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そもそも長坂釣閑斎という人物は

2023年05月24日 19:42

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/24(水) 18:37:04.70 ID:VImIPFtI
そもそも長坂釣閑斎という人物は、武辺についても数度を成した人物ではあるのだが、無分別故に海尻の城を
開いて、大いに臆病者と言われた。

釣閑斎の仕形は御家の御為を考えず、自分に取り入ろうとするものを褒める。しかし、御用に立つ者というのは
あまり人に取り入ろうとはしないものだ。私(高坂弾正)が死んだ後は、武田家は釣閑斎の仕置となるだろう。

跡部大炊の分別は、信玄公の時代にはそのような事は無かったのに、勝頼公の時代になって三ヶ年、釣閑斎の
真似をして散々悪き分別をしている。

現在の彼ら両人の仕形では、私どもが亡き後は、自分たちに取り入ろうとする者達ばかりを召し上げるだろう。
しかし信玄公の時代より誉れを取った人々で、長篠での死に残りも少しは在るだろう。
他所の国において覚えの者が沢山在ると言われるより、当家で人が無いというのはまだましである。
しかしあのようでは、御用に立つ衆を労々の有様で恐怖を持たせ、皆御用に立たぬように成してしまうだろう。

素より釣閑斎、大炊介両人が取りなした衆は、荒川、村井の如く、大事の時分では尽く逃げ散る。
三略には、『招舉姦枉、抑挫仁賢、背公立私、同位相?、是謂亂源』
(姦枉を招まねき挙げ、仁賢を抑え挫じき、公に背き私を立たて、同位相謗る。是を乱の源と謂う)
と云う。

時には方々は、この書を披見されよ。これを読んで尤もだと思し召されたならば、大事は無いであろうが、
もし腹を立てられたなら、国は崩れて、武田の御家は二十八代目と申す当家屋形・勝頼公の御代に終に
やぶれて、滅却すること少しも疑いない。
人物についての目利きを能く成されることこそ尤もである。

甲陽軍鑑



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鉄砲があることで、武辺を掲げる衆は

2023年05月17日 19:48

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/16(火) 21:01:32.73 ID:J1xtkm3W
武田信虎公の御代には、軍法も信玄公の時代の十分の一も無かった。
殊更、信虎公二十八歳の時のくしま(福島)合戦の砌、譜代衆は大方が在所に引き籠もり傍観したのだが、
信虎公はこのくしまに勝たれ、その時から甲州一国の衆を八年の間に尽く絶やそうとなさり、そのため
二百、三百、或いは五百ばかりた立て籠る城を攻め取られた。これにより矢疵、鑓疵、刀疵など
激しく手負った衆が多かった。

しかしながら信虎公家中において、普代衆、牢人衆の中で健やかなる武士を七十五人選び出された
侍衆も、信玄公の時代に大方討ち死にして、年寄りとなるまで長らえたのは、横田備中、多田淡路、安満、
鎌田織部、原美濃、小幡山城の六人だけであった。
殊更、ここ六十年は鉄砲があることで、武辺を掲げる衆は一層討ち死にが多くなった。

鉄砲は大永六年に井上新左衛門という西国牢人が信虎公に奉公申し上げたが、この侍が鉄砲を持ち来て
訓えたと申し伝わる。さりながらそれはごく一部の人々に過ぎなかったともいう。
その後、信玄公が若き頃に、かち路大膳、同又作と申す牢人親子があり、この侍が各々に訓え、
近年は佐藤一甫と申す牢人が甲州に来て訓えた。
現在は侍衆は皆、鉄砲能く上手に撃つ。その中でも横田十郎兵衛、日向藤九郎の両人は、特に
鉄砲を用に立てる者たちである。

甲陽軍鑑



『唐の頭に~』について

2023年05月17日 19:47

759 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/05/17(水) 11:52:46.46 ID:qnzlWpsu
まとめサイト過去ログ
唐の頭に本多平八
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12224.html

まとめの過去分にもあるように『甲陽軍鑑』で、三方ヶ原合戦(の前哨戦の一言坂の戦)で、徳川方の多くが舶来品の
唐の頭(ヤク毛飾り)を甲冑に付けて戦い、中でも本多忠勝が勇戦したことで、小杉右近助という信玄近習が
「家康に過ぎたる物が二ツあり 唐の頭に本多平八」と詠んで坂に立てて称賛したという。

