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総じて武士の殉死には

2017年08月17日 17:13

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/17(木) 04:15:30.84 ID:fm2rTd/F
ある老人の話によれば、「総じて武士の殉死には様々あって、義腹・論腹・商腹がある。

君は礼をもってし、臣は忠をもってす。主君のために心を尽くし、軍陣では主君の危機
を救い、太平の時は賞禄を目に掛けず無二の奉公を致し、もし主人の死去あらば二世
の供を致す、これが義腹なり。

昔、相馬長門守利胤の家士の金澤備中と申す者は相馬家代々の忠臣で、すでに備中
まで11代が戦場で討死したのであった。その子・忠兵衛という者は、将門より26代目
の大膳太夫義胤(中村藩第2代藩主・相馬義胤)が病死なさった時に申して、

「私めの先祖より亡父・備中まで11代は、いずれも御馬前で討死致した。ところが今は
天下太平なので、そのような御用にも立ち申さず。せめて二世の御供でも致し君臣先祖
の忠孝に備えるとしよう」

と、相馬の城下中村で殉死した。「これこそ誠の義士と言うべきだ」と、諸人は誉めた。

また、同格の傍輩が殉死するのを見て、「我も劣るまじ」として腹を切るのを論腹という。
また、さしたる恩もなく、死なずとも済むはずのものを、「我が命を捨てれば子孫の後栄
にもなるだろう」として腹を切るのを商腹という。

また、いつもは「主君に万一のことがあれば一番に命を捨てる!」と罵りながらその期に
臨んではとやかく言ってその場を外す者もいる。これは論ずるに足らず」

――『明良洪範』


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我々の内実は、

2017年01月03日 16:42

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/03(火) 14:12:08.99 ID:NcThKzBi
関が原が始まろうとする頃、伊達政宗は自領への帰還を急ぎ、相馬領を通過する。
ここで政宗の家臣である片倉小十郎景綱は、政宗を迎えるためと、鹿島町に先行してそこの宿泊した。
この鹿島町は田中城の近辺であり、田中城には相馬家当主・相馬義胤の父、盛胤の居城であった。

片倉小十郎は草野左馬充、鈴木掃部左衛門を案内として、盛胤の家老である佐藤左近を呼び出し対面した。
左近を通して盛胤に刀、次郎郷胤に脇差しを進上し、その上で左近にこう語った

「今度、政宗は領地への下向につきこう命じました。

『冨塚近江は上下1500の人数にて岩城領に向かえ。我々片倉父子は上下1000人にて御領内の鹿島に
向かえ、矢田勘解由兵衛は上下3000の人数にて駒ヶ嶺領に向かうべし。』

これについて考えるに、世上の浮説ににおいて、佐竹、岩城、相馬、那須の面々が、長尾景勝に同意され、
石田治部少輔に与して家康公に敵対されると言われています。
これに対し我が主君政宗は無二の家康公の御方ですので、これらを警戒する必要があるのです。

憚り多きことですが、相馬と伊達は代々の縁類ですから、私ごときでもそのお為良かれと考え、
全く粗略にすることはありません。

もしも、一旦治部少輔にお志があったとしても、それはお諌めになるべきです。
何故ならば、今天下に、家康公に比するような大将は誰も居ないからです。
治部少や景勝が時の威勢に誇ってとやかく申されようとも、彼らが末まで全う出来る事はありえません。
それに与した人々の家は、滅亡するでしょう。

家にとって大切なのは社稷であり、主人は一代のものですから、時に至っては義を失っても
それは仕方のない事です。ただ期して末の所をよく吟味して頂きたいのです。」

左近はこれに
「底意を残さぬ懇切なお話、委細承りました。これについて先ず、盛胤に聞いてまいります。」
そう答えて退出し、田中城の盛胤に、片倉小十郎の語ったことを逐一申し上げた。
盛胤はこれを聴くと

「世上の浮説について、そういうものも有るだろう。だが我々は全く治部少輔に与していないし、佐竹や
景勝にも与していない。我々の内実は、小十郎も推察しているだろうが、累年の合戦のため諸士はおおかた死に、
今漸く、その子供たちを養育している段階であり、人数を持っていないのだ。なので家康公のお為といっても、
一体何が出来るだろうか?万一、家康公より御催促があれば、その時は50,30であっても召し連れて
参ずるつもりである。

政宗が家康公の御方に参るのならば、伊達との国境に番士を置くべきではない。また伊達家の人数の往来の自由も
認めよう。もし伊達方が相馬に対して隔意を持たれてはどうにも出来ない。内々にこの旨を伝えるように。」
そう語り、佐藤左近は立ち戻りこれを小十郎に詳しく申し聞かせた。

小十郎は
「そういう御心入であれば御家長久、珍重であります。しかし返す返すも、お諌め申し上げるべきです。
義胤公へのお諌めこそ第一です。」
そう申し、政宗に対しても盛胤の考えを伝えた。

片倉小十郎はこの地に1日滞留して、2日目に政宗のお供をして帰っていった。
その後程なく、景勝領であった白石を、政宗が攻め取った。

(奧相茶話記)



相馬義胤の秀吉への臣従

2017年01月02日 20:56

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/02(月) 08:19:11.54 ID:TySr3gnB
豊臣秀吉公は天正10年、明智日向守光秀を討ち取った後、天下を順次掌握した。
天正18年、秀吉公は諸国において私の争論そしてはならぬと、固く禁制としたことを触れられた。
そのため伊達と相馬の間の調略は、互いに停止した。

同年、秀吉公は相州小田原に発向され、北条の門族を征伐されるということが、この国までも確かに
聞こえ来た。そのため「将軍(秀吉)の御支配に預かるなら本望である。ともかく小田原に参陣然るべし」
と、相馬義胤は相州へ参上し、浅野弾正少弼長政を頼りこれを言上した。

秀吉公は相馬に対し、少々悪印象を持っていた。しかし石田治部少輔三成が殊更に懇意があり、
浅野長政以上に頼りと成り、これによって相馬の言い分は疎意なく巨細に上聞に達し、故に秀吉公は

「相馬は小身ではあるが武勇の士将にて、大身の敵に向かって度々の戦功有りと聞いた。」

と仰せになり、義胤の謁見を許した。

その後、義胤は妻子とともに上洛し、北野の千本に屋敷を給わりそこに居住した。
この年、後の相馬大膳亮利胤は11歳であった。
またやがて佐竹修理太夫義隆の御母堂となる桂雲院殿は、天正19年にこの千本の屋敷にて
誕生されたのである。

(奧相茶話記)

相馬義胤の秀吉への臣従について。石田三成に世話になったことをこれだけハッキリ書いているのも珍しい。

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/02(月) 09:01:51.94 ID:wVQJxPkt
なるほど

