fc2ブログ

「越後野史」の畠山義春について

2023年06月02日 20:55

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/02(金) 16:52:39.65 ID:F9+RQESR
越後野史」の畠山義春について
畠山義春は能登守畠山義忠(畠山義続?)の末子で質として越後に来たが、人となりが武勇にして聡明なために謙信侯の寵愛を受け、幼少時からそばにおかれた。
常に謙信侯の軍略を見聞して十四歳の時から一軍の大将となり戦功を何度も立てた。
景勝と景虎の争いは二年続いたが景勝に味方し、鮫が尾城にて景虎を自殺せしめた。
また二本木駅において森武蔵守長可を破り、軍略をもって新発田重家を攻め、功績がすぐれていた。
景勝卿の妹婿ときて海津城主となり上条上杉氏を継いだが、直江兼続の讒言により上杉家を退転した。

>>772で宇佐美定満がでてきたり、畠山義春直江兼続に讒言されたり、と書かれているので「越後野史」は
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12369.html
雑談『松隣夜話』について
でも語られている、自称宇佐美定行(宇佐美定満)の子孫の宇佐美定祐の捏造の影響を受けてそうだ。
鬼武蔵のwiki見るとたしかに鬼武蔵が二本木まで攻め込んで上条景春を破った、と書かれているけど、これも宇佐美定祐「北越軍記」が出典扱いされてるし、どこまで本当なのやら。



スポンサーサイト



この書は偽書である

2022年06月03日 18:22

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/03(金) 10:24:22.25 ID:sDLB/S+3
寛永十二年の頃、或る人が甲陽軍鑑を畠山入庵(義春)の所に持ち来たりて、慰めに読み聞かせた所、
入庵曰く

「この書、大いに相違している。第一に上杉謙信が梶原景時の裔とあるが、謙信は元々長尾であり、
村岡勝軍忠通の三男・鎌倉四郎兵衛の孫、治郎景弘が始めて長尾を氏とし、兄弟が分かれたのであり、
別流である。

また「長尾義景」と書かれているのは、私の舅である政景の事であり、義景ではない。

また、天正三年の記録に、公方霊陽院義昭公と書き載せられているが、義昭公は秀吉公後他界の
前年まで後在世であり、慶長二年八月二十八日に薨ぜられたのを、その二十年前、天正六年に死んだ
高坂弾正が諡号を書くこと、不審である。

また天正五年十月に切腹した松永弾正の事を、天正三年六月の記事の中に書いている、松永の滅亡を
三年前に知って載せている。

また天文十六年二月十五日、武田晴信(信玄)が甲府八幡に詣で、山本勘介(勘助)を呼んで西国の事を
尋ねると、勘助はその座に於いて、大内義隆を家臣・陶尾張守晴賢が討ち滅ぼした事を語るとある。
義隆は天文二十年九月、長州深川村大寧寺に於いて生害している。これは晴信へ勘助が談じた年月から
四年後のことである。

また川越夜軍を、北条氏康が上杉と戦ったとある。川越の夜軍は氏康の父氏綱と、上杉五郎朝定との
戦いであり、天文六年七月十五日の夜である。
また両上杉に北条氏康が討ち勝った戦は九年後、天文十五年四月二十日の昼である。
(筆者注:こちらが一般的に言われる河越夜戦)
これら二つの戦いを一度に記するのは誤りである。

また十巻目の下に、松山の城主・上杉友定とある。松山城主は上杉左衛門大輔憲勝である。
憲勝は山内上杉・民部太夫憲顕より六代の孫である。また友定という人は、上杉一門の中には居ない。
朝定の事であろう。但し朝定はその一五年前、天文十五年四月二十日に討ち死にしている。

この書は偽書である。その上で謙信の時代のことは、私が直に見た事である。」

そう言われたという。

新東鑑

畠山義春による甲陽軍鑑へのダメ出し



488 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/06/03(金) 10:44:29.98 ID:aZoX+ODJ
日記じゃないし、昔のこと思い出して書いてるから年月日は自信ありませんと甲陽軍鑑に断りとして書いてあるのは読めてなかったのかな?

