、彼らは
  あなたも御存知の通りみな太閤お取り立ての大名であり、今は数少ない大家です。であれば、禽獣は
  いざしらず、いやしくも人倫たる者は誰が秀吉公の御恩を忘れる者が在るでしょうか?故に
  秀頼公には四季時々の御礼、又は国の産物を差し上げるのです。関東でもし、譜代の輩が突然
  ご奉公を怠ればそれをお許しないでしょう?大阪であってもそれは同じです。太閤の御恩を厚く
  蒙った人々の内、秀頼公に粗略になった者達には、秀頼公も処罰を仰せ付けたいと思っているのですが、
  現在の状況はただ穏便にしようという他なく、時勢を守っているのです。
  この件に関してこの且元の心底には、少しも弁じ難い所はありません。これ八つ。
一、兵具を調え武芸を習っているという指摘は御尤もですが、鎧の毛を抜き、鞍の損じを繕い、
  武具馬を整えて常に武芸を学ぶことは治に乱を忘れざるの所であり、古来良将が常に兵を鍛錬するのも、
  一旦事ある日に即座に備えられるようにしている為です。ただし、徳川の御家には、弓を袋にし
  太刀を鞘に納め、飽煖の安きに居て金革を布くの苦しみ、矢石を侵す危うき等を知らざるを以って
  善とされるのでしょうか?
  軍の勝敗は瞬間の間にあって、治世の政とは異なるものです。だからこそ武芸のことは常に鍛錬しなければ
  ならないのです、であるのに、独り大阪城中の士ばかりは女童の勤めのみを成せばよいのでしょうか?
  これ九つ
一、将軍御父子には、秀頼公に対し御粗略にすることはないと仰せに成りましたが、近年御上洛あっても
  大阪へは御下向の御沙汰これなく、殊に秀頼公と御台所(千姫)との御仲不和の事を、昼夜思召して
  忘れずと仰せに成ったことは、これは御孫姫君の事ですから勿論のことですが、大阪よりは毎年、
  念頭の御礼として七手組の内一人と、淀殿の御使として局一人、姫君の御使として女中一人は必ず
  関東へ下っています。これは御縁者たるの礼儀を重んじているためです。一方、関東からは旗本の士
  一人を登らされますが、女房の御使はかねて沙汰すら聞いたことがありません。姫君がいらっしゃるの
  ですから、これは在るまじきことです。
  また去々年の秋、大阪の河口が、舟入が悪いため川床を浚っていたところ、江戸よりお咎めあれば
  工事半ばにして中止しました。その時、泰平には要害はいらぬという仰せでした。ならば、現在の
  江戸城の御普請は一体何の為なのでしょうか?これ十。
一、江戸城普請の人足には天下に千石夫を仰せ付けられ、また遠近につき五百人夫を仰せ付けられました。
  ところが大阪はそこから除外されました。しかしこれは大阪を敬しているようで、その奥に深い
  意味があります。武威を示す為に諸侯に仰せ付けられるだけでは、太閤の時代に大阪、伏見城を
  築かれたのと変わりません。
  また大阪城では仮に少しの破損があっても、そのままにして差し置いています。これは関東に対しての
  御遠慮なのです。これ十一。」

以上の十一ヶ条の外は末代への規範にも成らず、また豊家の瑕瑾にもならざる事ですから差し控え、
今この条々は現在天下の人の知るところです。しかしこれを直に申し上げるのは甚だ恐れある事ですから、
あなたからお伝え下さい。但しこれは、先に仰せに成られた七ヶ条への、豊臣家としての返答ではありません。
ただ全く、この愚臣が考えたことです。」

518 名前:3[sage] 投稿日:2016/04/11(月) 23:05:56.35 ID:IoCtMYLU
この発言にさすがの本多正純も且元の識量にとりひしがれたのか、否の問答もなく、暫くして言った
「結局、この議論に関しては太閤の御遺言についてだけが大切であり、その他は枝葉のことです。
しかしその実情を知る人は一人加賀利家でしたが、彼も亡くなってしまった以上、どうにも出来ません。
ただし、天下の政道は人力でどうなるものではありません。必ず天道の能くするところなのです。
天下万民の父母と成り、万機を心に任せる将軍の宣う所は、もとより常人の行いが及ぶべくもありません。
神明とても知るや知らずや、ただ天道の自然と存ずる所です。

その器に非ざるにして天下の政道を取ろうとすれば、どうして終始を全うできるでしょうか?
秀頼公を始め、その他の諸臣もここに気づいて頂ければ、却って幸甚です。
昔秀吉公の、岐阜中納言(織田秀信)へのなされ方をみれば、秀吉公はよくその事を知る人物であったと
存ぜられますが、こういった事は総じて容易のことではなく、私の判断の及ぶべきものではありません。
今、貴殿の申された十一ヶ条は詳細に大御所に言上いたします。そうすれば必ず、近いうちに
召しだされるでしょう。その時は御前において、貴方からさらに詳しく申し上げるべきです。」

こう伝えて正純は帰っていった。
(慶元記)

