fc2ブログ

ちょっと都市伝説風味の話

2023年03月20日 19:53

726 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/19(日) 18:45:51.31 ID:3oOcadZo
いい話かは微妙だが、秀頼つながりで。秀頼が薩摩に逃げ延びたという話が譚海にあったので。ちょっと都市伝説風味の話。

阿波の南の海から薩摩へはほど近く、船でたやすく一日で往復できる。それゆえ昔は阿波の漁師が釣りをしながら薩摩まで行き、そこで休息して阿波に帰るといったことが時々あり、自然と知り合いもできて、船を寄せて煙草の火をもらったりもするようになった。その船をよせる場所は薩摩の南海の浜辺で、岸の上には厳重な番所のようなものがあった。とはいえ、海のすぐそばで番人も一人か二人、人のいない寥々たるところで、何を守っているかも定かではない。そんなところだから、阿波の漁師たちも気楽に世間話をしにたびたび集まって番人たちと仲良くなった。

 ある漁師が船を寄せた時のこと。番人は一人もおらず、しばらく待っても誰も来ないので、火をもらいに岸に上がり、番所の中へ入った。すると、いつも閉めている番所の後ろの扉が今日は開いている。何だろうと思って何の気なしに入ってみると、綺麗に掃除が行き届いていて人っ子一人いない。びくびくしながら奥に進むと、大きな石の五輪塔が二、三基ある。不思議に思いながらさらに進むと、最奥に美々しく作った五輪塔が一基あって、神廟か何かのようにしてあった。ほかには何もないので船に戻って待っていると、いつもの番人が薪を背負って山から帰ってきたので、船から上がって雑談をした。
ふと、「この奥にあるお墓のようなものは何ですか」と尋ねると、番人大いに驚いて「あなた方、あれを見られたのか。あれは非常な秘事なので、決して口外しないでください。今日はあそこの掃除をした後、山へ木を刈りに行ったので、つい鍵をかけ忘れてしまった。とにかく、決して口外なさいますな」と何度も念を押した。漁師たちもさては豊臣秀頼のお墓をはじめ、真田左衛門尉、そのほかの人々の墓なのであろうと心づいた。こののちは、番人たちも心掛けて漁師と親しくせず、決して他国の船が岸に寄せるのを許さぬようになったということだ。



スポンサーサイト



「武家閑談」から真田大助

2023年02月22日 19:04

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/21(火) 20:27:41.98 ID:bL5twcMw
「武家閑談」から真田大助

五月七日の合戦前に真田左衛門佐(真田信繁)は秀頼公が御出馬されないため、子息大助を人質に城へ置き、自身は出陣することにした。
大助は十五歳であったが
「父上はお討死を決意されているようです。
私は父母の懐に生まれてより、これまで片時も離れずいました。
去年、大坂城に入る時に母上とは生き別れ、その後の母からの文でも
「互いに会うことはもうないでしょう。
どうか父の御最後を見届けなさい。生きようとせず、同じ枕で討ち死にして真田の名を挙げなさい」
と常々言われております。
ただ今父を見捨てて城に戻ることはできません」
と左衛門佐の袖に取り付いて泣いた。
左衛門佐も真田の軍兵も泣かぬものはなかった。
左衛門佐は涙を拭い、はったと大助を見つめて
「武士の家に生れた者は忠義名利を大切にして父母を忘れ、自分の身を忘れるものだ。城へ入れ。
秀頼公御屋形の御側で死ねばすぐに冥途にて巡り合うだろう。
暫時の別れを悲しむのは弓箭の家に生まれた者として甚だ未練がましい。早く城へ入れ」
と取り付く手を引き離すと、大助は名残惜しげに父を見て
「さようであればお城に参ります。来世でまたお会いしましょう」と別れた。
左衛門佐は気にしないふりをしていたものの、涙で東西がわからぬほどであった。

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/21(火) 20:29:36.12 ID:bL5twcMw
大助は城に入り、郎等たちを拒み、ただ一人で秀頼公の御供をして芦田曲輪の朱三矢倉へ籠った。
七日の朝食時から翌八日の午の刻まで、秀頼公とその御供三十二人は矢倉に詰めていた。
大助は父の行方を気にして、城中に逃れた人に父について尋ねたところ
「真田殿は天王寺前で大勢の敵陣に駆け入り、馬上で戦い、そののち槍十本ほどに槍玉にかけられてお討死されました」
と詳しく申す者があったため、大助は涙をおしぬぐい、
母と別れた時「最期にはこれを持って討ち死にせよ」と渡された水晶の数珠を取り出し、念仏を唱えた。
こうして秀頼公の御自害を待っていると、速水甲斐(速水守久)は不憫に思い
「貴殿は一昨日誉田の戦いで股に槍傷を負ったと聞きます。
療養のためにここを出なされ。真田の縁者のところまで送り届けさせましょう」
と言ったが、大助は返答せず、念仏だけを唱えた。
八日午の刻、秀頼公は御自害なさり、供の男女三十二人も自害し、矢倉に火をかけ同じ煙に昇った。
大助も腹を十文字に掻き切り自害したため、見る人聞く人「さすが武士の子孫である」と誉めぬものはなかったという。



「武家閑談」真田信繁の大坂城入城

2023年02月02日 19:58

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/02(木) 19:32:25.06 ID:y38eWKJL
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-476.html
の元だと思われる
武家閑談」真田信繁の大坂城入城

