fc2ブログ

耳川の敗戦後の、豊後国内

2019年05月14日 17:27

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/13(月) 19:50:33.25 ID:mxOrsGk9
老王(大友宗麟)は(耳川の戦いの敗北による)混乱の際、前に述べたように急遽出発し、食料も携えず、
所有の品の大半を失ったが、パードレが会堂に備え置いた十字架上のキリスト像を請うため人を遣わし、
これを携帯することを望む旨を伝えた。
またこのように大敗したが少しも恥じる所無く、デウスに対する信頼を失わない旨も伝えた。その後パードレが
王の陣所に到着した時、王は諸人の面前に於いて跪いて手を天に挙げ、現在の艱難に対して我等が主に感謝し、
パードレと語って彼は「キリシタンとして、このような不運に会うも心を変えず、むしろその熱心と
デウスに仕える希望はさらに加わった」と言った。この事を公言したのは、パードレに対する豊後の人たちの
不平と怒りを抑えるためであり、王の信仰がこのように固いことを聞けば、何人もパードレに対して無礼、
または害を加えることが出来ないためである。その後パードレと数回談話した際、「我等が主デウスは
我が意志と、私が日向においてキリシタンの教えを広めようと図っているのを知り給い、隠れたる御裁断に
よりこのような不測のことが起こった。しかしこれに満足し、己の弱き判断を捨てデウスの賢慮に
服従する。」と言い、また他の機会にパードレを慰めて、「デウスが私の軍隊を敗北せしめ給いしは、
この戦争においてデウスの教の最大の敵にして、帰依に反対していた者たちが多く死して、以後の教化に
便ならしむためであろう。」と言った。
若王(大友義統)もこれに劣らぬ勇気を示し、その父がパードレ・フランシスコ・カブラル対して言ったのと
同じことをパードレ・ルイス・フロイスに伝えた。

しかしながら豊後に於いては今回のことは全く神仏の罰であるとされ、我らに対する不平が大いに訴えられた。
よって若王の義兄弟の一人が彼を訪問し、「かくの如き不幸起こり、その部下たちは甚だしく憤慨しているが
故に、今後デウスのことに関係すべきではない。」と勧めたが、若王はこれに答えて
「従来臣下の意向を尊重し、また母(奈多夫人)の機嫌を損じ無いよう努力してきたが、今後は誰にも
譲歩せず、その(キリスト教の)救いのために適する事をする。」と言い、パードレ・フランシスコ・カブラル
臼杵に到着すれば、他人の意向に頓着せず、直ぐに自らキリシタンと成り決してこれを見合わすことはないと
宣言し、また自らキリシタンと成ることを示すため、ロザリオを取り、公にその首に懸けた。その後同一の事を
パードレ・フランシスコ・カブラルに語り、またシナのビジタドールのパードレに通信し、従来よりも遥かに
その信仰心が強くなったことを示した。

国王父子の決心がこのように固いのを見て、我が教の敵は、我等並びにキリシタン等に反対する言を成し、また
行動をすること出来なかった。キリシタンと成って多くの日を経たわけではない国王と、受洗の希望者に過ぎない
世子とが、古きキリシタンにすら信仰への疑惑を懐かしめるこの大いなる不幸に遭遇して、このように堅信を
保持しているのは驚くべきことである。豊後の王は多年非常に幸福であったが、キリシタンと成った直後に
この不幸が起こり、殊にこう言った事態は、かねて坊主たちが威嚇していた事にも関わらず、少しも心を動かさ
なかったのは、我等が主の大いなる御恵である。

その後ほぼ一ヶ月を経て、日向の軍隊の総指揮官であり、死んだと思われ、ゼザベル(奈多夫人)一同も既に
その死を嘆いていた、彼女の兄弟である田原親賢が表れ出た。この残酷なる敵が豊後に戻ってきたと同時に、
キリスト教への迫害は新たに起こり、我等に対する不平の声挙がり、姉妹である悪王妃、およびこの戦において
父子、兄弟、親戚を失った多数の大身及び武士たちは合同して、『今回のことは宣教師たちが豊後に於いて
教化をなし、偶像を破壊したことに原因を発するものである』と成し、我等を殺し、または当国より追放
することに全力を尽くす決心をなした。
戦争において死んだ者は多く、諸人敗戦を嘆いていた故に、我等は町に出れば多くの罵倒の言葉を聞いた。
しかしながら老王は、動かざる柱のように我等を庇護し、若王もまた強く信仰を守ったため、敵はその望む
所を行うこと出来ず、ただ不平を述べるのみであった。

