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室賀正武謀殺

2020年03月03日 17:06

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/03(火) 00:42:44.47 ID:Zrb3PBKC
かくて(天正壬午の乱の結果)、信州一国は徳川家康公に属し奉ったが、同年(天正十一年)十月、真田安房守(昌幸)は
信州国中を従えんと企み、先ず室賀兵部太夫(正武)を討つべしと、一門が一手になって室賀の館へ押し寄せた。
兵部太夫は自ら討って出て、篠山において火の出るほどに戦い、互いに郎党が討たれ相引きに撤退した。
しかし翌日に安房守勢はとって返し攻めかけたことで、室賀方は内より和を乞い、これを安房守も許して
帰城した。

室賀は真田に屈することを無念に思い、翌天正十二年六月、家臣の高井彦右衛門尉を以て遠州の家康公にに申し上げた所、
家康公より「何としても謀を以て真田を討つべし」と仰せ寄越された。室賀は斜め成らず悦び、真田を油断させるため、
いよいよ以て上田を訪問し彼らに懇切にした。

ある時、上方より囲碁の上手が上田を訪れたため、室賀も彼と囲碁を囲む事に招待された。室賀は「良き時節」と心得、
日限を定めて、同苗孫右衛門を以て、『来月七日に真田が居城へ碁の会に参り候。その時昌幸を討とうと考えており、
御加勢を下さりますように。』と。家康の重臣である鳥居氏の方へ申し使わした。

ところが、この孫右衛門が内々に安房守へ心を通じており、そこから直に上田へ行き、この旨を申した。
昌幸は悦び、孫右衛門を馳走して返した。

室賀は準備が整ったと思い、家の子の桑名八之助、相澤五左衛門尉、堀田久兵衛などを従えて上田に参った。
昌幸は兼ねて用意のことであり、彼を書院へと招いて囲碁を始めた。
この時、昌幸方で、室賀の討ち手は長野舎人、木村戸右衛門と決められており、この座にあった
禰津宮内大輔、麻里古藤八郎、長命寺、安楽寺、などの合図があると、長野、木村は次の間より太刀を抜いて
乱入し、室賀兵部太夫を無情にも殺したのである。

室賀の家臣である桑名、相澤、堀田たちは聞くより早く殿中に斬り入って散々に戦い、三人共に項羽の勇を
顕したが、多勢の敵に取り囲まれ、遂に生け捕りとなった。
この三人は後に心を変じて真田に仕え、無二の忠を尽くした。この時、桑名八之助は深手を負った。

室賀に於いては、この事を聞くと、妻、子供たちは取るものもとりあえず甲州へと落ちていった。

(加澤平次左衛門覺書)

『真田丸』でも描かれた、室賀正武謀殺のお話ですね。




876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/03(火) 06:27:25.79 ID:pgqA0lOw
黙れ!小童!

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/03(火) 08:57:02.26 ID:xH2zkPKl
最期のセリフでいうかと思ったらそのセリフ言わなかった

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/03(火) 15:04:15.57 ID:YETpin/L
茶坊主が正解
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安房守の死と大坂の陣の左衛門佐

2020年02月28日 16:37

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/28(金) 01:22:07.17 ID:eWP8eY2H
或いは云う。真田安房守(昌幸)は大阪の一戦(大坂の陣)の三年前に、高野山の麓、瀬良という場所で病死した。
その死に至ろうという時、息子の左衛門佐(信繁)にこのように語った

「私が今から三年存命していれば、秀頼公へ容易く天下を取って進上すべきものを。」

左衛門佐はこれを聞くと、「いかにして天下が秀頼公に服させるのでしょうか?」と尋ねた。
しかし安房守は
「重病故に、心乱れて筋無き事どもを申してしまった。どうやって、今や乞食同然に成り果てた私が、
天下を取って秀頼公に進上するというのか。」と、答えなかった。

左衛門佐これに
「私に対して御慎みはあるまじき事です。是非、思っておられることを仰せ聞かせて下さい。これは懺悔の御物語とも
なるでしょう。」と、たって所望したため、安房守は

「そういう事であれば、懺悔の物語として聞かせよう。おそらくここ三年の内に、家康は叛逆して軍兵を催し、
秀頼と討ち果たそうとする事は必定、掌の如くである。その時私が存命ならば、人数三戦ばかりを引き連れ勢州
桑名を越えて備えを堅く立てれば、家康は私が数度手並みを見せているので、真田が出向くと聞けば家康も
容易く懸け向かう事は無い。そして暫くこれを相支える内に、太閤の御恩賞の諸大名多ければ、大阪へ馳せ集まる
人も多いであろう。そして家康勢が押しかかって来れば、桑名へ撤退し、また先のように相支え、又押し懸けて
一戦せんとするならば、さらに撤退してそこで支える。そのようにしている内に、こちらは悉く人数が集まるであろう。

さて、我等は勢多まで撤退し、勢多の橋を焼き落とし、こちら側には柵を付けて相支えれば、数日ほども経す内に
畿内の人数が馳せ集まる事、掌の如きである。然らば天下を治めること、手の裏に有り。

…と云うものの、これは皆妄念の戯言である。長物語に、胸が苦しくなった。水を飲もう。」

そう言って水を飲み干すと、そのまま死んだという。

その後、左衛門佐は大阪に籠城した折、安房守の末期の一句の謀術を献案したものの、諸将の評議紛々となり、
その意に任せることが出来なかった。秀頼校も諸将の言に迷い、左衛門佐の申すに任せなかった。

そのような中、左衛門佐が柱にもたれていた所、武見の者来て、「大和口より猛勢が押し入りました。
伊達陸奥守(政宗)です!」と申す所に、また一人来て「陸奥守の勢の跡より猛勢が押し入りました。
越前少将(松平忠直)です!」と報告した。しかし左衛門佐は少しも変わる気色無く、

「よしよし、悉く入り込ませ、一度に打ち殺そう。」

と、さにあらぬ体であったので、諸士、その器量を感じたという。その後、左衛門佐が人数を出した所、伊達の
先手騎馬鉄砲と言って、馬上にて鉄砲を撃つ兵五百騎が、鉄砲を並び立てて、敵の向かってくる所に馬を乗り入れ、
駆け乱た所に、後ろの勢が押し込んで切り崩すという備えであった。
左衛門佐はこれを見て士卒悉くを伏せさせ、鑓衾を作り前に鉄砲を並べて打ち立てさせ、そのしおをみて
一度にどっと、牛起きに起きて突き懸れば、騎馬鉄砲は却って敗軍した。

左衛門佐は勝って兜の緒を締めた。伊達方の兵再び集まり向かって来る間に、左衛門佐は諸卒に下知して曰く
「炎天の事なれば、皆々兜を脱げ」
と言って兜を脱がせたのだ。伊達勢が近々となった時、諸卒は兜を着けようとしたが、左衛門佐はそれを着けさせ
なかった。敵との間が一町の内に及んだ時、
「では兜を着けよ!」
と下知した。その時悉く兜を着けたが、心が金石のように成り、その勢いで切って懸かると、伊達の備えを
切り崩したという。