真田は大坂に着き、その身のまま大野修理(大野治長)殿のところに行く。
その頃は伝心月沢として薙髪であり、玄関で案内を乞うた。
奏者が出てきて「山伏はどこから来た?」と尋ねてきたので
真田はわざと「大峯辺の山伏であります。御祈祷の巻数を持参いたしましたので御目見を願います」と言った。
奏者は「殿は城におられるのでこちらに通るがいい」と番列の脇に呼び入れられた。
御目見を待つ若侍たちが十人ばかりいて、刀剣の目利きをしていた。
一人が真田に向かい「御僧の刀を見せてくれぬか?」と言ったため
真田は「ただの山伏の犬おどしの刀ですのでなかなかお目にかける必要もありますまいが、お慰みになれば」と取り出した。
するりと抜いて柄を見れば、格好は申すにおよばず、刀の匂いも艶があった。
若侍たちは「さてもさても見事なり」と口々にほめ、「中小身はどうだろう」と銘を見ると「貞宗刀匠正宗」とあり、「中小身も見事だ」と言いあった。
ここで皆々怪しみ、さては只者ではないだろう、と思っているところに大野修理殿が城より帰った。
奏者が「玄関にて御目見なさってください」と待っていたものたちを引き出してきた。
大野は真田の前に手をついて「近日お越しになるとは伺っておりましたが、御足労くださったとは。
いそいで城に戻り秀頼公のお耳に入れましょう。どうぞ舎院にお入りください」と言って城に馳せ戻った。
さて秀頼公より速見甲斐守(速水守久)が使いとして馳せ参じ、黄金二百枚、銀三十貫目を下された。
これを見た玄関の若侍どもはあきれかえった。
真田はおかしがったため、そののちその若侍たちに会っては「刀の目利きは当たっていたようだな」と言うと、皆赤面したという。




611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/03(金) 11:53:24.30 ID:+VrU+S7l
わざわざ正体を隠すとは性格が捻じ曲がった奴だな
そんなクズでも正体を見破り粛々と対応した修理はさすがだ

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/03(金) 14:34:43.05 ID:LD9TP4LV
いきなり真田左衛門佐であるといったとこで、顔を知ってる分けない衛士たちが、はいそうですかと通すわけもなく、軽く弄うてやろうとなるのは仕方ないんじゃないかな
話を作った人はそう考えたんだろう

「武家閑談」から真田信繁の九度山脱出

2023年02月01日 19:48

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/01(水) 18:55:20.52 ID:+Gwn3Mrn
武家閑談」から真田信繁の九度山脱出

真田左衛門佐幸村(真田信繁)は父安房守昌幸といっしょに高野山九度山に配流され、昌幸は慶長の末に死んだ。
左衛門佐は一人九度山に住んでいたが、大坂の陣の初め、秀頼公より大野修理亮治長が承り、大坂城に籠れという御言葉を賜ったため支度した。
紀伊国守の浅野但馬守長晟は橋本峠村近辺の百姓どもに下知し
「世上の噂に、真田左衛門佐が大坂への返事をしたと聞く。油断あるまじき」と触れを出した。
高野山学匠ならびに宗徒にも九度山からの遁人監視を申し付けた。
真田幸村は九度山近辺、橋本峠、橋谷の庄屋から小百姓にいたるまで残らず振舞おうと触れをまわし、九度山に招いた。
数百人の並いる者たちに対しさまざまに饗応し、酒を出し、上戸も下戸も問わず酒を強いること斜めならず、皆酔って臥せて前後不覚となった。
この時、百姓どもが乗ってきた馬に荷をつけ、妻子を乗物に打ち乗せ、上下百余で弓鉄砲を持って押し立て、紀ノ川を渡り、橋本峠、橋谷を通り、木目津を越し、河内に入り、大坂にむかって行った。
道筋の百姓どもは残らず九度山に行って酔い臥していたため、残っていたのは女子供だけであった。
しかも真田は槍や刀を抜き、鉄砲に火縄をさしていたため、とうてい止められるものではなかった。
さて百姓たちは明け方に酔いから醒めたが、見れば宿屋には一人もおらず、雑具まで取り払われ跡形もなかった。
これは出し抜かれたと東西を尋ねたが、昨晩のうちに立ち退いたため追いつくはずもなかった。
橋本峠、橋谷の己の家に帰り、家族に尋ねると
「昨夜の八つ時に真田殿が奥方や子連れで馬に荷をつけ、弓鉄砲を押し立てて河内の方へさして行きました」
と告げたため、百姓どもはみな頭を掻いたがどうにもしようがなかった。



「武家閑談」から第二次上田合戦

2023年01月31日 19:23

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/30(月) 19:59:21.02 ID:r6sM9i9Y
>>576の続き
武家閑談」から第二次上田合戦