とした話が有名ですが、小杉左近(右近助)は実在が疑われる人物でこの逸話も信憑性が疑われていました。

『大日本近世史料「細川家史料二」』に、元和八年(1622)より寛永四年(1627)までの、細川忠興より忠利宛て書簡が編纂されています。
この中の寛永四年分に以下の内容があって、現在は「信其」という人物が実際に詠んだ作者ではないかとみられているようです。
信其の詳細は不明。

「信其ノ日々記、今朝よそより帰候て只今帋(かみ、紙と同意字)一二枚見申候、事ノ外数多キ事候間、奥まて見候事成ましき間返申候、
此内ニ本田(ママ)中書之若時ノ事ヲ、信其唐ノ頭ニ本田平八とうたニよまれ候由申傳候、御入候哉可承候、」



東京大学史料編纂所  『大日本近世史料「細川家史料二」』
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/5/pub_kinsei-hosokawa-02/



足軽大将、侍大将の心得

2023年05月14日 17:52

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/14(日) 13:33:46.82 ID:h/ZA9HOh
足軽大将が心得るべきことは、自身で戦働きをするのは過失に繋がるという事である。
脱体の勝負を分別して足軽を扱い、軍の先達をして、味方の勝利を得るよう仕らなければならない。
その上で後に良き敵があれば、それを討つのも尤もである。

侍大将は自身を同心被官が貴むようにしなければ、御大将として成り立たない。
合戦では勝利を見極めて勝負をし、味方を諌め、後軍を二重三重に考え、危なげも無いようにするのが肝要である。
五度の衝突があれば一、二度は敵を崩し、その後敵に能き武者が有れば手にかけても然るべしである。
但し小身より度々覚えある人が(立身して)大将になった場合、自身の働きは一切すべきではない。
もし若い頃の心が出てきてしまえば、大きな過失の元となる。

若き衆は御大将の使いに先へ走り、晴れなる高名をもし、度々を重ねて足軽大将になる、或いは
侍大将にもなるべきである。
信玄公の御渦中は、この如きであった。

甲陽軍鑑

足軽大将、侍大将の心得について



これらが三つの采配であり

2023年05月10日 19:16

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/09(火) 20:18:51.52 ID:z2UNFaNf
大将の三つの采配とは、第一に、常々自国・他国共に武士の手柄、忠節、忠功について、上中下共に
よき評価をすること。

第二に、人をよく見知り、それぞれに役を申しつける事。

第三に、忠節、忠功の武士に、手柄の上中下をよく詮索した上で、三段に恩を与えること。

これらが三つの采配であり、こういった事が悪しければ、諸侍は行儀ばかり慾り、上中下のうち
下の手柄であっても、様々なやりようで上になるのだと心得、戦場での働きを控え、軽薄な者
ばかりとなって、その大将の矛先が弱くなる。

であるから、この三ヶ条は国持大将の采配である。
そしてまた、手で采配を振るうというのは、国持大将の下である侍大将、或いは足軽大将の役目である。

甲陽軍鑑



855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/10(水) 10:33:50.91 ID:f26oxxe6
じゃあその三条の具体例が続くのかな
それともここまでに書いてるのかな

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/10(水) 12:16:35.86 ID:tcUmS+y+
ワイは人を見る目は確かで適材適所ができて適切な評価で褒賞授与できる大将(笑

戦いには、勝ち様が三つ有る

2023年05月06日 16:13

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/06(土) 14:50:46.01 ID:MCigo0Yu
武田信玄公は大将衆への御仕置において、このように御諚された

「競り合い・合戦といった戦いには、勝ち様が三つ有る。

十のうち六分・七分の勝ちが一つ。
十のうち八分・九分の勝ちが一つ。
十のうち十全の勝ちが一つ。

第一に、十のうち六・七分の勝ちは、これ十分の勝ちである。
第二に、十のうち八・九分の勝ちは危うい。
第三に、十のうち十分の勝ちは、その後必ず過失があって、跡の誉れを無にしてしまうだろう。」

また信玄公は宣われた

「若き大将が十分に勝っても、そのため過失があっては、その後どれほどの勝利を得ても、
若き時の過失による敗北を引き出され、後々までその過失を指摘されるものである。

必ず大将たらんとする者に、十を十ながら勝ちたいという思案があれば、それは自分の心中より
大敵・強敵を数々作り出し、勝利を失うであろう。

そういった意識は悪事を招くものなのだと、相心得るように。」


甲陽軍鑑



数寄者と茶湯者は

2023年05月03日 19:36

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/03(水) 18:56:35.17 ID:bGCWxSuH
高坂弾正が申されたことに

