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土呑み裁判

2017年02月04日 17:39

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 13:09:23.79 ID:eUvcYzR0
土呑み裁判

戦国時代から少し時代は下った寛永15(1638)年、真田信之治世の信州にて村の間で山境の争いが生じた。
役人が双方に事情を聞いたが、双方明確な証拠を出すことができず、水掛け論になった。

そこ真田家では、争いとなっている山境の土を呑み、起請文を書いて自らが正しいといった方に山を与えることとした。

そうしたところ、片方の村の百姓が本当に山境の土を呑んだため、その山や山中の切り開かれた田畠はその村のものとされたとか。

鉄火起請についてはよく知られるところであるが、土を呑んで判決を下すのは珍しいこととか。

太平の世になっても、百姓は大変というお話。



平山優「真田信之


勝者の百姓のガッツのいい話ということで、こちらに。



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歌舞伎「盛綱陣屋」

2016年12月03日 09:00

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/02(金) 19:13:10.64 ID:vLLxwyfB
歌舞伎の「盛綱陣屋」という作品のあらすじ読んだら(歌舞伎なので登場人物の名前を含め、本来は鎌倉時代が舞台)

大坂の陣で真田信之の息子が真田大助を生け捕ったため、信之が大助を家康に見せると家康は大喜び。
そこへ後藤又兵衛が乗り込んできて「大助はまだ子供なのだから返せ!」と言ってきたため
信之は又兵衛をとりあえず家康のところに送る。
思案した信之は、このまま大助がこちらにいたのでは弟信繁の戦闘意欲がそがれる、いっそ切腹させようということに。
信之は信之・信繁の母親の山手殿を呼んできて、大助に切腹をすすめさせるが大助は泣いて切腹を嫌がる。
そこへ大坂城から信繁の妻が息子を思って兵に変装して駆けつけるが、その光景を見てあせる。
そうこうしているうちに信繁戦死の報告。家康は信繁の首を持ってきて信之に首実検をさせる。
心中悲嘆に暮れる信之だったが、首桶のなかの首はなんと偽首。
しかし次の瞬間、大助が「ととさまのところに行く!」と切腹。
実は後藤又兵衛も信繁の妻も、大助がちゃんと計略どおりに切腹するかの監視役だった。
信之も大助の心中を察し、家康に「まさしく弟・信繁の首です」と報告。家康もすっかり騙される。

信繁ってこんな計略を使う武将だと思われていたのか・・・



紺地に六文銭の旗の陣

2016年05月18日 17:05

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 06:44:03.98 ID:uLvmKNEo
大阪冬の陣、東方の寄手である真田伊豆守信之家臣の矢澤但馬、吐田筑後、榊原石見の三人は
元より武功の者であったので、敵が矢鉄砲を激しく撃ちこむのも恐れず、一番に仕寄りを付けた事は、
両将軍(家康・秀忠)からも賞賛された。

この時、伊豆守の手勢が仕寄りを付けるにおいて非常に勇敢であったのを、大阪方の木村長門守重成も
大いに感じ入り、或る夕刻、真田左衛門佐が出郭より本城に帰った時、重成は彼に対し、
東を指差して言った

「あそこの、紺地に六文銭の旗の陣が最初に仕寄りをつけました。あれはあなたの一族でしょうか?
もしくは他門でしょうか?彼らは実に、城攻めの妙を得た者達です。」

真田答えた
「あれは兄伊豆守の陣です。ただいま軍兵に先立って下知している二人の若武者、
一人は河内守(信吉)といって16歳、もう一人は内記(信政)といって14歳。どちらも私の
甥であります。亡父昌幸の余風があって、彼らも健気に働いているようです。」

重成はこれを聞くと
「その兄弟は、普段は何色の鎧をつけているのでしょうか?今から軍兵たちに、二人には鉄砲を用いないよう
申し付けたい。」

「それは情ある言葉です。しかし彼らは若年であると言っても、他の軍勢に先立って仕寄りを掛けるなど、
味方にとってはなかなかの剛敵です。
ご存知でしょうが、忠義のためなら親疎も言い出さないのが武士の習いですから、私の一族だからといって
弓鉄砲での攻撃を避けるというのは考えもできません。彼らもまた、私を見れば必ず攻撃して
来るでしょう。であれば、誰にかぎらず秀頼公の敵と見れば、席を去らずに討ち果たすべきです。
これが武士たる者の本意です。」
そう語ったという。

(慶元記)



732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 11:21:19.48 ID:IT3tWaKI
一族が敵方にいる以上、周りの他の軍より率先して働かないとダメだし
兄一家も大変だな

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 21:39:16.08 ID:7o1opGdq
黒田基樹「真田信之」p172によれば
「真武内伝」に
木村重成の持口を信吉・信政が陣頭に立って攻めているのを見た木村が信繁に
「あの六文銭はあなたの一族か?」と尋ねたところ
信繁「むろん、兄信之の子で私にとっては甥にあたる」
と返答し、木村が
「若年にして奇特な戦いである、あの2人には矢、鉄砲を放たぬようにしよう」
という話が載っているが、信繁は真田丸を守っていたため、残念ながら全くの創作である

としてたけど、真田丸から城に帰ってからの話なら問題ないような
(しかしたしかに木村重成より若いとはいえ、木村重成が「若年ながらたいしたもの」
と言うのには違和感)

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 22:09:52.91 ID:RsDfDWju
>>734
信吉が1595年(文禄4年)生まれで大阪の陣の頃には二十歳前後、信政はその2つ下だから、別にいいんじゃね?

