605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/01(水) 18:55:20.52 ID:+Gwn3Mrn
「武家閑談」から真田信繁の九度山脱出
真田左衛門佐幸村(真田信繁)は父安房守昌幸といっしょに高野山九度山に配流され、昌幸は慶長の末に死んだ。
左衛門佐は一人九度山に住んでいたが、大坂の陣の初め、秀頼公より大野修理亮治長が承り、大坂城に籠れという御言葉を賜ったため支度した。
紀伊国守の浅野但馬守長晟は橋本峠村近辺の百姓どもに下知し
「世上の噂に、真田左衛門佐が大坂への返事をしたと聞く。油断あるまじき」と触れを出した。
高野山学匠ならびに宗徒にも九度山からの遁人監視を申し付けた。
真田幸村は九度山近辺、橋本峠、橋谷の庄屋から小百姓にいたるまで残らず振舞おうと触れをまわし、九度山に招いた。
数百人の並いる者たちに対しさまざまに饗応し、酒を出し、上戸も下戸も問わず酒を強いること斜めならず、皆酔って臥せて前後不覚となった。
この時、百姓どもが乗ってきた馬に荷をつけ、妻子を乗物に打ち乗せ、上下百余で弓鉄砲を持って押し立て、紀ノ川を渡り、橋本峠、橋谷を通り、木目津を越し、河内に入り、大坂にむかって行った。
道筋の百姓どもは残らず九度山に行って酔い臥していたため、残っていたのは女子供だけであった。
しかも真田は槍や刀を抜き、鉄砲に火縄をさしていたため、とうてい止められるものではなかった。
さて百姓たちは明け方に酔いから醒めたが、見れば宿屋には一人もおらず、雑具まで取り払われ跡形もなかった。
これは出し抜かれたと東西を尋ねたが、昨晩のうちに立ち退いたため追いつくはずもなかった。
橋本峠、橋谷の己の家に帰り、家族に尋ねると
「昨夜の八つ時に真田殿が奥方や子連れで馬に荷をつけ、弓鉄砲を押し立てて河内の方へさして行きました」
と告げたため、百姓どもはみな頭を掻いたがどうにもしようがなかった。
「武家閑談」から真田信繁の九度山脱出
真田左衛門佐幸村(真田信繁)は父安房守昌幸といっしょに高野山九度山に配流され、昌幸は慶長の末に死んだ。
左衛門佐は一人九度山に住んでいたが、大坂の陣の初め、秀頼公より大野修理亮治長が承り、大坂城に籠れという御言葉を賜ったため支度した。
紀伊国守の浅野但馬守長晟は橋本峠村近辺の百姓どもに下知し
「世上の噂に、真田左衛門佐が大坂への返事をしたと聞く。油断あるまじき」と触れを出した。
高野山学匠ならびに宗徒にも九度山からの遁人監視を申し付けた。
真田幸村は九度山近辺、橋本峠、橋谷の庄屋から小百姓にいたるまで残らず振舞おうと触れをまわし、九度山に招いた。
数百人の並いる者たちに対しさまざまに饗応し、酒を出し、上戸も下戸も問わず酒を強いること斜めならず、皆酔って臥せて前後不覚となった。
この時、百姓どもが乗ってきた馬に荷をつけ、妻子を乗物に打ち乗せ、上下百余で弓鉄砲を持って押し立て、紀ノ川を渡り、橋本峠、橋谷を通り、木目津を越し、河内に入り、大坂にむかって行った。
道筋の百姓どもは残らず九度山に行って酔い臥していたため、残っていたのは女子供だけであった。
しかも真田は槍や刀を抜き、鉄砲に火縄をさしていたため、とうてい止められるものではなかった。
さて百姓たちは明け方に酔いから醒めたが、見れば宿屋には一人もおらず、雑具まで取り払われ跡形もなかった。
これは出し抜かれたと東西を尋ねたが、昨晩のうちに立ち退いたため追いつくはずもなかった。
橋本峠、橋谷の己の家に帰り、家族に尋ねると
「昨夜の八つ時に真田殿が奥方や子連れで馬に荷をつけ、弓鉄砲を押し立てて河内の方へさして行きました」
と告げたため、百姓どもはみな頭を掻いたがどうにもしようがなかった。
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