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英雄の掘った井戸である故

2017年06月12日 19:10

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/12(月) 18:37:21.30 ID:xZqoEU9p
井伊掃部様の御屋敷前、坂中の北に仰々しい井戸がある。それは
汲みもしないのに立派な釣瓶縄を備えていた。

それは昔“鱗屋敷”といって、直江山城守が住んでいた時に掘った
井戸だという。これをトウ庵先生(古賀トウ庵)に聞くと曰く、

「直江は天下の英雄なり。英雄の掘った井戸である故、井伊家では
用いないけれども代々大切にこれを保存しているのである」

とのことである。

――『直江兼続伝(天雷子続)』


22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/13(火) 01:49:44.51 ID:qTIEz3oo
>>21
大河で井伊の先祖は井戸から出てきたとか言ってたし、井戸を特別視してたのかも

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 18:59:57.31 ID:oqc2RtC1
>>21
憲政記念館の所に現存しているよな。この井戸

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 19:09:14.48 ID:qFtwVh1m
兼続の屋敷跡が
「憲政」記念館になったとは、
御館の乱の因縁があるようなないような
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重任は威が無ければなしえない

2017年06月02日 17:23

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/02(金) 05:27:47.46 ID:lIWQQcsK
直江兼続が伏見城御普請の頭取だった時、杉原親憲と事を論じたが合わず、
兼続は拳で親憲を打った。親憲は大いに怒ったが、国の患いを起こすのを

恐れて我慢して帰った。しかし、不平の勢いは一向に収まらず、「明日赴いて
共に死んでやろう!」と決心し、まず本庄繁長を訪問して別れを告げた。

すると繁長は親憲を諭し、共に兼続のもとに参った。 兼続が迎えて申すには、
「私めは早く行って多罪を謝罪する心得であったが、折りしも繁務のために

出ることができず、再び貴殿に罪を犯した。私めが先に思ったのは、重任は
威が無ければなしえないということだ。威がなければ事は行われず、

事が行われなければ国家の利にあらず。貴殿は天下に聞こえる豪傑の士だ。
貴殿さえ怒ることができないならば、誰か号令に背く者がいようか。

罪を犯したのはこのためである。貴殿が幸いにも私めの多罪を許しなさって、
貴殿の足を我が頭に加えなされば、少しばかりは多罪をあがなえよう」

とのことだったので親憲はさしもの怒りも解け、十分に楽しんで宿所に帰った
のだという。

――『直江兼続伝(鶴城叢談)』



814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/02(金) 08:10:41.27 ID:OX53w4Zl
「徳のある政治は恐怖がないと無力である」
とフランス革命の指導者の1人も言ってたな

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/02(金) 18:36:43.58 ID:dMULztp1
水戸黄門も格さんと助さんがぶん殴って黙らせてから印籠持ち出すわけだ

816 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/06/02(金) 19:01:41.01 ID:pPSEnR4W
Shock and Aweですねわかります

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/02(金) 20:18:31.72 ID:/I3q2Y2i
北斗神拳もモヒカンがいないと無意味なわけだな

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/02(金) 21:44:12.63 ID:aKCPlR46
>>815
どちらかというと徳川八万騎+親藩+徳川寄り諸藩連合に勝てるかって話じゃね?

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/02(金) 23:06:55.47 ID:geu/lSHb
>>818
長州藩「旗本八万騎www」

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 01:49:54.44 ID:10fH6c15
偽官軍だってw

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 11:25:08.35 ID:4Ghf+TWg
奥州十万騎

遺物は武具と書籍のみ

2017年05月22日 17:59

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 05:54:36.32 ID:Pj7Ed7SX
直江兼続の最愛の一子・平八景明が、本多正信の媒酌で近江国膳所城主・戸田氏鉄
<今の戸田伯爵家>の娘と江戸で婚儀を挙げる時、

戸田家より朱塗の膳椀に金蒔絵の道具が着いたので、直江家の役人たちが、「これに
相応する道具を準備するべきでしょうか?」と、兼続に尋ねたところ、

兼続は、「それはもってのほかである。もし、対等の膳椀でなければ婚礼させられぬと
あらば早速破約する。武士の魂である刀や槍に錆がなければ、何の恥ずべきところが
あろうか。朱塗の膳椀が何だというのか」と、言ったという。(『我郷の先哲』)

兼続はこの如く倹約であったが、社会に有益な事業には多額の私財を投じて惜しまな
かった。慶長11年には文選60巻を刊行して文化に貢献し、その他にも論語などをも
出版したとのことである。

また元和4年には禅林寺<後の法泉寺>を建立して、学僧・九山を招き開祖となしたが、
これは寺子屋式に子弟を教育し、また藩学の興隆を図ったのである。

この如くして、上杉家の大元老の遺物は武具と書籍のみであったといわれている。

――『直江兼続伝』



942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 06:00:16.06 ID:rKmpoToj
こういうの見ても直江兼続に対するバショクや趙括的なイメージが拭いきれないんだよね

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 06:12:03.24 ID:qz+Ugzga
大河や漫画やらでそんなイメージはないなw

直江兼続の衣食住は

2017年05月21日 15:12

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 02:49:51.97 ID:ReHkwYuF
直江兼続の衣食住は非常に倹素であり、食事の如きも山椒3粒で済ませた。

中条越前守が蓼漬と蛮椒(唐辛子)を用いたのを兼続は見咎めて、「どれか
一品になさるのが良いであろう」と、忠告したとある(『愛日漫録』)が、実際、
余程粗末のものであったと見える。

また色部修理のところへであろうか、招かれた時に雁の吸い物を差し出した
として亭主に断り、「奢りである」と言って、その汁を食べなかった。かつその
用人を追放させたとのことである。(『鶴城叢書』)

衣服も頗る質素で、今上杉家に保存されている兼続が着用した浅黄綾子の
羽織を照らし合わせると、これは彼の衣服でも最上等のものであるが、裏は
黄金色の練らない絹で、細かい継ぎ切れを縫い合わせたものである。
(『我郷の先哲』)

――『直江兼続伝』



923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 05:50:16.60 ID:7S0zCOK5
山椒って高いよね

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 06:44:56.33 ID:BtCnM7UP
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1419.html?sp&sp
こっちでは「おかずに蓼は贅沢!塩だけで十分!」

蓼か唐辛子かどちらかにしていても文句言ったようだ

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 07:43:47.93 ID:epP0gEsi
倹約して貯めた金はどこに消えたんだ?