おかげで、世界史上でも有数の長期に渡って領土を治めた名家が存続できたのか

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/02(月) 09:24:49.35 ID:93XZxViO
そりゃ利胤も初名は三成から偏諱を貰って三胤ですからな。

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/02(月) 14:08:23.09 ID:LNdqipkQ
浅野を頼るか石田を頼るかで命運が別れる東北の大名たちw

盛胤にとってこの嫁は叔母である。

2016年12月08日 17:21

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/08(木) 08:50:13.30 ID:1Y7hC+6p
相馬義胤13歳の時、小高城において能を催した。これは伊達稙宗が居城である丸森より
小高を訪問したので、その歓迎の為である。
稙宗はこの趣向に殊の外喜び、そのあまり即座にこう提案した

「私には秘蔵の娘がある。義胤殿をその婿にしたい。」

父親の相馬盛胤はこれを承諾し、その年、永禄2年にこの姫を迎え取った。この時姫は15歳であったという。

ところで、伊達稙宗の長女は、相馬顕胤の妻であり、すなわち盛胤の母であった。
その妹が義胤と結婚するということは、盛胤にとってこの嫁は叔母である。
昔はそういった義別が無い世の中だったという。

この本文には永禄2年で義胤13歳とあるが、正確にはこの年では12歳である。
但しこの嫁取りは永禄3年だったのではないか。

(茶話記異説改選集)



平成27年7月。奥州相馬に、四百五十余の騎馬武者が帰って来た。

2015年07月27日 17:59

448 名前:番外編:ある騎馬武者の話[sage] 投稿日:2015/07/26(日) 21:35:36.70 ID:eyZ380dP
『相馬野馬追』は、その名の通り相馬氏領で行われる神事であり、平将門が下総相馬郷において
野生馬を追って軍事訓練をした事に始まるとされる、古式ゆかしい祭りである。
慶長7年(1602)、相馬義胤が江戸より改易の報を受けとったのも、野馬追の最中であったという。


「それがし北郷が組頭、中橋安彦!供養のため畏れながら、北郷騎馬先頭組頭として本年も
出陣させていただきます!何とぞ御加護を賜りますよう、お願い申し上げます!よしなに!」

相馬北郷組頭・中橋安彦は、大音声で縁者・先祖に告げて、馬上の人となった。

例年は五百騎を揃える騎馬隊が、今年は八十騎を連ねるのみ。それでも沿道には三万六千の民が詰めかけた。
苦しい日々の中で集まってくれた人々に応えるかのように、中橋は声を張り上げた。

「沿道の方々に物申す!ただ今、北郷騎馬隊、進軍開始!!」
武者たちは威風堂々と練り歩き、一刻半ばかりの武者行列を終えた中橋は乗馬とともに自宅へ向かった。

ガレキの山となった、自宅の跡へ。

平成23年(2011)3月11日。大震災に襲われた中橋が急いで帰宅した時には、自宅は津波に飲み込まれていた。
翌12日、中橋はガレキの下から冷たくなった妻を発見した。

毎年、中橋は妻に具足を着付けてもらっていた。今年は、着付けだけで一時間を要した。
7月22日生まれで「野馬追のせいで、誕生日を祝ってもらえない」そうムクレつつ、手伝ってくれた妻だった。
震災から数か月後の野馬追参加も、亡き妻への供養と、自分自身の勇気を取り戻すためのものであった。

「これで一歩踏み出せる。俺はもう大丈夫だと、どこかで見てくれている妻に、この甲冑姿で伝えたい。」
自宅跡前で黙祷を終えた現代の騎馬武者は、明日へ向けて一歩を踏み出した。
(NHKスペシャル他より、敬称略)

平成27年7月。奥州相馬に、四百五十余の騎馬武者が帰って来た。



451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/27(月) 22:50:12.73 ID:bsfrDP5Y
>>448
現代のとてもいい話にござりますなあ

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/27(月) 23:51:39.02 ID:7c4EnYQv
感涙した!

伊達政宗「あの天窓ハゲ坊主」

2013年04月15日 19:50

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/15(月) 00:46:20.21 ID:ZBELe/rm
伊達政宗が岩出山という地に在城していた頃のことである。
(天正19年(1591)~慶長6年(1601)まで。ちなみに築城したのは徳川家康である)

岩出山の城下の寺に江湖(三江五湖)があり、、その頃、長哲和尚はまだ若年であったが、江湖に参られていた。

政宗は殿中に江湖の僧を招きいれて供養が行なったが、この時、長哲和尚は酒に酔い、また長座に耐えられず居眠りしてしまった。
和尚は火傷のため頭に毛がなく、耳の脇に少し毛があるだけで他は赤く禿げていた。

政宗はこれを見ると、酌取りの者に言った

「いいか?目を覚まさせぬようそろそろと近づいて、あの天窓ハゲ坊主の頭の上から、たらたらと酒をつぎかけてやれ。
目を覚まして何だかんだと言って来たら、『いやあ、赤い椀と間違えて、うっかりついじゃいました』と言ってやれ!」
(そろそろ行きてあの天窓はけ坊主の頭上にたらたらとつぎ懸けよ。目覚驚き何とも云は赤椀しやほとにつぎたと云)

天窓ハゲ坊主というのも酷い呼び方であるが、また子供みたいな悪戯である。いい歳して。

酌取りは言われた通りに、酒を頭の上からタラタラとたらし掛けると、僧はハッと驚き、「これはこれは!?」と飛び起きた。
酌取り、また言われた通りに『赤い椀と間違えて、うっかりついじゃいました』と言うと、僧は

「赤椀と間違えたのなら、なぜ起こしてつがず、伏せたまま注いだのですか?」

と問い返した。

政宗はこれを聞いて

「さても機転のある答えである!」

と、すっかり上機嫌になり、寺の住職に、細かにこの僧の出生地などをたずね、彼を政宗の帰依する寺の僧とし、さらに配下の諸士に
説教を受講させたいと言って来たので、長哲もこれを承諾した。

ところがこの僧は相馬領である中村の長橋龍才禅院、後の長命寺の弟子であった。
そのため、政宗がこの事を申してきたのを聞いた相馬長門守義胤は、

「我が領内の良き坊主を、政宗の坊主には断じてさせない!」

と言って、師匠に仰せ付けて呼び返させ、帰依の寺の僧とし、出世ののち、龍造院の住職にされたのである。
(奧相茶話記)

いつもと変わらぬ政宗らしい逸話である。




272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/15(月) 06:30:17.62 ID:8ilFScLk
返しがいいなw

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/15(月) 07:09:12.63 ID:NGF1E80j
義胤の政宗嫌いも徹底してるなあ

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/15(月) 08:46:08.97 ID:uwUHfd9Z
出生地とか細かに調べてれば相馬のもんて分かってるはず
最初から嫌がらせじゃねーの?

