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総じて武士の殉死には

2017年08月17日 17:13

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/17(木) 04:15:30.84 ID:fm2rTd/F
ある老人の話によれば、「総じて武士の殉死には様々あって、義腹・論腹・商腹がある。

君は礼をもってし、臣は忠をもってす。主君のために心を尽くし、軍陣では主君の危機
を救い、太平の時は賞禄を目に掛けず無二の奉公を致し、もし主人の死去あらば二世
の供を致す、これが義腹なり。

昔、相馬長門守利胤の家士の金澤備中と申す者は相馬家代々の忠臣で、すでに備中
まで11代が戦場で討死したのであった。その子・忠兵衛という者は、将門より26代目
の大膳太夫義胤(中村藩第2代藩主・相馬義胤)が病死なさった時に申して、

「私めの先祖より亡父・備中まで11代は、いずれも御馬前で討死致した。ところが今は
天下太平なので、そのような御用にも立ち申さず。せめて二世の御供でも致し君臣先祖
の忠孝に備えるとしよう」

と、相馬の城下中村で殉死した。「これこそ誠の義士と言うべきだ」と、諸人は誉めた。

また、同格の傍輩が殉死するのを見て、「我も劣るまじ」として腹を切るのを論腹という。
また、さしたる恩もなく、死なずとも済むはずのものを、「我が命を捨てれば子孫の後栄
にもなるだろう」として腹を切るのを商腹という。

また、いつもは「主君に万一のことがあれば一番に命を捨てる!」と罵りながらその期に
臨んではとやかく言ってその場を外す者もいる。これは論ずるに足らず」

――『明良洪範』


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相馬義胤、大阪遅参

2013年04月12日 19:50

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 19:40:46.52 ID:j1BlCTDN
慶長20年(1615)3月、江戸の幕府は再びの大阪攻めのため全国の大名に参集するよう命じた。
大阪夏の陣の勃発である。

奥州の相馬利胤もこれに応じ上方へと上ったが、駿府において病にかかり、十死一生というべき
重体に陥った。無論病臥したまま軍勢を動かすことは出来ず、それ故急遽、隠居していた
父・義胤が人数を率いて参陣することとなった。

4月、義胤は隠居所である標葉郡(現・、福島県浜通り)泉田の城を出立し、まず江戸に向かった。
この時義胤が近習や外様の面々に言ったことには

「太閤様以来、天下一統して安静の世になったため、我が身も畳の上で朽ち果てることに成るのかと、
毎晩眠る時に口惜しく思っていたのだが、このように不意の出来事によって、天下の武将の御為に
命をかけて戦うことになった!
これは誠に老いの果報!老後の大幸、一体何事がこれに優るだろうか!?枯れ木に再び
花が咲くというのはこの事である!」

そのように大いに喜ぶこと限りなかった。
義胤は次男の左近及胤、そして3男の越中久胤(この時16才)を伴い進軍した。

義胤はこの年66歳であったが、その頃下々は喜胤の事を
「謡の平家物語を聞かれるにも、常に修羅場を好んで聞かれて、その時は御心も浮き立っているようであった。
この度は真の修羅場であるのだからその浮き立ちもひとしおであろう。」と言い合っていた。
その時分は家中にも戦場を駆け巡った老巧の者達が存命していて、義胤と共に従軍していた。

さて、相馬義胤の軍勢は5月9日、近江草津に到着した。ところがここで衝撃的な情報が

「大阪城は一昨日の7日に落城しました。」

諸勢は既に帰陣を始めており、兵卒たちも口々にこのことを語っていた。

これには義胤を始め老若上下、進み勇んでいただけにガックリと力を落としたが、

「と、とにかく大阪までは参陣しよう!」

そう言って先へと進んだが、その道々で人々に
「なんだこの軍勢は?戦場の掃除に行くのだろうか?それとも城番に行く者達だろうか?」
などと言われ、一行は恥ずかしさのあまり顔を見られぬよう、横向きになって通ったのだという。