「四国牢人の村上源之丞と申す者が、堺の(武野)紹鴎の雑談を聞いたとして、それを私に語った。
それによると、数寄者と茶湯者は別なのだという。

茶湯者とは、手前よく茶を点てて、料理よくして、いかにも塩梅よく茶湯を座敷にて振る舞う人の事を申す。

一方、数寄者というのは、振る舞いに一汁一菜なりとも仕り、茶は雲脚(品質の悪い茶)であっても、
心の綺麗な者を数寄者と名付けて呼ぶ。
元来数寄は禅僧から出た考え方であり、よってそのようになっているのだ。

仏教諸宗では「仏語」という所を、禅宗は「仏心」といって意地を重視しており、誠多き心象で執り行う
人の点てる茶こそが数寄者の振る舞いなのだと、村上源之丞は語った。
すなわち、数寄者と茶湯者は各々別物なのだと考えるべきなのだろう。」

そう、高坂弾正は語った。

甲陽軍鑑



842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/03(水) 19:16:27.48 ID:VO4Kw0mB
馬のションベンが茶の代わりと豪語していた武田侍はとんだ数奇(スキ)者よ

人を馳走する時、悪しき事が三ツある

2023年04月29日 19:13

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/29(土) 18:55:55.05 ID:LCBDHzIG

高坂(虎綱)がある時、このように言った

「人が人を馳走する時、悪しき事が三ツある。

一つは、医者に相談することなく薬を与えること。
二つに、過馬(荒くて乗ることのできない馬)に人を乗せること。
三つに、フグを振る舞うこと。

この三ヶ条にて(馳走をした)傍輩に怪我が有った場合、腹を斬らねば見苦しい。
しかし死ぬというのも嫌なことで有るのだから、こういった事については常々遠慮をしておくのが尤もである。

甲陽軍鑑



839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/29(土) 19:10:52.21 ID:Z5d0rWeP
>>838
全て当てはまる神の君

これは昔から今に至るまで、武士の作法である

2023年04月15日 18:26

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/15(土) 14:51:50.33 ID:oiuiA72G
放し囚人(めしうど)を討ち取る時、家の内、或いは外であっても、これを討つ者たち各々がかかった所で、
誰であっても最初にかかって切り結び、かかりつつ引きつつ、乱れて勝負をする時、脇や後ろから別人が
寄ってきて、刀、又は長道具、弓などでその科人を殺した場合、定めてこの殺した者が、放し囚人を仕留めたのだ、
とされるのは大きな非議である。

何故かと言えば、討つ相手に対して打ち手の者たちが寄りかねる所を。抜き出てかかる心というものは
優れており、その上切り合ってるところであれば、横からでも後ろからでもかかるのはやりやすいものである。
であるので、始めに先ず切り合った人の手柄を一番とする。二番目は殺した者だが、これは始めに勝負いたした
者に続いての手柄である。

このことについて、人がかからぬ時に一人勝負を始める意地は、人に優れてやさしく、こういった人物は
合戦、競り合いの時でも、放し討ちでこのようである以上、定めて一番鑓をするであろう。
さて又、人に戦わせておいて自分はやりやすい場所に参るような者は、先の人物から、はるばると間のある
意識である。故にこれを「ほそ心ばせ」と呼んでいる。

これは昔から今に至るまで、武士の作法である。

そのように馬場美濃守馬場美濃守(信春)が申し定めた。

甲陽軍鑑



あすならふ侍

2023年04月12日 20:17

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/12(水) 19:39:00.99 ID:jFJFcP+c
放し囚人(めしうど)が家の中に籠もっている場合は、粗忽にその家に押し込むべきではない。
事前にその家の内に科人が何人居て、どんな武器を持っているのかを聞き定めるべきだし、その上
こちらの人数の中に慌て者がいれば、そういった者は敵も味方も見境なく切り突きするものなのだから、
慎重になるのは尤もな事なのである。

しかしながら、無案内なる人の沙汰に、名の高い武士がそういった場で、科人の居宅にすぐに押し込まない
事に対し、良き武士はその理由を説明しない故、これを幸いと思い、悪しき悪しきと非難するのは、
臆病な侍による女の批判というべきものであろう。そういった人を”あすならふ侍”という。