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 22:58:53.72 ID:8V1YisfJ
>>732
結局最後の最後まで兄一家は弟に振り回されて終わっているんだよなあ

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 04:38:18.20 ID:otyaGBAD
>>732
源為義 為朝 平忠正「そうか?」

上州犬伏にて

2016年05月13日 18:04

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/12(木) 20:36:13.50 ID:lpkqYaEd
真田左衛門佐幸村(信繁、または信仍と有る)は、信州上田城主、安房守昌幸の次男である。
去る慶長5年、上杉景勝反逆の故に、徳川家康は上杉攻めとして、諸大名を召しつれ伏見を発向し、
関東に下向したことにより、真田昌幸、嫡男伊豆守信幸、次男左衛門佐幸村も、上州犬伏まで
打ち出た所、石田治部少輔三成、大谷刑部少輔吉継両人より、昌幸に書状が届いた。
その内容は、

『今度天下の御為に大老奉行相談し、内府(家康)を滅ぼすこととなった。真田父子も同意あって、
会津への出陣を止められよ。』
というものであった。昌幸は伊豆守、左衛門佐が先陣に在ったのを呼び返して言った

「たった今、石田、大谷より申してきた内容を見るに、上杉景勝が幼君に対し逆心の無いことは
明らかだ。この上は内府を敵とし、ここより引き返すべし。お前たちはどう思うか?」

伊豆守は答えた
「仰せ、誠に至極です。今回内府に従うのは、世上の批判も大きいでしょう。その上父上は石田治部と
御縁者(ある説によると、真田昌幸と石田三成は、ともに宇多下野守(頼忠)の婿であるとされる)です。
また左衛門佐は大谷刑部の婿であり、上方に筋目が有るのですから、先ずは御領内に帰って御思慮
あるべきでしょう。

しかし私は内府と御懇意であり、ことに本多中務(忠勝)と縁者のよしみがあり、お許しいただけるなら
徳川家の旗下に属したいと思います。そしてその上で、なお志す所があります。
もし、上方の軍が敗れ、城々に籠もった者達まで内府によって罰せられた場合、私が父と弟の罪を
謝し、如何にもして危難を救い、それのみならず、真田の氏族が断絶しないように私は計ります。」

これを聞くやいなや、左衛門佐は言った
「憚りながら兄上に、私がご意見申し上げます。
内府がどれだけ懇切だったとしても、それは太閤の御恩に及ぶものではありません。
また本多中務と縁者のよしみがあっても、それは私的な関係であり、公儀の事ではありません。
また、上方の軍が敗れたと時は父上と私の身命の危うきを救って下さるとのことですが、
おおよそ戦場に臨みて功なき時は、将より士卒に至るまで、必ず戦死する事となります。
然らば、父上と私が存命かどうかも計り難い。

それに御苗字のために内府に属すると言われるのも、あまりに難しい御思案です。
秀頼公のために一家尽く滅んでも、ご先祖への不孝とはならないでしょう。

事新しい儀ではありますが、天正年中に父上と内府が不和となった時、一旦は当家の武功によって
徳川家の軍勢を切り崩しました。しかし徳川、北条が手を結び、重ねて大軍によって攻められれば、
籠城も危うい状況であったのに、太閤の御下知によって和談と成りました。この時は上杉も、
越後より後詰を出されました。これらは浅からぬ恩義ではないのでしょうか!?

それ以降豊臣家の旗下に属すること十余年です。これで君恩を忘れ、景勝殿の志を捨て、
内府の味方をするというのは、人たる道ではありません!
兄上は御若年より器量も人に優れ、戦功も立てられた、一廉の御用に立たれる人なのに、
それがむざむざと敵になる事、残念至極です!」

これに信幸は大いに立腹し
「父上に先立って無用のことを言うのみならず、内府の旗下に属する者は人たる道に非ずなどと、
妄に私を軽んじ讒るとは!今一言を出すにおいては、即時に討って捨てる!」
そう太刀の柄に手をかけると、左衛門佐は少しも動ぜず返答した

「私は豊臣家のために死のうと思っている生命なのですから、ここにて御手にかけられる事、
御免あるべし。」

ここで昌幸が間に入り二人を制して
「伊豆守が言うことを考えたが、一応その理無きにしも非ずだ。秀頼公の御大事も、今回に
限ったことではあるまい。ただ自分の望みに従って、内府の味方をせよ。」

そう打ち解けて、免した。こうして伊豆守はここから徳川秀忠の手に属し、安房守・左衛門佐と
別れたのである。
(新東鑑)




信幸は武勇の大将であり

2016年03月09日 18:20

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/08(火) 19:07:16.92 ID:lZNfxQ9T
織田信長による甲州征伐が進行する中、武田勝頼は新府城に到着すると、武田から寝返った
不忠の者達の人質は、あるいはハタモノ、あるいは獄門と、三族ともに成敗し、忠信の人々の人質は、
それぞれに形見として返還し、杯など下して本国へと送った。
そして真田昌幸の嫡男、源三郎信幸を召し出して言った

「お前の父、安房守の今度の忠信は、草葉の陰までも忘れがたいものである。私が小山田の申す所を用い、
このように成り果てたのは神慮にも放たれたということなのだろう。昌幸は私を、不甲斐ないものと
思うことだろう。
どうか、お前の母と弟、その他一族の人質をつつがなく引き取って帰り、末まで繁盛せよ。」

そして御杯を下し甲州黒と名づけられた名馬一匹、金作りの太刀を与え涙にむせびつつ「これまでである」と、
忝なくも広縁まで見送り、「若年の者、落人として生け捕りにされることがあるかもしれない。」と、
自身の人数から数十人を付け、5,6里の間彼らを送るよう命じた。誠に昌幸の忠義に感じ入ったため
致したことであった。誰もがこのようであるべきなのに、相伝の主君に弓を引き逆心を企てるような
心意は、神慮もきっと憎む事だろう。心ある輩はこれを感じて、みな涙を流した。

真田家の人々は3月5日に新府城を引き払い信濃との国境へと向かうと、ここかしこより甲州の落人を
剥ぎ取ろうと、盗人共が寄り合い同類を集め、百人二百人ずつ待ち伏せし、鬨の声を上げて討ってかかってきた。

真田信幸、この時17歳。弟藤蔵15歳、源五郎7歳、信幸の姉18歳、矢沢殿の娘、祢津殿の娘、
室賀殿の娘も同行して下っていた。
信幸は先陣に進み、続いて御母堂の乗物と続き、山田文右衛門が殿をしてその勢男女二百余人、
信幸は一揆共を追い払い、鳥居峠につくと人馬の息を休ませた。しかしこの事はすぐに盗人共に知られ
「よき物取りが出来る」と、信州のスッパと上州・武州のワッパ共集まり、一千余人、峠の麓の
小松原に潜み、坂中にて鬨の声を上げると、百千の雷もこれには過ぎぬと、恐ろしさのあまり
母親は信幸に訴えた

「敵は多勢、この方は無勢。そして京まで3日の間の道中にての、昼夜度々の戦にて手負いも多くあり、
多くは疲れ果てています、なまじ戦って雑人の手にかかるよりは、私は自害しましょう。それから
あなたもお腹を召しなさい。」
そう涙に咽んで語ったが、信幸は武勇の大将であり、謹んで母親に言った