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/03(金) 11:04:33.63 ID:XcW5W4tO
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3542.html
畠山義春さん、甲陽軍監を聞いて


出典がないのは前に出ていた
こちらのは新東鑑が参考にした書が出典だろうと思うけど

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/03(金) 18:29:51.57 ID:IglZJe0y
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7423.html
畠山義春の出奔


甲陽軍鑑に畠山義春がダメだしをした、て話は怪しいとか前に出てたな
宇佐美定祐が甲州軍学より自分の上杉軍学の方が優れていると言うために
甲陽軍鑑の誤りを畠山義春の名前を借りて指摘したとか

川中島合戦諸説

2021年06月22日 18:09

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/22(火) 15:05:34.29 ID:CX1S4mN5
武田典厩(信繁)は、上杉謙信と太刀打ちし、川中に切り落とされ、屍骸が川に流れたのを、
越後方の梅津宗三という者が引き上げ、典厩の首を取ったが、典厩の家人である山寺伊右衛門、
樋口宗三郎、橋爪出羽という者達三人が懸かり合い、梅津宗三を討ち取り、典厩の首を取り返した、
という説がある

また謙信と信玄の太刀打ちの時、信玄が団(軍配)にて請けられた、との説があるが、
慈眼大師(天海)がその時信玄方に居られ、山の上より直に見られ、信玄も太刀にて
謙信と勝負していたと、南麻主計に度々物語された。

畠山入庵(義春)も、その勝負を眼前に見られたといい、彼の物語に、信玄も太刀にて
謙信と勝負されたという。

慈眼大師は永正七年の生まれにて、遷化の時、百三十八歳であったと云われる。又一説には、
天文十年の生まれにて、遷化の時、百七歳であったとも云う。
百三十八歳が正しければ、初めの川中島合戦は四十五歳であり、百七歳にて遷化されたのであれば、
その合戦当時は十四歳に当たる。

川中島年月考

信玄と謙信の太刀打ちというと、第四次川中島合戦だけど、これが永禄四年だから、天海はともかく
畠山入庵はまだ生まれていないな(永禄六年生まれ)



822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/24(木) 17:19:43.29 ID:7SGd52Fe
天海の年齢はどこで狂ってるんだろ。隋風時代に詐称あっても100歳こえるよね?

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/24(木) 21:29:07.89 ID:cctjc1VX
>>822
年齢的に無理があるから、結構前の上条政繁みたく同一人物扱いの別人って説が出てきたりして

荻田主馬の待遇

2021年06月06日 17:44

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/06(日) 14:57:38.93 ID:hS/VC2gz
荻田主馬(長繁)は、童名孫十郎といい、上杉謙信の小姓であった。後に與騒兵衛と言った。
上杉景勝の代に、旗本の武者奉行となったが、文禄の頃、景勝への不足を言って立ち退き、
後に結城宰相秀康卿に召し出され、その後越前に御供して参った。

この主馬の事を。古い傍輩の筋目である故に、城和泉守(昌茂)が駿府に於いて徳川家康に対し、
その待遇について様々に執り成しを申し上げた。大御所(家康)はお聞きに成ると、

「その方の親の意庵(城景茂)は越後に居たが、その方は甲州にて生まれ、それで上杉家中のことを
どうして知っているだろうか。途方も無いことを申している。
総じて武辺のことは、その家に居て、見聞きした人の言うことが実である。
他国に伝わった評判、又伝、又話では、疑うべき事である。」

そう言ってお叱りに成られた。
その座に畠山入庵(義春)、その子伊勢守(畠山義真)が居たため、上意に
「荻田のことは入庵は存じているであろう。語り申すように。」と仰せに成られた。
入庵は承り