その仔細は、諸木の中に名の無い木が一本あった。この木が申すには
「杉より檜の方がまし、檜もこめなるは良し」などと沙汰した。
他の木々は問うた「ではそなたは何なのか}」
かの名のない木は「それがしは檜のぢゃう(定)にあすならふ」
と言ったが、ついに何者にもならなかった。

この木を”あすならふ”と名付けたように、良き武士を妬んで、手柄のない男は”あすならふ男”あすならふと
これを名付けたのだ。

そう、内藤修理(昌豊)は笑って言った。

甲陽軍鑑



741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/13(木) 10:12:26.79 ID:d35Cttq/
「こめなる」はどう言った意味なんだろう?

時期外れのこの桃を捨てたこの分別は

2023年04月05日 19:06

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/04(火) 21:21:31.29 ID:7VhXufKi
武田信玄公の仕置に、諸々の境目に在る侍大将衆に、近国・他国の大将の行儀、作法、仕形などを
聞き出し次第、善悪共に一ツ書にて言上いたせ、というものがあった。
或る年、遠州犬居の天野宮内右衛門(藤秀)と申す侍大将の所より進上仕る書状に、

『美濃岐阜の織田信長に、直系一尺(約30センチ)にもなる桃が三つ成ったものを枝折りにして、
霜月(十一月)中の十日に献上した所、信長は差し引きの冴えたる大将であり、上辺は事を破っている
ように見えても、内心には時により、一段と練れたる事の多き武士でありますから、この桃を大いに
心祝いして、一つは信長自身が取り、もう一つは嫡子城介信忠へ参らされ、三ツ目を遠州浜松の
徳川家康へと送られました。

この事に対し家康は、世の常ならぬほど忝ないことだという返事を出しましたが、その桃は密かに捨てさせ、
家康が食うことはありませんでした。』

これを天野宮内右衛門は書き付けて提出した。それは一ツ書の多い中に、「これはそれほどの事でも無い」と、
末にいかにも粗略に書いたものであったが、信玄公はこれをご覧になり、その書付を御手に取られ、
しばらく目を塞がれた後、御目を開いて申された

「家康は今年で定めて三十ばかりであろう。しかし四十代に及び殊更大身の信長に比べ、五位も増した、
締まりどころ在る分別である。これに対し、武士の心馳せの無い者が聞けば、年齢に似合わぬとも
申すであろうが、三河国を治めるとして、十九歳より二十六まで八年の間に粉骨を尽くし、戦功の誉れも
それに相応し、海道一の武士と呼ばれているが、日本国においても彼に匹敵する武将はあまり多くはないだろう。
丹波の赤井(荻野直正ヵ)、江北の浅井備前守(長政)、四国の長宗我部(元親)、会津の(蘆名)盛氏、そして
若手にはこの家康であろう。

さて、時期外れのこの桃を捨てたこの分別は、後の出世を考えてのことであろう。この出世とは、無事年を明ける
事ができれば吉事となるという事であり。その意味は馬場美濃、内藤修理、高政は定めて合点するであろう。」

そのように宣われた。

甲陽軍鑑



779 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/04/06(木) 12:18:07.62 ID:sy19QJwM
>>769
重要人物は季節外れの果物は食べないって、別の逸話でも見た気がするな。あれは誰だったか…。

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/06(木) 12:27:27.97 ID:wrO1aHin
毛利輝元と石田三成「テルとジヴ」・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-954.html

で輝元が秀吉に贈った桃を拒否している

781 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/04/06(木) 12:31:22.08 ID:sy19QJwM
>>780
おお、それだ。
ありがとうございます。

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/06(木) 16:53:04.10 ID:QdzFzLJH
少し意味が違うが、打ち首直前の石田三成が水を飲ませてくれと言ったら、水はないが柿ならあるけれどどうだ?と言われて、柿は腹を冷やすからいらないと言った話があったな

敵討ちのことについて

2023年04月02日 17:20

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/02(日) 16:24:46.07 ID:0/464KFC
敵討ちのことについて。

先ず、狙われる側の人は常に寝所を変え、昼夜用心し、その上路次を行く所に、先に敵が待っていると聞けば、
脇道を通って迂回するなど、どのように仕るとも討たれるようにするのが分別尤もと言える。
この事を、無案内な人々から卑怯であると言われても、全く問題はない(此儀を無案内なる人々比興という共不苦)。
信玄家の作法はそのようになっているのだ。