大坂の陣の前、徳川との交渉での、片桐且元による反論についての記事である。



片桐且元が時々に異見していたため

2016年04月06日 11:21

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/05(火) 23:06:15.09 ID:OD6R1q59
関ヶ原により家康の天下となると、自然諸国の大名はみな駿府へと参勤した。慶長10年の春、徳川家康
上洛、大納言徳川秀忠は3月27日に、前田利長、結城秀康を供として上洛した。
この時、徳川家康が伏見城の舟入の楼に上って秀忠の京着の行裝をご覧になるということだったので、
御供の面々は綺羅を輝かせ美麗を尽くし、見物の貴賎は巷に満ちて、目を驚かすばかりであった。

4月26日、徳川秀忠は参内し、叡感あって正二位内大臣征夷大将軍淳和奨学両院別当源氏長者に宣下された。
この時、結城秀康にも正三位権中納言に任じられ、源家の繁栄は日比に越えた。
これより徳川家康は、大御所と称し、秀忠は新将軍と称し天下の大小名は何れも妻子を引き連れ、
江戸と駿府とに相詰めた。

このような中、豊臣家の衰退は日に顕れ、豊臣秀頼の権威も日に衰え、哀れなる有様であった。
殊に徳川家康は、関ヶ原以後は上洛しても大阪に下向すること無く、ただ使番などを以ってその旨を
伝えるだけであった。

大阪には摂津河内両国意外に蔵入地も無くなったため、諸国人は勿論、あるいは絵所、或いは四座の
猿楽に至るまでおおよそ技芸のある者達は、みな大阪を去って関東に罷り下った。
なかんずく、慶長12年、朝鮮国の信使が来朝した時も、直ぐに関東に下向して、大阪には登城すること
なかった。

豊臣秀頼、淀殿を始めとして豊氏恩顧の輩は、何れも憤慨を差し挟むこと少なくなかったが、独り
豊臣家執権の片桐且元が時々に異見していたため、これによって表面化するに至っていなかったのである。

(慶元記)

豊臣家の不満を片桐且元が抑えていたという、慶元記の記事である



493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/05(火) 23:14:19.67 ID:QEURfml4
秀忠は源氏長者にはなって無いんじゃなかったっけ?

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/06(水) 11:18:32.94 ID:dN10VpVF
源家って河内源氏の嫡流(頼朝の家系)に使う言葉じゃねえの?

大阪冬の陣の時の、福島正則

2015年09月08日 18:28

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/08(火) 12:18:48.56 ID:Hk+BZSPx
慶長19年8月下旬、徳川家康は片桐市正(且元)を江戸に呼び出し、秀頼の奉納した
大仏の鐘の事悪しきとして(方広寺鐘銘事件)、御袋(淀殿)か秀頼が江戸に下るようにと
片桐に申し付けると、片桐は大阪に参り、「御袋様にも秀頼様にも、どうにかしてお下りなされるべきです」と
申し上げた。

秀頼は片桐まで心変わりして大阪に戻ってきたかのように思い、色々あって、福島正則にこの件について意見を
申すようにとの求めがあり、正則は大阪によしみのある堀田角左衛門という武士を上らせ
秀頼に意見を申し上げた

「御袋様が江戸にお下りになり、家康公と御対面した上で再び大阪に帰る事こそ尤もです。
江戸において、御兄弟方とも参会されるのがよろしいでしょう。」

しかし秀頼はこれに同意せず、殊の外立腹し
「重ねてそのような意見を言ってはならない!」との返事であった。

さて、正則はこの使いの堀田角左衛門に、予めこう申し付けていた
「大阪より御返事を取れば、それを私に報告するより先に、直に家康公に差し上げるのだ。」

家康は堀田より届けられた秀頼の返事を見ると、殊の外立腹し、早速京都に出陣することとなった。
諸大名衆も尽く大阪に馳せ向かったが、この時正則は家康に申し上げた

「私には、秀頼を攻めることは出来ません。ですので嫡男の備後守(忠勝)を上らせ、私には
江戸留守居を仰せ付けられますように。」

家康もいかにも尤もであると思い、「では備後守を急ぎ上らせるように」との事で、
備後守は大阪に上った。

(福島太夫殿御事)

大阪冬の陣の時の、福島正則の対応である。



284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/08(火) 21:01:51.23 ID:eUZyDxLo
御兄弟方って誰?
御姉妹の間違いで、江の方のこと?

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/08(火) 23:52:28.26 ID:Hk+BZSPx
>>284
原文のままだけど姉妹のことだろうね


片桐市正(且元)家に伝わる話によると

2015年07月11日 18:22

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/10(金) 21:02:20.19 ID:ch6c9HIJ
大阪夏冬の陣の事について、片桐市正(且元)家に伝わる話によると、
豊臣秀頼に対し、片桐且元・貞隆兄弟より常に御異見申し上げた

「太閤様末期に及んだ時、家康公に対し御遺言なされた。その時は既に末期に及んでいたので、
直接に仰せ置かれた。その内容は、

秀頼公は幼少であるので、家康公を親と頼み思し召され、随分御介抱遊ばされ、秀頼公成長の上、
15から20歳までの内に、天下をも知り召されるご器量であれば、天下を返されるように。
今日より天下の裁量は家康公にお渡しなされる、ということであった。

