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秀忠関ヶ原途上の上田攻めの時の話

2022年05月23日 17:21

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/22(日) 20:19:15.64 ID:U8GqlHSQ
朝野雑載」から秀忠関ヶ原途上の上田攻めの時の話

慶長五年九月八日、秀忠公は本田佐渡守(正信)を召して、昨日兵が真田方に煽られて戦をした一部始終を聞かせ給うたところ
佐渡守「大久保忠隣牧野康成の配下の者どもが下知なく兵を進めたのは処罰するべきです。
軍法を破るものは不忠であり、不忠の者はその罪を逃れません。
大久保・牧野の物頭に腹を切らせるべきです」
と諌めたところ、秀忠公も同意されたため、大久保・牧野にその旨を言い渡した。
両人は仕方なく家人に腹を切らせようとしたところ、牧野康成の息子、新次郎(牧野忠成)は
「手柄を立てた家来に腹を切らせては、誰が身命を捨てて働くでしょうか」
と独断ということにして、小姓掃部を召し連れて陣中を立ち退いてしまった。
これにより康成も逼塞していたが、秀忠公若君誕生により新次郎は御赦免され、康成も元のように出仕した。
新次郎が立ち退いたと聞いた大久保忠隣の息子の新十郎(大久保忠常)も、旗奉行の杉浦惣左衛門久勝を召し連れて出奔しようとしたが、
惣左衛門は承諾せず「御志は身に余りますが、我が命を救うために御主君が浪人するというのは本意ではありません。命は義よりも軽いのです」
と言ってたちまち自害してしまった。
杉浦の嫡男や次男の命は助けられ、長男・平太夫久成はのちに大久保忠常に仕え、
次男・十兵衛久真は、惣左衛門の志をお聞き届けになった秀忠公に召し出されたということだ。



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鳥居家に似合わぬ軍法かな

2017年01月17日 17:47

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 01:47:21.03 ID:iEWAFcbK
福島大夫(正則)を御改易の時、防備のために鳥居左京亮(忠政)は
御城の近辺に人数を出し置いたのだが、

馬を御堀の方に立て置きなさっていたのを、牧野駿河守殿(忠成)は
見なさって曰く、

「鳥居家に似合わぬ軍法かな。敵が攻め掛かって来たならば、馬は
たちまちのうちに掘へ追い込まれることであろう」

――『武功雑記』