次に狙う人は、その身が怪我をしたことへの意趣であるなら、夜昼共に狙って討ち果たそうという時、
その武器として刀、脇差、或いは鑓、薙刀までは問題ない。
さて又、親兄弟、師匠、伯父、従兄弟までの敵討ちであるならば、弓、鉄砲であっても討ち果たしたことを
手柄といたすべきである。

自分の意趣で討つ場合でも、敵討ちであっても、その敵の家に忍び込んで討ち果たすのは、ひとしお良き
心馳せと申すものである。

他の家はどうであれ、信玄家の作法は斯くの如しである。

甲陽軍鑑



766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/04(火) 09:10:38.20 ID:d0SphvuW
>その武器として刀、脇差、或いは鑓、薙刀までは問題ない。
>さて又、親兄弟、師匠、伯父、従兄弟までの敵討ちであるならば、弓、鉄砲であっても討ち果たしたことを手柄といたすべきである。

ここすき

768 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/04/04(火) 21:14:50.13 ID:Flu5Hexi
この書き方だと、妻や子供の敵討ちというのは、弓や鉄砲は駄目なんだな。

770 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/04/04(火) 21:22:08.31 ID:mUM08mQR
そもそも目上の男性の敵以外は敵討にならないよ

彼はためし物の上手であったので

2023年03月29日 19:21

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/29(水) 18:59:41.95 ID:0AUyz2EU
甲州武田の普代衆、隨分の(立派な)侍である今福浄閑という人物が在ったが、彼は若い頃より
ためし物(試し斬り)を能く斬る人で、しかも上手であった。据物を斬ってその頸が落ちる瞬間、
脇差しを以て傷口を貫いて、下に落とさぬよう落下の途中で上に上げるほどの手練であった。

彼はためし物の上手であったので武田家の侍衆は大身・小身共にそれを浄閑に頼んだ。
そのようであったので、年齢が四十六、七歳の頃までには、千人に及ぶほど斬ったと評された。
しかし実際には百人から二百人ほどであっただろう。

この人はどういうわけか、自身の能き子供が幾人も病死した。しかし今福浄閑は禅の参学などして
心も出来た人であったので、下劣な批判には取り合わず、子供が死ぬのも所詮因果に過ぎないとして、
すこしも取り合わなかった。

ある時、信州岩村田の法興和尚が甲州に御座あったが、今福浄閑はこの和尚に見廻(見舞)に参った。
この折、法興和尚は今福入道への教化として言った
「その方は良い齢であるのに、ためしもので罪を作るのは勿体ない。」

今福入道は
「私が斬るのはどこぞの囚人であり、その科が斬り参らすのです。」と言われた。

知識(和尚)は「それは先ず尤もである。」としばらく間を置き、法興和尚は仰せに成った
「今福入道、このいろりへ炭を入れてくれないだろうか。」
「畏まって候」と炭を持って炉辺へ寄った所、和尚は宣われた
「大きな炭を火箸にてはいかがであろうか。定めて、さすが武田の幕下歴々の今福入道であれば、
指を以て炭を入れてくれないだろうか。」

今福浄閑はまた、物の興のある人物で諸芸に達し、既に能などする時も、古保庄太夫などの能楽の者が
立ち会っていても、結句今福の方が優れているほどであった。そういった人であったので、この時も
炭をいかにも面白く入れられた。

さて、立ち退く時、浄閑は手を拭った。このとき和尚は宣わった「今福入道はどうして手を拭うのか。」
「今持った炭のために汚れたのです。」
「この炭を焼いた炭焼の手も、定めて汚れていたのであろうな。」

今福入道は申した「炭焼はこれを製造して出すのですから当然ですが、今はその炭を取った私の手が
汚れたのです。」

「さてこそ、先刻その方がためし物について、相手に科があると言ったが、それを究めて頸斬る今福浄閑にも、
(炭を取った手が汚れたように)その罪がまとわりつくのだ。」

このような法興和尚のすすめにて、今福入道はその後、ためし物を斬らなくなったという。

甲陽軍鑑



武田信玄公は、軍法を新しくなされた事について

2023年03月22日 19:32

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/21(火) 22:17:10.16 ID:x6CQOMpB
甲州において、武田法性院大僧正信玄公は、軍法を新しくなされた事について、このような古歌を索かれ説明された