この他、左衛門佐の数々の軍略は、人の耳口にあまねき事であるので皆記すに及ばず。
大阪合戦で諸将の働き、秀でたる事ども有りと言えども、左衛門佐が第一に秀でていたのは、
その器量ある上に、平生より武術の学びを怠らなかった顕れであると、人皆感ずる事也。

眞田記



これは皆、其の方のためではないか

2020年02月27日 17:01

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/27(木) 01:13:44.70 ID:CSksC/7s
豊臣秀吉公が御他界された時、その嫡子である秀頼公は幼少であったため、御遺言に寄って天下に
四奉行(原文ママ)を定め置かれた。そして東国表に事が起これば家康公鎮め給えと有った。

さて、石田治部少輔(三成)は天下を奪うべき邪念を持っていたが、家康公を先に滅ぼさねばそれは
成り難しと考え、上杉景勝と申し合わせて景勝に反逆の色を立てさせた。これに対して家康公御父子は
軍勢五万八千にて御発向された。そして家康公は下野国宇都宮まで御下向され、秀忠公は同国小山に
御陣を据えられた。

この時、真田安房守(昌幸)も家康公に相従い下野国佐野の天明(現在の佐野市天明町)まで出馬していた。
天明より宇都宮まで上道九里、宇都宮から小山へは天明の方向に向かって四里という場所であった。
ここに於いて、石田治部少輔方より真田へ書状を以てこのように伝えてきた。

『今度景勝反逆の事は、某が申し含めた、家康を討ち取る企てである。其の方もこれに与し、家康を
討ち取るのだ。さすれば、其の方の本国である信州は申すに及ばず、甲州も其の方の故主である信玄の
国であるから、この両州に駿州も加えて与えるであろう。』

そう熊野の牛王に誓紙血判して遣わされた。
これを見て真田は俄に心変わりをし、家康公を討とうと考え、幸いにも子息の伊豆守(信之)が家康の
御旗本に在ったため急使を遣わし『談合すべきことあり、急ぎ天明へ来たれ』と伝えた。
そして伊豆守が天明に到着すると、安房守はこのように言った

「其の方を呼んだのは他でもない、今度の上杉景勝の反逆の事、彼一身の企みではない。石田治部少輔と
牒を合せて、家康を討つという謀計なのだ。景勝の反逆として家康が関東に向かえばその跡より軍兵を
起こして家康を討ち取るという。然ればこの安房守には、景勝と牒を合せて味方すれば信甲駿の
三州を宛行うとの盟誓の状を石田方より差し越した。であれば、其の方のため、又子々孫々のためであるから、
其の方が家康を討ち取るのだ!」

これを聞いた伊豆守は
「最もな仰せであります。ですが其の事は是非に及びません。何故ならば、家康公はその威儀を見るに、
中々謀にて打てるような人物ではありません。逆に石田に与すれば、幾程もなく滅びてしまう事明らかです。
家康公に与し給われば、子孫長く永福となるでしょう。」

これに安房守は
「其の方には分別が無い!どうして三ヶ国を領すると思っているのか。私には既に余命がない。これは皆、
其の方のためではないか!」

そう強く翻意を促したが、伊豆守は頑なに同意しなかった。安房守は仰天し、立腹して
「其の方は妻子に心が残っているのか!これは勇士の業ではない!」と色々の悪口に及んだため、
伊豆守はその座を立ち破り、馬に乗り鞭を揚げて宇都宮に帰り、家康公にこの趣をありのままに申し上げた。
家康公はこれを聞いて

「伊豆守が忠義の程、山よりも高く海よりも深い。これはそれを忘れまじき証拠である。」
として、差されていた脇差の下緒の先を切って伊豆守に与えた。

眞田記

いわゆる「犬伏の別れ」についての内容ですね。この場合は天明という場所ですが。



真田が尤もである。家康の誤りである

2020年02月26日 17:03

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/26(水) 03:13:31.93 ID:ZNrPeW1P
羽柴秀吉公が天下一統に治められた時、真田(昌幸)は秀吉に従った。これに対し徳川家康公は、
彼が後の禍を成すべき者と思われたのか、秀吉公にこのように仰せられた
「真田が息を本多中務(忠勝)の聟にしたいのです。」
秀吉公は「尤も然るべし」と仰せに成り、これによって家康公は真田方へ使節を以て
「その方の御息を本多中務の聟にしたい」
と仰せ遣わされた。ところが真田は使節に向かい
「そんな使いであるはずがない!使いの聞き誤りであろう。急ぎ帰ってこの旨を申されよ!」
と伝えた。これに対し使節はいよいよ「伝える内容はこの通りです。」と云ったのだが、
「いやそうではない」と受け付けようとせず、仕方なく使節は帰り、この事を報告した。

家康公は合点に及ばなかったので、これを秀吉公に御物語された。すると秀吉公の仰せには
「それは真田が尤もである。家康の誤りである。『中務が娘を養い置いているので(養女にしているので)、
某の聟に』とあらば承知するであろう。」と仰せになった。家康公も「御尤である。」として、この趣にて
再び仰せ遣わされた所、真田安房守も同心して、子息伊豆守信幸との祝言があった。
この時伊豆守は十八歳であった。

眞田記

実際には真田信之小松姫の婚姻は、信幸二十三歳頃(天正十七年)だったようですね。



689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/26(水) 09:23:02.04 ID:2mY1Il8v
真田系の作品には必ずと行っていいほど出てくる有名なエピソードやね。

大名の嫡男の正室が他家の陪臣の娘ってなんじゃそりゃというのは、そのとおりだし。

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/26(水) 15:23:12.51 ID:sue4eaxm
東国無双の娘なのにな

八王子城攻めに至る経緯

2019年11月13日 17:55

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/13(水) 16:44:04.13 ID:zp2lld1A
天正十八年小田原の役に於いて、北国の両大将である前田利家上杉景勝、および信州の真田昌幸らは、
三月十八日には松井田城を降伏させると、そこでしばらく休息し、兵糧の調達を終えると、松井田城代
であった大道寺父子(政繁・直繁)を手引として、倉賀野、箕輪、厩橋といった城へ押し寄せ次々と
降伏させた、

四月十二日には武州比企郡松山城の攻略にかかる。松山城主である上田自芸斎(憲定)と息子上総介憲定は
小田原に立て籠もっており、留守居役は難波田因幡守、木呂子丹波守、金子紀伊守、山田伊賀守、
同一兵衛、比企藤九郎ら二百余人、雑兵二千三百余がこれを守っていた。

