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雲州侵略会議、大内家終わりの始まり

2016年10月09日 12:33

188 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/09(日) 01:11:35.87 ID:IrCiT5D0
雲州侵略会議、大内家終わりの始まり

1541年正月14日、前年より吉田郡山城を攻めていた尼子晴久の率いる三万の雲州勢は長き攻防の末、毛利元就と陶隆房率いる大内方の援軍の前に撤退を余儀なくされる。
余勢を駆った毛利元就と陶隆房はそれぞれ芸州の反大内勢力である、佐東銀山城の安芸武田氏と、桜尾城の友田氏を滅ぼし芸州の勢力はほぼ大内方へ靡く事となった。
また、先の吉田郡山城合戦まで尼子方だった芸備雲石の国人13名(三吉広隆、福屋隆兼、高野山久意、三沢為清、三刀屋久祐、本庄常光、
宍道正隆、河津久家、吉川興経、山内隆通、宮若狭守、古志吉信、出羽助森)が陶隆房に
「義隆卿が自ら雲州を攻められるならば、我ら13名は味方し先陣いたします。尼子を退治した暁には備雲石の三国から身分の大小に関わらず今の所領と同じだけの所領を御加増下さい」
と内応を申し出た。
是を受け陶隆房は直ちに主君義隆にこの事を申し上げ、雲州攻めを上申。義隆は叔父の大内高広、杉、内藤、青景以下の家臣や子らを集め相談した。
隆房は他の意見を聞こうともせず、尼子攻めを主張。その主張はこの機を逃しては先の13名の国人どもに義隆様は父君義興公に智勇劣ると侮られ、再び尼子へ掌返され今後当家に味方する者は無くなるでしょう。
1日も早く雲州を攻める決を下されます様にと、大変強い物であった。
誰もが押し黙る中、相良武任が進み出て、
隆房殿の仰る事はもっともながら、幾ら13名の国人が味方しようと今我らが雲州を攻めれば先の尼子晴久が毛利の吉田郡山を攻めた二の舞となるでしょう。
先代義興公も雲州攻めを画策したものの九州の敵が筑、豊を攻めた事に妨げられ、事を為し得ませんでした。また今の尼子方の郎党には英雄豪傑数多く、軍勢も当家が殊更多い訳ではありません。
ここは石州から陥れ、一城ずつ落として兵を堅め徐々に雲州を攻略してはどうだろうか?
隆房殿が戦いを急がれ敵をたちどころに打ち破ろうとするのは戦法として危うい。
先ずこちらが負けぬ工夫をし、戦わずして勝つと常々おっしゃっておられる事こそ、隆房殿の御父興房殿もご存知のところです。
今義隆公のご智勇、先代義興公に劣っておられる筈はありませんが、老功の将と若年の将とでは、世間の対応からして全く違います。
若き義隆公のご武勇のみを頼りに、敵を打ち破る事容易く思い数カ所の敵城を越え月山富田城まで進攻の作戦を立ててもご勝利かどうか甚だ確かではありません。
それにしても隆房殿が武勇を誇り敵を侮られるのは頷けない事です。
今少し他の国人の意見も聞くべきです。
と意見を述べた。次に冷泉隆豊
隆房殿、武任殿お二人の言い分どちらも理にかなっています。隆房殿が言われる通り敵の国人数名が同心して味方に加わりその上敵軍が吉田表で敗軍した折ですから、この破竹の勢いに乗り敵国を攻めるは道理にかなっています。
また武任殿が義興公の遠路ご進行の経験を例に出されたのもごもっともです。私からご両人の議を相兼ている謀りごとを申し上げましょう。

まず芸州へ進攻し、味方に与する国人たち、同じく備後の侍達から人質を取り堅められ、次に石州に暫く在陣して本庄、小笠原、更に雲州の三沢、三刀屋、河津などの人質も取り、
赤穴の城を攻め落として軍士を入れ、その後出雲に攻め入り降る者から人質を取り、敵するものは城を攻め、尼子の本拠を攻め急ぎする事なく、国中の城々を味方で守り堅め、謀りごとを先にして戦いを後にすれば敵は士気衰え、やがて降旗を立てるでしょう
と述べた。満座の者はこの意見に賛同し、その日の評定はこれで決着がついた。
しかしながら、隆房と武任とはこの時の議論に互いに含むところがあり、泥中に荊あるがごとく、たちまち不和となって、これがついには大内家滅亡のもととなったという事である。



