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「我が君の御運は強し!」

2021年12月27日 16:52

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/27(月) 13:13:00.33 ID:QCMvxcki
大阪冬の陣、今福の戦いでのこと

戦場から川向うに陣していた上杉景勝勢の直江山城守(兼続)は、豊臣勢の中に、部隊を下知している
後藤又兵衛を見つけた

「茜の母衣張で、馬印に黒半月を差して下知しているのは大将分と見えたり!あれを討て!」

そう申すと、若き者共が差し詰めて鉄砲を撃ち掛けた。これに後藤又兵衛の物具にも、弾丸が五、六発
当たり、その中の弾の一つが後藤の左の腕脇を打ちかすった。しかし彼は少しも騒がず、疵を確認して

「我が君の御運は強し!」

と申した。
この言葉を諸軍勢聞いて、「大阪には後藤より他に人無しとする言い分である。」と、これを嘲る者達も
多かったという。

新東鑑



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伊達の加勢

2021年09月14日 18:45

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/14(火) 15:06:35.11 ID:q8uyA47f
慶長出羽合戦、始め最上義光上杉景勝の大軍が押し寄せると聞いた時、子息修理太夫家親に申された

「この度、直江山城守(兼続)大将にて四万余りの軍兵を引率し攻め来たるという事であり、
敵勢は定めて、雲霞のごとくであろう。
私は山形の城を以て。出来る限り防ぎ戦い、叶わずば腹を切る。その方は早々に奥州岩手沢に赴き、
加勢を伊達政宗に乞うように。

但し、我が姉(義姫、実際には妹)は政宗の実母であり、その方と政宗は従兄弟であるのだが、
先の鮎貝藤太郎(宗信)の事で政宗との関係が悪化し多年となっている(鮎貝宗信謀反事件)。
既に弓矢も数度に及んでおり、伊達家も我々に加勢する事は中々合点しないとは思う。

しかし政宗も関東方無二の味方であるのだから、私からの要請を聞く時は、関東(家康)の後聞を憚り、
加勢すること必定である。
その内に山形が落城すれば、私は討ち死にする。その方は生き残って、家名を相続するのだ。
父子が一所にあって討たれるなど、言い甲斐もない事だ。」

そう言って今生の暇乞いの盃を取り交わし、家親は馬に打ち乗って奥州岩手沢を指して駆けた。

九月八日、岩手沢に到着して政宗に対面した。家親は言った
「この度、関東の御下知により義光も軍兵を催促し、米沢口より会津に取り掛かるべしと支度をしていた
所に、治部(石田三成)が大阪に討って出て、京都、畿内がこれに一味し、伏見の城を攻め落とし、
既に治部の先勢は美濃口に充満しているとの事で、関東の御勢は会津攻めを止められ、江戸に引き入り、
上洛されました。これによって直江山城はその利に乗じ、この隙を伺って、四万余りの軍兵にて近日、
最上を攻め潰すべき支度をしているとの情報が申し来ました、そのため味方にも数ヶ所の砦を構えさせ
待ち受けていますが、大敵であれば、此の方が打ち負けること必定です。

事新しき申絛ではありますが、貴殿の御母堂は我が叔母であり、従兄弟のよしみ浅からず。
然れども先年の鮎貝藤太郎の事により、伊達・最上は確執に及び敵味方となり、数年争いましたが、
これは頗る本意では有りません。

この度直江が最上を攻め平らげれば、則ち、さらに下湯の原にかかり、岩手沢に取り掛かること、
隴を得て蜀を望むの勢いはとどまることは無いでしょう。これはいわゆる、唇亡びて歯寒しという
警句です。

今度、多年の宿意を咎めること無く、加勢を出され、最上の急難を救われれば、外には関東への奉公、
家は一家を救う所、名実ともに全き所であります。
正に今、最上は大事に及んでいます。貴殿が加勢されず、直江が最上を攻め取れば、一体何の面目が
あって、御所(家康)に見えられるのでしょうか?」

このように理を尽くして申されると、政宗もこれを聞いて「尤も至極」と同心し、
「追っ付け、加勢を出すので、貴殿は父義光と一所に、山形を持ちこたえるように。」と家親を反し、
則ち最上へ加勢を差し越した。
(中略)
政宗総軍は旗の紋に、琵琶の図を書いた。『我は琵琶なり。敵ひけ。』という事である。

近世軍記

慶長出羽合戦に於ける、最上から伊達政宗への救援要請について



525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/14(火) 18:41:05.76 ID:Ovha0XjA
今となってはいろいろ突っ込みはあるが一番は家親じゃなくて義康の誤りか

思いのままに謀を廻らせた

2021年09月05日 17:57

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/05(日) 15:51:47.61 ID:Icad6qo4
ある時、石田三成は直江山城守(兼続)と、ただ両人差し向かい、深夜まで酒宴して遊んだが、
密かに山城守に向かって申した

「侍と生まれ弓矢に携わる者で、天下に望みがないのは男子と称するに足りない。
差し当たって秀吉公は、匹夫であったと雖も天下をその掌握に帰された。
私も一度は四海を治めたいとの深い思いは止むことがない。
しかし秀吉公御在世の家は思い立たない。御他界ある上にて、旗を揚げんと思う。

御辺も景勝の逆心を勧め、旗を揚げさせ。天下を覆せば景勝を滅ぼし、御身が関東の管領と
なり給え、我等は将軍となり、京・鎌倉の如く、両人にて世を治めるべし。」

直江も大胆なる者であったので、この謀事を快く思い、

「左用思し召し立っているのならば、上杉家中のことは一向に私に任せ給え。
それについて、謀事を廻らして見るに、蒲生会津宰相氏郷は武道逞しき人であり、
御所公(徳川家康)に差し続く大将である。またこの人の子の藤三郎秀行は御所公の婿であり、
領分は奥州と下野に接している。これは御所公の後ろの強みであり、このため事なしである。