「あの程度の一揆、たとえ百万騎あろうとも物の数ではありません。お心やすく思って下さい。
只今彼らを追い払い、安々と国元までお供いたします。」

そして鎧の上帯を締め直し十文字槍を持つと、勝頼より賜った甲州黒に打ち乗り、さも勇々とした態度で
控えた。母親も鎧を着、白綾を畳んで鉢巻にし、志津三郎の打った薙刀を小脇に手挟み床几に座った。
真田信為(信繁のことか?)も緋縅の鎧に鍬形を打った兜の緒を締め、弓を引き、敵がかかれば討ち懸からんと
母親の脇に控えた。

信幸は五反斗乗り出し一揆の様子を観察し、真田の男女200人の一行を3手に分け、先陣を山の并びに
50人、母親の所を旗本として100人、手回りに50人を従え、信幸は言った
「この山陰から麓に廻り貝を吹きたて、50人を二手に分け、喚きながら峠に駆け上れば、敵は盗賊の
奴原であるから、我々を尾張勢と勘違いして散々に逃げ去る事間違いない。ただし、もしこの作戦を
敵が悟り、戻ってきて戦うことになれば、この山上の岩窟に母上を引き上げた上で戦うべし。」

こう評定し山陰に廻ると、そこには鎧武者10騎ばかり、人数7,80人が忍びやかに細道を登っていた。
信幸は、これは敵が後ろより来たのだと思い、配下の50人のうち1人を農民の出で立ちにして物見に
行かせたところ、それは信州より信幸たちを迎えに来た人々であった。
「これはなんということか!」相互に大喜びし、一行はすぐに信幸の元に向かった
「この峠に差し掛かり、遠見を出したところ鬨の声が頻りに起こり、その軍勢は雲霞の如くでありましたので、
この山陰を廻ってきたのですが、これこそ天の与えた幸運でした。」

こうして彼らも信幸の共に属し、麓に下り貝を吹き、鬨の声を上げると、案の定一揆勢は四方八方に
逃げ散り一人も残らなかった。

それから母親らの人数と合流したが、信濃国は信長の尾張勢がここかしこの城要害に押し寄せ兵乱の
最中であり、通行も難しいということで、ここより輿を捨て、母親をはじめとした女性も男の出で立ちにて
通るべしと、皆甲冑姿と成った。
(加沢記)

参考
真田信之の脱出


444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/09(水) 09:57:20.30 ID:JZptPlK9
>>441
大泉洋と堺雅人が浮かんで来てコメディーになってしまう

役者共に守らせて済ませるべきである

2016年02月29日 22:05

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 21:45:38.54 ID:O8pFZG4m
真田信之曰く
「農民、商人の人質を取り置くところには、焼草を置き頭(かしら)一人を差し置き、
能役者などを付け置いて、変あらば火を掛けさせるようにするべし。
その程度のことは長袖にても出来ることだ。

今の大名は、役者を抱えるのにその芸ばかりを吟味している。
尤も、役者を持ち抱えるのは大名役ではあるのだが、雑人の人質の番に
能き士5人10人を付け置くなど不本意なことだ。頭さえしっかりとした武士一人を置いておけば、
役者共に守らせて済ませるべきである。

しかしながら役者にも、例えば保生太夫は大阪夏の役に、小笠原秀政の手に属し出陣し、
比類なき働きが有った。之などは掘り出し物である。」

(名将言行録)



392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 23:21:03.92 ID:4pDtWCD/
>>389
金春安照と北七太夫は真田隊にくっついていたらしいけどたいして働きなかったのかね

真田信之は倹約の人であった

2016年02月28日 19:14

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/27(土) 18:18:01.46 ID:8Qb5qlMK
真田信之は倹約の人であった。そのため、人々から彼は金を集めていると称されていた。

彼が家老の宅に臨むとした時、家老より、何を支度すべきか尋ねると、信之は用意すべき品物
一つ一つを大積りに値段を書き取り、
「本来そちらに行くべきなのだが、難しい事情があり訪問できないので、必要な経費を
金納せよ。そうすれば、殿中にて慰みにいたすであろう。」

こうして信之は毎年このように金にて差し出させた。しかしこれは、その邸宅に訪問することより
物入りが少なかったため、下々喜び、金はますます増殖した。

ある日、信之が近臣たちに「どうして私が吝き沙汰をすると思うか?」と尋ねたところ、
何れも「お金を集めるためでしょう。」と申し上げた。これに信之は

「私は関ヶ原陣や大阪の両陣も勤め、そこで覚えたのは、士卒を励まそうとしても、
下知ばかりではなかなか励まない、という事だ。
金銀を快く遣わしたうえで下知しなくては、合戦は出来るものではない。
だからこそ、武士は金銀を大切にすべきなのだ。」

(名将言行録)



388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/27(土) 22:32:16.67 ID:RHe8pw1e
大坂の両陣?
活躍したのは息子たちや義理の弟や実の弟のような

一度後れては3年失せぬ

2016年02月26日 17:14

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 14:59:51.90 ID:BOOoXAE2
島原の役の時、真田信之細川忠利にこう言った
「今回、板倉内膳正重昌が討ち死にした事で、敵を急ぎ踏み潰すためにあなた方を
遣わされるようですが、ただし、手間取って思ったようには成らないでしょう。
そのように心得ておくべきです。

私が昔、忍城の成田氏を攻めた時のことです、
軍勢は勇まず、下知を聞こうとしませんでした。帰陣した後、私は父の安房守(昌幸)に言いました
『あのような腰抜けばかりを選んで私に付けられたので、今度の合戦で勇まないのです。』
安房守は怒って申しました
『若輩者が!何を不智な事をいうか!?それはお前が、去年合戦で後れを取ったためだ。
一度後れては3年失せぬものである!』

今度の島原も、内膳正は討ち死にし、軍勢は損害を受け、みな恐怖心を持っているでしょうから、
軍勢は勇もうとしないでしょう。であれば、手間取ります。
その分別をして、ご出陣すべきです。」

(名将言行録)



239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 15:29:09.86 ID:wJbS32Th
そりゃあ総大将がアレですから

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 16:05:21.65 ID:linV+D2a
>>238
小童!ではないのか。

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 17:55:57.98 ID:DxkpIThN
去年合戦で遅れをとった、て名胡桃城取られたこと?
信幸に責任あったっけ

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 18:23:49.08 ID:rVEZlCrD
沼田の責任者だからだろ

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 18:34:42.29 ID:vERWSTmf
そのお陰で北条攻めの名分が出来たのに…

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/27(土) 12:16:09.29 ID:fqUtjaJs
>>242
その時沼田は小田原に割譲済だけど?

