真田幸村の智謀

2017年01月18日 10:08

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 19:09:15.70 ID:qJMrCMga
真田幸村の智謀

上田籠城の時、織田、徳川、北条の三将、二十余万の大軍を以て百重千重に取り囲み、水も漏らさぬばかりに
ヒシヒシと取り詰め、哀れ上田城は粉々に踏み崩されんとしていた。
これには流石の真田昌幸も、城兵僅かにニ千余り、今は防御の術も尽き、如何にすべきかと思案し、苦慮して
いた所、倅の幸村、当年十四歳であったが、彼が『鶏卵煎り砂の謀計』を考えだした。

彼は鶏卵を二つに割り、中身を取り除いてこの中に煎り砂を入れて合わせ、水に浸した紙を割口に巻いた。
これを数万作り出し、それぞれの櫓に十籠、二十籠づつ取り備え、寄せ手を遅しと待ち構えた。

頃は天正十年三月二十五日の朝(ちなみに実際の第一次上田合戦は天正十三年閏八月である)、
織田徳川北条の軍勢はどっと鬨の声を作り押し寄せ、鉤縄打ち掛け勇みに勇んで攻め立てた。
城中よりは「時分はよし」と、件の鶏卵を合図とともに投げつけた。

兜面頬があっても、当たれば砕け、煎り砂は兵士の眼に入り、さしもの勇者たちも暗夜をたどるに
異ならぬ有様。城中よりはこれをみすまし、「時分は良きぞ」と、松本口の織田勢には真田源次郎(信之か)、
軽井沢口徳川勢には隠岐守信尹、笠ヶ城北条勢へは与三郎幸村、何れも三百余人を率いて鬨を作り
攻めかかれば、盲目に等しい寄せ手の面々は戦うことも出来ず、我も我もと敗走し、同士討ちするものも
あり、踏まれて死ぬものもあって、二十余万の大軍が、雪崩掛かって落とされたのは、たいへん見苦しい
有様であった。

この状況に信長は、如何にすべきかと思慮を巡らしたが、今だ良き工夫もつかぬ所に家康が現れ、
「鶏卵煎り砂の目潰しを防ぐためには、竹束を以て盾とし、鎧の袖を額にかざすより他、術がないでしょう」
そう献策した。
これにより夥しい竹束を用意し、またもや押し寄せた。

しかし幸村は「煎り砂に懲り果てた敵兵は、今度はこれを防ごうと竹束の盾を必ず用意してくるであろう。」
と推察しており、あらかじめ多くの投げ松明を用意していた。
果たして先手は竹束を束ね、、後ろに太い棒を取り付けた物をひっさげ、目潰しの鶏卵が今や降ってくるかと
待つ所に、城中は静まり返って音もせず、寄せ手充分に近づいた所で、一発の銃声が響くとともに、三方の
櫓より松明が投げつけられた。
すると油を注いだかのように、竹束はみるみるうちに燃え上がり、寄せ手の者達驚き騒ぎ、消そうとするも
うまく消火もできず、散々となって我先にと敗走した。

(芳譚)

何故か甲州征伐とごっちゃになっている上田合戦のお話



528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 21:11:13.13 ID:n+P9kTbE
>>527
鶏卵数万w

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 21:11:38.99 ID:/3OBSLpx
幸村が活躍するなら、そんなことはどうでもいいんじゃないの
物語なんてそんなもんでしょw
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真田左衛門佐幸村の妻女

2016年12月22日 17:15

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/22(木) 00:23:23.28 ID:qpvz8I6l
同月(慶長20年5月)、真田左衛門佐幸村〈又云ふ信為〉の妻女が紀州
伊都郡に忍んでいたのを、浅野但馬守(長晟)の家人が召し捕って来た。

闕所(没収)の黄金57枚、並びに秀頼から真田に与えられた来国俊の
脇差を添えて進上した。件の2品は即座に但馬守へ下しなさったという。

――『関難間記』



歌舞伎「盛綱陣屋」

2016年12月03日 09:00

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/02(金) 19:13:10.64 ID:vLLxwyfB
歌舞伎の「盛綱陣屋」という作品のあらすじ読んだら(歌舞伎なので登場人物の名前を含め、本来は鎌倉時代が舞台)

大坂の陣で真田信之の息子が真田大助を生け捕ったため、信之が大助を家康に見せると家康は大喜び。
そこへ後藤又兵衛が乗り込んできて「大助はまだ子供なのだから返せ!」と言ってきたため
信之は又兵衛をとりあえず家康のところに送る。
思案した信之は、このまま大助がこちらにいたのでは弟信繁の戦闘意欲がそがれる、いっそ切腹させようということに。
信之は信之・信繁の母親の山手殿を呼んできて、大助に切腹をすすめさせるが大助は泣いて切腹を嫌がる。
そこへ大坂城から信繁の妻が息子を思って兵に変装して駆けつけるが、その光景を見てあせる。
そうこうしているうちに信繁戦死の報告。家康は信繁の首を持ってきて信之に首実検をさせる。
心中悲嘆に暮れる信之だったが、首桶のなかの首はなんと偽首。
しかし次の瞬間、大助が「ととさまのところに行く!」と切腹。
実は後藤又兵衛も信繁の妻も、大助がちゃんと計略どおりに切腹するかの監視役だった。
信之も大助の心中を察し、家康に「まさしく弟・信繁の首です」と報告。家康もすっかり騙される。

信繁ってこんな計略を使う武将だと思われていたのか・・・



真田昌幸「そういう事は時と場合による」

2016年10月31日 09:38

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/30(日) 23:52:44.11 ID:ky4QU8i1
慶長5年、真田安房守(昌幸)は下野国犬伏という所から引き返し、信州へと向かった。
その途中の上野国は徳川家の領分であったため、人数を連ねて通ることは出来ず、昌幸は
真田左衛門佐(信繁)、桑原若狭、佐藤軍兵衛の四騎にて上野国赤山の麓へかかり、夜を日に継いで
沼田へと到達した、

安房守は沼田へ行き、左衛門佐では沼田の町に火をかけ焼く恐れがあると、木村土佐という家老を
沼田に遣わし、安房守は沼田に参着した。

沼田は伊豆守(信之)の領地であるが、普代の所であるから、百姓たちは急ぎ城へ参り、
「大殿が突然こちらにお出でになられた!」と伝えた。
伊豆守内儀(小松姫)はこれを聴くと