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/15(月) 10:14:41.01 ID:86KRsCUs
いつもの正宗のイタズラ話と思ってたら
まさかの義胤....。

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/15(月) 10:42:50.12 ID:1QRhyVw0
自分は重用してなかったのに、他人に取られそうになると必死になる奴っているよねw

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/15(月) 11:41:57.09 ID:gYx7Lg8h
いや、そもそもその存在すら知らなかったのではないか?

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/15(月) 12:06:20.20 ID:rOjQKrOE
例え石の一欠片でも自領のブツを政宗が欲しがってると聞いたら回収するだろ、相馬さんは

政宗は『やっ!』と一声上げると

2013年04月13日 19:52

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/12(金) 20:15:05.59 ID:RbWrQ0y7
相馬長門守義胤の嫡男であった大膳亮利胤が急死し、長門守は自分と同名の孫、
大膳亮義胤を家督に立てた。そして自身は隠居所の泉田から中村城に移り大膳亮義胤の後見を行い、
江戸にも参勤して折々江戸城に出仕された。
この頃長門守義胤は八十余歳。老将の髪は白髪となられていた。

ある時、御城内に入り下馬されたところ、伊達政宗がちょうど退出する所であった。
しかし政宗は駕籠に乗らず、そのまま立って長門守義胤が通り過ぎるまで見送った。

この事をお供に参った者達が長門守の前で夜話に申し上げた所、それについては何も言われず、
孫の大膳亮義胤に向かってこのような事を語った

伊達政宗という人間はな、総じて若輩の頃から志が普通とは違う人物であった。
あれは、私と政宗が和睦して、最初の対面の後の事だ。

私は政宗の陣所の有った尾浜に彼を見舞い、その後政宗も返礼として私が寄宿した寺院を見舞った。
そこは入り口に小さな坂があり、階段が付けられていた。
私はその坂の下まで降りて政宗を出迎え、互いに礼をした後、政宗が『先に亭主からお上がり下さい』
と言うので、私が先に階段を2段上がり、3段目に片足を移した、その時のことだ!

政宗は大声で『やっ!』と一声上げると、階段の一番下から一気に二段を飛び、私の足を踏みつけんばかりに
駆け上がってきたのだ!

私はこれに気がついたが、あえて何事も無いかのように、振り返りもせずに静かに階段を上がった。
政宗の方はそこに留まり、後ろの共の方に振り向いてニヤニヤと笑っていたが、その後静かに
上がってきた。

政宗のそう言う気性は天性のものなのだろう。当時、18,9の若者が、30あまりの大人である
私を驚かせようと試したのだ。

あの時、もし私が驚いて後ろを振り向いたり、少しでも様子の悪い態度を見せたなら
何のかんのとこれを評判し、笑いものにしたに違いないのだ、あいつは!

だから、若い者はいつでも常に、朝夕、他人と交わる中に、何事があっても心が動揺しないよう
思い定めておくものだぞ。」
そう、仰った。
(奧相茶話記)

伊達政宗、若いころからこんなだったという、相馬義胤の証言であるw


参考
相馬義胤と伊達政宗、出くわして
ウチの地方を治めてた殿様が、同盟を結ぶ為に伊達政宗と会見した時の話


233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/12(金) 20:23:50.37 ID:/mo5N9pF
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5249.html
前半はこれか
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2449.html
しかし、後半の話聞いたことがあると思ったらこれだったか
どの殿様の話だろうとモヤモヤしてた

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/12(金) 20:23:57.85 ID:MRBVxY+t
安定の政宗

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/12(金) 20:26:35.94 ID:Cfj8lIV8
で>>233の下の話
>愚弄されたと怒った殿様は仕返しにその晩、政宗の寝所目掛けて暴れ馬を解き放つ
>イタズラを仕掛けるのであった…(一応同盟は締結した)

これが義胤(祖父)のことだとしたら義胤もたいがいだな

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/12(金) 21:12:19.84 ID:Azwghty1
政宗せめて5段飛びくらいしてからドヤ顔しようぜ

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/12(金) 21:14:44.12 ID:/mo5N9pF
片目だと遠近感とれないだろうに
よく二段飛ばしやろうと思ったな、ヘタしたらずっこける

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/12(金) 21:59:20.99 ID:MRBVxY+t
先天的な片目は距離感がちゃんと取れるらしい
政宗は後天的なものだけど、幼い頃に失ったものだから存外慣れてるのかもな

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/12(金) 22:00:44.39 ID:RyyY2Y6S
つまりこのお見送りも隙あらば80過ぎの爺に襲い掛かろうと…
さすがにないかw

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/12(金) 22:10:02.19 ID:bSvR/8wv
>>239
まあ義胤の方では、「何を企んでるか解ったもんじゃない」って気持ちはあったかもねw

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/12(金) 22:23:33.58 ID:dmCK7f25
少しでも足下よろけたりしたら、それネタに色々言いそうだしなw
悪意があるかどうかは別にして気が抜けん相手だ

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/12(金) 22:34:28.94 ID:66infFGO
政宗の方だって還暦過ぎだし無茶はしないと思うよー

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/12(金) 23:23:19.56 ID:ccfhYwSS
まさにDQN眼

中身が厨二のままだ

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/12(金) 23:39:20.25 ID:eBh/QgWh
忠勝相手に相撲とったのはいくつの時だったか

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 05:58:06.97 ID:rAtF9XTM
よくイタズラを仕掛ける人間は必要以上に警戒される。
古今東西を問いませんなw

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 12:02:46.82 ID:g+485nqi
最上の血だな多分。で小十郎がDQN成分を増幅させたと

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 15:59:45.07 ID:7iTosJoD
でもやっぱり輝宗の息子なんだなと思うような生真面目さも
時々見え隠れするんだよな政宗

相馬義胤、大阪遅参

2013年04月12日 19:50

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 19:40:46.52 ID:j1BlCTDN
慶長20年(1615)3月、江戸の幕府は再びの大阪攻めのため全国の大名に参集するよう命じた。
大阪夏の陣の勃発である。

奥州の相馬利胤もこれに応じ上方へと上ったが、駿府において病にかかり、十死一生というべき
重体に陥った。無論病臥したまま軍勢を動かすことは出来ず、それ故急遽、隠居していた
父・義胤が人数を率いて参陣することとなった。

4月、義胤は隠居所である標葉郡(現・、福島県浜通り)泉田の城を出立し、まず江戸に向かった。
この時義胤が近習や外様の面々に言ったことには

「太閤様以来、天下一統して安静の世になったため、我が身も畳の上で朽ち果てることに成るのかと、
毎晩眠る時に口惜しく思っていたのだが、このように不意の出来事によって、天下の武将の御為に
命をかけて戦うことになった!
これは誠に老いの果報!老後の大幸、一体何事がこれに優るだろうか!?枯れ木に再び
花が咲くというのはこの事である!」