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/27(土) 12:27:16.72 ID:nDdVzJi9
つ名胡桃

【ニュース】信之公のご位牌が発見

2015年11月28日 17:21

42 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2015/11/27(金) 20:18:20.14 ID:kDnuCvlR
流れ読みません。信之公のご位牌が発見されたそうです。

<真田幸村>兄の位牌発見 長野・上田の正念寺
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151127-00000073-mai-soci


戦国武将・真田幸村(信繁)の兄で松代藩(長野市)初代藩主、信之の位牌(いはい)が、
長野県上田市の正念寺で見つかった。
167年前の資料に存在が記されていたが、所在不明となっていた。
奥寺浩司住職(37)が2月、本尊裏を掃除していると「隠し納戸」が偶然開き、位牌を発見。
上田市などの調査では数え年93歳で死去した1658年ごろの作で、
明治期の廃仏毀釈(きしゃく)で隠された可能性もあるという。
表面には真田の家紋「六文銭」が。折しも、来年の大河ドラマ「真田丸」に地元が沸く中での発見に、
奥寺住職は

「信之公に『そろそろ出せ』と言われたようだ」

と、手を合わせていた。


いくら、影が薄いからってそんなところにいらっしゃらなくても…・




43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/27(金) 20:24:49.11 ID:p13VVRHB
そういえば本屋行ったら真田幸村(信繁)関連の文庫本と信之関連の文庫本が平積み台に置かれてたけど
幸村関連のは普通に表紙が見えるように平積みされていて
信之関連のは背表紙だけが見えるように縦に置かれていた
まあ文庫本が置かれてるだけ上等だけど

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/28(土) 02:23:44.73 ID:IBZe3G5q
それでも扱いひどくないか

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/28(土) 05:25:10.29 ID:H/OUhG6h
みゆきちゃんの出身地だし

徳川頼宣は真田信之に尋ねた

2015年04月25日 15:59

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/25(土) 00:49:28.29 ID:ehskVbmA
紀伊大納言徳川頼宣が、真田伊豆守(信之)を自邸に招いて物語している時、ふとこのように聞いた

「あなたは神君(家康)の、平生の御行跡をよく覚えておられると思います。
それを話して聞かせてもらえませんか?」

伊豆守は答えた
「あなた様の所持お取廻しの様子、神君にも劣っていられるとは思いません。さりながら、
人をお使いなされる所は、なかなか神君には及ばれないと存じます。

私は御当家と比べ5分の1の分限ではありますが、明日にも何事かあった時には、我が馬前で
心よく討ち死にするであろう侍を、二百騎持っております。」

これには頼宣も感じ入ったということである。

(明良洪範)

年積り候故、気根草臥れ候

2014年11月17日 18:55

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 21:22:39.81 ID:e8mJx3vo
割と有名な書状のようだが、ここではまだ出ていないようなので


「追って珍しからず候へども、はり(玻璃)の盆一つ、同じくとうさん(「灯盞」か)二つこれを進じ候、
書状の験までに候、次に左衛門佐慮外ながら御言伝申し入れ候、
『先書に申し上げ候ごとく、爰元(ここもと)永々の御山居、よろづ御不自由、御推量なさるべく候、
我等手前などの儀は、なほ以て大草臥れ者に罷り成り申し候、御察しに過ぐべからず候、以上、』
其の許の様子、久々承はらず候間、(青木)半左衛門相下し候、御息災に候や、承はりたく候、
此の方別儀なく候、御心安かるべく候、但しこの一両年は、年積り候故、気根草臥れ候、
万事此の方の儀、御察しあるべく候、委細は半左衛門申し述ぶべく候間、具にするに能はず候、恐々謹言、 

安房 三月廿五日 昌幸(花押) 豆州 参」

(追って珍しくはありませんが、玻璃の盆一つと、同じく灯盞二つを進上します。
書状のしるしまでに。次に出しぬけですが左衛門佐の言伝を申し入れます。
『前の手紙に申し上げた通り、(昌幸の)ここでの長い御山居、御不自由を想像してください。
私たちや家臣などのことは、なおさら大草臥れ者になってしまっています。
(これについては)心配しすぎないでください。』
そちらの様子を長らく聞いていないので、半左衛門を遣わします。御息災かどうか聞きたく思います。
こちらは特に変わったこともありません。安心してください。ただしこの一両年は年を取ったせいで
気根が草臥れてしまっています。万事こちらのことを察してくださるよう。
委細は半左衛門が申し述べるでしょうから、つぶさには書きません。)


文面から長年の蟄居による昌幸・信繁の疲れ具合が見て取れる、昌幸の晩年に書かれたらしき書状である。
昌幸から信之に物を贈っているのが珍しい気がしたので、個人的にいい話に





三成→信之への短文通信

2014年10月19日 18:58

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 22:15:40.66 ID:7/7uUY/H

三成→信之への短文通信
『真田家文書』より、石田三成から真田信之(信幸)への未出の書状をいくつか抜粋


「眞豆州 御返報 石治
御書中令拝見候、御返報の儀心得申し候、折節客来にて取り乱し候間、一二する能はず候、謹言」
(お手紙拝見しました。お返事のこと心得ました。丁度来客で取り乱していますので、詳しくは書きません。)

「さいつさま 御報 石治
房州進物之事、明日にも左右申すべく候間、御こしらへ候て御待ち候ベく候、
又房州よりの御書中も只今拝見申し候、謹言、 十九日」
(安房守から(秀吉への)進物のこと、明日にも側近に申すつもりなので、
準備なさってお待ちください。また安房守からの手紙も今拝見しています。)

「さいつさま 御報 石治少
御札拝見申し候、宿に相待ち申し候、謹言、 廿三」
(お手紙拝見しました。宿にてお待ち申し上げています。)

「さいつさま 石治少
御札具に拝見仕り候。拙子事昨夕夜中申され、けさ早々より登城候て、只今やどへ帰り申し候、
拙子もちと御意得たきこと候へども、今夕は夜もふけ申し候間、明日申し承るべく候、恐々謹言、
四日 (花押)」
(お手紙つぶさに拝見しました。私は昨晩請われて今朝早くより登城し、今宿へ帰りました。
私もちょっと御意を得たいことがありますが、今日はもう遅いので明日にしましょう。)