この様にどうしようもない状況であったため、醍醐の方に宿陣すると、佐藤丹後を使いに立て、
佐竹義宣に「どうすれば良いだろうか?」と尋ねた。

義宣からは「とにかく人数のうち過半は国元に返して、義胤殿はそのまま醍醐に居てください。
遅参についての詳細は私の方から幕府の老中に伝え、両御所様(家康・秀忠)のお耳に達するよう
取り図っていただきます。」との返事であった。

そうしている内に利胤も病から回復し、上洛したのであるが、彼も醍醐で父と合流した。
こうした所で、大御所様並びに将軍家からも「特に気にしていない(無御別心由)」とのことで、
佐竹義宣が同道して、二条城において相馬家父子4人お目見えがかない、その後親子ともども
帰陣したとのことである。
(奧相茶話記)

相馬義胤大阪遅参、というお話





225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 21:25:10.60 ID:1xdXtEFu
おれは平家物語の修羅場だと『信連』が好きかな
長谷部信連が1人で300人迎え撃つ話
信連は長続連たち能登長氏の先祖

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 22:49:38.68 ID:NLBTYAWT
>そう言って先へと進んだが、その道々で人々に
>「なんだこの軍勢は?戦場の掃除に行くのだろうか?それとも城番に行く者達だろうか?」
>などと言われ、一行は恥ずかしさのあまり顔を見られぬよう、横向きになって通ったのだという。

カワユスw

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 22:54:44.90 ID:eEJD0fni
相馬さんガンバ

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 23:50:04.41 ID:9j5yzmzt
横向きってまさか蟹歩き…
まあ、顔背けてるだけかw

一つだけ羨ましきこと

2013年04月11日 19:50

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 23:20:03.47 ID:A4sSkpRd
相馬利胤が江戸に在府していた頃の話である。
ある時利胤は、仲の良い大名小名を10人余り、また御旗本の小身の人々などを屋敷に招待した。
そこではみな打ち解け、よもやまに今昔のことなど物語していたが、ここで本多出雲守(忠朝)殿が
このようなことを仰った

「私は、自分自身が相馬殿に何事にもさほど劣るとは思っていないが、羨ましいことが1つだけあります。
こればかりは及び難い事です。」

列座の人々は、雲州殿が何事をそれほど迄に羨んでいるのかと問うと、彼は

「しからば、相馬殿は重臣・諸卒は勿論のこと、百姓町人、下々陪従に至るまで、累代相伝の者達であり、
子々孫々、主従の親愛深い関係にあると承っております。
このような親睦は、金銀や知行で得ることはできません。

私のような者でも、明日何事があったとしても、人数・騎兵を相馬殿に劣らず召し連れることが出来ます。
ですがそれは昨今に成って召抱えた者達であり、すなわち私一人が、自身が恥をかかないために
仕えさせた者達なのです。ですから、主人と死生存亡を同じくして、身命を軽んじて働くものは、
千から千五百の中に、良くて7、80、多くて100人というところでしょう。
これでは思うままの合戦など、出来るはずが有りません。

一方で、相馬殿について伝え聞く所によれば、幾度も分に過ぎた大敵と対戦して、一度も城下まで
攻め込ませた事はない、とのこと。こういった事は、主人の武勇だけでは成し得ないことです。
家中上下の心が一致していた故なのでしょう。

相馬殿の配下の千や千五百の人数は、下々までも、存亡の気持ちを同じくして、意地を立てる
人々なのでしょう。

尤もその中にも、臆する者達もいるのでしょうが、それは二百や三百程度といった所でしょう。
とすれば、千のうち6,700、千五百のうち千は、心のままに従うということになります。
そういった軍勢であれば、敵が五千、一万であっても、安心して合戦に挑むことができます。
何故ならば、そのような大敵を迎える時は、いくら知行を与えたからといっても働きを望めず、
しかし旧好の親しみほど、有り難いものはないからです。

関ヶ原の時も、配下には私に親しもうとする者と、親しもうとしない者が居ました。
そうだからと言って、彼らを分け隔てて扱ったわけでは有りませんが、それでも
少しは分けて扱いたい気持ちがありました。ですが、親しまない者を私に親しませるために、
その分を過ぎて所領を与えるということも、私のような小身では、難しいことです。

