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栃木のエラスムス木像

2021年02月27日 17:25

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/27(土) 10:08:10.28 ID:ncXOF1lg
栃木のエラスムス木像

栃木県佐野市の龍江院に所蔵されているエラスムス像は、現在東京国立博物館に寄託され
国の重要文化財に指定されているが、像主が比定されるまで紆余曲折があった。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f3/Wood_figure_of_Desiderius_Erasmus.JPG
Wood_figure_of_Desiderius_Erasmus.jpg

この像は当初貨狄像(中国の伝説上の船の発明者)とされていたが、大正9年(1920年)に栃木の郷土史家
丸山瓦全によって"キリスト教の宣教師の木像"として紹介されると、大正13年にはバチカンで催された
世界宗教博覧会に在日本キリスト教聖人像として写真が出品され、西洋の学者が知るところとなった。

像の右手が持つ巻物には「ER□□MVS R□□TE□□□M 1598」と刻まれており、これがオランダの
偉人エラスムスであり、ロッテルダムで1598年に就航したリーフデ号の船尾の飾りであることが分かった。
リーフデ号は幕府旗本のウィリアム・アダムス(三浦按針)が日本に漂着した際に乗っていた船である。

龍江院は幕府旗本の牧野氏の菩提寺であり、この像も牧野氏ゆかりの品と共に納められていたため
長旅でボロボロになったリーフデ号が遂に解体された際、旗本として立ち会った
牧野成里(あるいは子の成純)が木像を持ち帰ったのではないかと推測されている。

ちなみに地元ではこれは"小豆とぎババー"で夜中にお堂の中で小豆を研いでいるが、子供が親の云うことを
聞かないときはこれがやってきて子供を驚かせるという話や、この像がムジナに化けて村人を騙すだとか
「チャンピロリン」「チャンピロリン」と歌い出すなど様々な伝承があり、有名な木像であったらしい。

またエラスムス像と判明した際、これがオランダ最古の木彫になることが分かり返還要請があったが
丁重に断ったという。1998年にはオランダへの里帰り展示が実現した。

参照
Wikipedia「貨狄尊者』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A8%E7%8B%84%E5%B0%8A%E8%80%85



949 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/02/27(土) 10:47:01.05 ID:0Mq45N13
>>948
どこをどう見て小豆とぎババーになったんだろう?笑
ブロッコリーみたいな頭とか?
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牧野成里、池田輝政の仲介により帰参

2017年06月07日 18:54

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/07(水) 02:05:06.33 ID:MvKnZtxw
牧野成里池田輝政の仲介により帰参


牧野伝蔵成里は十六歳で父の仇を討って当家(徳川家)を立ち退き
久留米侍従(長谷川)秀一や関白秀次に仕えた。
関白の事があってからは、石田三成に仕え関ヶ原の戦でも石田方にいたが
大敗したので兵十余人ばかりを引き連れ、大敵の中を切り抜けて
池田輝政の所に来たので、輝政は播州に(伝蔵を)伴って帰った。
そのまま輝政の所に身を寄せ、剃髪し一楽斎と名乗った。

(伝蔵が)播州で輝政に(徳川家への)帰参の事を乞うたが、年月を経ても
その沙汰がなかったので、ある時播州から伏見に参り輝政に向かって
「させもが露も年ふりし」*
などとほのめかせば、輝政は
「まだそのような折ではない。成里は先に帰国するように
 我もまた見はからうとしよう」
と言って慰めた。
その後(家康の)御夜話に侍する者に、(輝政は)この後折を見て
成里の事を言い出してくれと頼んだ。

ある夜(家康が)三遠にいらっしゃったときの話だが、いつもより機嫌よく
伺候している者の膝近くまで御座を進められ、近づかれて来られたので
牧野伝蔵と板倉四郎左衛門が縁故のあることに話が及んだときに
「伝蔵は今も永らえているようですよ」
と一人が申し上げた。
君(家康)はどうとも思っていないような様子だったので、みな固唾を呑んだ。

4 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/08(木) 09:44:40.99 ID:49cEHkDI
この時輝政も御次の間の襖際に蹲って仰せを聞いていて
「(この上は加増された備前に代えても伝蔵の事を執り成さねば……)」
と思っていたが、(家康が)江戸の者を呼べと仰せられ
(近臣が)鵜殿兵庫重長がおりますと申したところ
「兵庫を江戸に遣わして
 『ここで勇士を一人掘り出したので差し上げる』と申せ」
と仰せられたので、輝政が喜びを堪えることが出来ず
御次の間から走り出て、上意に対してありがたいと感謝すると(家康は)
「成里は大剛の者なので永らえていて喜ばしく思ったのだ」
と仰せられたので、輝政は
「近日召し連れてまみえさせます」
と申せば
「我が会うまでもない。江戸に遣わし将軍家にまみえさせよ
 幸い明日は酒井忠世が井伊直政を連れて江戸に参るのでそれと同道させよ」
と仰せがあった。

輝政が御前を出ていこうとしたところ、近藤石見守秀用の一族の某が
輝政の袖を引き
「秀用の事もこの機会にお許しを願って下さい」
と言った。輝政は
「牧野の事だってかろうじてお許しをもらったのだぞ。秀用の進退など
 どうして気にされることがあるだろうか。我が力の及ぶ所ではない」
と拒めば
「あの方が今日ほど御機嫌のよいことはまたとないことでしょう
 ぜひともお執り成しになって下さい」
と言ったので、輝政が再び御前に出て申し上げると
すぐに恩免をもらえたので、輝政は言うまでもなく
秀用の喜びも尋常ではなかった。

かくして成里は江戸に参り、還俗して旧名に戻り三千石の新地を賜った。
のちに叙勲して伊予守と称したという。


――『東照宮御実紀』『武徳編年集成』

*百人一首に選ばれている藤原基俊の和歌
「契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり」の隠喩。
基俊が息子の官職を人に頼んだが得られなかったときに詠んだもの。