そのように大いに喜ぶこと限りなかった。
義胤は次男の左近及胤、そして3男の越中久胤(この時16才)を伴い進軍した。

義胤はこの年66歳であったが、その頃下々は喜胤の事を
「謡の平家物語を聞かれるにも、常に修羅場を好んで聞かれて、その時は御心も浮き立っているようであった。
この度は真の修羅場であるのだからその浮き立ちもひとしおであろう。」と言い合っていた。
その時分は家中にも戦場を駆け巡った老巧の者達が存命していて、義胤と共に従軍していた。

さて、相馬義胤の軍勢は5月9日、近江草津に到着した。ところがここで衝撃的な情報が

「大阪城は一昨日の7日に落城しました。」

諸勢は既に帰陣を始めており、兵卒たちも口々にこのことを語っていた。

これには義胤を始め老若上下、進み勇んでいただけにガックリと力を落としたが、

「と、とにかく大阪までは参陣しよう!」

そう言って先へと進んだが、その道々で人々に
「なんだこの軍勢は?戦場の掃除に行くのだろうか?それとも城番に行く者達だろうか?」
などと言われ、一行は恥ずかしさのあまり顔を見られぬよう、横向きになって通ったのだという。

この様にどうしようもない状況であったため、醍醐の方に宿陣すると、佐藤丹後を使いに立て、
佐竹義宣に「どうすれば良いだろうか?」と尋ねた。

義宣からは「とにかく人数のうち過半は国元に返して、義胤殿はそのまま醍醐に居てください。
遅参についての詳細は私の方から幕府の老中に伝え、両御所様(家康・秀忠)のお耳に達するよう
取り図っていただきます。」との返事であった。

そうしている内に利胤も病から回復し、上洛したのであるが、彼も醍醐で父と合流した。
こうした所で、大御所様並びに将軍家からも「特に気にしていない(無御別心由)」とのことで、
佐竹義宣が同道して、二条城において相馬家父子4人お目見えがかない、その後親子ともども
帰陣したとのことである。
(奧相茶話記)

相馬義胤大阪遅参、というお話





225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 21:25:10.60 ID:1xdXtEFu
おれは平家物語の修羅場だと『信連』が好きかな
長谷部信連が1人で300人迎え撃つ話
信連は長続連たち能登長氏の先祖

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 22:49:38.68 ID:NLBTYAWT
>そう言って先へと進んだが、その道々で人々に
>「なんだこの軍勢は?戦場の掃除に行くのだろうか?それとも城番に行く者達だろうか?」
>などと言われ、一行は恥ずかしさのあまり顔を見られぬよう、横向きになって通ったのだという。

カワユスw

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 22:54:44.90 ID:eEJD0fni
相馬さんガンバ

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 23:50:04.41 ID:9j5yzmzt
横向きってまさか蟹歩き…
まあ、顔背けてるだけかw

相馬義胤の意地

2013年04月10日 19:52

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/09(火) 22:41:04.27 ID:mVgV5xwJ
関ヶ原の役が進行している中、北では伊達政宗が上杉方の白石城を攻略すると、
中立を決めていた相馬家は動揺し、水谷式部を始めとした重臣たちは相馬義胤
このように申し上げた

「この戦、最終的には家康公が天下を掌握なされるでしょう。
そうであるのに、我が相馬家は家康公に対してお味方する験を一事も成しておりません。
ここはせめて家康方の伊達政宗に内通だけでもしておかなくては、末々御家の御ために悪しきことかと
考えます。」

しかし義胤はこれを聞くや
「家康公に御味方する験が無いから申し分が立たないというのなら、家を滅ぼしてしまえ!
あの政宗に内通し、その下知を請うなど、考えもできないことだ!
この事、重ねて申し出すことならぬ!」

そう、怒りの色もあらわに言い切った。
憎むべき敵で在り続けた政宗に、膝を屈し情けを請うなど、義胤には耐えられぬことだったのである。

重臣たちは義胤にこのように断言され、再び集まって相談し
「ご嫡男である利胤様は若年でも有り、これが政宗に内通しても、苦しからざることではないか?」
と考え、これを義胤に申し上げると

「彼は若者であるから、その身の振り方はお前たちに任せよう。
私は、例え家康公より仰せ付けられたとしても、政宗の下知には絶対に従わない!
…しかしお前たちは自分自身の考えによって、一族のために成るよう働いてほしい。」

こうして、相馬利胤伊達政宗と通じ、政宗の指示により福島を攻めた。
この時の政宗からの指示の書類など今も残っているが、相馬家が一旦改易された時、
それらの書類はなんの役にも立たなかったとの事である。
(奧相茶話記)




220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 11:39:22.38 ID:BPhl7Pl/
>>212
なぜ秀康ではなく政宗なんだろう

”敵地”の政宗

2013年03月22日 19:51

994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 03:12:45.58 ID:ss+x3tS+
慶長5年、徳川家康による上杉景勝征伐が勃発しようとする中、伊達政宗は急ぎ国元へと下る。
それを知った通り道となる相馬家では、一族家中の者共集まり、対応を評議しした。相馬家は政宗への恨み深く、
特に当主・相馬義胤の弟隆胤を討たれ、その弔い合戦も出来なかった無念も有り、今こそ好機、相馬領に入ったところで
政宗を討ち果たそう、との論が大勢を閉めた。

が、家老の水谷式部「が進み出て言う
「なるほど、ここで政宗を討ち果たすのは容易なことでしょう。ですが愚意を申し上げますと、政宗が
ここを通るのは、景勝への対応のためであり、きっと家康公の味方としての行動であると考えられます。
これを討ってしまえば、後のためのいかがかと存ずるのです。

それは、治部少(石田三成)は小身であり、その家臣も昨今に成って召抱えた侍であるからです。
例え諸大名が彼に味方したとしても、結局は強に付き弱は捨てられるものです。であれば、末々覚束ないと言うべきでしょう。

一方の家康公は、老巧の大将であり、大身であり、家中にも歴々の武勇巧者が数多くあります。であれば、結局御利運は
家康公のものとなるでしょう。
その上(義胤の嫡男である)利胤公は今も在京されており、その身の上も心配です。

よって兎も角、今政宗を討つというのは如何かと考えるのです。」

相馬義胤はこれに同意し、政宗の領内通過を許可した。

さて、政宗は400騎ほどで相馬の領内に入った。そして宿舎として涼ヶ森の花光院を提供された。
政宗はこの山寺の四方に鉄砲・弓・槍で武装した足軽を三重に配置し、これに物頭を付け厳重に警備させた。
さらに近隣の村にまで人を配置し警戒に当たらせた。