・しなてるや かた岡山のいひにうへて ふせる旅人あはれ親なし   聖徳太子
・いかるかや とみのおがはのたえばこそ 我大君のみなはわすれめ  達磨大師

『この歌は昔、聖徳太子と達磨大師が対面した折の歌である。達磨大師も日本国に渡られて、大和国の片岡山に、
乞食のようにして住まわれていた。臨済の録に、片岡山下老野狐とあるが、その通りであったのだろう。

凡人はゆめにもこれを存じなかったが、聖徳太子、達磨大師は何れも三世を悟る佛同士の寄り合いであり、
互いにそれを知っているからこそ、先の歌の上に『達磨は唐土に帰ると定めていたが、それは日本の仏心宗が、
その頃は時季相応ではないという故であった。事長し。あらゝゝ』と云ったとある。

件の歌は聖徳のものも達磨のものも本来ずっと長かったのだが、これでは人は会得できないとして、藤原定家卿が
短く歌二首に詠んで、人が会得できるようにされたのだと聞いている。

さて又、いやしくも信玄は分別・才覚の真似を以て、工夫・思案して唐国の諸葛孔明が陣をとりしぎ、備を
設けて城を構えられた儀を尋ねてこれに習い、陣取りを大小二つにして、その他人数、備、三つの構え、数の
働きようを仕り、自分の子孫ばかりではなく、誰人であるといえども、扶桑(日本)戦国の中において、
数万の衆を率いて合戦を行う場合の、疑いを定められまいらせんがための、信玄の軍法は斯くの如しである。』

と宣われたのである。

甲陽軍鑑

信玄の軍法は誰であっても合戦の疑問に答えられるように作った、という事なのでしょうね。



利根にて利発にて、しかも利口なる人

2023年03月15日 19:29

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/14(火) 21:11:06.83 ID:r3YEvImd
土屋右衛門尉(昌続)が、山県三郎兵衛(昌景)に聞いた

「いつぞや、穴山(信君)殿が、馬場美濃(信春)殿に問われた、遠州浜松の徳川家康についての噂について、
馬場美濃殿は、『藝能はやく請取る人を利根者、座配良き人を利発者、武辺の勝れて仕る人を利口者』と、
美濃殿は教えられたと聞き及んでます。さて、では(武田家中の)諸侍の中に、利根にて利発にて、しかも
利口なる人は有るでしょうか?」

山県曰く
「信玄公の御家には、侍大将としては内藤修理正(昌豊)、足軽大将としては横田十郎兵衛(康景)と、
この二人が居ります。この他侍大将の中で、若手では小山田弥三郎(信茂ヵ)なども居ります。
そういった人物の中でも、川中島合戦の時討死なされた故典厩(武田信繁)様などは、物事相整った、
まさしく副将軍と言うべき人物でした。」

山県三郎兵衛はそのように申された。

https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1630338432/702
このお話の続きですね

甲陽軍鑑



造作も御座無き御宗旨かな

2023年03月12日 16:06

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/12(日) 15:33:30.91 ID:fYuFhMfr
内藤修理正(昌豊)の内方(奥方)の母が死去したが、この隠居は一向宗であったので、甲州の家の
とどろきと云う寺の一向坊主が尽くその葬儀に来た。

そのような中、他宗の葬儀の折のように、死者への膳wをいかにも見事にするよう内藤が申し付けたところ、
一向宗の出家たちが申すには
「我が宗の習いにて、御阿弥陀様へ能く食を進上申せば、他には要らぬことです。」
そのように申して亡者に食膳を向けなかった。

内藤修理は尋ねた、「それは一体どうして、阿弥陀に対してはそのように法外に立派にするのか」
上人はこれに
「阿弥陀こそ肝要なのです。他に食を備えるというのは迷いの心であり、一向宗から見れば他宗の方を
おかしく存じます。」と言われた

内藤修理は申した
「亡者が飢えればどうするのか」
上人答えて
「阿弥陀様にさえ食を備えれば、それが尽くの衆生への施しと成るのです。」

これを聞いた内藤は手を合わせて「さても殊勝である。他宗と違い造作も御座無き御宗旨かな。
一尊への施しが万人に渡るとは珍しき、先ず重宝なる一向宗かな」と褒めると、上人は悦んで
「去る程に、我が宗ほど殊勝なるものはありません。」と上人は自賛した。

すると内藤修理は、自身で上人の膳を据え、残り百人余りの坊主たちへは一切膳を据えなかった。
「これはどういう事か」と坊主たちは抗議して膳を乞うた所、そこで内藤修理は