この他には誰にも、別の御遺言は無いということを、誓紙に血判され家康公に直にお渡しになった。
家康公からも、その座にて牛王を請ぜられ、御遺言相違うこと無く相守るべしとの、御誓詞血判遊ばされ、
太閤に進上された。その誓詞は太閤様の棺に入れるよう仰せ付けられ、その上にて、異国までも隠れなき
御馬印である金の瓢箪を家康公に譲られ、『秀頼が天下を返し遣わされた時に、この馬印もお渡し
あるように』と、また約束された。

その後縁組までも遊ばされ、御親様と頼み思し召した上は、末々までも慎まれるべきである所を、
関ヶ原の一戦のこと、石田治部少輔の謀反とは申しながら、この方より太閤様の御遺言を破られたように
家康公は思われる事態でしたから、家康公が必ずこの事に腹を立てていることを、秀頼公にも
覚悟していただかなければならないと考え。これについて不断の御異見を申し上げたものの、
特にお袋様(淀殿)が、家康公と私が一味してそのように申しているのだと横ざまにお考えに成り、
このため万事相違し、一乱(大阪の陣)が起こってしまったのだ。

先年の関ヶ原の折に既に、且元・貞隆兄弟を討ち果たすという企みが在ったが、我々は用心したため
無事であった。その頃、大阪から飛脚を以って、両人より家康公に言上仕ったのは、『関ヶ原で
御勝利した上は、早々に大阪に御馬を入れられますように。我々両人は太閤の御遺言を相守り
罷りありまる』という内容で、これに家康公は、前々より相違ない心底に満足しているとの事で、
直に大阪にお越しなされた。

尼崎又右衛門の邸宅は古くからの家康公の宿舎であったので、一旦そこに着座され、
且元・貞隆兄弟がお迎えに上がった。その時家康公の御意に、『この家は町中であるので
不都合も有る。主膳正(貞隆)は太閤より命ぜられ、私との内密の取次をも任されていた。
兄弟とはいえ主膳とはよしみが有るので、狭くても構わない。』と仰せられ、貞隆の邸宅へと
お移りになった。この時は、杉浦内蔵充もお供したが、彼についてもよく覚えておられたので、
様々に物語などされた。

翌日、秀頼公にご対面なされ、直に西の丸に入られた。この時我々が申し上げた。
『太閤様に成り代わられ御親様という事でありますから、御朱印を出されるべきです。』
そこで秀頼公の細工人である忠景という者に申し付け、貞隆宅にて御朱印を掘らせ、所々に
これを押した文書を配らせた。

家康公が江戸に帰る時、大阪城中の門々の管理を我ら両人に硬く仰せ付けられ、茨木城に関しても
貞隆に留守居をするよう言い渡され、出発の前日夜には、且元・貞隆両人に、密かにご意見なされた
事には

『これ以後、謀反の輩が大阪城内に有るときには、お主たち兄弟は必ず無実を主張し、切腹など
申し付けられた場合は、いかようにもして高野山に行くと言い、その上で茨木城に兄弟とも参るように。
この事、必ず違えないように』と言い渡された。」


今度の大阪の陣においても、最初は高野山に行くと言って大阪を立つその朝に、不意に茨木城に
行くことを言い出した。これは片桐兄弟ともども、常々覚悟していたため、ためらいなく茨木に
罷り越したということである。

(明良洪範)




黒田家譜より、『賤ヶ岳の七本槍』

2013年11月15日 18:58

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 07:22:08.01 ID:iDc7XhX1
賤ヶ岳の戦いにおいて、羽柴、柴田両軍は南北の峰を本陣として対峙した。
両軍の先手は谷に降り合って槍を合わせる。
この時、秀吉方より先に、勇士を出して挑戦をさせた。
秀吉方の福島市松(正則)先駆して首を取り、秀吉の御目にかけた。

その他秀吉方の勇士、加藤虎之介(清正)、加藤孫六(嘉明)、平野権平(長泰)、脇坂甚内(安治)、粕谷助左衛門(武則)、
石川兵助(一光)、片桐助作(且元)、この7人が進み戦って柴田方の先手を北の嶺へと追い上げ、分捕り数多して
比類なき高名をなした。
これを以って世俗に『賤ヶ岳の七本槍』と号するのである。石川兵介はここでやがて討ち死にした。

福島市松は戦功優れたと言えども、別の戦場に居たため七本槍の数には入らない。

(黒田家譜)

黒田家譜より、「福島正則は七本槍じゃないよ」という指摘である。




752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 07:45:11.00 ID:nUvtZ25J
桜井さんは?

蜂須賀至鎮、加藤嘉明と片桐且元の争いを仲裁すること、二話

2013年10月09日 20:03

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/09(水) 18:07:47.67 ID:JoV1z0ES
ある日、加藤嘉明、蜂須賀阿波守、片桐市正は天龍川に集まり、宴会を行った。

この時、阿波守は嘉明に賤ヶ岳の軍状を尋ねた。しかし、嘉明は、
「私は普段よりも酒を飲みすぎてしまった。市正、どうかあなたに頼みたい」と言って、
酒に酔ってよい気持ちになりながら、あおむけになって寝てしまった。

そこで阿波守は市正にこれを尋ねる。市正はとても得意気に当時の戦況を語った。
その語りが嘉明の事に及んだ時、嘉明はたちまち起きて反論した。

「貴公の如きはもともと七人の中に加わるべき者ではなかった。それを私達諸将と
相談して太閤にお願いし、曲げて先鋒に列しさせたのだ。あの石子兵助の伏屍を
踏んで敵将を刺し殺したのは他でもない、この私だ!」