(1579年12月10日(天正7年11月22日)付、パードレ・フランシスコ・カリヤン書簡)

耳川の敗戦後の、豊後国内の動揺の様子。



30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 12:40:43.36 ID:G3wFrSId
大友宗麟ってデビュー当時からピンチの時の判断が素早く的確
成功した戦国大名ってそういうものなんだろうけど

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 14:05:44.57 ID:9vYs8KUt
自分の首を取られたら終わりだからね
今川さんみたいになっちゃう

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 15:04:21.80 ID:x0PW2SgR
動かざる柱のようとか大敗しても恥じないみたいな姿勢はかっこいい
スポンサーサイト



フランシスコ・カリヤン書簡より、耳川の戦い

2019年05月10日 16:42

17 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 09:28:01.42 ID:0VkCxDIG
両王(大友宗麟・義統父子)が日向及び豊後に於いて(キリスト教のために)為したる事は右の通りであるが、
それに対するパードレ等の満悦甚だしく、また大友統治下の諸国に於いて、帰依のために開かれた門戸は広く、
キリシタンたちが満足したことは、尊父も察せられるでしょう。
であるが他方に於いて我が教の敵は悲しみ、邪悪なるゼザベル(奈多夫人)と坊主達の不満甚だしく、
坊主たちは両王が寺院を破壊し彼らを侮辱したことに対し、神仏の罰が諸国に及ぶと脅したのであるが、
キリシタン並びに王達は、神仏がいかに激怒しても何もすること能わないのを笑った。

事情かくの如くであった時、我等の主デウス(御判断は我等には解らざれども、聖にして常に正しく、また
一般の幸福と成るものなり)は、日向の軍隊に油断の生じることを許し給い、これによりキリシタン及び
我等の喜びは嘆きに変じ、キリシタンに対する大迫害が起こり、豊後の王が多年領内に維持していた平和は
忽ち激烈なる戦争に変わり、国内の事情は一変した。
世の事は無常であり、日本の事情が変わりやすいこと、また我らが進まんと欲する道が、我等の主が定め
られたものと大いに相違していたことが、明らかに認められたのである。

日向に在った総司令官である田原親賢の油断と無能により、既に手中に在った勝利と、その指揮する全軍は
失われた(耳川の戦い)。軍隊は同国一帯の鍵であり、多数の兵の籠りたる一城(高城)を囲んだが、
それ以前に攻めた城においては少しも抵抗を受けなかったため、敵を軽蔑し警備を怠っていた。それに反し
敵である薩摩の王(島津義久)は少しも油断せず、高城の陥落が全領土の喪失と成るべきことを慮り、全力を
尽くしてこれを救援する決心をなし、噂によれば所領の三ヶ国より老人と少年を除き貴族及び平民の兵を
悉く召集して無数の兵を得、これを率いて城に向かって進軍した。そうして先ず伏兵を設け、全く警備を
怠っていた豊後の軍を平地に誘ってこれを攻撃した。城内の兵もまた打出て、豊後の軍を真ん中に挟んで
おおいに戦った。豊後の兵はよく防ぎ多数の敵を殺したが、大軍に対抗すること出来ず、大部分は戦死し、
残兵は戦場を敵に委ね、列を乱して敗走し、生命を全うするために全力を尽くした。

