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関ヶ原後の片桐兄弟と家康

2021年03月10日 18:41

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/10(水) 15:49:22.20 ID:QP7IHgBS
関ヶ原の時分、大阪城内では片桐市正(且元)・主膳(貞隆)を討ち果たそうとする企みがあったが、
両人はそれを覚悟し用心していたために、その身、恙無かった。

関ヶ原合戦の結果が知らされると、大阪より飛脚を以て大御所様(徳川家康)に市正・主膳は言上した
「関ヶ原、御利運という事で、早速大阪へ、御馬を入れて下さい。我ら兄弟が太閤様の御遺言を守って
大阪に罷り在った以上、御親様(淀殿)は違乱について関係ありません。」

その旨を申し上げると、大御所様は前々より相違なく、心中もご満足され、関ヶ原より直に大阪へ
向かわれた。尼崎の又右衛門家は古よりの御宿であったので、先ずそこに御着座され、市正・主膳も
お迎えに罷り出た。

権現様(家康)の御意に
「この家は町中であり、如何かと思う。主膳正は太閤様の仰せ渡しにより、内々の取次をもしている者で
あるので、兄弟とは申しながら、主膳にはよしみがある。狭くても苦からず、主膳の所を宿としよう。」
との事で、そのままそのようになった。この時、杉浦内蔵允なども御供であり、彼のことはよく
覚えていたので物語をした。この事は証拠として正しくあったことなので、書き付けておく。

翌日、秀頼公へご対面遊ばされ、直ぐに西の丸に大御所様が御座なされた。その時、片桐兄弟は
申し上げた
「太閤様に成りかわられて、御親様の事でございますが、御朱印を出される事然るべしと考えます。」
との旨を申し上げると、「尤もである」との御意で、即ち秀頼公の細工人である右京と申す者に申し付け、
主膳の所で御朱印を掘らせた。

大御所様が江戸に還御の時分に仰せ付けられ、大阪城中門々の番について、大御所様のお指図を以て
片桐兄弟の者達により所々を相堅めた。これは大阪一乱の砌まで、市正・主膳が大阪に在った内は、
その通りに相違なく勤められた。

片桐家秘記

関ヶ原後の片桐兄弟と家康について



622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/11(木) 01:18:26.28 ID:by81p93d
> 「太閤様に成りかわられて、御親様の事でございますが、御朱印を出される事然るべしと考えます。」

これってどういう意味?
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勘文を書き換えて、『吉也』とせよ

2020年12月11日 17:11

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/11(金) 16:03:56.52 ID:gLIIhIx6
源君(徳川家康)が秀頼卿を二条城にて饗したいとはかられた事に対し、母公である淀殿は危ぶみ怖れて、その時の
軍配者である白井龍伯が、占いに長じた者であったので、この龍伯に吉凶を見させた。

龍伯は七日間潔斎して、香を炊いてその煙気を見る事三度ながら、その三度共に『大凶』となった。
その趣を書いて片桐市正(且元)に知らせると、市正じゃ彼を私宅に呼んで、その故を聞いた。
龍伯は
「大凶であり、(二条城に)赴けば必ず害に遭うでしょう」と言った。
これに対して且元は

「私は煙気の事は解らない。ではあるが、もし秀頼公が赴かなければ、兵乱が起こるだろう。そして赴くことは
難しいことではない。これを以て見る時、勘文を書き換えて、『吉也』とせよ。」と言った。

これに龍伯は聞こうとしなかったが、且元が強いて「その咎は私が引き受ける」と言ったため、
已むを得ずして『吉也』と書き換えた。しかし「不慮の事が有れば如何せん」と憂うのを、市正は笑って
「秀頼公が害に遭い給えば、私も共に死ぬだろう。その上は、一体誰がお主に罪を問うのか。」と云った。

龍伯が淀殿・秀頼母子に勘文を奉ると、淀殿は大いに喜んで、秀頼卿を二条城に赴かせた。
そして無事に帰城されると、淀殿は龍伯を賞して、白銀百枚を給わった。またその他にもかれこれより金銀多く贈られた。
龍伯は市正の宅に行き
「今、このように多くの金銀を得たのは、貴公のおかげです。」
と拝謝した。そしてそれより気を見る術を止めて、閑居した。

或る人曰く、軍者の諸家は日取りを見る法を盛んに行うが、総じて見ると、ひと月のうち、その中の吉を取れば
悉く吉日と成り、凶を取れば悉く凶となる。しかしこれによって「元来吉凶無し」と言ってしまうと、物を破る
誤りを生ずる。また一方で「吉凶有り」と言えば事に惑う患が深い。故に、見る者をして独り悟らしむのである。

若州聞書



488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/11(金) 16:43:37.14 ID:jwmD+r7O
今孔明といわれた白井の一族かと思ったら分家の方だったか

大阪夏の陣、戦闘が終わった後の出来事

2020年10月04日 17:10

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/04(日) 12:11:40.63 ID:ODrWroWV
慶長二十年五月八日
辰刻(午前八時頃)、片桐市正(且元)の使者が言上した所によると、秀頼并びに御母(淀殿)は、
大野修理(治長)、速水甲斐守(守久)をはじめ、その他究竟の士と共に二之丸帯曲輪に引き籠もって
いるという。幕府(秀忠)は使いとして安藤対馬守(重信)に参上するように申し、彼に
「秀頼并びに御母、その他が帯曲輪に籠もっているが、彼らに切腹を申し付けるよう。」と仰せに成った。
午刻(正午)に井伊掃部助直孝を召し、秀頼母子、その他帯曲輪に籠もる者達は切腹有るべしと
仰せに成ったという。

(中略)

また戦場に於いて首実検があった、真田左衛門佐(信繁)首、御宿監物首、大野道犬首を、
越前少将(松平忠直)が持ち来たという。

十一日
長宗我部宮内少輔(盛親)が八幡あたりに置いて蜂須賀蓬庵(家政)の従者によって生け捕りにされ、
二条御所西御門前に、長宗我部は搦められたまま晒された。諸人これを見て「猪のようだ」と言ったという。

十二日
今回の大阪からの落人が国々に逃げ散っているため、これを速やかに搦め捕って引き出すようにと、
諸代官、守護、地頭に仰せ遣わされた。
今日、秀頼の息女(七歳)が京極若狭守(忠高)によって探し出され捕らえられたとの注進があった。
秀頼には男児が有るとのことも内々に聞き召され、急ぎ尋ね出すようにと、所々に触れられた。

十四日
今日、大阪奉行であった水原石見守が、二条御所の近辺に忍んでいるのを訴える人があり、
藤堂和泉守(高虎)が討手を遣わした所、石見守は覚悟を致してこれと戦い、寄手三人が切り伏せられ
戦死した。そして石見守の頸は西御門前に晒されたという。

十五日
今日、長宗我部宮内少輔が一条の大路を渡され、六条において梟首、三条河原に晒された。
また大阪残党七十二人が、粟田口、并びに東寺辺りで梟首されたという。

二十日
大野道犬が大仏の辺りで生け捕られ、真田左衛門佐妻が、紀州いとの郡に忍び居たのを、浅野但馬守(長晟)が
これを捕らえ差し出した。真田は黄金五十七枚を秀頼より給わり、また来国俊の脇差を所持していた。
これは御前に差し出されたが、但馬守が賜ったという。

二十一日
秀頼の子息(八歳)、伏見農人橋の辺りに忍び居た所を捜し出され、捕らえ出された。容貌美麗という。

二十三日
伏見より、将軍家(秀忠)が二条御所に御着きになり、御密談に刻を移され、午刻に幕下は還御された。
未刻(午後二時頃)、秀頼子息(八歳)、六条河原に於いて殺し給わった。
乳母の夫である田中六左衛門も同時に誅された。乳母は命を赦されたという。

二十八日
井伊掃部助、藤堂和泉守を幕府(秀忠)が御前に召され、金銀の千枚吹、分銅二宛が拝領された。
その上、御知行が下されることを直接に仰せに成られた。これは今度の大阪表、六、七日の合戦の
働きの功によるものである。

