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真田幸隆、危機一髪

2018年08月21日 19:42

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/21(火) 15:28:31.73 ID:e2ACyTJw
甲斐・越後の軍兵たちは互いに名乗り合い、火花を散らして戦い申した。

その中で真田弾正幸隆は傷を負って引き退くところを、上杉方の高梨源五郎頼治が名乗りを
上げ、真田とむずと組んで押し伏せ、鎧の脇板の隙間を二刀刺し申した。

そのうちに保科弾正(正俊)が取って返し、「真田討たすな兵ども!」と言って戦い申した。

真田の家人・細屋彦助は下に合わせ高梨源五郎の草摺の外れ、膝の上より討ち落とし、主の
敵を取った。これより保科を“槍弾正”と申したという。

保科もその時に越後方の大将に取り籠められ、すでに危うく見えたところを後詰の侍の海野・
望月・矢代・須田・井上・根津・河田・仁科ら9人の侍がこれを見て「保科討たすな人々!」

と大勢で一度に鬨を揚げ追い散らし、越後の本陣近きところまで切り掛かり申した。そこを
越後の後詰の陣所より斎藤下野守朝信・柿崎和泉守景家・北条安芸守・毛利上総介・

大関安房守ら3千余勢が鬨の声を揚げて切り出て、追い返し押し戻し戦い申した。敵・味方
の手負い・死人、算を乱して数を知らず。

謙信も紺地に日の丸、白地に“毘”の字の旗2本を押し立てて原の町に備を立てられた。

――『川中島五箇度合戦之次第』

真田幸隆、危機一髪



46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 09:19:26.55 ID:OFF1GAII
高梨頼治って
真田信繁の傅役の高梨内記の兄説があるようだけど
この逸話を見ると無理があるような
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村上義清麾下の勇者五百が殲滅された顛末

2013年10月15日 19:43

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/15(火) 05:13:56.96 ID:Ctov/Cob
天文15年(1546)、武田晴信の配下である真田弾正幸隆の元から、二人の武士が村上義清の元に逃げ込んできた。
彼らは須野原若狭・惣左衛門兄弟。元々海野家の家老筋の一族であり、武勇に優れ、智慧と才覚があり、
戦の技術をよく身につけていた。

義清もたちまちこの兄弟を信用したが、そこで兄弟は
「我々は真田の城の事を良く知っており、これを奪って差し上げたいと思います。そのために、優秀な武士を選んでお貸しください」
と提案した。

義清はこれに乗り、旗本の騎馬武者まで出して、有能な武士500人を選んだ。
そして充分に用心し、慌てぬようにと言い含めた上で、須野原兄弟に引きあわせた。
そして兄弟には、乗馬、鞍、太刀、脇差、朱印の付いた知行の目録を添えて出した。

兄弟は太刀と脇差だけを受け取り、他の物は返して
「近いうちに作戦を成功させた上で参上し、重ねて頂戴いたします。」
と申し上げ、義清の言うとおりに熊野の牛王の起請を書き、そして村上家選り抜きの武士たち500人を率いて
真田の城へと向かった。

侵入は成功し、彼らは二の郭まで入った。

その時、前後の門が突如閉ざされ、本城と三の郭より挟み撃ちにして、村上勢500人は、一人残らず討ち取られた。
味方の死傷者は皆無であった。

これは真田幸隆の謀略であり、これによって、翌年の上田原の戦いで、武田晴信は勝利を治めたのである。

(甲陽軍鑑)

村上義清麾下の勇者五百が殲滅された顛末である





484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/15(火) 06:12:59.15 ID:BvHguEef
>>483
横山光輝の絵が浮かんだ

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/15(火) 10:06:03.47 ID:/XH27CqB
ジャーンジャーン、げえっ

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/15(火) 15:12:32.37 ID:oHFTAcwH
津軽為信!

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/15(火) 15:38:25.47 ID:uP2U4DJm
上田原って武田の負けじゃないっけ?

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/15(火) 15:45:16.65 ID:hoyotCI2
戦国時代の話を読んでるとなんとなく麻痺してくるけど、ふと現代人としての感覚に立ち返って考えると凄い画だよな
500人を囲い込んで皆殺しって

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/15(火) 18:19:39.28 ID:4q8jqKeB
板垣や諸角が討ち取られて晴信も手傷を負ったのは、
騙まし討ちされた将兵の怨みを晴らさんが為、
村上軍が獅子奮迅の働きをみせたから。

すごいいい話になる

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/15(火) 18:24:51.94 ID:4q8jqKeB
諸角じゃなくて甘利だった

491 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/10/15(火) 21:10:06.36 ID:P1u3Of2P
俺も挟み撃ちにされて皆殺しにされたい

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/16(水) 06:44:32.97 ID:SXhTaggh
尿道と肛門に俺のマドラーぶっ刺してかき回してやんよ

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/16(水) 12:37:05.81 ID:VLp4v6e/
ん?
こりゃ楊枝か?

真田幸隆・長国寺縁起

2012年08月31日 20:51

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 23:02:30.26 ID:RWWxqdIw
真田幸隆は村上義清によって真田の地を追われ、上州箕輪に逃れて長源寺という寺に身を寄せた。
この寺での幸隆の扱いはけして良いものではなかったが
寺で知客の役にあった晃運という僧が幸隆の境遇を憐んで何かと世話を焼いてくれた為
二人は遠慮のない親しい間柄となった

ある時幸隆は戯れてこのようなことを言った。
「禿坊主、お前は儂に良くしてくれた。真田を取り戻したら寺を建てお前を招こう。」
晃運も怒ったような真似をして答えた。
「貴殿は臆病者である。はたして何が出来よう。」
そして二人は大いに笑いあった。

のちに幸隆は武田信玄の配下となって村上義清と戦い、これを越後に奔らせた。
旧領真田を取り戻した幸隆は長国寺という寺を建て、真田山と号して晃運を開山にし徳に酬いた。

『長国寺記』





三村の役米

2011年09月07日 22:26

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 22:46:05.99 ID:wJtlgc53
江戸期の上田藩内にこんな話が伝わっていた。
真田幸隆が箕輪に走る前、その領地は藩内の甲石・原・横尾の三村
 千六、七百貫文(石高にして三、四千石)であった。」

その証にとされていたのはこの三村にのみ正税のほかに外田役米として
米八十九石(甲石二十八石・原三十四石・横尾二十六石、およそ300俵)が課せられていたことであった。
幸隆がこの地を去り、その主家であり小県の一帯を支配していた海野氏が滅んでも
その支族妻子の危急を忍びなく思った村々の者たちは年々それだけの物を供し続けた。
それが綿々と続き遺習となって残ったのがその役米であるという。