18 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 09:29:00.68 ID:0VkCxDIG
風評は事実より誇大に伝わり、また逃げる者には恐怖が伴うのが常であり、多数の敗残者は戦場より数レグワ
離れた老王(大友宗麟)の滞在地(無鹿)に着くと『全軍殺され、または敗走し、敵は急激に追撃し、数時間の
内にはここに到着し占領を始めるであろうから、少しも時を失わず豊後に遁るべし。』と言った。
多数の人が逃げ帰って同じことを繰り返したため、話は益々大きくなり、前よりも悪しき報伝わり、人々の
恐怖は甚だしかった。パードレ・フランシスコ・カブラルは王に対し、「同所は堅固であるから引き上げを
急がず、残りの軍隊を収拾すべきで、敵が急に来ることも無いし、味方の死者も話よりは少ないはず。」と
言い、王もその勧告に従う決心をしたが、部下の恐怖甚だしく頻りに騒いだため、遂にこれに負けて急遽豊後へ
撤退することと成った。夜中人をパードレに遣わして己の去る事を告げ、少しも躊躇すること無くイルマン達と
共に出発するよう命じた。この夜の混乱は甚だしく、王と共に逃げる者が途中の食料を携えることも忘れたため、
豊後までの3,4日路の間非常なる苦労と飢えを覚え、国王も妃も大いに困窮した。

パードレ・フランシスコ・カブラルおよびイルマンたちは、国王が同日午後、彼らの説得により一端、敗残兵を
収拾して同所に留まることを決断していたため、撤退の用意を少しもしておらず、王が撤退の使いを出した
直後には出発してしまったため独り後に残り、馬はわずかに一頭しか無く、しかもこの馬は、病気のため
付近の他の町で療養していたイルマン・ルイス・ダルメイダを迎えるために送る必要があり、どのようにしても
他の馬を得ることが出来ず、又これを捜す余裕もなく、しかももしすぐに出発せず豊後の王から離れた時は、
我等は敵、もしくは味方であるはずの豊後の逃亡兵から殺される危険があった。この兵士たちは異教徒であり、
パードレたちが国王をキリシタンとなしたが故に、神仏の罰が彼らに及んだのだと言い、そういった迷信を
抱いていたためである。
パードレ及びイルマン等は如何とも出来ず、会堂の最も大切な品を少しばかり従僕たちに運ばせ、冬の最中に
険しい山道を通り、食料も無く、肉体及び精神上非常なる疲労を覚えたが、王が恥じて引き返してくることを
懸念して前進した。彼らの困難は甚だしく、大いに飢餓に苦しみ、三日の道中を成した力があったのは不思議と
思うほどである。
日本の戦争の習慣に従い、全土は焼かれて居住する者もなく、食料も、夜休憩する家もなく、飢餓と寒気と
疲労のため、絶えず死に瀕していたが、我等の主の御助により。夜の宿泊所において従僕たちから少しの米を
与えられた。また山の険路において足を痛め、履物もなく、降雨のため水多く冷たい河を渡り、濡れた体を拭く
物もなく夜を過ごした。これにかかわらずダライニヤを唱えてデウスの一身を委ね、かくの如くしてデウスの
御恵により慰めを得た。
(1579年12月10日(天正7年11月22日)付、パードレ・フランシスコ・カリヤン書簡)

耳川の戦いの敗北についての宣教師の記録。やはり神仏の罰だったのでは。



19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 13:28:47.46 ID:C+7oiKRh
これは前スレの空気読まない学級委員長みたいな大鹿剣助も激怒

あまり有名でなく高尚でもない男であった

2017年05月29日 18:39

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 19:44:53.16 ID:/C3l8YdE
筑前、筑後、および豊前の一部をほぼ支配下に置いた薩摩にとって、今やこの島全体の絶対君主になるために残るは
ただ豊後に進出するだけとなった。
そこで彼らは豊後の殿たちと交渉し、種々の約束と甘言をもって彼らを味方に引き入れようと奔走した。
豊後の嫡子(大友義統)は、この状況について連絡を受けると大いなる危機感に襲われた。
そしてこの恐怖から、彼は関白殿に強く救援を懇請した。
というのは、豊前で戦っている勢は豊後から遠く離れたところにおり、薩摩軍とはかけ離れた別の戦に従軍していて、
急速に有利な戦況は望むべくもなかった。

関白は天下の主となった後、信長時代の仲間であった仙石権兵衛と称する尾張の人物に讃岐国を与えた。
彼は、あまり有名でなく高尚でもない男であったが、決断力に富み独善的で、その他それに類した性格を備えていた。
ただし以前から優秀な武将として知られていた。