今日、片桐市正且元が病死した(歳六十)。駿府より申し来たという。

駿府記

大阪夏の陣、戦闘が終わった後の出来事



395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/04(日) 12:27:43.11 ID:LT28x8Lw
大野道犬は2度死ぬ

『浅井一政自記』より、大坂城の混乱

2020年09月25日 17:50

353 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/09/25(金) 00:44:34.27 ID:C8PZ88rV
(前略。慶長十九年二月二十三日、片桐且元が登城しないことに対し、且元から理由を聞いてきた
浅井一政が大阪城に戻り)

御城に出て、小々姓を以て「御用が有るので、奥へ入れて下さい。」と申し上げたが、何とも御意が無く、
また重ねて申し上げると、秀頼公は既に座を立っておられ、この時我等は装束の間の縁に居たのだが、
帝鑑の間へ入るように言われ、我等は召し連れられ入った。この時あいは殿(饗庭局カ)に申して
「ここに誰もお入りにならないで下さい。あいは殿もそこに居られるべきでしょうか。」と申して、
その後秀頼に申し上げると、
「不慮の事が出来したとは、何事か?」と仰せになった

「市正(片桐且元)を成敗すると聞こえたため、彼は今日罷り出ず、屋敷に立てこもりました。」と申した所
「天道も照覧あれ、俺は知らない!」(天道も照覧あれ、おれハ不知)との御意であった。
そして「ではどうしたら良いとお前は思うか」と仰せになられたので、
「市正の心中について八右衛門に尋ねた所、市正は毛頭二心あるというような事は有りません。
周辺で悪しく御耳に立てられたものでは無いでしょうか。」と申し、「また市正からも承りましたが、
彼は人質を出すと申しております。これにて彼の心中も知れると思います。御手廻の衆を少々召し連れ、
市正の屋敷に行かれ、御頼まれるのが然るべしと考えます。
昔織田信長様のおとな(重臣)が謀反をされたとき、このようにされたと承っております。その上市正は
人質を出すと申しております。この上お疑いに成るような事では無いと考えます。」

そう申し上げると、暫くご思案されて
「しかしながら、市正の心中は知れぬ事である。またどうしたら良いと思うか?」
「この上は、只今御誓文によってその旨を書いて遣わし、市正の心中をお聞きになるべきです。」
「尤もである、であれば御書を遣わそう。」

そう仰せに成っている間に、御袋(淀殿)より追々に使いにて「奥へ入られるように。」と、お使いに
宮内卿、右京太夫が参った、そこで秀頼は帝鑑の間の奥と表の間の廊下に御出になられると。市正殿の
屋敷へ、下屋敷に引きも切らず人数が籠められている様子が目の下に見られた。

御書の内容について廊下にて我等と御相談遊ばし、白い文箱に入れられた。符は我等が付けた。
これを土肥少五郎に持たせ遣わした。返事を待って廊下に入られると、奥より
「心もとない。先ず奥に入られるように」と頻りにお使いがあった。我等も申し上げにくい
事であったが「このようなことは女房衆の存ずることでは有りません」(かやうの事ハ女房衆の存事
にてハ無之候)と申した所、秀頼は使いの者を尽くお叱りに成ったため、二度と使いは参らなかった。

354 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/09/25(金) 00:47:05.98 ID:C8PZ88rV
(中略。その後再び浅井一政らが且元の元に行き、且元邸に籠もっている軍勢と織田有楽邸に籠もっている
軍勢双方を撤退させることで同意したが)

市正殿の元に参ると、居間より奥、南の方の座敷に連れてお入りに成り、二心無き段々を仰せ聞いた様を
承り、その上で甲斐守と私の両人は御城へ参ると、焚き火の間の中の柱に秀頼はもたれて入られており、
大蔵卿、正永がその左の方に伺候していた。奥と表の間には菊の屏風が立って、御袋が入られ、
その返事を聞かれた。

「知っての通り、甲州(速水守久)は無口であるので、お主がまずあらましを申し上げ、その上で
様子を我等に詳しく申し上げるように。」
そう言われたため、私が市正殿の申したことを残らす申し上げた。そこで正永が脇より申した

「市正殿が屋敷に人数をお集めに成っているのは何事か」
私は答えた
「市正を御成敗有るという事を、彼の家来たちが聞きつけたため籠もっているのだと思われます。」
この事についてこの場では、特段のあしらいはなかった。秀頼は奥に入られたあと、槇島玄蕃を召され
「市正の心中を聞くことが出来、御満足であった」との事で、召して居られた呉服を我等だけに
下された。

八右、多羅尾半左衛門は芭蕉の間に参り、甲州、私を呼んで「只今御両人へ市正は申し上げた通り、
『御同心に於いては、今夜の内に有楽の屋敷に籠められている御人数を退去されますように。
市正屋敷に籠もっている者共も皆追い出します。この通り、御両人様(秀頼・淀殿)へ御意を得られます
ように。』と市正が申しております。この通り、秀頼が奥に居られるので、使いを以て申し上げられますように。」

ところがこの事を秀頼の耳に入れず、御袋より返事があり
「まず市正の人数を退去させ、その後有楽の所の人数を退去させる。」と仰せになった。
これを聞いた甲州は頭をかきながら「こんな事では何も成らぬ」と申した。
私は「『畏まりました』と申しておいて、同時に退去させれば良い。」と答えた。
「尤もである。ならばその通りに奥へ申し、市正にも返事をしよう。」ということに相済み、
また市正殿へは、甲州と私が検使に参り、有楽へは槇島玄蕃、永翁が参った。
これは二十三日夜のことであった。

『浅井一政自記』

片桐且元をめぐる大坂城の混乱の記録。これに対する淀殿周辺の介入に豊臣家中は相当苛立っていたようで



355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/25(金) 02:14:27.61 ID:M9a/G0h0
恐らく秀頼幼少の際は淀殿が家中差配をしてて、秀頼成人後そこの指示系統がややこしくなってる感じかな
そんだけ秀頼が頼りないと認識されていたか淀殿が出しゃばりすぎか

どうしたらいいと思う?って聞きすぎじゃねーかな秀頼、供廻りつけて直接聞きに行ったら?って提案スルーするし、略された所でもやたらどうしたらいいと思う連発してるんだっけ?
なんというか頼りなさげだなぁ、他家中でもこういう時こんなもんなのかね?

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/25(金) 08:56:19.58 ID:I+5YGX1a
清須会議みたいにドラマ化してほしいな
大坂の陣省略じゃ盛り上がりに欠けるからだめか

『駿府記』より、大阪冬の陣の勃発について

2020年09月24日 18:35

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/24(木) 17:28:03.64 ID:tQa17/WK
慶長十九年
九月二十五日、今日大阪の片桐市正(且元)より駿府に飛脚が参着した。その状に云わく、
去る十八日駿河より大阪に帰り、御意の旨を申し上げ、末々将軍家と不和に成るのは如何かとして、
秀頼が江戸に在府するか、御母(淀殿)が江戸に在府するか、そうでなければ大坂城より退き、
御国替えが然るべしとの旨を申し上げたところ、これを秀頼并びに御母は不快に思われ、
市正を殺害するとの内存があると知らせてきた者が有ったため、出仕を止め引き籠もった、
という内容を上野介(本多正純)が上聞に入れた。大御所(家康)はいよいよご立腹なされた。

十月朔日、京都より伊賀守(板倉勝重)の飛脚が到来した。その状に云わく、去る二十五日、
大阪において大野修理、青木民部少、石川伊豆、薄田隼人正、渡辺右衛門佐、木村長門守、
織田左門、その他十余輩が、秀頼の仰せによって市正を殺そうとしたが、市正はこれを知って
私邸に引き籠もっているという旨を、本多上野介、板倉内膳正(重昌)が大御所に言上した。

これに対してご立腹甚だしく、大阪へ御出馬する事を、近江、伊勢、美濃、尾張、三河、遠江へ
仰せ触れられた。また江戸の幕下(秀忠)にも仰せ遣わされた。

また伊賀守より飛脚が到来し、その書状に云わく、市正が駿府に下向したなら。秀頼をも城から出して、
織田常真(信雄)を大坂城に入れ、彼を大将として籠城するとの旨を、織田左門その他が談合していると云う。