市正もまたこれに反論して譲らず、意色甚だ悪し。しかし、阿波守が二人の間に立って
調停したので大事には至らなかった。

――『鹿深遺芳録』

慶長八年、将軍宣下拝賀のために蜂須賀至鎮が江戸へ向かった時、ちょうど天龍川が
増水していて渡れないので、至鎮はしばらく滞留して減水を待った。

そこへ加藤左馬助、片桐市正(或は福島左衛門大夫とも云う)もまたやって来た。
ある晩の話の折、至鎮は賤ヶ岳先登のことを質問した。すると、二人の語る事が食い違って
互いに譲らず、終いには刀傷に及ばんとした。

至鎮は祖裼して二人の間に入って辞謝し、「それがしは無益の問を起こし、
おしはからずに公等の忌諱に触れました。本当に、このまま放っておくわけには参りません。

まずは、それがしが切腹して罪をお詫びします。その後で二公は良いように
事を処理してください」と表情を改めて決意したので、二人は大いに恥じて先非を悔い、
和解して事なきを得た。

程なくして川は減水したので、共に川を越えることができた。至鎮は二人を旅館に招き、
盃酒を勧めて別れたという。

――『峻徳公略伝』




287 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/10/10(木) 07:42:22.11 ID:ddF5PZEH
こんなんで切腹してたら戦国武将なんてやってらんねえだろうな

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/10(木) 08:03:03.73 ID:hQ0qrR0v
わかっててやってるだろよししげw
(やっぱこうなったしwww)って

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/10(木) 12:13:48.06 ID:kXmB4JVh
(´・Д・)。○(ちょろいぜ)

290 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/10/10(木) 15:00:39.62 ID:BrbjmR+T
どちらかが嘘つきというよりは、両方誇張して話してるから噛み合ないんだろうなー

片桐且元の軍才

2013年10月08日 19:50

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/08(火) 02:24:50.38 ID:rqh6E1Wa
投下がないようなので

且元の軍才

「長々の在陣、辛労是非に及ばず候、よって帷(かたびら)一を下され候…」
という且元あての手紙が残っている
文禄の役も終わりにさしかかったこのとき、且元は朝鮮で一軍を任されていた

このとき彼の下に配されていたのは譜牒余録によると弟の貞隆のほかに
古田重勝、太田一吉、加須屋武則、新庄直定、高田治忠、藤掛永勝、岡本重政、牧村政吉、小野木公郷
らで、そこには当時五千石に満たなかった且元より所領の多い大名まで含まれていた

且元は彼らをまとめて堅固な晋州城の包囲網に参加し、成果を挙げていたので冒頭の手紙につながる
且元にこうした軍事的才覚があることを、秀吉は見抜いていたのだろう

残念ながら、中央を巻き込んだ一大政局・浅利事件の調査を任された且元はこの後大きな軍事行動に関わっていない




267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/08(火) 04:19:29.41 ID:PDWPLzCZ
且元さんはこう、関ヶ原や大坂の陣辺りの創作物だとだいたいどんなもんでも典型的な
「小心者の中間管理職」
みたいな描かれ方するよな

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/08(火) 10:46:01.36 ID:efQn1taG
まぁ立場が完全な板ばさみだからな。

現状を理解出来て解決のために苦慮する才覚があるから辛いんで、
馬鹿だったらそんな苦労もないんだが

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/08(火) 10:55:43.16 ID:RNb3QAYB
辛労をねぎらう書状って、実際は同じ文面のが宛先を変えただけで
コピペのように在陣諸将に出されてるよね。

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/08(火) 11:34:19.06 ID:mNrLwWdr
桜井佐吉・石川兵助「七本槍に列して名も残して贅沢言うな」

271 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/10/08(火) 11:59:43.90 ID:Hnvh7biB
>>一大政局・浅利事件 てなんじゃらほい?

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/08(火) 12:20:40.40 ID:RNb3QAYB
浅利頼平と秋田実季の紛争じゃないかな
中央政局としてはさして意味は無い事件だけど

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/08(火) 13:18:32.96 ID:d4c9gQKO
陳情に向かった浅利が変死してうやむやに終わるらしい
浅利側には浅野長政、秋田側は佐々行政がついてたそうな

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/08(火) 16:05:43.96 ID:rqh6E1Wa
浅利事件では且元は長束正家と協力して調査を進めていたらしいんだよね
ただ、そこに前田利家や浅野長政が浅利氏側の立場で介入してきたから
「大納言(利家)様や弾正殿(長政)がこの事件を斡旋する意図があるなら、さらに裁定を~」
と露骨に不快感を示してる

当時の且元の政治的な立ち位置とか、地位がこの辺からも結構垣間見えるっていうか

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/08(火) 16:16:51.50 ID:vho2ofyV
あれ、浅利事件って家康もかかわってなかったっけ 浅利側で

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/08(火) 16:40:47.24 ID:rqh6E1Wa
手元の資料だと家康の動向はわかんないけど、
秀吉死後の慶長四(1599)年4月2日に、家康に浅利事件の顛末を且元が直接報告してる
だから家康が浅利事件に強い関心を持ってたのは間違いないと思うー

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/08(火) 16:59:46.01 ID:2YLZqCWu
浅利というと女武将の板額御前とあさりよしとおの間の子孫か

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/08(火) 17:28:51.53 ID:RNb3QAYB
奥州仕置や九戸の乱などでガツンとやられたのに
この時期になっても散発的に合戦しちゃう東北は本当にコワい

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/08(火) 20:56:31.31 ID:4XWaudwP
>>273
佐々行政って鷹匠だったの?

