白河義親顛末

2016年03月22日 11:16

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/22(火) 10:06:45.18 ID:Sv+Wg9UP
白河の、結城七郎藤原義親は、かつて暦応(1338-1342)の頃、南朝の勅によって、国司北畠顕家卿の
要請に従い、奥州より攻め上り伊勢国にて死んだ結城上野入道道忠(宗広)から十代あまりの末裔である。

であるが、義親の一族である中島上野介という者は、義親へこう諫言した
「豊臣秀吉公が鎮西南海北陸に威を振るわれている事は、ここ5,6年の間に耳に触れてきたことです。
殊に、今度は坂東一の首長である北条の一族も間もなく滅亡するだろうと、世間もはっきりと取りざた
しております。ですから、直ぐに小田原に参向あって、秀吉公の味方に属せば、まさに当家中興の先表になると
考えております。」

しかし義親
「私もそうは思っているのだが、家が貧しいため行程の旅費、土産の品も沙汰しがたく、徒に日を移して
しまっているのだ。」

上野介
「今度のことはお家の大事なのですから、旅費・土産は家中の面々に課役をかけ調達すべきです。
先ず、土産の品は、秀吉公も小田原まで遠路の陣中なのですから、米ニ百俵を献上すれば然る可きと
考えます。その内の百俵は私が調達します。残りの百俵を、家中にて調達して下さい。
しかし、もし遠方への旅程を苦労に思われるのでしたら、恐れながら私が代官と成って秀吉公の
もとに向かい、宜しく申し上げます。」

こう言われても、白河義親は結局はこれに同意しなかった。
彼は奸佞の近習たちを集め「この事どう思うか?」と評議させた。
面々は兵粮運送の課役を厭い、言葉巧みに申し上げた
「今の乱世に諸民は疲弊しています。その上に白米ニ百俵の課役運送の人夫の費えは、民にとっても莫大な
ものになります。
また、あの中島上野介は、普通の人間以上に利口で弁舌の立つ人物ですから、彼が代官と成って秀吉公の
御前に出れば、何を言い出すか解ったものではありません。」

等々讒言したことに、白河義親も同意し使者すら送らなかった事こそ、運の尽きであった。
その後秀吉公が会津に下向した際、義親は御迎えに出たものの、彼は許されず領地は没収され、その地は
伊勢の住人である関右兵衛に与えられた。

この後、白河義親は城西の金勝寺という禅寺に密かに居住したが、関右兵衛はこれに遣いを立て伝えた
『そこでは下郎の推参もおぼつきません。ひとまず何処へなりともお退きされますように。
こう申すのも痛わしい事ですが、公儀を恐れ、このように申し入れているのです。』

義親は
「私もそう思っているのだが、暫く住居を求めている間にこの様に引き延ばしてしまった。
追っ付け立ち退くであろう。」

そう返答し、やがて那須の内湯元という所に移っていった。
後には伊達の一族の由縁があったため、仙台の門下に降った。

(伊逹秘鑑)



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