真田幸村の智謀

2017年01月18日 10:08

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 19:09:15.70 ID:qJMrCMga
真田幸村の智謀

上田籠城の時、織田、徳川、北条の三将、二十余万の大軍を以て百重千重に取り囲み、水も漏らさぬばかりに
ヒシヒシと取り詰め、哀れ上田城は粉々に踏み崩されんとしていた。
これには流石の真田昌幸も、城兵僅かにニ千余り、今は防御の術も尽き、如何にすべきかと思案し、苦慮して
いた所、倅の幸村、当年十四歳であったが、彼が『鶏卵煎り砂の謀計』を考えだした。

彼は鶏卵を二つに割り、中身を取り除いてこの中に煎り砂を入れて合わせ、水に浸した紙を割口に巻いた。
これを数万作り出し、それぞれの櫓に十籠、二十籠づつ取り備え、寄せ手を遅しと待ち構えた。

頃は天正十年三月二十五日の朝(ちなみに実際の第一次上田合戦は天正十三年閏八月である)、
織田徳川北条の軍勢はどっと鬨の声を作り押し寄せ、鉤縄打ち掛け勇みに勇んで攻め立てた。
城中よりは「時分はよし」と、件の鶏卵を合図とともに投げつけた。

兜面頬があっても、当たれば砕け、煎り砂は兵士の眼に入り、さしもの勇者たちも暗夜をたどるに
異ならぬ有様。城中よりはこれをみすまし、「時分は良きぞ」と、松本口の織田勢には真田源次郎(信之か)、
軽井沢口徳川勢には隠岐守信尹、笠ヶ城北条勢へは与三郎幸村、何れも三百余人を率いて鬨を作り
攻めかかれば、盲目に等しい寄せ手の面々は戦うことも出来ず、我も我もと敗走し、同士討ちするものも
あり、踏まれて死ぬものもあって、二十余万の大軍が、雪崩掛かって落とされたのは、たいへん見苦しい
有様であった。

この状況に信長は、如何にすべきかと思慮を巡らしたが、今だ良き工夫もつかぬ所に家康が現れ、
「鶏卵煎り砂の目潰しを防ぐためには、竹束を以て盾とし、鎧の袖を額にかざすより他、術がないでしょう」
そう献策した。
これにより夥しい竹束を用意し、またもや押し寄せた。

しかし幸村は「煎り砂に懲り果てた敵兵は、今度はこれを防ごうと竹束の盾を必ず用意してくるであろう。」
と推察しており、あらかじめ多くの投げ松明を用意していた。
果たして先手は竹束を束ね、、後ろに太い棒を取り付けた物をひっさげ、目潰しの鶏卵が今や降ってくるかと
待つ所に、城中は静まり返って音もせず、寄せ手充分に近づいた所で、一発の銃声が響くとともに、三方の
櫓より松明が投げつけられた。
すると油を注いだかのように、竹束はみるみるうちに燃え上がり、寄せ手の者達驚き騒ぎ、消そうとするも
うまく消火もできず、散々となって我先にと敗走した。

(芳譚)

何故か甲州征伐とごっちゃになっている上田合戦のお話



528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 21:11:13.13 ID:n+P9kTbE
>>527
鶏卵数万w

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 21:11:38.99 ID:/3OBSLpx
幸村が活躍するなら、そんなことはどうでもいいんじゃないの
物語なんてそんなもんでしょw
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真田昌幸「そういう事は時と場合による」

2016年10月31日 09:38

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/30(日) 23:52:44.11 ID:ky4QU8i1
慶長5年、真田安房守(昌幸)は下野国犬伏という所から引き返し、信州へと向かった。
その途中の上野国は徳川家の領分であったため、人数を連ねて通ることは出来ず、昌幸は
真田左衛門佐(信繁)、桑原若狭、佐藤軍兵衛の四騎にて上野国赤山の麓へかかり、夜を日に継いで
沼田へと到達した、

安房守は沼田へ行き、左衛門佐では沼田の町に火をかけ焼く恐れがあると、木村土佐という家老を
沼田に遣わし、安房守は沼田に参着した。

沼田は伊豆守(信之)の領地であるが、普代の所であるから、百姓たちは急ぎ城へ参り、
「大殿が突然こちらにお出でになられた!」と伝えた。
伊豆守内儀(小松姫)はこれを聴くと