六日、京都の伊賀守より飛脚到来。織田有楽が伊賀守方へ一通の書状を遣わした。その書状に云わく、
今度の大阪の雑説について、市正の駿河への御使いの内容が悪しき故に、秀頼公が御折檻に及んだ所、
市正とその弟の主膳が摂津棘木(茨木・市正領)へ立ち退き、これによって大阪は以ての外の騒動と
なったが、我等は全く両御所(家康・秀忠)に対して野心は存ぜず、という旨が宣われているという。

七日、今日、片桐市正・主膳の使者である小島勝兵衛、梅津忠介が来て、大阪より茨木へ立ち退いた
事について、本多上野介を通して言上した。両使は召し出され、御服、御羽織を拝領した。
また御書が遣わされ、その内容は『今度佞人達が様々に申した事により、茨木まで立ち退いたとの事、
神妙に思う。なお本多上野介に報告するように。』というものだという。

駿府記

大阪冬の陣の勃発について。



352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/24(木) 23:54:48.52 ID:T4NDgTeu
織田左門は頼長か、こいつ織田の血筋使って悪さしようとしてんなぁ
親父の有楽はさすがに状況のやばさ理解してすぐに書状送ってるのね

『駿府記』より、方広寺鐘銘事件について

2020年09月23日 18:41

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/22(火) 23:18:37.90 ID:Nl3xNW4I
慶長十九年
七月二十一日、大御所が源氏物語の講釈を受けられた。飛鳥井(雅庸)が講読し、御数寄屋次之間にて
行われた。その後近習四、五輩、および伝長老、板倉内膳(重昌)の両人が召された。仰せに曰く
「(方広寺)大仏の鐘銘に関東不吉の語があり、また上棟の日も吉日ではない。」
とお腹立ちだったという。

二十六日、今日、片桐市正(且元)より一通の書状、并びに板倉伊賀守(勝重)の書状が駿府に
到来した。その内容は、

『方広寺大仏の供養を来月三日、開眼を十八日に成す予定であるが、その十八日には豊国臨時祭が有るため、
三日の早朝に開眼を行い、その後供養を行いたいのだと、秀頼が仰せに成っている』という。

大御所は「今度の大仏供養については、棟札といい鐘の銘といい、遺憾で不快である。
また往時源頼朝の時代も、開眼と堂供養の間は十年を隔てている。先例を考え、諸事後難無きように。」
と仰せ遣わし、本多上野介(正純)、伝長老がこれを奉った。

八月二日、方広寺大仏殿の鐘銘の正確な写しが駿府に到来した。中井大和守(正清)がこれを捧げた。
件の鐘銘は東福寺の韓長老がこれを書いたが、『国家安康』の語が不快であり、その他にも文章の中に
所々不快の語があった。一通を写し、これを江戸に遣わした。林道春がこれを奉った。

四日、大仏殿の棟札の写しが駿府に到来した。中井大和守がこれを奉った。照高院道勝法親王がこれを
書かれたのだが、大御所の御意に叶わず、ご不快にて、仰せに曰く
「鐘銘については、奈良大仏の鐘銘に准ずるべき旨を云っていたのだが、相違え、また秀頼より、
彼が出京するために、供奉の者たちを諸大夫に任じたいと云ってきたため、諸大夫に任官させたのだが、
その秀頼の出京は中止に成ったという。頗る不審である。」

五日、今日、大仏の鐘銘と棟札の内容を、大阪より片桐市正が大御所に捧げ、御前において、金地院崇伝が
これを読み、中井大和守が差し上げた。その内容はそれまでに報告されていた書付の内容と相違無く、
件の鐘銘の善悪について、五山衆に評価させ、それを書き記して提出するようにと仰せに成った。
この御使いとして、板倉内膳正が京都に赴くようにと仰せに成られた。

駿府記

方広寺鐘銘事件について。実は棟札の問題とセットだったんですね。



347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/22(火) 23:52:42.97 ID:XZPd+AJg
丸島氏が言っていたと思うけど
豊臣家が何個もやらかしててそのうちの1個が鐘銘ってだけなのよね、しかも鐘銘に関しては確認とって西国じゃそういうのもあるんだろうぐらいで落ち着いてるようで
出兵の決定打は取次の片桐の追放とのことみたいね

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/23(水) 00:03:18.16 ID:aMwBT9L+
追放じゃなくて退転じゃないの
関東にとっては同じことだろうけど

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/23(水) 00:54:08.28 ID:FN2WPn7a
>>348
片桐且元・織田信雄が暗殺されかねない危険な状況だったのだし、
同時期に多数の重臣が退去しているのだから、より酷いわな。

徳川が腹黒いとか言われる方広寺鐘銘事件とか福島・加藤など豊臣恩顧の大名の改易とかは、
調べれば調べるほど、こりゃ当然そうなるわな…という感じ。

もちろん、大久保長安事件とか宇都宮城釣天井事件とか、
徳川内部での騒動だとアレだけど。

曲直瀬道三の治療記録

2020年08月24日 18:03

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/23(日) 22:46:24.30 ID:xUNySztR
医学天正記』より
戦国最高の医師、曲直瀬道三の治療記録を抜粋。順番は「史籍集覧」そのまま

天正11年
片桐且元(40余歳)、酒を飲み過ぎて吐き、風邪の症状。右の手が張って脈はやや速かった
徳川秀忠(30歳)、風邪の症状で頭痛、声はかれて咳と痰が出る
豊臣秀吉、大坂において風邪の症状、涙が流れて声はかれて乾き、喉に痛み
慶長7年
浅野幸長(30余歳)、寒気を覚え、その後に左の腹に痛みを覚える。下痢
織田有楽斎の女中の老母(70余歳)、寒気があって汗が多く出る。脈は少し速い
天正(16日)
誠仁親王、撹乱し、前日の飲酒が過ぎていた。早朝に吐いて悶絶した。半井通仙軒が脈を診た。
半井はひきつけと診て、心臓と肝臓が弱っていると伝えた。諸臣は納得せず下がった。
また、盛方院浄勝は熱射病と診断し、葯(よろいぐさ?)を献じた。一日一夜献じたが、吐いて苦しむことは変わりなかった。
私(曲直瀬)が診たところ、熱射病だけではなく、肧と腎を悪くしていて、その上に飲酒が過ぎたので撹乱した。酒の毒を消す葯でなければ効果はないと診察したところ、諸臣は納得した。
葯を処方すると、翌日症状は治まった。私は法眼の号をたまわって再三辞退したのだが、堅く宣案をいただいたので頂戴した。
天正15年春
毛利輝元(35歳)、秀吉の命令で島津討伐に出陣し、豊前小倉にいたとき、下痢と下血が止まらず、心臓の下が堅くなっていた(?)。
左足のすねは腫れ、骨は痛んで歩けず、私は秀吉の命令で小倉に赴き、これを治療すること十数日。
輝元の足の痛みはほぼなくなり、馬に乗って豊後をへて日向に入り、私はこれに従ってさらに治療した。
島津征伐の後に軍を引き、輝元は安芸吉田に帰り、秋には回復。そのため私は京に帰った。
大野治長(30余歳)、長年の下痢が再発、大便のあとに血が出た
慶長5年
小早川秀秋(18、9歳)、酒を飲んで嘔吐。胸が苦しくまったく食事をせず。尿は赤く舌は黒く乾き、脈は細い
勧修寺晴豊(50余歳)、酒食が過ぎ、小腹が痛く吐き気がする、大便はできず不通、脈は少し速い。薬を飲んだ後、二時間後に吐いて大便が出て腹痛が止まった。
文禄2年
豊臣秀次、長らく上顎を痛めている。熱があり、顔は赤くむくんでいる
豊臣秀次、気が滅入る感じがあって、熱海に湯治。はじめの6、7日はかなり食事も進んで気力が改善した。
ところが入浴が過ぎたために気が逆に上って胸を塞ぎ、痰とぜんそくが現れて寝ることもできなくなった。
その後に私を召して脈を診るに、血管は緊張しており、脈はうつろだった。足は冷えて膝にいたり、心臓の上に気があって、その下は虚弱。
ぜんそくの声は四方に聞こえ、薬を与えると少し止まり、もう一薬で回復した
慶長3年10月2日
淀殿(30余歳)、気鬱して食事が進まずめまいを覚える
11月1日
淀殿、気鬱で胃が痛み、食べることができずに頭痛がしていた
近衛前久、気鬱、恐れおののき、酒が過ぎる。胸が熱くてもだえる。脈は少し速い