前田利家・利長父子は大手、上杉景勝は搦手と決め、これに毛利、真田、小笠原、そして案内の大道寺の
兵が加わり、先ず遠攻めにして近辺の里や村、山林を伐り攻めやすくして準備を整えた。
城中の者たちはこの様子を見て、その大軍に既に戦意を失うと、城下の寺僧を仲介として降伏を申し出た。
その条件は、本丸、二の丸を渡し、三の丸に諸士の妻子を入れ置くというものであった。

寄せ手の大将たちはこれを受け入れ和睦し、その降人を案内として、北条安房守氏邦の家人たち四百人
ばかりで籠もっていた本田郷西山城に取り掛かると、城兵は一戦にも及ばず鉢形城へ逃げ出し、戦うこと無く
落ちた。次いで河越城へ向かったが、これも降伏をして戦いにならず、かくして北国勢は刃に血を塗ること
無く数城を落とした。

この上は小田原城攻めに合流するとのことで、同二十一日箱根の笠懸山に至って秀吉に謁見し、一部始終を
報告すると、秀吉は事細かに尋ね感心はしたものの、これを褒める言葉はなく。前田利家上杉景勝
腑に落ちぬ顔で引き下がり、

「我等の今回の武功は、それほど空しかったというのか。」
「左様である、激しく戦うことこそ無かったが、数城を抜いたこと確かである。」
「無血であろうとも。将兵を多く傷つけ諸城を落とすより功大かるべし。」

そのように不満を述べた。

その夜、秀吉は近習にこう語った
「北国、信州の諸大将、諸士の働きは見事でありその功も大きい。しかし皆降参させてしまった。
戦というものは、一城は帰順させても、一城は攻め殺してこそ、一張一弛の法にかなうものである。
でなければ他の関東の諸士への見せしめとならない。だからこそ強いて褒めなかったのだ。」

両将は後でこれを聞くと尤もだと思い
「さては八王子の城を襲って皆殺しにしてくれん。」
と、利家、景勝は早速小田原の陣営を引き上げ、同月二十三日、急に兵を発して八王子へと向かったのである。

(関八州古戦録)

八王子城攻めに至る経緯

続き
八王子城の戦い


568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/13(水) 17:59:21.35 ID:MuGqZJnG
とばっちりもいいところだわ

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/13(水) 23:00:59.45 ID:ZnQE/54F
「もう逃げた方がいいよね」

「囲まれても降伏すれば助けてくれるみたいだから大丈夫だよ」

「場合によっては次の城攻めの豊臣軍の先鋒になるかもな」

「関白は元農民だって言うし俺も手柄をたてれば武将かもな(^^)」

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/14(木) 04:40:49.06 ID:biVTa3Lm
八王子城の運が悪かったのは、城兵3000人いたとはいえ、女子供含めてだったので、
15000人で力攻めできてしまう程度の戦力だったことだろうなぁ…。
城主の氏照は小田原行っちゃっているし。

大規模な山城なんだし、周囲には出城、付け城も多数健在だしで、
本来なら5倍程度の兵力差なら1日で落ちるなんてことはない。

神流川の戦い、戦後

2018年10月13日 17:06

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 16:15:45.83 ID:asM7S4h2
(神流川の戦い敗戦後)

厩橋城に引き返した滝川一益は、今日討死した人々の姓名を書き記して金銀を添え城下の寺院へと送り、
追善供養を頼んだ。その後、一益は上野衆を招き集めて終夜酒宴を開き、自身で鼓を打って謡を歌った。
その後、一益は扇を取り直し「兵の交り頼み有る中の酒宴哉(謡曲『羅生門』の一節)」と歌い舞えば、

倉賀野淡路守(金井秀景)も拍子を取り「名残今はと啼く鳥の(謡曲『源氏供養』の一節)」と歌って
互いに興に乗じた。さて一益は太刀・薙刀ならびに金銀や、その他日頃秘蔵した書画・珍器を尽く取り
出し、上野衆に授けて今日の一戦の功労を賞した。一益は鳥鳴く空も明けると暇乞いし、

「厩橋城を打ち立つ」と言って、人々の人質をすべて各領地へと帰した。上野諸将は皆一益の大勇義信
に感動して涙を流し、倉賀野まで付き添い送った。沼田城では真田安房守(昌幸)が郊外に赴いて迎え、
厚く馳走し諏訪まで送って来た。一益は始めは木曽路を気遣っていたのだが、

木曽左馬頭(義昌)も一益の義勇に感動したのか軍勢を数多差し添え伊勢長島の一益の所領まで送った。
一益が難無く帰国したところ早くも光秀は誅に伏し、三法師丸(織田秀信)は織田殿の家督として安土
に在城していたので一益は安土へ参り拝謁し、つつがなく居城の長島へ帰った。

世人は一益を称して“鬼滝川”と字せしという。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武徳編年集成)』

神流川の戦い一日目
神流川の戦い二日目



349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 18:08:58.32 ID:7+dcbMCb
鬼滝川
神流川

字面的にあってるような

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 20:57:54.90 ID:06zbrJY1
コロッケの弟子の神無月がなんだって??

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 21:50:37.32 ID:JrNRmdHT
立ち振る舞いが爽やか過ぎるのが一益の美点であり欠点だったんだろうか
酷い立ち回りだが武略知略を感じさせる鬼武蔵と逆だったらどうしてたか気になる

白井百人衆謀討

2018年05月30日 19:55

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/30(水) 19:08:50.93 ID:Q6o9fFY/
天正12年正月上旬の頃のこと
当時、白井長尾の家中には百人衆と言う、歩行の武士集団があった。
正月に、沼田衆の林太郎左衛門、吉野太郎右衛門、吾妻衆の井上金太夫は、私曲あって
沼田の真田家から立ち退き、白井に属し、この百人衆の一員となった。

ところが程なく真田家への忠信を立てて故郷に帰りたいと思うようになり、3人は談合して
この事を真田家の高橋右馬允へ申した。右馬允がこれを金子美濃に相談すると、
「その方、上田へ参りこれを注進せよ」という事になり、高橋は丸山土佐守、木村戸右衛門を
通して真田昌幸にこれを申し上げると、昌幸は非常に喜び

「神妙の事である。卒爾無きように計るべし!」

そう仰せになった。そこで高橋はお暇を乞い戸鹿野へと帰った。
かの3人の者たちは、指示に従い百人衆の朋輩たちをたぶらかした
「沼田の鹿野には有徳(裕福)の者が多い。夜討ちして金銭を奪い取ろうではないか。」
そうして130人が申し合わせ、林、吉野、井上が案内して戸鹿野へと忍び入った。

しかし、かねての計画通りであり、彼らが侵入した所で橋を外し、四方より取り巻いて
襲撃した。このためまたたく間に120人余が討たれ、水練の達者であった5,6人のみが
助かり、白井に帰ることが出来た。

この忠節により、高橋右馬允は昌幸より知行を賜った。

(加澤平次左衛門覺書)