「伊豆守は家康公の御供をして東に向かった。家康公は今頃下野におられるはずだ。であるのに
安房守殿が帰ってくるのは不審である。」

そう考え、留守居たちに「大手の門に寄らせてはならない!」と命じ、門を固めているところへ、
桑原若狭が表れ、「安房守様をこちらにお連れしたい」といろいろ申し上げたが、内儀は
「城口にも近づけてはならない!」と拒絶し、安房守は仕方なく、沼田の町にある正覚寺という
浄土宗の寺に立ち寄ると、そこに石庵という半俗の者が参って「伊豆守様はどうなさったのでしょうか?」
と尋ねた。これに左衛門佐が

「伊豆守殿は浮木に乗って風を待っているのだ。」

と言い放ち、石庵は、これは話にならないと座を退いた。

安房守一行は暫く休息を取ると沼田を通過する事にしたが、沼田の町は伊豆守の行方がわからぬと
大騒ぎに成っていた。この様子に左衛門佐は腹を立て、「沼田の町に火をかけましょう!」と安房守に
申したが、安房守は「そういう事は時と場合による!たわけた事を!」と叱りつけ、その後は昼夜の境無く
上田へと急いだ。

この伊豆守内儀とは、本多中務(忠勝)の娘である。

(慶長年中卜斎記)

有名な逸話ですが、この慶長年中卜斎記だと真田信繁は何故か、
沼田に火をかけたくてしょうがなかったようですね。



268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/31(月) 23:09:10.75 ID:PVC4EiTg
>左衛門佐は腹を立て、「沼田の町に火をかけましょう!」
>安房守は「そういう事は時と場合による!たわけた事を!」

草刈昌幸と堺幸村で見たかったなこのやりとり

上州犬伏にて

2016年05月13日 18:04

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/12(木) 20:36:13.50 ID:lpkqYaEd
真田左衛門佐幸村(信繁、または信仍と有る)は、信州上田城主、安房守昌幸の次男である。
去る慶長5年、上杉景勝反逆の故に、徳川家康は上杉攻めとして、諸大名を召しつれ伏見を発向し、
関東に下向したことにより、真田昌幸、嫡男伊豆守信幸、次男左衛門佐幸村も、上州犬伏まで
打ち出た所、石田治部少輔三成、大谷刑部少輔吉継両人より、昌幸に書状が届いた。
その内容は、

『今度天下の御為に大老奉行相談し、内府(家康)を滅ぼすこととなった。真田父子も同意あって、
会津への出陣を止められよ。』
というものであった。昌幸は伊豆守、左衛門佐が先陣に在ったのを呼び返して言った

「たった今、石田、大谷より申してきた内容を見るに、上杉景勝が幼君に対し逆心の無いことは
明らかだ。この上は内府を敵とし、ここより引き返すべし。お前たちはどう思うか?」

伊豆守は答えた
「仰せ、誠に至極です。今回内府に従うのは、世上の批判も大きいでしょう。その上父上は石田治部と
御縁者(ある説によると、真田昌幸と石田三成は、ともに宇多下野守(頼忠)の婿であるとされる)です。
また左衛門佐は大谷刑部の婿であり、上方に筋目が有るのですから、先ずは御領内に帰って御思慮
あるべきでしょう。

しかし私は内府と御懇意であり、ことに本多中務(忠勝)と縁者のよしみがあり、お許しいただけるなら
徳川家の旗下に属したいと思います。そしてその上で、なお志す所があります。
もし、上方の軍が敗れ、城々に籠もった者達まで内府によって罰せられた場合、私が父と弟の罪を
謝し、如何にもして危難を救い、それのみならず、真田の氏族が断絶しないように私は計ります。」

これを聞くやいなや、左衛門佐は言った
「憚りながら兄上に、私がご意見申し上げます。
内府がどれだけ懇切だったとしても、それは太閤の御恩に及ぶものではありません。
また本多中務と縁者のよしみがあっても、それは私的な関係であり、公儀の事ではありません。
また、上方の軍が敗れたと時は父上と私の身命の危うきを救って下さるとのことですが、
おおよそ戦場に臨みて功なき時は、将より士卒に至るまで、必ず戦死する事となります。
然らば、父上と私が存命かどうかも計り難い。