「荻田は、我が組に罷り在りました。彼が孫十郎と申していた時、越中の陣にて、敵味方が
堤・土手を挟んで睨み合っていた時、孫十郎は一番に走り出て、槍を打ち込み、合戦を始めた
手柄が在りました。また三郎景虎と景勝が戦った時(御館の乱)、北条丹後守に槍を付けた事と、
この二度の武辺がありました。その他の武功は、それぞれの合戦で少しずつの事です。」

と、憚り無く申し上げた所、大御所は

「さてこそ、和泉の申し分とはうらはらに違っている。ではあるが、景勝家にて口をも聞くほどの
者であったというのに、越前に於いてそのように小身では、人材を粗末にしてしまう事となるのに、
越前の息子は合点の行かぬ者である。」

との御意故、その後荻田主馬を越前に於いて、一万石に成されたという。

(信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記)



252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/06(日) 23:30:21.40 ID:2BcYQFS/
上杉家中の切り崩し

この時、頼宣君の御物語りよると

2016年09月04日 14:18

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/04(日) 04:22:58.78 ID:X8gZXZyP
この時、頼宣君の御物語りよると、両御所様の御前へ諸大名が追々
に参られ、(大坂夏の陣の)御勝利の御祝儀を申し上げ、また銘々が
自身の働きを申し上げなされた。

その中で畠山夕庵が参上致すと、権現様(徳川家康)は御覧になって、
「夕庵、これへこれへ」と御呼びになり、夕庵は御前近くへ参ると、

「今日の御勝利が思し召しのままになりました御事、めでたき御儀で
ございます」と、御祝儀を申し上げなされた。すると権現様は夕庵の
籠手を付けた手を御取りになられ、

「また勝ったわ」と、仰せになった。「これは関ヶ原のことを仰せ出し
なさったのであろう」との、頼宣君の御物語りである。

――『南竜言行録』




汝は知らぬのか!

2014年09月15日 18:51

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/15(月) 06:40:28.06 ID:y4jijLvH
大阪夏の陣の時のこと。

徳川家康久世広宣と坂部の両人に物見を仰せ付けた。
坂部は仰せを受けると直ぐ様物見へ向かったが、久世は出て行くまで御前を立ちかねるような様子が見えた。
これに近習の者達が笑ったのを、家康は咎めた。
この時、畠山入道(義春)が御側に居たが、彼が「久世の武者振りについて笑ったのですよ」
と申し上げると、家康は激怒した

「汝は知らぬのか!坂部は生来ああいう勇猛な性質だが、久世は仁義の勇を持った
忠臣であることを。彼を笑うのは推参至極である!

今に両人は帰ってくる。しかし、坂部より久世は敵の状況をより間近まで近づき偵察して
帰ってくるだろう。何故なら、久世は物事を大切に、前後を考え、また常に主君のためにと
決意しているからだ。それを知らぬか!?」

そう怒鳴っている所に坂部が戻ってきて家康に報告した。次に久世が戻ってきて報告を行った。
すると案の定、久世は坂部よりも二丁(約200メートル)ほど敵近くまで進んで偵察していた。

(明良洪範)



畠山義春の出奔

2013年04月06日 20:03

170 名前:1/2[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 04:02:05.63 ID:+LeHdO+v
伝え聞く所によると天正12年(1584)、上杉景勝より、上条(畠山)義春に、信州貝津、ならびに川中島領が
与えられた。その拝領の席でのこと。直江山城守兼続は景勝の前に座し景勝を脇に置き、自身に対して
諸侯が頭を上げられないようにしていた。

義春はこの事を奇怪に思い、貝津から何度か景勝に書状を出した。その趣は

『大名家においてただ一人の出頭人というのは御為に成りません。この事が陰でどのように言われているか、
よくよくお聞きになるべきです。』

景勝はこの書状を直江に見せ、
「これはどういう意味だろう?上条はこの様に申しよこしてきている」

直江は、これは自分の事を言っているのだと直ぐに悟ったが、表に出さず、さにあらぬ体で
「上条殿がどういう意図でそのようなことを言われているのか、よく解りません。」
と答えたが、内心、義春を自分の障害になると思い、景勝に讒言を行った

