田中吉政「そういうこともあるだろうと思って」

2012年12月31日 19:56

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 17:46:22.93 ID:AaHORiM6
岐阜城の戦いの折、田中吉政の家臣・田中采女は村の入口で
敵を突き落とした。吉政はこれを見て「采女は今日の一番首だ。
首を取るのだ」と言葉をかけた。

その次に川淵九郎左衛門が高名をあげた。吉政はこれを見て
「鼻をかくのだ」と言った。戦後、二人の間で一番首をめぐって
争いが起きた。

吉政がこれを聞いて「そういうこともあるだろうと思って、
わしは采女が敵を馬より突き落とした時に今日の一番首なり首を
取れと言ったのだ。その後に九郎左衛門が高名したゆえ、
鼻をかけと申し付けた」と言うと、争いはすぐに収まった。

――『名将言行録』




領主・田中吉政

2012年10月10日 20:12

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 00:25:54.04 ID:ecHO9i5m

田中吉政は岡崎城主であった頃、毎日城を見廻って普請などを命じ、
朝飯は城より弁当を取り寄せて、所構わず道端や堀の端で食事を取っていた。

また、侍屋敷の前では畳を一、二帖借り出して敷物にした。
結構な仕立てを嫌って、いかにも粗末であることを好んでいた。

寺の門前に役に立たない植木があれば「この木を掘り除き、茶を植えて旦那方に
音信を贈るとよい」と住持に意見した。また知行所は自ら残らず見て廻り、

百姓屋敷に堀のあるところは「警備は男に任せて、堀を埋めて田にして稲を作る
がよい。畠のほうが向いているならそれでもよい」と教えていた。

年貢高を決めるための調査には自ら赴き、稲の善し悪しを綿密に調べて賦課率を
決めたので無理もなく、百姓たちは喜んだという。

――『名将言行録』





853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 01:23:24.23 ID:Rb3K20Cz
さすが元農民

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 01:55:58.98 ID:D+VVUjpm
内政は的確だよねえ


855 名前: 忍法帖【Lv=30,xxxPT】(1+0:8) [sage] 投稿日:2012/10/10(水) 02:05:58.48 ID:m1bcJpYc
流石筑後75万石

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 02:32:54.66 ID:+LtVpcB6
これはいい話

光成を捕らえて突き出したのは農民ってか農村文化の悪い面がでたかも・・・

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 02:36:51.63 ID:9QLSOV3Y
>>856
三成をかくまう文化ってどんなんだよw

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 02:42:55.84 ID:+LtVpcB6
>>857
誤字失礼
友人であるならお上に突き出さない文化というか共同体もあれば、
共同体のために人身御供を出す文化もあるじゃん
そりゃ同じ共同体に育っても個人で考え方や性格の違いもあるけどね

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 07:32:45.14 ID:9QLSOV3Y
>>858
反乱の首魁を匿うか否かを文化のせいにすんのは無理だよ。

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 09:35:55.94 ID:GWfFz1Tr
戦場から落ちるところを見逃すとかなら有り得たかもしれんが、
あの状況じゃ仕方ないんじゃないのかな~

861 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/10/10(水) 09:37:50.98 ID:cBiiaKz2
>>852
風流を解せぬお方じゃ…


862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 11:16:12.51 ID:wlTnMlnq
吉政までいくといっそ農民の風流な気もする
きっと祭りになったら人一倍はしゃぐ

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 11:26:40.44 ID:2k798HK/
1、無理だと分かっていても、三成捕縛の手柄と引き換えに三成助命を嘆願してみる
→実質西軍総大将だし絶対に不可能。

2、家康に三成は賊将だけど、自分の恩人なので菩提を弔う為に寺を建てる許可を貰う。
→寺は無理かもしれないが、墓建てて弔う事くらいなら許されたかも。

3、家族を家康に内緒で匿う。
→バレると処罰されるので、歴史の闇に埋もれ逸話にならず...



恩人に対して2くらいはしてもいいような気がするけど

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 11:30:39.32 ID:OIfizZjb
>>852
真ん中2つはちょっとどうよと言うか余計なお世話と言うかそんな気がしないでもない

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 20:22:44.59 ID:il8RfwRb
>>852


「百姓屋敷に堀のあるところ」
従兄弟とか叔父さんが徳川の家来という家もあるだろうに・・

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 07:17:30.39 ID:eBpfyK8M
>>863
3は津軽がやってるな。

そもそも三成って本当に吉政の恩人なのだろうか?