ここで相馬義胤より政宗に、兵糧300俵・大豆100俵が贈られたが、政宗は用意があるとこれを断った。
相馬方では政宗への接待役として、出田与三右衛門が置かれた。

さて、その夜半、寺の中で馬が放れ駈け出したのに四方の警備の者達が驚き騒ぎ、混乱して寺の前の田地に飛び込んだり、
山に逃げたり、折口に落ちたりという有様となった。

この騒ぎの中、出田与三右衛門は小者一人だけを連れて政宗の宿所へ向かうと、庭中に出ている侍は一人もなく、政宗は
側に若侍一人だけで、縁側に薙刀を持って立って不審そうに状況を見ていた。与三右衛門は縁近くまで進むと

「寺の中で馬が放れたために騒いでいるだけです。少しもお気遣いなされるものではありません。」と申し上げた。

政宗はこれを聞いて
「与三右衛門がここに詰めておったか!大義なり!」と声をかけ、騒ぎが静まると盃を与えられた。
この時政宗の宿所には、料理人や役者めいたものなど多く居たのであるが、この騒ぎに「騒ぐな!様子を見ろ!」と言われたのだが、
聞かずに散り散りに逃げ出したのだという。

又、庭の方にも竹もがり(障害物)を結び、これに槍100挺を立てかけていたのだが、その立てかけが悪かったのか、
しばらくすると一斉に倒れ、この音でまた騒ぎが起こった。この時も政宗は縁側まで出て、侍4、5人とともに様子を見守っていたが、
出田与三右衛門がいち早く気が付き、「警護の槍が倒れただけです」と説明すると非常に喜び、再び盃を与えられた。その上で

「お主が今後、もし相馬家を離れることがあったら、いつでも伊達に参れ。」

と言って、自筆でこの旨を書きその紙を与えた。しかし出田与三右衛門はこれを隠し、後々まで人に見せることもなかった。
また、後日与三右衛門がこの時のことを思い出して

「混乱した中でも政宗様のご様子は、流石大将のご気性が備わっておられた。」

と、回想したそうである。
(奧相茶話記)

相馬家の記録による、”敵地”に恐怖し、混乱していた伊達家の様子である。




995 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 10:18:30.33 ID:tcBY2WN4
一族の敵からのWelcomeお手紙なんて隠し通さなきゃ死ぬだろw

997 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/03/22(金) 10:39:31.63 ID:Tnd+sRIr
家老の水谷式部は切腹しとけ

999 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 11:39:06.65 ID:EefbRU2C
政宗は流石だな
天庵様ももう少し落ち着いておられれば、という悪い話


2 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 12:35:18.41 ID:ofxsjBjP

前スレの話、「急行すれば泊まらずに伊達領に戻れるのに泊まっていくとかおかしくね?」という意見が出たから襲撃取りやめたって話もあったな。
翌日政宗が伊達領に入ると国境で伏せてた兵が引き上げていったと。

3 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 12:59:38.10 ID:8e22FhqE
>>2
これかな

伊達と相馬、累代の敵国
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5237.html

伊達政宗の弁明

2013年03月18日 20:00

930 名前:1/2[sage] 投稿日:2013/03/18(月) 00:07:17.45 ID:dElQWAOG
天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐。
ここに奥州より伊達政宗がついに参陣し、秀吉に対し臣従の礼をとった。

しかしそのことだけで政宗のこれまでの不穏な動きが見逃されるわけではない。
政宗の身柄はしばらく底蔵という山中の宿舎に置かれ、そのまま沙汰もなく、伊達家中の者達は
何か不測の事態が起こるのではないかと薄氷を踏む思いで居た所、秀吉から
浅野弾正少弼(長政)、宮部善祥坊(継潤)、施薬院(全宗)が派遣され、政宗に対し尋問を行った。

「そもそも会津の地は、先の三浦介(蘆名)盛隆が、亡君信長公に臣従して以来、常に金上遠江を
代官として上洛させ、完全に君臣の礼を取っていたのだ。であるのに汝は雅意に任せてそれを押領し、
誠に傍若無人の振る舞い、言語道断である!
汝が自身の非を明白に弁明できないのなら、速やかに厳罰を申し付ける!」

これに政宗、畏まって
「去年私が(摺上原の戦いにより)会津を押領つかまつった事、偏に私の暴虐なる振る舞いと
お考えになっているのでしょう。しかし、その事の仔細を申し上げます。

過去からの経緯を申し上げます。
私の郎党に大内備前と申すものが居たのですが、私に対して野心を含み、会津の蘆名に属したのです。
これを私は強く無念に思い、即座に誅せんと考えましたが、蘆名義広は思いもよらぬことに
かの大内備前に合力し、あまつさえ佐竹義重、磐城常隆らまで、義広に一味して、事態は私にとって
大変困難なものとなりましたが、幸運にもかの大内備前を退治する事が出来ました。

そして二本松についてですが、かつて、私の父親である輝宗は二本松の畠山義継に不慮の参会で討たれました。
二本松の者共はその父の仇の末であります。ですので打ち続いて二本松を攻めようとしましたが、
ここでも蘆名義広の企てで、佐竹義重、磐城常隆、相馬義胤らまで一同に二本松に集結し、私一人を敵にして、
度々合戦を仕掛けてきたのです!ですが、不思議に一戦の利を得て、結果的に会津を横領する形になって
しまったのです。

そうでありますが奥州では、大崎義隆、磐城、相馬の者共を始めとして、出羽には最上義光、常陸には佐竹義重
等に至るまで、皆私一人を敵にし、隙を伺っていたため、昼夜を問わず彼らへの対応に追われ、京都に対し
臣従することも、今まで引き延ばしになってしまったのです。」

これを、3人の使者はそのまま秀吉に伝えた。すると秀吉から重ねての諮問があった。秀吉の疑問は唯一つ

931 名前:2/2[sage] 投稿日:2013/03/18(月) 00:08:43.26 ID:dElQWAOG
『政宗に敵対しているのは全て政宗の肉親親戚の者達だ。
政宗は肉親親戚全てに見捨てられ、隣国に一人も心を合わせたものがいない。
これは甚だしく不審なことである。』

実にご尤もな疑念である。政宗はこれに

「ご疑念、承りました。先ず、最上義光は、勿論これは我が叔父であり、特に所領も隣接しているのですが、
私がその国境に置いた鮎貝藤太郎という者をそそのかし、私に対して野心を持つように仕向け、彼の者はついに
義光の元に亡命しました。私はその頃若年で、しかも父を亡くしたばかりで何の支えもない身であったのに、
よりによって叔父である義光がこのような振る舞いをしたこを、激しく情けなく思い、敵同士になったのです。

次に相馬ですが、父輝宗存命の頃は度々争っていましたが、私の代になって和睦いたしました。ところが
私の舅、田村清顕と申す者が亡くなると、私の郎党・石川弾正という者が相馬義胤にそそのかされ、
私に対して野心を企てたため、軍勢を出してこれを退治せんとした所、義胤は彼の者に合力し、後詰を
してきたため、短期間での討伐が不可能となリました。そのため私が、所領の中にある大森城に暫く
引き退いたところ、義胤はよりにもよって田村清顕の郎党たちと語らい、田村領を奪う企てを起こしました。
しかしそれは、田村清顕に忠節であった者達が私に味方したため、陰謀はならず義胤も相馬に引退きました。
これにより石川弾正も力を失って相馬領に亡命しました。
すなわち、相馬義胤こそがこの政宗に対して敵対したのであって、私が相馬に対し敵対したわけでは
ありません!

