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由良国繁・長尾顕長兄弟幽閉

2019年10月23日 17:36

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/23(水) 13:33:11.48 ID:Nqs6PsjL
天正十三年正月五日、元旦に仇敵である佐野宗綱を討ち取った長尾但馬守顕長は、居城である館林に
家子郎党を招き祝宴をひらき、まず須山城を守っていた小曽根筑前守に抔を与え、二番目に宗綱を
討ち取った豊島七郎左衛門を近くに呼んで「宗綱誅伐の手柄第一である」と抔を与え、感状と褒美が渡された。
(中略)
しかしここで、重臣である江戸豊後守が顕長へ諫言をした
「申し上げます、第一に佐野殿を討ち取ったこと、早速小田原へご報告なさるべきであるのに、御延引
なされているのは何故でしょうか。当家は北条の幕下であり、また小田原は関東無双の大名、油断は大敵
かと存じます。

第二に彦間、藤坂の両城に加勢の人数をすぐにでも差し向けるべきなのに、それも未だ行われていません。
諫言耳に逆らうと申しますが、世俗に勝って兜の緒を締めよとも言います。私が本日顔色のすぐれなかった
のは、この二つが気にかかっていたためです。」

この言葉に長尾顕長も深くうなずき
「その方の言葉も尤もである。しかし小田原への注進はさほど遅れているとは思わない。また
彦間、藤坂への加勢も、佐野方は主人を失い、混乱こそすれ弔い合戦など思いも寄らないはずだ。
しかし勝手兜の緒は締めねばなるまい。」
そう言って、ほどなく彦間、藤坂へ加勢を入れ、また小田原へも、久米伊賀守、金山の由良氏からは
横瀬勘九郎が使いとして立った、北条氏政父子は両人を引見し、懇ろな言葉があり、引き出物なども賜り
帰国した。
(中略)

同年二月二十五日、小田原の北条氏政・氏直父子より、山上郷右衛門という武士が由良、長尾両家へ
使者として差し向けられた。その趣は、先年に金山の武力を以て桐生又次郎重綱を追い払い、また
当春佐野宗綱を討ち取ったこと神妙であると褒め称え
「この上は佐野、栃木、結城、小山辺りまでも手中に入れられたく、出馬に於いては小田原よりの加勢も
参らすべし。だからといって、当方には切り取った領地に対しての野心はない。各々の心次第に
宰領されたい。ただし両家の軍法、采配について、小田原の軍勢との調整が必要であり、
由良国繁長尾顕長同道にて、小田原へお出向きくださるよう、この山上を案内に立てたのである。」
との内容であった。

そこでこの兄弟(由良国繁長尾顕長は兄弟)は打ち連れて上州を発ち小田原へと向かった。
由良国繁は林越中守、同又十郎、今井大蔵少輔、鳥山伊賀守、江田兵庫介、小金井十郎兵衛、細谷勘九郎、
堀江彦助、長島外記、金井田伝吉、以下騎馬三十名、弓鉄砲の者百名。
長尾顕長は南掃部介、新井図書介、山名主計介、貝原丹波守、高山右馬介、市川主水介、大岩大助、
芳野加右衛門、宮崎五太夫、江川海老介、斎藤作右衛門、小菅弥太郎、関口右馬介、岩崎弥助、以下
騎馬三十名、弓鉄砲の者七十名を召し連れた。

両家は小田原に到着すると町家に旅宿を定め、それより氏政父子と対面のため城へ上った。
その彼等に、山上郷右衛門に多米主膳正が付き添い、氏政父子の言葉を伝えた。それは意外の
言葉であった

「各々の来臨祝着である。であるが、そもそも当春に佐野宗綱を討ち取った事、早速に注進あるべき
なのに、延引したのはその意を得ず。また秩父新太郎、岩築十郎などが成田左馬介を案内として
栃木の城を攻めた時、両家は何故に加勢をしなかったのか。そのため両勢は土地不案内により
若干の討ち死にが有った。これは両家が見殺しにしたのも同然である。
それだけではなく、近頃両家は小田原を蔑ろにし、あれといいこれといい奇怪の行為多い。
故に北条旗下の理由なく、この逗留の間に糾明するものである。」