828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/30(水) 19:42:23.53 ID:m3QtbrAB
うーん、敵方をほいほい受け入れてはいけないのだな。120人討死って、大損害じゃないの。

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/30(水) 21:50:14.33 ID:8830ayA8
>>828
この場合の120人て小者は無しだろうから
いきなり侍大将120はキツすぎると思う

真田幸村の智謀

2017年01月18日 10:08

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 19:09:15.70 ID:qJMrCMga
真田幸村の智謀

上田籠城の時、織田、徳川、北条の三将、二十余万の大軍を以て百重千重に取り囲み、水も漏らさぬばかりに
ヒシヒシと取り詰め、哀れ上田城は粉々に踏み崩されんとしていた。
これには流石の真田昌幸も、城兵僅かにニ千余り、今は防御の術も尽き、如何にすべきかと思案し、苦慮して
いた所、倅の幸村、当年十四歳であったが、彼が『鶏卵煎り砂の謀計』を考えだした。

彼は鶏卵を二つに割り、中身を取り除いてこの中に煎り砂を入れて合わせ、水に浸した紙を割口に巻いた。
これを数万作り出し、それぞれの櫓に十籠、二十籠づつ取り備え、寄せ手を遅しと待ち構えた。

頃は天正十年三月二十五日の朝(ちなみに実際の第一次上田合戦は天正十三年閏八月である)、
織田徳川北条の軍勢はどっと鬨の声を作り押し寄せ、鉤縄打ち掛け勇みに勇んで攻め立てた。
城中よりは「時分はよし」と、件の鶏卵を合図とともに投げつけた。

兜面頬があっても、当たれば砕け、煎り砂は兵士の眼に入り、さしもの勇者たちも暗夜をたどるに
異ならぬ有様。城中よりはこれをみすまし、「時分は良きぞ」と、松本口の織田勢には真田源次郎(信之か)、
軽井沢口徳川勢には隠岐守信尹、笠ヶ城北条勢へは与三郎幸村、何れも三百余人を率いて鬨を作り
攻めかかれば、盲目に等しい寄せ手の面々は戦うことも出来ず、我も我もと敗走し、同士討ちするものも
あり、踏まれて死ぬものもあって、二十余万の大軍が、雪崩掛かって落とされたのは、たいへん見苦しい
有様であった。

この状況に信長は、如何にすべきかと思慮を巡らしたが、今だ良き工夫もつかぬ所に家康が現れ、
「鶏卵煎り砂の目潰しを防ぐためには、竹束を以て盾とし、鎧の袖を額にかざすより他、術がないでしょう」
そう献策した。
これにより夥しい竹束を用意し、またもや押し寄せた。

しかし幸村は「煎り砂に懲り果てた敵兵は、今度はこれを防ごうと竹束の盾を必ず用意してくるであろう。」
と推察しており、あらかじめ多くの投げ松明を用意していた。
果たして先手は竹束を束ね、、後ろに太い棒を取り付けた物をひっさげ、目潰しの鶏卵が今や降ってくるかと
待つ所に、城中は静まり返って音もせず、寄せ手充分に近づいた所で、一発の銃声が響くとともに、三方の
櫓より松明が投げつけられた。
すると油を注いだかのように、竹束はみるみるうちに燃え上がり、寄せ手の者達驚き騒ぎ、消そうとするも
うまく消火もできず、散々となって我先にと敗走した。

(芳譚)

何故か甲州征伐とごっちゃになっている上田合戦のお話



528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 21:11:13.13 ID:n+P9kTbE
>>527
鶏卵数万w

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 21:11:38.99 ID:/3OBSLpx
幸村が活躍するなら、そんなことはどうでもいいんじゃないの
物語なんてそんなもんでしょw

真田昌幸「そういう事は時と場合による」

2016年10月31日 09:38

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/30(日) 23:52:44.11 ID:ky4QU8i1
慶長5年、真田安房守(昌幸)は下野国犬伏という所から引き返し、信州へと向かった。
その途中の上野国は徳川家の領分であったため、人数を連ねて通ることは出来ず、昌幸は
真田左衛門佐(信繁)、桑原若狭、佐藤軍兵衛の四騎にて上野国赤山の麓へかかり、夜を日に継いで
沼田へと到達した、

安房守は沼田へ行き、左衛門佐では沼田の町に火をかけ焼く恐れがあると、木村土佐という家老を
沼田に遣わし、安房守は沼田に参着した。

沼田は伊豆守(信之)の領地であるが、普代の所であるから、百姓たちは急ぎ城へ参り、
「大殿が突然こちらにお出でになられた!」と伝えた。
伊豆守内儀(小松姫)はこれを聴くと

「伊豆守は家康公の御供をして東に向かった。家康公は今頃下野におられるはずだ。であるのに
安房守殿が帰ってくるのは不審である。」

そう考え、留守居たちに「大手の門に寄らせてはならない!」と命じ、門を固めているところへ、
桑原若狭が表れ、「安房守様をこちらにお連れしたい」といろいろ申し上げたが、内儀は
「城口にも近づけてはならない!」と拒絶し、安房守は仕方なく、沼田の町にある正覚寺という
浄土宗の寺に立ち寄ると、そこに石庵という半俗の者が参って「伊豆守様はどうなさったのでしょうか?」
と尋ねた。これに左衛門佐が

「伊豆守殿は浮木に乗って風を待っているのだ。」

と言い放ち、石庵は、これは話にならないと座を退いた。

安房守一行は暫く休息を取ると沼田を通過する事にしたが、沼田の町は伊豆守の行方がわからぬと
大騒ぎに成っていた。この様子に左衛門佐は腹を立て、「沼田の町に火をかけましょう!」と安房守に
申したが、安房守は「そういう事は時と場合による!たわけた事を!」と叱りつけ、その後は昼夜の境無く
上田へと急いだ。

この伊豆守内儀とは、本多中務(忠勝)の娘である。

(慶長年中卜斎記)

有名な逸話ですが、この慶長年中卜斎記だと真田信繁は何故か、
沼田に火をかけたくてしょうがなかったようですね。



268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/31(月) 23:09:10.75 ID:PVC4EiTg
>左衛門佐は腹を立て、「沼田の町に火をかけましょう!」
>安房守は「そういう事は時と場合による!たわけた事を!」

草刈昌幸と堺幸村で見たかったなこのやりとり

上州犬伏にて

2016年05月13日 18:04

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/12(木) 20:36:13.50 ID:lpkqYaEd
真田左衛門佐幸村(信繁、または信仍と有る)は、信州上田城主、安房守昌幸の次男である。
去る慶長5年、上杉景勝反逆の故に、徳川家康は上杉攻めとして、諸大名を召しつれ伏見を発向し、
関東に下向したことにより、真田昌幸、嫡男伊豆守信幸、次男左衛門佐幸村も、上州犬伏まで
打ち出た所、石田治部少輔三成、大谷刑部少輔吉継両人より、昌幸に書状が届いた。
その内容は、