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 07:36:13.28 ID:brrbDoes
三成が田中吉政を助けたって、秀次事件の時、秀次の宿老だった吉政に「命助けてやるから俺の言うとおりにしろ」と
言ったって奴でしょ?三成の秀次事件への関与自体諸説あるので、単純に事実といっていいものやら。

「侍でなければ人ではないのだ」

2012年09月29日 20:29

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/29(土) 17:28:55.88 ID:yc+atVTf

田中吉政は初め久兵衛という名で、近江の民衆の一人だった。
ある日、畑の畔で久兵衛が休んでいたところ、ある侍が若党五、六人を
引き連れ、槍を持たせているのを見かけた。

「侍でなければ人ではないのだ」

侍一行をまじまじと見てそう言った久兵衛は百姓を辞めることにした。
久兵衛は宮部継潤の若党となったが、その頃はわずか三石の身分であった。

はれて武士となった吉政に、伯母方の織った麻布一端が贈られてきた。
そこで紺屋に袴を染めさせると、巴の紋が付いていた。これを縁にして
巴を定紋としたのだという。

吉政の働きぶりは礼儀正しく勤勉で、過悪もなかった。豊臣秀吉が秀次を
養子とし、師傅に相応しい人物を選んだが吉政よりも適任の者がいなかった。
よって吉政を秀次の傅とし、近江八幡山城三万石を与えて兵部大輔に任じた。

――『名将言行録』




681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/30(日) 09:41:19.28 ID:q/AyMoqe
>>677
農民から大名にまで成り上がったミニ秀吉なのにイマイチマイナーなのは、
江戸時代に田中家が断絶してるのと、大恩人の三成を捕まえたり
してるからかね

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/30(日) 10:10:23.54 ID:G8uDJ1+k
でもあの時に三成を見逃すわけにはいかんでしょ・・・

立花宗茂、高橋元種と田中吉政

2012年09月01日 20:58

298 名前:名無しさん@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 00:18:08.74 ID:Rj3NcUa6
延岡藩主・高橋元種は秋月種実の三男にして高橋鑑種(宗仙)が大友家から追われた後に養子になった人物だった。
高橋家の正統論争は元種の養父・鑑種と鑑種追放後に高橋家を継いだ鎮種(紹運)の頃からあった。
その論争は子の世代に当たる元種と戸次統虎・高橋統増兄弟の時代まで続いていたが、九州征伐後
秀吉の裁定で高橋家の正統は元種となった。
代わりに統虎には養父・道雪以来大友家より禁じられていた立花姓の名乗りを許すことでバランスを取った。

時は移り慶長18年(1613年)、元種の延岡藩は大久保長安事件や坂崎左衛門隠匿の罪で改易となる。
元種父子の身柄を預かったのは父祖の代より因縁のある棚倉藩主立花宗茂
宗茂は義理の従兄弟にしてライバルでもあった元種を客将として厚遇している。また幕閣に
元種の赦免を嘆願したり元種にもアドバイスをしたとされる。
しかし元種は東北の気候が堪えたのか改易の翌年に病死してしまい宗茂の奔走は水泡に帰してしまう。

299 名前:名無しさん@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 00:42:20.96 ID:Rj3NcUa6
高橋元種の病死から6年後、宗茂は柳川藩主・田中忠政が病死し田中家が無嗣断絶したことに伴い柳川に復帰する。
宗茂は取り潰された田中旧臣の登用を厳禁し、取り潰された加藤忠広家や柳川時代の旧臣を登用した。
その理由について宗茂は田中忠政の父・吉政が関ヶ原合戦で親友・石田三成を捕えた手柄で
大大名になったことを嫌悪していたからとされる。
かつて豊臣秀次家老時代に三成が吉政の助命に奔走したおかげで切腹させられた前野長康・渡瀬繁詮
・木村常陸介・服部一忠(小平太)たちと違いお咎めなしになっている。
恩人で友人の三成の助命を図った様子は見えなかったがこの頃でもお互いそれなりの友情は抱いており
吉政は薬を嫌う三成に韮粥を勧め与えた。三成は太閤より譲られた名刀・石田貞宗を吉政に贈っている。