「おや、御口の違う事ではないか。上人にさえ膳を参らせれば、脇々の坊主たちも腹一杯に
なるかと存じでこのようにしたのだが。」

そのように申すと、その後は坊主たち詫び言して亡者にも膳を据え、みなの坊主も他宗のように
執り行った。これは内藤修理の理屈のために、一向宗が恥をかいたのである。

甲陽軍鑑



710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/12(日) 16:53:43.99 ID:u4UaIy7F
イイハナシダナー

武士が武士を褒める作法

2023年03月01日 19:45

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/28(火) 22:50:36.52 ID:gOxpirZ4
穴山伊豆守(信君)殿が又、馬場美濃守(信春)に尋ねられた
「では、三河の徳川家康は人に優れて利根なる仁か」

馬場美濃守
「穴山殿は信玄公の御従弟であり、しかも惣領聟であられますが、失礼ながらそのような御言葉を他国の
家中の者に聞かれては、笑われてしまうでしょう。武士が武士を褒める場合、作法が定まっております。

第一に、謡、舞、或いは物を読んで受け取りの早い人を、利根と云います。また、所作の様子、又は品の良い
人を器用と申し、さらに性発とも才知とも名付けられます。

第二に、座配良く大身小身と打ち合わせや取りなしに困りあぐねる事も無く、軽薄でも無く、術でもなく、
いかにも見事に仕合せする者を、利発人、公界者と申します。

第三に、芸つきも無く、器用に座配をすることも出来ないが、武辺の方にかしこい場合は、利口者と申します。
またこの者を、心懸者、すね者、仕さう成者と名付けて呼びます。

大身、小身共に斯くの如くであり、このように分けてそれぞれに名付けて言わなければ、報告を受けた
国持大将が合点出来ません。

(中略)

このように、三河一国を持ち遠州まで手をかけた家康の事を利根と呼ぶのは愚かです。利口と褒めるのも、
その術を知らぬ仰せられようです。家康については、『日本に若手の甚だしき弓取り』と申すべきでしょう。
必ず穴山殿、御心得なされよ。」

そのように馬場美濃守が申すと、穴山伊豆守は謝り「卒爾に問うてしまった。宥し給え馬場美濃殿」と言うと、
その後どっと笑って、互いに座敷を立たれた。

甲陽軍鑑



現代、織田信長は天下に意見するほどであるが

2023年02月27日 19:31

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/26(日) 20:07:30.52 ID:X2ZD+Z14
ある時、穴山(信君)殿が馬場美濃守(信春)に尋ねられた
「現代、織田信長は天下に意見するほどであるが、聞き及んで人の手本に用いるような軍法が一つも無い。
これは一体どういうことだろうか。」

馬場美濃、答えて曰く
「信長の敵は、美濃衆相手に七年にわたって手間取ったばかりで、残りは皆、信長に怯える人々です。
故に軍法も必要ありません。その上、信玄公は長尾輝虎との戦いの中で、おおかた世間で考えられるほどの
手立て、はかりごとを成しました。そのため他国の弓矢は御当家においては、さほど面白く思えないのです。

殊更、信長も当年三十八歳、天下においても三好殿を押し退け、都の事をまことに自身で意見するように
なったのは、去年七月からのことです。軍法というものも、大敵、強敵に遭遇しての行いです。
信長は国を隔て、信玄、輝虎とは終に武辺の参会が無く、そのような中に現在では、信長は嫡子の
城之介(信忠)殿を、信玄公の聟にとある、武田の縁辺となっています。そう言ったわけで、信長は
手立てすべき敵はさほどありません。

十二年前、今川義元との合戦(桶狭間の戦い)の時は、信長は二十七歳で無類の手柄を成しました。
その頃、信長は小身であり若く、大敵に対し様々なはかりごとを行って、勝利を得られました。

はかりごと、手立ての軍法が無い弓矢(合戦)は、例えば下手が集まって催す能を見物するようなものです。
しそこなわないかと思い、見ながら危なく感じます。

信長の弓矢というものも、美濃国と七年の間取り合いをしたことで、武功の分別が定まりました。
信玄公の弓矢は、村上(義清)殿との取り合いにて、武功の分別を定められました。当時、村上殿は
信州の内四郡、越後一郡ほどの、合計五郡を領していましたが、広き国なる故に、甲州と比較して一国半ほども
ある勢力でした。その上強敵でもありました。