織田信雄、片桐且元に内通す

2013年07月04日 19:57

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/03(水) 20:55:54.74 ID:axVL+PD8
方広寺鐘銘事件などから豊臣家と幕府の関係は急速に悪化し、駿府での協議から
帰ってきた片桐且元は『私案』として、「豊臣秀頼自信が江戸に行く」「淀殿を江戸へ人質に出す」
「大阪城を放棄し他国への国替えを願い出る」の3つの考えを伝え、これに大阪城内では
大きな反発が起こった。

慶長19年(1614)8月22日夜、大坂では大岡雅楽頭の邸宅において、大野修理(治長)、
木村長門、渡邉内蔵介と言った人々が、徳川との対決を決める談合が行われた。

しかしこの事を、織田常真公(信雄)の家臣である、生駒長兵衛、梅心の二人が知り、
23日、織田常真は片桐且元の元へ内々の書状が一封遣わされた。これに返書はいらないとのことなので、、
且元はこの書状の使いに、家来である小島庄兵衛と申す者を添えて常真の元へ返した。

常真は小島庄兵衛が来ると、彼に直に言った

「市正(且元)の身の上に関する大事の事であるので、これから言う事を市正殿以外に
他言してはならぬ!其方、金打ちをせよ!」

金打ちとは、固い誓いの印として、金属製の物を打ち合わせる行為である。
武士は刀の刃、または鍔を打合せた。

「それは一体どういうことでしょうか?」

小島が尋ねると、常真は

「大阪城の本丸や、その他でも若き者どもが談合して、今度、市正の提言した三ヶ条の内、
一つも同意することは出来ないから、市正を騙して駿府に差し下し、その後で市正の妻子以下、
そして市正の弟である主膳正(片桐貞隆)も自殺させ、徳川への敵対の色を立てようとか、
市正を先々切腹させよう、などとの話し合いが行われている。

昨夜あった談合で決まったことは、市正に対し『御袋様(淀殿)が市正と対面して相談したいことが
あるので本丸に参るように』と伝え、本丸に入った所を、廊下で取り押さえて切腹させ、
主膳は千畳敷にて殺し、その後市正・主膳の屋敷に攻め懸かって妻子、並びに家来の者たちを踏み潰し、
屋敷に火をかけ、その上で籠城の態勢を取ろう、と言う内容らしいのだ。

私はこれに驚き、市正を殺しては成らぬと思い、今このように、内通する事にした。」

小島庄兵衛も大いに驚き
「忝い御意であります。そしてこの件に関して、市正が承服出来るように、常真様のお墨付きを
頂きたいと思います。」

「それは尤もなことである。しかし徒に時間をかけてはいけない。さあ、金打ちをするのだ。」

と、常真から誓言をした上で、金打ちをし、小島も金打ちをした。

そして小島庄兵衛は急ぎ帰ると、且元に委細を伝えた。
これにより片桐且元は『にわかに病気となった』と言い出し、その日より大阪城への出仕を取りやめた。
(片桐家秘記)

大阪冬の陣直前、織田信雄片桐且元に内通をしたその時を描いた記録である





大阪城明け渡しの提案について

2013年03月04日 19:51

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/03(日) 21:05:29.51 ID:SOYj+wSV
方広寺鐘銘事件が紛糾し、弁明のため片桐且元が駿府に赴いたが、
この時片桐且元は本多上野介(正純)、成瀬隼人正(正成)、安藤帯刀(直次)、伝長老(金地院崇伝)を
前に、このような提案をした

「今回の鐘銘のことは、秀頼公並びに母公(淀殿)が全く存ぜぬことです。
とにかく、大阪の地が日本第一の名地であり、そこに秀頼公が居住されているため、
世上に様々な風説が起き、それが大御所様(家康)のお耳に入るのでしょう。

であれば、秀頼公が大阪を明け出て、何方へも代わりの領地を遣わされ、その上江戸に屋敷を拝領し、
そこに秀頼公と母公が交代に参勤される。この考えをいかが思われますか?」

これに対して先の面々は相談したが、

「それを我々から促しても、秀頼公がお聞き入れになるのは大変難しいだろう。
秀頼公ご自身がそのように望まれるのであれば、その時は公のお心次第に我々も対応する。」

と返答し、結果的にこの提案での事態の落着には至らなかった。

所でこの、片桐且元が申し出た提案は且元自身が考えたことではない。
実は亡くなった加藤主計頭清正がかねてからこの考えを語っていて、それを聞かされていた且元が
この度申し出たというのである。
(村越道伴物語留書)