それにしても真田家文書上巻の三成からの手紙の多さは群を抜いている
(徳川家・豊臣家・真田家家中からの手紙を除くと最多の十五通で、個人的な内容らしきものも含む)
信幸と三成が親戚同士だったこと(信幸の叔母の夫が三成とされる)が大きいのだろうか
すぐに読まないと意味がない手紙も多いのは伏見での屋敷が近所だったからと思われる

信幸と三成の親しさが垣間見える、そんな話。




52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 00:52:45.26 ID:4b9sFo1z
>>51
真豆州とか石治とか当時の人名前略しすぎぃ
他にも
織田信長→織上
木下秀吉→木藤
松平元康→松次
明智光秀→明十
とか見たし

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 01:16:25.06 ID:hTjg3Rmw
現代でも割と使われてる略し方だと思うが。マツケンとか。

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 01:21:38.75 ID:Tu4xNOcV
当時もそうやって略すのが親しみの表し方でもあったらしいしな。

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 01:42:47.86 ID:bNwtCOFp
まさむね

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 02:50:43.56 ID:y4IWvuXq
てる

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 07:30:50.00 ID:RdL2Urgm
かたこ

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 15:07:15.73 ID:x/pZEeRK
>>51
メールのやりとりみたいでほっこりする

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 16:45:26.41 ID:TUmAzWEe
つまり伊達政宗は全方位から他人行儀だったと

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 21:44:39.18 ID:leww0uT3
>>59

政宗の諱は先祖にあやったものだから、
自分自身だけのものと思ってなかったんじゃないかな

細越中 いつ様 御報

2014年09月23日 18:23

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/22(月) 21:49:36.11 ID:hER1rlWx
細川忠興から真田信之への手紙と言えば
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6021.html
が既出だが、以下のようなものもある。

「細越中 いつ様 御報

猶々、貴様のかやうに御心入御座候ところは、我ら余の人の千度より忝なく候、以上
貴札拝見仕り候、新キ人ねん◇◇(不明)送り下され候、思し召しより御心さし浅からず候、
いまだにしかしかと御座なく候て、薬をたへ申し候。天キ故かしらいたく候て、ねてい申し候、恐々謹言、
(花押)」

(なおなお、あなた様のこのようなお心遣いは、私たち余人の千回よりもかたじけなく思います。
お手紙を拝見しました。新しい人ねん◇◇をお送り下さり、あなたのお思いになるより立派な贈り物です。
いまだに体調がしっかり致しませんで、薬を飲んでいます。天気ゆえか痛みがあり、寝ている次第です。)

(年次不明、真田家文書)

忠興、信之からの病気見舞いに対する礼状である。

(一行目は↑のタケノコの手紙の追伸と全く同じ文なので、その手紙の最後の一枚が
この手紙の一枚目と間違えられているのかもしれないが、原典のままとした)




861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/22(月) 22:15:54.99 ID:mld1qJgw
同年代長生き同士でいたわりの手紙を交換してたかと思うと感慨深い

鈴木右近の切腹

2014年07月06日 18:51

249 名前:鈴木右近の切腹[sage] 投稿日:2014/07/06(日) 14:33:08.50 ID:2nLgC1Uj
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3811.html
でもちょっと触れられてるけど出典があったので
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4040.html
の逸話で
「どんなに死出の山が険しくても、わたしが御手を引いて差し上げますよ」
真田信之と殉死の契約をした鈴木右近
木村縫殿に殉死の際の介錯を頼んでいたのだが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4806.html
の逸話のように縫殿が死んだためその息子の渡右衛門に改めて介錯を頼むことになる。

250 名前:右近の切腹[sage] 投稿日:2014/07/06(日) 14:34:10.32 ID:2nLgC1Uj
万治元年戊戌十月十七日、一当公(真田信之)九十三歳にて御卒去。
鈴木右近は十八日に殉死すると言ってたのにどうしたのか、自室に篭ったままであった。
嫡男の治部右衛門は江戸にいて不在であり、次男の弥左衛門は気が気でなかった。
家老以下、真田家家中に父の殉死の予定を伝えてきたのに、万一、長引くようなことがあれば
どうしたらいいのだ、と心配でしょうがなかったが、
右近の日頃の気性を思うと、たとえ天地がひっくりかえっても自分をまげない男なので、
意見もできないとあきれ果てていた。
右近は長年妻子にも触らせなかった箱を開けて書付をいちいちとりだしてことごとく
焼き捨て、残りを入納したそうだが、何が書かれているかを知る者はいなかった。
なんだかんだで十八日夜になって右近は正眼山法泉寺に移ったようだ。
隣家の竹内親兵衛、長谷川善兵衛が法泉寺に訪ねていくと、
右近「殉死の見届けをしてくださること、ありがたいことです。
私が焼かれる火葬場の様子をみたところ、山のようになって見苦しかったため
平らにならすよう指図をしてきたところです。」
ずいぶん念のいったことだと思っていると、同族の弥左衛門がやってきて、
切腹が遅れていることを問いただした。

251 名前:右近の切腹[sage] 投稿日:2014/07/06(日) 14:34:59.30 ID:2nLgC1Uj
右近は「用意はできました」と答え、
取り寄せた棺桶のできを見、内外の寸法も十分だと満足していた。
そうこうしているうちに、介錯人の羽田六右衛門を木村渡右衛門が召し連れて
右近と対面した。切腹前の儀式が終わった後、
右近「まことに申し上げにくいことですが、このようなことをしたことがなく、この歳になるまで
殉死を見たこともないため、作法を心得ません」
木村「わたしも心得ているわけではありませんが、近藤平之丞に聞いたところでは
主君の御位牌に拝礼するのはもちろんですが、拝礼の後、御位牌に背を向けて切腹するのが
作法だそうです」
右近「若いのにそこまで調べてくださったこと、言葉に尽くしがたいほど感謝しております。
ところで、どうせなら後世に残るように立ったまま切腹したいのですが、いかがでしょうか」
木村「冷淡なように聞こえるでしょうけど、ご老衰の身でそんなことをしてもしかたないでしょう」
右近「ともかくも指図通りいたしましょう」
右近は気色にも死の恐怖というものをいっさい見せなかった。