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 09:05:52.09 ID:C40FsJar
誰のせいでこうなった!

927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 10:18:35.12 ID:9hLRGUoc
大酒呑みの基地外だろうね

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 10:55:42.70 ID:k0AZsbIn
戦国時代は香辛料をおかずにご飯を食べるのが普通だったのか?

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 12:15:20.27 ID:3gTOYsOw
>>928
まあ遠回しに「そのくらい美食を遠ざけ倹約してたんだよ!」って言っているんだよ

直江兼続は断じて反対し

2017年05月20日 16:21

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/20(土) 02:31:20.56 ID:WjJkd30J
上杉家が30万石に減封させられた時、老臣の中には、「この際、30万石の丈に
見合った家臣の数に減らすべき」とのことを提案した者もいたが、

直江兼続は断じて反対し、「この如き際には、人ほど大切なものはない。一同が
協力して復興を計るべきである」として、

新季奉公の牢人たちで去る者は追わなかったが、旧来の家臣は1人も去ることを
許さなかったということである。

――『直江兼続伝(天雷子続)』


義光は笑った

2016年10月21日 09:24

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/21(金) 02:00:56.12 ID:ZIiyZKTJ
義光は笑った

慶長5(1600)年9月半ば、直江兼続率いる上杉の大軍が山形盆地を臨む菅沢丘へと布陣した

最上軍の将の氏家左近(氏家光氏)は「(富神山奥の)西黒森で上杉の荷駄道を撹乱し、後方を掻き回したい」と軍議で申し出た

この提案に小勢ではすぐに消耗し、あたら兵を失うと諸将の反対はあったが、左近の手勢60人程での作戦が認められた

兵には命知らずで足の早い者が集められた

これを耳にした延沢遠江(延沢光昌)も沼木方面への遠見の役を申し出た

最上義光は延沢の重臣有路但馬、笹原石見、糟谷延元らに軽挙あるべからずと念を押した

その日の夕刻延沢勢の進出した沼木の西、須川の東岸に大量の最上方の幟旗が立ち気勢が上がり
横目衆から義光に「この様な立て札が至る所に立っております。いかがいたしましょう?」と問い合わせがあった

立て札には「最上は 国の真秀(まほ)ろば 畳(たた)なづく 青垣 山篭れる 最上し 美(うる)はし」と書かれていた

義光は立て札を元に戻す様に命じて声を立てて笑い、非常に嬉しそうであったとされる

「山形合戦」等



閻魔状

2016年05月16日 15:30

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/16(月) 04:46:55.42 ID:/09Z0TN3
慶長3年、上杉景勝が会津へ移ることになる折、横田式部という者が召使いの茶坊主を斬罪にした。
そもそも誤りのないことだったので、坊主の親類が大勢決起し、国改めに京都より、前田玄以
石田三成が下向した。親類らはこの両人へと訴えた。

これに玄以と三成は「その事は直江の方へ申せ」と指図したので、訴訟人らは直江兼続のところへ
詰め掛けた。兼続は対面し、「皆々の申し分はもっともである。それならば、主人の横田式部に、
詫び言のために銀50枚を出させるので堪忍せよ」と、仲裁した。

だが、訴訟人たちはますます怒って帰り、再び玄以と三成に訴えたが取り合ってもらえなかった。
そこでまた兼続のところへ詰め掛けると、兼続は「それならば銀70枚を出させよう」と仲裁した。

しかし、訴訟人たちは、「70枚でも700枚でも、死んだ人が帰るであろうか。とても道理に合わぬ
ことを御申しになる!」と、難癖を付けた。すると兼続は札を1枚取り寄せ、一筆書いてじかに持って
出ると、「訴訟人たちのうち、張本人は幾人いるのか?」と、尋ねた。

これに、「その坊主の兄と伯父がこれに」と、両人が出て来ると、兼続は「何と仲裁しても汝らどもは
承知しない。とかくこの上は、かの坊主を再び今生へ呼び還さなくては、汝らの心には叶うまい。
さりながら、誰も呼びに遣わす使いがおらぬので、その者の兄と伯父と2人で迎えに遣わすとする。
この高札を持って早々に地獄へ参り、閻魔主にこれを見せて、かの坊主を召し連れて帰るがよい。
すなわち、その文を聞け」と言い、高札を読んだ。

 『いまだ御目にかかってはおりませんが、一筆申し入れます。さて、横田式部の召使いの
 茶道坊主を親類どもが呼び戻し申したいと達て申しますので、こうして親類2人を迎えに
 寄越し申しました。きっと御返進してくださいませ。恐々謹言。

  二月十日     直江山城守兼続

  閻魔大主殿 参』

以上の書付を読み聞かせると、兼続はかの張本人2人をその場で斬罪にし、その高札を前に立てて、
2人の首を獄門にかけた。そのため、徒党は蜘蛛の子を散らすように逃げ失せ、国中強訴は1人も
なく、静謐と相成った。

