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「お東、留守政景に早く出陣するようせつく」

2016年05月21日 14:50

義姫   
637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/20(金) 23:16:15.99 ID:PZ8kAf93
人物叢書『最上義光』巻末年表の慶長五年九月二十日に「お東、留守政景に早く出陣するようせつく」とある。
では具体的にはどのようにせついていたのだろうか? 
書状の文面からうかがえる。
「こちらに来て下さって本当にうれしいです!
 大変なことになっているから、ともかく一刻も早く山形に来て下さい。
義光父子もあなたを待っています!
とにかく早く早く、急いで急いで、本当にすぐに来てくださいね!
(九月十九日午前六時頃)」
「昨日はお返事ありがとう。
数を揃えてから山形入りするそうだけど、今日は戦闘になりそうだから、人数揃い次第山形に来て欲しいんです。
最上父子にも何か意見を言ってあげてください。
義光は相手にも都合がある等と口では申しておりますが、
ともかく早く来て欲しいんですよね。
全員揃わなくても、あとから来る部隊は誰かに任せてもよいのでは?
急いで来るなら、義光のあなたへの好感度もアップすることでしょう。
ともかく急いでください。今日の昼前には来て下さい。
一刻も早く来てください。
一戦交えたあとで遅れて来るのでは、あなたのためにもならないと思いますよ。
ともかく早く!(九月二十日午前四時頃)
「今日、使者は送ったけどお手紙遅れなくてごめんなさいね。
あなたの宿舎も窮屈で退屈ではありませんか。
こんな緊急事態で義光父子も何のお構いもできなくて、ごめんなさい。
でも、あなたと私は親しいんだし、義光の前だからって遠慮しなくていいんですよ。
義康はまだ若いから失礼があったらごめんなさい、
私はあなたと義康の間をとりもつから安心してください。
何かご意見ありませんか? 
そういえばあなたのご家族、元気にしていますか?
息子さんもきっと大きくなったでしょうね。様子を聞きたいものです」
さらには上杉撤退後。
「帰陣されるって聞きました。決着はついたから、帰るのもありですよね。
でもまだ籠城している残党がいることですし、まだ一戦ありそうでして。
だから、ちゃんと決着がつくまで戦って欲しいんですよね。
それから帰っても遅くはないでしょ。
義光も内心はそう思っています。
私にそう相談してきましたからね。
でも、あなたにとどまって欲しいというのはあくまで私が考えていることです。
政宗のおかげで最上が助かったことは天下に知れ渡っていますから。
だからこそもうちょっと最後まで見守ってもらえたらな、って。
遠くに行ってしまったら援軍を頼んでも仕方ないって、義光も言うんです。
もう三~五日ですから、留まってください。
そうやって落ち着くまで滞在した方が政宗の評価もアップすると思います」
さらにはお東侍女・小宰相からもこんな手紙が。
「政宗(原文でも呼び捨て)が会津に向かうからあなたも早々に戻るそうですが、どういう理由かお聞かせいただけますか。
山形は敵が撤退したといえども、まだ近隣には残党がいます。
あげくには忍びやゲリラ部隊を使って活動させているとも聞きます。
まだ最上勢は少なく、城の奪還もできず、劣勢の中敵をくいとめている状態です。
最上家は滅亡の危機にあると、ここに伝えさせていただきます」

こうした必死の要請を受け、政景はその後も山形に滞在し、
最上家は危機を脱した。
それにしても、政宗からは深入りするなと釘を刺され、
一方でお東からこんな手紙が毎日のように届く政景の気持ちを想像すると、
胃が痛くなるかもしれない、ちょっと悪い話なのか。
それとも必死で手紙を書くお東のちょっといい話なのか? 迷うところ。



640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 17:12:29.73 ID:LAEUGsmI
>>637
お東って誰?と思ったら義姫のことなんだね。
これでもかと引き止めててワロタ、帰りづらいってレベルじゃねーw

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「留守政景と泉田重光の確執」

2011年07月26日 23:04

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/26(火) 20:48:38.55 ID:gXcbMCUP
「留守政景と泉田重光の確執」
いい話スレで大崎合戦の話が出ていたので…。

宮城郡八幡(やわた・現宮城県多賀城市)の領主、八幡景廉は幼少で家督を継いだ為、
叔父の下間景継の後見を受けていた。その景継は嗣子が居なかった為、景廉の異母弟である
業継を養子に迎え入れた。
景継の死から数年後、八幡家中では凡庸な当主の景廉ではなく、下間業継を擁立しよう
とする声が高まった。家中を押さえ切れなくなった景廉は、主家である留守家に助けを
求めて逃げ込んだ。これに応じた留守政景は景廉と共に下間城を攻め、たまらず業継は
逃亡し、姉の嫁ぎ先である伊達家臣・泉田家へ身を寄せた。泉田重光は業継の甥にあたる。