252 名前:右近の切腹[sage] 投稿日:2014/07/06(日) 14:37:46.29 ID:2nLgC1Uj
やるべき儀礼を終えたのち、右近は刀を腹に押し立て引き回した。
切り口を主君に見せようと思ったのか、霊前(位牌)の方へ振り返った所、介錯人の羽田六右衛門が
振り下ろした刀が肩骨に打ち込まれてしまったため、木村渡右衛門はすかさず右近の首を
自分の膝の上に引き寄せて、首を掻き切った。
木村は慌てた様子もなく手早くことをなしたものだ。

この物語はその時同席していた長谷川善兵衛から直接聞いて書き置いたものである。


「真武内伝 附録」より
用意周到にしたのに最後の最後できれいに運ばなかった気もしますが、全体的に考えていい話ってことで

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/06(日) 15:05:15.07 ID:2nLgC1Uj
よく考えたら渡右衛門に頼んだのは介錯ではなく見届けでした




254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/06(日) 17:58:09.47 ID:nhVGFlMZ
真田のお兄ちゃんの場合享年があの御年だけに
昔からの家臣で殉死するほどつきあい長い人って相当限られてたんだろうなあ

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/06(日) 20:08:27.89 ID:Umjsc1MS
結論:はじめての切腹は失敗するので経験をつんでからしよう

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/06(日) 20:57:10.07 ID:qSzwb+rS
経験を積むって、生涯に一度しか出来んでしょうにw

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/06(日) 21:16:24.09 ID:C7mlVC+m
殉死の作法はともかく切腹だけならやらなくても立ち合うだけで経験は積めるんじゃないか?

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/06(日) 21:57:49.48 ID:lkckB1fN
追い腹なんてよくやるよなあと思うが
新参で寵愛されていたとかならわかるけどさ

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/06(日) 22:03:27.39 ID:74f8CjY5
右近もだいぶ年なんじゃないか?

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/06(日) 22:07:04.57 ID:ceGbtxhr
数えで85らしい
主君より8歳も若いのに

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 00:27:31.43 ID:0lSG9xVp
当時で85なんていったら今の120歳ぐらいの感覚なんじゃないか?

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 01:15:23.93 ID:P0qED9OS
ないない

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 09:05:19.07 ID:6KnR0Lkx
>>261
なんか90ぐらいで今の120歳ぐらいってどっかで見たことが…

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 13:19:57.16 ID:9Bf/qtyn
>>244
一応用心してりゃ用意しとくだろ。天下泰平でも生水に当たってこてっと逝ったり赤穂浪士に討たれたりキチガイにタマ取られたりってアクシデントもあるわけだし

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 13:24:33.27 ID:g8GLLUXD
えーと、最初の一年で成人して、あとは一年ごとに現代人にあてはめて大体4歳づつ位の感覚で…

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/08(火) 00:23:38.29 ID:Jof1AIYs
武者は犬ともいへ、畜生ともいへ云々

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/08(火) 00:40:10.81 ID:yNf5Xzp9
なるほど。20歳になれば大老というわけですね

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/08(火) 02:00:12.72 ID:CGapS9WN
又左衛門とかいう犬も初陣の頃は立派な中年犬

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/08(火) 02:30:32.26 ID:bKa214Jq
真田の当主に徐福がいますね・・・

わしほどの者はたくさんいるので

2014年02月23日 18:59

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 17:46:07.12 ID:9GhmNLc7
真田安房守(昌幸)を、家老たちは
「とにかく家康公へ御付きになるのが適当です」と諌めた。

安房守はこれを受けて「いやいや、家康公へ付いても、
わしほどの者はたくさんいるので、重宝に思ってはくださらないだろう。

太閤へ付いたならば、重宝に思ってくださるだろう」と言って、
最後には太閤へ属した。そうではあるが、子息伊豆守(信之)を家康へ出した。

――『武功雑記』





真田信幸、杉菜を食べる

2013年07月27日 19:56

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 00:23:07.77 ID:QmOHOR/p
真田信幸、杉菜を食べる

真田信幸が上田に居た頃(関ヶ原合戦後の頃か)、家臣らと船に乗ることがあった。
そのとき岸辺に杉菜が多く生えているのを見た信幸は、杉菜を指して家臣に問うた。

「お前たちはあの杉菜を食べたことがあるか?」

家臣たちはこれに答えて、

「いえ、まだ試したことはありませんが・・・」

信幸はそれを聞いてこう言った。

「それこそ泰平の世の恩恵だ。
昔、勝頼没落の時(甲斐から落ちのびる際の)道すがらに
あれを取って食べたことがあるが、とても食えたものではなかった。
ほかに稗粥も度々食べたのだが、これもまた非常に不味かった。
それでも、昔あのような苦労をしたからこそ、今お前たちを扶持することができるのだ。」


悪い話スレでいかもの喰いの話を見たので、普段食べないようなものを食べた話。
出典は国会図書館の近代デジタルライブラリーで見られる「武人百話」という本から。




776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 01:30:39.75 ID:HfEb4Ibv
スギナって土筆が育ったやつか

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 07:45:05.90 ID:it/TbstR
意外と雑草もうまかったりするね
ばあちゃんがまえふきのとうとかつくしんぼとかの雑草を佃煮?のようなかんじで
調理してくれたことがあったけど普通に食べられたぞ

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 08:19:15.31 ID:3FcPthVw
ツクシとスギナは根っこがつながってるけど、別の部分。
ツクシが花でスギナが葉っぱと考えれば良い。
ちなみに、スギナは苦くて食えない(実体験)。
食える野草は限られてるのでチャレンジしないほうがいい。

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 10:39:34.89 ID:TK4sLSeM
スギナは毒あるから食っちゃいかんよw少量なら漢方薬として使われるけど
食べれる野草はこれも食べれるんかってくらい結構あるけど
毒草も身近にいっぱいあるから気をつけなあかん

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 14:34:01.08 ID:iVk54BOr
ベニテングタケですら美味しく食べる地方があるから、人間はおそろしい

784 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/07/27(土) 17:33:27.08 ID:vGyyOMM6
東北ではまさかのフグの肝を毒抜きして食う地域があるしな
舐めただけで死ぬレベルの物を食おうとするとか昔の人達の食欲は恐ろしい

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 17:51:50.34 ID:or5clOXr
ふぐの子糠漬けは石川県

786 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/07/27(土) 18:04:09.65 ID:vGyyOMM6
石川だったか
指摘サンクス

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 20:21:26.13 ID:5OIfLFkU
食べた事あるけど、塩抜きしても塩辛い位で正直微妙だったわ・・・

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/28(日) 02:07:28.15 ID:BtDg4Hdx
フグ食習慣ほど、先人の努力に感謝という言葉を思い出す事柄はないよな…
すげえよな歴代の死んでった人たち…
(武将の話関係ねえ)