――『北越太平記』

関連
直江兼続と閻魔大王への手紙・悪い話


629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/16(月) 12:11:11.17 ID:O2Ebagvq
>>627
村上さんで脳内再生された。

直江兼続「東根城は」

2015年07月21日 13:02

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/21(火) 00:34:43.32 ID:2FhXIjUV
直江兼続「東根城は」

直江兼続はある話に曰く、「最上陣(1600年の山形攻め)ではまず、山形盆地に押し寄せ山形城を攻め落とす
そして最上義光を降した後に、そのまま北上して北の東根城を奪取する
この東根城を整備し、ここに籠城したならば、例え徳川家康が率いる天下の連合軍を相手にしても十分に渡り合える」

『名将言行録』

-東根城は窪地や沼沢に囲まれた要害とは言え、実際の地理を見てみるとちょっと買い被りの様な気が…

※東根城…1588年に本庄繁長が攻めるも最上勢からの手痛い反撃を受け撤退する。また1600年に志駄義秀が攻めるも、また落とす事は出来なかった。




最上軍の追撃

2015年05月22日 13:02

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/22(金) 02:27:57.79 ID:nWgigd4P
最上軍の追撃

慶長5(1600)年9月末日、直江兼続は負傷兵と荷駄隊を陣の後方へ移送し、富神山から幡屋(畑谷城)の方へと引いていた
菅沢の旧本陣には水原親憲を殿として残し、10月朔日(1日)の早朝をもって米沢へ向けての全軍撤退とされていた

山形城を出、須川沿いに陣を展開していた最上義光に関ヶ原で東軍が勝利したとの報が着いたのが同9月末日の午後(?)
義光は翌朔日(10月1日)早朝をもって直江軍を追撫する旨を全軍に布告し、長谷堂へも早馬を走らせた

朔日(10月1日)日も出る前、菅沢の水原軍は陣を焼き撤退を開始
タイミングを図っていた義光は上がる火の手を見て味方を鼓舞をするや否や陣頭に立ち、すぐに追撃戦に入った

富神山麓で水原軍と最上軍は混戦に入る

義光は肌身離さず常に携えていた例の鉄棒を振り回し、逃げ惑う上杉軍を追い駆けた

朝日が昇る頃秋霧の立ち込める女子林なる處に来たる迄、五人程の上杉兵を御手自らその鉄棒で打ち据え撲垰(殴り倒し)、尚も追撃しようとしたところ、
前線は拡がり、敵味方は方々で乱戦の状態であったので、最前線の義光の周りには僅かな馬廻りと供の者しか着いて来れない在様(ありさま)だった

堀喜吽といった法師武者が義光に馬を近付け
「敵がどこに潜んでいるかも知れません。後方の兵(本隊)が追いつくまで今暫く追撃をお待ちください」と諌めたが
義光は喜吽に「直江軍が勢を崩している機(機会)である。味方が追いつく迄待っていては敵を逃してしまう
その様な事を言って戦いが怖いのか?不覚者」と強い口調で抗議した

喜吽は「我は臆病風に吹かれたのではありません。そこまで言われるのなら先に上杉兵を蹴散らして参ります。剛勇の程を此で見ていてくだされ!」と反論すると数町馬を走らせたが、
薮に隠れていた上杉兵に狙撃され、胸板を貫かれ落馬して果てた

義光の兜にも弾丸は当たり、義光に付き従っていた志村藤右衛門等も銃撃により討ち死にした

山一つを隔て最上義康が隊を引き連れ義光に追いついて来たが、直江軍は岩陰や薮、林に鉄砲隊を配し
最上軍に一撃加えては撤退を幾度も繰り返した

10月2日(?)曼珠ヶ鼻を越える迄最上・上杉軍は戦闘

義光の息子の山野辺右衛門佐光茂(山野辺義忠)は撤退する直江軍を最後まで追撃しようとしたと伝わる

「奥羽永慶軍記」「冩山形軍談(残欠本)」

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/22(金) 02:44:35.34 ID:nWgigd4P
※過去に出て来た話と異なる部分は
堀喜吽とのやり取りがかなりはしょられている
「大将が先を行かずして、どうして兵がついてくる」が「上杉軍に最集結(反撃)の機会と逃げる機会を与えてしまう」といったものになっている
10月1日だけでなく、2日目以降も戦闘が続けられた事になっている
9月30日には直江兼続がすでに後方に引き始めている

※山野辺義忠はこの時13歳で、書き物によっては徳川家康に人質として出されている
(光茂は清水義親の旧名なので混同されているとも)

(´・ω・`)正直どの話が正しいのかよくわかりませぬ




前田慶次の鉄笠

2015年04月24日 18:39

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/24(金) 15:54:27.60 ID:4P9hbfME
前田慶次の鉄笠

長谷堂の退陣に当たり芋川守親は最上の追軍をよく留めていたが、戦線が綜じて敗北の気色に至り、直江兼続がついに自刃を決意したとき、前田慶次は「大将たる者がいたずらに死に急ぐな」と諌め
「これより戦線を留め申す」と言い放つと戸上から長谷堂方面へと馬を走らせた

殿軍にあった水原親憲は慶次を見かけると
「この退き口は地形的に馬上では不利である。馬より降りて追いすがってくる敵を槍で突いた方が良い」と伝えた

この日の前田慶次の出で立ちは黒の鎧に猩々緋色の羽織、金のいらたか、襟には金の瓢箪を房に付けた数珠、鉄金渋の兜笠、十文字の槍。馬も鎧と同じ黒い色でこれには金の山伏頭巾をかぶらせていた