業継の亡命後、留守政景と泉田重光は対立する様になった。この両名が大崎氏の内訌を突く
べく大将として派遣されたが、伊達軍が集結した松山城での軍議の場でも意見が衝突する。
松山城主・遠藤出羽守は敵方の新沼城主が出羽守の姉婿である事から、これを素通りして
敵城・師山城に抑えを残し、一気に敵中深く中新田城まで攻め入る事を主張、これを重光
は支持する。対して政景は十分に敵情を調べた後に侵攻すべし、と慎重論を唱えた。
重光は政景の岳父である黒川晴氏が大崎方へついた事を挙げ、政景は消極的であると罵った。

結局、重光に押し切られ伊達軍は留守隊を抑えとして中新田城を攻撃するも、降雪により足元
を取られ、反撃に出た大崎方によって多くの死傷者を出した。分断され雪中に孤立した政景は
舅・晴氏に使者を立て、松山城までの撤退を許された。一方の重光は敵方の新沼城に
収容され、自らが人質になる事で将兵の解放が許された。




伊達政宗、秀次処分での危機に

2011年03月18日 00:03

378 名前:1/2[sage] 投稿日:2011/03/17(木) 16:18:54.01 ID:ssXHTjZy
この話は後年、伊達政宗の叔父である留守政景が、親しい者に語ったことだという。

文禄4年(1595)7月、世に言う秀次処分が起こった。この時『伊達政宗も秀次の与党である』との
風聞が流れ、国元にいた政宗は大いに驚き急いで大阪に向かい、まず政宗の秀吉への申次たる医師、施薬院全宗の
屋敷に入り、そこから秀吉に対し自分の無罪を訴えた。

施薬院の屋敷には秀吉からの糾問の使いが2度まで送られ、その後政宗に命じられたのは

『わが子秀頼が誕生したとき、汝の息子兵五郎(後の伊達秀宗)を参らせた。これは秀頼の被官となった者の
初めである!されば、かの兵五郎を以て伊達の家を継がせよ。そして汝は伊予に国替えさせる!
伊達家の主な家臣たちも皆上洛させ、政宗自身は京のおのが屋敷で謹慎しておれ!』

つまり政宗は強制的に隠居させられ、伊予への国替えを申し付ける、と言うのだ。
政宗はこれに驚愕した。そしてどうにか秀吉からの赦免を得るべく、留守政景ともう一人側近をつけ
徳川家康のもとに派遣した。この時家康は、伏見にいた。

京から夜を徹して駆け早朝、徳川家の伏見屋敷についた二人に、家康はすぐに対面した。
その朝はやや寒く、家康は火鉢に寄って体を温めていた。

二人が申す旨を聞くと、家康は表情を和らげ「こんな朝早くに来たのだ、朝食も未だであろう?
丁度朝食が出来たところだ、お前たちもこれを食すが良い」と言うと、そこに食事が運ばれてきた。
二人は遠慮をし、その場を下がろうとすると家康、「よいよい、お前たちもこの場で食せよ。」と留めた。

ところで家康はご飯を黄銅の鉢に入れ、それを火鉢の上に置いて、なんと保温していたらしい。
そして給仕のものに「あの二人の飯はもう冷えているだろうから、これをあたえよ」と、保温されたご飯を
分け与えた。

さて食事が済みお茶が出され、一息ついたところで二人は再び家康に訴えた。
「政宗はどうすればよろしいのでしょうか!?ご返事受け賜わるべし!」

すると家康、上座から降りてきて突然、大音を響かせた!

「やあ!おのれらの主人は、さしも日頃は世の人をば這う虫程度にも思わず、無遠慮な言葉を吐き散らかし、
馬鹿げた振る舞いばかりしているが、このような窮地に至るとそれまでの威勢が夢ばかりもないではないか!
そう言う人間を、臆病者というのだ!

お前たちは伊予に渡って、魚の餌になろうと思うか!?それとも都のうちで犬の餌になろうと思うか!?
この二つのうちどちらかに思い極め、その上で愁訴せよ!