たとえ貴殿が思い立ったとしても、御所公、氏郷と指し続いていれば、中々退治するのは難しい。
先ず氏郷を殺し、そのあとに景勝を国替えさせ、東西より立ち挟んで討ち果たすことが然るべき」

と囁いた。これを三成は承引し、氏郷を毒害し、その後で藤三郎秀行の家老達をそそのかり、
蒲生家中に大いなる騒動を起こさせ、その咎にて秀行百二十万国を没収し、僅かに十八万石にて
野州宇都宮に所替させ、会津には上杉景勝を入れ替え、思いのままに謀を廻らせた。

近世軍記

石田三成の野望と陰謀について。まあ典型的な三成陰謀論みたいな話ですが、むしろこのくらいのほうが
魅力的な気もする。



上杉景勝覚書七箇条

2021年08月12日 17:22

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/11(水) 20:56:14.44 ID:8II8o6Wu
天正18年の秀吉による小田原征伐、ついで奥州平定、天正19年の陸奥征伐、九戸政実族誅の後には海内
初めて一統し、人心もやや安定した。

そのため天正19年10月、上杉景勝は覚書七箇条を発布して、地頭の正邪はただちに農民に反映するもの
なので、いささかも怠慢があってはならないと論示し、苛斂誅求、徴税吏の粗暴を戒め、常に忠孝貞節の道
を教訓させた。

また百姓は国の宝として務めて寛政を行うべきであるも、いやしくも土地に関して不法を申し募るようなら
斬に処するも差し支えなしとした。およそ訟事は決して片言をもって獄を断じ、または依怙の沙汰があって
はならないと上杉氏の治民方針を示した。(『竹俣文書』)

「覚

一、地頭の正邪により、百姓は善悪に移るものである。いささかたりとも油断あるまじき事。

一、年貢諸掛かり等は、なるべく勘弁いたして、悪作の年は前年より小分たるべき事。

一、何事も古法を守り、利欲のために新法を立てて、百姓を苦しませ申すまじき事。

一、忠孝の道理を常々教訓いたすべき事。女たちへは貞節の道理が自ずから分かるよう、肝要にする事。

一、年貢諸の等(ママ)を取り集めに行かせた役人たちが百姓へ対して粗暴の事がないように申し付ける事。

一、百姓は国の宝であるから、なるべく堪忍いたすように(百姓は國のたからに候間、なる程堪忍可致候)。
いよいよ不法を申し募って、ちめんに拘るならば討ち捨て申すべき事。

一、訴訟は双方共によくよく聞糺して沙汰するように。必ず依怙贔屓いたすまじき事。

右の条々を堅く守り申すように。以上。


天正19年辛卯10月 日 景勝花押

地頭大名中へ」

――『直江兼続伝竹俣文書)』



406 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/12(木) 03:31:08.58 ID:lTFxnUYn
直山「依怙贔屓なく審議を尽くした結果、3名様ほど閻魔大王への使いに出すことにしました。」



まぁ後世の創作くさいらしいけど

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/12(木) 04:07:33.59 ID:NFSu9+hw
直山って誰だよ
閻魔送りの件はまんま
一、百姓は国の宝であるから、なるべく堪忍いたすように(百姓は國のたからに候間、なる程堪忍可致候)。
いよいよ不法を申し募って、ちめんに拘るならば討ち捨て申すべき事。
に当たる判定なんだろう

408 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/12(木) 04:27:00.01 ID:lTFxnUYn
>>407
直江山城の略

親しい大名同士だとよく名前と冠位やら略してくだけて書くことがあるからそれ風にしてみたんだ。

まぁ、あの逸話は再三の譲歩にも関わらず、和解せず退かぬ媚びぬ省みぬして、人集めて騒いだ遺族側が悪いと思うわ。

直江兼続と鉄砲

2021年08月08日 18:02

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/07(土) 18:22:17.81 ID:6p8TSKjR
兼続(直江兼続)は当時にあって最も精鋭の武器である鉄砲の鋳造、及び射撃の錬磨を奨励した。

慶長9年(1604)、かねて伏見にいた時、景勝(上杉景勝)に従って所々歴覧の折、盟約ある良工
和泉国堺の和泉屋松右衛門、近江国住友村の吉川総兵衛を米沢に召致、工場を関村高湯に設置して、
鉄砲を鋳造させて各禄2百石を給し、その従弟と共に城市に居住させた。今の鍛冶町である。
火薬・軍器を調製させ不慮に備えた。

「一、鉄砲は張者の江州の者総兵衛、堺の者松右衛門と申す者、彼ら両人が大工にて鉄砲を張り申した。
   鍛冶は10人ばかりいて鍛冶町と申す所に罷りあったが、彼らも年々、10匁筒、15匁筒、
   20匁筒、30匁筒と御用次第に張り立て申した。
   右の両人は知行2百石ずつ下された。残りの者どもは御扶持ばかりで、役鉄砲の他は何挺張り
   申しても、作料米を下された。
   また金具は白金や御免町という所にあったが、受け取ってそれぞれに御作事次第であった。

一、鉄砲の玉薬ならびに塩硝は白河・岩城・相馬より年々に買い集められた。鉛は越国筋方々より買い調え、
  また当国でも掘っては買い置きなされた。

  さて薬は慶長9の頃より夏夕の嫌いなく御足軽20人で、からうす(唐臼)で踏ませられた。
  奉行は鳥山修理と申す仁である。夏の土用には薬を踏みきり拵えた。
  すなわち三の丸に薬蔵3間張りで20間に作らせ、薬をは大こかいくつ共なくゆわせ入れ、
  しかと詰め入れ置き申した。実にこれまでの20余年々合わせ申した。