敵を見つけると慶次は馬から降り「前田慶次ここにあり」とをめきを挙げて敵に打ちかかっていった

『武辺咄聞書』ほか

この長谷堂撤退戦で前田慶次が用いたとされる鉄笠は数年前まで寒河江の資産家が所蔵していたが、逝世により遺族から放出され、現在は行方知れずと言う

疑惑の降伏文書

2014年11月20日 17:50

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/20(木) 05:21:03.63 ID:/6neHdQ5
疑惑の降伏文書

慶長5(1600)年、徳川家康は上方の石田三成の挙兵の報を聞くとただちに軍を西進し、後に残された奥羽の情勢は急転した

上杉家に伝わる軍記「上杉家記」にこの頃の外交文書のひとつとされるものがある

一、今度当地江御発向可被成と承付而 書状以申上候 跡々御家中の者同前に馳走仕段 申進候事

一、先年御差図を以 家康伏見城へ移被申候 御前様ハ若松へ御下向時分 拙者儀者山科大屋毛の原まで罷出 御門送り仕 御主同前に拝し申候事

一、拙者の儀ハ国本へ飛脚を差越 嫡子修理大夫を若松へ御着之翌日為致出仕 御主同前ニ致候事

一、其後家康伏見之城ニて 五日評定被致候 我等式も其列ニ罷成日々罷出申に調といへ共
直江承引なけれハ 御静謐より外無之と相極申に付而 毎日之評談御留守居千坂対馬守へしらせ 早々会津へ申入よと為御知仕候 定而御覧可有御坐候事

一、御評定相済 若松へ御手向之時分 正宗と拙者ハ隣に御座候付 早々夜を日につき罷下 界之道橋を拵
白川表へ先手着候而 早々御領分へ物色を出し候事と被申に付而 急度□元へ罷下候事

一、正宗儀者国元へ罷下 則儀領分を一郷も二郷も打破り 慮外を申上候に御かまいなく被差置
拙者之儀ハ 右より是非御すねをだき入可申と存候ニ付而 至今日迄御領分へ足軽壱人も出し不申に 慮外を仕正宗をハ被差置
是非可頼入と存 拙者へ御手向之儀迷惑ニ存候事

右条々被聞召分被下候ハハ 嫡子修理大夫を証人に差上 其外家人証人之儀ハ 二重にも三重にも 御差図次第差上可申候
拙者之事ハ人数一万召連 何方迄も御用に相立可申候間 可然様に被仰上可被下候 恐々謹言

最上出羽守 義光

八月十八日

直江山城守殿

「上杉家記」

※ただし『上杉家文書』には上記に該当する文書は原本も写しも存在せず、また上杉家側からの山形攻めを記した『越境記』「最上合戦記」と同時期の上杉将兵の手紙にも
最上義光の降伏文書について記されたものはない

『越境記』には「最上の百姓や代官らが上杉領をたびたび侵犯した」事が山形攻めの理由とされ
上記「上杉家記」の降伏文書も最上家改易後の江戸時代に捏造されたものではないかといった説も存在する



852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/20(木) 07:30:08.90 ID:TZaO/MC8
疑惑と言うより研究者はことごとくクロ判定してるような気が…
書いてある内容が現実と一致して無かったりするし

谷地合戦

2014年11月05日 18:53

下吉忠   
689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 12:13:05.19 ID:bsemGf33
谷地合戦

慶長5(1600)年9月、米沢の直江兼続が山形を攻めた折り、最上方の谷地城将は谷地伯耆といった者が据えられていた
しかし伯耆は山形陣に招聘され、谷地城には伯耆の一族の谷地大学と金山伊豆と300人程の徴用された農民を含む兵らが詰めていた
そこに庄内の大山城を出た下吉忠が3000程の兵力でどっと押し寄せた
谷地城の守兵は命を風塵よりも軽んじ防戦したが
城の各所は破られ、味方も大勢が討たれ、大学と伊豆も手負い傷を負い、大勢は決したかの様に見えた

上杉方からの攻めの手が緩んだ際に、谷地城の谷地大学から下吉忠の元へ使いが出された

谷地方「今は我等(谷地の最上軍駐留部隊)では篭城を続ける事が叶いません。下吉忠さまが武士の名誉を知るなら城内にいる女童と老人を城から出し、
(上杉方の手に落ちていない後方の)寒河江方面に逃がす事を見逃してください。
代償といってはなんですが、城主格の谷地大学と金山伊豆が腹を切り、これ以上は抵抗を止めて谷地城を開城致します」

吉忠は「女童に限らず城さえ明け渡してくれれば、生き残っている将士の命も助けましょう」と回答したが
谷地大学と金山伊豆の他に荒川・虫笠・貝津(貝澤?)といった20人程の士分は「命があろうと城を敵に奪われなんの面目があろうか」と
女童を城から逃がし、城内の掃除をして見苦しい物を武者溜まりに集めて燃やし終わると
身を清め大手門の下吉忠の軍の前で
皆揃って腹を掻き切り果ててしまった

畑谷城・鳥谷ヶ森城・東根城・左沢城以外にも
明け逃げをせずに上杉方に抗った最上軍将士の事跡

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 12:21:43.80 ID:bsemGf33
出典『奥羽永慶軍記』



692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 13:27:07.25 ID:T8ihsOzK
虫笠とはまた珍しい苗字だ

「直江状」について

2014年10月25日 18:56

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/24(金) 21:37:04.61 ID:nGMwD1eh
直江兼続のものとして名高い「直江状」。
しかしこれが偽書ではないか、という説がある。
その根拠のひとつとして、秀吉・家康が崇敬した高僧である西笑承兌への書状としては、
あまりにぞんざいな文体ではないかという点があげられる。