『今度天下の御為に大老奉行相談し、内府(家康)を滅ぼすこととなった。真田父子も同意あって、
会津への出陣を止められよ。』
というものであった。昌幸は伊豆守、左衛門佐が先陣に在ったのを呼び返して言った

「たった今、石田、大谷より申してきた内容を見るに、上杉景勝が幼君に対し逆心の無いことは
明らかだ。この上は内府を敵とし、ここより引き返すべし。お前たちはどう思うか?」

伊豆守は答えた
「仰せ、誠に至極です。今回内府に従うのは、世上の批判も大きいでしょう。その上父上は石田治部と
御縁者(ある説によると、真田昌幸と石田三成は、ともに宇多下野守(頼忠)の婿であるとされる)です。
また左衛門佐は大谷刑部の婿であり、上方に筋目が有るのですから、先ずは御領内に帰って御思慮
あるべきでしょう。

しかし私は内府と御懇意であり、ことに本多中務(忠勝)と縁者のよしみがあり、お許しいただけるなら
徳川家の旗下に属したいと思います。そしてその上で、なお志す所があります。
もし、上方の軍が敗れ、城々に籠もった者達まで内府によって罰せられた場合、私が父と弟の罪を
謝し、如何にもして危難を救い、それのみならず、真田の氏族が断絶しないように私は計ります。」

これを聞くやいなや、左衛門佐は言った
「憚りながら兄上に、私がご意見申し上げます。
内府がどれだけ懇切だったとしても、それは太閤の御恩に及ぶものではありません。
また本多中務と縁者のよしみがあっても、それは私的な関係であり、公儀の事ではありません。
また、上方の軍が敗れたと時は父上と私の身命の危うきを救って下さるとのことですが、
おおよそ戦場に臨みて功なき時は、将より士卒に至るまで、必ず戦死する事となります。
然らば、父上と私が存命かどうかも計り難い。

それに御苗字のために内府に属すると言われるのも、あまりに難しい御思案です。
秀頼公のために一家尽く滅んでも、ご先祖への不孝とはならないでしょう。

事新しい儀ではありますが、天正年中に父上と内府が不和となった時、一旦は当家の武功によって
徳川家の軍勢を切り崩しました。しかし徳川、北条が手を結び、重ねて大軍によって攻められれば、
籠城も危うい状況であったのに、太閤の御下知によって和談と成りました。この時は上杉も、
越後より後詰を出されました。これらは浅からぬ恩義ではないのでしょうか!?

それ以降豊臣家の旗下に属すること十余年です。これで君恩を忘れ、景勝殿の志を捨て、
内府の味方をするというのは、人たる道ではありません!
兄上は御若年より器量も人に優れ、戦功も立てられた、一廉の御用に立たれる人なのに、
それがむざむざと敵になる事、残念至極です!」

これに信幸は大いに立腹し
「父上に先立って無用のことを言うのみならず、内府の旗下に属する者は人たる道に非ずなどと、
妄に私を軽んじ讒るとは!今一言を出すにおいては、即時に討って捨てる!」
そう太刀の柄に手をかけると、左衛門佐は少しも動ぜず返答した

「私は豊臣家のために死のうと思っている生命なのですから、ここにて御手にかけられる事、
御免あるべし。」

ここで昌幸が間に入り二人を制して
「伊豆守が言うことを考えたが、一応その理無きにしも非ずだ。秀頼公の御大事も、今回に
限ったことではあるまい。ただ自分の望みに従って、内府の味方をせよ。」

そう打ち解けて、免した。こうして伊豆守はここから徳川秀忠の手に属し、安房守・左衛門佐と
別れたのである。
(新東鑑)




伝に曰く、真田左衛門佐幸村は

2016年04月18日 19:08

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/18(月) 17:52:09.61 ID:FNLmB20G
伝に曰く、真田左衛門佐幸村は真田安房守昌幸の次男であり、兄は伊豆守信之という関東伺候の
大名である。幸村は父の昌幸とともに石田三成に与し、信州上田城に在った。
関ヶ原の時、将軍家(秀忠)は東山道を上っていたが、その道を塞いだため、将軍家は
五万騎あまりにてこれを攻めたが、幸村父子は八百人で能く防ぎ、終に落城しなかった。
そのため将軍家は伊豆守信之、および森右近大夫(忠政)を以ってこの城の押さえとして置き、
自身は上ったが、これによって関ヶ原の合戦には間に合わなかった。

その後上田城は兵糧が尽きて城を明け渡した。この時将軍家は、大切な合戦に遅れたのは
真田父子の為であるのだから、かの父子を死罪にも仰せ付けたいと思っていた。
しかし大御所(家康)はこう言った

「彼らが当家に敵対することは、既に野州の小山において、信之を義絶し私にも断って
西軍に与したのだ。その様は誠に豪傑の士である。現在、誰が彼らに比肩するだろうか?
また、信之の奉公の労にも代えて、先ずそのままに差し置くべし。
年を経て招けば、また来ることもあるだろう。」

こうして昌幸父子は紀州高野の内、九度山の麓の宿に潜居したが、常に、もし豊臣秀頼と
関東との合戦があれば大阪に与して関東を滅ぼすことを志していた。しかし昌幸は慶長15年に
死去し、それ以後は幸村一人ここに在ったが、この度秀頼より『早々に入城すべし。一方の大将に
付け、利運の上は信州一国を与える』との招きを受け、幸村は畏まって籠城した。

この幸村は良将であった。もし、彼の諫言が用いられ鍛錬調っていたなら、関東にとっても
困難なことになったであろうが、大野渡辺の如き未熟者のために、せっかくの幸村の良策も
遂に皆、徒となったのである。惜しい哉。

(慶元記)



541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/18(月) 18:44:21.06 ID:1WhIiklT
>>540
へえー家康がどうしても死罪にしたいって言うのを、忠勝他が身を張って止めた逸話の方が有名だが

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/18(月) 21:21:30.22 ID:I9wKNc0i
>>541
この話もその話も嘘だよ。
実際は真田昌幸程度だと流罪が妥当。
徳川方の被害もたいしたことなかったし。

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/18(月) 22:13:17.31 ID:1x/2qN4b
>>543
悪い話ダナー

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/18(月) 22:22:34.83 ID:noPVwmW4
もう、真田幸村で定着しちゃってるんだな

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 08:11:06.26 ID:/FGASa5h
「幸村」って名前で出てくる時点で話に信憑性がないよね


548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 12:42:49.99 ID:7l9E/FCE
真田昌幸本人も本多正信が動いてくれてるからじき赦免されるだろと軽く考えてるから
流罪で妥当、十分重い刑という認識だからね。ただ赦免は結局かなわなかったが。
そして家康の意向を受けてるあるいは影響を与えられる正信が動いて好感触でも反故って事は
正信-家康ラインの外からの横槍があったと考えられ第一候補は将軍となる
大坂の陣で関ヶ原がトラウマになってる事を窺わせる書状と併せて考えれば
死罪は無いにしても秀忠激おこはあっただろうなとつらつらと

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 13:02:46.52 ID:xIAoJ1OI
天正壬午の乱を思えば初陣さんには無理げー

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 15:23:07.70 ID:ImIZUG93
逸話スレ見てると秀忠は賞罰に私情を挟むタイプではない気もするから、横槍を入れるとしたら将軍側近で親子で痛い目に合わされた大久保忠隣の方がありそう。
で、面子を潰された正信の讒言で大久保長安事件が…と妄想してみた。

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 07:05:37.96 ID:DCj7IRhz
>>546
ここは逸話の中身の信ぴょう性なんてどうでもいいスレだよ。
投稿者が自作した逸話はノーサンキューだけど。

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 10:48:42.16 ID:9ODF2SZe
>>548
話聞かないけど昌幸って本多正信と交誼でもあったんかね?