一、武具・馬具・鉄砲・弓矢、万事諸道具の細工人は20人ばかりで、慶長9年頃より年々細工仕った。
  右の細工人衆へも二人扶持、三人扶持ずつに切米を下された。毎日罷り出て御細工仕った。
  この奉行は高橋清左衛門と申す仁である。これも二の丸に細工所としてあった」

  と、当時の武器製造の事が『景勝卿記』に記載せられてある。

  ――『直江兼続伝景勝卿記)』

390 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/08(日) 18:06:52.08 ID:A90kfpZO
鉄砲鍛冶工場を置いた関村高湯とは、現在の米沢市白布温泉(白布高湯)のこと。
市街地から南へ登った山上の関町集落から、車で更に20分の山奥にあり、さすがに大坂の陣終了後は撤収した模様。

この関町(立石)は伊達時代に支倉常長が誕生した地でもあります。


白布温泉
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B8%83%E6%B8%A9%E6%B3%89



392 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 07:32:55.42 ID:0Q6lNaf4
>>389-390
https://i.imgur.com/5I2CHNi.jpg
https://i.imgur.com/syATkuG.jpg
syATkuG.jpg

5I2CHNi.jpg

パチ○コで恐縮だが、花の慶次の○チンコで直江兼続が直江大大筒と言う超兵器使ってるんだけど、それを思い出して馬鹿げたことだと調べたら、当然そんな大砲は当時無いけど、>>389にも書かれてる通り、米沢藩の銃は10〜30匁で大坂の陣では上杉の雷筒と呼ばれて他家に恐れられる程の代物だったんだね…

https://www.miyasakakoukokan.com/hinawaju.html

https://i.imgur.com/SyU2huK.jpg
https://i.imgur.com/rItTWUI.jpg
SyU2huK.jpg

rItTWUI.jpg

確かに他所の銃と比べたら太いわ…

http://www.日本の武器兵器.jp/legacy/hinawajyu3/page/020.html

393 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 10:07:04.50 ID:zqhEdkjg
上杉家の大口径火縄銃は戊辰戦争でも使用され、家屋の壁の破壊などでも活用された話があります

394 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 10:24:18.45 ID:zqhEdkjg
館山城 (出羽国)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%A8%E5%B1%B1%E5%9F%8E_(%E5%87%BA%E7%BE%BD%E5%9B%BD)
米沢市の館山城は会津への街道入り口にあり、近年の発掘調査で国指定史跡となりました
伊達時代の城そのままを確認するつもりの調査が、実は上杉家が建設し破棄したものとわかった経緯があって
本城である米沢城は東日本系の土塁なのに、西の技術の石垣が構築されていたりします
それで直江の書状の一部で理由がわからなかった「例の城の始末よろしく」の文面が理解できたということだそうです

関ヶ原後、元和までの各家はそういう準備を怠らなかったし、終わったら終わったで何食わぬ顔で始末してたわけですな

395 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 10:25:34.99 ID:wtwlFdzc
家屋の破壊より薩人マシーンの破壊に使えよと。
いかに後退のネジを外された奴らと言えど、20〜30匁の弾でぶち抜きゃ活動停止するだろうに…


と思ったけど戊辰戦争の頃じゃあ、洋製の新式銃にゃあ射程やら何やらの点で太刀打ち出来なかったのかね?

396 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 10:37:10.65 ID:zqhEdkjg
なお石垣については、上杉家の直前に西出身の蒲生家の領地になってますが
やはり上杉で間違いないという報告ですね

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/09(月) 11:27:51.15 ID:W8r3Z/Qm
>>395
アームストロング砲と比較するとなあ。

398 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 11:35:25.44 ID:wtwlFdzc
>>397
やっぱ時代はコレだよね
https://i.imgur.com/0hOfmvK.jpg
0hOfmvK.jpg

399 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 11:37:04.41 ID:wtwlFdzc
>>397
ていうかアームストロングぶっぱしたら市街地ヤバない?

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/09(月) 21:10:10.55 ID:W8r3Z/Qm
>>399
当時炸裂弾(たしか)じゃないから。上野戦争はアームストロング砲で薩長が勝ったなんて言われてる。

直江の誤りと見るのが正道である。

2021年08月06日 18:08

下秀久   
903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/06(金) 15:18:04.32 ID:JIwzFV+j
長谷堂城の戦いから、直江兼続軍の撤退の時、最上領谷地の城に下次右衛門(秀久)が残し置かれており、
周辺の仕置を申し付けられていたが、彼は石田三成が滅亡した以上、行く末上杉家頼りなしと思い、
最上に従い、最上衆を庄内に引き入れ切り取らせた。
そうなれば、直江さえ会津に呼び返される程であったので、庄内に置かれた城持ち衆も留守居を
少々残して皆会津に召喚されており、そのためやすやすと、何の手間取ることもなく庄内三郡は
最上義光の手に入った。

この次右衛門は謙信公の下男であったのを、御眼力を以て御取り立てになり、騎馬の列になさて、
その御推察の如く数度武功を顕したことで次第に立身した。この者は隠れなき算術の上手であった。

景勝公の御代に、四人御領分として、勘定奉行の下次右衛門は庄内を、川村彦左衛門は佐渡国、
窪田源右衛門は信州川中島、山田喜右衛門は越後国旗本に有り、その様子、御仕置の作法は
武道の助けとされた。

今度、最上へ直江が出陣した折、谷地、寒川江の領城を乗っ取れたのは、この下次右衛門の分別
宜しき故であった。しかし武道は良しと雖も、元来下臈であるため義理を知らぬため逆心した。
然れば、その原因は直江が谷地城に次右衛門を残し置いた為であり、直江の誤りと見るのが
正道である。

(管窺武鑑)

実際には下秀久は直江から撤退を知らされておらず取り残される形になっていたとか。



905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/07(土) 03:36:42.47 ID:arSrnCGw
管窺武鑑が執拗に藤田age直江sageしてんなと思って
どういう書物かと調べてみたらああ…納得ってなったわ