たとえば冒頭「今朔之尊書、昨十三日下着、具拝見、多幸々々」
(今朔の尊書昨十三日下着具に拝見、多幸々々。
くだけた現代訳:今月一日のあなたの書状が昨日届いた。じっくり拝見、どうもどうも)
は、候すらない体言止め。途中から候を使うようになるが、かなりくだけた言い回しである。
これはやはり失礼ではないだろうか?
ここで同じ時期、慶長五年前後の兼続から主君である景勝への書状を見てみよう。

「御状被見」
「書状被見」

等々。どうも兼続は主君相手でも、体言止めを用いて尊大である。
(漢文に通じているためかもしれないが)

つまり結論から言うと、
「兼続は尊大なのが平常運転なので、ぞんざいな文体でも仕方ない」
のではなかろうか。
というわけで、「直江状」が嫌味たっぷりで一部高飛車な文体でもおかしくはないだろうという話である。

兼続がそんなに傲慢で尊大かどうかは、他の逸話等から皆さんでご判断いただきたいところだ。





606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 09:46:42.19 ID:eqb7g8SL
と言う事は、殿といっしょの直江兼続が本物に近いのか

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 11:55:03.41 ID:SFwG4n+u
直江状は写しを製作年代順に並べると古いものほど江戸時代の言葉使い、尊大な表現が無くなっていくので
残存してない原書においてはまともな文書だったんじゃないか、ってのが最近の真書説やね

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 13:38:01.77 ID:cN62lIFO
德川史観で徐々に改ざんされていったんだろうね
德川に刃向かう上杉と直江を無礼者の印象にしたかったのだろう

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 14:11:50.19 ID:SFwG4n+u
どっちかというと義分かっけーもっと派手に行こうぜ!じゃないかな

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 15:52:12.09 ID:4nL1cEnI
徳川史観なんて久しぶりに聞いたよワロス

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 17:18:53.62 ID:5N6VoFH8
~史観とか言い出したらキリがないからなw
個人の意見もカタにハメられるし

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 18:01:02.06 ID:qCndG40/
文章改変してたらそれ「写し」違うだろって思うが
2chでいうコピペ改変みたいなノリなのかしらん

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 18:34:54.62 ID:4+fyTphZ
>>612
「意訳」に近いね。江戸期も長いから、近世初期の文書だとだんだん意味が通じなくなる事もある

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 19:42:11.70 ID:qCndG40/
>>614
なるほどありがとう
俺らが現代語訳された歴史書を読むようなもんか

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 19:55:00.72 ID:luQDqy+G
原文では候文で書かれてるから直訳すると丁寧語になるところを
タメ口とか尊大な口調で訳されてるのも結構見るけど、
それも互いの立場とかを考慮した意訳なんだろうな

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 21:37:02.60 ID:CVS3oRCj
普通の本ならそんなことはない
ネットのことを言ってるんだったらネットをソースにするのが間違い

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 22:07:20.29 ID:0b6E2Qj9
これは普通の本?

細川重男「頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉」(洋泉社〈歴史新書y〉
p97
ところが、広常来陣を聞いた頼朝は、激怒。
「すこぶる彼の遅参を腹り、あえてもって許容の気なし」
(激しく広常の遅刻を怒り、全く許す様子が無かった)
意訳①
「遅ーーーい!絶ッ!対ッ!許さん!」
カンカンである。
意訳②
「今頃来たって遅いのよ!顔も見たくない!ベ、くつに広常のこと、待ってたわけじやないンだからね!」
ツンデレである。

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 22:10:34.71 ID:0b6E2Qj9
あ、OCRが誤変換してた
「腹り」→「瞋り」

長谷堂攻め本格化す

2014年09月16日 18:52

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/16(火) 14:57:44.73 ID:86qLHPKL
長谷堂攻め本格化す

(慶長5年9月14日に富山口を抜け長谷堂北方の山形盆地に進軍した直江兼続だったが
15日の楯岡光直と清水義親の夜襲を受けて、菅沢丘陵へと後退して陣を構えた)

其比(此)、長谷堂には志村伊豆守(志村光安)在城しける間
加勢として(鮭延秀綱の援軍)旗本百騎に小筒の足軽二百餘人籠りける

然るに九月十六日直江山城守(直江兼続)長谷城へ押寄、城十一町を隔て、菅澤山に陣をとれば
春日左衛門(春日元忠)は山の尾崎に備を立、既に春日は仰を窺、明日未明より可責と也
然は城中の若者一々次第に打而出んとはやりける所に、伊豆守(光安)同加勢(秀綱)と申合壱人も柵より外へ、□(※耳の右側に卯の字)爾に出さず
悉静りかへつて居たりけるが、其夜伊豆守家来に大風右衛門佐、横尾勘解由を大将として兼而夜討に馴たる若者二百人撰び出し互いに相ことばを定め二手に分け
十六日の曉春日左衛門尉が備へたる陣中へ忍入す
こへも立ず 、追伏々切ける間、思ひよらざる事なれば陣中上を下へと返しけり何れをかたき共味方共わけざれば同士討する事数多なり
去るに左衛門も馬に乗るべき隙さへなく漸く太刀斗追取て山城守陣中さして逃行ける
然る所に夜打の勢共は左衛門が陣を思ひの儘に打破り討捕し首共を百十五持来り
伊豆守実検に入ければ喜悦其限なく、夜討の大将は不及申其外のもの共に迄ほうびをえさせけり
其夜味方にも八人打死しけるとなり

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/16(火) 15:22:57.92 ID:86qLHPKL
さて又かたきの方にはいよいよ無念を起し押付長谷堂へ取詰るのよし義光公被聞召鮭延越前守を召されのたまひけるは

