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主人の勝頼は図らずも信長のために自害して

2022年01月04日 16:13

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/04(火) 03:12:50.87 ID:AEphEda+
(天正9年、笠原政晴の謀反の時)

小田原の老臣である松田尾張守(憲秀)の子息・松田新六郎はその頃は笠原の養子で
笠原新六郎(政晴。政尭の名で知られる)と申し、600騎の大将であったが去年より戸倉の城に在城した。

その頃の駿河国は甲州の領地なので、伊豆の堺目沼津の城に勝頼衆の高坂源五郎(春日昌元か)が200余騎で籠もった。
笠原新六郎も手勢180余騎で戸倉に在城し、互いに近所なので苅田をさせ、夜駆けの足軽競り合いが度々あった。

この新六郎は若輩の頃より武勇の道は無器用にして、欲深きことは並びなき人であった。
そのため高名もなくして官禄を望み、功なくして忠賞を願い、折にふれて不忠ばかり多いため、
小田原でも氏政と氏直(北条氏政・氏直)はさほど御馳走なく、新六郎は内々不足に思い、
「時機が良ければ謀反も起こすというのに」と躊躇っていた。

そんなところに沼津の城主・高坂源五郎は、三島の心経寺という僧をもって勝頼の御意だとして
色々新六郎を謀り、「伊豆一国の守護になされ新六郎を勝頼の婿になさるので、こちらへ降参して忠功なされてしかるべし」
と語らった。笠原は元来大欲深き男で、そのうえ内々小田原に不足もあり時機良しと存じて甲州方になって勝頼へ内通し、
甲州勢・海野組の衆200余騎にて戸倉の城へ籠もった。

(中略。政晴は北条方を攻めて笠原照重を討ち、玉縄の北条氏勝が政晴討伐に出陣)

同3月中旬、戸倉・大平の間の手白山という所まで出張ると戸倉城から出家1人がやって来て
左衛門太夫(北条氏勝)の前に畏まって申すには、

「私は笠原新六郎の使いでございます。今日の御出勢には罷り向かって一矢仕るべきですが、
主人の勝頼は図らずも信長のために自害して滅びなさったと只今告げ来たりました。それでは戦も無益であります。
ただ城を渡しましょう。御勢を向けられてしかるべし」

これを聞き左衛門太夫は「もっともだ。しかしその是非は小田原へ申してこそである」と飛脚でこれを小田原へ申し上げた。
氏政は聞こし召し、評定なされて御出馬あり。笠原新六郎不忠の逆儀は申すに及ばざる次第ながら、父尾張守の度々の忠功に
思し召し替えられて命を御許しになった。そして新六郎は出家入道して罷り出るように、また城を受け取り、
甲州勢をなんとかして討ち取ってしかるべしとの御下知であった。

左衛門太夫は承り、新六郎に出家させ城を受け取らせるようにと申し、甲州からの加勢衆にも早々に城を開けて退きなされ
との使者を遣わした。甲州勢は「是非ともこの城を枕に仕るべし!とても帰るわけにはいかない!」と申した。
左衛門太夫は重ねて申し「沼津の城も五三日以前に開けて皆々退きなされた。各々も何が苦しかろう、ただ御退きしかるべし」

すると甲州勢は「では笠原新六郎殿を人質に賜りたい。それならば退去しよう」と言う。ならば人質を参らせようと、
新六郎の名代として御宿又太郎という笠原が身を離さぬ小姓で、まことに容顔比類なき児で16歳の者を、
“またらかけ”という名馬に乗せて、「何事かあれば乗り抜けよ」と密かに申し聞かせて人質に出した。

しかしながら甲州方でも心得ており、その馬には乗せずに小荷駄に乗せて、ことさら中に取り囲んだ。
2,3町も過ぎると前後から敵が取り巻く様子となって人質をも討ち果たし、甲州衆200余人は一所に皆討たれたのである。

――『異本小田原記』

笠原新六郎は後に小田原征伐で父・松田憲秀とともに豊臣方に内通しようとして北条方に殺害される
黒田官兵衛の聞き間違いのふりで処刑された逸話でも有名かな




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義明はさしもの大将なれども

2021年12月30日 16:05

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/30(木) 13:58:13.14 ID:vgUkxAIX
(第一次国府台合戦の時。足利義明の討死後)

義明はさしもの大将なれども、運尽き果てむざむざと討たれ給う。

佐々木四郎、逸見八郎、佐野藤三、町野十郎以下、御馬廻は深入りして戦ったが、大将の御討死と聞いて、
今や誰がために戦をするというのかと各々馬を乗り放し、大将の死骸を枕として自害する他はないと各々馳せ行った。
そこへ逸見山城入道(忠次入道祥仙。小弓公方家の重臣)が馳せて来た。山城守は右臂を斬られ、
草摺に立つ矢は少々折掛け、彼らに理を尽くして申すには、