景勝公も御上洛然るべし

2021年07月18日 17:48

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/18(日) 13:30:08.25 ID:mTDifYH3
秀吉公は去年(天正十三年)、越中より落水までお越しになり、上杉景勝公と会見された。
その後も秀吉公より浅からず御心入あり、御和平の状態であるから、景勝公も御上洛然るべしと、
宿老衆が申し上げると、「尤もである」と思し召され、御上洛あるべき旨を、先立って仰せ入れられると、
秀吉公は悦ばれた。

天正十四年四月下旬、秀吉公より御礼のため、また木村弥一右衛門(吉清)を差し越された。この時も品々
御音物があった。

同五月十一日、景勝公は春日山を出発された、御供の人数、僅か五千足らずを召し連れられた。
これには御底意があった。木村弥一右衛門も御供した。秀吉公よりの、道中の御馳走は

一、越中は木村が請け取って、越後衆上下を賄い仕った。観世太夫、今春太夫を連れ、
  御宿ごとに、隔日に能を仕った。(尾山に於いては城主の前田又左衛門(利家)饗応)
二、加賀まで、石田治部少輔(三成)が御使に来た。
三、越前までは、増田右衛門尉(長盛)が御使に来た。
  付・北ノ庄にては堀久太郎(秀政)饗応、府中は木村常陸介(重茲)、敦賀は大谷刑部太夫(吉継)饗応
四、近江でも大谷は諸事御馳走した。その中でも大溝では、その城主が饗応した。

五月二十七日、洛陽(京都)本圀寺にお着きになり、その夜、秀吉公が忍んでお出でになった。
御礼の御盃を出すと、秀吉公は頻りに御辞退あったが、景勝公の御盃を戴き、直江(兼続)に御盃を下され、
その盃を無理に取り上げて召し上がられた。その他の衆をも召し出され、御盃を下された。
明日、聚楽に景勝公が御出になることを御約束された。そして今夜、景勝の旅館に秀吉公が忍んで
来られた事について口外しないようにと仰せ合わされ、御帰りの時、御次の庇門に、梅津宗賢が伺候
していたのを御覧になると

「これは川中島合戦の時、武田典厩(信繁)を討ったと聞く梅津宗賢であろう」

と言って銚子を乞い、御盃を下された。
諸人、これを不思議に思った。かの梅津は譜代の士であり、他国へ行ったこともなく、秀吉公が
見覚えているはずがないと、様々に沙汰されたのだが、これについて藤田能登守(信吉)が、
南詰宮圍に申し聞かせた事には

「秀吉公は、越後衆入洛の様子を御見物されるため、粟田口の町に御出になったと聞く。
上方には関東、北国の者も多くある。この方面を見知った者を御側に於いて、尋ね問うて
見置かれたのであろう。私の推量ではあるが、恐らく間違っていないはずだ。
奇妙不思議などというものは無い。理の本を吟味し、我心に落として、他のことを計るべきである。

秀吉公のこの事は、名誉であるとは言えない。そういった御志があるのを感じ、御大将の器に
応じていると誉める事こそ、正道である。」

と申された。

景勝公の在京中、秀吉公より御賄として木村弥一右衛門を付け置かれ、御馳走された。そして
秀吉公の御指図にて、景勝公は宰相に任じられ、直江は四品に叙し、藤田、安田を初め七人が
五位に叙し、七月に御帰国された。

管窺武鑑

上杉景勝の初上洛について。景勝のときにも秀吉はその宿舎に忍んで来るようなことやってたのか。



一人を赦して、天下の人の心を安んずるべき

2021年06月11日 19:02

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/11(金) 17:11:10.28 ID:bexE1HJ7
関ヶ原の御陣の後、直江山城守兼続を誅伐すべきであると大御所様(家康)は思し召されていたが、
「そのような事をすれば、他国にも兼続の例に当てはまる者も多い、一人を赦して、
天下の人の心を安んずるべきであろう。」と御遠慮あって御助けなされ、剰え本多上野介正純の
弟である長五郎(本多政重)を婿養子として直江に下され、御懇意にされた。

関ヶ原で治部(三成)方をした諸大名の家老たちはこれを見て、「治部と心を合わせ、謀反の
張本である直江さえ御免なされた。まして我々のような末々は気遣いなし。」と、皆安堵したという。

寛永五年十二月十九日に直江山城守兼続死去。法名英貔院殿達三全智居士。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記

これも既出の内容ですが出典が無かったので

関連
徳川家康の直江兼続処分


親類二人を迎えに越し申し候

2021年06月10日 16:45

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/10(木) 10:06:50.60 ID:EvlcOtgV
直江山城守兼続は、木曽(義仲)殿四天王の樋口次郎兼光の末である。
ある時、聚楽御城中において、諸大名列座されている中、伊達政宗が懐より金銭を取り出し、
直江山城を呼んで、

「城州、これを見よ。昔にはない物である。このように金銀にて銭を鋳る。見事なるものである。」
と、直江にこれを渡して見せた。
山城守は扇を抜き、少し開いて金銭を請けて、跳ね返しながら見て「実に珍物に候。」と言った。
この様子を政宗見て「城州、手に取って見よ。」と言われた。これに直江は申した

「私は輝虎(謙信)の目利きにて、用にも立つべきものと思われ、景勝に付けられました。
何時であっても采配を執る手であり、このようなむさき器は触らぬものであります。」
そう言うと金銭を畳の上に、扇より移した。これに政宗は赤面し、一言の返答も無かったという。

また、慶長三年、会津に景勝が移封される砌、横田式部という者が、召使いの茶道坊主を斬罪とした。
しかし、元よりこの茶坊主には誤りが無かったため、坊主の親類大勢が決起した。

丁度この頃、国改として京より前田徳善院玄以、石田治部少輔三成が当地に下向しており、
かの親類達はこの両人に対して訴えた。玄以、三成は「その事は直江方に申すべし。」と指図したため、
彼らは直江方に詰めかけた。