関白はこの人物に豊後を援けに行くにように命じた。
そしてさらに、二年前に征服した土佐国のセニョール・チョウスガミ(長宗我部元親)に対しても、
軍勢を率いて豊後の援助に赴くように命じた。
だが自らが出陣するまで、もしくは敵との合戦を伝達するまでは、敵と交戦するのを差し控えるようにと言いつけた。
それゆえ(彼らは)約二千名あまりの実戦の兵士しか伴って行かなかった。

(これらの軍勢)は府内の市で、嫡子および伯叔父なる(田原)親賢の軍勢と合流した。
(親賢)は、(去る日向の合戦で)何千という生命を失わせた最大の責任を負う身であったから、
豊後が破滅して後は、自分の城から外へは決して出ようとしなかった。

豊後の上長であるペドゥロ・ゴーメス師は、贈り物を携えさせて、(既述の)異教徒の新たな主将たちを府内に訪問せしめた。
彼らもまた後には学院に来て手厚くもてなされた。
とりわけ土佐の主将(長宗我部元親)は、要請があれば、司祭や教会を援助する用意があることを示した。
この主将の嗣子である息子(信親)は、一、二度我らの修道院で説教を聴聞し、説話をよく理解したらしく、
キリシタンになりたいとの希望を表明していたが、その数日後に戦死した。



上の話とは少し時間が前後するけど、同じくフロイス日本史から
仙石についてのフロイス評入りの話


大友義統の降伏

2014年07月08日 19:00

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 20:28:43.34 ID:GvJF/riw
慶長5年(1600)9月13日、豊後国速見郡石垣原で、西軍である大友義統の軍と、東軍の黒田如水の軍とが
戦った石垣原の戦いが起こり、大友軍はこれに打ち負けた。


翌14日、如水は義統の籠もる立石に押し寄せると、軍勢の配当を定め、先陣は母里太兵衛(友信)となった。
この時、義統方は昨日の敗戦により多くが逃亡し、残っている人数は800人ばかとなっていた。
黒田家の家老たちは「この軍勢で速やかに攻め寄せ、大友を討ち果たしましょう。あの有り様に成り果てても、
もし時間を与えては、また難しいことになるでしょう。」と申し上げた

しかし如水はこれを聞くと
「いやいや、合戦は無用である。扱いをかけ、大友を降参させて、生け捕って京都に送るべし。
先年、私が筑紫に下国してきた最初から、義統とは別して良い関係であった。今になって敵になったからと
いって、私の方に恨みがあるわけではない。また、今無勢になったからといって、情けもなく飼い鳥を殺すような
真似はしたくない。

それに、大友がいくら弱いと言っても、討ち果たすほどの戦いをすれば、味方にも損害が出る。
今回の戦争は今度に限ったものではなく、何時まで続くかわからないのだから、何としてでも
手勢を損なわないようにしなければならない。

母里太兵衛、扱いをしてみよ。『今日のうちに和議が整わなければ明日押し寄せ一人残らず打ち取る!』と
義統か田原紹忍(親賢)を強かに脅すべし。脅せば必ず降参の詫び言をするであろう。

昨日討ち取った者達は、大友家では名のある勇士達であった。しかし、かの家で身分高い者達のうち、
紹忍の首だけが見えなかった。彼は日頃臆病の名高き者であるから、紹忍方に申し使わせば、
必ず和睦に同心するであろう。物慣れたる者を使いとして、早く申し遣わすように。」

そう命じたため、太兵衛より使いを遣わした所。案の定紹忍は同心して義統に降参を勧めた。
大友義統も今や叶わぬと思い、使者を母里太兵衛の陣まで遣わし、降参を乞うた。
如水はこれを聞くと「降参のこと、一段と然るべきことです。内府(家康)へは良きように
申し上げますので、きっと罪もご赦免あるでしょう。残された士卒皆々の命は助けます。
ですので早くこちらに出てきてください。」と申し遣わした。

かくて大友義統は剃髪の姿と成って、主従10人ばかりにて、9月15日の早天、密かに母里太兵衛の陣屋へ
降伏した。残党たちは思い思いに落ちて行った。

(黒田家譜)