「皆々が自害なさるのは武士の本望である。しかしながら、小弓に残し置いた若公達を誰が隠せるというのか。
定めてむざむざと生け捕られて、名将の御一跡を匹夫の蹄にかけては口惜しいことであろう。嘆いても余りある。
此度の命を全うし君達を落とす謀をなし、時節を見合わせ先君の恨みを死後に報じなされば、君も嬉しく思し召すであろう」

だが彼らは一同に申し「口惜しきことを宣うものかな!ここを逃れて再び誰に面を合わせられようか、自害せん!」と留まる。
山城守は重ねて申して「これは各々の誤りなり!“死を一途に定むるは近うして安し。謀を万代に残すは遠くして難し”という。
ただ早く早く!」と勧められ、彼らは伴って小弓へ帰り若君に御伴して御宝物を取り、御殿に火をかけ房州へ落ちて行った。

山城守主従2騎は義明の御骸の辺りで馬から飛び下りて扇を挙げ、
「これはこの日頃、鬼神のように申しつる鎮東の将軍、源の義明と聞こえさせ給いし御内の侍にて逸見山城守という者なり!
小田原方に我と思う者あらば、押し寄せて首を取れ!」と扇を挙げて招けば、
小田原の住人、山中修理亮が名乗り近々と寄って来た。

山城守は馳せ寄り「御辺は氏綱(北条氏綱)の家人某と見えるな。我が首を取って高名にせよ!」
と打って掛かる。山城守の郎等が主を討死させまいと馳せ並ぶところに、修理亮の郎等が数多馳せ来て取り籠めば、
ついに山城守は修理亮に首を取られたのであった。

かの義明朝臣は久しく両総州に逆威を振るい、諸人は龍蛇の毒を恐れ、万民は虎狼の害を嘆いたのだが、
たちまち滅ぼされて跡は長く絶えたために、氏綱の武功の程を感じぬ人はいなかったのである。

――『異本小田原記』

逸見祥仙は義明の還俗以前から仕え奉行人も務めた筆頭家臣だったが国府台合戦で主君と運命を共にした



918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/31(金) 12:28:31.64 ID:QFDIs+Zb
>>912
さすが祥仙
最期はかっこいいな

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/31(金) 13:09:49.98 ID:xqwcfrJj
甲斐守護になれなかった末裔さん

920 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/01/01(土) 03:45:35.97 ID:dsmJJ+f6
謹賀新年。

>>912
この敗兵の動向によって小弓義明の血は喜連川公方まで繋がって行く
--の、ではあるが、
関東の王を夢見て古河晴氏と雌雄を決せんとした義明は、鉢植えの花となった末裔を泉下からどう見ていたか。

ついにそれより女人を禁制なさり

2021年12月09日 17:31

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/08(水) 23:24:21.09 ID:5Z9jxIQx
氏照(北条氏照)と申すは、氏政(北条氏政)の弟の中でも武勇に優れ、特に大名であった。

上杉(山内上杉氏)の老臣に大石源左衛門定久という人がいた。
この人は木曽左馬頭義仲12代の末葉である。代々武蔵の守護代だったが上杉滅んで後に氏康へ降参し、
後に男子なくして氏康二男の氏照を婿にとり名跡を継がせ、氏照は“由井源三”と称した。

(中略)

ところで、氏照は先年の三増合戦(三増峠の戦い)で打ち負けて逃れ難い時があったが、
この時に山上で飯縄神へ祈念し、10ヶ年の間の女人禁制を立願なされた。

帰還した氏照はその時の祈念を果たそうと、ついに御前の方へ御入りにならず数年が経った。
かの女性はこれを夢にも知らず、氏照は自分を疎んで仇があると恨み、ついに思い沈み早世したのだという。

死後に書き置いた文言を見て氏照は後悔されたが叶わず、氏照もこれを本意なく思いなされて
ついにそれより女人を禁制なさり、その一世はただ出家の行儀と同じであった。

さてまた、大石には因もあるからと本姓になり返り、北条陸奥守氏照と申した。
また瀧山の城(大石氏の居城)は名城ながら瀧には“落ちる”という事があるから
城の名には禁忌だとして八王子に移ったのであるが、天正18年、ついに運尽きて落城した。

――『異本小田原記

氏照正室というと八王子落城に因んだ悲劇で知られるが、この記事はまったく違う内容を伝えている
もっともこっちも悲劇なんだが