そう述べるや突然多勢で取り囲み、そのまま用意してあった座敷牢へ入れ、番兵を付けた。
従った家臣たちはこの思いもかけぬ突然の事態にどうすることも出来ず、ただ臍を噛むばかりであった。
色々と評議をしても、主人二人が虜になった以上いかんともしがたく、その夜のうちに急ぎ上州へ帰ることと
成った。金山の長島外記、館林の外丸源之允の二人はそれぞれ主人の馬に打ち乗り、小田原から
金山までの四十余里の工程を、五時(10時間)ばかりで駆けつけ注進に及んだという。
彼等の乗った馬は両方ともにその夜死んだ、

(関八州古戦録)

佐野宗綱元旦討ち死に続く、由良国繁長尾顕長兄弟の小田原幽閉についてのお話



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膳城素肌攻め

2019年10月17日 18:09

518 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/10/17(木) 14:21:19.72 ID:HO4sb0ij
天正八年九月下旬、武田勝頼は上野国厩橋城へ出陣した。今回は東上野の先方衆に、西上野の兵を加えて
大胡、山上、伊勢崎などの城を攻め落とすつもりであった。また自身でその周辺も見て廻り、翌日には
膳城の様子を窺おうと、一条右衛門太夫信連、原隼人佐昌勝、真田安房守昌幸、土屋宗蔵昌恒以下を
引き連れ、持小旗だけの軽装で、総勢、武具も付けずに出発した。

当時膳城は、先年に金山の由良信濃守国繁の持城と成り、地勢をよく知っている大胡民部左衛門を主将、
渋皮主膳正を副将として守らせていた。

さて、この時城中では秋の月見の宴が開かれており、皆は気散じの酒盛りをしていた。ところがその席で
思いがけなく、玉村五郎兵衛という侍が渋皮主膳正と口論を始め、それに那波、伊勢崎、片岡と言った者達も
加わり、あまつさえ双方の家人小者たちまでもを巻き込んで、二手に分かれて収拾のつかぬ混乱となった。

この有様に大胡民部左衛門は怒り大声で叱咤した
「このような時に強敵である武田勝頼が攻めてくればどうするのか!勝頼は隣の厩橋城に来ているのだぞ。
そのための防備こそ急がねばならないのに、酒を食らって喧嘩をするとは何事だ!恥を知れ!」

しかし誰の耳のも入らず乱闘を続けていた。

そんな最中、この膳城に武田衆が到着した。
勝頼も城の中がなんとなく普通でないと察したが、自分たちは武器も持たず素手のままであるので
手を出すわけにもいかず、一旦取って帰ろうとした。

膳城の門番は武田衆に気がつくと驚いて城中に注進した。しかし混乱の中下知するものもおおらず、雑兵達は
勝手勝手に柄道具を手に取り出撃し、まず武田方の倉賀淡路守秀景に襲いかかった。
武田方ではこれを見て西上野衆が取って返し、雑兵たちを取り押さえようとしたところ、これに釣られ
武田衆は総勢がどっと引き返してきた。雑兵達はうろたえ城中に逃げ込んだが、武田衆もこれを追いかけ
虜にしようと堀際まで押し寄せた。

この時勝頼は、故信玄より不用意な城攻めを固く戒められていた事を思い出し、皆に引き返すように
下知したのだが、時既に遅く、土屋宗蔵の手の者である脇又市郎という若者が木戸を押し破り廓の一部に
押し入った。続いて同じ手の者の一宮佐太夫も押し入り、城兵六人と渡り合っていた。一宮はかなわじと見て
引き返そうとしたが、脇又市郎だ「死しても退くべからず」り声をかけて踏みこたえ戦った。

この間に武田方では一条信連の組より浅見治部太夫、堀喜右衛門、中根七右衛門などの歴戦の者共が
駆けつけ、平服のまま切り込んで敵を廓内に追い込んだ。
しかし寄せ手は素手のままであるし、城兵は仲間喧嘩の真っ最中で、双方とも不用意の戦となった
わけである。

それでも城中には腕に覚えの有る侍たちも居て、勝頼の家臣でかつて遠州高天神城の戦いでも
高名をはせた、小笠原民部の家来である林平六郎が討ち死にした。また原隼人佐昌勝も攻め入って
敵七人に取り囲まれて戦っているうちに、小溝に足を踏み入れ、立ち直ろうとする所を真っ向から
眉間に切りつけられて倒れた。曲渕勝左衛門が彼を肩に担いで城外に連れ出し、原の付き人に渡したが、
後に甲府に戻ってから死んだ。