室賀はそれに納得しない態度を見せたため

2016年04月09日 18:33

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 21:46:41.33 ID:wX2tR8C9
天正10年は、織田信長、武田勝頼のご生涯があったため、都鄙兵乱止むことがなかった。
信濃国には、徳川家康、上杉景勝が出兵し、上州には北条氏政・氏直父子が出兵した。

真田昌幸徳川家康に出仕を遂げるべしとて、伊奈の家康陣へ父子にて出仕した。
そのほか。禰津、矢澤、室賀、八代、芦田、保科、常田といった人々、何れも伊奈に出仕し
御礼申し上げた。しかし当時、家康は秀吉との合戦の最中であったため、国々の地頭も居城に引き籠もり、
我が意に任せて大身は小身を掠め、強は弱を侵し領地を争ったため、片時も合戦は止まなかった。

ここに信州室賀の城主、室賀兵部大輔(正武)は文武智謀の勇将であった。
遠く先祖を尋ねるに村上源氏義清公の類葉であり、禰津宮内大元直の嫡子長右衛門尉利直の舅であり、
その上昌幸とは甲府数代の傍輩、知音の仲であったが、真田昌幸が甲州没落後、信濃衆が諸方へ行動を
起こす時、まるで大将のようにこれを取り仕切り、多くの一族はその通り、万事昌幸の指図を
受け入れていたが、室賀はそれに納得しない態度を見せたため、互いに疎遠になっていった。

このため真田昌幸は室賀を退治しようと、禰津に行った。
禰津の家臣である加澤与七郎、別府若狭の両人は、智謀の勇兵であった。彼らに昌幸は、
矢沢頼綱を通じて様々に指示を出し、これによって室賀の家来である室賀九右衛門、松江、堀田らに
調略を廻した。この際別府・加澤に昌幸が与えた証文によると

『おのおのの調略によって室賀家中の過半は我らに納得し、同意したこと、これは忠信の至りであり
感悦している。彼の地について本意を遂げれば、そこから一所を宛がうであろう。

天正十年四月三日                  昌幸
                   別府若狭殿
                   加澤与七郎殿


このような事があって、4月下旬、昌幸は室が城に攻め懸けたが、室賀も聞こえる兵であれば
打ち取ること出来ず、居城に戻り、互いに互いを討つことを計った。

(加沢記)



鐵(かね)兵衛殿と呼ぶべきか

2016年03月31日 12:15

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/31(木) 05:18:15.10 ID:D7dfEllj
武田家滅亡の後、織田信長は武田の分国への仕置をなし、関東の管領として滝川左近将監一益を
上野国群馬郡厩橋の城に移した。武蔵・上野の旧武田分国の武士は残らずこれに出仕した。
真田昌幸は信州、上州両国に領地が在ったため、厩橋にも出仕した。

滝川一益は厩橋城で昌幸と対面した時、こう声をかけた

「あなたは承った所によると、以前は武藤喜兵衛と名乗っていたそうだ。しかし今回、つつがなく
武田が没落した以上は、鐵(かね)兵衛殿と呼ぶべきかな?」

そう、座興として言ったそうである。(喜兵衛を音が似ている金兵衛とかけた駄洒落である。)

その頃沼田の城は甲州の乱によって北条殿に横領され、藤田信吉は越後に浪人していた。
そこで一益は沼田の城に甥の滝川義太夫を城代として入れた。
一益は国中より人質をとったが、真田からの人質はなかった。これは真田信幸の姉が、人質として
安土に遣わされたためである。

(加沢記)


白井百人衆を謀る

2016年03月17日 14:39

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/16(水) 19:50:36.70 ID:AOgP06Dt
天正12年の正月上旬のこと。
上州白井長尾の家中には、百人衆と呼ばれる徒歩の侍の集団が有った。
その頃、真田昌幸の家臣であった沼田衆の林太郎左衛門、吉野太郎右衛門、吾妻衆の井上金太夫は、
私曲の事があって沼田を立ち退き白井に属し、白井においてこの百人衆に組み入れられた。
しかし、この3人はどうにかして昌幸に忠節を立て、故郷に立ち返りたいと考えていた。

この3人、談合してその事を昌幸家臣の高橋右馬充に伝えると、右馬充はこれを金子美濃に相談した。
金子美濃は「其方、上田に参り注進すべきだ。」と勧めたため、右馬充は上田に参り、丸山土佐守、
木村戸右衛門を通じて申し上げると、真田昌幸は大喜びした
「神妙のことである!卒爾無きように謀るべし!」
そして高橋右馬充は戸鹿野へと戻った

さて、かの3人は白井において、傍輩の者たちをたぶらかした
「沼田、戸鹿野には有徳(金持ち)の者が多い。夜討ちして金銭を奪い取ろうではないか!」
こうして130人ほどが申し合い、この林、吉野、井上を案内として、戸鹿野へと忍入った。

彼らが侵入し終わると、かねてからの計略通り、橋を外し、彼らを四方より取り巻き、討った。
突然の事に、瞬く間に白井の者達は120人余が討ち取られ、水練の達者の者5,6人だけが助かり、白井へと
逃げ帰った。

この忠節により、高橋右馬充には知行が与えられた。

(加沢記)




男であったら今弁慶

2016年03月15日 11:24

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 10:50:34.72 ID:wXXKRlD6
第一次上田合戦でのこと
小縣上田原染ヶ馬場に、徳川軍の大久保、鳥居勢が出撃し、真田信幸の軍勢と合戦と成った。
この時、真田勢は劣勢となり、昌幸は禰津助右衛門尉に下知して三百騎あまりを救援に向かわせる。
これに森右近の軍勢が二千騎あまりにてかかり来ると、救援軍の加澤世間兵衛は大薙刀を水車に回して
それと戦った。しかし鳥居軍中根の二百人あまりがこれに駆け寄り、加澤は取り囲まれた。