(義光)「長谷堂の城へは最前より加勢を丈夫に遣し置といへ共いまだ心もとなき間
其方は急長谷堂へ行伊豆守合力後事の評定を致べし
かまへてかまへて日来申付ごとく城中の勢兵を壱人も柵より外不可出」

と有ければ

(秀綱)「畏て候」

とて手勢引くし長谷堂へ行、伊豆守に対面して御意の趣委申渡ける
然るに春日左衛門、十六日の敗軍口惜存、同十八日に先陣にて惣堀へ攻寄るといへども、城中には少もさはがず
四方の矢ぐらより鉄砲を一同あられのごとく打ければ時の間に多の死人出たりけり
寄手是を見て責めあぐんでや有けん、先手負共を助よとて本陣へ引返しける
然ば城の内にてはいよいよ悦就中はやりをの若もの共勝に来ていざや打て出追討なさんとていさみにいさんで打出んとせし所に伊豆守抑へ申けるは

(光安)「何とてかたかたは不入若げを働候哉
此城堅固にして数日送りなば必ず義光公後詰可有之間
其時内外よりもみ合戦候はば立所に勝利を得べし
然るに今卒爾に打て出付入などにせられてはあしかるべし
さて付入と申は昔よりも上杉家のえものとこそ聞及也
殊更義光公鮭延に被仰含候通城中の勢兵返々壱人成共柵より外へ不出可と
委細被仰越候所に卒爾成働共返々無用」

と申けれども若手の者聞も不入

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/16(火) 15:56:55.00 ID:86qLHPKL
(長谷堂城兵の若者達)「(9月17日に南の上山城の里見勢が上杉軍の本村親盛や椎名弥七、松下杢助・平岩石見、岩井備中を討ち取り、数百の首級を挙げた戦果を伝え聞き)
上山、長谷堂とて同様に寄来るに上山にてはかたきを追払、分捕高名せし處に、此城なればとてなんぞ一戦もせざらんやは無念の次第なり」

と口々に申ける所節かたきの方には足軽共をあまた放し散らし作物を苅はこばしむるを越前守

(秀綱)「あれあれ御覧候へ苅田をなすとみへたり
さいわい若手者あまりにいくさ所望の上は我伴ひ出し一いくさすべき間引入候はん時あやうからぬ様に取計候へ」

とて既に打而出んとしけるを伊豆守申けるは

(光安)「かまへて足早に引き給ふべし何程かたき追たるとも返し合給ふ事合やめられて可然候
其後の事はともかくも我々に被任置候へ」

と申ければ越前守につこと打わらひ

(秀綱)「引入ての後は貴殿に預置候。唯今の合戦は随分とはげみ可申の間剛腕の程御見物候へ」

とて旗本組百騎許伴ひ大手の間を押ひらき、いさみにいさんで打て出
苅田をいたす足軽共を追立山際に備たる直江山城守が本陣へ切て入れば寄手も願ふ所の幸と入みだれ追つ返しつ一時程戦ひけるに
とかく味方の軍のつよきにや敵の物頭数多討取ける間、終にさぐり立られ後陣の勢へ逃入ける
味方の兵勝に乗て猶もつづひて入らんとしたりしを
越前守押留、日既に夕陽にかたぶけりとて軍兵る間
寄手是に利を得て更ば付入に乗とれとて手しげく追欠けれども
内々伊豆守と申合たる事なれば少もかまはず足早に引而入にけり
又寄手方よりも透間もなく追て乗入らんとしける所に
伊豆守兼てかく可有とおもひ足軽三百余人引具し大手の口より壱町程斗出し道を中にはさみ
弓手めてに備を立流かけたる事なれば
五間七間引離て三百丁の鉄砲を一度に放かけければ
先にすすむ兵共将□たをしをする如くやにわに三拾騎斗ばらばらと打たをす
後陣共に辟易して進み兼たる内に伊豆守足軽共を下知して手がろく引て入ける間
寄手も力およばずして本陣へ引返しけるなり

『義光物語』

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/16(火) 16:11:10.28 ID:86qLHPKL
寡兵で上杉軍を翻弄した鮭延秀綱と、それをサポートした志村光安の記述




加藤掃部左衛門(加藤清次)の話

2014年09月14日 18:53

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 06:04:23.93 ID:pXZRTHXC
加藤掃部左衛門(加藤清次)の話

山形西方の加藤家には加藤清次にまつわる言い伝えがいくつか残っている

慶長5(1600)年、直江軍の大軍に昵懇の仲であった江口道連篭る畑谷城が攻められている様を聞いた清次は、
すぐに従者らに武装をさせ、わずかな手勢だけで独自に救援へと赴いたが、援軍は間に合わずに落城の瞬間を
目撃してしまう
(直接道連の自害を見届けたといった話もあり)

悪戸には山形城から明け逃げをし、山形へ集合せよとの命令があり、清次は一族の子女を避難させ、
山形城へと向かった

清次は長谷堂城北方の戦いに出陣し、現在「掃部の碑」がある辺りで討死したと伝えられている

しかし、半月に渡る混戦で、悪戸から参陣した兵らも多くが還らず、清次の死の詳細は不明な事が多かった

上杉軍の撤兵後にわずかに生き残った悪戸衆の兵士らから加藤家に、概その戦死の際の話がもたらされた

加藤家では9月14日を加藤清次の命日としている

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 06:10:42.29 ID:pXZRTHXC
※碑の位置から9月14日の討ち死にではなく
翌15日の清水義親・楯岡光直隊による夜襲や
9月16~29日の局地戦が可能性として上げられる




十三夜の餅

2014年09月13日 18:53

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/12(金) 20:31:17.47 ID:DHKqFkOS
十三夜の餅