189 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/09(日) 08:24:07.32 ID:Xify1bNh
相良のが陶よりまともな事言ってる気がする

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 08:39:49.17 ID:t9v3aFpB
冷泉発言は後年元就が行った尼子十旗&月山富田城攻略戦そのものだったりする
でも陶の性格からして相良や冷泉のような戦略を取るのは無理だろうな

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 11:40:43.39 ID:Oau9qfpR
>>189
ただの慎重論、臆病者あるあるです

192 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/09(日) 11:49:45.17 ID:YB5Da6Hm
>>191
お晴カス

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 14:26:28.85 ID:Oau9qfpR
>>192
臆病者久幸おつ

197 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/09(日) 15:07:23.02 ID:YB5Da6Hm
>>196
(晴賢の晴だったんだけどなぁ…まいっか)
その臆病尼子比丘尼に救われたのは誰でしたかのう?

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 21:57:38.33 ID:Oau9qfpR
臆病者あるあるですね

199 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/10(月) 07:43:12.23 ID:dtnoel3P
経久「晴久君、ちょっと話があるから雪隠裏行こうか」

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/10(月) 11:04:09.18 ID:M8uKGH4G
老害おつ
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吉川元春・陶隆房、義兄弟のいきさつ

2011年09月07日 22:25

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 20:17:03.56 ID:ONKexbTL
吉川元春は陶隆房(晴賢)と義兄弟の契りを交わしている。
それにはこんないきさつがあった。

毛利父子が山口に来ていたとき、大内家家臣の相良武任が義隆に提案した。

「義隆様、元就が尼子になびかないように、
 がっちりハートキャッチしとかなきゃいけませんよ。
 隆元に関しては、内藤興盛の娘なら義隆様に血筋も近いし
 あれを養子ってことにして隆元と婚姻契約結びましょう。
 あと、次男の元春、いい男っぷりですよね!
 元就と並び立つ良将の器って評判ですよ!
 で、ウチの陶隆房と元春を義兄弟にしちゃいましょう。
 隆房も勇猛さでは西国一です。
 あの二人に先陣を任せれば、かの蒙古の堅陣だって簡単に破れますよ!」

「グッドアイデア!」と思った義隆が、さっそく元就を呼んでこれを伝えると、
元就もこの提案を大いに喜んだ。

そんなわけで、大内の毛利つなぎとめ政策の一環として、
元春と隆房は義兄弟になったという。
夢もロマンもありゃしねぇので悪い話。

ちなみに三男の隆景については、義隆様が直々においしくいただきました。
「又四郎隆景は容姿はなはだ美なりしかば、義隆卿男色の寵愛浅からずして」って
陰徳記に堂々と書いてある。





735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 20:24:06.39 ID:FMAob7Di
>>732
政略結婚もとい、政略兄弟の契り
大内義隆って、隆元も美味しくいただいてなかったっけ?

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 20:37:34.59 ID:yeZlZEIy
男子は手当たり次第…
さすが中国の男色王の名は伊達じゃないな

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 20:37:57.81 ID:ONKexbTL
>>735
十五、六の少年が三年も山口にいて、あの義隆に手を出されなかったとしたら、
そっちのほうが不名誉ではなかろーか。
隆元は人質初日から贈り物攻めで大変大事にされたようだし、
当時の日記に義隆と隆元同宿の記述もあるようだし……
毛利家としては権力者に愛されて大変けっこうなことじゃないのかなw

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 20:47:57.28 ID:FMAob7Di
>>736
あの時代、男色は珍しくないと言われても
俺はノーマルでもほいほい食っちまうんだぜ というセリフが凄く似合うよね義隆さん


742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 21:05:16.02 ID:ONKexbTL
>>740のせいで青い狩衣を着た阿部さんが夢に出てきそうだ