ですので、所領や褒美を取らせるまでもなく、上下が懐かしみ、親しみ睦み深く人を召し使う
状態ほど、理想的な環境は無いと、この頃そう考えていたのです。」

この発言に座中の人々は大変感心した。
この時、御次の間に当時武功において大変高名な武士が居たが、彼は忠朝の話を聞いて

「彼は志が別格な武将であり、只人ではない。流石天下に隠れない御父上(本多忠勝)の業に
続こうとする御仁である。若き者共よ、今に見ておれ。天下に事あらば、彼はきっと人の耳目を
驚かせる働きをされるであろう。」

この本多忠朝殿は関ヶ原でも高名され、家康公の御感に預かった人であり、その後大阪の陣において
涼しき討死をなさったと、世の美談に成ったことを考えれば、捨てがたい挿話であるので、ここに
記して置くのである。
(奧相茶話記)

相馬家の記録に残る、本多忠朝についての逸話である。




24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 23:39:50.21 ID:LBOqjtB8
長いけど、いい話だね

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 23:40:34.28 ID:P2BlyUI/
>幾度も分に過ぎた大敵と対戦
ああ、あいつね…

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 23:50:03.64 ID:+g8ljOBv
>>25
アレですね。

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 00:21:05.84 ID:VaBqG/LL
奴だな

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 00:39:10.88 ID:kyiGr4DV
で高名な武士って誰よ?

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 00:53:35.61 ID:FP5ZV500
那須、相馬は一騎当千

小田は...(´・ω・`)

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 01:01:12.02 ID:pWR8nQsB
ぶった切っちゃうが
相馬の殿様は、いま北海道にいるんだっけか
震災のあとも相馬復興や野馬追い存続に尽力してたような

相馬に限らず、いまも殿様と家臣として続いてるところは多いんだろうなあ

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 04:09:43.58 ID:xklBYn3s
相馬氏は特に700年くらい在地領主として一貫して相馬を支配してきたんじゃなかったっけ
江戸時代の話になるけど、年貢とかに関してもかなり柔軟な制度を作ってた記憶

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 12:57:10.59 ID:UYFpWIUM
>>30
細川護煕が総理になった時に家老の家に連なる爺さんが殿がやっと天下を取られてとか言ってたなw

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 14:33:47.48 ID:Ms41/CEE
小田何とかさんが総理になって菅谷と名乗る爺さんが殿がついに天下を取られて、
と号泣してたら海外に移住しなくては

首都が陥落してしまうw

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 14:48:49.48 ID:oMB5PsNs
取り返すまでが小田総理の実力だろ
菅谷官房長の御子息は戦死してしまうわけだが

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 15:27:53.24 ID:pn0sfKu+
佐竹なら、佐竹の殿なら…

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 15:45:09.90 ID:kfOqjU8h
佐竹さんとこは、完全な与太話じゃないからなぁwww

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 15:57:48.45 ID:nCXbk00z
>>34
奪還されるとはいえ何度も陥落して戦場になる首都に住んでいたくないなw

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 16:17:53.65 ID:/N+KTY3m
>>18
石高だけでみたら頭2つ抜けてる程度だが動員兵力数がずば抜けすぎてるからその辺が集まった程度では無理

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 00:47:44.51 ID:wcXnoL+X
>>23
>この時、御次の間に当時武功において大変高名な武士が居たが、彼は忠朝の話を聞いて
これってこの人?
(`●∀・)

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 00:57:43.82 ID:qRBbOEcE
>>46
相馬家だけは死んでもマーくんとは慣れ合わんだろうなあw

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 01:52:31.95 ID:ahRJfDKC
秀忠が利胤と政宗を酒宴に呼んだときに
「どうだ利胤、政宗から杯を受けては?」って提案したら、利胤が
「無理です。それだけは上様からの命令でも絶対無理です」って言って場を中座したのに
秀忠からは何もお咎めがなかった(最初からそれが目的だった)って話があったよね
いい話とか悪い話に分類できない話だけどさ

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 09:46:22.98 ID:itxyye5q
>>46
次の間に座ってる身分だから
もっと軽輩じゃないかな

相馬義胤の意地

2013年04月10日 19:52

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/09(火) 22:41:04.27 ID:mVgV5xwJ
関ヶ原の役が進行している中、北では伊達政宗が上杉方の白石城を攻略すると、
中立を決めていた相馬家は動揺し、水谷式部を始めとした重臣たちは相馬義胤
このように申し上げた