わしからの返事がある。…お前たち、近くに来いッ!」

「は、ははっ」

二人、恐る恐る家康の側に行くと、なにやら耳打ちされた。

379 名前:2/2[sage] 投稿日:2011/03/17(木) 16:21:16.42 ID:ssXHTjZy
さて次の日、京の伊達屋敷の者たち、「我々は討ち手と戦って死ぬ!」と大騒ぎを始めた。これには京の市民も
驚き怯え、大阪にも聞こえたため秀吉は「すぐに様子を見てこい!そして政宗の家臣たちの上洛を急がせよ!」
と命ずる。秀吉の使者が伊達屋敷の門前に至ると、屋敷の者達、侍だけでなく雑人に到るまで弓矢を背負い鉄砲に
火縄を挟み、槍や長剣で杖ついて大庭に満ち満ちているのが見えた。そこに御使到着と聞いた政宗が、
頭は髻を切った大童、刀も差さぬ姿で兵たちを押し分け現れ、門を開かせ内に招き入れた。そして御使の
仰せを聞いてから

「この政宗が、先の隠居、国替えという仰せを承ると、家の子郎党たちが集まって私に対し建議しました。
その内容は

『どうして先祖累代の地を離れて知らぬ国にさまよい、天下に恥をさらすことが出来ましょうか!?
政宗様は尋常にお腹を切りなされ!我々は討ち手を待って斬り死にいたします!』

私はこれを制し、そんな事をしてはならぬ、考え直せと説得しました。ところがこれに家臣たちは
『こんな大臆病の主人だとは知らなかった!』と反発し、もはや私の下知は受け入れません。
今まで私の下知を、一体どんなことであっても必ず背くことのなかった彼らが!

いま政宗が太閤殿下のお咎めを受けたため、家臣たちは己の主人が有るとも考えもせず、このような
酷い振る舞いに至りました。この事、きっと殿下のお耳にも達するでしょうが、これは全く政宗の所存では
ありません。もしお尋ねがあったら、どうかその事をくれぐれもお伝え下さい!

また在国の家臣たちですが、上洛するように何度催促しても、一通の返事すらよこしません。
彼らもまた何か、良からぬことを企てているのではないかと大変心配しております。」

と伝えて、御使を返した。

さて、この事で大阪城も騒ぐ中、伏見の家康が「洛中の騒動を聞いた」と登城し秀吉に対面した。

そして秀吉に言うには
「殿下、都において政宗の家人たちを打ち滅ぼすこと、これは何程の事もない。ごく簡単に済ませられるでしょう。」

「むう。京は問題ない。だが…」

「はい、在国の者達が累代の主人が失われたと聞けば、彼らは理非をわきまえぬ荒えびす共ですから、
殿下からどんな仰せがあっても、その御下知に従わず反乱を起こすでしょう。

現在、朝鮮のこと未だ決着が見えておりません。外征のさなか、国内で兵乱を起こすべきではありません。

卑しきものの言葉ですが、大事の前の小事、と言います。また、罪が疑わしければこれを軽んずる、という
言葉もあります。そして何よりも、あの伊達の所領を奪ったところで、遠く離れた所領でありその管理に
大変な労力が必要となります。

以上の理由により、先ずこの度は寛宥の御沙汰があって然るべき…、かと存じます。」

そんな家康の言葉もあり、また、何故かこのころ、京伏見にいかにもわざとらしい
伊達政宗が太閤殿下を討ち給わらん謀り事の様』なる立て札が現れ。これを見た秀吉は
「どうも政宗を憎み陥れたい人間が
、このような噂を流しているようだ」と判断、

結局、政宗の処分は撤回されたという。

以上、伊達政宗が秀次処分での危機を逃れた顛末である。




382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/17(木) 19:45:29.61 ID:lhz2+s+0
こないだの、前田利家の家臣と揉めた話は笑えたけど、これはちょっと。。。
力作書いてもらっといて、こんなこと言うのもアレなんだけど。

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/17(木) 21:14:04.16 ID:9OlioCmO
ほとんど同じ話で確か原因が九戸の乱になってるバージョンは
すでにまとめにあった気がするが。

こっちは秀次の時という設定だと山岡荘八の小説にあるやつだな。
こっちがまとめにあったかは忘れた。
この話は読む本によってだーいぶ印象が変わるな。

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/17(木) 22:37:36.54 ID:cPQP231o
>>378
福島から宮城に引っ越していいけど、四国は嫌なのか。
暑がりなんだね。


385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/17(木) 22:40:18.93 ID:7X2GAQ9L
気候の問題じゃないだろうよ・・・とマジレスしてみる




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まーくん、家康に助けられる。
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