「伊豆守は家康公の御供をして東に向かった。家康公は今頃下野におられるはずだ。であるのに
安房守殿が帰ってくるのは不審である。」

そう考え、留守居たちに「大手の門に寄らせてはならない!」と命じ、門を固めているところへ、
桑原若狭が表れ、「安房守様をこちらにお連れしたい」といろいろ申し上げたが、内儀は
「城口にも近づけてはならない!」と拒絶し、安房守は仕方なく、沼田の町にある正覚寺という
浄土宗の寺に立ち寄ると、そこに石庵という半俗の者が参って「伊豆守様はどうなさったのでしょうか?」
と尋ねた。これに左衛門佐が

「伊豆守殿は浮木に乗って風を待っているのだ。」

と言い放ち、石庵は、これは話にならないと座を退いた。

安房守一行は暫く休息を取ると沼田を通過する事にしたが、沼田の町は伊豆守の行方がわからぬと
大騒ぎに成っていた。この様子に左衛門佐は腹を立て、「沼田の町に火をかけましょう!」と安房守に
申したが、安房守は「そういう事は時と場合による!たわけた事を!」と叱りつけ、その後は昼夜の境無く
上田へと急いだ。

この伊豆守内儀とは、本多中務(忠勝)の娘である。

(慶長年中卜斎記)

有名な逸話ですが、この慶長年中卜斎記だと真田信繁は何故か、
沼田に火をかけたくてしょうがなかったようですね。



268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/31(月) 23:09:10.75 ID:PVC4EiTg
>左衛門佐は腹を立て、「沼田の町に火をかけましょう!」
>安房守は「そういう事は時と場合による!たわけた事を!」

草刈昌幸と堺幸村で見たかったなこのやりとり

真田家の幸村は

2016年10月28日 14:04

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/28(金) 04:45:28.23 ID:pe8bkluQ
 この九月初旬に、真田豆州が訪ねられて四方山話をされた。
その中で、耳底に留まった話のいくつかを記しておく。


一、真田家の幸村は薩摩に行ったと思われる。
かの国の言い方にも時々それと思われることがある。
彼は先ごろかの国に問い合わせた文通がある。近日見せてくれるとのことだ。


 これ世上の説にあるが、諸書で言うところと異なっている。
どうして秀頼の墓が薩州にあるのかというのは、豆州の言葉の通りなのだろう。
そうであっても神祖の御深仁御厚徳を察することができる。




一、大助生害とのことだが、これも大阪で死んだという話の通りだとは思われないそうだ。
高野山の蓮華定院は昔からの家の代々の菩提所であるが、
その過去帳に大助の戒名があり、没年七十いくつかとかある。
ならば老死である。
御旗本衆の中に八木氏がおり、この家は母のつづきゆえ、
彼は猷廟(家光)の御時にこの家で召し出されたと聞いた。
今更ながら子孫の口から八木氏に問うのもいかがと思われ、まだ確かめてないと。


 こうであるなら、幸村が高野山に退去したというのも、この蓮華定院だろう。
八木氏は今の大番頭丹波守〔四千石〕の家か。


(甲子夜話続編)

神祖御山駕銃丸之細聞

2016年09月16日 14:54

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/16(金) 13:36:01.71 ID:B78Kd0Cs
神祖御山駕銃丸之細聞

前に、今の林祭酒(述斎)が日光御蔵にある神祖の御山駕籠を拝見されたときに、
この御駕籠の屋根から銃丸を見下ろしに打ち貫いてあることを知った。
何者がかかる非逆の所為をしたのかとの念が止まらなかったところに、
近頃宗耕にこの事いかんと問うと、以下の話をしてくれた。

「『武徳大成』には、
慶長十九寅年十月二十一日、彦根松原で神祖の御駕籠へ鉄砲を打ち入れた者がいた。
御目付山本新五右衛門が吟味したところ、
真田の家来の日下部五郎左衛門と申す者によることだとことであった。」
との記述があるらしい。

これによれば、大坂御陣のときと見える。
真田の奸計は、これに始まらないことであるが、彦根の松原は御味方随一の地であるのに、
ここにガマリをこのように出してきたのは、流石真田である。
されども御当家の御剛運は、神明諸仏も加護があるので、
いかに真田といえどもとても及ぶ所ではない。
そのうえおかしいことに、このように打ち損じたら人々は驚いてすぐ捜索するというのに、
日下部は木の上に居たので、逃げ遁れることも叶わずすぐに生け捕らえられたということだ。
筆記するだけでも笑えてくるのは、しかたのないことだ。
喜々粲々

(甲子夜話三篇)




敵ながらあっぱれと思い

2016年08月14日 17:26

76 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/08/13(土) 19:51:20.22 ID:RTOMV38F
結城秀康の三男であり、後に松江藩主となった松平直政。
彼は、初陣となった大坂冬の陣で活躍しました。
この様子を見ていた真田信繁が、敵ながらあっぱれと思い軍扇を直政に投げ渡しました。 この軍扇は現存しています。



素より蝿虫だと思っていれば気にならぬ

2016年06月22日 17:18

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/22(水) 14:46:53.32 ID:cUFFAOL9
大阪夏の陣直前、後藤基次と大野治長の間で口論となり、一触即発という事態が起きた。
その後基次は真田の陣屋に行き、「今陣中にてかくかくの口論が有った」と伝えた。
真田はこれを聞くと、

「そういう事は人を選ぶべきだ。それを蒼蠅に向かって、後藤殿は大人げない。
蒼蠅という虫は、いかなる貴人高官の首にも上がるが、素より蝿虫だと思っていれば気にならぬ。
だからこそ昔の君子も、悪人を蒼蠅に例えたのだ。

近頃私は、あやつを蒼蠅だと思っているので、奴の行動に対して無念と思わなくなった。
後藤殿は生まれつき堪えられない性分であるから、闘論にも及んだのだろう。
今後はそのようにお心得あるといい。」

これに基次も笑い出し
「仰せ至極である。ただ、戦の出鼻をくじくような言動に腹が立って、若輩のようなことを
言ってしまったのだ。しかし、我々が討ち死にするのも間近なのだから、蝿に出会う機会も
もはや稀であろう。
ああそれにしても、あの蝿を払う唐国団扇があれば、千金を以ってしても求めるのになあ。」

「なあに、おっつけ落城の時は、どんな蒼蠅も駿河団扇によって払われるだろう。」

二人は大いに笑い、基次は宿所へと帰っていった。

(慶元記)



761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/23(木) 10:10:37.15 ID:03GZzFDX
獄門に晒された首に蝿が止まりますがなw
やせ我慢するから九度山いくんだ

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/23(木) 11:12:23.18 ID:30ZeMVQb
しょせん後藤は陪臣出身、豊家の家老級から見ると見下す対象だったのだろう

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/23(木) 20:09:32.12 ID:MjtEezd7
大野治長佞臣説は悲しいなあ

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/24(金) 02:12:15.04 ID:dd6ReUWt
全くだな、本当の佞臣は落城前に逃亡するもんだ。

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/24(金) 08:15:17.70 ID:bKV/JtHm
片桐「んだんだ」

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/24(金) 09:55:06.45 ID:bB1GLsRN
>>764
織田宗家のワシを愚弄する気か!