医学天正記坤』
太田牛一(80歳)、風邪の症状で発熱、汗が多く喉が渇いて水を飲みたがる。人事不省に。脈拍は多く力なし
山名禅高、常に酒を過ぎる。たんが胸に滞る
「松平陸奥守殿」(伊達政宗)、常日頃から酒が過ぎ、咳と声がれが長く続く
加藤清正、酒が過ぎ、「黄水」を吐く
黒田長政、酒が過ぎ、胸が熱く、しばしば痛む
豊臣秀頼、ぜんそくを煩い、吸引のときにうずく。食事は進まず腹は硬く腫れる
片桐且元、背中にこぶができ、頭痛がして食は少なく、味は苦く感じる
佐竹義宣、左の脇の下が赤く腫れる、痛くもかゆくもない

このほか正親町天皇や蜂屋頼隆、蒲生氏郷(まとめ過去記事にあり)ら、そうそうたるメンツや庶民も出てきます



462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/23(日) 23:17:50.98 ID:My3xLEfl
病人多すぎ

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/24(月) 00:14:31.02 ID:LeK7E6P0
酒毒怖すぎる

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/24(月) 08:34:57.75 ID:KAicSMY6
豊臣家は呼吸器が弱いのかな?

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/24(月) 13:47:36.86 ID:3DJQ4Clv
つっこむのも野暮かもしれんが
片桐・秀忠・秀吉の症例は天正11年の話じゃないぞ
医学天正記』は「症例別」に道三本人が後年に編集したものなので、他の年号も同様の可能性が高い

「賞功不踰時」というのはこれなり

2019年03月05日 18:08

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/05(火) 17:59:17.91 ID:kXHf7c1b
(柴田勝家討伐後)

今回の柳瀬表で秀吉が切り崩した時の一番槍はことごとく近習の輩である。

その面々は、福島市松正則・脇坂甚内安治・加藤孫六嘉明・加藤虎助清正・平野権平長泰・片桐
助作直盛(且元)・糟屋助右衛門尉(武則)・桜井左吉(家一。原注:秀長近習也)である。

石河兵助一光(石川一光)は一番に駆け入り、冑の内を突かれて討死した。これにより、舎弟の
長松一宗を召し出して家督となしたものである。

その9人はよき席を設け盃を下して領知を遣わし、添えて黄金羅帛と感状あり。その文言に曰く、

 今回の三七殿御謀叛により濃州大垣に陣替えした時、柴田修理亮は柳瀬表に至り出で立った。
 そのため一戦に及ぶべく秀吉が一騎で馳せ向かうところに、心掛け浅からぬ故、早々と駆け
 つけて、眼前で一番槍を合わせた。比類なき働きなので褒美(原注:あるいは3千石。ある
 いは5千石)となして宛がう。ますます今後も軍旅の忠勤を抜きん出れば、勲功を計るもの
 である。よって件の如し。

  天正11年(1583)7月1日 秀吉判

軍書に曰く「賞功不踰時」というのはこれなり。

――『天正記(柴田退治記)』



その儀ならば別心か。

2019年01月18日 09:50

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/18(金) 00:10:47.32 ID:ePlVzHXh
慶長19年、豊臣秀頼は諸国の牢人衆を抱え、分胴をくずして竹を割り、そこへ鋳流して竹流しと名付け、
牢人たちに与え、十万余りを扶持していると徳川家康にも聞こえた。
そこで家康は「そういう事なら秀頼の御袋(淀殿)を江戸へ下すように。」と仰せ遣わしたが、
「思いもよらず。」との返事であった。そこで「そうであれば他に国を遣わすので、大阪を空けて
新しい領地へ国入りをするように。」と仰せに成ったが、これについても「思いもよらず。」と返答し、
さらに家康のもとには、大阪においていよいよ諸牢人を抱え、大阪城の普請を行い、鉄炮を磨き
矢の根を磨いているとの情報が入った。

「その儀ならば別心か。」家康はそう言った。

この時秀頼の守役である片桐市之正(且元)は秀頼に異見した。「もはや議論をしている時分ではありません。
とにかくどのような事でも、家康公の御意次第にお従いに成り、御袋様を江戸に送られるべきです。」
そう申し上げたが、大野修理、同主馬之助、同道犬、真田左馬助、明石掃部、その他の牢人どもが寄り合って
申した「とにかく御袋様を江戸に送るというのは要らざる事です。市之正は家康に加担し、あのように
申しているのです。市之正を成敗すべきです。」

これに危険を感じた片桐且元は吹田へ引き退き、これによって秀頼の謀反疑いなしとして、東は出羽、奥州、
関東八ヶ国、東海道、五畿内、西は中国、四国、九国、北は加賀、越前、能登、越中、越後と、日本に残り無く
大阪へと押し寄せた。

(三河物語)

三河物語だと大阪の陣の原因は最初から豊臣家の牢人召し抱え問題なのね。



660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/18(金) 11:46:54.74 ID:xxlwVxsQ
>>658
逐電したと思われていた真田信勝は大坂に潜伏していたのか!

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/18(金) 16:23:39.52 ID:HuSd4Mb9
>>658
>分胴をくずして竹を割り、そこへ鋳流して竹流しと名付け、
>牢人たちに与え、
わざわざこんなことしたのはこっそり金与えたって意味?銅銭代わりなのかな。

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/18(金) 20:45:30.78 ID:/cjd5+Sd
>>664
ここに出てくる分銅ってのは巨大な金塊の事だよ

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/18(金) 22:38:06.98 ID:HuSd4Mb9
>>665
もっとすごかった!ありがとう~。

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/19(土) 19:05:44.45 ID:ffQJv5Ep
>>664
竹流金でググれ

たのしみに 命にかへて何かあらん

2019年01月13日 17:41

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/12(土) 14:14:41.48 ID:51sqmfoq
大橋龍慶は河内の誉田の者で、片桐且元に仕え、右筆を務めていた。
豊臣秀頼が暴発しないようにと且元が考えている間に、大阪の陣が起こった。
その後大橋は、且元の息子である片桐出雲守(孝利)を頼って江戸へ下り、また故郷に帰るとして
三島まで上ったところで、且元弟の片桐主膳正(貞隆)に会い、主膳正が連れて江戸に戻り、
大炊殿(土井利勝)に近づき、そこから幕府に召し出され、高田に屋敷を与えられ知行五百石を
拝領し、法印に任じられた。

彼は徳川家光が心安く召仕い、踊り歌などを作ること上手で、家光がこの大橋の屋敷へ渡御された
事もあった。家光の日光還御の時、岩槻に一宿された日、先に帰ったため御意を違えたという。

彼が家光より拝領した茶入は、谷出羽守(衛友)の遺物で、有明というものであった。家光は
これを下した時、その名を「命」と変えた。これについて小堀遠州に歌を詠むよう仰せ付けた。
遠州はこのように詠んだ

 たのしみに 命にかへて何かあらん
       なからへて見し有明の月

(武功雑記)



632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/12(土) 17:33:08.06 ID:Nr1GgLBJ
有明が谷家から幕府へ渡った経緯は悪い話

大野修理襲撃事件のこと

2018年06月30日 21:12

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/29(金) 22:51:44.49 ID:d3bXhUj1
大阪冬の陣の講和の後、大野修理が御城より帰り、内御門の脇にて小便をして居た。
ここに30ばかりの、撫で付けにした小紋の袷を着て、一尺三寸ばかりの脇差を持った男が、
大野の60人ばかりの供の者に紛れていた。