鐘銘事件の際の、大阪城明け渡しの提案についての記録である







「三ヶ条の要求」と豊臣秀頼

2011年12月26日 22:02

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 18:02:11.44 ID:LdVEqifJ
慶長19年(1614)9月18日、方広寺鐘銘事件などで緊張した徳川・豊臣家の問題を駿府の家康と協議した
片桐且元は帰阪。秀頼に家康からの要求、

『秀頼が人質として江戸に下る、もしくは淀殿が人質として江戸に下る、もしくは国替えを受け入れる』

という三ヶ条を伝えた。

これを聞いた豊臣秀頼は、片桐且元を、休息を取れと私邸へ帰らせ。その上で、当時大阪にあった
織田常真(信雄)のもとに、大野治長、木村長門守、渡辺内蔵助を遣わして、この件に対して相談をさせた。

三人は信雄にこう主張する

「市正(且元)は今度の使いにおいて、いくら家康公の御指図だといっても、先ずは一応も二応もお断りを
申し上げ、その上ではじめて家康側の申し出を聞き届け帰国しこれを秀頼公に申し上げるべきなのに、
彼は秀頼公を差し置いて、この三ヶ条へ異見が無いと家康に申し入れ、自分一人の判断で、まるで自分が
家康の使いであるかにように、秀頼公に申し上げた。
これは我が君を見下げるような行為であり、その不正は軽くない!

この上は最早市正を踏み殺し、我々の方針をはっきりさせるべきと考える!」

信雄はこれを聞いて仰天した

「今、両御所を敵に受けて盾をつくなど、考えも出来ない事だ!
今回のことは全て、市正に任せて然るべきである!」

三人は秀頼に元に帰り、両者の意見を申し上げた。
しかし秀頼はこれを聞くと、いずれの意見を取るべきか解らず、ただ悩んだままであった。

大野ら三人はこの秀頼の姿を見て、「秀頼公には知らせず密かに且元を城に呼び出し、そこで
刺殺して方針をはっきりさせよう!」と示し合わせた。

しかしその動きをを察知した信雄がこれを且元に知らせ、且元は大阪城を退去。
これが大阪冬の陣勃発の直接の理由となる。

和平派もそうだが主戦派も、秀頼本人の意志を重視してはいない、片桐且元大阪退去に至るまでの、顛末である。
(秀頼事記)






499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 21:39:58.07 ID:Gb1JJCFD
何かで読んだのか戦国もののドラマか忘れたけど
且元はその時淀殿を江戸に送ることを承知しておいて
江戸屋敷の造営で一年二年と引き延ばしその後は淀殿病気といいさらに一年二年引き延ばし
家康が死んだ後挙兵すれば少しは勝ち味が見えてくると献策したとか言う話があったな
多分史実じゃないとは思うけど

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 21:42:56.60 ID:W9TthKzI
葵徳川だね

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 21:50:58.98 ID:gHUua3Pj
実際家康相手にそんな小細工無理だとは思う

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 23:47:39.70 ID:HTcBDCI7
>>498

これじゃ、まるで開戦にいたるまでの先帝陛下のお立場ではないか?

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 00:05:13.68 ID:AGDGBLr/
こう見ると信雄さんは現実派だなぁと思うけど
やはり残り二人からは「このヘタレが!」って思われたんだろうな

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 08:15:30.85 ID:zgeD+M20
福島正則「だから!遅すぎたと言っているんだッ!!」

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 08:54:59.49 ID:3dub6oDn
信雄が優秀だったってのもあながち間違いじゃないよな。

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 09:04:44.29 ID:2Phlz4nt
お坊ちゃまだった若い頃は失策しまくりだったけど、
もう世間慣れしてるお爺さんだから保身感覚が身に付いてるよな

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 10:15:59.08 ID:quNlbzpG
若いころから保身感覚抜群の連中がいたりするから見劣りしたりするんだよな

森家の連中とか池田家の連中とか…

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 11:45:49.54 ID:rWPzNMBy
>>507 信雄様のおかげで早くに親父や兄がなくなったもので、若くして保身感覚を身に付けました。

慶長十五年(1610)卯月十九日浅野幸長書状

2011年10月25日 22:00

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 17:49:33.51 ID:gXVxfZeL
慶長15年(1610)4月、名古屋の浅野幸長が出した、京にあった浅野長晟からの書状への返答

『卯月(4月)16日に出されたあなたの書状は、17日には届きました。さてさて早い飛脚であったものです。
今、名古屋では(名古屋城普請の)御鍬始が行われ忙しくて時間を作ることが出来ず、本日19日に
この返事を渡しました。

さて、秀頼様がその方に二千石の知行を与えようとしている件についてです。

前にも申したように、このことは石豆州(石河貞政)に申し使わされました。そこで市殿(片桐且元)に
相談した所、「あなた方の方で弾正殿(幸長・長晟の父、浅野長政)の所に、この事を知らせれば
拝領しても問題は無いでしょう。」との旨を、片市殿(片桐且元)の家臣を通じて、石豆州、杉伯州(杉原長房)から
貴殿にご返事として届いていることと思います。

そして片市殿から
「今回の御知行拝領の事、あまりグズグズしていてはいかがかと思います。
早く二千石の御知行をお渡ししたいものです」
と、懇ろに申し置きをされている以上、あまりこの件を長引かせるのは宜しくないでしょう。