それから大崎義隆と合戦に及んだのは、累年、国境線についての論争が有り、それが徐々に双方の確執と
なったからなのです。

このような事は皆、政宗の不幸であります!
この面々の悪巧みにより、今のようなご不審の中にある以上、私の真心を伝えるのが大変難しい状況です!
私は何を否定し、何を肯定すれば良いのでしょうか!?」

そして使者に向かい
「仰ぎ願わくば、真実をその言外から受け取り、嫌疑を目前に決せられ、この政宗の悲嘆の眉を
開いていただくのは、偏にあなた方の聡明さに任せるより他ないのです!」

使者たちは再び秀吉にありのままに伝えたが、秀吉はこれを聞いて重ねての諮問は無く、
ただ押領した会津・仙道領は残らず没収され、本領だけは安堵ということになった。
政宗は不思議にも大難を免れたのである。
(会津四家合考)

以上、伊達政宗、弁明についての話である。




932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/18(月) 00:11:56.31 ID:WrevTh1S
     俺たちは皆親戚だー´
 ∩∩                                             V∩
 (7ヌ)     っ                                        (/ /
 / /     っ            .∧_∧                         | |
/ /  ∧_∧     .∧_∧  _( ´A`  )  ∧_∧    ∧_∧    ∧_∧ / /
\\( ´Д`;)―--( ´∀` ) ̄       ⌒ヽ( ´∀` )―--( ´∀` )   ( ´∀`)./
  `。:、       /⌒   ⌒ ̄ヽ 蘆名  /~⌒      /     ⌒丶/    /
   |岩城  | ー、 相馬  / ̄|    //`i  伊達  /ー、 最上 /ヽ /.\\ /
.   .|      |  . |      /  (ミ   ミ) |     l Λ_Λ   // / 留守 \\
   |    | |     | / Λ_Λ\ |  __  _( ´∀` )  ミ)//      l(_)
   |    |  )    / __( ´∀` ) \ | ( .|/,     ⌒ヽ\/   /\ \ 
   /   ノ | /  ヽ ヽ、_      .⌒ _)/ ニ)ノ        /\ ).\ / \  \
'  |  |  | /   /|   / |  佐竹  |  | | ニ) |  田村 ヽ / ,/ / | 二階堂 ||  |

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/18(月) 00:13:40.22 ID:YpyoLUsz
>ですが、不思議に一戦の利を得て、結果的に会津を横領する形になってしまったのです

言い訳が斜め上過ぎてお茶吹いたw

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/18(月) 00:25:12.20 ID:4ToNuic4
電車が急ブレーキで止まった際、
不思議に手が前に立っていた女子高生のパンツの中に入ってしまい、
結果的に痴漢した形になってしまったのです。
ほんと不思議に...

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/18(月) 07:57:44.25 ID:5AfH8JXe
大難とは打首のことかな?
でも苦労して切り取った領地かなり没収されてるから大難だな

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/18(月) 10:00:09.46 ID:uAzwk/RO
せっかく残った本領も翌年には巻き上げられるし

939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/18(月) 17:05:51.32 ID:OYbNrBs8
太閤殿下も亡君信長公の弔い合戦に利を得て、結果的に天下を差配する形になってしまわれた
いや実に不思議なことがあるものですなあニヤニヤ

まで読んだ

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/18(月) 22:24:57.03 ID:4/hoyBeF
>幸運にもかの大内備前を退治する事が出来ました。
(今は私の家臣に納まってるんですけどね!)

流石は政宗公

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/18(月) 22:32:55.97 ID:7aqBVfiX
政宗が幕末に仙台藩の藩主だったら迷わず
会津と米沢攻めて領土拡大狙っただろうに…

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/18(月) 23:50:32.42 ID:XwnGIj9m
政宗が大戦中に生きてたら満州あたりに行って部隊率いて暴れまわっただろうに

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 00:05:30.78 ID:p7+Npn/g
でも政宗は家臣への手紙では凄く細やかに気を使ってるんだよなあ
気を使って丁寧な言葉を選んでおかしな計画を語る

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 00:07:36.91 ID:hj2dJNea
政宗は教養があるから(嘆息

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 00:55:03.50 ID:agq1cYgD
>>946
なるほど
では順ちゃんは生まれ変わりだな

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 12:34:13.11 ID:MKu8LUIR
>>949
華族から馬賊へ華麗なる転身
間違いなく伊達の血のなせる業だよね

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 15:32:32.03 ID:1yCE392A
伊達順之助だけはガチ。
しかも直系子孫なんだよな。
家系的には華族の超ボンボンお坊ちゃんなんだけど、
人間の人生てどうなるかわかんないよな

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 19:26:17.30 ID:pzjZLk/S
伊達順之助って、愛姫の子孫でもあるなら、漢の霊帝の子孫ってことに一応なるから
大陸では劉姓名乗って漢帝国でもつくればよかったのに

相馬義胤の決意

2011年03月27日 00:00

相馬義胤伊達政宗、出くわして、コメント欄より
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5249.html

相馬と被災地応援の気持ちで投下。

相馬義胤は法名から「外天公」と呼ばれ、地元の人達に親しまれているらしい。
初陣(1563年)からの約30年間に30回伊達氏と合戦している。
(相馬野馬追も特に伊達家に対抗できるよう「武芸技術を研ぎすましておくようにと続いた」と自分も聞いた事がある。)

伊達政宗が蘆名・二階堂両氏を滅ぼした天正17(1589)年、
相馬氏からも駒ケ嶺城を奪って、相馬氏への総攻撃を進めた時の事。
政宗への服属を勧める書状が宮城県伊具郡の武将から届いたが、
これに義胤は「政宗に従って家名を残して汚すよりは、
屍を砂礫にさらすとも名は汚さない」と徹底抗戦を主張したという。