その時は夜の五つ時分(午後八時頃)であっただろうか、男は大野に飛びかかった。
脇差が大野の身に刺さったまま、男は駆け逃げた。
闇夜であったので大野の供の者たちは方々を探したが男は見つからなかった。
しかし大野の小姓が、焼き崩された片桐且元の屋敷跡の、石垣の際にて男に追いつき、肩先から
一太刀で討ち留めた。
この小姓は後で豊臣秀頼より、過分のご褒美を下されたという。

そして、かの討ち取られた男についてだが、大阪城より、金子五十枚を賞金としてかの男の
身元を知る者は訴えるよう属託したところ、翌日には二人のものが訴え出て金子を受け取った。
すると本町に住む牢人が、家に火をかけ自害するということが置きた。

後に下々の者は、この事件は片桐且元が起こした事だと申していた。

(長澤聞書)

大野治長襲撃事件のお話。一般には治長の弟の大野治房などによる襲撃と言われますが、大阪では
片桐且元の仕業」という噂が流れていたのですね。



897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/29(金) 23:29:33.60 ID:UkJDX4f0
へうげものに出た大野兄襲撃エピソードって元ネタがあったんだな

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 11:53:43.89 ID:FfwUYCBs
死人に口なしってのが、暗殺事件の基本だわな。

我が孫に似合いたる申し付け様なり

2018年05月25日 20:08

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 14:41:32.99 ID:xEuNUbXd
我が孫に似合いたる申し付け様なり


尼崎城は池田家の縁者で幼少の建部三十郎(政長)が城主だったため
慶長19年5月21日、家康は池田利隆の家臣池田重利を摂津尼崎代官とした。

10月27日、家康は池田利隆を呼んで
「尼崎は西国往来の要路で兵糧運送の喉である。これを大坂に取らせては
 ならないので、早く播州に帰り多くの士卒を尼崎城に入れて守るように」
と指示したので、利隆は家臣の田宮対馬(長勝)*らを送っていた。

ところが大坂の陣が始まると、尼崎城では進軍用の小舟を借りにきた
片桐且元を疑い取り合わなかったので、城の周りの片桐の兵が大野修理亮に
多数討ち取られて、茨木城に帰っていく事態となった。

大いに怒った片桐は使者を板倉伊賀守に送り、板倉が関東に伝えると
大君(家康)も大いにお怒りになり
「武蔵守(利隆)の者共が尼崎にありながら
 どうして片桐の兵を見殺しにしたのか糺明せよ」
と板倉に仰せ付けた。

板倉が西宮に陣取っていた利隆公のところに来てそのことを申したので
利隆公も大いに驚いて
「私はそのことを知りませんでした。尼崎の者共に訳を聞きます」
と言って尼崎に使者をやり穿鑿させた。

尼崎の者共が"そもそも片桐を助けたくても無勢なので助けられなかった"と
返答しようとしたので、田宮が進み出て
「その返答はよくない。ここは要路なので多勢をもって固めるようにとの
 直接の上意だったのに、城中が無勢だったとは申すべきではないだろう。
 それがしが申し分を考えよう」
と言ったので、使者には田宮が考えた以下の申し分を返答した。

片桐の兵が討たれているとき、尼崎城中では助けようとしたが田宮対馬と
申す者が出てきて"お助け無用"と止めてきた。田宮に理由を聞くと
「城をよく固めよとの上意で武蔵守殿が我々を配置したのだし、尼崎は
 海陸に道があるので一方より誘き出され、搦手の納戸のような所から
 攻め落とされたらひとたまりもない。天下の大事に比べれば片桐の者共を
 助けないことは落ち度ではない。この西国咽頭の要害を敵に取られる方が
 主君の弓矢の落ち度になり、天下の大事になってしまうのだ。」

「迂闊に城を出て、敵に足元を掬われたらどうする。ここの難波口木津表で
 中入りによって原田備中(塙直政)は討死し、それで信長公は災難に遭われた。
 勝入公が長久手で敗軍したのも、中入りの手立てが不調に終わったからだ。
 一人も助けに出てはいけない。大体片桐の兵のようではあるが、万が一つ
 我々を誘き寄せる為の大坂の偽兵かもしれないのだぞ」
と田宮が申したので、城兵で相談して片桐勢をわざと見殺しにしました。

使者からこの返答を聞いた利隆公は、この趣を一書にしたためて板倉方に渡した。
大君がこの一書を御覧になって
「輝政は日頃矢に念を入れていたから、下の者もその風を忘れずにいたのだな。
 今度の仕方は、我が孫に似合いたる申し付け様なり。
 尼崎城外で何があろうと出合いはせずよく城を守るように」
と仰せになり事が済んだという。


――『池田氏家譜集成』

* 池田利隆の家臣。のちに家康の命により徳川頼宣の家臣として800石で仕える。
 居合を主とした剣術「田宮流」の2代目とされる。



951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 18:29:45.98 ID:4ko1/ESr
抜刀田宮か
修羅の刻で見たような記憶が

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 20:21:58.17 ID:Lm1qhWqo
充分に兵力を入れていなかったのを、いい抜けた話か。

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 23:54:44.12 ID:cMVWVWaf
片桐の兵共々鉄砲で追い払えば良かったのに

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/26(土) 18:48:06.81 ID:HOWgnCDb
そんなことできるのは伊達さんだけ

方広寺鐘銘事件について

2016年09月03日 10:48

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/03(土) 10:00:07.73 ID:K223baAA
方広寺鐘銘事件について、難波戦記、片桐伝記、北川覚書などに記される所によると、
これが幕府から豊臣家を咎めた第一の理由であり、大坂の陣はこの事を理由に起こったように
記せられている。これは甚だしい妄説である。

幕府が片桐且元を召して告げた七ヶ条の御難題と、鐘銘事件は関係がない。
もちろんその七ヶ条の末の一ヶ条に、鐘銘に関東呪詛の文有りとの文言があるが、この事について
強く諌めてはいない。

いまここに、この鐘銘について記しているのは、世の人々皆が、この鐘銘より兵乱が起こったという説を
疑わず、童すらそう知っているためである。

この鐘銘の草案は前年の冬、片桐且元より本多佐渡守に遣わされ、「何か問題が有ればすぐに伝えてほしい」と
言いおかれている。しかしあえて供養の日に至って、板倉勝重より「関東調伏の文有りし故、供養は
延期するように」とその停止を求めた。これは本多正信板倉勝重らの謀臣がこのように謀ったのでは
ないだろうか?
その奥意は深く計り難い。

(慶元記)



56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/03(土) 19:52:23.95 ID:wB+53SAg
今でも通説だよね

片桐の忠言はこの時に顕れた

2016年05月26日 15:34

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/25(水) 22:58:06.80 ID:4/B3iYED
大阪冬の陣の講和に向けた動きが始まる中、大阪城の首脳である織田有楽、大野治長
豊臣秀頼の御前にて、このように講和の受け入れを勧めた。

「両将軍家より、御和睦の事を再三仰せ遣わっています。その上意疎意あるまじと、
神文を進ぜられるとの事です。

この度の合戦においては、日本国中の軍勢が雲霞のごとく集まり昼夜攻め戦いましたが、
我々にはさほどまでの負けもなく、これによって君のご威光は天下に秀で、人々はその武威を
皆恐れるほどです。然れば、また重ねて時節到来の時期が来れば、味方に属するものも多いでしょう。
また大御所も既に七十余歳。御余名も久しくはないでしょう。彼が薨去すれば必ず変があります。
その時は天下の大名2つに分かれ、合戦が起こり我らの存在が大きくなること疑いありません。」

秀頼はこれを聞くと
「お前たちが申すこと、一々道理が有る。だがその内容は結局、この戦が始まる前に片桐且元
私を諌めたものと同じではないか?