これも人煙のため

2016年05月21日 14:49

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/20(金) 23:41:45.80 ID:S7g6JhYO
 一学(市川一学)の兵書講義のとき予(松浦静山)は
「かつて浪花茶臼山の行って所々を眺めたが、御城とは近いように思われた」

と話しをしたら、一学は受けて以下の話をなされた。

「それがしもかつて遠遊したとき見ましたが、それに同じく思われました。
古人が伝え聞くには、この御陣のとき、茶臼山から真田丸までの間は三十丁余のつもりで御陣を構えたが、
実は十八丁であったそうです。そのときは人煙が覆って暗かったので、このような近いところも遠く見えたといいます。

 また長宗我部が守った所から、藤堂の陣までは、二十丁ばかりというが、実は六丁であったといいます。
これも人煙のためであったといいます。

 また冬の御陣のときは、城内を外堀の向かいから望むと、立て連ねていた旗幟の紋が、うちかすんで鮮やかでなかったといいます。
これも人煙がたってそうなったとのことです。
 夏御陣のときは、旗幟の紋が行燈の傍らの物を見るようによく見分けることができたそうです。
これはそのとき人気が一つでなかったためだそうです。」
(甲子夜話)

距離の測り間違えってけっこう致命的なような



639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 00:02:11.96 ID:PiBkDXt/
霧のせいで時間を計り間違えるとより悲惨
と相手方の又兵衛さんが

勇士の名を汚さぬよう

2016年05月19日 21:27

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 08:02:28.13 ID:Pn127/+v
越前少将松平忠直の家臣に、原隼人正貞胤という者があった。元は甲州武田家の武士にて武功の者であったが、
浪人していたのを忠直に召し抱えられ、黒母衣衆に編入され、その合戦の知識を高く評価されていた。

彼は真田幸村と古傍輩の好があり、旧友であった。そこで大阪冬の陣の和睦が結ばれると、真田方から
「和睦後、互いの辛苦も語り慰めとしたい」と、しきりに招請してきた。しかし原は自身で判断するわけにも
いかないと、忠直に伺いを立てると、御免あったため、真田の陣所へ赴いた。

真田幸村は原の来訪を大いに喜び、様々に饗応し、嫡男大介も見参に入れ酒宴数刻に及んでから、幸村は語った

「私は今回の合戦で討ち死にすべき身であったのに、今度の不慮の和睦で今日まで存命し、再びあなたに
お目にかかれたこと、生前の大慶である。
この幸村は不肖なれども、今回一方の大将を承った事、今生の面目、死後の思い出と存ずる。

今回の和睦も必ず一端のことであろう。永くは続かない。終にはまた一戦となると、私は推量している。
その時に潔く討ち死にすること以外、私は考えていない。
臨終の時は、いま床に飾っているこの鹿の抱え角の兜、これは先祖重代の家宝であったのを、父安房守が
私に譲られたものだが、これを着けて討ち死にするつもりである。
あなたがもし、この兜首をご覧になれば、幸村が首であると思い、一返の御回向にも預かりたい。」

原隼人はこれを聞くと
「戦場に挑む者のうち、誰が生きることを考えるだろうか。
遅れ、先立つとも、ついには冥土で再会するのだ。」

これに二人は笑いあった。

それから白河原毛という名の馬に、白鞍に金で六文銭を打ち付けたものを置いて引き出させ、
幸村はこれに乗って隼人に見せながら
「重ねて合戦有れば、大阪城の城郭は破却されれているので、必ず平場での合戦となるだろう。
だとすれば平野の辺に馳せ、出撃してきた東国勢に駆け合わせ、馬の息が続かないほどに戦って
死ぬつもりであるので、いまこの馬はひとしお秘蔵にしているのだ。」
そういって馬から降り、再び酒宴となった。

ここで原隼人は言った
「今の和睦こそ幸いである。貴方はともかく、子息のことは、御舎兄の伊豆守殿にお預けに成って、
とにもかくにも、跡を継がせるべきではないだろうか?」

幸村はこれを聞くとニッコリと笑い
「不肖のそれがしであるが、関東より度々招かれており、いま倅を伊豆守の元に遣っても、
さのみ悪いことではないと思う。であるが、一生日陰者として有るのも武士の恥辱である。
高鳥死して良弓蔵されるという。豪傑であっても治平の時代には用いられない。ましてや
柔弱なわが倅など誰が用いるだろうか。

人には皆名分がある。その生死、禍福は人意を以ってどうにか出来るものではない。
ただ私と死を共にして、勇士の名を汚さないようにしたい。」

二人は一日語り合い、黄昏に及んで原隼人は帰っていった。
実際に真田は翌年、かの兜を着けあの馬に乗って討ち死にしたとのことである。

(慶元記)



739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 12:26:34.41 ID:C+jA2yLf
こういう潔い武士らしさは、江戸時代でも好まれたんだろうな

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 13:39:12.18 ID:dqPc8IuE
幸村ってあるから江戸時代に作られた話だろうしな

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 17:46:38.62 ID:Iz92FozX
幸村とある時点で胡散臭さ、逸話度がグッと上がってしまうのがなんとも、ね

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 18:08:43.85 ID:S5GhVgTP
写本してるうちに書き換えられたりするからそう単純な話でもない

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 20:30:44.01 ID:ZEO/h7Rc
小楠公
真田大助
大石主税
日本人が好む英雄の息子たちも人気があるよね

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 22:04:34.78 ID:VIqbXPQx
そういえば近所に"ゆきまさ"と名付けられた少年がいるなあ
字面までは知らんが

紺地に六文銭の旗の陣

2016年05月18日 17:05

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 06:44:03.98 ID:uLvmKNEo
大阪冬の陣、東方の寄手である真田伊豆守信之家臣の矢澤但馬、吐田筑後、榊原石見の三人は
元より武功の者であったので、敵が矢鉄砲を激しく撃ちこむのも恐れず、一番に仕寄りを付けた事は、
両将軍(家康・秀忠)からも賞賛された。