片市殿の御指図の通り、弾正様の所に、お尋ねに使者を遣わせるべきです。
その時はあわせて、その書状の受取を下さるようにと、お断りもしておきましょう。

それから私の方では今日、江戸(幕府)に、この件を相談する遣いを出しました。
この件については、その遣いが帰ってから判断することにしましょう。

そうそう、京都御番のこと、いよいよ油断なく勤めて下さい。
又、追々お手紙致します。恐惶謹言

紀伊守 幸長(花押)

卯月十九日 浅野但馬守(長晟)殿 御返報 』
(浅野家文書)

この二千石を長晟が拝領したのかどうかよく分からない。ちなみにこの前の3月、長晟は幕府より
備中国足守(蘆森)ニ万四千石を加増されている。

関ヶ原から10年経った当時、豊臣秀頼からの「新恩」に対しての、非常に微妙で警戒的な空気が見えてくるような
書状である。




501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 20:37:21.27 ID:z2RiFBf6
>>497
人物名分かりにくすぎw
こういうのどうやって解読するんだよww

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 21:07:52.76 ID:uIv37/Hc
片桐且元が片市なのはなぜ? と思ったら
官位が東市司だからか

しかし名前を書かないやら、省略やらで、解読するの大変そうだな
中国はどうだったんだろう

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 21:26:59.08 ID:HsKQDjlr
政宗みたいのは、まあ例外として、
当時の人にとっては、官名で呼ぶのが普通だろうからなあ
苗字の頭文字+官位の頭文字はわかりやすいのかもしれん

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 21:39:11.85 ID:soW1mmlW
当時の手紙に書かれてる名前とか凄くいい加減だよね~
一通の手紙だけでなくその前後で頻繁にやりとりしてるからあれで通じるんだろうな~

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 21:46:57.87 ID:uIv37/Hc
自分だって手紙書く時、一々日付入れたり、細かく状況説明なんて入れないから、仕方ないやなぁとは思うけど
名前の当て字は凄いね 本気で読めれば(通じれば)いいんだよ! って感じだし
そのおかげで、この人何人いるんだよ と複数説唱えられたり
漢字が違うから、この人じゃない と存在否定されたりと大変

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 22:07:22.95 ID:xuAT/Sul
現代人で旧字に拘ってる人とかに比べるとすごい大らかだよね


508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 22:48:22.74 ID:6kmBJijk
名前呼ぶのって相当特別な関係なんだっけ?親とか娘の婿とか?

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:05:29.50 ID:aRxVnAXK
まっくろくろすけでておいでー

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:06:22.78 ID:aRxVnAXK
まっくろくろすけでておいでー

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:07:16.94 ID:aRxVnAXK
すまん連投した
花瓶に火薬詰めて爆死してくる

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:08:08.46 ID:k2r+lsAw
そしてまっくろくろすけになると言う事か

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:20:24.65 ID:sTfMlLQ7
名前を全て平仮名で書いてくれたら後世の人間が悩まなくて済むのに

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:21:24.60 ID:NBgkNDfT
>>511
間違っても国宝級の茶器に火薬詰めたりするなよ

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:54:53.08 ID:NjXGtHNA
いえやす ちくぜん てる
を思い出した。

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 08:22:26.50 ID:PfR2GCwX
>>501
このスレにどっぷりつかってしまったせいかなんの疑問もなく人物名が理解できてしまったw
会社ではなんの役にもたたないがw

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 09:45:11.52 ID:PzuxZXTC
>>521
しかし人生を豊かにしてくれる

後藤又兵衛基次の嫡男、隠岐守と片桐且元

2011年10月08日 22:06

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/08(土) 00:57:40.64 ID:hcb4JUbL
>>4
後藤又兵衛の子といえばこんな話もある


後藤又兵衛基次の嫡男は、後藤隠岐守と言った。
関ヶ原後、この後藤隠岐がある時子細あって、長政によって改易された。
これにより隠岐は摂津の木津に隠棲した。

ある時のこと、この隠岐が小者一人を連れて大阪に用を足しに行くと、町家に人が群集していた。
後藤隠岐が何事かと尋ねると、大阪の町奉行である水原石見守の組の与力が言うには、

「只今狼藉者二人が町人を斬って、酒蔵に籠っているのだ」

と言う。これを聞くと、隠岐

「そいつらを斬っても構わないか?」

「それは、構わないが…」

「良し」

隠岐は股立をつまみ上げて帯に挟み込むと、蔵の前にのさのさと進み、前まで行くと同時に、
蔵の中に飛び込み先ず一人を切り倒し、もう一人が慌てて斬りかかって来る所を飛びかかって切り伏せ
たちまち二人の首を取ると蔵より出、それを奉行所の雑色に渡すと、そのまますぐに木津へと帰ろうとした

と、そこにやってきたのが片桐且元である。

且元は事件現場の様子を見て「さてさて手柄をしたものだ、お主がこれをしたのか、名を名乗られよ!」
と再三尋ねたが、隠岐は「いや、名も無きものでござる。」と、名乗ること無く帰っていった。

しかし且元は、家来に密かにその後を付けさせた。

その夜、この後藤隠岐の自宅に、且元より米五俵と酒樽、さらに酒の肴が届けられた。

『御牢人とお見受けいたした。これは些少ではありますが、今日のお骨折りのせめてもの礼に、
どうぞこれをご賞味ください。』

しかし後藤隠岐
「酒樽と肴は御志として頂戴いたします。しかし米俵の方はお返しいたす。
かようなわび住まいをしておりますが、このようなものに事欠いているわけではありません。」
と、米は返したのだという。