であるのに、その諌めを排除して今度の難儀に及び、ようやく今になって片桐の諫言に従うとは、
運の極まりである。
しかし運を天に任せ敵を討ち果たそうと思っても、今は皆和睦を好む。ここに至っては恥を忍んで
降を乞い、士卒の生命を継ぐ事を以って、軍勢の恩賞とするしかない。
早く和睦を調えよ。

片桐の忠言はこの時に顕れた。私は後世から嘲笑をうけ、その恥辱を雪ぐことも出来ない。」

そう、目に涙を浮かべて言った。有楽も治長も顔を赤らめたものの、秀頼が和睦を許諾したことに
喜悦して退出した。

(新東鑑)




651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 00:09:41.77 ID:36WfMBtD
その恥辱を雪ぐことも出来ないって断定しちゃダメでしょう。
家康の寿命尽きたら合戦になるって話てるんだから勝てばいいんだし、
そして結果がわかってる後世に書かれたってわかっちゃうという二重の意味で

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 09:29:40.29 ID:kWfovEN6


653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 09:56:11.27 ID:o5U5k782
最初に且元の進言を退けたのに結局はそれに従うことになったからだろ
後に合戦に勝てばよいとかそういうことではない

道に叛くより義を守って滅亡するに敷かず

2016年04月26日 19:28

564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/26(火) 05:12:43.08 ID:g3d8honN
摂津国野里村の三右衛門は、農民ではあるが勇を好み勢い強き故にて、一度兵を起こせば
隣邑尽くこれに属した。

片桐且元が大阪を脱出し茨木城に入る時、大阪より摂州堺の政所を攻めると聞いて、
騎歩ニ百ばかりを遣わして政所を救おうとしたが、三右衛門は近隣の郷民を集め、
この且元の軍の大半を討ち捕った。これに且元は歯噛みをして怒ったが力及ばず、
後に大御所(徳川家康)が天下を定めた時に、且元はなお鬱憤解けず、これを訴え
それによって三右衛門を召しこの事を責めた。

三右衛門は且元をキッと睨むと
「貴殿は故太閤の重恩を担い、権を取り威をも逞しくされたのだから、死を以って忠を
尽くされるべきなのに、危難にあたって君を忘れ身を顧みた。これは武臣の本意に非ず!

我らその時は貴殿が敵であるのか味方であるのか、その心中すら計りかね、そのため
貴殿の士卒を討ち捕ったのであり、あながちに罪とするべきではありません。
道に叛くより義を守って滅亡するに敷かず。いま貴殿は、自らを恥じないどころか、
却って人を讒言するとは言語道断である!」

そう、憚ること無く申すと、且元も閉口した。

大御所は三右衛門の言葉を聞くと
「弁才勇義があり、只者ではない。統治において道があれば、彼は良き締りにもなるであろう。」
そういって三右衛門を宥免したという。

(慶元記)



565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/26(火) 09:55:02.01 ID:Pv/ahYrZ
つ胃薬

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/26(火) 19:20:45.39 ID:Zj1szefR
武士が近隣の郷民に負けることも恥な気がするけど

武夫の名を汚すまじ

2016年04月16日 17:41

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/16(土) 17:32:27.72 ID:eKrsW2py
豊臣秀頼家臣の石川伊豆守貞政は、片桐且元の討ち手の役を仰せ付けられていたが、且元と一味して
襲撃に先立って知らせたため、大阪において且元を討ち漏らす事となった。
そのため大阪では

「ならば石川貞政も誅するべし!」

との風聞が頻りであった。貞政は之を聞くと、元来武勇の聞こえある武士であったので、
ある日の暮れ頃に出仕し、大野治長、渡辺糺らを討ち果たさんばかりの勢いで殿中に上がり、
座中を睨み付けて言った

「この貞政、逆意有るに依って誅せられると承り、参上いたした!
誰でも、その命を承った者は貞政の頸を刎ねて上覧に備えるが良い!」

そう大音声を発し、仁王立に立った。
しかしそのような命令は出ておらず、誰も彼に立ち向かって勝負しようという者は居なかった。

貞政は暫く待ったが、大野、渡辺も姿を見せぬので、宿所へ帰り若党一人に薙刀を持たせて
玉造口から泉州堺まで移動した。家来たちは取るものもとりあえず、武具馬具のみを整えて
あとから追いついた。
そこから河内路を経て片桐且元の茨木城に向かい、且元に会ってこう言った

「大野、渡辺らが寄り来たらば、私も貴方とともに籠城してこれを防ぎたい。」

しかし且元は、この提案に肯かなかった

「傍輩と相語らって籠城すればこれは反逆である。私は謗臣たちが寄せくれば、恨みの矢一つを
射てから切腹し、武夫の名を汚すまじと思っている。であれば、あなたが当城に在るのは、
義において外れた所である。
幸いなことに織田常真が京都に居るので、これより直に上京するといい。」

貞政もこれに信服し、それより茨木を出て京都に上り、板倉伊賀守と対面して大阪の有様を語ると、
板倉は

「大阪には、既に御反逆の用意がある中、あなた方はこれを知って京都に逃れられたこと、
両将軍も定めてご満足でしょう。」

そういって屋敷を与え、日々の賄いも申し付けた。こうして織田常真、石川貞政の両名を京に留まらせることが
出来たのは、板倉伊賀守の智謀の深さゆえであった。

(慶元記)



且元の書状

2016年04月15日 18:43

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/15(金) 17:59:53.48 ID:Qv6X6gsX
大阪冬の陣の直前、片桐且元がその大阪屋敷から退去した時、その屋敷の床の中央に一通の書状が
置かれていたという。それは織田有楽斎宛のものであった。中を見てみると、こう書かれていた

『且元、計らざる災いにかかり、城中を追い出されてしまいました。
私は関東に対して、力を尽くして豊臣家を守ろうとした、その寸忠は全て仇となってしまいましたが、
私は、秀頼公の御身の上が今後もつつがなく渡らせられることを望むばかりです。

今、且元が大阪を退いたことが関東に聞こえれば、定めて御不審を持たれるでしょう。或いは乱の
基とも成るかもしれません。

この上は、外に策もありません。ただ御台所(千姫)を早々に本丸へと引き取ることが肝要です。
夢々ご油断あるべからず。』
しかし、大野治長らは早々にこの策を用いず、終にその意図を外してしまったのである。

御台のことは、難波戦記やその他の書にも、大阪落城の時に坂崎出羽守が盗みとって岡山の御陣へ
お供した、とあるが、その説は否定されるべきものである。

(慶元記)



是れ、大阪が社稷を失うの第一と成れり

2016年04月13日 15:16

519 名前:1/2[sage] 投稿日:2016/04/13(水) 11:54:58.69 ID:9iw9dGpA
片桐且元が駿府にて幕府との交渉にあたっていた時、大阪においては、「今回は秀頼公の御使者(且元)
ばかりにて淀様からの御使者が無い」と、前々より関東に下った経験があり物馴れた女中三人を下し、
ご機嫌伺いとして江戸駿府の様子を見てくるようにと、大蔵卿局(大野治長母)、二位局淀殿女中頭)、
正栄尼(渡辺糺母)の3人を八月二十三日に出発させた。八月晦日に駿府に到着すると、この三女は
早速片桐且元と対面し、そこから下向の理由を家康側室・阿茶局へと連絡すると、明日登城すべき旨
申し来たため、三女は喜んで用意した。

九月朔日、八つ時(午後2時頃)三女は徳川家康の御前に召し出された。家康は三女の口上を直に聞き、
「秀頼公夫婦、並びに母儀にも恙無く大慶に思う。」と答えた。
三女は謹んで申し上げた
「今度、鐘銘において韓長老が不調法を行ったため御機嫌宜しからず、供養などまで延期を仰せられた事は、
御母子も殊更困惑されています。」
これに対し、家康
「それは世上の聞こえを憚って一段と申し付けたまでの事であり、苦しからず思っておる。」
こう言う家康は機嫌も常と変わらなかったため、三女は大いに喜んで宿舎に帰り、早速飛脚を以って
大阪へ注進。翌日、江戸へと出発した。

そして江戸への御礼を終え、十一日に再び駿府へと戻り阿茶局と対面して江戸の様子を報告した。
阿茶局は御前より下されたという御菓子を贈りながら言った
「今後はあなた方とも、しばしばこの様にお付き合いできますね。ほんとうに嬉しい。」
「…は?どうしてそのように仰るのですか?」