この時、伊豆守の手勢が仕寄りを付けるにおいて非常に勇敢であったのを、大阪方の木村長門守重成も
大いに感じ入り、或る夕刻、真田左衛門佐が出郭より本城に帰った時、重成は彼に対し、
東を指差して言った

「あそこの、紺地に六文銭の旗の陣が最初に仕寄りをつけました。あれはあなたの一族でしょうか?
もしくは他門でしょうか?彼らは実に、城攻めの妙を得た者達です。」

真田答えた
「あれは兄伊豆守の陣です。ただいま軍兵に先立って下知している二人の若武者、
一人は河内守(信吉)といって16歳、もう一人は内記(信政)といって14歳。どちらも私の
甥であります。亡父昌幸の余風があって、彼らも健気に働いているようです。」

重成はこれを聞くと
「その兄弟は、普段は何色の鎧をつけているのでしょうか?今から軍兵たちに、二人には鉄砲を用いないよう
申し付けたい。」

「それは情ある言葉です。しかし彼らは若年であると言っても、他の軍勢に先立って仕寄りを掛けるなど、
味方にとってはなかなかの剛敵です。
ご存知でしょうが、忠義のためなら親疎も言い出さないのが武士の習いですから、私の一族だからといって
弓鉄砲での攻撃を避けるというのは考えもできません。彼らもまた、私を見れば必ず攻撃して
来るでしょう。であれば、誰にかぎらず秀頼公の敵と見れば、席を去らずに討ち果たすべきです。
これが武士たる者の本意です。」
そう語ったという。

(慶元記)



732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 11:21:19.48 ID:IT3tWaKI
一族が敵方にいる以上、周りの他の軍より率先して働かないとダメだし
兄一家も大変だな

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 21:39:16.08 ID:7o1opGdq
黒田基樹「真田信之」p172によれば
「真武内伝」に
木村重成の持口を信吉・信政が陣頭に立って攻めているのを見た木村が信繁に
「あの六文銭はあなたの一族か?」と尋ねたところ
信繁「むろん、兄信之の子で私にとっては甥にあたる」
と返答し、木村が
「若年にして奇特な戦いである、あの2人には矢、鉄砲を放たぬようにしよう」
という話が載っているが、信繁は真田丸を守っていたため、残念ながら全くの創作である

としてたけど、真田丸から城に帰ってからの話なら問題ないような
(しかしたしかに木村重成より若いとはいえ、木村重成が「若年ながらたいしたもの」
と言うのには違和感)

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 22:09:52.91 ID:RsDfDWju
>>734
信吉が1595年(文禄4年)生まれで大阪の陣の頃には二十歳前後、信政はその2つ下だから、別にいいんじゃね?

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 22:58:53.72 ID:8V1YisfJ
>>732
結局最後の最後まで兄一家は弟に振り回されて終わっているんだよなあ

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 04:38:18.20 ID:otyaGBAD
>>732
源為義 為朝 平忠正「そうか?」

上州犬伏にて

2016年05月13日 18:04

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/12(木) 20:36:13.50 ID:lpkqYaEd
真田左衛門佐幸村(信繁、または信仍と有る)は、信州上田城主、安房守昌幸の次男である。
去る慶長5年、上杉景勝反逆の故に、徳川家康は上杉攻めとして、諸大名を召しつれ伏見を発向し、
関東に下向したことにより、真田昌幸、嫡男伊豆守信幸、次男左衛門佐幸村も、上州犬伏まで
打ち出た所、石田治部少輔三成、大谷刑部少輔吉継両人より、昌幸に書状が届いた。
その内容は、

『今度天下の御為に大老奉行相談し、内府(家康)を滅ぼすこととなった。真田父子も同意あって、
会津への出陣を止められよ。』
というものであった。昌幸は伊豆守、左衛門佐が先陣に在ったのを呼び返して言った

「たった今、石田、大谷より申してきた内容を見るに、上杉景勝が幼君に対し逆心の無いことは
明らかだ。この上は内府を敵とし、ここより引き返すべし。お前たちはどう思うか?」

伊豆守は答えた
「仰せ、誠に至極です。今回内府に従うのは、世上の批判も大きいでしょう。その上父上は石田治部と
御縁者(ある説によると、真田昌幸と石田三成は、ともに宇多下野守(頼忠)の婿であるとされる)です。
また左衛門佐は大谷刑部の婿であり、上方に筋目が有るのですから、先ずは御領内に帰って御思慮
あるべきでしょう。

しかし私は内府と御懇意であり、ことに本多中務(忠勝)と縁者のよしみがあり、お許しいただけるなら
徳川家の旗下に属したいと思います。そしてその上で、なお志す所があります。
もし、上方の軍が敗れ、城々に籠もった者達まで内府によって罰せられた場合、私が父と弟の罪を
謝し、如何にもして危難を救い、それのみならず、真田の氏族が断絶しないように私は計ります。」

これを聞くやいなや、左衛門佐は言った
「憚りながら兄上に、私がご意見申し上げます。
内府がどれだけ懇切だったとしても、それは太閤の御恩に及ぶものではありません。
また本多中務と縁者のよしみがあっても、それは私的な関係であり、公儀の事ではありません。
また、上方の軍が敗れたと時は父上と私の身命の危うきを救って下さるとのことですが、
おおよそ戦場に臨みて功なき時は、将より士卒に至るまで、必ず戦死する事となります。
然らば、父上と私が存命かどうかも計り難い。

それに御苗字のために内府に属すると言われるのも、あまりに難しい御思案です。
秀頼公のために一家尽く滅んでも、ご先祖への不孝とはならないでしょう。

事新しい儀ではありますが、天正年中に父上と内府が不和となった時、一旦は当家の武功によって
徳川家の軍勢を切り崩しました。しかし徳川、北条が手を結び、重ねて大軍によって攻められれば、
籠城も危うい状況であったのに、太閤の御下知によって和談と成りました。この時は上杉も、
越後より後詰を出されました。これらは浅からぬ恩義ではないのでしょうか!?