「上条殿は真田安房守昌幸と内通し、殿に対し逆心が有ると噂されています。」
景勝は、そのようなことが有るはずがない、と否定したが、それでも直江は
「とにかく、上条殿をこの春日山に引き取り置くべきです。何故ならば芋川、栗田、島津、岩井といった
信州衆の面々は、上条殿に大変に懐いており、これを放置すれば後々難しいことになると考えるからです。」

この様に何度も讒言を行ったため、景勝も、そうかという心が生じ、終に義春を越後に召喚する
使いを出した。

171 名前:2/2[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 04:02:38.75 ID:+LeHdO+v
信州衆はこれを知ると大いに驚き
「これは只事では有りません。絶対に行くべきでは有りません!
申し訳を行うのであれば、ここから行なっても良いでは有りませんか!
春日山に行って良い事は、絶対に有りません!」こう、再三に渡り意見した

しかし義春
「私は幼少より謙信に取り立てられた人間であり、その恩を報じ無くてはならない。
春日山で切腹することに成っても構わない。その上、私には心底から、謀反の心など欠片も無い。
であれば申し訳も必ず立つはずである。」

そう言って貝津を出立したが、信州衆は彼を城橋まで追いかけ
「どうしても春日山に行くべきでは有りません!こうなれば真田と一味して御謀叛なさるべきです。
先陣は我々が承ります!」と、なおも説得した。それでも義春は

「私の妻女、そして子の弥五郎、源四郎、弥三郎は皆春日山に居住しているのだ。そうである以上
そのようなことは出来ない。」

そう断り、終に春日山城に参上した。

すると景勝は即座に義春を捕縛し。領地は全て没収、信州衆との連絡も立たれ、彼の家臣も
妻子ある者は皆地元の上条へ戻り、義春の周りには5,6人だけが従っている、という有様となった。
そして今日明日にも切腹、という状況に追い込まれた。

ところが、義春の番をしていた者が密かに申し上げた
「このように成ってしまえば、もはや御滅亡は疑いありません。他の者が番をしている間は
ここから脱出することはできません。ですから、私が番を担当している時に、どうか脱出を
してください!」

義春は合点し、直ぐ様能登に人を遣わして迎え船を府中湊まで呼び寄せ、天正16年(1588)7月3日、
春日山より密かに脱出し上方に上り、そして大阪の秀吉に申し上げた

「このような理由で、私はこちらに上がりました。私に立身の望みは有りません。
どうか、理非を吟味され、私に理がないと判断されるなら、即座に切腹いたします。
しかし、私に理があると判断なされれば、景勝に御扱いを仰せ下され、私が本国に
帰国できるようにしてください!本国には妻子も残っており、大変不憫に感じております。」

秀吉もこれを至極尤もだと思い、先ず飢えにようにせよと玄米千石を御扶持米として下され、
そして石田三成に
「義春と景勝を仲直りさせるようにせよ。直江山城さえ了解すればいい。景勝は直江次第である。」
と命じたが、三成は直江と親しい関係であったため、知らぬふりをし、ついにそれは13年間
捨て置かれたのである。
(北越太平記)

畠山義春出奔についての逸話である




172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 04:58:55.25 ID:+NZFBHtb
三成が隠したってこんなもめごとあったら、秀吉も景勝が来た時に「あの件どうなった」って聞くだろ

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 07:58:34.57 ID:5kQRsSwa
>>169
一応甲州の方からは北条氏長と山鹿素行が出てるからな

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 07:59:57.77 ID:dAD9VSpO
で13年後はどーなったの?

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 08:36:30.02 ID:kvKiWyEE
えっと・・・景勝は馬鹿なの?

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 09:04:10.21 ID:LNSY4flI
直江と三成は君則の奸のテンプレみたい

しかし景勝はラスボスと違って操縦簡単そうだなwww

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 10:05:46.15 ID:s/lZUpkv
「と、殿が申しております。(キリッ!」だな。

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 10:08:19.40 ID:pkLLlO7J


179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 11:18:07.89 ID:63eEMAob
義春さん関ヶ原では東軍だったらしいな
仕返しはなった訳だ

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 11:25:49.63 ID:oWibhH2D
笑わない
全部直江任せ

自閉症?