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 21:13:28.58 ID:3s40ZfNQ
「息子があの好色野郎に!」
なんてきれて離反する君主いそうだなw

744 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/09/06(火) 21:42:53.33 ID:FMAob7Di
出世の為に娘を差し出す奴もいただろうが
出世の為に息子を差し出す奴もいたんだろうか

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 22:18:42.04 ID:FLHqO/Q0
>>744
基本中の基本だろ
お手つき小姓上がりで出世した武将なんてゴマンといるぞ

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 22:29:44.80 ID:wJtlgc53
松永弾正はまず美少年の弟が召し抱えられ、その縁で自分が取り立てられたとか

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 23:06:04.33 ID:DlOiYxB3
松永弟は丹波の赤鬼に殺されたんだっけか

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 23:46:57.44 ID:FMAob7Di
>>747
ああ基本なんだな
それでトラウマになっちゃった子とかいるのかなあ

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 23:50:18.80 ID:ONKexbTL
元就が義隆さんち行くのに当時花の盛りの隆景を連れて行く時点でゲフンゲフン。
「差し出す」と言うとネガティブなイメージだけど、
隆景を義隆の強力な庇護下に入れるのは、隆景本人にとってもいいことだよ。

同じ「陰徳記」からになるけど、隆景が継いだ小早川は、
家格からすると姉婿の宍戸などより低く、座配も下座だった。
ところが義隆の推挙で「屋形号(尊称)」をもらえたので、
宍戸より上座に座ることが許されたそうだ。当時は格式に厳しかったんだな。
たぶん家中での発言権も周囲の国人への影響力も増したはず。

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 23:53:42.55 ID:FMAob7Di
これも閨閥って言うんだろうか…

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/07(水) 00:18:35.80 ID:aba4rV/4

> 出世の為に息子を差し出す奴もいたんだろうか

家光の御代には「尻の誉れ」という悪口があったという話があるが、ホントかね

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/07(水) 00:55:49.40 ID:DNcsBP+/
>>752
恥ずかしい話じゃないし、普通に楽しんだんじゃない
好き嫌いはあるだろうけど

相良武任の辞世の句

2010年11月01日 00:00

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/31(日) 19:38:45 ID:cm4c9LzF
相良武任の辞世の句を最近知って同情してしまった。

空蝉の つくしよしとは 思はねど 身はもぬけつつ なくなくぞ行く




185 名前:sage[] 投稿日:2010/10/31(日) 21:13:37 ID:m8oslHVx
>>184

周防守護代の家柄の、あの方が許しません。


191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/31(日) 22:54:54 ID:UmnmHU72
>>184
相良さんは人吉相良の一族らしいが人吉球磨の山ん中まで逃げればよかったのに・・・
表は2万石でも山深い盆地の人吉は実質10万石ってぐらい豊かなのにね。
他の九州南部地域と違い焼酎を米でつくってるしねえ。

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/01(月) 00:11:59 ID:Q8ALSc9m
>>184

大内義隆の寵臣だけあって辞世も風雅に溢れていますね
主君義隆が諦観の境地とも言うべき歌を残しているのに対して
あえて未練を残しつつと言うのもおもしろいですね。
関わりは無い人物ですが武田勝頼の辞世などはもう悲惨の一語ですが

「おぼろなる月もほのかに雲かすみ 晴れて行くへの西の山のは」

武田の弓勢も衰え僅かの供と逃げ惑い、小山田か北条を頼るつもりで東へと進んでいる筈なのに
もはや行き着く先は西方浄土であろう。

武田勝頼勝頼が落ち延びながら見上げた月は
きっと自身の雲行きと同じく雲で少し遮られた弓張り月だったのではと思いますが
弓張り月は秋の言葉なので雲懸った所も合わせて春の言葉である朧月が良く似合います
亡くなる寸前であろうともこれだけ言葉に趣向を凝らす古人は偉大ですね。

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/01(月) 01:04:29 ID:soExALX+
>>197
洒落た歌がよめるってかっこいいすなぁ




Wikipedia相良武任
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%AD%A6%E4%BB%BB