それ以降豊臣家の旗下に属すること十余年です。これで君恩を忘れ、景勝殿の志を捨て、
内府の味方をするというのは、人たる道ではありません!
兄上は御若年より器量も人に優れ、戦功も立てられた、一廉の御用に立たれる人なのに、
それがむざむざと敵になる事、残念至極です!」

これに信幸は大いに立腹し
「父上に先立って無用のことを言うのみならず、内府の旗下に属する者は人たる道に非ずなどと、
妄に私を軽んじ讒るとは!今一言を出すにおいては、即時に討って捨てる!」
そう太刀の柄に手をかけると、左衛門佐は少しも動ぜず返答した

「私は豊臣家のために死のうと思っている生命なのですから、ここにて御手にかけられる事、
御免あるべし。」

ここで昌幸が間に入り二人を制して
「伊豆守が言うことを考えたが、一応その理無きにしも非ずだ。秀頼公の御大事も、今回に
限ったことではあるまい。ただ自分の望みに従って、内府の味方をせよ。」

そう打ち解けて、免した。こうして伊豆守はここから徳川秀忠の手に属し、安房守・左衛門佐と
別れたのである。
(新東鑑)




真田幸村は近在の百姓たちに

2016年05月02日 17:56


661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 21:08:06.92 ID:GXYtd421
関ヶ原後、流罪と成った真田幸村が紀州高野山の麓、渋田という場所の禿(かむろ)の宿に
潜居していた時、近在の百姓たちに金銀を貸し与えていた。

そんな幸村が豊臣秀頼の招きに応じて大阪に籠ろうとする時、彼が銀子を貸し与えていた
百姓たちを呼び寄せ、こう申し渡した

「私は今度、大阪の御招きによって入城することに成った。よって今後、そなたたちと再会することは
計り難い。
お前たちには去る慶長五年の冬より久しく相馴染みたれば、今は実に名残惜しい。
今度は天下の軍勢を向かえての合戦であるから、運を開く事はとても難しいであろう。
なのでただ、義の為に討ち死にを志すばかりである。

であれば、今更預け置いた金銀を返してもらっても、何にも成らない。
万が一にも勝利して、秀頼校が天下の主とならば、私はともがらの富貴を求めるまでもなく
富貴に至らしめるだろう。

各々は年来の馴染みであるから、その金銀は返してもらうに及ばない。」

そう言って、彼らの目の前でその証文を尽く焼き捨てた。

百姓たちはこれに感じ入り、拝伏して恩を謝した。
この事によって、禿近隣の土民たちは大阪に加担したのだという。
真田幸村という人はこのように、良く人情を知って彼らを感じ入らせる者であったと伝わる。

(慶元記)




662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 23:40:33.88 ID:O5SgVsgF
>>661
幸村じゃなくて信繁ね

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 23:58:14.98 ID:gWM6M/E4
兄貴から仕送り受けてる分際で金貸しかよ

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 00:21:45.15 ID:qUUxIBXi
>>662
「幸村」の逸話として使わっているのなら、幸村でよい。
信繁でなく幸村として伝わっている時点で、江戸時代が始まった後の逸話とわかる。

このスレで考えるべきは、「事実に合っているか」でなく「どうしてそういう逸話が生まれたか」だよ。

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 00:48:44.54 ID:Qh5wzMBH
お兄ちゃんから金借りてるくせにいい人ぶって人に金貸すとかとことん信繁はクズだな
いい話でもなんでもないだろこんなの

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 02:14:56.04 ID:cnfJL4OU
大河みて思ったけど信繁って老け顔だったの?まだ廿くらいと思ってたが

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 02:22:40.70 ID:cnfJL4OU
>>664
原文ママ、とか書いておけばいらぬ誤解を招かなくて済むね
現代語訳されてたら分かりやすい名にしたのかもと思う人もいるし

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 03:07:05.25 ID:TEIuaXFM
義の為()人情()
兄貴に金の無心するしか脳がない無能がなに言ってんのやら…

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 05:28:44.61 ID:bLtPv79l
真田関連の話が出るたびに思うが
親父とこの弟に囲まれながら
兄貴はよくあんな長生き出来たな
そのストレスがなければ200年ぐらい生きたんじゃねえの

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 06:42:49.63 ID:G8HDWN8M
ヒキニートが兄の金を使って詐欺をする話に近いなw

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 07:50:41.87 ID:RhJTHYdf
信繁じゃなくてお兄ちゃんのいい話だな
流石お兄ちゃんw

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 09:45:24.99 ID:zJtsB6dp
>>670
ひょっとすると胃が痛くなるようなストレスから解放された反動で
あれだけ長生きしたのかも知れん

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 09:48:14.30 ID:j/3s0OIp
お兄ちゃんは心労で寿命半ばで亡くなったんだ

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 09:55:26.58 ID:eJp4EjAV
>>670
おい、鬼嫁を忘れているぞ!

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 10:07:29.48 ID:cnfJL4OU
志半で倒れた隆元が偲ばれるで

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 22:02:30.95 ID:mhCM9B4I
>>661
禿って今の学文路?

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 23:23:14.45 ID:Qh5wzMBH
みんなお兄ちゃんの話しかしてなくてワロタw
やっぱりお兄ちゃんは愛されてるな…w

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 08:55:56.62 ID:0KlKkSVY
>>661
孟嘗君の食客、馮驩が元ネタだな

籤で持ち口

2016年05月01日 17:13

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/30(土) 21:19:12.93 ID:SZUuzKNG
大阪冬の陣が始まろうとする時、大阪城中では関東の出馬を聞いて、諸方の砦、その他外構え等の
普請に傭役を増やしてこれを急いだ。そして豊臣秀頼は、譜代新参の諸大将を召して評定を開いた。
その内容はこうである

「先に命じた各々の持ち口(担当部署)には善悪が有り、それに対して不満も出ている。
そのためもう一度、籤によって持ち口を定めたい。」

これを聞いた各持ち口の頭分の者達は
「最前既に仰せ付けられた持ち口ですから、それに善悪があろうとも今また変更すべきではありません。
また、兵家が籤を用いる時は、故実に従うべきです。
ともかく、そのままに差し置くべきです。」

そう、この件に反対した、

この時、大野治長渡辺糺は籤奉行であったのだが、大野治長がこう発言した
「黒門口は平野口に近く大手の内の要害ですから、かの口三十間は治長がこれを堅めます。」

これを聞くや渡辺糺が怒鳴った
「治長殿のやり方は理解できない!いま、持ち口に善悪があるからと籤を用いようとしているのに、
黒門口は治長自ら堅めると言われる。ならば籤はしないのと同じではないか!?