この決戦はしかし、
豊臣秀吉の小田原攻めによって時勢が急変、回避されたらしい。

以上『武者たちの舞台 ふくしま紀行 城と館(上下巻) /福島民報社刊』より。



相馬義胤と伊達政宗、出くわして

2011年03月25日 00:01

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 12:30:34.63 ID:fKau0LAV
寛永2年(1625)9月、相馬利胤が父・義胤に先立ち、世を去った。

後を継ぐべき嫡男の虎之助は未だ六歳、領内泉田村に隠居していた義胤は孫を後見するため現役復帰。
まもなく八十に届こうという老体に鞭打って、再び働き続けた。


寛永6年5月、ようやく虎之助は元服。手塩にかけて育てた孫に対し、義胤は己の名乗り『義胤』を譲り渡した。

元服後の初御目見えのため、老人と孫が江戸城に登城すると、ちょうど伊達政宗が退出してくる所に出くわした。
駕籠に乗りかけていた政宗は、下馬して城内へと向かう相馬家一行を、立ったまま何をする訳でもなく、見送った。


「あれで良いのだ。」
尊敬する祖父に対する政宗の態度に、不満気な顔を浮かべたままの孫に向かって、義胤は声をかけた。

「我らは若い頃、仇敵同士であった。武士たる者、仇敵に対して構えるのは当然のことだ。
今の若者も、日ごろ親しい人であっても、気を抜かずに用心して付き合うべきなのだ。」




497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 13:23:18.18 ID:ZA1o8lKB
相馬さんも揺ぎ無くめんどくさい武士じゃのう。

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 13:25:44.68 ID:ogWsox2P
下手に政宗に絡まれる方がめんどくさいって知ってるからだろ

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 13:35:20.00 ID:Hr7NaFEn
ふむ・・・・

絡まない:自分がめんどくさいと評価される
絡む:自分がめんどくさい目にあう

よし、酒に酔った市松の前横切ってくる!むろん挨拶とかガン無視で!!

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 13:45:19.18 ID:KesQ7rse
政宗がおべっか使ったら使ったで「あれは奸計だ騙されるな!」とか言うのか
確かにこれで良いのかもしれん

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 16:16:36.66 ID:9+oewzJl
そういや相馬さんとこの地元、今大変だよね

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 21:31:31.92 ID:xgB9DlKu
相馬さんは死ぬ時も伊達領の方を向いて立ったまま葬られたんだっけ?

伊達と相馬、累代の敵国

2011年03月20日 00:00

410 名前:1/2[sage] 投稿日:2011/03/19(土) 10:49:23.69 ID:IVblgCDc
慶長5年(1600)6月のこと、上杉景勝征伐が行われようとしている時である。

これに伊達政宗は本国より会津を攻めるため、大阪より急ぎ帰国の途に付いた。
だが白川から白石に通る道は敵によって塞がれている。常陸国を廻り、岩城相馬を経由して帰国を果たそうとした。

しかし、これに従う家臣たちは大変不安に思った。伊達家と相馬家は累代の敵国である。その相馬領をつつがなく
通り抜けられるとは思えない。しかも今、政宗が従えているのはわずかに50騎ばかりである。

常陸国を経て岩城と相馬との境に至ると政宗、先ず相馬のもとに使者を立て、こう言上させた

『今度徳川殿、上杉景勝を征伐することとなり、政宗は領国より会津の搦手を攻めるよう命ぜられました。
白川の方からの道はすでに塞がっており、東側の道を通って漸くこの国境へと至りました。
しかしここまで、余り道を急いだため士卒ともども疲れきっております。願わくば城下に旅館を用意していただけ
ないでしょうか?馬の足を休めて、明日、我が国に入りたいと考えています。』

これを聞いたのは相馬家16代当主、相馬長門守義胤である。彼は大いに喜んだ

「あいつの運も遂に尽きたか!只でさえ伊達は相馬年来の敵であり、また我らが味方している上杉を討とうとする
一方の大将!今夜夜討ちをし、土地の案内を知らぬ者達をここかしこに追い詰めて一人も残さず討ち取り、
年来の仇に報い、今度の戦役での手柄としようぞ!」

急ぎ民家を旅館として伊達一行を迎え入れ、同時に家臣を集め夜討ちの謀議をした。

と、この謀議の席において、末座より進み出て声を上げたのが水谷三郎兵衛尉胤重である。

「遥か末座の者が進み出てご意見すること、大変恐れ多いことですが、この謀議の席に参加している以上
自分の考えを申し上げなければその役目の意味が無いと考え、ここに申し上げます。

世に”窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さず”と申します。今、伊達政宗ほどの大名が年来の恨みを捨て、
君を頼んで来たというのに、それを謀って闇討ちにするのは、勇者の本意とする所ではありません!
我が相馬家の、長き弓矢の瑕瑾となってしまうでしょう!

それから、ここを注意してください。我が城から伊達領までの行程はわずかに3里(約12キロ)でしかありません。
今は未だ未の刻(午後1~3時)を過ぎていません。政宗が国境に至ろうと思えば、本日日の暮れる前に
たどり着くことも可能だったわけです。

さらにあの僅かな勢でここに留まること、あの政宗のことですから、何か裏に謀り事を秘めているに違い有りません。

ここで我々は、警備を全うして今夜一晩彼らを守り、今回は本国へと返してやりましょう。その上で重ねて合戦と
なった時は正々堂々と戦って、勝負を両家に天運に任せるべきではないでしょうか?」

これに満座の衆、賛同し、相馬家は政宗の旅館の側に食料から馬の飼料、藁束まで積み上げこれを提供し、
夜に入ると旅館の四面に篝火をたかせ兵士たちに徹夜の警備をさせた。

411 名前:2/2[sage] 投稿日:2011/03/19(土) 10:54:27.99 ID:IVblgCDc
が、その警備の者達もそこは相馬家の者たち、憎い伊達政宗の警備を命ぜられて心は穏やかではない。
また政宗があまりに落ち着いていることも気に入らない。そこで政宗の驚き慌てた姿を見てやろうと、
夜更けに馬の1,2匹の綱をわざと切って放ち、これに驚いた雑人たちが走り逃げ、深夜に騒ぎ罵る声が響いた。
するとここに政宗、白い小袖を上に打ちかけ、左手に刀を携え、小童一人に燭を持たせて現れた。

「相馬殿の人々であるか?相馬殿の人々であるか?」

「左様でござる!」

「なにやら騒がしいが何事であろうか?政宗の雑人たちが狼藉を働いたのであれば、よく静めておくように。」

とだけ言い、また寝所へと下がっていった。


そして夜が明ける。だが政宗の一行はなかなか出立せず、巳の刻(午前9時頃)になって相馬義胤の元に
使いを出して感謝の念を伝え、その上で静かに馬を出し国境へと向かった。
これを相馬家の者が密かに着けると、国境の駒ヶ嶺のあたりには、伊達家の軍勢が雲霞の如く満ち
政宗を出迎えていた。


さて、関が原の合戦が終わり、相馬は佐竹に連座し改易となる。
ところが、ここに意外な人物が相馬の弁護に奔走し、徳川家に働きかけた。伊達政宗である。
彼は言う

「相馬はこの政宗の年来の敵であります。さらに上杉石田らに与する事を決定していたと言いますが、
彼らにはこの政宗を打ち取る機会があったというのに、私が家康公の仰せを承り馳下るという説明を聞いて、
たちまち古き恨みを忘れ新しき恩を施してくれました。
これは彼らが、野心を挟まなかった証拠ではないでしょうか!?

