57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/10(金) 21:02:20.19 ID:ch6c9HIJ
大阪夏冬の陣の事について、片桐市正(且元)家に伝わる話によると、
豊臣秀頼に対し、片桐且元・貞隆兄弟より常に御異見申し上げた
「太閤様末期に及んだ時、家康公に対し御遺言なされた。その時は既に末期に及んでいたので、
直接に仰せ置かれた。その内容は、
秀頼公は幼少であるので、家康公を親と頼み思し召され、随分御介抱遊ばされ、秀頼公成長の上、
15から20歳までの内に、天下をも知り召されるご器量であれば、天下を返されるように。
今日より天下の裁量は家康公にお渡しなされる、ということであった。
この他には誰にも、別の御遺言は無いということを、誓紙に血判され家康公に直にお渡しになった。
家康公からも、その座にて牛王を請ぜられ、御遺言相違うこと無く相守るべしとの、御誓詞血判遊ばされ、
太閤に進上された。その誓詞は太閤様の棺に入れるよう仰せ付けられ、その上にて、異国までも隠れなき
御馬印である金の瓢箪を家康公に譲られ、『秀頼が天下を返し遣わされた時に、この馬印もお渡し
あるように』と、また約束された。
その後縁組までも遊ばされ、御親様と頼み思し召した上は、末々までも慎まれるべきである所を、
関ヶ原の一戦のこと、石田治部少輔の謀反とは申しながら、この方より太閤様の御遺言を破られたように
家康公は思われる事態でしたから、家康公が必ずこの事に腹を立てていることを、秀頼公にも
覚悟していただかなければならないと考え。これについて不断の御異見を申し上げたものの、
特にお袋様(淀殿)が、家康公と私が一味してそのように申しているのだと横ざまにお考えに成り、
このため万事相違し、一乱(大阪の陣)が起こってしまったのだ。
先年の関ヶ原の折に既に、且元・貞隆兄弟を討ち果たすという企みが在ったが、我々は用心したため
無事であった。その頃、大阪から飛脚を以って、両人より家康公に言上仕ったのは、『関ヶ原で
御勝利した上は、早々に大阪に御馬を入れられますように。我々両人は太閤の御遺言を相守り
罷りありまる』という内容で、これに家康公は、前々より相違ない心底に満足しているとの事で、
直に大阪にお越しなされた。
尼崎又右衛門の邸宅は古くからの家康公の宿舎であったので、一旦そこに着座され、
且元・貞隆兄弟がお迎えに上がった。その時家康公の御意に、『この家は町中であるので
不都合も有る。主膳正(貞隆)は太閤より命ぜられ、私との内密の取次をも任されていた。
兄弟とはいえ主膳とはよしみが有るので、狭くても構わない。』と仰せられ、貞隆の邸宅へと
お移りになった。この時は、杉浦内蔵充もお供したが、彼についてもよく覚えておられたので、
様々に物語などされた。
翌日、秀頼公にご対面なされ、直に西の丸に入られた。この時我々が申し上げた。
『太閤様に成り代わられ御親様という事でありますから、御朱印を出されるべきです。』
そこで秀頼公の細工人である忠景という者に申し付け、貞隆宅にて御朱印を掘らせ、所々に
これを押した文書を配らせた。
家康公が江戸に帰る時、大阪城中の門々の管理を我ら両人に硬く仰せ付けられ、茨木城に関しても
貞隆に留守居をするよう言い渡され、出発の前日夜には、且元・貞隆両人に、密かにご意見なされた
事には
『これ以後、謀反の輩が大阪城内に有るときには、お主たち兄弟は必ず無実を主張し、切腹など
申し付けられた場合は、いかようにもして高野山に行くと言い、その上で茨木城に兄弟とも参るように。
この事、必ず違えないように』と言い渡された。」
今度の大阪の陣においても、最初は高野山に行くと言って大阪を立つその朝に、不意に茨木城に
行くことを言い出した。これは片桐兄弟ともども、常々覚悟していたため、ためらいなく茨木に