総じて修理亮殿は万事ほしいままにして諸将を蔑ろにしている事、甚だ奇怪である!今後、慎まれる
べきである!」

しかし治長は少しも屈せず
「黒門口は内側が広ければ小勢を以っては担当できない。それ故にこの治長が、籤を執る前に
これを堅めたいと申したのであって、全く我意を挟んだものではない!
そもそもそのようにいう和殿こそ、却って秀頼公の思し召し良きをいいことに、常に諸士に対して
無礼であるため、人々もこれを悪んでいると聞くぞ!
この治長に意見する前に、先ず自身が謹しまれよ!」

そう荒らかに言い放つと、糺も激怒し
「普段のことはともかく、今度の黒門口は籤の上であれば、特別に治長に堅めさせるようなことはしない!
強いてというなら、余人には渡さぬ。この糺自ら請い取るべし!尚も言いたいことが有れば申してみよ!」

目を怒らし居丈高に成り、肘を貼って叫ぶ渡辺糺に、大野治長も立ち上がった所を、座中の人々が
慌てて両人の間に入り
「御両人はこの城の棟梁の臣なのですから、このような諍論は似合いません。殊に大事を控えながら
朋輩同士が口論するのは然るべからざる事です。第一君の御為になりません!」

そう制したことで渡辺は鎮まり、治長も「私も誤っていた」と謝罪し、各々はその座に帰った。
この諍論に時間を取られたため、籤の沙汰は無くなった。

籤が中止に成ったことを真田幸村は聞くと「さもあらん」と嘲笑った。
そして後藤基次は
「両人の喧嘩は大阪の幸いであったのに、どんな馬鹿者がそれを止めたのか。
この両姦人さえ討ち果たせば、城中の評議は思う様に整って、天晴花ある軍となっただろうに。惜しいことだ」
と、大いに腹を立てたという。

(慶元記)



580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/30(土) 23:16:14.42 ID:q6uhGX3x
いつ見ても城内ばらばらやな

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/30(土) 23:49:28.24 ID:1l8pvDLb
目立った働きのなかった譜代が目立とうとして必死なんよ

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 00:06:04.93 ID:x4B2WdUx
突出して凄いのが出てくればよかったんだろうけどねー

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 00:33:08.56 ID:98MthrCf
そりゃまあそれほど戦慣れしてない譜代は浮足立ちもしそうなもんだ

伝に曰く、真田左衛門佐幸村は

2016年04月18日 19:08

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/18(月) 17:52:09.61 ID:FNLmB20G
伝に曰く、真田左衛門佐幸村は真田安房守昌幸の次男であり、兄は伊豆守信之という関東伺候の
大名である。幸村は父の昌幸とともに石田三成に与し、信州上田城に在った。
関ヶ原の時、将軍家(秀忠)は東山道を上っていたが、その道を塞いだため、将軍家は
五万騎あまりにてこれを攻めたが、幸村父子は八百人で能く防ぎ、終に落城しなかった。
そのため将軍家は伊豆守信之、および森右近大夫(忠政)を以ってこの城の押さえとして置き、
自身は上ったが、これによって関ヶ原の合戦には間に合わなかった。

その後上田城は兵糧が尽きて城を明け渡した。この時将軍家は、大切な合戦に遅れたのは
真田父子の為であるのだから、かの父子を死罪にも仰せ付けたいと思っていた。
しかし大御所(家康)はこう言った

「彼らが当家に敵対することは、既に野州の小山において、信之を義絶し私にも断って
西軍に与したのだ。その様は誠に豪傑の士である。現在、誰が彼らに比肩するだろうか?
また、信之の奉公の労にも代えて、先ずそのままに差し置くべし。
年を経て招けば、また来ることもあるだろう。」

こうして昌幸父子は紀州高野の内、九度山の麓の宿に潜居したが、常に、もし豊臣秀頼と
関東との合戦があれば大阪に与して関東を滅ぼすことを志していた。しかし昌幸は慶長15年に
死去し、それ以後は幸村一人ここに在ったが、この度秀頼より『早々に入城すべし。一方の大将に
付け、利運の上は信州一国を与える』との招きを受け、幸村は畏まって籠城した。

この幸村は良将であった。もし、彼の諫言が用いられ鍛錬調っていたなら、関東にとっても
困難なことになったであろうが、大野渡辺の如き未熟者のために、せっかくの幸村の良策も
遂に皆、徒となったのである。惜しい哉。

(慶元記)



541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/18(月) 18:44:21.06 ID:1WhIiklT
>>540
へえー家康がどうしても死罪にしたいって言うのを、忠勝他が身を張って止めた逸話の方が有名だが

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/18(月) 21:21:30.22 ID:I9wKNc0i
>>541
この話もその話も嘘だよ。
実際は真田昌幸程度だと流罪が妥当。
徳川方の被害もたいしたことなかったし。

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/18(月) 22:13:17.31 ID:1x/2qN4b
>>543
悪い話ダナー

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/18(月) 22:22:34.83 ID:noPVwmW4
もう、真田幸村で定着しちゃってるんだな

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 08:11:06.26 ID:/FGASa5h
「幸村」って名前で出てくる時点で話に信憑性がないよね


548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 12:42:49.99 ID:7l9E/FCE
真田昌幸本人も本多正信が動いてくれてるからじき赦免されるだろと軽く考えてるから
流罪で妥当、十分重い刑という認識だからね。ただ赦免は結局かなわなかったが。
そして家康の意向を受けてるあるいは影響を与えられる正信が動いて好感触でも反故って事は
正信-家康ラインの外からの横槍があったと考えられ第一候補は将軍となる
大坂の陣で関ヶ原がトラウマになってる事を窺わせる書状と併せて考えれば
死罪は無いにしても秀忠激おこはあっただろうなとつらつらと

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 13:02:46.52 ID:xIAoJ1OI
天正壬午の乱を思えば初陣さんには無理げー

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 15:23:07.70 ID:ImIZUG93
逸話スレ見てると秀忠は賞罰に私情を挟むタイプではない気もするから、横槍を入れるとしたら将軍側近で親子で痛い目に合わされた大久保忠隣の方がありそう。
で、面子を潰された正信の讒言で大久保長安事件が…と妄想してみた。

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 07:05:37.96 ID:DCj7IRhz
>>546
ここは逸話の中身の信ぴょう性なんてどうでもいいスレだよ。
投稿者が自作した逸話はノーサンキューだけど。

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 10:48:42.16 ID:9ODF2SZe
>>548
話聞かないけど昌幸って本多正信と交誼でもあったんかね?