阿茶局は意外そうに
「ご存知ありませんか?しかじかの事により、淀様が関東に下向なさること、片桐且元が大方お請けして、
品川表にて御屋敷の地までも願いの通りに許可されましたから、おっつけ御下向あるでしょう。
その折にはあなた方もお供として同行されるでしょうから、このように申したのです。

さらに且元は本多正信の縁者に仰せ付けられましたし、尚以ってめでたい事です。」

三女は聞くごとに耳驚き、挨拶もそこそこに暇乞いをして、十二日の早朝、駿府を立ち退いて道を急ぎ
遠州浜松の付近で且元に追いついた。三女は先ず万事を知らぬふりをして申した

「かねて案じていたのと違い、大御所の御機嫌も甚だ宜しく、互いに安堵いたしました。」
且元
「そうではない。関東には様々な思惑があって、今回且元には御難題を仰せ出され、私は甚だ迷惑している。」
三女が強いてその訳を尋ねると、且元は三ヶ条の趣き(豊臣家の大阪からの転封、もしくは秀頼の江戸への参勤、
又は淀殿の江戸への下向)を以ってこれを語った。三女は問うた

「この内何れを関東の意に任せるのでしょうか?」

520 名前:2/2[sage] 投稿日:2016/04/13(水) 11:56:09.09 ID:9iw9dGpA
且元は胸中に深慮有りといえども、天下の大事であるからここで軽々しく女に語るべきではないと考え、
あえて「これ皆天下の御大切である。であるが御所替にもまた御参勤にも及ばぬよう、淀様が御下向の儀さえ
御得心あれば、事済むものである。各々帰られれば、この段たって申し上げて欲しい。」と申した。

三女は心に思った。『且元は駿府で既にこの事をお請けし、その上本多正信の縁者になったので、万事関東の意に
叶うよう取り計らうのも当然だ。』そう察すると、先ず「尤もの事です」と同意したふりをして、
そこからいよいよ且元の所存を聞き出そうと同道して上った。近江国土山に宿した夜、且元は三女に申した
「私は去る八月大仏供の延期についての交渉で関東に下り、久しく駿河に逗留していたため、今度の駿府の模様を
板倉伊賀守殿に報告すべきことがある。次の機会にしようとすればまた延びのびになってしまうので、ここから
直に京都に立ち寄り用事を済ませて大阪に下る。あなた方は先に大阪に上られよ。」

こうして三女は土山から直に大阪に登り、九月十九日到着。そして関東のあらまし、また且元の方針を
散々に讒言した。
日頃から関係の悪かった且元の事であるから、三女は言葉を揃へ、中でも正栄尼が申したのは、
「仄かに聞いたことによると、淀様を大御所の御台にもなされるとか。将軍の御台所と御連枝の淀様が
左様な儀は人倫の道にあるまじきこと!これも且元が申し勧めているそうです。その証拠に、淀様が
関東へ下ることが決定すれば品川にて御屋敷地を下さると固く約束なされたとのことです。これは
阿茶局が申していました。その上且元は、君にも伺うこと無く本多佐渡守と縁者に成りました。
これは上を蔑ろにする行為です!」

このように言葉巧みに申し上げると、淀殿も甚だ怒り「私は賤しくも織田信長の姪、浅井備前守長政の娘であり
秀吉にまみえたことさえ常々口惜しく思っていたのに、今関東に人質として下される事思いもよらぬ!
その上家康の妻と成るなど、無念の至りである。秀頼、もし私を関東に下すというのなた、生きて恥を
抱えるより、ここで剣に伏せるにしかず!」そう涙を流して訴えた

秀頼も「母を売って何の面目があるだろうか。それは考えもできないことだ。片桐が登城すれば
その実否を正そう」と発言した。

大野治長、渡辺糺といった奸臣たちは、普段から且元を強く憎んでいたため、折を得たと様々に
讒言を構えた。

是れ、大阪が社稷を失うの第一と成れり。

(慶元記)


片桐且元の「十一ヶ条」

2016年04月12日 16:37

516 名前:1[sage] 投稿日:2016/04/11(月) 23:05:09.37 ID:IoCtMYLU
いわゆる方広寺鐘銘事件への対応で駿府の家康のもとに交渉に赴いた片桐且元は、家康よりの豊臣家への
糾弾に対し、本多正純へ次のように反論した

「今度御前において七ヶ条の仰せを蒙り、甚だ困惑しております。このこと、帰国を許されれば
秀頼公に委細申し上げたく思いますが、ここであなたにお尋ねしたいことが有ります。
問題がなければ、貴殿より大御所様にお聞かせして頂きたい。

一、慶長五年の関ヶ原合戦のあと、大阪の蔵入りを百万石と定められ、秀頼公を外様大名にように
  扱われていることは、御母子が常に憤られていることです。これが一つ。
一、七手組を警備に用いているのはひとえに大阪警護のためであって、専ら秀頼公を敬っているように
  見えますが、その実は却ってそうではなく、関東に対して別心のある者が出た時、それを速やかに
  防ぐためなのです。なので幕府の懸念は我々には理解できません。これが二つ。
一、我々兄弟は執事として大阪に在りますが、諸人はまったく心服しておらず、その職を全うできる
  状況ではありません。先に大仏殿再興に関する奉行をしていた時も、ただ空しく長い月日を
  浪費していただけでした。これらは家臣である私の身ではどうにも出来ることではなく、ただ
  困惑しながら日を送っている有様です。
  今の立場は私に対し、関東のご指図によって俄に仰せ付けられた物ですから、そのせいでも有るでしょう。
  一体私に何の過怠があって、大阪に付けられたのでしょうか!?今はただ、御役御免して頂くことを
  ひとえに願い奉るところです。これが三つ。
一、二代将軍(秀忠)の将軍宣下、ならびに氏の長者の御綸紙が関東に下りましたが、この際大阪には
  一応のお届けもありませんでした。大御所の将軍宣下の際は、秀頼公も未だ弱冠にも至っていません
  でしたから話もわかりますが、秀忠公においては大阪へのお届けの儀も有るべき筈なのに、絶って
  その御沙汰はありませんでした。
  そもそも古今の武将たるもので、この征夷大将軍の職を重要視するのは、一人秀頼公に限ったものでは
  ありません。誠に、枯骨が蘇生した喜びも、この職に勝るものではないでしょう。だからこそ秀頼公は
  これを常に羨み、母君はまた憤っていますが、これもあながち理のないことではありません。
  先日、御前において左近中将様(松平忠吉)が亡くなられた時、そのお悔やみに日にちを得て後に
  平侍を以って御追悼を申し上げたのは失礼であると、ごもっともな仰せが有りました。然るに、
  将軍の宣下があったのに大阪に在る大小名に、皆駿府、江戸への参勤をすべしというお届けが無かったのは、
  何れに用捨があるのでしょうか?これ四つ。
一、太閤殿下が薨去のみぎり、五大老三老五奉行、そのほか列侯牧伯には各々盟約を捧げ、秀頼公15歳に
  成られたら天下の政を知らしむべしとのこと、これ天地にあるもの皆知らぬということありません。
  ですが殊更に虚談を構えて、秀吉公が
  『秀頼公15歳とならば天下の政道を任すべし。但し、もしその器に非ずんば譲ってはならない。
  天下は一人の天下にあらざるなり。』
  そう遺言されたと云々されています。
  はっきり言いますが、秀吉公は堯舜のような君主ではありません!どうして我が子を捨てて他人にこれを
  与えるでしょうか!?このことは最も大切な儀であります。これ五つ。
一、朝鮮人、オランダ人らが来訪の時も、直に皇都へ至りそこから江戸駿府に下って礼をなしました。
  異域からは長らく来朝の事ありませんでしたが、太閤の武威を以って朝鮮人を日本に来訪させることを
  得ました。であるのに先年の来訪の時も大阪へは入りませんでした。また毎年オランダ人が来ていますが、
  大阪に来ることはありません。これらの事、秀頼公の恥辱は日本ばかりか外国までの恥辱です。これも
  母子が常に鬱屈しているところです。これ六つ。
一、この事は砂を噛むような瑣末な事であり、もとより言うに足らぬものですが、四座の猿楽から絵所に至るまで
  皆駿府に呼び寄せられ、大阪には一人も置かれません。これらも御無礼と成るのではありませんか?