この時、加澤の妻が上田城大手の櫓より、敵に囲まれている旗印が、夫の用いるすわまに鷹の羽の紋で
あることに気がついた。

彼女はこの櫓に禰津主膳が置いていた馬に打ち乗ると、粥を飯籠に入れさせ、”はた織”という下女に
これを持たせ召し連れ、染ヶ馬場へと突撃した。

そして敵兵ニ百人余りの中に割って入ると、夫婦一緒に成って敵を四方へと追い散らし、
小高い場所へと上がって散らばっていた兵を集め粥を与え、殿して城中へと引き入れた。
この女房、城に帰って自分の体を見ると、鉄砲の弾が五つ当たっていた。

彼女は禰津の一族、別府閑斎の娘であった、父は信州において隠れなき剛の者であったが、
昌幸は「さすが別府の娘である。男であったら今弁慶とでも呼ぶであろう。」と賞賛した。
そして上田合戦が終わった後、小縣郡西田澤において五貫文の知行が与えられた。

(加沢記)



468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 11:49:52.95 ID:M7rnYvQk
>>467
無双キャラ決定か

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 12:32:37.76 ID:hyAM4yJg
>>467
粥食わしてる暇あるならさっさと戻れよw
あえて戦場で食べる示威効果とかもあるのかな。

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 15:19:14.78 ID:X083umLf
「お腹がすいてもう動けないよ~」的なアレだろ

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 16:16:42.85 ID:8+mdhNud
はた織もお粥持ちながら奮戦したんだろうな

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 16:31:22.71 ID:fCODIKy5
ふむ、前に見た上田真田を舞台にしてるアニメで
「一番いけないのはお腹が空いていることと、一人でいることだから」という
家訓があったがこれが元ネタだったのか(真顔

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 23:43:45.89 ID:bijnJOfb
てっきり熱々のお粥を敵兵めがけてブチ撒けるのかと思ったら、普通に食うのかよ

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 23:59:37.88 ID:hdMqxwPy
>>474
食い物粗末にする訳ないだろ、籠城の時に敵に浴びせるのは
熱々の糞尿と楠木正成の時代から決まってる

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/16(水) 00:59:29.18 ID:BOz2xNr+
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3356.html
真田や楠木の粥云々は前に色々話題になってた

室我入道謀殺

2016年03月14日 18:31

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/14(月) 17:54:03.61 ID:Yc5G3ZeV
天正壬午の乱の結果、信州一国は徳川家康に属することになったが、ここで天正11年6月、
真田安房守昌幸は国中を従えんと企て、先ず室賀を討つべしと一門を一手に引き連れ
室賀の館に押し寄せた。

しかしこれに、室賀兵部太夫(正武)は自ら打って出て、篠山において火が出るほど激しく戦い、
互いに多くの郎党が戦死したため、双方ともに引いた。しかし翌日、真田は再び取って返して押し寄せ、
これに室賀より和睦を請うてきたため、これを許して帰国した。

室賀入道は真田に従属したことを無念に思い、翌天正12年6月、高井彦衛門尉を通じて
遠州の徳川家康に訴えた。これに対し家康は、「謀を以って真田を討つべし」との返答を得た。
室我入道はこれに大喜びし、それから上田に見舞いに参ること甚だ頻りとなった。

ある時、上方より囲碁の上手が上田へと参り、これに室我入道は招待された。
室賀は「よき時節なり」と考え、日限を定め、一門の室賀孫右衛門を以って
「来月7日、真田の居城に囲碁に参りますが、この時真田昌幸を討ち取ります。
ですのでご加勢下さるように。」
と、徳川家臣の鳥居氏に申し送った。

ところが、この室賀孫右衛門は内々真田昌幸に通じていたため、その書状を直に上田に持って行き、
その内容を語った。真田昌幸は大いに喜び、孫右衛門を馳走して反した。

一方、室我入道は全てうまく行っていると思い、家の子である桑名八之助、相澤五左衛門尉、
堀田久兵衛などを従えて上田に参ると、昌幸は兼ねて用意してあった通り、書院に招いて
囲碁を始めた。
この時、長野舎人、木村戸右衛門が討ち手に決められており、合図を出すのは禰津宮内太輔、麻利子藤八郎、
長命寺、安楽寺であった。

長野、木村は次の間より太刀を抜き出し、室が入道を無常にも殺した。
室賀の家臣である桑名、相澤、堀田はこの騒ぎを聞くより早く殿中に斬り入り、散々に戦った。
しかし、たとえこの3人が項羽の勇を顕したとしても、多勢に取り巻かれ、最後には生け捕りにされた。
この3人は後には心を変じて真田に仕え、無二の忠を成した。
この時、桑名八之助は深手を負った。

室賀の妻子たちはこのことを聞くと、取るものも取りあえず早々に甲州へと落ちていった。

(加沢記)



真田昌幸の娘の行方

2016年03月10日 11:36

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/09(水) 18:50:21.20 ID:Ya1EF9Tr
※大河の今後の展開のネタバレが入っていると思われるので注意して下さい


本能寺の変が起こってから、真田昌幸が安土に出した人質である娘の行方は全く解らなくなり、
昌幸の御母堂の嘆きは止まること無かった。
真田の一門、家老の人々は日々集まってこの事を協議した

「この事、行方は覚束なく、落涙する外無い。しかし信長公の御台様や公達は、日野という所に
蒲生忠三郎が忠義を以って引き取り、御扶育されているとのこと。もしや姫様もそちらに
ご一緒しているのではないだろうか?」

「いやいや、未だ織田に対してさほどの忠節を見せたわけでもないのに、その人質を日野まで
伴っているだろうか?ただ、傍若無人な者の手に渡り、いかなる御身に成り果ててしまっているか…」

とにかく人数を出して探し出すより他無いと、手分けして尾張、近江、遠江、三河、甲斐、駿河の
6ヶ国の在所在所を草の根を分けて手の及ぶ限り探したが、やがて豊臣秀吉の時代になり、世の中が
静謐となってもその行方はわからなかった。御母堂は片時も彼女のことを忘れず、嘆きは深まるばかりであった。

さて、彼女が行方不明に成って翌年の春、真田昌幸が上洛した折、桑名の渡守の所に真田家の下郎達が入って
休息していると、20歳ばかりの女房が走りきて聞いてきた

「今日、御上洛の殿様は何という大将で、国は何処でしょうか?」

「これは信州真田殿の上洛だ。」

これを聞いて女房はさめざめと泣いた
「信濃とは懐かしい。私も信濃の者ですが、いささか仔細があってこの国に有ります。
ですが本国ですから母を一人持っています。在所は上田の城…」

そう言いかけたが、言い直し
「上田の城町の喜兵衛と申す者の所に、これを届けて頂けないでしょうか?」

そう、紙包みを一つ渡した。彼らは下郎であったので、とくに何も考えず「心得たり」と懐に入れ、
帰陣まで何もせず上田に持ち帰った。
そして『城町の喜兵衛』という人物を尋ねたが、上田の城主(真田昌幸)の名が喜兵衛であるため、
外にその名を付けているものは一人もなかった。