軍書狂夫「午睡之夢」っていう小説があって

2016年01月16日 17:58

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 00:45:33.25 ID:knB9DjzK
軍書狂夫「午睡之夢」っていう小説があって
ヨーロッパを支配したナポレオンがアレキサンダーやシーザーを蘇らせてアジアに侵攻して
それに対して中国は諸葛孔明を軍師にジンギスカンやティムールや項羽が対抗
一方中国から勧誘された日本は豊臣秀吉が漁夫の利を狙おうと画策。
楠木正成は武士にあるまじき振る舞いと拒否したため真田幸村が軍師になって孔明と対抗
なお途中の一騎討ちで

加藤清正vs関羽
佐久間盛政vs張飛
木村又蔵vs樊噲

という場面がある。
この本が明治17年刊行だから、当時は幸村=孔明レベル、清正=関羽レベルと思われてたんじゃないか

関連
近代デジタルライブラリー:午睡之夢 : 軍書狂夫
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/881948



966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 02:13:32.55 ID:u54HFJUl
>>964
ベタベタだけどすげー面白そう

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 06:34:46.79 ID:gscrk4Z0
>>964
そんな昔に厨二大喜びな小説があったのか

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 07:38:50.33 ID:l7Ys8WSi
>>968
そらお前、源為朝が琉球王朝の開祖とかの時点で、なろう小説とかわらないじゃないか

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 10:33:22.39 ID:kaC62K3R
>>964
うっかり日本の歴史に名を遺すと
死後もやたらと召喚されたり女体化されたり忙しいにゃー

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 14:11:34.22 ID:VQB9pWsr
>>964
フェイトみたいな有名人転生物の元祖って魔界転生かと思ってたけどもっと早いのがあるんだなw

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/17(日) 16:10:19.18 ID:c3m46MB9
>>964
近デジにあったんで目を通してみた。
・中国軍が欧州軍に勝利の後、ナポレオンを台湾(!)に流す
・対中国の軍議が紛糾した際、並み居る英雄豪傑の中にいきなり
 杉山地球守蓋世という作者のメアリースーが出てきて軍議をまとめる
・日中対決の場はまたしても朝鮮半島
・台湾からナポレオンが復活して、日本を襲う。しかも秀吉が斃れて、家康が後を継ぐ。
 もうめちゃくちゃだが、この時点で残りページ数が少ない。
 案の定、風呂敷をたためず、いきなり作者が夢から覚めて終了。

すごいものを見てしまった。

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/17(日) 16:23:34.62 ID:572Pakfc
>>983
>杉山地球守蓋世という作者のメアリースーが出てきて軍議をまとめる
クソワロタwいつの時代も変わらんなぁw

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/17(日) 16:46:32.04 ID:bUsPNyKz
地球守か、宇宙大将軍と比べるとまだ小物よ

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/17(日) 19:53:43.34 ID:LqN4OQEX
>>983
近デジに有るのかよって事で自分も開いて今から読むところだけど

「第六回 ナポレオン、力(ちから)ヒマラヤ山を抜き気アジアを蓋う」
(原文は片仮名部が漢字表記)

もう目次の文章だけで腹筋に候

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/17(日) 20:55:41.05 ID:sxNNr2BO
「午睡之夢」ってアニメ作ったら面白そうだ

989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/17(日) 23:07:31.87 ID:v5ECu0Fy
初っ端がサンダンジャクル城(アクル)でシドニーとフェリポと対戦
フェリポがナポレオンの同窓というので矢文でフェリポがナポレオンに通じていると偽情報を掴ませ離間の策

…架空小説ならトラファルガーかワーテルローか、エジプト関係ならアブキール湾での逆転を使いそうなのに
攻略に失敗したとはいえ、なぜ比較的マイナーなアクル包囲戦を
http://i.imgur.com/2AudXr2.jpg
http://i.imgur.com/9jt5sRF.jpg
http://i.imgur.com/A4hvsVq.jpg

【お知らせ】特別展『仙台真田氏の名宝Ⅲ』開催

2015年04月16日 17:53

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/15(水) 21:44:19.62 ID:9lRNCHZ+
真田幸村の甲冑は黒かった!?特別展『仙台真田氏の名宝Ⅲ』開催

戦国武将の真田幸村と子孫が残した逸品を紹介する特別展「仙台真田氏の名宝?」(蔵王町、町教委主催)が、同町のございんホールで開かれている。

http://www.zao-machi.com/wordpress/wp-content/uploads/2015/04/587dea111f9228b03a476d5b35eb68b81.jpg
587dea111f9228b03a476d5b35eb68b81[1]


幸村から数えて14代目当主の真田徹さん(66)=東京=が所蔵する15点を展示。
幸村が使ったと伝わる甲冑(かっちゅう)ややり、軍扇、六文銭旗など貴重な史料が並ぶ。

中でも、大坂冬の陣(1614年)の陣立て図は初公開。幸村が大坂城に築いた出城「真田丸」や徳川、豊臣両軍の諸将の配置が描かれている。

幸村は翌15年の大坂夏の陣で、一戦を交えた仙台藩重臣で白石城主の片倉小十郎重長に、子女をひそかに託した。
次男の大八は片倉守信と名乗り、現在の蔵王町東部に領地を与えられた。町は守信の子孫を「仙台真田氏」と称し、PRに力を入れている。

特別展は7月26日(原則月曜休館)まで。午前9時~午後5時。入場無料。




豊臣秀頼、出馬の事

2015年04月08日 18:44

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/07(火) 21:50:14.35 ID:dL07ArE8
慶長二十年五月七日、この日は大阪夏の陣における最期の戦闘となった天王寺・岡山合戦があったが、
豊臣秀頼は天王寺に出陣し、一戦を為して討ち死にすべしと言い、桜の門より出た。

ここに大野修理(治長)が御前に参り
「御出馬の事、先ずは前線にいる真田(信繁)と確認を取るべきでしょう。私が先に行って、
彼と会ってまいります。」
これに秀頼も「ならば遺書いで状況を聞いてこい。」と仰せになり、床机に座って桜の門に待ち居た。

大野が左衛門佐(真田信繁)の元に行くと、左衛門佐はこう言った
「現在、敵と5,6町(およそ5,600メートル)を隔てています。今、船場に備えている
明石掃部(全登)の人数を、幟をしぼって、この西の崖の影を密かに廻って、茶臼山より一町ばかり
先に張り出します。その合図を定めて、この陣より合戦を始める、明石の軍勢が横合いから掛かれば、
十に一つは利を得ることが出来るでしょう。
秀頼公の御出馬、一刻もお急ぎあるべし。」

これを聞き、大野は逸物の馬に乗って数十人を引き連れて駆け帰ったが、前日の合戦で生き残った
大阪方の軍兵たちは、これを見て敗軍したのだと思ってしまい、備も大いに乱れた。

大野は御前に戻ると、左衛門佐の指図の趣を申し上げた。その時、左衛門佐と一緒に居たはずの、
真田の子息である大助が御前に参った。そしてしばらくして「御味方、敗軍いたしました!」との報告が来た。