脇又市郎は最後まで戦いよく首も取った。彼は甲府の足軽大将・本郷八郎左衛門の甥で、駿州の先鋒である
脇善兵衛の養子となり、かつて三州長篠合戦に於いて二ヶ所の傷を負いながらも功名を上げた侍である。
この時二十五歳であった。

このような中、皆に心すべしと説いていた主将の大胡民部左衛門も寄せ手の浅見治部太夫に討たれ、
残兵悉く撤退して城は落ちた。

519 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/10/17(木) 14:23:30.93 ID:HO4sb0ij
これに勝頼は大いに喜んだ。父である信玄も多くの城を落としたが、勝頼のように防具も付けす
素手のままで城を落とした事はない。宿老の勝八太郎などは、これまで勝頼を少しでも早く成長させ、
采配を渡したら自身は剃髪して介添と成り、先陣を仕ろうと思っていたが、勝頼がこれほど潔く
育ったからには、おそらく敵の三重の柵はおろか、十重の柵も踏み破って戦っても負けることはないだろうと
気を強くした。

このように褒めるものも居たが、批判するものも居た。

「今もし、敵の中に楠正成のような智謀の良将がいて、偽って同士討ちの体に見せかけ、これを見て
好機と思い素手で城攻めすれば、寄せ手は片端から生け捕られ、生きて帰る者は一人も居なかったであろう。
勝頼公は血気盛んで猪武者だったからこそ、五年前長篠の戦いであのような大敗を喫したのではないか。
あの時敵の三重の柵を破ることが出来ず、信玄公以来の名だたる名将を数多く討ち死にさせてしまった
ではないか。」

そのように嘆くものもあり、事実今度の戦いで死んだ原隼人佐は、その長篠の戦いで生き残った
数少ない勇将であったが、跡部、長坂という勝頼の佞奸どもに家法、軍法が歪められていくのを見るより、
いっそ討ち死にしたほうが良いと思って、今度の戦いに自ら身を投げ出し戦死したのだろう、などと
言われたのである。

(関八州古戦録)

武田勝頼の有名な「膳城素肌攻め」についてのお話



神梅一党の事

2019年10月16日 17:06

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/16(水) 14:21:58.97 ID:yXUU6QxE
東上野勢多郡神梅郷は、松島式部入道古柏、愛久沢能登入道有伴の二人が頭として、
地侍たち数代の暮らしを支えてきたが、彼等が仕えているのは桐生大炊介直綱(助綱)であった。
しかし桐生家が衰えてからは小田原の北条氏の幕下に入り、一年の内一、二度、小田原へ参勤する
他は、他家との関わりは一切なかった。

ところが天正七年、由良信濃守国繁が
「神梅の郷士たちが、一番に近い我が金山に服さず、小田原に参勤するのは奇怪至極である。」
と言い、攻め寄せてきた。

当時、元々の主家であった桐生家は、伊勢崎の荻田備後守に乗っ取られようとしたのを、金山の
由良氏に救援され今もわずかに虫の息を保っていたが、所詮金山の先方たらざるを得ず、
その桐生の兵とともに、金山の藤生紀伊守(善久)、金谷因幡守に率いられた兵に、新田、山高、
津戸、吉次、広沢、荒戸、本宿の地下人百五十人余りも加わり、塩原表へと打って出て、明神の
森に陣を取った。神梅一党を討ち滅ぼすためである。

金谷因幡守はその他の諸士、郷士一千余人を引き連れ梨の木坂の上に陣を進め、後陣の藤生紀伊守との
連絡のため、伊藤右京亮、木村縫殿介に弓三十人を塩原の陣に置いて出撃した。そしてこの部隊は横瀬山の
峰を越えて元原へと出ようとした。

神梅勢より出張っていた強戸、高草木の者達がこれを見て「桐生、金山の勢が押し出してきた!」と、
神梅の松島入道に報告した。入道は「来たか。小勢ならば討ち取って神梅の土産にせよ。」と命じた。