本多正信からの下知により攻め手を引き、牧野康成も中の手に向かって下がっていたところ
真田昌幸は信賀(原註:真田幸村)ら八十騎と、物見をおびき寄せに出てきた。
牧野康成とその子、牧野忠成はこれを追いかけた。
真田兵の湯田又右衛門ら十余人がしんがりをして退いた。
牧野康成の兵の雨尾又六、辻茂左衛門、今泉次郎作、福島九太夫らがなおも追いかけた。
この時、二町ばかり先で真田父子と真田兵八十ばかりが手鼓を打って高砂を謡った。
榊原康政はこれを見て「さても悪しき仕方である。こちらを屑(もののかす)とも思っておらぬ」
と馬を引いて手勢二千余で真田の跡を切り取らんと駆け、渡辺重綱は道筋に鉄砲を撃ち込んだ。
真田父子・侍は色めきだち松沢五左衛門に榊原康政軍への備えをさせ次々と城内に退いた。
こうして真田に高砂を途中で切り上げさせて城中に追い払ったところで、再度引き取るようにという下知があった。
榊原康政、牧野康成も引き取り、軍評定があって関ヶ原への進軍が決まった。
こうして森右近大夫(森忠政)、日根野筑後守(日根野吉重)、石川玄蕃頭(石川康長)を真田表に残し、秀忠公は美濃へお急ぎになられた。
木曽へは本多正信隊は和田峠を避け回り道し、榊原康政の一手の二千騎は旗を押し立てて和田峠を越えた。
こうして真田の策は天の与えと伝えられているが、一人も欠けることなくことごとく秀忠公に奉侍した。

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/30(月) 20:15:34.60 ID:r6sM9i9Y
というわけで巷間伝えられている第二次上田合戦と比べると地味な感じではある。
秀忠軍が大敗北したとしても書けないだろうけど、徳川方の上田七本槍の活躍も盛られてなさそうだ。
ついでに上田七本槍の中山照守の父親は>>530の中山家範で中山照守も八条流馬術の名手(将軍家指南役?)
小野忠明は小野流一刀流の開祖で秀忠の剣術指南役



渡辺幸庵が見た戦国武将

2022年09月26日 16:46

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/25(日) 21:47:46.27 ID:2kIRZglE
渡辺幸庵対話』より
130まで生きた怪老人、渡辺幸庵が見た戦国武将

・家康の悪口
権現様は無筆同然の悪筆だった
三河の宝蔵寺で手習いをしたそうだが、せいぜい「いろは」くらいのものだ
自筆でないといけないときだけ「ほつほつ」(ぽつぽつ)と書かれた
それゆえ、御判も「きたなき」御判だった

・三斎様の奇抜な料理
細川三斎は中古の茶の湯者である
茶菓子に能登の「鯖刺」(シメサバか)の頭を切り、折敷に椎の葉を敷いて、「著」(箸か)を添えて出していた
塩出しと切り方に口伝がある

・大坂夏の陣秘話と家康の強がり
真田左衛門佐(信繁)は強き大将で士卒も勇壮だった
ただ、徳川の備えが敗軍したのは真田の勇気ばかりではない
寄せ手は太陽に向かって戦ったので働かず、真田は太陽を背にしてこちらをよく見分けて戦ったからだとささやいて神君も生玉まで退いた



士たる者は、平生より

2022年06月27日 16:03

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/26(日) 22:05:18.83 ID:mmbd0jN2
真田左衛門佐信仍(信繁)(本書に、世に幸村と云うは誤りなりと云々)は、家康公に御敵対申す始めより、
千子村正の大小を常に身を放たず帯していたという。村正の道具は、徳川家に祟るという説を真田が聞いて、
調伏の心としたのであろう。士たる者は、平生よりこのような忠義を含み、心を尽くすべし。

また石田治部少輔(三成)は悪しからざる者である。如何なる人であっても、各々その主人のために
命を軽んじ、義を立てて事を行う者は、敵であっても悪むべきではない。これは君臣共に心得るべき
事である。

これは水戸黄門光圀卿は宣われた事だという。

新東鑑



真田はこの兜を着け、件の馬に乗って

2022年01月26日 17:21

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/26(水) 11:06:52.44 ID:WTGde5Db
記に、この頃武田信玄の家人であった、原田隼人正(一説に貞胤と諱するとあり)という者が在ったが、
勝頼滅亡のあと、浪人していたのを、越前少将(松平)忠直朝臣聞かれ、「彼は無双の剛の者なれな」と、
召し抱えられ、黒母衣の衆に加え軍使とされていたが、彼は真田左衛門佐と旧友であった。

大阪冬の陣が御和談になると、真田は頻りに彼を招いたが、原田は「自分では判断できない。」として
忠直朝臣にお伺いを立てた。忠直は「行って対面すべし。」と許された。

原田隼人正は喜んで、真田の陣屋に至ると、左衛門佐は様々に饗応し、往時などを語り、互いに袖を濡らした。
酒宴も終わると左衛門佐は言った

「それがしは今度討死を遂げるのだと思っていたのだが、不慮の御和睦となり、今日まで命を永らえ。
貴殿と再び見参できたことに悦び入っている。身、不詳では有るが、今回一方の大将を承ったことは、
生前の面目、死期の思い出と存じている。

御和睦も一旦の事であり、遂にはまた一戦があると推量している。
それがしも一両年の間には討死せんと思い定め、臨終の晴に、あそこの床の上に飾り置いた、
鹿の抱角(だきつの)を打った冑だが、あれはそれがしが先祖重代の家宝であるのを、父安房守より
譲り請うたものであり、これを着けて討ち死にを遂げたいと思っている。
もし、この冑をご覧に於いては、それがしの首であると思し召され、一遍の御回向に預かりたい。」

そのように語ると、隼人正はこれを聞いて
「戦場に赴く身は、誰が生き残ろうとするだろうか。遅れ、先立つとも、互いに冥土にて再会すべし。」
と笑った。
その後に、左衛門佐は白河原毛の馬に白鞍に金を以て六文銭を付けたものを曳き出させ、自ら騎乗して
地道を乗りながら、

