「竹村を討たんならば忽ち民部殿を打落とさん」

2017年07月09日 10:46

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/08(土) 23:27:44.34 ID:PtOrjCfS
 関ヶ原の時、三河岡崎の田中兵部大輔吉政の子民部少輔長胤(吉次)は、
父大坂に同心したりといふを聞きて、宇都の小山を忍び出で、居城岡崎に帰りけるを国清公(池田輝政)聞し召し、
竹村半兵衛を召され、「我吉田に帰るまで民部を牛窪に押へとどめ置け」と仰せらる。
竹村、「これは安き事には候はねども、いかさま計ひて見候はん」とて道に出迎へ、
鉄砲の者を百姓の家に隠し置き、具に支度を言ひ含め、其の身は山のせばみに出で出で待つ所に、長胤来られり。
竹村、「池田三左衛門ひそかに申せと申すことの候てこれに出で候」といへば、
長胤馬廻りの人を遠ざけられしかば、竹村静かに歩み寄り、
「別の子細も候はず、押留め申せと三左衛門下知したるよ」といひもあへず、
左の手に長胤をひしとらへ、一尺ばかりの脇差を抽いて長胤に押し当てたり。
従者ども、「こは口惜しや」と怒れどもせんかたなし。
竹村言葉をかけ、「近く寄られなばわれは殺さるるとも民部殿をば刺貫き申さん。
唯押留め申すのみにて、別の事は候はず」と呼ばりける処に、
百姓の家に伏せ置きたる鉄砲の者ども駆集り、鉄砲を長胤に差しあてて、
「竹村を討たんならば忽ち民部殿を打落とさん」と声々に呼ばはりけり。
長胤力無く竹村に従ひて百姓の家に入れば、押止めて四方を堅く守りけり、
かくて東照宮聞し召し、「父は既に味方になれる上は許し候へ」と仰せられしかば、
長胤則ち出でられけり。
(常山紀談)


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父・吉政に不義の行いあったので

2017年07月09日 10:45

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/09(日) 07:58:19.55 ID:2VY1cRSN
筑後守(田中吉政)嫡子民部少輔吉次は、岐阜城攻め等の節軍功もあって公儀との関係も良く父子の仲も良かった。
しかしいかなる心が出たかはわからないが、父・吉政に対して不義の行いがあったので
吉政は激怒し、公儀へ願い出て廃嫡をし勘当し追放すれば京都へ退き寂しく住んでおられた。
(田中興廃記)



942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/09(日) 15:56:30.04 ID:OLx2PEl6
「田中興廃記」ってなんか笑ってしまう

長顕、軍に従えないことを憤って

2017年07月07日 17:34

79 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/07/07(金) 06:18:01.37 ID:E7nZay3K
 長顕(田中吉次)、軍に従えないことを憤って、父に訴えたけれども許されず、長顕手勢30騎ばかりを引具し忍び出て、父に先立って馳せ参じた。
(田中)吉政これを聞いて大いに驚き、池田侍従(輝政)に事情を告げた。輝政が吉田城を守らせていた竹村彦右衛門のもとに早馬を立て、長顕を押し止むべき由と下知した。
長顕は吉田の城を避けて本坂城を過ぐるところを竹村は追いかけて吉田の城に伴わせようしたところに輝政より飛脚が到来して、止める必要はないという。
是は徳川殿、長顕の志の程を感じ許すことによって父子共に向かう
(藩翰譜)

関ヶ原時、東海道の大名が自分の城をと人質を家康に差し出すも吉政の人質が江戸からが逃げてきたという逸話

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/07(金) 06:26:22.82 ID:E7nZay3K
いい話に書いちゃったけどまあいいか


渡河第一の名誉を

2013年03月09日 19:52

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/09(土) 01:22:26.71 ID:slsb1I88
慶長5年関ヶ原の役、東軍による岐阜城攻めの折のことである。

東軍の将の一人、田中吉次(田中吉政嫡男)は合渡川を渡ろうとしたが、大雨の降り続いた後であったため、
水量大いに増しており、どの場所が浅く渡るのに都合がいいかが解らず、全軍すこぶる困っていた。

この時、田中吉次軍の中に、中間の三郎右衛門という水練達者の者があり、遙か末座より恐る恐る

「私が瀬踏みをつかまつります!」

というとザンブと川の中に飛び込み、彼方此方と泳ぎまわった。
しかしその姿を見るとどこも同じような深さで、徒歩で渡れそうな場所は無いように見えた。

暫くして三郎右衛門は帰ってきて、大将である吉次に申し上げた

「この辺り一帯は浅瀬でございます!さあ、早くお渡りください!」

吉次はこれを聞くとたちまち不審に思った。彼も三郎右衛門の瀬踏みを見ており、浅い場所があるようには
とても思えなかったためである、彼は眉を寄せて

「先にお前が瀬踏みをしていた様子を見たが、すこぶる深いように思われた。それなのに今、却って浅いと言うのは
一体どういう理由からか!?」

三郎右衛門答えて曰く
「さればです。実を申せば私の瀬踏みした一体は浅瀬でした。
しかしそのような姿を見せてしまっては、他の軍勢もこれに気が付き、我先にと渡ってしまい、今日の戦功が
他の者の手に渡ってしまいかねません。

そう考えたため、わざと深いかのように見せ、諸軍に油断をさせたのです。しかし実際にはあの一帯は浅瀬です!
さあ、早くお渡りください!」

田中吉次は三郎右衛門の言葉に感嘆し、その勧めに従いすぐさま全軍を渡らせ、この方面の軍勢の渡河第一の名誉を
手に入れたのである。

後に田中吉次はこの三郎右衛門を武士に取り立て、その姓を「合渡」とした。
よって彼は合渡三郎右衛門と称したとの事である。

(軍人頓智叢談)




689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/09(土) 08:51:06.27 ID:19OH1Eir
渡河第一の名誉って、やっぱり渡河中は危険だから?

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/09(土) 09:08:58.31 ID:8+NklLJ6
>>689
他の軍勢を出し抜いて先鋒が取れるから

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/09(土) 10:15:57.93 ID:5GTWu+47
雨降ったあとは増水してて流される危険があるし
敵と対峙してる時なら、渡河中は身動きとりづらく敵に狙われる危険がある
そういうリスクを乗り越えて先陣を切るからだろうね

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/09(土) 10:40:49.70 ID:Irl9py6G
源平合戦の宇治川の先陣争いからの伝統