神梅勢はもとより地形に詳しい強みが有り、敵が小勢ならばとたかをくくっていたのだが、最初のうちこそ
勝利したものの、徐々に敵の圧力に押され、だんだんと討ち取られていった。
そこで松島入道、愛久沢能登守以下の者達は神梅に寄り合い評定し、松島入道はこのように言った
「敵はわれら神梅党本来の成り立ちを知らないため、このような事が起こったのだ。」

そもそも鎮守府将軍源頼義が、奥羽での前九年の役にて安倍宗任、貞任兄弟を討ち、京へ報告するため
嫡男八幡太郎義家を代官として差し向けた折に、降参の夷賊七百三十人余りが旧主の名残を惜しんで
この国まで来た。この時、義家が「かねて朝廷で定められている数、百人以上を連れることが出来ないため、
これより皆奥羽に戻るように。」と言った。しかし松島、愛久沢の党八、九十人は、今後奥羽との飛脚の
中継としてこの神梅の山中に残ることと成った。その後桐生家の配下として安堵を得たが、本来は
鎮守府将軍の旗下であり、それ以外の誰の命も受けぬ者である、というのが彼等が先祖より言い伝え
られてきた事であり、この松島入道、愛久沢能登守の二人の老人も自任し、また神梅衆全体の
誇りでも有った。

しかし今はそうも言っておられず、このように桐生金山の兵に攻められては一旦勝つことが出来たとしても
最後には負け、神梅は滅ぼされてしまうため、ここは事の次第を述べて和睦したほうが良いと、松島入道の
長男である松島弥四郎に、丈目、平沢などという郷士が付き添って高津戸の敵陣へ向かった。

高津戸で藤生紀伊守、金谷因幡守と対面して趣旨を述べると、この上は人質を差し出すべしとして
和睦が成った。そしてこの事を金山の由良国繁に報告する間、この三人は高津戸の陣に留め置かれたが、
神梅の者達は不安になって、三百人ばかりが徒党を組んで迎えに来た。

ところがこれを見た梨の木坂の金山勢が「すわ!敵が来た。」と思い、五百騎ほどで突撃し、
横瀬の北と南の表で合戦と成った。互いによく戦い、未だ勝負のつかぬ所に、金山より和睦が成立した
との伝令が届いた。『向後は互いに見方である。』との由良国繁の言葉に一同唖然とした。
この戦いで桐生の兵百七十人余りが死に、また坂の麓ではこの和議のため使いとして来た松島弥四郎も
討たれ、付き従った丈目、平沢も深手を負い、神梅に引き上げた後、二、三日で死んだ。

その後松島、愛久沢より小田原の北条氏政へ事の次第を通達し、返事はなかったという。
以後、神梅の郷士は金山の由良国繁の旗下となった。

(関八州古戦録)

現在の群馬県みどり市あたりに在った、神梅郷士たちについてのお話。



由良氏顛末

2011年05月02日 00:00

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 12:22:58.80 ID:S23UAFMY
そんなこと言うなら、季節ごとに立場を変える、北関東の領主の皆様はどうなるんだよ・・・




310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 12:54:15.47 ID:zmah96Am
ちょうどこの前年に由良氏がそんな状況になってた。
由良成繁は下克上の後に謙信の小田原攻めにはやくからしたがって謙信から領土を与えられるが
謙信の勢力が衰えると真っ先に北条に帰参し関東諸侯が一斉に北条方へ雪崩を打つきっかけをつくり
謙信から第一の侫人と呼ばれた。
越相同盟を仲介して形式上は上杉の傘下に入るが裏では同盟に不満があった氏政に通じ氏政から
上野一国を進呈すると書状を送られた。
その後越相同盟が破綻すると周辺の上杉方勢力を攻め勢力を拡大した。
しかり成繁は謙信と同時期に世を去り後をついだ国繁には成繁ほどの手腕はなかったらしく
滝川一益退去後一人勝ち状態になった北条は由良氏を攻めた。
昌幸は由良に「上杉と佐竹が援軍に来るから頑張れ」と書状を送ったが
佐竹は援軍に来たものの景勝は上野の瀬下氏に関東に出兵することはないと言って援軍を出さなかった。
結局佐竹も途中で軍をひいてしまい、由良氏は居城を失って北条に屈服することになった。




311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 13:04:33.97 ID:8RyvYDu7
謙信は5回攻めたけど最期まで由良の新田金山城攻略できなかったね。