また相馬家は累代の弓矢の家。その家を現代に至って断絶するのは、まことに良いこととは思えません!
どうかかの家の本領安堵のこと、お許し頂きたい!」

このような事を折に触れて嘆願した。この事もあり慶長7年(1602)10月、ついに改易は撤回、本領安堵とされた。
この時から相馬家の評定始では、満座の輩、一々に水谷胤重の子孫の座の前に進みより、
「水谷殿のご意見、違うことあるべからず」
と宣誓して罷り出づる事が長く佳例となったという。


さてさて、その後に政宗、井伊直孝を仲立ちとして義胤の嫡男、相馬利胤に、伊達相馬両家の仲直りを打診した。
利胤これを聞くと言下に

「我が家はすでに伊達殿の芳志をいただき、本領を安堵することが出来ました。
ですが、我らは累代の敵国、今私が私的に仲直りをするのは憚りがあります!」

と、遂に両家が仲直りすることはなかったという。

長く争った伊達と相馬の、関ヶ原前後におけるエピソードである。
(藩翰譜)





413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/19(土) 13:14:18.64 ID:Zf/4Cio3
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1697.html

こっちの話より生々しいなw

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/19(土) 14:06:43.99 ID:eQy7oi6G
それはそれ、これはこれ って感じかなw

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/19(土) 18:23:52.04 ID:aRvmxkqN
この頑固っぷりはいかにも坂東武者の流れを汲む関東武士らしいなw

「相馬の九曜紋にはどのようないわれがあるのか」

2011年03月16日 00:00

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/15(火) 14:02:52.17 ID:sIRLWHrA
豊臣秀吉が相馬義胤にたずねた、というから、小田原北条攻めか、それ以降であろう。
「相馬の家紋は九曜紋であるな。どのようないわれがあるのか」

相馬義胤、答えて
「九曜紋とは九つの星、すなわち北極星、北斗七星、輔星であります。
相馬の祖先は平将門であります。
将門が戦いに敗れて葦の中に身を潜めていたとき、北斗の化身である妙見菩薩が現れて
将門を助力し、脱出させたばかりか勢力を盛り返して関東を席巻させました。
その後将門はおごって朝敵となったので神の加護を失いましたが、
子孫であるわれらは妙見菩薩を変わらず崇拝しているのであります」

相馬義胤、九曜紋由来を語るの巻。

でも、考えたら秀吉はなぜそんなことを聞いたんだろう。家臣に調べさせればすぐわかりそうなのに。
きっとあれか、話題のない相手に話しをふって、気分よくお家自慢をさせたのかもしれない。
というわけで、しゃべらせ上手な秀吉の話。

ちなみにこの話、源頼朝と千葉常胤が同じ会話をしているらしいので、信憑性は察してほしい。




337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/15(火) 17:15:37.98 ID:e/7eWDSA
相馬市がはやく復興しますように

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/15(火) 18:04:43.43 ID:tV/8iuSg
>>336
頼朝スキーの秀吉がその逸話を知っててなぞったのかもしれないな

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/15(火) 18:58:08.38 ID:+yDHCx+e
秀吉って頼朝のこと、同じ天下人だけど血筋も門地もなしで切り取った自分のが優秀ですんでwww
ってディスりまくってなかったっけ

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/15(火) 19:07:52.69 ID:KQmMeH9O
>>342
いや、
頼朝公とオレが日本史上の武功ツートップだろうな!!
で、まぁ、でもオレの場合スタートの条件が違ったからな!!
どうよ?

くらいな感じ

伊達政宗、相馬領を通過・いい話

2009年03月27日 00:26

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/26(木) 01:40:44 ID:0Z5Nrkpc
伊達と相馬は天文の大乱以降から険悪になり
江戸時代になってもあまり仲が宜しくなかったが
こんな逸話がある。


関ヶ原の戦いの直前に東軍に付いた伊達政宗
中立の相馬領を通過して帰国しようとした時の事

長年伊達氏と抗争を続けている相馬氏
評定では「ここで政宗を討って積年の恨みを晴らすべきだ」
という声が高まった。

その評定の中に”水谷胤重”なる家臣がいた。
胤重の父は伊達氏との戦いで戦死しており
この時、胤重の胸中も複雑なものであった。

主君・相馬義胤も政宗を討つ方向性で評定をまとめようとした。
その時、沈黙を守っていた胤重が口を開いた。


胤重「方々のご意見よく分かります。私も父を伊達氏との戦いで失いました」
  「しかし、相馬氏は代々騙し討ちのような事はしてまいりませんでした。
   ここで怒りに任せて政宗殿を討つは不義であり、相馬の名を汚すことに
   なります。ここは政宗殿を無事に通過させるべきではありませんか」
  「政宗殿とは戦場で相見えるが武人としての姿勢ではございませんか」


この発言を聞いた家中は静まり返る。
徐に口をあけた義胤は「胤重の案に任せる」と胤重の意見を採用する。


それから数刻後、胤重は伊達家臣・原田宗資と会談。
政宗の領内通過に便宜を図った。


関ヶ原の戦い後、中立(西軍よりの中立)だった相馬氏は改易の憂き目にあうが
その時、政宗は徳川家康に便宜を図ったと言われている。

後年、義胤は政宗に相馬氏改易の折に便宜を図った理由を聞いた。

その時の政宗はこう答えた。


政宗「貴殿の家臣・水谷胤重の恩義に報いただけでございます」




214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/26(木) 01:53:36 ID:TsSiB3xA
>>213
恩義には恩義で応える・・・日本の良き伝統だね

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/26(木) 02:30:45 ID:T1rFjJas
珍しくジェントルマンな政宗w

この逸話、相馬領内で一泊したという話もどっかで見た気がする。
ほぼ敵と言っていい土地で泊まるほど困ってたのかどうか。
物凄い千載一遇のチャンスだったと思うが、よく捨てたよな。
その行為が後にちゃんと報われて良かった。




関連
伊達と相馬、累代の敵国
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5237.html