兼続は彼らに対面し「皆々の申し分は尤もである。であれば、主人である横田式部より、
詫び言として銀五十枚を出させるべし。それにて堪忍せよ。」と扱った。しかし訴訟人たちは
これに納得せず、怒って帰っていった。そして再び玄以、治部に訴えたが、彼らはこれを
取り合わなかった。そのため又山城守方に詰めかけた。

直江は「そう言うことであるのなら。銀七十枚を出させよう。」と扱いをしたが、彼らは
「七十枚が七百枚であっても、死したる人が帰ってくるでしょうか。中々分の無いことを
申される!」と、ごねた。
兼続はその時、札を一枚取り寄せ、一筆書きにて、直に持って出て、彼らに対し「訴訟人共の内、
張本人は幾人あるか」と尋ねた。「その坊主の兄と伯父であります。」と、両人出た。
彼らに対し山城守

「どのように扱おうとも、汝らは納得しない。もはやこの上は、かの坊主を再び今生に
呼び還さねば、汝らの心に叶わないであろう。ではあるが、誰であっても呼び返すための
使いが無いので、その者の兄と伯父の二人を、迎えに遣わそう。
この高札を持って早々に地獄に参り、閻魔王に見せて、かの坊主を召し連れて帰るべし。
乃ちその文を聞け」

と、山城守は高札を読んだ

『未だ御意を得ずと雖も、一筆申し入れ候。されば横田式部が召し使っていた茶道坊主を、親類どもが
呼び戻したいとたって申すに付き、即ち親類二人を迎えに越し申し候。きっと御返信有るべく候。
恐々謹言

                    直江山城守兼続
二月十日
  閻魔大王殿 参』

そう書き付け、読み聞かせ、かの張本の二人をその場にて斬罪し、かの高札を前に立てて、
二人の首を獄門にさらした。それ故にかの徒党達は蜘蛛の子を散らすように逃げ失せ、
以後国中で嗷訴(大勢で喧しく訴え出る)するもの一人もなく、静謐となった。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記



266 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/06/18(金) 12:03:01.16 ID:6npJKe2o
>>260
直江兼続って金の価値わかってないからただの馬鹿だねってエピソードだね
(樋口兼光の子孫というのも自称であって確証がない。これは俺は武田だから武田信玄の末裔だというレベル)

そもそも政宗の叔父の伊達実元が越後守護の上杉家の養子で謙信の長尾家は守護代
家の格が伊達家>長尾家

267 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/06/18(金) 12:07:04.04 ID:6npJKe2o
さらに上田長尾家(景勝)で相手にならない

政宗は伊達宗家の跡取りである他に三浦氏の蘆名義高の子孫でもある(女系)し結城氏の子孫でもある(女系)
母親の家は斯波氏の流れを汲む最上氏で
近隣大名を分家化している立場で、樋口某がどうこうってレベルじゃないんだけどね。

これね結局のところ戦で上杉が伊達に勝ったことない
輝宗のせいで新発田の乱がおきて
政宗のせいで白石城奪われて
伊達家は上杉領を浸食して撤退戦はしているけど伊達領は上杉に戦で奪われていない
事に関しての後米沢藩士たちの妄想日記なんだよ

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/18(金) 18:22:31.81 ID:aEvDc5Pw
>>266-267
左京大夫乙

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/19(土) 05:27:22.71 ID:G/F/j9ep
>>266
実元が養子って、新しい資料でも出て養子入り頓挫ってのが覆ったのか?

上杉家に於いては直江山城守兼続一人で

2021年06月09日 18:31

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/09(水) 15:06:41.23 ID:m8ajUsaT
上杉景勝、定勝の代まで、上杉家に於いては直江山城守兼続一人で、万事国の仕置(行政)、
公事(裁判)沙汰までした。訴訟があると、山城守一人にて、傍の人を払い、刀を傍に置いて、
百姓、町人は白沙へ呼び対決させ、侍は座上に呼んで様子を尋ね、何事であっても大方
その場で裁き賞罰を行った。家中の訴訟も、手形・証文の判形も、兼続一人で事を済ました故、
物事が停滞するということがなかった。

直江は学問多智の分別者故、正しく動理に適っている事が多かった。
彼は元より謙信の傍にて生い立ち、武功も重ねたため、世の覚え、人の信用も厚く、
秀吉公にも重用され、また大御所様(家康)、秀忠様からも重用された。

会津に於いては三十二万国を領していたが、米沢に景勝が移封されると、六万石を賜った。
この時、自身は一万石を領し、五万石は諸傍輩に分配し、さらに一万石の私領からも五千石を分けて
家中に与え、自身は五千石であったのだが、景勝より新田を開き与え、また一万石となり、
その頃死去した。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記



賤が植うる 田歌の聲も都かな

2021年06月08日 17:10

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/08(火) 12:48:59.84 ID:bZSdvN0k
慶長三年、会津に上杉景勝が入部した時、蒲生家の浪人数百名を召し出した。栗生美濃守、外池甚五左衛門、
岡野左内、布施次郎右衛門、北川図所、高力図所、青木新兵衛、安田勘助、小田切所左衛門、
横田大学、正木大膳、長井善左衛門、佐野源太、堀源助、等である。
この時関東浪人には、山上道及、上泉主水、車丹波守、等数十人、
上方者には、水野藤兵衛、前田慶次郎、宇佐美弥五左衛門など数十人が召し抱えられた。

このうち前田慶次(利益)は、加賀(前田)利家卿の従弟である(実際には甥)。
彼が初めて景勝に礼を申し上げたときは、穀蔵院ひよつと斎と名乗った。
その夏頃であったか、高宮の二幅袖の帷子褊綴を着し、非常に異形なる体であった。
また、彼は詩歌の達者であった。直江山城守兼続も学者であった故に仲良く、
直江宅にて慶次は論語の講釈をいたし、又は源氏物語の講釈をした。