※口語伝承のため、特に原典となるものはありません

慶長5(1600)年の旧暦の9月13日、山形西方では十三夜の月見に合わせてこの日のために取っておいた餅米で
餅を作っていた

そこになにやら鎧兜をつけた集団が次々と現れ、掠奪や狼藉をはじめた

人々は村から追い立てられ山野に逃げ込み、我が家を振り返ると
せっかくこしらえていた楽しみの餅が、軍兵に食い荒らされていた

村人「こんな事なら月が出るまで待たずにもっと早く食べておけばよかった…」

突如として村に現れたのは先に畑谷城を攻め落として勢いに乗り山形盆地へと進軍する上杉の兵で

畑谷城が直江兼続に攻撃された日は「十三夜の餅」の日だった

恐ろしい目にあった畑谷ではいまでも十三日に餅をつかないという

畑谷から東の方面では
十二日や十三日の早い時間に餅をつき
時間を置かずに急いで食べる風習になったと伝わる




上杉軍の侵攻の早さに

2014年09月13日 18:53

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/13(土) 10:29:11.18 ID:br53l3F2
上杉軍の侵攻の早さに

慶長5(1600)年9月13日の昼過ぎ、直江兼続は畑谷城を落とした

挙げた首級は500余り
味方の死者は200余り、負傷者は数百ほどと、寡兵の城を落とすには被害は少なくはなかった

直江軍の支隊の中条三盛・吉岡家能・土橋惟貞らは付近の鳥屋ヶ森城・左沢城・山野辺城・八ツ沼城を攻撃

山野辺城は明け逃げ策が取られていたが、左沢城には最上方に与する地元の国人が百姓らと立て篭もり、
上杉軍相手に気勢を上げていた

しかし上杉軍の侵攻の早さに八ツ沼城では、山形城に入っていた城主和田正盛の代わりに留守を任されていた
望月隼人らが撤退の期を失い、衆寡敵せず自刃して果てた

最上義光は畑谷城の江口道連をどうにか連れ戻す様に飯田播磨(信兼)と谷柏相模(直家)を畑谷への救援へと派遣したが
援兵が畑谷口に入る頃にはすでに城は攻め落とされていた

上杉軍の電撃戦のお話




慶長5(1600)年9月15日、直江兼続の手紙

2014年09月11日 18:50

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/11(木) 13:51:09.60 ID:6EVqz2OS
慶長5(1600)年9月15日の直江兼続の手紙

「(秋山定綱殿へ)
(13日に畑谷城を落とし、)昨十四日最上居城に向け在陣し候處に
山形近辺の城五六ヶ所是も明け逃げ候
此の外二三ヶ所降参し候
仕置丈夫に申し付候
近日に隙明け申す可く候
御心安かる可く候」
『編年文書』

直江兼続は畑谷から富神山を抜け、軍の一部を菅沢から長谷堂北の平地にも展開した

その夜、長谷堂の鮭延秀綱の切り込み隊とは別に山形城からは夜陰に乗じて楯岡光直と清水義親の軍兵800が直江軍の本陣を突こうとしたが、水原親憲の鉄砲隊に奇襲を予期され、兵200ほどが討ち取られた

「尚々此書中調候半ばに敵働き候由申し候あひだ則ち乗り出し
敵の打つけにのり頸弐百余り取り候
飛脚見分の如くに候」
(手紙を書いてる途中に最上軍からの夜襲があり、迎撃して敵の首級を200ほど上げました)
『編年文書』

兼続は近日中には山形城も落とし、最上攻めはすぐにも終わるでしょうと結んでいる

長谷堂合戦序盤の
直江兼続の意気揚々振りを伝える手紙

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/11(木) 13:56:55.21 ID:6EVqz2OS
同じ頃上泉泰綱も小山田将監へ手紙をしたためていた

「庄内人数白岩さが江(寒河江)迄請取り在陣候」
(庄内の志駄義秀と下吉忠らの別動隊も最上領の白岩城や寒河江城を落とし、着々と軍を進めています)

『小山田家文書』

関ヶ原の戦い直前の時期の
地方の戦いの一幕




直江隊を足止めするか

2014年09月04日 18:53

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/03(水) 19:47:54.23 ID:9YxrKypW
志村光安「吾等の役目は如何に直江隊を足止めするかである」

