730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/24(土) 21:51:56.60 ID:Ckif7DNX
近頃のことであろうか、摂津下郡の内に1人の大名(瓦林正頼)がいた。
当国の太守・細川右京大夫高国にとっては外戚なので、無縁ではないとはいえ代々忠節
を尽くした家臣である。およそこの頃は当国に限らず諸国は乱れて攻め合ったので、
かの戦国の七雄の昔と変わらず、ただ朝夕寄せつ寄せられつ攻め戦う、闘諍堅固の時節
となったのは哀しきことである。
(中略)
その後(船岡山合戦後)、色々の調停などもあって播磨と京は和睦になったとはいえど、
心の底では油断無き状態であり、その他に四国も大概は(高国方の)御敵となった。
摂津にしかるべき城が無くては叶わないと、国守(細川高国)は上郡芥川の北に当たる
場所に相応しい大山があったので、ここに城郭(芥川山城)を構えなさった。昼夜朝暮、
5百人から3百人の人夫が普請を続け、少しも止む時がなかった。
正頼もまた鷹尾城を構え、またその東に1里隔てて西宮より8町北に小清水という小山
があったものを家城に拵えて(越水城)、日夜ただこの営みばかりを行った。
毎日50人から百人で堀を掘って壁を塗り、土塁や櫓を設けたので鍛冶・番匠・壁塗・
大鋸引はまったく暇こそ無かった。これに加えて正頼は透間に連歌を興行し、月次連歌
も行われた。夜々には古文を学んで道を尋ねたので、実に文武二道を嗜む人であった。
ことに連歌は長所で、近頃の宗祇法師が撰んだ『新選菟玖波集』の作者にも入った。
かの鷹尾城には与力の鈴木与次郎を城掛として、その他しかるべき士卒がこの城を守り、
小清水の戴く本城には軒を並べ作って広げ、正頼の普段の居所とした。
外城には子息の六郎四郎春綱を初めとして、同名・与力・被官が棟を並べて居住した。
その他の住居に余る家人たちは大概が西宮に居住した。
およそ目を驚かせるその風情は、当国には並び少なき大名であった。
――『瓦林正頼記』
両細川の乱で一貫して高国に属し、勇戦を繰り返して栄華を誇った瓦林正頼だったが、
1520年、高国に謀反を疑われて自害させられたという。
近頃のことであろうか、摂津下郡の内に1人の大名(瓦林正頼)がいた。
当国の太守・細川右京大夫高国にとっては外戚なので、無縁ではないとはいえ代々忠節
を尽くした家臣である。およそこの頃は当国に限らず諸国は乱れて攻め合ったので、
かの戦国の七雄の昔と変わらず、ただ朝夕寄せつ寄せられつ攻め戦う、闘諍堅固の時節
となったのは哀しきことである。
(中略)
その後(船岡山合戦後)、色々の調停などもあって播磨と京は和睦になったとはいえど、
心の底では油断無き状態であり、その他に四国も大概は(高国方の)御敵となった。
摂津にしかるべき城が無くては叶わないと、国守(細川高国)は上郡芥川の北に当たる
場所に相応しい大山があったので、ここに城郭(芥川山城)を構えなさった。昼夜朝暮、
5百人から3百人の人夫が普請を続け、少しも止む時がなかった。
正頼もまた鷹尾城を構え、またその東に1里隔てて西宮より8町北に小清水という小山
があったものを家城に拵えて(越水城)、日夜ただこの営みばかりを行った。
毎日50人から百人で堀を掘って壁を塗り、土塁や櫓を設けたので鍛冶・番匠・壁塗・
大鋸引はまったく暇こそ無かった。これに加えて正頼は透間に連歌を興行し、月次連歌
も行われた。夜々には古文を学んで道を尋ねたので、実に文武二道を嗜む人であった。
ことに連歌は長所で、近頃の宗祇法師が撰んだ『新選菟玖波集』の作者にも入った。
かの鷹尾城には与力の鈴木与次郎を城掛として、その他しかるべき士卒がこの城を守り、
小清水の戴く本城には軒を並べ作って広げ、正頼の普段の居所とした。
外城には子息の六郎四郎春綱を初めとして、同名・与力・被官が棟を並べて居住した。
その他の住居に余る家人たちは大概が西宮に居住した。
およそ目を驚かせるその風情は、当国には並び少なき大名であった。
――『瓦林正頼記』
両細川の乱で一貫して高国に属し、勇戦を繰り返して栄華を誇った瓦林正頼だったが、
1520年、高国に謀反を疑われて自害させられたという。
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