「今度合戦があれば、城郭は破却されており、平場の戦と成るだろう。然れば平野辺りに駆け出て、
東国の大軍に馳せ合わせ、この馬の息の続く限り戦って討死を遂げようと存じており、そのために一入、
この馬を秘蔵しているのだ。」

と言って馬より下り、また酒宴になり、暮れに及んで隼人正は帰ったが、翌年五月七日、真田は
この兜を着け、件の馬に乗って討ち死にしたことこそ哀れであると云われた。

新東鑑



983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/26(水) 11:16:19.69 ID:ZiC+auCQ
新東鑑の凡例を見ると「記とは難波戦記をさす」とあり
増補難波戦記「禁裏より七箇条を仰出さるる事 并真田幸村原貞胤の事」にほぼ同じ話があるので
出典はそちらの方がいいかと

豊臣家二世にして、亡ぶべき時至る

2022年01月25日 17:00

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/24(月) 20:30:23.62 ID:mtcjsHOY
大阪冬の陣の和睦の時のこと

或る本に、この時真田左衛門佐(信繁)は秀頼公を諌めて

「敵味方、甲冑を脱ぎ万歳を唱えています。
今宵、敵の虚に乗じてこれを討てば勝利必然であり、両御所(家康・秀忠)を打ち取ること、
掌の中です。」

そのような事を申したが、淀殿の仰せに
「今日和議を約したというのに、言下に違変などできるわけがない。」
と、御承引無かった。真田は再々諌めたが、織田有楽、大野修理亮などは頻りにこれを制止した。

そのような中、真田は間諜を以て両将軍の陣営を窺ったが、それによると両御所も予めこれを慮って、
三軍の守りは非常に厳整であり、もし誤って城兵が夜襲すれば、たちまち粉々にされてしまうだろう、
との事であった。

これを聞いて真田も大いに感じ、豊臣家二世にして、亡ぶべき時至るを嘆いたという。

新東鑑



287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/24(月) 21:34:08.49 ID:HJjNCmQ0
ええと、つまり真田のこわっぱ程度の悪だくみなど、
神君はまるっとお見通しだったって悪い話?

然らば止めるべし

2021年12月28日 18:20

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/28(火) 13:55:24.70 ID:ZP7pgeZ4
異本に、大阪冬の陣の最中、千賀孫兵衛の言上に、「穢多村の葦島に敵が重なっているようで、
ひたすらに鉄砲を打ち出しています。早々に御攻めあって然るべし。」と報告があった。
これによって大御所(徳川家康)は、明(十一月)二十八日に御巡見あるべしとして、
本多上野介(正純)、菅沼左近(定芳)、山岡主計(景以)、その外船奉行衆に仰せ付けられた。

実は真田幸村(信繁)は、予てよりこの葦島に足軽を出し、折々鉄砲を打たせれば、きっと両御所(家康・秀忠)
の御巡見があるだろうと謀り、もし御出あらばその時、鉄砲の手利きの者を以て打ち奉らんと思い、
御本陣の辺りに間者を置いて両御所の様子を探らせていたのであるが、この者が明日、大御所が福島、新家
辺りまで御巡見されると聞き、走り帰ってその旨を告げた。そこで真田は翌二十八日、鉄砲の上手百人、
小銃の上手五十人を選んで小舟に乗せ、葦間葦間に深く隠し、大御所の御船を今や遅しと待ち懸けた。

一方大御所は、そろそろ御出あるべしと御供の面々、各奉行が用意をして待っていた所に、本多上野介が
南光坊(天海)を伴って御前に出て、今日は不吉の由を言上した。(或る説に、これは大阪方からの
内通によってであると云う)
家康公はこれを聞き召されて「然らば止めるべし。然れども諸軍勢はこの急な中止を疑うのではないか。」
と仰せになった。正純は思い廻らせ、「明二十九日に勅使が下向されることになり、このため巡見は
御延引となった、と触れるべきでしょう。」と申し上げた。そして正純を以て葦島の巡見を仰せ付けられた。

これによって真田の謀は空しくなったという。

新東鑑

大阪冬の陣で家康が真田信繁の謀略を避けたというお話。



安房守については「表裏の士」であると

2021年07月30日 18:50

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/30(金) 15:45:51.63 ID:B1SsKwpE
信州上田の真田安房守(昌幸)は上杉景勝公の御留守中に、太閤(秀吉)家臣の大谷刑部少輔(吉継)と
内縁の筋目が有ることを以て、大谷に頼り才覚仕り、次男源次郎(信繁)を秀吉に差し上げ、
景勝公との関係を引き切った。
彼が総領である伊豆守(信之)を自分の所に差し置いていたのは、安房守は老巧であり、末を考え、
今後権現様(家康)へ進上仕るべしと思案し、よって次男を太閤に差し上げたのだという。

こう言った事であったため、太閤に対し景勝公より御断りを仰せ入れられ、源次郎の身柄を
是非お返し下されるようにと訴えたが、太閤に大谷が能く取り繕った故に、太閤より様々に
御詫言が有ったことで、事済んだ。

これ故に安房守については「表裏の士」であると、彼を咲わない者は無かった。

管窺武鑑

上杉も真田昌幸には相当思う所あったんだろうな。


真田の詫び言を御許容され

2021年07月15日 17:58

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/15(木) 14:23:05.84 ID:tKhjrNPc
天正十年、本能寺の変後、信州の真田(昌幸)、小笠原、蘆田らは上杉に降ったが、すぐに北条に随心し、
真田はまた北条を背いて、家康公に属した。これによってその年の極月より翌年まで、上州沼田を始め、
八ヶ所の城を乗っ取り、剰え北条家との数度の攻め合いに真田は勝利した。大いなる誉れである。