「この戦、最終的には家康公が天下を掌握なされるでしょう。
そうであるのに、我が相馬家は家康公に対してお味方する験を一事も成しておりません。
ここはせめて家康方の伊達政宗に内通だけでもしておかなくては、末々御家の御ために悪しきことかと
考えます。」

しかし義胤はこれを聞くや
「家康公に御味方する験が無いから申し分が立たないというのなら、家を滅ぼしてしまえ!
あの政宗に内通し、その下知を請うなど、考えもできないことだ!
この事、重ねて申し出すことならぬ!」

そう、怒りの色もあらわに言い切った。
憎むべき敵で在り続けた政宗に、膝を屈し情けを請うなど、義胤には耐えられぬことだったのである。

重臣たちは義胤にこのように断言され、再び集まって相談し
「ご嫡男である利胤様は若年でも有り、これが政宗に内通しても、苦しからざることではないか?」
と考え、これを義胤に申し上げると

「彼は若者であるから、その身の振り方はお前たちに任せよう。
私は、例え家康公より仰せ付けられたとしても、政宗の下知には絶対に従わない!
…しかしお前たちは自分自身の考えによって、一族のために成るよう働いてほしい。」

こうして、相馬利胤伊達政宗と通じ、政宗の指示により福島を攻めた。
この時の政宗からの指示の書類など今も残っているが、相馬家が一旦改易された時、
それらの書類はなんの役にも立たなかったとの事である。
(奧相茶話記)




220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 11:39:22.38 ID:BPhl7Pl/
>>212
なぜ秀康ではなく政宗なんだろう

伊達と相馬、累代の敵国

2011年03月20日 00:00

410 名前:1/2[sage] 投稿日:2011/03/19(土) 10:49:23.69 ID:IVblgCDc
慶長5年(1600)6月のこと、上杉景勝征伐が行われようとしている時である。

これに伊達政宗は本国より会津を攻めるため、大阪より急ぎ帰国の途に付いた。
だが白川から白石に通る道は敵によって塞がれている。常陸国を廻り、岩城相馬を経由して帰国を果たそうとした。

しかし、これに従う家臣たちは大変不安に思った。伊達家と相馬家は累代の敵国である。その相馬領をつつがなく
通り抜けられるとは思えない。しかも今、政宗が従えているのはわずかに50騎ばかりである。

常陸国を経て岩城と相馬との境に至ると政宗、先ず相馬のもとに使者を立て、こう言上させた

『今度徳川殿、上杉景勝を征伐することとなり、政宗は領国より会津の搦手を攻めるよう命ぜられました。
白川の方からの道はすでに塞がっており、東側の道を通って漸くこの国境へと至りました。
しかしここまで、余り道を急いだため士卒ともども疲れきっております。願わくば城下に旅館を用意していただけ
ないでしょうか?馬の足を休めて、明日、我が国に入りたいと考えています。』

これを聞いたのは相馬家16代当主、相馬長門守義胤である。彼は大いに喜んだ

「あいつの運も遂に尽きたか!只でさえ伊達は相馬年来の敵であり、また我らが味方している上杉を討とうとする
一方の大将!今夜夜討ちをし、土地の案内を知らぬ者達をここかしこに追い詰めて一人も残さず討ち取り、
年来の仇に報い、今度の戦役での手柄としようぞ!」

急ぎ民家を旅館として伊達一行を迎え入れ、同時に家臣を集め夜討ちの謀議をした。

と、この謀議の席において、末座より進み出て声を上げたのが水谷三郎兵衛尉胤重である。

「遥か末座の者が進み出てご意見すること、大変恐れ多いことですが、この謀議の席に参加している以上
自分の考えを申し上げなければその役目の意味が無いと考え、ここに申し上げます。

世に”窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さず”と申します。今、伊達政宗ほどの大名が年来の恨みを捨て、
君を頼んで来たというのに、それを謀って闇討ちにするのは、勇者の本意とする所ではありません!
我が相馬家の、長き弓矢の瑕瑾となってしまうでしょう!

