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沼尻の戦いのこと

2019年10月24日 17:12

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/24(木) 11:51:54.69 ID:XxIWfP8w
下野国、都賀郡壬生、鹿沼の両城主である壬生上総介義雄は、下総守綱房の息子で、初め彦五郎氏勝と
言い、宇都宮の幕下もあった。

ところがその上総介義雄が、近年勢い盛んとなった宇都宮の芳賀一族を憎むあまり、宇都宮の幕下を
離れて小田原北条氏の元へと走った。北条氏は大いに喜び、金山、館林、桐生、小股、壬生、鹿沼、
佐野、足利、栃木に至るまで悉く小田原の指揮下に入るということであれば、兼ねて懸念していた
皆川を落とす好機であると、天正十三年四月下旬、鉢形、岩槻、八王子、江戸、葛西および北武蔵の
軍勢を率いて野州表へと出陣し、都賀郡藤岡に陣を張った。

皆川山城守広照も諜者を放ってこれを察し、佐竹常陸介義重、多賀谷修理太夫重経に後詰を頼み、
七千余騎にて同郡大田原に陣を敷いて待ち受け、対陣と成った。
小田原方についた壬生上総介も、栃木の近藤出羽守勢を併せて栃木表へと押し出したが、皆川山城守は
これを追い払わんと自ら兵を率いて一戦し、難なくこれを追い払った。しかしその後、ここも
持久戦と成った。

(中略)

かくて対陣は百日に及び、敵も味方も長陣に退屈して、終に双方より和睦の話が起こり、小田原よりは
北条陸奥守氏照。佐竹よりは東中無少輔政義が出て話し合い、七月二十九日、勝負無しとして
互いに陣を引き払った。

その後、皆川山城守も何となく北条の幕下に成ったということである。

(関八州古戦録)

決戦のないまま双方引き上げという内容でありながら、結果的に北関東における北条の優位を導いたとされる
沼尻の戦いについてのお話。



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壬生家の御家存続の為に

2011年07月24日 23:01

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/24(日) 17:43:46.87 ID:VoXGSr6O

壬生家の御家存続の為に

天正十八年、豊臣秀吉が小田原北条氏攻撃の軍を率いて京都から出発した。
常陸の佐竹氏や下野の宇都宮氏らは秀吉に応じて、反北条の意を決した。
それに対して、壬生義雄と皆川広照は後北条氏の元に参陣して小田原城に籠城。
しかし、七月小田原城は開城、壬生義雄はその直後に病死した。享年四十六歳。
義雄は男子に恵まれず、娘の伊勢亀がいるだけで、義雄の死によって壬生家は所領を没収され滅亡してしまった。

しかし話はここで終わらない

壬生氏の旧領は結城領に吸収され、壬生の旧臣は他家への仕官より、帰農の道を選んだ。

江戸幕府が開かれ、京の藤原北家中御門流の「壬生」氏が権現詣で日光東照宮への道中、下野鹿沼の
壬生旧臣が粗末ながらも身形を揃え、京・壬生氏の道中警護を申し出た。
京・壬生氏はこれを断ったものの、道中の共や用事を下野壬生旧臣に許した。

京・壬生氏と下野壬生氏は「縁も所縁もない」、単に苗字が「壬生」であっただけである。

2年3年と下野壬生旧臣からの申し出から、道中の御供も当たり前のようになり、京・壬生氏からは
下野壬生旧臣に金子や酒が用立てされた。

壬生義雄の娘、伊勢亀の婚礼も決まり、所領は無いながらも伊勢亀の嫡男誕生を待ちつつ御家再興を願った
壬生旧臣たちだったが

そこは歴史のやるせなさ

伊勢亀には女子しか生まれず、壬生家の再興の願いは絶たれた