[ 続きを読む ]

真田信之の脱出

2013年07月27日 19:56

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 01:50:38.12 ID:zYj6vKDj
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1055.htmlだと杉の葉、て解釈だ
ついでにその甲斐から落ちのびる時の様子を「加沢記」から
これも近代デジタルライブラリーで読める

(勝頼が昌幸ではなく小山田の策を用いて裏切られた後、なぜか新府で?)
信幸公が勝頼公に召しだされ、
勝頼「昌幸のこたびの忠心は忘れぬ。小山田の言葉を信じたためにこうなってしまうとは、
とうとう神にも見放されたようだ。昌幸は私を甲斐のないものだと思ってるだろう。
どうか、お前の母、弟、一族を無事に逃がしてやってくれ。お前たちの繁栄を祈る」
と杯を賜り、甲州黒という名馬、金作りの太刀を下賜された。
また、勝頼公は若年の落人であれば生け捕りになりかねない、と考え数十人をさいて5,6里送り届けさせた。
これも昌幸公の忠義に感じいったからである。
信幸一行は三月五日新府を引き払い、信濃境に向かっていると、甲州の落人狩りのため盗人百人から二百人が襲ってきた。
当時、信幸十七歳、御弟の藤蔵(信繁)十五歳、源五郎七歳、御姉十八歳、そのほか矢沢、根津、室賀の娘などが同道していた。
信幸公は先陣に進み、その勢男女二百余人で盗人を追い払い、鳥居峠で人馬を休ませた。
このことは盗人に知れ渡ってしまい、信州のスッパ、上州、武州のワッパ千人余りが集まって峠の麓で鬨をあげた。
信幸公の母は百千の雷鳴に勝る鬨を聞き
母「多勢に無勢、しかも度々の戦で我々は手傷を負ってます。潔く自決をしましょう」
と涙ながらにおっしゃったが、信幸公は武勇の大将であるため、怒ってその母親に申し上げた。
信幸「あの程度の烏合の衆、百万騎でも物の数ではありません。ご安心を」
と鎧の上帯を締め直し、十文字の槍を取り、勝頼公より賜りし甲州黒にまたがり、
手勢二百人を五十人、五十人、百人に分け、鬨の声をあげさせた。
盗賊たちは、さては落人ではなく尾張勢であったかと思い、逃げ去っていった。
(その後、無事味方と合流し、信幸一行は戸石城におちつく。)





真田信之・幸村兄弟の、噛み合わぬ意識

2013年03月01日 20:11

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/01(金) 00:02:30.46 ID:5c9UZQ3g
大阪冬の陣が始まろうという時、大御所徳川家康は真田幸村が大阪に入城したことを知り、
その兄である伊豆守信之に、駿府での留守居を命じた。
この事を信之は大変不本意に思い、家康に対し様々なお断りを申し上げた。

この頃信之は書によって再三、幸村へ異見をなしていた。

『父祖のため家のため、である。
去る庚子の乱(関ヶ原)の時には、私の身の上に変えて其の方の命を助けたのだ。
今もしお前がその時の恩義を思うのなら、速やかに切腹をすべし。
お前の息子の大介のことは、私が責任をもって引き受ける。』

しかし、幸村からの返事はなかった。

その後に、幸村は信之の家臣である木村縫殿を密かに呼び、大阪城内の
一室において密会し、このように語った

「私がこの大阪城にあるのは、父上の遺言を守ったというだけではない。兄上への恩義も考えた
上なのである。

今回の合戦で、秀頼公がもし御運が開かれることになれば、私には一国を給うという御証文を
頂いている。私が仮に功を立てて一国を拝領したとしても、それを我が嫡子大介に与えようなどと
考えてはいない。兄上の子である河内(信吉)と内記(信政)の両人の内一人を我が養子とし、これに
一国を与えて先年、我が一命を助けていただいた厚恩を謝せんと思っているのだ。

であるからして、私がこの城に入った事は自分の栄達を思ってのことではない。
また家康公の方でも、私が敵対したからといって兄上の領地を削るということもないであろう。

こういうつもりで私は籠城に及んだのだ。お前は帰って、この旨を兄上に伝えてほしい。
しかし、重ねてここに来ることはならぬぞ!」

そう言って木村を返したそうである。
(慶元記)

真田信之・幸村兄弟の、噛み合わぬ意識をよく表わした逸話である。




790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/01(金) 10:33:35.10 ID:SKX271fp
>783
東のお兄ちゃんの胃がキリキリと。w

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/01(金) 13:50:05.90 ID:gOOxG2rY
>>783
KYな弟が言う事を聞いてもその嫡男を抱えて胃痛が進行してたんだなw


足軽の妻にはどうしても聞いておきたいことがあった

2012年09月14日 20:31

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/14(金) 00:41:33.73 ID:QVL12HlA
大坂の陣の後…
信州真田家に仕える玉川伊予守の足軽が大病を患いった。
そしてこの足軽の妻には何十年と連れ添った夫に対してどうしても聞いておきたいことがあった。

「貴方は年毎に伊勢へ代参しましたが、出立の前夜には
 貴方は伊予守様と二人で一晩中話されていました。
 さらに同じように伊勢へ代参する人より七日や十日も遅れることが八回もありました。
 このわけを教えてください。」

この妻の問いに対し足軽は始め無言だった。
が、いよいよ危なくなった足軽は妻を呼び戻して語りだした。

ある時足軽は玉川伊予守の伴として二人で伊勢へ代参した。
二人は代参の後熊野へと向かう。民家民家がない山道を二日も行くと、岩屋へと着いた。
玉川伊予守は足軽を口元に残して岩屋へ入っていき、一夜そこで過ごして帰った。

その後は毎年正月になると足軽は一人で熊野の岩屋へ行くことになった。。
いつも『上』とだけ書かれて封じられた鳥目十疋ほどの重さの状箱を持たされて
正月の十五日から末の間に岩屋へ着き、一日か二日口元で待る。
すると中から帯まで真っ白な総髪を垂らした七十ほどの翁が出てきて、無言で封状箱を受け取る。
一夜過ぎると返礼らしく『参る』と書かれて封じられた状箱が返され
信州へ戻り状箱を玉川伊予守へ渡して足軽の役目は終わる。

これらのことをしてから一時ほどして足軽は死んだ。




458 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/09/14(金) 12:42:20.61 ID:aI7Dyn3B
岩屋に誰か隠れ住んでたってこか?