この事、追々足軽大将に聞こえ、彼が預けられたという紙包みを開いてみると、まさしく姫様よりの
御文であった。早々に山田文右衛門に渡し、そのまま奥方にさし上げると、喜ぶこと限りなく、
すぐに桑名へと人を遣わし、渡守に褒美を与え、彼女を向かえ取った。
渡守は安土の乱の時に彼女を奪い取ったが、大切に思い深く隠し置いたのだという。
浅ましい話で、2年間の憂き目のほど、思いやられていたわしく、聞く人ごとに哀切の気持ちは増した。

彼女は後に、小山田殿の御内室になった。

(加沢記)

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/09(水) 21:23:18.02 ID:IAi8UN//
おやまだ結婚してなかったのか

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/10(木) 01:27:53.74 ID:rGWTfnmK
座布団どうしようかなぁ

おしき武士を討ってはならない

2016年03月01日 10:45

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/29(月) 22:33:38.22 ID:T189vIaX
武田家の滅亡後、真田昌幸が室賀兵部を攻めていた時のこと。
室賀の城より、6尺(約180センチ)あまりの大男がただ一人、5町(約500メートル)ばかり出て
物見をして、馬に乗って帰っていった。

これに、昌幸の配下である大熊五郎左衛門の足軽が一人追いかけ、「逃さじ!」と声を上げたが、
この武者は少し振り返っただけで、そのまま静かに退いた。

その姿を見た昌幸が左右の者達に「あれは何者ぞ!?」と尋ねると、何れも
「あれこそ聞こえる、松澤五左衛門です!」と申し上げた。

彼を追いかけていた足軽は、3町ばかりの内に追いつき、斬りかかった。
五左衛門、手を差し伸ばしてこの足軽の髻を掴んで引き伏せ、足で踏んで首を掻き落とし、
田の中へ捨てると、何事もなかったかのように再び退いた。

これを見た真田勢は何れも槍を押し取り馬に打ち乗り五左衛門を追いかけようとしたが、
昌幸は采配を以ってこれを止めた

「室賀は小身者である。おっつけ踏み潰して私は、あの五左衛門を我が手に付けるであろう。
おしき武士を討ってはならない。」

その言葉通り後年、松澤五左衛門は真田の臣となった。

(名将言行録)



403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/29(月) 22:54:14.29 ID:Nzh5sqjC
真田丸のおかげで室賀という名前に聞き覚えがある
信濃の豪族衆で昌幸に突っかかる小物って感じだけど

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/01(火) 05:28:41.27 ID:w14DspfW
>>403
黙れ小童!の印象が強すぎて強すぎて…

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/01(火) 07:53:07.53 ID:S6X9nm2V
童貞に見えた

一度後れては3年失せぬ

2016年02月26日 17:14

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 14:59:51.90 ID:BOOoXAE2
島原の役の時、真田信之細川忠利にこう言った
「今回、板倉内膳正重昌が討ち死にした事で、敵を急ぎ踏み潰すためにあなた方を
遣わされるようですが、ただし、手間取って思ったようには成らないでしょう。
そのように心得ておくべきです。

私が昔、忍城の成田氏を攻めた時のことです、
軍勢は勇まず、下知を聞こうとしませんでした。帰陣した後、私は父の安房守(昌幸)に言いました
『あのような腰抜けばかりを選んで私に付けられたので、今度の合戦で勇まないのです。』
安房守は怒って申しました
『若輩者が!何を不智な事をいうか!?それはお前が、去年合戦で後れを取ったためだ。
一度後れては3年失せぬものである!』

今度の島原も、内膳正は討ち死にし、軍勢は損害を受け、みな恐怖心を持っているでしょうから、
軍勢は勇もうとしないでしょう。であれば、手間取ります。
その分別をして、ご出陣すべきです。」

(名将言行録)



239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 15:29:09.86 ID:wJbS32Th
そりゃあ総大将がアレですから

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 16:05:21.65 ID:linV+D2a
>>238
小童!ではないのか。

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 17:55:57.98 ID:DxkpIThN
去年合戦で遅れをとった、て名胡桃城取られたこと?
信幸に責任あったっけ

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 18:23:49.08 ID:rVEZlCrD
沼田の責任者だからだろ

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 18:34:42.29 ID:vERWSTmf
そのお陰で北条攻めの名分が出来たのに…

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/27(土) 12:16:09.29 ID:fqUtjaJs
>>242
その時沼田は小田原に割譲済だけど?

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/27(土) 12:27:16.72 ID:nDdVzJi9
つ名胡桃

金の馬鎧

2016年02月25日 19:10

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 19:32:41.00 ID:OZ8/vebl
天正の初め、武田軍は中山、上野の尻高、中山、白井の諸城を攻め、真田勢もこれに随身した。
しかしそれらは屈強の要害であり、吾妻勢は度々利を失った。そこで真田昌幸は、
忍を入れて城を焼き落とすべしとして、唐澤玄蕃にこれを申し付けた。

唐澤はこの旨承り、割田新兵衛尉を相語らい、尻高城に忍入り放火した。

中山城に忍入った時、城主の中山安芸守は鼓を打って酒宴をしていた。中山は鼓が非常に下手であった。
百のうち一つもまともに鼓の音を出せなかったので、世の人は『中山殿の鼓にて百一つ』と語り合っていた。

そうして夜もふけ、皆寝静まり夜廻のものも油断した頃、唐澤玄蕃は中山城の納戸に忍入り、ここかしこを
捜索していると、金の馬鎧を発見した。これは畢竟の事だと思い、放火せずにこの馬鎧を盗みとって
帰陣した。

この馬鎧は、中山安芸守が、関東管領・上杉憲政の元に出仕した時拝領したもので、それを今度
唐澤に取られたのである。

唐澤玄蕃は一本気な若者で、その後合戦があればこの馬鎧を着けて出陣した。
ある時、西上野に出陣した折、唐澤は真田の軍勢に属していたが、これが信玄公(原文ママ)
の目に止まり、真田信綱を召して「あれは信州松山合戦の時に見た馬鎧だ」と仰せになった。
その頃は乱世であり、金の馬鎧など見ることは殆ど無かったという。その時「あれは何者か?」と
お尋ねになったので、「唐澤です」と申し上げた。このため、唐澤玄蕃は不意に高名を上げたのである。

(加沢記)

加沢記より、真田の忍・唐澤玄蕃のお話。後半の信玄は勝頼の間違いですかね?



377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 20:26:08.23 ID:IqQWvIY0
唐沢玄蕃といえば、
歴史秘話ヒストリアの真田昌幸・真田信之回でこの話をやってて、
金の馬鎧に目を輝かせて思わず盗んでしまう、おちゃめな忍者として描かれていた
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唐澤