その翌年、天正十二年、家康公と秀吉公は御弓箭を取り給う時(小牧長久手の戦い)、北条家は
家康公より加勢を乞われたが、北条氏政・氏直は表裏の大将故遅達した。
この年の御取合はその度毎に家康公が御勝利し、秀吉公は退散された。
これによって、その年、天正十三年春、北条より家康公に仰せ入れられた

「羽柴と重ねて御取合となった場合は、加勢致すであろう。しかし先年(天正壬午の乱の)和睦の時、
上州は北条家に賜るはずの所、真田は沼田を取って保持している。それをこちらに渡すように、
仰せ付けられ下さるべし。」
との儀であった。

これによって家康公より、「沼田を北条に渡すように」と仰せ遣わされたが、替えの地を真田に
下されなかった事で、沼田を渡さず、ここに於いて真田昌幸上杉景勝公に、須田相模守、島津淡路守の
両人を頼んで訴え申し上げた。

『先年志を翻し、北条に頼った事は、愚意の仕る所であり、これについて述べるにも及びません。
しかし、もし御赦免頂けるに於いては、当年十八歳になる愚息・源次郎(信繁)に、百騎を差し副えて
永代御被官仕り、春日山に差し上げ申します。

これこれの仔細を以て、家康に対し野心を挿んだために、家康より上田へ手遣いがあるでしょう。
この時貴国より、御加勢を請け、御助成を得たいと思っています。然るに於いては、今後は
御屋形(景勝)に対し、悪意を存じまじき」

という旨を、牛王誓詞を添えて、新発田表の御陣所へ申し越した。

景勝公はこれを聞かれると、仰せに成った
「真田の事、先年上杉に背いて北条に従い、北条を非に見て、家康に降り、今度は家康に不足を言い、
家康より打ち手到来という状況になって、現在近辺に頼る者が無くなってしまったことで、又この方に
申し越してくるというのは、万策尽きての儀であると考える。

しかし、武士は大小共に頼み頼まれて、家が絶えないように分別するものである。
今回、私が同心しなかった場合、十方より敵を受け、殊に名将である家康に対し盾を突いたのだから、
真田の滅亡は疑いない。それを見捨てるというのは、一つには不憫であり、また一つには景勝の
弓矢の規範とも異なる。その上加勢を遣わさなかった場合、小身の真田を見捨て、大身老巧の家康に
気兼ねをしたのだと評価されるだろう。」

と仰せになり、真田の詫び言を御許容され、御加勢なさると堅諾された。これによって新発田表より
御帰陣された。

管窺武鑑

上杉景勝は何事につけても面目とかプライドを大事にする話が多いですね。



「真田次第」との御諚を承れば

2021年07月03日 17:32

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/03(土) 11:34:41.30 ID:+DRaKY/T
大阪城に於いて軍評定の時、真田左衛門(信繁)がこう申した

「旧冬の御和議は、至極残念でした。旧冬まではこちら方に心を通じる大名もあったのに、
御和議となり、惣堀まで埋め、皆悉く降参のようになりました。

大御所(家康)は名将であり、衆心を摂り、旧冬の働きも、軽き功を重くし、小さいことでも大きく
感じ給う故、上下ともにいよいよ親しみ付いていまる。

さて又、京、伏見へ発向し、膳所、大津は手勢を遣わし、瀬田の橋を焼き落とし、京、伏見を
確保してしまえば、その内に味方に通じる衆も有るはずですが、味方の密談は敵に漏れており、
この儀も成りません。

野戦をしようにも、味方は小勢であり寄り合い武者ですから、中々勝利は得難いでしょう。
御籠城なさる外に手立て有りません。

であれば、我等はいかにも怯懦の体を示し、それによって『大阪方は臆して戦いに出てこないのだ』と
敵に思わせれば、彼らに驕る心が出来ること必定です。

驕りが出来れば軍法が乱れます。その節を見て、秀頼様が大広間に御出になり、面々に御抔を下され、
御言葉に預かれば、衆心一統し、一戦を望むのは勇士の本意です。
その時、「真田次第」との御諚を承れば、私が両御所(家康・秀忠)の御陣場を見定め、彼らの不意を
突いて、又は夜戦の奇変、それがしの一身の采配にて御座あるべし!」

そう申した所、譜代衆その他、「自分こそ総大将を」と思う輩も多かったため
「真田の只今の言葉、我々を差し置いて総人数の采配は推参至極なり、耳の穢である!」
と謗る故、内輪の破れと成り、互いの権争のため評定不調となった。

管窺武鑑

大阪夏の陣では、みんな総大将をやりたがって方針が纏まらなかった、という話ですね。



真田一人の出丸のように

2020年12月10日 16:51

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/10(木) 02:05:05.67 ID:bcPmQbhp
大阪冬の陣で、八町目に有った真田ヵ丸と申す出丸は、長宗我部と真田が
半分に割って持っていたのであるが、世間は真田一人の出丸のように風聞している。

長澤聞書

今でもそうだな



482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/10(木) 11:19:31.97 ID:rQHSFasw
長宗我部は長いから
短い真田でいいや
ってことだったり

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/10(木) 17:15:20.90 ID:WqAn93fS
長宗我部は名前が当時的に呼びづらいか認識しづらいで公家の日記でめっちゃ読み間違いされてなかったっけ