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/14(金) 13:44:13.20 ID:/riK4bBE
誰だろ?真田のパパンとかは九度山だしな・・・

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/14(金) 13:53:29.26 ID:fDVJvPNN
誰か、とはいわんや…

岩屋だけに

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/14(金) 14:07:17.34 ID:hIlXJNGm
>>458
信繁生存伝説とかじゃない? 鬼のような形相の信繁が、
姫のような秀頼を抱えて云々という伝説の続きみたいな感じの

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/14(金) 14:46:20.54 ID:9RdCluZd
小説からの抜き出しかと思ってしまうな

鈴木右近はケチだった。三話

2012年07月17日 20:50

533 名前:1/3[sage] 投稿日:2012/07/16(月) 23:46:54.86 ID:LdB3vkF6
鈴木右近はケチだった。
主君の真田信之に似た(?)のか、広大な屋敷地を拝領したは良いが、敷地にぐるりと竹垣を巡らして他人の
出入りを禁じ、季節ごとに行う垣根の補修も人足を雇わず、中間や領民をコキ使っていた。

「そんな中で八助よ、お前はこの右近の心に叶い、律儀に働いてくれるのう。」
「へへーっ!有り難うございます。」
「よし、この際だ。お前に加増してつかわす。年末を楽しみにしておれ。」

そして、その年の暮れ。右近に呼び出され、ワクワクして主人のもとにまかり出た八助の前に、
年給と別の包みが差し出された。「そら、加増分じゃ。」

包みには銭が百文、入っていた。

「・・・・・・」
「なんじゃ、その顔は。あのな、我が殿は十数万石の大名なれど、侍の加増は十石二十石よ。それを思えば、
わしなんぞが百文の加増をつかわすなど、おびただしき事ぞ。有り難く思えよ。」
「・・・・・・」




534 名前:2/3[sage] 投稿日:2012/07/16(月) 23:47:52.71 ID:LdB3vkF6
鈴木右近はケチだった。
餅が間食に・携帯食にと、年中作っておくのが当たり前だった時代に『米の費えが、かさむ』と
正月以外は餅つきを許さない、という有様だった。

若党八人、中間等二十数人、下女等十数人を使い、若い者も多い右近の家中がそれで収まるはずもなく、
見かねた右近の妻が用人の一場太兵衛に命じて、深夜二時ごろにコッソリ餅をついて配っていた。


さて、右近は毎朝五時に起きて支度し、六時に食事、家内の所用・指示を済ませて八時に登城、という
規則正しい生活を送っていたが、ある日のこと、餅をつく音に気づき、深夜目覚めてしまった。

「太兵衛よ、あれは何の物音じゃ?」
「・・・ははっ、あれは中間どもが、薪を割る音にございます。」
「こんな遅くまで働いておるとは感心だのう。中間に酒を振る舞ってやれ。猪口で三杯、な。」

太兵衛に振る舞い酒を命じた右近は再び眠ると、翌朝はいつも通りの規則正しい生活に戻り、登城していった。


「太兵衛、旦那様はもう、ご登城されましたか?」
「はっ、奥方様。」
「よろしい。では、あとで皆に酒を振る舞ってあげなさい。茶碗や木椀で、ね。」
「はっ、奥方様。」




535 名前:3/3[sage] 投稿日:2012/07/16(月) 23:48:41.38 ID:LdB3vkF6
鈴木右近はケチだった。
それなりの給金を出して中間等を雇ってはいたが、金銭・物品の出し入れの細部に至るまで右近の監視を受け、
『どうにも気が詰まる』と、年季が明けるとすぐ辞めてしまい、二年と雇われる者は稀だった。

「そんな中で八助よ、お前は良く続けて働いてくれるのう。」
「そりゃあ、一応加増していただいておきながら、人並みに辞める、なんてマネはできませんや。」
「うーむ。その心意気、見事!これをくれてやろう。着物の一つも作るが良い。」

右近が褒美として八助に、目にも鮮やかな反物を与えてやった、しばらく後のこと。

「どうじゃ八助よ、あの反物は仕立ててみたか?」
「・・・はっ。」
「歯切れが悪いの。・・・まさかお前、主人からの拝領品を売ってはおるまいな?仕立てた着物を持って来い!」

さっそく八助は、仕立てた着物を着込んで戻ってきた。

「なんじゃ、その着物の丈は。ツンツルテンではないか。やはりお前・・・」
「い、いえ!この通り!」
八助は懐から一尺四寸ほどの、着物と同じ柄の手ぬぐいを取り出して見せた。

「それでも、これほど着物が短くはなるまい。有り体に申せ!」
「お、恐れながら!」

八助が前をくつろげた。そこには着物と同じ柄の、目にも鮮やかな六尺フンドシが締めこまれていた。
「・・・なんちゅうケチじゃ。お前のような者は日本に二人とおるまい。」

『流石質素の右近も、此八助には及ばざると思ひたるとみえたり』と、真田家御事蹟稿は結んでいる。




536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/16(月) 23:54:08.96 ID:kx+wRB9H
反物を全部着物に使ってたらそれはそれでなんだかんだ言いそうな気がw

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/17(火) 00:50:05.76 ID:+GMXheMF
右近さん禄高どんだけ貰ってたんだろ?
あと柳生新陰流は松代で披露したんかね?


538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/17(火) 06:09:10.37 ID:aej02PQb
>>537
1657年の分限帳には500石と書かれている

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/17(火) 09:53:53.00 ID:rYLXF28X
>>538
500石の割に人は多い…のかな?

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/17(火) 12:14:55.73 ID:QOJ15MRf
十万石クラスの大名の家老が500石ってかなり少ないような

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/17(火) 12:25:52.98 ID:QOJ15MRf
と思ったけど調べてみたらそうでもなかった
忘れてください

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/17(火) 18:29:53.43 ID:jpO8CV/W
いつの時代も類は友を呼ぶんだね

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/17(火) 20:53:29.45 ID:DiOFImt+
これケチじゃなくて贅沢だろw

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/17(火) 21:48:59.41 ID:3+YgdTAA
江戸っ子は見えないところに金を使うって話だ(落語の蛙茶番とか)
信州っ子はしらんが

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/17(火) 22:12:20.34 ID:YDLOSd8z
右近は上州っ子


546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/17(火) 22:50:25.07 ID:JOyTGdHS
>>535
のちの勝負下着か