また、徳川家康はこの頃の日本において、北条氏康、武田信玄、上杉謙信、織田信長の四大将に続いて
名を呼ぶほどの大将である十三人の中でも、殆どの者が家康の名を一番に上げる程であり、今年か明年の間には、
この家康と一戦せざるをえないでしょう。そうなった時は信長も、後を考えて、現在でこそ当家の縁辺として
無事であると雖も、家康に対して加勢を行うでしょう。その時は両家を相手になさって信玄公は合戦を遂げられ、
都まで誉れを上げねばなりませんから、これには猶以て軍法を必要とするところです。」

そう、馬場美濃は穴山殿に申し聞かせた。

甲陽軍鑑



南部殿は改易され

2023年02月22日 19:03

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/21(火) 21:32:02.19 ID:MJ0bmBdm
南部下総(宗秀)殿は甘利備前(虎泰)、板垣駿河(信方)、小山田備中(虎満)、飯富兵部少輔(虎昌)の
四人の衆に続く地位でであり、少しは武辺の覚えも有るといっても、浮気にて常に無穿鑿なる事ばかり言い、
遠慮も無く明け暮れ過言を申され、嘘をつかれた。

無分別人であり、彼は山本勘介を憎んだ。そして国郡を持たぬ者の城取、陣取などと批判し、
また外科の医者も深い傷はないと思っているのに(外科医者もふかき事あるましきと思ふに)、勘介が負傷
することを「まして兵法使いのくせに手を負いたる」などと言って、山本勘介に対して尽く悪口した。

この事を目付衆、横目衆はすぐに御耳に入れた。武田信玄公はこれを聞かれると、長坂長閑、石黒豊前、
ごみ(五味)新右衛門を御使とされ、即ち書立を以て仰せ下された。その書立の内容は

『南部下野が、山本勘介という大剛のつわものを悪口の事、無穿鑿なる儀である

一、山本勘介という小身の者の城取、陣取りがまことらしからぬ、と言ったというが、これは物を知らぬ
申されようである。唐国(中国)周の文王が崇敬した太公望は、大身ではなかった。

一、兵法使いのくせに負傷した、などと申したことは一層武士道不案内である。兵法というものは、
負傷しないという事ではない。負傷しても相手を仕留める事こそ、本当の兵法である。
殊更、其の方の被官であった石井藤三郎が白刃でかかってきたのを棒にて向かい。組み倒したというのは、
例えこの時勘介が死んだとしても、屍の上まで誉れある事なのに、それを嫉むのは無穿鑿なる事だ。

一、其の方南部の手柄というのは、実際には家臣である笠井と春日の二人して仕ったものであったのに、
あたかも自分の手柄のように申していると聞き及んでいる。

この三ヶ状を以て成敗仕るべきなのだが、そのようにすれば、却って山本勘介も迷惑に思うだろう。
ここを勘介に免じて命を助けるので、遠き国へ参れ。』

このようにあり、南部殿は改易され、奥州の会津へ行った事で、彼は誅殺を免れた。彼の支配下に有った
七十騎の足軽、旗本、その他が方々に分けられた。後の春日左衛門、笠井備後はこの南部殿の二人の家老の
子である。

甲陽軍鑑



山本勘助と申す大剛の兵は

2023年02月17日 18:45

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/17(金) 15:22:56.61 ID:JlT8fkiM
武田信玄公が二十八歳の時の事。

山本勘介と申す大剛の兵(つわもの)は、武道の手柄ばかりではなく兵法上手であった。
ある時、信州諏訪に於いて南部(宗秀)殿の内の者であった石井藤三郎という男を南部殿が
成敗しようとしたが、失敗しこの者は斬り回り逃げようとした。

その頃、山本勘介はこの南部殿の元へ来ており、彼が近くに居た座敷に、この藤三郎が
斬り押し込んできた。

これに勘介は刀を取り合わさず、そこに棒があったのを取ると、向かい受けて組みころばし、
縄をかけて南部殿へ渡した。この時少しばかり、三ヶ所を負傷したが、負傷と申すほどのものでもなかった。
何故なら三十日の内にすべて平癒したからである。

惣別、勘介は武辺の時も放し討ちの時も数度において少しずつ負傷し、八十六ヶ所の疵があった。
その事を先の南部殿は悪しく沙汰していたのだが、この時は何も言われなかった。

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