ちょうすがめ・・?ちゃうすかめ・・・?もういいわ!真田丸!
ってなったかもしれない

大阪夏の陣、戦闘が終わった後の出来事

2020年10月04日 17:10

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/04(日) 12:11:40.63 ID:ODrWroWV
慶長二十年五月八日
辰刻(午前八時頃)、片桐市正(且元)の使者が言上した所によると、秀頼并びに御母(淀殿)は、
大野修理(治長)、速水甲斐守(守久)をはじめ、その他究竟の士と共に二之丸帯曲輪に引き籠もって
いるという。幕府(秀忠)は使いとして安藤対馬守(重信)に参上するように申し、彼に
「秀頼并びに御母、その他が帯曲輪に籠もっているが、彼らに切腹を申し付けるよう。」と仰せに成った。
午刻(正午)に井伊掃部助直孝を召し、秀頼母子、その他帯曲輪に籠もる者達は切腹有るべしと
仰せに成ったという。

(中略)

また戦場に於いて首実検があった、真田左衛門佐(信繁)首、御宿監物首、大野道犬首を、
越前少将(松平忠直)が持ち来たという。

十一日
長宗我部宮内少輔(盛親)が八幡あたりに置いて蜂須賀蓬庵(家政)の従者によって生け捕りにされ、
二条御所西御門前に、長宗我部は搦められたまま晒された。諸人これを見て「猪のようだ」と言ったという。

十二日
今回の大阪からの落人が国々に逃げ散っているため、これを速やかに搦め捕って引き出すようにと、
諸代官、守護、地頭に仰せ遣わされた。
今日、秀頼の息女(七歳)が京極若狭守(忠高)によって探し出され捕らえられたとの注進があった。
秀頼には男児が有るとのことも内々に聞き召され、急ぎ尋ね出すようにと、所々に触れられた。

十四日
今日、大阪奉行であった水原石見守が、二条御所の近辺に忍んでいるのを訴える人があり、
藤堂和泉守(高虎)が討手を遣わした所、石見守は覚悟を致してこれと戦い、寄手三人が切り伏せられ
戦死した。そして石見守の頸は西御門前に晒されたという。

十五日
今日、長宗我部宮内少輔が一条の大路を渡され、六条において梟首、三条河原に晒された。
また大阪残党七十二人が、粟田口、并びに東寺辺りで梟首されたという。

二十日
大野道犬が大仏の辺りで生け捕られ、真田左衛門佐妻が、紀州いとの郡に忍び居たのを、浅野但馬守(長晟)が
これを捕らえ差し出した。真田は黄金五十七枚を秀頼より給わり、また来国俊の脇差を所持していた。
これは御前に差し出されたが、但馬守が賜ったという。

二十一日
秀頼の子息(八歳)、伏見農人橋の辺りに忍び居た所を捜し出され、捕らえ出された。容貌美麗という。

二十三日
伏見より、将軍家(秀忠)が二条御所に御着きになり、御密談に刻を移され、午刻に幕下は還御された。
未刻(午後二時頃)、秀頼子息(八歳)、六条河原に於いて殺し給わった。
乳母の夫である田中六左衛門も同時に誅された。乳母は命を赦されたという。

二十八日
井伊掃部助、藤堂和泉守を幕府(秀忠)が御前に召され、金銀の千枚吹、分銅二宛が拝領された。
その上、御知行が下されることを直接に仰せに成られた。これは今度の大阪表、六、七日の合戦の
働きの功によるものである。

今日、片桐市正且元が病死した(歳六十)。駿府より申し来たという。

駿府記

大阪夏の陣、戦闘が終わった後の出来事



395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/04(日) 12:27:43.11 ID:LT28x8Lw
大野道犬は2度死ぬ

大阪夏の陣直前、大野治長襲撃事件と牢人間の分裂

2020年09月28日 18:09

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/28(月) 18:01:53.65 ID:J1AvwdnW
慶長二十年

四月十二日
京都の板倉伊賀守(勝重)より飛脚到来。これの申す所によると、去る九日の夜、
大阪の本城よし大野修理太夫(治長)が宿舎に帰る所、何者とも知れぬ人物がその跡をつけ、
脇差で修理の左の脇から肩先に突き抜いたという。この者は突き捨てて一町ほど逃亡したが、
そこで修理の郎党達が追いつき切り留めた。
この者は修理太夫の弟である主馬(治房)の家来であったという。

この事件によって城中の緒牢人は、互いに疑いあい騒動と成ったという。

十三日
今日、大阪より織田有楽、同息・武蔵守(尚長)が大御所の元に参り御前に出た。
大阪の情勢は現在、諸牢人が三つに分かれているという。

七組の頭、大野修理太夫(治長)、後藤又兵衛(基次)の一組、
木村長門守(重成)、渡辺内蔵助(糺)、真田左衛門佐(信繁)、明石掃部助(全登)の一組、
大野主馬(治房)、長宗我部宮内省輔(盛親)、毛利豊前守(毛利勝永)、仙石豊前守(秀範)の一組

この三つに分裂しているのだという。

『駿府記』

大阪夏の陣直前の、大野治長襲撃事件と牢人間の分裂について。



370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/28(月) 23:43:19.12 ID:CFvMgXPO
取次の退去で冬の陣になりーの
自分で出した分も含めて和睦条件がこなせないままこれまた取次の治長が家中問題で襲われ―の