罷り越したということである。
(明良洪範)
大阪夏冬の陣の事について、片桐市正(且元)家に伝わる話によると、
豊臣秀頼に対し、片桐且元・貞隆兄弟より常に御異見申し上げた
「太閤様末期に及んだ時、家康公に対し御遺言なされた。その時は既に末期に及んでいたので、
直接に仰せ置かれた。その内容は、
秀頼公は幼少であるので、家康公を親と頼み思し召され、随分御介抱遊ばされ、秀頼公成長の上、
15から20歳までの内に、天下をも知り召されるご器量であれば、天下を返されるように。
今日より天下の裁量は家康公にお渡しなされる、ということであった。
この他には誰にも、別の御遺言は無いということを、誓紙に血判され家康公に直にお渡しになった。
家康公からも、その座にて牛王を請ぜられ、御遺言相違うこと無く相守るべしとの、御誓詞血判遊ばされ、
太閤に進上された。その誓詞は太閤様の棺に入れるよう仰せ付けられ、その上にて、異国までも隠れなき
御馬印である金の瓢箪を家康公に譲られ、『秀頼が天下を返し遣わされた時に、この馬印もお渡し
あるように』と、また約束された。
その後縁組までも遊ばされ、御親様と頼み思し召した上は、末々までも慎まれるべきである所を、
関ヶ原の一戦のこと、石田治部少輔の謀反とは申しながら、この方より太閤様の御遺言を破られたように
家康公は思われる事態でしたから、家康公が必ずこの事に腹を立てていることを、秀頼公にも
覚悟していただかなければならないと考え。これについて不断の御異見を申し上げたものの、
特にお袋様(淀殿)が、家康公と私が一味してそのように申しているのだと横ざまにお考えに成り、
このため万事相違し、一乱(大阪の陣)が起こってしまったのだ。
先年の関ヶ原の折に既に、且元・貞隆兄弟を討ち果たすという企みが在ったが、我々は用心したため
無事であった。その頃、大阪から飛脚を以って、両人より家康公に言上仕ったのは、『関ヶ原で
御勝利した上は、早々に大阪に御馬を入れられますように。我々両人は太閤の御遺言を相守り
罷りありまる』という内容で、これに家康公は、前々より相違ない心底に満足しているとの事で、
直に大阪にお越しなされた。
尼崎又右衛門の邸宅は古くからの家康公の宿舎であったので、一旦そこに着座され、
且元・貞隆兄弟がお迎えに上がった。その時家康公の御意に、『この家は町中であるので
不都合も有る。主膳正(貞隆)は太閤より命ぜられ、私との内密の取次をも任されていた。
兄弟とはいえ主膳とはよしみが有るので、狭くても構わない。』と仰せられ、貞隆の邸宅へと
お移りになった。この時は、杉浦内蔵充もお供したが、彼についてもよく覚えておられたので、
様々に物語などされた。
翌日、秀頼公にご対面なされ、直に西の丸に入られた。この時我々が申し上げた。
『太閤様に成り代わられ御親様という事でありますから、御朱印を出されるべきです。』
そこで秀頼公の細工人である忠景という者に申し付け、貞隆宅にて御朱印を掘らせ、所々に
これを押した文書を配らせた。
家康公が江戸に帰る時、大阪城中の門々の管理を我ら両人に硬く仰せ付けられ、茨木城に関しても
貞隆に留守居をするよう言い渡され、出発の前日夜には、且元・貞隆両人に、密かにご意見なされた
事には
『これ以後、謀反の輩が大阪城内に有るときには、お主たち兄弟は必ず無実を主張し、切腹など
申し付けられた場合は、いかようにもして高野山に行くと言い、その上で茨木城に兄弟とも参るように。
この事、必ず違えないように』と言い渡された。」
今度の大阪の陣においても、最初は高野山に行くと言って大阪を立つその朝に、不意に茨木城に
行くことを言い出した。これは片桐兄弟ともども、常々覚悟していたため、ためらいなく茨木に
罷り越したということである。
(明良洪範)
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