翌々日、今度は片桐且元自身が木津の後藤隠岐宅を訪れた。
そして隠岐と対面し、名を名乗られよと問い詰める。これには隠岐も名を隠しがたく、
ついに「黒田甲斐守長政老臣、後藤又兵衛が嫡子、後藤隠岐守と申すものです。」
と名乗った。

これに且元
「そんな事だと思いました。あなたには、ここは余りにも見苦しい。それがしが宜しく取り計りましょう。」
そういって堺に家を借り、金子二百両を合力して彼を隠し置いたという。

(武隠叢話)




石川貞政の大阪出奔

2011年07月23日 23:05

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 22:17:49.10 ID:7b/ylI3U
慶長19年(1614)10月1日、大阪城主戦派による自らへの討伐を察した片桐且元らは大阪城から
居城である茨木に退去。ここより大坂の陣が実質的に始まる。

さて、石川貞政は豊臣秀吉の馬廻りまで勤めた豊臣家生え抜きの武勇の士であったが、且元討伐を
命ぜられたもののこれを行わず逆に且元の元にいち早く知らせ、彼が無事退去する一翼を担った。
そのため主戦派から睨まれ、大阪城内では「貞政も誅するべきだ!」との風聞が盛んに流れた。

これを聞いた石川貞政は、「武人として逃げも隠れもせぬ、逆に主戦派である大野治長や渡辺糺を
討ち果たしてやらん!」と殿中に上り、多くの人々取り巻く中を、仁王立ちで睨みつけ、大音声でこう言い放った!

「この貞政に逆意があるによって、誅せらるるのだと承ったため、ここに参上いたした!
誰であってもその命令を受けたものは、この貞政の首を刎ねて上覧に備えるべし!」

が、誰からも何の言葉もない。貞政の迫力に気圧された、というのもあるであろう。しかし実際に
彼を誅せよという命令は出ておらず、誰一人として立ち向かい、勝負しようというものはなかった。
殿中の者たちもただただ戸惑うしかなかったのである。

それでも貞政は暫くそこで待っていたが、大野も渡辺も姿を表さず(こんなのに関わり合いたくなかったのだろう)
仕方なく殿中を下がり宿所に帰り、若党一人に薙刀を持たせて玉造口から大阪を出、堺へと向かった。
貞政が大阪を退去したことを知った彼の家臣たちは驚き、取るものも取り敢えず武器馬具のみを整え跡を追った。
家臣たちが追いつくと、貞政は河内路を経て片桐且元が籠る茨木城に向かい、そこで且元に対面して言うには

「間もなくここに、大野渡辺の軍勢が押し寄せるでしょう。それがしもあなたと共に、ここに籠城し
彼らの攻撃を防ぎたい。」

しかし且元は、貞政のこの提案に肯かなかった。
「朋輩を相語らって籠城いたせば、それは反逆です。
私は今はただ、大阪城の軍勢が攻め来たらば恨みの矢一つを射て切腹し、武士の名を汚すまじきと思っています。
そうであればこの城にあなたが有ることは、義において辱ずる所であり、幸いにも常眞殿(織田信雄)が既に京に
退去されているところですし、ここより直に京に上り、常眞殿と同じように、幕府の保護を受けるのが良いでしょう。」

貞政はこの説得を受入れ京に入り、幕府の京都所司代・板倉勝重の元へ行き大阪城の状況を伝える。
勝重はこれを聞き

「大阪が既に反逆の準備をしている中、あなたはそれを知ってこのように、その身を京に退かれました。
この事は将軍家においても定めてご満足なされるでしょう。」
と、彼に家屋敷を与え日々の賄いまで申し付けた。

大坂の陣の序盤、石川貞政の大阪退去についての話である。
(慶元記)




101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 22:41:29.58 ID:RDxqX22T
片桐且元は幕府から知行もらってるし幕府からの付け家老みたいなもんだから追放も仕方ないにしても
譜代格の石川貞政も退去したのは痛かったな。兵を率いる大将クラスが少なかったし

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/23(土) 00:28:18.87 ID:YXHqHcZS
とは言ってもこの人も5000石だからな

“沈勇の士”加藤嘉明

2011年02月14日 00:01

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/13(日) 01:27:33 ID:vdBJgzcm
地味加藤さんのエピソード


“沈勇の士”と言われた加藤嘉明は、必要なこと以外喋らない沈黙の男でもあった。
豊臣政権で大名に列してからもそんな調子で、ある時心配した片桐且元が言った。

「おぬしは諸将の間で寡黙すぎると噂されているが大丈夫か?」

「生まれつきだから仕方が無い。そんなことより我が武辺についての噂はどうだ?」

「おぬしの武辺にケチをつける者はおらんよ」

「ならばよし。他に何を言われようとかまわぬ」


折角の忠告に聞く耳を持たない加藤さんだけに、ちょっと悪い話の方に投下しようか迷ったけど、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3520.html
と合わせて、武辺へのこだわりや片桐さんとの仲が微笑ましかったのでこっちに。