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『浅井一政自記』より、天王寺・岡山合戦の模様

2020年10月01日 17:09

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/30(水) 23:06:55.57 ID:y9xqxqNT
慶長二十年
五月七日の巳刻(午前十時頃)に、寺尾勝右衛門が真田(信繁)の所から使いに参り
「敵合近くなりました。合戦が始まります。」と申し来た。

秀頼は装束の間に入られ「修理を呼べ」と仰せになり、修理(大野治長)が参ると、この事について
勝右衛門と談合に成られた。修理は「最前も固く申しあったように、秀頼公の御馬が出るのを合図に合戦を
始めるという事になっている。今もその事に変更はない。」と申した。
私が「勝右衛門は年寄でくたびれている様子ですから、私を御使いに行きましょう。」と申すと、
修理も「一段尤もである。急ぎ向かうように。」と申した。

茶臼山には真田、丹後(伊藤長実)、伊桑(野々村幸成)、図書(堀田盛高)、伊木七右衛門などが
一所に居た。御使の通り申すと、丹後が「ならば我々は、それぞれの備に参ろう」と申して、下に降りた。

私は真田に「御使に参りましたが、敵合が近いので先に参ります。」と断って、伊木七右衛門の子・半七(尚重)
と同道して先に参った。敵合二、三町あたりへ乗り回して帰った。先に出た事については、この家中の
者共が多く見ている。

七日の午刻(正午)に、敵味方七、八町を隔てて人数を立ち並べた。敵より三人乗り出して参った。
私は白き角取りの紙の指物を指して、畠を筋違いに、阿倍野街道筋へ一人鑓を取って出た。
敵が一人先に進んで来たのを鑓にて突き伏せ、首を取った、この時鑓の塩首が折れた。
その時、真田新参の徳岡十右衛門という者が続いて参った。その内に四方に黒煙が立って、
その後どうなったかわからなくなった。ここにて本多出雲殿(忠朝)、小笠原殿(秀政)など
討ち死にしたと聞いた。これがこの日の一番合戦であった。

この一番合戦で私より先に出たものは一人も無かった。これについて、徳岡十右衛門が現在京に
居られるので、お尋ねに成って頂きたい。大場にての事であるので、諸人見及んでいる。
稲葉丹後殿(正勝)家中に居る山口勘右衛門も私が懸かった事について証言している。
その様子を沢田次右衛門と申す者の方へ書状を送っている。

浅井一政自記』

大阪夏の陣の天王寺・岡山合戦について。
自分の軍功について念入りに書いているのが、いかにもこの時代の武士ですね。



609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 02:22:48.19 ID:pyId+6bq
大野治長が治房の家来に襲われて大体一か月程度
脇から肩を脇差で刺された後だってのに忙しいなぁ
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