成繁も腹芸は確かに上手かったが防戦も上手い。

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 13:55:20.55 ID:crvr1eFn
地理的・地形的なものってあるよね。
小勢力は、大勢力に一旦従属したとしても、あくまで自家を保つことが最優先で、
主との間は双務契約的なものだから、攻められたときに後詰めに来てくれない
(来られない)なら、忠義を貫いて滅びなきゃならない義理はない。

関東に何度も入った上杉しかり、三河に何度も入った武田しかりで、山越えして
来る軍勢は、どんなに強くても、季節が過ぎたらお家に帰らなきゃいけないし、
お留守番をたくさん残していくことも出来ないし、一旦帰ってしまったら、せっかく
落とした小城を取り返されそうになっても迅速に後詰めに行けないし、で、結
局、長くキープできないから延々と取ったり取られたりのループになる。
板挟みになった現地の小領主はまたくたまったもんじゃないな。

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 13:59:56.70 ID:s6SEHbzx
>>309
高増「確かに周りはそんな人ばかりですな」
資孝「義理も無い人々に囲まれて疲れる」
綱清「全く」

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 14:57:19.64 ID:nTaZve+o
おまえらの血は何色だあ

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 15:03:45.71 ID:cXfoASMt
山家三方衆は徳川と武田だけだが
上野は上杉、武田、北条が争奪してるから小領主は悲惨。

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 15:08:56.25 ID:Y/z4Zx80
関東地方唯一の一揆の国、上野は
戦国時代後期になれば隣国の強大な戦国大名権力に蹂躙されるのが宿命

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 15:38:00.35 ID:r+JAXZvE
異常に強い長野爺も居なくなったタイミングだしな

318 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/05/01(日) 17:59:14.60 ID:KGeeRxkF
>>312
前線で落城した城主の一家は、
親類の城にでも家臣を引連れて居候しながら、
再起を計るだけで
どこでも似たようなものでしょう?

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 18:15:59.01 ID:crvr1eFn
>>318
そもそも、敵の大軍が迫ったときに、「落城」云々というところまで戦うのか?というのが問題で。
援軍が来てくれそうなら城門を堅く閉ざして粘ってみようか?という気になるだろうけど、こりゃど
うしようもないな、と思ったら、戦になる前に城ごと降って所領を守ろうとするんじゃないかな。
その場合、たいていは元の主のところに人質を差し出してあったりするので、その人質を見捨て
る覚悟が必要になるんだろうけど。




320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 19:28:24.37 ID:ykCTw3hD
んだねぇ

321 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/05/01(日) 20:22:15.33 ID:731tBxiO
>>299
当時の上州は他国の動きをけん制できる要衝だから
そこを治める真田に対する扱いもおのずとね…

利用価値があればどれだけ恨みや貸しがあっても優遇
逆に言えば利用価値がなくなった途端それまでどれだけ尽くしてもポイ捨て
上杉、北条など使う側の周辺勢力も、使われる側の真田も
最初からそういう関係と割り切ってつきあってたんだろうな。
今でいう北朝鮮とその周辺諸国みたいなもんか

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 21:47:00.06 ID:S23UAFMY
>>321
殿、「幸村様と正男を一緒にするとは」と怒った鬼女たちが押し寄せてござる!!
我らが支えているうちに、早くお逃げくだされ!さあ!さあ、とく落ちられたまえ!!!

323 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/05/01(日) 22:07:14.91 ID:731tBxiO
まさおは嫡男だから信幸のほうじゃないのか?

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 22:24:36.88 ID:Y/z4Zx80
群馬県立歴史博物館(高崎市)の展示は、真田のことほとんどスルーしてたな。
高崎中心に見ると、真田の存在感ってほとんどないのかもね。

室町時代は上州一揆の上層に山内上杉氏がゆる~く君臨する統治形態だったが、
北条氏が上杉憲政を追ったことで上州一揆は切り裂かれる。
その後の謙信・信玄・勝頼・滝川一益らの相次ぐ支配者の交代と戦争で一揆は完全に解体し、
「沼田領」「新田領」「厩橋領」といった18の「領」と呼ばれるブロックに再編されていく。
小田原征伐で北条が滅んだ後、「箕輪領」が井伊直政に、「新田領」「館林領」が榊原康政に与えられる。
すごく大雑把に言うとこれが群馬の戦国史