さて柳川城下は吉政が都市設計に長けていたこともあり田中氏時代に都市も整備され屋敷も立派になっていた。
家臣たちがこのことについて「おかげで他国の使者に対して恥をかかずに済み申した」と述べると
宗茂曰く「立派な屋敷だと下々のものが寄りつくかなくなるし上と下との差が大きくなる。ボロ屋敷でも
家の名には傷が付かない。田中殿は立派な家屋敷を持ったがその為に財政が逼迫し大坂に参軍出来ず
ついには滅んでしまった」と述べた。
たとえ因縁ある相手であっても一旦見込めば厚遇するし相手がDQNでもうまくつき合う立花宗茂だが
田中吉政は大嫌い。
田中吉政も物に恬淡で大らかで闊達と評されるが宮部長房への仕打ちに見られるように
狡猾な部分が多々あり宗茂はそれを嫌ったのだろう。
ちなみに前田利長も大嫌いだったのは有名。




300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 01:18:22.63 ID:zYpw0eEr
お疲れさまです

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 17:51:42.68 ID:ynPbw/cB
一瞬、三成が宗茂の親友なのかとおもったが
吉政が、吉政の親友の三成を捕らえたってことだったか
吉政は捕らえた三成を丁重に扱ったって話をきいたが

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 18:10:55.66 ID:BbyYCjUx
吉政と三成との話は創作が多い感じだ

石田三成、田中吉政を取り込む

2011年02月18日 00:00

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/16(水) 22:32:32 ID:1l3htzIG
文禄四年(1595)5月25日の夜のこと、伏見の石田三成の宿所に文箱が届けられた。
届けた者は「これは聚楽より届けたものです。浅野弾正(長政)殿へも急いで書状を届けねばならないので、
後から戻ってきてご返事を賜ります」と、すぐに帰ってしまった。
番所の者たちが持ってきた書状を三成が見ると、文箱の上には『石田治部殿まいる』と書かれているだけで、
差出人の名前はどこにもない。不思議に思って中を見ると、そこには幼い者のような筆跡でこうあった

『近々太閤(秀吉)様が聚楽へ御成になるということで、様々な準備が行われています。
中でも北山にて行われる鹿狩りの為ということで、諸国より弓鉄砲の優れたものを選りすぐり、
数万にも及ぶほど召し上げられておりますが、これは全く狩りのためのものではなく、関白(秀次)様の
御謀反の為のものであるように見受けられます。
この事は対面して申し上げたいのですが、返り忠の者と言われるのも口惜しく、またこれを申し上げなければ
重恩を被った主君に弓を引く事になります。其の様な事から我が名を隠しました。』

怪文書である。
三成は驚き急いで秀吉の御前に参りこの事を申し上げた。これを聞いた秀吉は
「関白がわしに一体何の遺恨があるというのか?それは関白に疎まれた者が、その腹いせに行ったことではないか?」
と、本気で受け取ろうとはしなかった。だが三成これに

「いや、私にも色々と存じあわせていることがあります。先ずは関白様の家老である田中兵部(吉政)を召し寄せ、
彼を騙して様子を見てみたいと思います。」
秀吉は「くれぐれも隠密に」と、これを許した。

さてこの頃、田中吉政は摂津国河内の堤普請の奉行をしていたが、三成の緊急の呼び出しにより、
夜通しで三成の宿所へと駆けつけた。三成は奥座敷の方に招き入れ、彼ら二人のほか誰もおかず差し向かいになり、
そこで話し始めた

「田中殿?御辺は生死の境にたっておられる。この三成こそが、お命を助けることが出来る。」

これに吉政は大いに驚き
「これはいかに!?夢にも思わぬことをおっしゃる!一体何事が起こったのか話していただきたい!」

「さればだ田中殿、御辺が三成ほどの親友を持たなかったら今度の大事を、どうやっても逃れることが
出来ないところであったぞ?拙者がそなたの首を継いでさし上げようというのだ。」

この不遜な言葉に吉政は怒った
「何を申すか石田殿!?今日本の侍の中に、この田中のことを御前において悪し様に言うような者が居るとは
思えない!たとえ讒言されたとしても、お上(秀吉)が用いることはないと信じている!
石田殿!そなたは最近出頭いたし、御前近くまれ参られているとは言え、人に向かって首を継いでやる、命を
助けてやる、などと言い出す謂れがあるか!?よろしい、只今すぐに御前にまいろう!
御辺も無用なことをして私を助けるくらいなら、罪があるというのなら我が首をここで討て!」

こう言って膝を治し刀の柄に手をかけ、思いつめた気配で三成を睨む。
ここで三成、小声で


850 名前:続き[sage] 投稿日:2011/02/16(水) 22:33:17 ID:1l3htzIG
「静まりたまえ田中殿。事の仔細を申さずに、その様にお気に触られたのはもっともなことである。
しかしここはお心を静めて聞いていただきたい。