黒田家譜より、大友義統降伏の模様である。



645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/08(火) 19:52:37.87 ID:sx1Vv9RD
>>644
これは官兵衛のいい話じゃないのか?
黒田家譜にしては現実的な。

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/08(火) 20:02:58.14 ID:c9kq5T7b
田原紹忍ってまだ生きてたんだ
とおもったらこの1ヶ月後戦死か

青年武士シマンとその叔父

2012年07月13日 20:59

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/13(金) 20:01:51.45 ID:rf3Ug6Rg
『日本人イルマンがパンタリヤン(田原親盛大友宗麟三男)の城に於いて説教を行なっていた時、
豊後国の大身の一人の兄弟にて、名を式部殿と呼ぶ武士がこの場所にあって、ことごとく説教を聴き終わった後
洗礼を受け、バスチャンという名を与えられた。
翌日彼はパードレ・ペロ・ゴメスと日本人イルマン一人を伴ってその家に帰り、直ちにその妻と家族及び
家人一同に説教を聞かせ、約80人に洗礼を受けさせた。

また、このパンタリヤンの城において、偶然彼を訪問していた青年武士が一人キリシタンとなった。
彼については特に報ずるべき事件が起きた。

シマンと名付けられたこの青年は、説教を聞くと熱意に満ち、偶像を崇拝していた過去を恥じて、次の手段によって
これを改める決心をした。すなわち洗礼を受けた後、その家に戻らず、直ちに領内の町村に行って、同所にある
寺院に火を放ったのだ。

この事は突然行われたので、坊主も俗人も驚き、火災が甚だしいため、住民は彼が豊後の王(大友宗麟)に叛いたか、
あるいはその地が敵の手に落ちたものかと考えた。

彼は領内にある、彼の父の兄の寺院に至ると人を遣わして、

「私は既にキリシタンになったことにより、その領内における神仏の愚行を容認することが出来ない。
しかしこの寺院は叔父上のものであるのであえてこれを焼却しないが、叔父上が自ら命じてこれを焼き払われる
事を望む」

との旨を伝えた。叔父はこれに返答をせず、異教徒である親類及びその兵士とともにこの寺院を守る決意を固めた。
この叔父の態度にシマンは大いに怒り、彼を殺すことを決心し、必ずその首を取ると言い放った。

叔父は偶像崇拝の保護者たる親賢(田原親賢大友宗麟の妻奈多夫人の兄。反キリスト教)に頼り事の顛末を
伝えた。この事は神仏を守ることであると田原親賢はこの要請を引き受け

「怖れるには及ばない!私自ら保護に当たろう!」

と宣言した。それでも青年は叔父を殺す決心を動かさず、また田原親賢は既に約束した事によりこの叔父を守ろうとした。
しかしその田原親賢の婿であるパンタリヤン(田原親盛)は、こと信仰に関することであるので青年に好意を寄せ、シマンの
許に人を遣わして、この問題においては感情的にならず、道理によって処置すべきだ。もしその結果によってあなたに
見の危険が迫ることがあれば生命をかけて防ぐ。そう伝えた。

(中略)

その後パンタリヤンはパードレ・ペロ・ゴメスに使者を遣わし、シマンとその叔父のことは既に解決し、二人の裁判官を定め
その正当と認める所に従うよう伝え、裁判官たちは田原親賢が約束を破棄し叔父を保護せず、またこれを臣下とせず
国外に追放し再び入国することを許さず、その所領の半分を没収し、残りの半分はその子に与えると決定した。

その後パードレはシマンがその家臣約2000人をキリシタンにしようと切望していると聞いた。しかし全員をキリシタンにすれば
労役者が不足するので来れをするのは不可能であった。(キリシタンは労役義務を免除されていたようだ)
シマンは信仰のことに甚だ熱心であり、たとえ世子(大友義統)が反対の命令を下しても、既に説教を聞いた上は
必ず洗礼を受けると言い、ついにこれを受けた。』


大友宗麟の時代の、豊後で起こったキリスト教絡みの騒動の一つである
(天正12年・日本耶蘇会年報)




512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/14(土) 06:54:03.49 ID:zz3tN4If
>>505
キリシタンは労役を免除されてたのか
これはメリットあるな