慶長五年九月、景勝の名代として、直江山城守が四万余にて最上に出陣した砌、慶次は黒具足に猩々緋の羽織、
金のいらたか念珠(修験者の用いる角のある108の珠を用いた数珠)を頭に懸けたが、念珠の房には
金の瓢箪が付けられ、背に下るようにかけられた。
河原毛の野髪、大しだの馬に、金の兜巾を冠らせて打ち乗り、三寸計りの黒の馬に、緞子の袋に
干し味噌、乾飯を入れ鞍壺に置き、種子島ニ挺付けて、乗り換えとして引かせた。

最上からの上杉勢の退き口の時、敵勢と槍を合わせて、その高名は耳目を驚かせた。
水野藤兵衛、藤田森右衛門、溝口左馬助、韮塚理右衛門、宇佐美弥五左衛門と慶次と、以上五人が、
一所にて槍をした。

この時、最上義光は伊達政宗よりの加勢を一手に合わせて、上杉勢の退き口を追撃したため、
中々大事に及び、杉原常陸介、溝口左馬助らが種子島八百挺にて防ぎ戦ったが、最上勢は激しく
攻撃してきた。これに直江山城守は怒り出し

「味方が押し立てられて足を乱し、追い打ちに遭うのはもはや間もなくの事だろう。さても口惜しい。
腹を切らん!」

と言い出したところを、前田慶次が押し止め

「言語道断!左様に心弱くて大将が出来るでしょうか。私におまかせ候へ!」

と言うと取って返し、先の通り、水野、韮塚、藤田、宇佐美と、この慶次の五人にて槍を合わせ、
最上勢を突き返し、能く引き払い、何事もなく引き取った。

関ヶ原御陣過ぎて、景勝が米沢に移封された時、慶次を諸方より欲しがり、高い知行にて呼んだが、
「我が主は景勝より他は無し」とて、一生妻子も持たず、寺に住居しているかのように生活し、
在郷に引き込んで、弾正定勝の代に病死した。

慶次は連歌を嗜み、紹巴が評価した句も数多あるが、その中より覚えているものを記す

『賤が植うる 田歌の聲も都かな』

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記



254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/08(火) 14:53:36.83 ID:KzHVeQpO
花の慶次の名場面だったな

兼続の五撰の戒

2021年05月15日 17:49

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/15(土) 17:02:28.92 ID:DpWJqXT/
城州公略伝には、兼続の五撰の戒を挙げてある。

「武士の心掛け多しといえども、五撰を専要とすべし。

五撰の道たる甲冑は籠手に念を入るべし。胴は片ひけなきように威し、美麗を禁ずること可なり。
太刀は、精神釣り合うて骨を徹すを要とす。作を好むことなかれ。仮に業良しとしても、釣り合
わざるを好むことなかれ。槍は勢つまりたるは良し。大身横手物は伸の研を専とす。馬はかんと
爪を許すべからず。皆具は波を切るを要とす。弓は七分の業を高々仕懸け、根を改むべし。

総じて槍・太刀・具足に金銀をちりばめ奇麗を好むこと、士の本意にあらず。君に仕える者は継
信が矢先に立つが如しといわれる。武士の境界平生万端の動作、この直体を取り失うべからず。

少しでも余念にひかれたならば、よし一旦の功をなすとも、ことごとく虚妄とならん」

――『直江兼続伝(直江城州公略伝)』



漢家三傑に比すべき家臣

2019年11月01日 17:38

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/01(金) 11:04:43.93 ID:p2MQ/1GV
豊臣秀吉は小田原への進軍の途中、小早川隆景を尾州清須に残したのを残念に思い、急にこれを呼びにやった。
この隆景は知勇兼備の勇士で、上杉景勝の臣である直江山城守兼続、堀左衛門督秀政と共に、漢家の三傑
(蕭何、張良、韓信)に比すべき大切な家臣であった。そこで駿河清見寺に滞在中、飛脚を飛ばしたのである。

これに隆景は取るものもとりあえず下向し、この日沼津に到着した。
その隆景の家来の中に、十八反の大母衣をかけた武士と、もう一人三間もある大指物を靡かせた武士がおり、
大変に人目を引いた。この事は秀吉の耳にも達し、彼らを垣間見ると、近習に命じてその名を尋ねさせた。

ところが近習が彼らに追いつき名を尋ねると、答えず黙って行ってしまった。近習は不快な顔で、戻ってきて
秀吉に報告した。秀吉は聞くと笑って

「軍中礼なしという。それは何か急な用があったか、それともお前が馬を降りずに名を聞いたのではないか?」

そう近習をたしなめ、別の近習に馬を降りて名を聞くように命じ、再度走らせた。この者が下馬して
この二人の武士に名を尋ねると、大母衣の侍は
小早川隆景が家臣、樽崎十兵衛である。」と答えた
大指物の侍は
「我は同じく隆景家臣、河田八郎である。」
と言った。


近習は帰ってこの事を報告すると、秀吉は「健気なる武士である」と感じ入った様子であった。

その後まもなく、樽崎は病死した。
河田八郎は隆景が死去した後は浪人となり、後に池田三左衛門輝政に仕え河田太郎左衛門と名乗り、
摂州難波の戦いで鉄の盾を振り回して戦い、見る者皆舌を巻いた。そして今なおこの勇士の名は、
人々の口に語り伝えられている。

(関八州古戦録)

小田原の陣における小早川隆景とその家臣について。



299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/01(金) 15:09:00.72 ID:L131GxwK
鉄の盾を振り回して戦いってだけで戦国無双でキャラとして立てるな

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/01(金) 15:32:38.63 ID:s7/hLmJu
名将言行録の天下の三陪臣の元ネタ?