517 名前:2[sage] 投稿日:2016/04/11(月) 23:05:36.34 ID:IoCtMYLU
一、先日御前において、秀頼公に対し、福島正則、加藤清正、黒田長政、浅野長晟、加藤嘉明といった
  諸大名が別して御入魂である事は、秀忠公に対して無礼であるとの仰せが有りました。ですが、彼らは
  あなたも御存知の通りみな太閤お取り立ての大名であり、今は数少ない大家です。であれば、禽獣は
  いざしらず、いやしくも人倫たる者は誰が秀吉公の御恩を忘れる者が在るでしょうか?故に
  秀頼公には四季時々の御礼、又は国の産物を差し上げるのです。関東でもし、譜代の輩が突然
  ご奉公を怠ればそれをお許しないでしょう?大阪であってもそれは同じです。太閤の御恩を厚く
  蒙った人々の内、秀頼公に粗略になった者達には、秀頼公も処罰を仰せ付けたいと思っているのですが、
  現在の状況はただ穏便にしようという他なく、時勢を守っているのです。
  この件に関してこの且元の心底には、少しも弁じ難い所はありません。これ八つ。
一、兵具を調え武芸を習っているという指摘は御尤もですが、鎧の毛を抜き、鞍の損じを繕い、
  武具馬を整えて常に武芸を学ぶことは治に乱を忘れざるの所であり、古来良将が常に兵を鍛錬するのも、
  一旦事ある日に即座に備えられるようにしている為です。ただし、徳川の御家には、弓を袋にし
  太刀を鞘に納め、飽煖の安きに居て金革を布くの苦しみ、矢石を侵す危うき等を知らざるを以って
  善とされるのでしょうか?
  軍の勝敗は瞬間の間にあって、治世の政とは異なるものです。だからこそ武芸のことは常に鍛錬しなければ
  ならないのです、であるのに、独り大阪城中の士ばかりは女童の勤めのみを成せばよいのでしょうか?
  これ九つ
一、将軍御父子には、秀頼公に対し御粗略にすることはないと仰せに成りましたが、近年御上洛あっても
  大阪へは御下向の御沙汰これなく、殊に秀頼公と御台所(千姫)との御仲不和の事を、昼夜思召して
  忘れずと仰せに成ったことは、これは御孫姫君の事ですから勿論のことですが、大阪よりは毎年、
  念頭の御礼として七手組の内一人と、淀殿の御使として局一人、姫君の御使として女中一人は必ず
  関東へ下っています。これは御縁者たるの礼儀を重んじているためです。一方、関東からは旗本の士
  一人を登らされますが、女房の御使はかねて沙汰すら聞いたことがありません。姫君がいらっしゃるの
  ですから、これは在るまじきことです。
  また去々年の秋、大阪の河口が、舟入が悪いため川床を浚っていたところ、江戸よりお咎めあれば
  工事半ばにして中止しました。その時、泰平には要害はいらぬという仰せでした。ならば、現在の
  江戸城の御普請は一体何の為なのでしょうか?これ十。
一、江戸城普請の人足には天下に千石夫を仰せ付けられ、また遠近につき五百人夫を仰せ付けられました。
  ところが大阪はそこから除外されました。しかしこれは大阪を敬しているようで、その奥に深い
  意味があります。武威を示す為に諸侯に仰せ付けられるだけでは、太閤の時代に大阪、伏見城を
  築かれたのと変わりません。
  また大阪城では仮に少しの破損があっても、そのままにして差し置いています。これは関東に対しての
  御遠慮なのです。これ十一。」

以上の十一ヶ条の外は末代への規範にも成らず、また豊家の瑕瑾にもならざる事ですから差し控え、
今この条々は現在天下の人の知るところです。しかしこれを直に申し上げるのは甚だ恐れある事ですから、
あなたからお伝え下さい。但しこれは、先に仰せに成られた七ヶ条への、豊臣家としての返答ではありません。
ただ全く、この愚臣が考えたことです。」

518 名前:3[sage] 投稿日:2016/04/11(月) 23:05:56.35 ID:IoCtMYLU
この発言にさすがの本多正純も且元の識量にとりひしがれたのか、否の問答もなく、暫くして言った
「結局、この議論に関しては太閤の御遺言についてだけが大切であり、その他は枝葉のことです。
しかしその実情を知る人は一人加賀利家でしたが、彼も亡くなってしまった以上、どうにも出来ません。
ただし、天下の政道は人力でどうなるものではありません。必ず天道の能くするところなのです。
天下万民の父母と成り、万機を心に任せる将軍の宣う所は、もとより常人の行いが及ぶべくもありません。
神明とても知るや知らずや、ただ天道の自然と存ずる所です。

その器に非ざるにして天下の政道を取ろうとすれば、どうして終始を全うできるでしょうか?
秀頼公を始め、その他の諸臣もここに気づいて頂ければ、却って幸甚です。
昔秀吉公の、岐阜中納言(織田秀信)へのなされ方をみれば、秀吉公はよくその事を知る人物であったと
存ぜられますが、こういった事は総じて容易のことではなく、私の判断の及ぶべきものではありません。
今、貴殿の申された十一ヶ条は詳細に大御所に言上いたします。そうすれば必ず、近いうちに
召しだされるでしょう。その時は御前において、貴方からさらに詳しく申し上げるべきです。」

こう伝えて正純は帰っていった。
(慶元記)

大坂の陣の前、徳川との交渉での、片桐且元による反論についての記事である。



片桐且元が時々に異見していたため

2016年04月06日 11:21

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/05(火) 23:06:15.09 ID:OD6R1q59
関ヶ原により家康の天下となると、自然諸国の大名はみな駿府へと参勤した。慶長10年の春、徳川家康
上洛、大納言徳川秀忠は3月27日に、前田利長、結城秀康を供として上洛した。
この時、徳川家康が伏見城の舟入の楼に上って秀忠の京着の行裝をご覧になるということだったので、
御供の面々は綺羅を輝かせ美麗を尽くし、見物の貴賎は巷に満ちて、目を驚かすばかりであった。

4月26日、徳川秀忠は参内し、叡感あって正二位内大臣征夷大将軍淳和奨学両院別当源氏長者に宣下された。
この時、結城秀康にも正三位権中納言に任じられ、源家の繁栄は日比に越えた。
これより徳川家康は、大御所と称し、秀忠は新将軍と称し天下の大小名は何れも妻子を引き連れ、
江戸と駿府とに相詰めた。

このような中、豊臣家の衰退は日に顕れ、豊臣秀頼の権威も日に衰え、哀れなる有様であった。
殊に徳川家康は、関ヶ原以後は上洛しても大阪に下向すること無く、ただ使番などを以ってその旨を
伝えるだけであった。

大阪には摂津河内両国意外に蔵入地も無くなったため、諸国人は勿論、あるいは絵所、或いは四座の
猿楽に至るまでおおよそ技芸のある者達は、みな大阪を去って関東に罷り下った。
なかんずく、慶長12年、朝鮮国の信使が来朝した時も、直ぐに関東に下向して、大阪には登城すること
なかった。

豊臣秀頼、淀殿を始めとして豊氏恩顧の輩は、何れも憤慨を差し挟むこと少なくなかったが、独り
豊臣家執権の片桐且元が時々に異見していたため、これによって表面化するに至っていなかったのである。

(慶元記)

豊臣家の不満を片桐且元が抑えていたという、慶元記の記事である



493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/05(火) 23:14:19.67 ID:QEURfml4
秀忠は源氏長者にはなって無いんじゃなかったっけ?

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/06(水) 11:18:32.94 ID:dN10VpVF
源家って河内源氏の嫡流(頼朝の家系)に使う言葉じゃねえの?