それから、ここを注意してください。我が城から伊達領までの行程はわずかに3里(約12キロ)でしかありません。
今は未だ未の刻(午後1~3時)を過ぎていません。政宗が国境に至ろうと思えば、本日日の暮れる前に
たどり着くことも可能だったわけです。

さらにあの僅かな勢でここに留まること、あの政宗のことですから、何か裏に謀り事を秘めているに違い有りません。

ここで我々は、警備を全うして今夜一晩彼らを守り、今回は本国へと返してやりましょう。その上で重ねて合戦と
なった時は正々堂々と戦って、勝負を両家に天運に任せるべきではないでしょうか?」

これに満座の衆、賛同し、相馬家は政宗の旅館の側に食料から馬の飼料、藁束まで積み上げこれを提供し、
夜に入ると旅館の四面に篝火をたかせ兵士たちに徹夜の警備をさせた。

411 名前:2/2[sage] 投稿日:2011/03/19(土) 10:54:27.99 ID:IVblgCDc
が、その警備の者達もそこは相馬家の者たち、憎い伊達政宗の警備を命ぜられて心は穏やかではない。
また政宗があまりに落ち着いていることも気に入らない。そこで政宗の驚き慌てた姿を見てやろうと、
夜更けに馬の1,2匹の綱をわざと切って放ち、これに驚いた雑人たちが走り逃げ、深夜に騒ぎ罵る声が響いた。
するとここに政宗、白い小袖を上に打ちかけ、左手に刀を携え、小童一人に燭を持たせて現れた。

「相馬殿の人々であるか?相馬殿の人々であるか?」

「左様でござる!」

「なにやら騒がしいが何事であろうか?政宗の雑人たちが狼藉を働いたのであれば、よく静めておくように。」

とだけ言い、また寝所へと下がっていった。


そして夜が明ける。だが政宗の一行はなかなか出立せず、巳の刻(午前9時頃)になって相馬義胤の元に
使いを出して感謝の念を伝え、その上で静かに馬を出し国境へと向かった。
これを相馬家の者が密かに着けると、国境の駒ヶ嶺のあたりには、伊達家の軍勢が雲霞の如く満ち
政宗を出迎えていた。


さて、関が原の合戦が終わり、相馬は佐竹に連座し改易となる。
ところが、ここに意外な人物が相馬の弁護に奔走し、徳川家に働きかけた。伊達政宗である。
彼は言う

「相馬はこの政宗の年来の敵であります。さらに上杉石田らに与する事を決定していたと言いますが、
彼らにはこの政宗を打ち取る機会があったというのに、私が家康公の仰せを承り馳下るという説明を聞いて、
たちまち古き恨みを忘れ新しき恩を施してくれました。
これは彼らが、野心を挟まなかった証拠ではないでしょうか!?

また相馬家は累代の弓矢の家。その家を現代に至って断絶するのは、まことに良いこととは思えません!
どうかかの家の本領安堵のこと、お許し頂きたい!」

このような事を折に触れて嘆願した。この事もあり慶長7年(1602)10月、ついに改易は撤回、本領安堵とされた。
この時から相馬家の評定始では、満座の輩、一々に水谷胤重の子孫の座の前に進みより、
「水谷殿のご意見、違うことあるべからず」
と宣誓して罷り出づる事が長く佳例となったという。


さてさて、その後に政宗、井伊直孝を仲立ちとして義胤の嫡男、相馬利胤に、伊達相馬両家の仲直りを打診した。
利胤これを聞くと言下に

「我が家はすでに伊達殿の芳志をいただき、本領を安堵することが出来ました。
ですが、我らは累代の敵国、今私が私的に仲直りをするのは憚りがあります!」

と、遂に両家が仲直りすることはなかったという。

長く争った伊達と相馬の、関ヶ原前後におけるエピソードである。
(藩翰譜)





413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/19(土) 13:14:18.64 ID:Zf/4Cio3
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1697.html

こっちの話より生々しいなw

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/19(土) 14:06:43.99 ID:eQy7oi6G
それはそれ、これはこれ って感じかなw

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/19(土) 18:23:52.04 ID:aRvmxkqN
この頑固っぷりはいかにも坂東武者の流れを汲む関東武士らしいなw