秀頼はこれを聞いても「出馬するぞ!」と言ったが、速見甲斐守(守久)御前に出て、
「御方敗軍と見えます。今、御出馬されたとしても大軍が崩れ掛かり、大敵を受けて何も出来ません。
御馬を戻し、御本丸だけを固く守り、時至らばお腹を召されるべきです。」
そう申し上げたところ、「その儀尤もである」と同意し、千畳敷へと入っていった。

しかし大阪城内は、このような状況であったので、軍兵多しといえども、皆気色を変え、心々に
落ちていった。秀頼はそのような光景を見ながら、奥の御所に入った。
しかし、かつて名高かった千畳敷も荒れ果てていた。その姿は、ここが完全に消滅した跡も想像させ、
なおいっそう哀れであった。

(豊内記)

豊臣秀頼が、出馬を断念した場面についての記事である。




慶長20年の軍評定

2014年12月26日 18:37

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 05:48:19.24 ID:JvE4goeo
慶長20年(1615)、関東と大阪の再合戦が起ころうとする時、豊臣秀頼は諸将を集めて軍事評議を開き、
「各所いかにせん」と諮問した。この時、長宗我部盛親が「真田殿、まず所存を申されよ」と
発言を促した。しかし真田幸村は「いや、長宗我部殿から先に語られよ」と遠慮し、互いに譲りあったが、
諸将も幸村に進めた。このため幸村

「そういう事ならば所存を申し上げます、去る冬の合戦では、城郭も固く兵糧も多くありましたので、
日数を経る内に、西国衆の中に必ずお見方に回るものも現れようと量っていたのですが、存外に速く
御和睦になり、かつ堀も埋め立てられましたので、今は籠城すべみ手立てはありません。ただ打ち出て
戦うより他ありません。

然れば、君(秀頼)の御出馬がなくては叶いません。
それには先ず、宇治瀬田の橋を落としこれを要害として固く守り、その上で、合戦の様子によって
また手立てを考えます。そうして、御運所は天に任せ、ともかくも御上洛あって、一度は天下の主と
なられ洛中の御政治を行わば、末代までの名聞、これに過ぎたるものありません。」

これに盛親はじめ後藤、木村、速水その他の諸将も一同に「然るべし」と同意したが、大野修理(治長)一人
「秀頼公の御出馬あること然るべからず」と幸村の提案に同意しなかった。
このため諸将は心中に疑いを生じ「修理の母は現在関東に人質に出ているので、修理の心中は図り難い。」と
評議もまとまらず、決定のないまま終わった。
真田幸村は後で嘆息し言った。
「修理は秀頼公を大事に思い、出馬あることを危ぶんで同意しなかったのであろうが、結局は
軍事に疎いゆえそうしたのだ。是非に及ばぬ。」

その後修理の母は関東より帰り、引き続き関東の大軍が伏見の到着したと聞こえ、秀頼はまた諸将を集め
評議に及んだ。盛親はまた、幸村に発言を譲った。幸村は語る
「大御所は昨日伏見に着陣し、軍兵の疲れも休めず茶臼山に陣を移したそうです。
伏見から13里の行程ですから、軍兵もいささか疲労することでしょうから、明夜は関東勢、たとえ甲冑を
脱がないとしても必ず熟睡に及びます。ここに夜討を成功させる条件は整っています。
私が夜討をして、勝負を決します。」

ここで後藤基次が進み出て発言した
「真田殿のご意見は、私の考えていたことと全く同じです。明夜必ず討たねばなりません。
さりながら、真田殿が行って向こうで万一のことが有れば。当城に軍師がいなくなってしまいます。
軍師がなければ合戦が出来ません。されば、真田殿は城に残られよ。私が貴殿に変わり馳せ向かって
勝負を決します。」

しかし幸村は「いや、私が馳せ向かって大御所を打ち取る!」と言い、基次も「後の合戦が大事であるから、
幸村殿は無事に当城に置かれるべきである!」と譲らず、ついに口論となり夜討することなく終わった。

この両人は、本来私の口論で合戦の大事を取り外すような人物ではないのであるが、どういう訳かこの時は
夜討を諦めたのである。これも関東の御運が高かった故であろう。

(明良洪範)



91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 06:52:39.35 ID:E/BfeLMc
大坂方の勝利を信じて戦った牢人って、どれくらい居たんだろうな

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 07:06:04.83 ID:yBRc+hLT
流石に夏の陣ではいないだろうなぁ

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 07:41:47.96 ID:kbf2BkNS
秀頼はもうすでに死んでいてあれは影武者だったんだよね
外に出せば露見するんで出せなかったわけさ

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 08:17:14.34 ID:ovKzWd01
有名な話だけど改めて読むとなるほどって思うな。冬の陣が残念なのはわかった。

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 20:04:51.69 ID:1FGcX7IZ
温存しすぎて戦力を活かせないパターンか

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 23:14:56.05 ID:UBPhGHt0
FFでエリクサー勿体無くて使えない症候群の人は大坂方を責められんな

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 23:26:41.89 ID:31wocBR8
大坂方は補充が効かないからなあ
「なくなるかも」でずっと身動き取れない

真田幸村の知恵の地蔵尊

2014年11月06日 18:53

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/06(木) 13:19:52.11 ID:01rBm0fR
真田幸村の知恵の地蔵尊 石の半跏座像

寛政六年(一七九四)高松神明宮宝性院の社僧が紀伊国(和歌山県)の
伽羅陀山善名称院(真田庵)に安置してあった真田幸村の念持仏を拝領して
持ち帰り、三間四面の地蔵堂を立て、『幸村の知恵の地蔵尊』としておまつりしました。
地蔵堂の台石をさすり、子達の頭をなでると知恵を授かると信仰されています。

京都市高松神明神社由緒略記より抜粋

高松神明神社は九百二十一年創建の源高明親王の高松殿旧跡の社で永禄八年(一五六五)に
宥玉法印が社僧となり「神明宮宝性院」と号し、真言宗東寺宝菩提院に属することになりました。

家人が京都出張の際、十月の例祭に行き逢い、御由緒を持ち帰りましたので転記しました。
「念持仏というから小さいかと思ったら、普通の大きさのお地蔵様だったよ」との家人の言葉でした。



162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/06(木) 19:06:44.97 ID:LdCDcq7/
>>160
高松神明宮宝性院、社僧という字句に神仏習合を感じるね

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/06(木) 21:54:15.85 ID:/xgbgvQM
鬼の様なる~の歌があるから猛将イメージだったのかなと思いきや
江戸時代でも知将(知勇兼備?)のイメージだったんだな