FC2ブログ

人数多勢無勢出立の事、

2020年05月12日 18:52

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/12(火) 05:35:16.13 ID:iLI6DruS
人数多勢無勢出立の事、

一、大軍は少旗、小軍は大旗。口伝あり。

味方が夜軍をする時、

一、あつくうってうすく出る。口伝あり。
一、険難をよく見る。これについては、素破の入る所である。ただしそれは前のこと。口伝。
一、上着・胴・肩衣・白。口伝。
一、控え軍が肝要である。
一、時を合わせることが肝要である。
一、伏せ屈りには風が大事。口伝。屈りの物見は“かきもの聞き”という。

――『甲陽軍鑑(品第四二 軍法之巻)』




169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/12(火) 10:38:25.76 ID:eZMewPxk
おまえ口伝ばっかじゃねえか(呆れ)

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/12(火) 10:53:52.80 ID:9V4qoNAn
秘伝の巻物を奪っても口伝ばっかりだから参考にならない
てのはよくあるツッコミ
スポンサーサイト



四郎殿の御沙汰は何とも

2020年05月09日 18:47

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/09(土) 15:37:33.73 ID:pj8HJK61
(三増峠の戦いの時)

右の翌日に三増峠で馬場美濃殿(信春)は小勢故に敵と揉み合い勝負がつかなかったところを、勝頼公
武田勝頼)が自身で槍を取って横槍に入り崩しなさったのは、信玄公(武田信玄)の御眼前であった。

その翌日に反畑で馬場美濃と内藤(昌秀)はこの事を沙汰して信玄公の御前で四郎殿を誉め奉り、感涙
を流した。すると信玄公はとかくの御返事もなく仰せられ「“壮夫の涙”といって猛き武士はいずれも涙
もろい。大唐の韓信や樊カイは物を感じてすぐに涙を流した。また我が家でも昔、荻原常陸(昌勝)は
涙もろかったと聞く。方々も同様だ」と御意なされ、四郎殿の御沙汰は何とも仰せられなかった。

――『甲陽軍鑑(品第四十上 石水寺物語)』



雑人陣にて煩ひの時

2020年05月07日 18:24

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/07(木) 15:02:17.05 ID:RnSax87m
雑人陣にて煩ひの時

一、虫には曹洞宗の百貫草。水一盃の半分を一盃に煎じて飲ませる。手に1つも握る。口伝。
一、おこり(マラリア)には亀1つを黒焼きにする。水でこれを飲ませる。
一、熱気には拾五気の木。手1束に右の煎じ様で。口伝。

――『甲陽軍鑑



“勝千代殿”

2020年05月05日 16:53

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/05(火) 02:24:52.45 ID:iO/doWIk
一、それ、信玄公幼き時の御名を勝千代殿と申す。子細は御父の信虎公28歳の時、駿河のくしま
  (福島)という武士は今川殿を軽視し、結果甲州を取って己の国に仕らんと遠駿の人数を引き
  連れ甲州飯田河原まで来たり、しかも65日余り陣を張っていた。

  その時、甲州御一家の衆はことごとく身構えをして、「武田の御家はもはや滅却するだろう」
  と仕るところに、信虎公の家老・荻原常陸守(常陸介昌勝)と申す大剛の武士の武略をもって、
  信虎公は勝利を得給う。

  敵の大将のくしまを討ち取りなさったその日のその時に誕生なさった故、“勝千代殿”と信玄
  公に幼名を付け申す。すなわちその時の合戦は勝千代殿の合戦である。武田信虎公の家老の沙
  汰なり。勝千代殿誕生前に諸々の不思議が信州諏訪明神より告げ来たるという。

一、荻原常陸守は信虎公御幼少の時に弓矢の指南申し、信玄公御幼稚の時分も弓矢の物語りを申し
  上げられた。信玄公12,3歳の御時分に常陸守は70余歳で死去なり。

――『甲陽軍鑑



ことさら60ヶ年以来は鉄砲があることにより

2020年04月29日 17:38

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/28(火) 20:36:36.02 ID:WPub7+sJ
信虎公(武田信虎)の御代には軍法も信玄公の十分の一でしかなかった。

ことさら信虎公28歳の御時のくしま(福島)合戦(飯田河原の合戦)の折、譜代衆は大方が在所へ引き
籠り見物仕る。右のくしまに勝ち給いて、その時より甲州一国の衆を8年の間にことごとく絶やし給うに
付き、2百・3百あるいは5百が立て籠もった城どもを攻め取りなさることによって、矢傷・槍傷・刀傷
をたくさん手負った衆が多かった。

しかしながら信虎公が家中において、譜代衆・牢人衆中で健壮なる武士を75人選び出しなさった侍衆は、
信玄公の御代に大方討死して、年寄るまで長らえたのは横田備中(高松)・多田淡路・安満(あんま)・
鎌田織部・原美濃(虎胤)・小幡山城、この6人である。

ことさら60ヶ年以来は鉄砲があることにより、武辺かせぐ衆はひとしお討死多し。鉄砲は大永6年(1
526)に井上新左衛門という西国牢人が信虎公へ奉公申し、この侍が鉄砲を持ち来たり教えたと申し伝
える。しかしながら、稀であったと聞く。

その後、信玄公の御若き時は、かち路大膳・同又作と申す牢人親子がいた。この侍が各々に教えた。近年
は佐藤一甫斎と申す牢人が来て教えているのである。今は侍衆皆が鉄砲を良く上手に撃っている中で、横
田十郎兵衛(康景)・日向藤九郎の両人は鉄砲を用に立てている。

――『甲陽軍鑑



128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/28(火) 22:44:35.38 ID:2ocCnCTT
撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけ

だから死ぬんだよ

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/29(水) 07:38:57.06 ID:8oiWljdW
>>127
一番槍なんて鉄砲のいい的だろうしなぁ