もうまるで統制も取れてないな

大野治長は片桐退去までの行動は最悪だけどその後の行動はかなり現実的よね、まぁ周りからすりゃ原因のお前がなに止める側に回ってるねん感もありそうだけども

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/29(火) 00:11:07.87 ID:0Z7Z+w/e
片桐退去の時点でもう滅亡するまでやり合しかなくなってしまったのに、
その主犯だった大野がなんとか外交的に豊臣が残るだろうなんて甘い考えにすがるのは、今さら感がものすごい。

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/29(火) 00:50:50.34 ID:143NSg4c
講和時点でちゃんと和睦条件こなせるだけの器量が秀頼にあればあんな無様な事にはならなかったろうけど
そもそもそこで和睦条件こなせるだけの器量あったら最初から揉めないというなんとも言えない状況が

安房守の死と大坂の陣の左衛門佐

2020年02月28日 16:37

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/28(金) 01:22:07.17 ID:eWP8eY2H
或いは云う。真田安房守(昌幸)は大阪の一戦(大坂の陣)の三年前に、高野山の麓、瀬良という場所で病死した。
その死に至ろうという時、息子の左衛門佐(信繁)にこのように語った

「私が今から三年存命していれば、秀頼公へ容易く天下を取って進上すべきものを。」

左衛門佐はこれを聞くと、「いかにして天下が秀頼公に服させるのでしょうか?」と尋ねた。
しかし安房守は
「重病故に、心乱れて筋無き事どもを申してしまった。どうやって、今や乞食同然に成り果てた私が、
天下を取って秀頼公に進上するというのか。」と、答えなかった。

左衛門佐これに
「私に対して御慎みはあるまじき事です。是非、思っておられることを仰せ聞かせて下さい。これは懺悔の御物語とも
なるでしょう。」と、たって所望したため、安房守は

「そういう事であれば、懺悔の物語として聞かせよう。おそらくここ三年の内に、家康は叛逆して軍兵を催し、
秀頼と討ち果たそうとする事は必定、掌の如くである。その時私が存命ならば、人数三戦ばかりを引き連れ勢州
桑名を越えて備えを堅く立てれば、家康は私が数度手並みを見せているので、真田が出向くと聞けば家康も
容易く懸け向かう事は無い。そして暫くこれを相支える内に、太閤の御恩賞の諸大名多ければ、大阪へ馳せ集まる
人も多いであろう。そして家康勢が押しかかって来れば、桑名へ撤退し、また先のように相支え、又押し懸けて
一戦せんとするならば、さらに撤退してそこで支える。そのようにしている内に、こちらは悉く人数が集まるであろう。

さて、我等は勢多まで撤退し、勢多の橋を焼き落とし、こちら側には柵を付けて相支えれば、数日ほども経す内に
畿内の人数が馳せ集まる事、掌の如きである。然らば天下を治めること、手の裏に有り。

…と云うものの、これは皆妄念の戯言である。長物語に、胸が苦しくなった。水を飲もう。」

そう言って水を飲み干すと、そのまま死んだという。

その後、左衛門佐は大阪に籠城した折、安房守の末期の一句の謀術を献案したものの、諸将の評議紛々となり、
その意に任せることが出来なかった。秀頼校も諸将の言に迷い、左衛門佐の申すに任せなかった。

そのような中、左衛門佐が柱にもたれていた所、武見の者来て、「大和口より猛勢が押し入りました。
伊達陸奥守(政宗)です!」と申す所に、また一人来て「陸奥守の勢の跡より猛勢が押し入りました。
越前少将(松平忠直)です!」と報告した。しかし左衛門佐は少しも変わる気色無く、

「よしよし、悉く入り込ませ、一度に打ち殺そう。」

と、さにあらぬ体であったので、諸士、その器量を感じたという。その後、左衛門佐が人数を出した所、伊達の
先手騎馬鉄砲と言って、馬上にて鉄砲を撃つ兵五百騎が、鉄砲を並び立てて、敵の向かってくる所に馬を乗り入れ、
駆け乱た所に、後ろの勢が押し込んで切り崩すという備えであった。
左衛門佐はこれを見て士卒悉くを伏せさせ、鑓衾を作り前に鉄砲を並べて打ち立てさせ、そのしおをみて
一度にどっと、牛起きに起きて突き懸れば、騎馬鉄砲は却って敗軍した。

左衛門佐は勝って兜の緒を締めた。伊達方の兵再び集まり向かって来る間に、左衛門佐は諸卒に下知して曰く
「炎天の事なれば、皆々兜を脱げ」
と言って兜を脱がせたのだ。伊達勢が近々となった時、諸卒は兜を着けようとしたが、左衛門佐はそれを着けさせ
なかった。敵との間が一町の内に及んだ時、
「では兜を着けよ!」
と下知した。その時悉く兜を着けたが、心が金石のように成り、その勢いで切って懸かると、伊達の備えを
切り崩したという。

この他、左衛門佐の数々の軍略は、人の耳口にあまねき事であるので皆記すに及ばず。
大阪合戦で諸将の働き、秀でたる事ども有りと言えども、左衛門佐が第一に秀でていたのは、
その器量ある上に、平生より武術の学びを怠らなかった顕れであると、人皆感ずる事也。

眞田記



大阪方の人々

2018年06月22日 10:32

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 09:17:50.00 ID:+Vch1/Y2
豊臣秀頼公は、大阪冬の陣のおりには御歳23であった。世の中に無いほどのお太りであった。
木村長門も同年である。
大野修理はその頃、47,8くらいに見えた。
後藤又兵衛は60あまりに見えた。男ぶりは百人頭という風情の人であった。
真田左衛門佐は44,5くらいに見えた。額に2,3寸ほどの傷跡があり、小兵なる人であった。
秀頼の御子8歳と長宗我部の二人は戦後生け捕られ、京にて御成敗された。