慶長5(1600)年9月13日、畑谷城を落とした直江兼続は山形盆地へ向け進軍。14日に富神山を抜け、
菅沢の丘に現れると早速長谷堂城を攻めた

長谷堂には最上方の守将志村光安と増援の鮭延秀綱が兵1200~1300ほどで詰めていた

鮭延秀綱「お出で早々に攻めて来るとは上杉ん奴腹め、あがすけが(お調子者が。調子に乗りやがって)!」

志村光安「人馬で菅沢が埋まり、山の裾野まで陣が張り出してますな。どんだけの軍兵を連れて来てんだが」

秀綱「いっそ夜襲を掛けてやりますか?まさか初っ端から大軍の上杉に寡兵の吾等が攻めるとは思いますまいに」

光安「秀綱殿、殿(最上義光)の命令では『安易に討って出る事を自重し、なにがあっても城を守れ』が
命令だったのでは?」

秀綱「200くらいの兵をお貸し頂ければ私がやって来ます。夜襲の成否に関わらず、上杉の目をしばらくは
長谷堂に引き付ける事は出来るでしょう」

光安「これは尤もな策でありますな。では一撃だけを食らわし、深追いはなされないと約束くだされ。
それとくれぐれも慎重に」

その夜鮭延隊は闇に紛れて奇襲を掛け、上杉兵百以上の首級を挙げて凱旋した

秀綱「ご覧の通り、まずは重畳」

光安「これで怒り狂った上杉兵は長谷堂を意地でも落としたくなるでしょう」

翌日上杉方の春日元忠の隊が再び長谷堂城を攻めた

光安「寄せて寄せて、畠の畔(あぜ)を越えて来たら射かけよ。さすれば外れ矢玉少なく、敵を数多く
討ち取れようぞ」

城に近付いた春日隊を数百の鉄砲と弓が釣瓶撃ちに襲い、上杉軍にはまた多くの被害が出た

直江兼続「篭城されたままでは厄介だ。野戦に持ち込み殲滅しよう」

上杉兵は弓や鉄砲の射程外で苅田狼藉をはじめた

長谷堂城兵「ぐぬぬ…わしらの田が…稲が…」

血気盛んな若い兵らが光安に出陣を願ったが、光安は兵らを宥(なだ)めて言った

志村光安「吾等の役目は如何に直江隊を足止めするかである」

光安は筆を取ると矢文を拵え、弓の得意な者に上杉兵へ向けて射掛けさせた

兼続「これがその矢文か」

上杉兵「は」

兼続が矢文のこよりを解くと、紙にはただ二文字「笑止」とだけ書かれていた




679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/03(水) 20:13:55.23 ID:45eDskxa
その前に謝罪と賠償を要求する

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/03(水) 20:30:02.97 ID:chQfmHAE
続きがあるのかと思ったけどそうではないのか

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/03(水) 20:35:36.35 ID:+5Z98Y21
千万とかいて下の句とした。

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/04(木) 02:35:59.79 ID:MqisPoNo
直江の評価ってなんで高いんだろうな
全くの不思議。

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/04(木) 03:38:29.06 ID:CNyl6IWU
そのあたりの時代の奴らは評価がしづらい

長谷堂城の門の話

2014年09月01日 18:51

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 03:39:25.25 ID:Bq6cj/Aq
長谷堂城の門の話

元和の最上家信(義俊)改易により、山形南西の支城・長谷堂城は幕府の命令により上杉家に接収される事になった

出羽の各城も小国城は戸沢氏、延沢城・鮭延城は伊達氏により前後に兵糧庫を押さえられ収公された


上杉の代官「これが慶長の折に当家の山城守(直江兼続)が苦汁を呑まされた長谷堂城ですか。こうなってしまうと呆気ないものですな」
最上方の代官・坂上重内(坂光秀の子、坂光重か?)「平和な御世、当地は「長谷堂館(だて・たち・やかた)」や
「亀山の御楯(かめやまのみたて)」と呼ばれております。城ではなく、館、楯ですよ」
上杉の代官「…それがしには立派な城に見えますがな」


上杉の代官は兵糧庫を押さえると、米沢から連れて来た兵や人足らに城山の建物の破却を命じ、さっそく作業に取り掛かった

長谷堂城には代々門番を勤めていた某(なにがし)といった者があった

某「坂上様、上杉の奴腹が無茶苦茶をしております!狼藉を止められないのですか?」
坂上重内「接収というのは、普通は乱取をしてはいけないのが約束事だが、上杉家にとってこの長谷堂の「城」は因縁深い場所だからな」
某「最上家が改易されたからと言っても余りに酷うございます」
坂上重内「そちは重代この城を守り、その想いは海よりも深く、水と魚の様に切り離せぬ関係だものな。
…なにがあっても俺が責任を取るから、お前は城の門を持って帰れ」
某「ええんだが?」

某は長谷堂城門の扉戸を外し自宅に持ち帰ると、囲炉裏の梁上に隠した

門扉は代々その子孫に受け継がれた

門扉は左右2枚で、幅は合わせて約2メートル、高さは約1.9メートル
上杉軍が放ったとされる鉄砲の銃弾の跡も残る

1955年に紆余曲折を経て山形大学資料館に収蔵され、今に伝わる

「上杉家御年譜」「山形古話」ほか




658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 10:15:25.66 ID:4Q13TtUX
近くの名古屋城の門扉を思い浮かべてどうやって持ち帰ったんだ?
と思ってたら案外小さいんだな。

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 14:25:27.80 ID:N1E0Jmmn
そら小さいほど守り易くなるからな

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 14:29:30.83 ID:PZq97E5O
大きさが倍だと、16倍突破されやすくなるらしい

流体力学の本によれば、なんて

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 15:17:34.46 ID:QP9K5ZN6
そうか、城門をにじり口にすればいいのか

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 16:39:13.58 ID:Bq6cj/Aq
イメージをするなら長谷堂城門の扉戸一枚の大きさは襖(ふすま)やアパート・マンションの戸と同じくらいのもの
戸板周りの門柱や梁、屋根も揃えばそこそこのサイズにはなる

(2010年10月5日)山形大学は、高感度加速器質量分析装置を用いた年代測定で、伝・長谷堂城大手門扉が15世紀半ばから17世紀前半のものであると発表した

年代測定の結果、正面扉の回転支柱は文安2年(1445)から寛永9年(1632)に、また右側の回転支柱は寛正4年(1463)から寛永13年(1636)に伐採された木である確率が極めて高いことが示された

この扉は城の門番を務めた人物の子孫が代々保存してきたが、昭和30年(1955)に購入者が山形大学博物館に寄贈した

長谷堂城そのものは元和8年(1622)に最上氏が改易となると、廃城となっている(一部を編集)

http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4657519&id=57449661

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 17:04:29.91 ID:Bq6cj/Aq
>>662
かつての門番の子孫の方の家屋の建替(改築)時に「然るべき場所に寄贈する」といった約束での購入者といった表現になるらしいので、悪い意味ではないはず