雑談・由良氏宛上杉景勝書状について

2010年10月15日 00:00

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/14(木) 10:02:46 ID:bwxF3gue
この記事はちょっと面白いな

上杉景勝の書状発見 県歴史博物館で初公開
http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/20101003/CK2010100302000069.html

>  書状は一五八五(天正十三)年前後に出されたとみられ、日付は閏(うるう)八月二十日付。
> 当時、赤堀氏は金山城(太田市)の由良氏に従属し、ともに小田原の北条氏に制圧されていた。
> このため、由良氏は赤堀左馬助を通じ、越後の景勝に援軍を要請し、書状はその返書となる。
>
>  内容は「佐野城(栃木県佐野市)は何とか防戦し、北条勢を撃退してほしい」と求めた上で、
> 「(景勝方の)秀吉が出馬してくれたので、富山城(富山市)の佐々成政が降伏し、関東へ軍勢が
> 振り向けられる」との見方を示した。
>
>  さらに「(信濃から上州を拠点とする)真田昌幸が味方になったので、上州への道を妨害する者も
> なくなった」ため、「すぐにでも越山したい」と伝えている。ただ、その後、軍事的な情勢により、
> 援軍は実現しなかった。
>
>  同博物館の簗瀬大輔主幹(学芸員)は「情報量が豊富な書状だ。この時期は既に、関東が秀吉の
> 影響を受け、もはや小田原成敗が不可避になっていた状況を示唆している」と分析している。

小田原の陣(天正18年)の5年前の段階で既に、秀吉の勢力による対北条戦争が不可避だったとすれば
その間の氏政の外交姿勢も一概に否定しきれ無い訳で、いろんな意味で北条涙目の話だな。



700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/14(木) 12:16:55 ID:VNWaa3Bu
由良氏の本拠である金山城には「ガイダンス施設」という一種の小規模な博物館があるんだけど
その展示の説明文書いてる人が北条大好きなS氏という研究者で
笑っちゃうほど北条寄りの解説文があるんだよね。
「上杉氏の脅威と北条氏との友好関係」な~んて調子で全編書いてあるんだがw

こういう書状が見つかるとS氏の解説は成り立つはずもないんだが
どうするんだろうね。解説書き換えたり・・・・は、大人の事情でしないんだろうなw

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/14(木) 12:43:10 ID:ODsOxZhO
沼尻の合戦を扱った本を最近読んだとこだったので割とタイムリーな話題だった~
結局は、書状・文献の解釈は主観だからね~

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/14(木) 14:58:12 ID:gd0br4zg
まぁ一書状だけなら宛名だけに向けたものだもんな。
内容が真意かカマシかは背景にもよるわな。

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/14(木) 15:25:35 ID:f92/O9nk
>>703
これが真田昌幸の書状とかだったら内容信用する奴の方が少ないレベルなんだろうけど景勝だとどうなんだろうw

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/14(木) 15:42:21 ID:oqdnCe+M
景勝は書状だと割と率直で熱血気味。
ちょっと謙信に似てる(謙信ほど腰引けてないが)
家臣に「馬鹿じゃねーの」みたいなノリの書状を送ったりもする。

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/14(木) 16:04:41 ID:YLCD1iNu
直江「祐筆よ、殿が甘粕殿に馬鹿じゃねーのpgrと書簡を送るように命じておられる。」

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/14(木) 19:26:27 ID:ND/zJ380
>>707
絶望先生の無口だけどメールだと毒舌な女の子を連想した!!

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/14(木) 19:42:48 ID:0Acvk5k/
めるめるかwww

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/14(木) 21:29:04 ID:Dz31ifMT
>>707
狩野秀治宛の書状は、わりと羽目をはずしているというか、「寡黙」な
イメージからはだいぶ遠い感じがする。
あとは、魚津に篭城した武将たちへの書状で、中条や吉江といった武将ひとりひとりに呼びかけるような
のもあって、これも印象的だな

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/14(木) 22:37:59 ID:/MVLgtBj
>>699
要するに、いったん世紀末覇者にテロ支援某みたいな扱いされたら
並大抵の自助努力じゃ敵視政策止めてもらえない、ってこったろ?
今も昔も同じじゃん