(長澤聞書)

大阪の陣で後藤又兵衛に従った長沢九郎兵衛による、大阪方の人々の印象



32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 10:47:30.98 ID:K53k58Oq
何でそんなに太っちゃったんだろう・・・

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 12:11:36.59 ID:tpZc7hd2
蒲鉾が大好きだったんだよね

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 16:21:57.96 ID:L0H/Woxq
北の将軍様もお太りになってるよな

頸の周りをよく拭くように

2018年01月19日 17:30

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/18(木) 20:07:18.19 ID:kApnLLZB
真田安房守昌幸の次男、左衛門佐が大阪城に入城した。
幕府は安房守の弟である真田隠岐守信尹を以って、冬の陣和睦の後こう伝えた

『達って我らの方に参るように。然らば大禄が下されるであろう。』

左衛門佐は申した
「最前、高野山にて蟄居の間、私は様々に御家への仕官を望みましたが、御許容有りませんでした。
今回秀頼公に頼まれ、ここに参り籠城したのも、本意ではありません。
また大阪の籠城が、最後には利があると見込んでいるわけでもありません。

しかし、一旦武士が約束仕ったことを違変するのも本意ではありません。
ですので幾度仰せになられても、同心することは出来ません。
もし不義をかまえ、無道を致して降参してしまえば、そんな私に微官微録であっても
下されるのは、そちらにとって益のないことです。
大録を下されると言うのも、私がこの義を守っている故でしょう。」

後に、信尹が左衛門佐を呼び寄せこの事について談じたが、重ねては兎角の返答もなく
「義のある所には、天下にまた天下を添えて賜るとしても、それで心が動かされることではないのです。」
そして
「暑くて汗が出るのです」と、大肌を脱いで小姓に汗を拭かせたが、この時
「頸の周りをよく拭くように。やがて頸となって、家康公に対面するのだからな。」
そう笑いながら言ったという。

(士談)


真田幸村の智謀

2017年01月18日 10:08

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 19:09:15.70 ID:qJMrCMga
真田幸村の智謀

上田籠城の時、織田、徳川、北条の三将、二十余万の大軍を以て百重千重に取り囲み、水も漏らさぬばかりに
ヒシヒシと取り詰め、哀れ上田城は粉々に踏み崩されんとしていた。
これには流石の真田昌幸も、城兵僅かにニ千余り、今は防御の術も尽き、如何にすべきかと思案し、苦慮して
いた所、倅の幸村、当年十四歳であったが、彼が『鶏卵煎り砂の謀計』を考えだした。

彼は鶏卵を二つに割り、中身を取り除いてこの中に煎り砂を入れて合わせ、水に浸した紙を割口に巻いた。
これを数万作り出し、それぞれの櫓に十籠、二十籠づつ取り備え、寄せ手を遅しと待ち構えた。

頃は天正十年三月二十五日の朝(ちなみに実際の第一次上田合戦は天正十三年閏八月である)、
織田徳川北条の軍勢はどっと鬨の声を作り押し寄せ、鉤縄打ち掛け勇みに勇んで攻め立てた。
城中よりは「時分はよし」と、件の鶏卵を合図とともに投げつけた。

兜面頬があっても、当たれば砕け、煎り砂は兵士の眼に入り、さしもの勇者たちも暗夜をたどるに
異ならぬ有様。城中よりはこれをみすまし、「時分は良きぞ」と、松本口の織田勢には真田源次郎(信之か)、
軽井沢口徳川勢には隠岐守信尹、笠ヶ城北条勢へは与三郎幸村、何れも三百余人を率いて鬨を作り
攻めかかれば、盲目に等しい寄せ手の面々は戦うことも出来ず、我も我もと敗走し、同士討ちするものも
あり、踏まれて死ぬものもあって、二十余万の大軍が、雪崩掛かって落とされたのは、たいへん見苦しい
有様であった。

この状況に信長は、如何にすべきかと思慮を巡らしたが、今だ良き工夫もつかぬ所に家康が現れ、
「鶏卵煎り砂の目潰しを防ぐためには、竹束を以て盾とし、鎧の袖を額にかざすより他、術がないでしょう」
そう献策した。
これにより夥しい竹束を用意し、またもや押し寄せた。

しかし幸村は「煎り砂に懲り果てた敵兵は、今度はこれを防ごうと竹束の盾を必ず用意してくるであろう。」
と推察しており、あらかじめ多くの投げ松明を用意していた。
果たして先手は竹束を束ね、、後ろに太い棒を取り付けた物をひっさげ、目潰しの鶏卵が今や降ってくるかと
待つ所に、城中は静まり返って音もせず、寄せ手充分に近づいた所で、一発の銃声が響くとともに、三方の
櫓より松明が投げつけられた。
すると油を注いだかのように、竹束はみるみるうちに燃え上がり、寄せ手の者達驚き騒ぎ、消そうとするも
うまく消火もできず、散々となって我先にと敗走した。

(芳譚)

何故か甲州征伐とごっちゃになっている上田合戦のお話



528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 21:11:13.13 ID:n+P9kTbE
>>527
鶏卵数万w

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 21:11:38.99 ID:/3OBSLpx
幸村が活躍するなら、そんなことはどうでもいいんじゃないの
物語なんてそんなもんでしょw