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 11:39:00.09 ID:5kQRsSwa
本当に謙信死後の上杉って陰険だよなぁ・・・

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 12:19:10.20 ID:jcT9av3r
また宇佐美定祐か。この人の上杉関係の著作って
紀州藩や畠山義真とのラインで、いい加減な話どころか
(出自すら)嘘っぱちだらけだからなあ。
正直『甲陽軍鑑』あたりと比較するのも失礼なレベルで俗悪だと
思うんだけど。

いかに逸話スレとはいえ、ここらへんをソースに言いたい放題とか
悪い冗談としか思えん。

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 12:29:50.95 ID:asPC0UJM
上杉sageのための工作書か・・・あの当時の2ちゃんみたいなものだな

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 13:04:51.35 ID:bSrbgxM0
>>182
要するに上杉と武田の資料は全く信用が置けないってことか

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 13:09:42.64 ID:kGEvB6jb
直江を主人公で大河とか今更ながら基地外じみてる

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 13:36:11.19 ID:Ne4U7bUU
>>184
だから一次資料が重要なんだよ

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 14:15:32.14 ID:jcT9av3r
>>183
上杉sageというか、越後流軍学を推したい紀州藩の思惑と、それに
乗っかって自家の経歴を詐称して仕官にありついた宇佐美定祐の「捏造」だな。
さらに畠山義真も一枚噛んでいるようだし、しかも畠山は米沢藩の「軍法役」に
「軍法」を伝授したりもしているとのこと。
しかも、それが米沢藩の修史事業にも大きな影響を与えてしまっているため、
なかなか厄介なことになっている。
長尾政景の横死なんておかげでなにがなんだか、さっぱり判らないことになって
しまっている。
このラインゆえか、宇佐美定祐の著作は畠山義春を持ち上げて
直江兼続をくさし、そして直江の専横にまったく口出ししない景勝、
という傾向が強いと思う

>>184
すくなくとも宇佐美定祐関連は眉唾かなあ。
『甲陽軍鑑』に限らず二次史料は注意は必要だけど、有用な史料には
なると思うけどね。考古学的な成果によって二次史料や言い伝えの内容が
証明されたケースもあるわけだし

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 14:24:56.22 ID:hS+6+fdG
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3542.html
この逸話で理路整然と畠山義春が甲陽軍鑑の間違いを指摘しているけど
もしかしてこれも宇佐美関係?

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 15:27:17.42 ID:Ne4U7bUU
家譜や軍記は君主や自分の先祖を持ち上げるための誇張は付き物だけど
宇佐美定祐だけはそこに悪意まで入るからどうしようもない

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 16:40:42.05 ID:7UGOs80f
>>188
その可能性は高い。
畠山義春が『甲陽軍鑑』の間違いを指摘したというエピソードの出典は
国枝清軒編纂の『武辺咄聞書』なんだけど、この国枝は『東国太平記』の
編者でもある。そして、紀州藩の儒学者・榊原篁州がこんな証言をしている。

「北越太平記、東国太平記は紀州の宇佐美竹隠がつくり、その名を隠した
ものである」

つまり、国枝清軒という人物の正体は・・・・。


まあ義春本人は宇佐美勝興の経歴詐称を見破った人物なんだけど、義春の
子・義真は後年「それは間違いでした」と撤回してるんだよね。
最近出た『神になった戦国大名』という本では、畠山家の伝えていた「謙信の
軍法」を越後流軍学を作り上げるのに寄与してもらった見返りに、国枝清軒と
して、義春の逸話を書いたんじゃないか、と指摘していたな。

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 21:19:32.57 ID:0LbL04cn
>>172
まあそういうツッコミ所もあるから逸話ってのは話半分に受け止めときゃいいのよ

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 00:39:29.86 ID:s1NJjeq0
>>179
いい話になったな