関白様が御謀反を計画されていることが明らかとなった。

太閤殿下は『中村(一氏)は病気で出仕しておらず、これを知らないということもありうるだろう。だが田中兵部が
知らないということは絶対にありえない!頼むまじきは人の心だ!急ぎ召しだし腹を切らせよ!』と仰せられた。

だが私はその時『お言葉ではありますが、関白様はこれほど不覚なることを思い立つような心理状態で、
中村や田中にそれを打ち明けておりましょうか?私がかねがね伺っていることに、その両人は関白様に
度々ご異見申し上げるため、出仕しても関白様がご機嫌を悪くされ、御前から遠ざけられているとの事です。』
と、そなたに変わって申し上げると、『それはそうかも知れないが、さりとてこれ程の事を準備しているのなら、
何につけても不審なことが現れるべきなのに、それも言わないとはいかなることか!?』『その儀でございますが、
田中兵部は内々に私に申してくるようにしているのですが、今までは関白様にそのような野心があろうとは
全く存じなかったために見逃していたのです。知った上は今まで以上に、関白様の御振舞で聊かでも怪しいことは
すべて報告させましょう』

…と、このように申し上げたのだ」

吉政これを聞いて
「こ、これは考えもつかないことであった。一大事というからには私がなにか讒言を受けたものとばかり…。
そういう事ならば私は関白様から外様者のように扱われているので、そんな大事を知らせられるわけもないのだが、
太閤殿下が私を憎く思われるのも無理は無い。しかし全く存ぜぬ旨は、御前に出ても申し抜く。

…この上は石田殿の言うとおり、関白様の周辺を伺い見ることといたそう。」

ここに、田中吉政は三成、そして秀吉のスパイとなった。そして確かなことは何も確認できなかったが、
とにかく秀次の身の回りのことで少しでも怪しいと感じたものを、毎日三成へと知らせた。
そして三成もまた、この書状を持って秀吉に

「御謀反もはや、疑い無く候。田中兵部は昨日はこう申してまいりました。今日はこのように申してきました。」

と、これもまた毎日のように言上。遂に秀吉は決断する。

「ならば、急ぎ踏み潰すべし」

秀次事件直前、石田三成田中吉政を取り込んだ事について残る逸話である。





851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/17(木) 00:28:38 ID:hHPHEzeY
たいした友情だ

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/17(木) 02:05:10 ID:MvGqCKcy
友情ってか脅して秀次失脚工作に引き込んだだけだろ

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/17(木) 04:50:09 ID:tWgHZ559
よくある三成陰謀論ですな
後世の創作なんだろうけど、出展元がいつ頃の文書か気になります

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/17(木) 13:04:08 ID:h3FShjiC
家康「計画通り(ニヤリ」

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/17(木) 18:13:44 ID:bgIVk3f2
>>853
>>849-850の投稿者だが出典は「聚楽物語」なので、全部作り話ってわけじゃないと思う。

三成の発見者の、その後

2011年02月05日 00:00

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/04(金) 02:25:05 ID:J/np1n0Y
関ヶ原の決戦の後、逃亡した石田三成を発見したのは、田中吉政家中、
田中傳左衛門であった。

さて、「三成捕らわる」の報に、徳川家康は村越茂助を派遣する。村越は田中吉政

「三成を生け捕ったのは何者であるのか?内府様は御目見え致したいとおっしゃっておられる」

と伝えた。ところが吉政これに

「いえいえ、名もない者であり、その様なお心遣いは無用であります」

と断った。

ところがこの傳左衛門、名もないどころではない。
彼はかつて秀吉に仕えその後関白秀次の元で千石の足軽大将まで務めた、
堂々たる武士であった。

ところが秀次による千石堀普請の時、その工事内容がよくないと秀次の御意に触り、
牢人することとなった。

そこを田中吉政が引き取り家来のように使ったのだが、同時に傳左衛門は
豊臣家直参への復帰を強く望んでおり、折を見て秀吉などに許しを求め運動していた。
そのため家臣のように扱われているとは言え、吉政から領地を頂くようなことをせず、
合力米をその働きの対価として受け取っていた。

そのようであったため、田中吉政はこの時、もし傳左衛門を御目見えさせれば
直参に戻り自分の家中から出ていってしまうと思い、そうさせないために村越にそんな事を
言ったのだ、という。

後になってことことを知った傳左衛門は田中家を立退き、近江においてその生涯を終えた。
享年、62歳と伝わる。


三成の発見者の、その後に付いての話である。




628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/04(金) 03:22:31 ID:KnEpZaAX
>>624
この人はせこい逸話ばかりだな