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/01(金) 20:57:17.02 ID:IclFUXMt
どっちが時間軸として先にあったかは知らないが
「本営前で下馬しなかった上に捨て台詞まで吐いた」、花房助兵衛は縛り首にしようとして、
この、「聞いた近習の礼儀がなってないから、陪臣の無礼を不問にした」ってエピソードと比べると
秀吉もそこまでご無体な老君主じゃなく、きちんと礼儀上は一貫してるように見えるな

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/01(金) 23:52:40.98 ID:EXYR56kw
無言と罵詈雑言じゃ対応が変わるのは当然

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/02(土) 07:43:33.75 ID:dDdSc6I8
>>298
>鉄の盾を振り回して戦い
漫画みたいな超人がサラッと書いてあって草

直江も腰をかヽめ候迄の由

2019年07月19日 14:59

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 19:31:33.07 ID:wMVJRuAB
外桜田南通の石垣は上杉景勝に仰せ付けられ、権現様(徳川家康)も度々御見分ならせ
られて御指図遊ばされた。

上杉家の家老・直江山城(兼続)が罷り出て御挨拶申し上げれば、権現様は直に肩を御
押し遊ばされて、かれこれと仰せがあった。直江も腰を屈めるだけであったという。

(権現様直に肩を御押被遊彼是上意有之直江も腰をかヽめ候迄の由)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



江戸ノ悪少年、党ヲ結ビ、異装ヲナシ

2019年06月14日 16:24

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/14(金) 12:52:11.46 ID:IX8PHLFL
江戸ノ悪少年、党ヲ結ビ、異装ヲナシ、横行シテ人ヲ害ス、幕府、ソノ首魁ヲ磔シ、余党ヲ誅ス

【参考】

『直江重光(兼続)書翰留』

(上略)あなたが近日、かぶきを御調査されていることに関して、旦斎が御子息の新二郎殿を御
気遣いなさっているとのことです。実否はどうなのかと御心許ないのです。(中略)

(其元近日かぶき御穿鑿ニ付而、旦斎御子息新二郎殿御気遣之由、実否如何無御心元候事、)

     8月13日

         千坂伊豆守殿(高信。上杉家江戸家老)


(上略)旦斎より御知らせが届きました。御子息の新二郎殿の様子について未だ解決していない
とのことは、全くもって気の毒です。その事について旦斎へ書状を進め置きました。(中略)

(旦斎より御報相届候、御息新二郎殿様子未相済候由、笑止千万候、右之儀ニ付而旦斎ヘ書状進
置候事、)

     9月14日

         千坂伊豆守殿


すぐに御知らせを示し下されましたことを忝く存じます。そして御子息の新二郎殿を御気遣いな
さっている様子を承り、御心許ないものと存じます。きっとその他の御気遣いはないものと推し
量っております。なお、追って御意を得られることでしょう。恐惶謹言。

(乍御報示被下、忝令存候、然者、御息新二郎殿御気遣之様子承、無御心許令存候、定而不可有
異儀候由、推量仕候、猶追而可得御意候、恐惶謹言、)

     9月14日

         小旦斎様
             人々御中

――『大日本史料』



上杉家ノ喫煙ニ関スル令

2019年06月07日 16:27

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/07(金) 15:24:46.72 ID:RXHWoMb5
  上杉家ノ喫煙ニ関スル令

『上杉年譜』

  掟

 (上略)

一、煙草を吸うことは病人と老人は構わない。下々の寄り集まる所でみだりに吸うことは無用
  とせよ。たとえ老人や病人であっても、海道、あるいは主人の供を仕っての門庭において
  吸うことは一切止めること。
 (タバコ、病者老人ハ不苦、下々寄合猥呑候儀、用捨アルベシ、縦老人病者タリトモ、海道、
  或主人ノ供仕、門庭ニ於テ呑事、一切停止之事)
 (中略)


    慶長17年(1612)8月13日

(原注:全文は8月13日に景勝が法令を家臣に分配した条に収められている)


 『直江重光(兼続)書翰留』

  このところ乏しい時分に一段の煙草90枚を御意に懸けられましたことで、とりわけての
  祝着をされました。この類は気にかかることなので、もしもその辺り重ねての到来もあれ
  ば御意に懸けられますように。それではまたの機会に。恐々謹言。
 (爰元払底之時分、一段之たはこ九十枚、被懸御意、別而令祝著候、此類気合ニ相当候条、
  自然其辺重而も到来候者、可被懸御意候、猶期後音候、恐々謹言)

    7月26日

       須右様 まいる

 (原注:本文は略す)

  追って煙草その他御法度の様子を、懇ろに尋ねて申し付けるように。
 (追而、たはこ其外御法度之様子、懇ニ相尋可申付事)
  
    9月14日

       千坂伊豆守殿
  
――『大日本史料』

※7日前→一季居、耶蘇教、負傷者、煙草、屠牛ニ関スル禁令五ヶ條


英雄の掘った井戸である故

2017年06月12日 19:10

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/12(月) 18:37:21.30 ID:xZqoEU9p
井伊掃部様の御屋敷前、坂中の北に仰々しい井戸がある。それは
汲みもしないのに立派な釣瓶縄を備えていた。

それは昔“鱗屋敷”といって、直江山城守が住んでいた時に掘った
井戸だという。これをトウ庵先生(古賀トウ庵)に聞くと曰く、

「直江は天下の英雄なり。英雄の掘った井戸である故、井伊家では
用いないけれども代々大切にこれを保存しているのである」

とのことである。

――『直江兼続伝(天雷子続)』


22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/13(火) 01:49:44.51 ID:qTIEz3oo
>>21
大河で井伊の先祖は井戸から出てきたとか言ってたし、井戸を特別視してたのかも

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 18:59:57.31 ID:oqc2RtC1
>>21
憲政記念館の所に現存しているよな。この井戸

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 19:09:14.48 ID:qFtwVh1m
兼続の屋敷跡が
「憲政」記念館になったとは、
御館の乱の因縁があるようなないような

重任は威が無ければなしえない

2017年06月02日 17:23

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/02(金) 05:27:47.46 ID:lIWQQcsK
直江兼続が伏見城御普請の頭取だった時、杉原親憲と事を論じたが合わず、
兼続は拳で親憲を打った。親憲は大いに怒ったが、国の患いを起こすのを

恐れて我慢して帰った。しかし、不平の勢いは一向に収まらず、「明日赴いて
共に死んでやろう!」と決心し、まず本庄繁長を訪問して別れを告げた。

すると繁長は親憲を諭し、共に兼続のもとに参った。 兼続が迎えて申すには、
「私めは早く行って多罪を謝罪する心得であったが、折りしも繁務のために

出ることができず、再び貴殿に罪を犯した。私めが先に思ったのは、重任は
威が無ければなしえないということだ。威がなければ事は行われず、

事が行われなければ国家の利にあらず。貴殿は天下に聞こえる豪傑の士だ。
貴殿さえ怒ることができないならば、誰か号令に背く者がいようか。

罪を犯したのはこのためである。貴殿が幸いにも私めの多罪を許しなさって、
貴殿の足を我が頭に加えなされば、少しばかりは多罪をあがなえよう」

とのことだったので親憲はさしもの怒りも解け、十分に楽しんで宿所に帰った
のだという。

――『直江兼続伝(鶴城叢談)』



814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/02(金) 08:10:41.27 ID:OX53w4Zl
「徳のある政治は恐怖がないと無力である」
とフランス革命の指導者の1人も言ってたな

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/02(金) 18:36:43.58 ID:dMULztp1
水戸黄門も格さんと助さんがぶん殴って黙らせてから印籠持ち出すわけだ

816 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/06/02(金) 19:01:41.01 ID:pPSEnR4W
Shock and Aweですねわかります

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/02(金) 20:18:31.72 ID:/I3q2Y2i
北斗神拳もモヒカンがいないと無意味なわけだな

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/02(金) 21:44:12.63 ID:aKCPlR46
>>815
どちらかというと徳川八万騎+親藩+徳川寄り諸藩連合に勝てるかって話じゃね?

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/02(金) 23:06:55.47 ID:geu/lSHb
>>818
長州藩「旗本八万騎www」

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 01:49:54.44 ID:10fH6c15
偽官軍だってw

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 11:25:08.35 ID:4Ghf+TWg
奥州十万騎

遺物は武具と書籍のみ

2017年05月22日 17:59

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 05:54:36.32 ID:Pj7Ed7SX
直江兼続の最愛の一子・平八景明が、本多正信の媒酌で近江国膳所城主・戸田氏鉄
<今の戸田伯爵家>の娘と江戸で婚儀を挙げる時、

戸田家より朱塗の膳椀に金蒔絵の道具が着いたので、直江家の役人たちが、「これに
相応する道具を準備するべきでしょうか?」と、兼続に尋ねたところ、

兼続は、「それはもってのほかである。もし、対等の膳椀でなければ婚礼させられぬと
あらば早速破約する。武士の魂である刀や槍に錆がなければ、何の恥ずべきところが
あろうか。朱塗の膳椀が何だというのか」と、言ったという。(『我郷の先哲』)

兼続はこの如く倹約であったが、社会に有益な事業には多額の私財を投じて惜しまな
かった。慶長11年には文選60巻を刊行して文化に貢献し、その他にも論語などをも
出版したとのことである。

また元和4年には禅林寺<後の法泉寺>を建立して、学僧・九山を招き開祖となしたが、
これは寺子屋式に子弟を教育し、また藩学の興隆を図ったのである。

この如くして、上杉家の大元老の遺物は武具と書籍のみであったといわれている。

――『直江兼続伝』



942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 06:00:16.06 ID:rKmpoToj
こういうの見ても直江兼続に対するバショクや趙括的なイメージが拭いきれないんだよね

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 06:12:03.24 ID:qz+Ugzga
大河や漫画やらでそんなイメージはないなw

直江兼続の衣食住は

2017年05月21日 15:12

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 02:49:51.97 ID:ReHkwYuF
直江兼続の衣食住は非常に倹素であり、食事の如きも山椒3粒で済ませた。

中条越前守が蓼漬と蛮椒(唐辛子)を用いたのを兼続は見咎めて、「どれか
一品になさるのが良いであろう」と、忠告したとある(『愛日漫録』)が、実際、
余程粗末のものであったと見える。

また色部修理のところへであろうか、招かれた時に雁の吸い物を差し出した
として亭主に断り、「奢りである」と言って、その汁を食べなかった。かつその
用人を追放させたとのことである。(『鶴城叢書』)

衣服も頗る質素で、今上杉家に保存されている兼続が着用した浅黄綾子の
羽織を照らし合わせると、これは彼の衣服でも最上等のものであるが、裏は
黄金色の練らない絹で、細かい継ぎ切れを縫い合わせたものである。
(『我郷の先哲』)

――『直江兼続伝』



923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 05:50:16.60 ID:7S0zCOK5
山椒って高いよね

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 06:44:56.33 ID:BtCnM7UP
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1419.html?sp&sp
こっちでは「おかずに蓼は贅沢!塩だけで十分!」

蓼か唐辛子かどちらかにしていても文句言ったようだ

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 07:43:47.93 ID:epP0gEsi
倹約して貯めた金はどこに消えたんだ?

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 09:05:52.09 ID:C40FsJar
誰のせいでこうなった!

927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 10:18:35.12 ID:9hLRGUoc
大酒呑みの基地外だろうね

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 10:55:42.70 ID:k0AZsbIn
戦国時代は香辛料をおかずにご飯を食べるのが普通だったのか?

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 12:15:20.27 ID:3gTOYsOw
>>928
まあ遠回しに「そのくらい美食を遠ざけ倹約してたんだよ!」って言っているんだよ