それに御苗字のために内府に属すると言われるのも、あまりに難しい御思案です。
秀頼公のために一家尽く滅んでも、ご先祖への不孝とはならないでしょう。

事新しい儀ではありますが、天正年中に父上と内府が不和となった時、一旦は当家の武功によって
徳川家の軍勢を切り崩しました。しかし徳川、北条が手を結び、重ねて大軍によって攻められれば、
籠城も危うい状況であったのに、太閤の御下知によって和談と成りました。この時は上杉も、
越後より後詰を出されました。これらは浅からぬ恩義ではないのでしょうか!?

それ以降豊臣家の旗下に属すること十余年です。これで君恩を忘れ、景勝殿の志を捨て、
内府の味方をするというのは、人たる道ではありません!
兄上は御若年より器量も人に優れ、戦功も立てられた、一廉の御用に立たれる人なのに、
それがむざむざと敵になる事、残念至極です!」

これに信幸は大いに立腹し
「父上に先立って無用のことを言うのみならず、内府の旗下に属する者は人たる道に非ずなどと、
妄に私を軽んじ讒るとは!今一言を出すにおいては、即時に討って捨てる!」
そう太刀の柄に手をかけると、左衛門佐は少しも動ぜず返答した

「私は豊臣家のために死のうと思っている生命なのですから、ここにて御手にかけられる事、
御免あるべし。」

ここで昌幸が間に入り二人を制して
「伊豆守が言うことを考えたが、一応その理無きにしも非ずだ。秀頼公の御大事も、今回に
限ったことではあるまい。ただ自分の望みに従って、内府の味方をせよ。」

そう打ち解けて、免した。こうして伊豆守はここから徳川秀忠の手に属し、安房守・左衛門佐と
別れたのである。
(新東鑑)




伝に曰く、真田左衛門佐幸村は

2016年04月18日 19:08

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/18(月) 17:52:09.61 ID:FNLmB20G
伝に曰く、真田左衛門佐幸村は真田安房守昌幸の次男であり、兄は伊豆守信之という関東伺候の
大名である。幸村は父の昌幸とともに石田三成に与し、信州上田城に在った。
関ヶ原の時、将軍家(秀忠)は東山道を上っていたが、その道を塞いだため、将軍家は
五万騎あまりにてこれを攻めたが、幸村父子は八百人で能く防ぎ、終に落城しなかった。
そのため将軍家は伊豆守信之、および森右近大夫(忠政)を以ってこの城の押さえとして置き、
自身は上ったが、これによって関ヶ原の合戦には間に合わなかった。

その後上田城は兵糧が尽きて城を明け渡した。この時将軍家は、大切な合戦に遅れたのは
真田父子の為であるのだから、かの父子を死罪にも仰せ付けたいと思っていた。
しかし大御所(家康)はこう言った

「彼らが当家に敵対することは、既に野州の小山において、信之を義絶し私にも断って
西軍に与したのだ。その様は誠に豪傑の士である。現在、誰が彼らに比肩するだろうか?
また、信之の奉公の労にも代えて、先ずそのままに差し置くべし。
年を経て招けば、また来ることもあるだろう。」

こうして昌幸父子は紀州高野の内、九度山の麓の宿に潜居したが、常に、もし豊臣秀頼と
関東との合戦があれば大阪に与して関東を滅ぼすことを志していた。しかし昌幸は慶長15年に
死去し、それ以後は幸村一人ここに在ったが、この度秀頼より『早々に入城すべし。一方の大将に
付け、利運の上は信州一国を与える』との招きを受け、幸村は畏まって籠城した。

この幸村は良将であった。もし、彼の諫言が用いられ鍛錬調っていたなら、関東にとっても
困難なことになったであろうが、大野渡辺の如き未熟者のために、せっかくの幸村の良策も
遂に皆、徒となったのである。惜しい哉。

(慶元記)



541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/18(月) 18:44:21.06 ID:1WhIiklT
>>540
へえー家康がどうしても死罪にしたいって言うのを、忠勝他が身を張って止めた逸話の方が有名だが

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/18(月) 21:21:30.22 ID:I9wKNc0i
>>541
この話もその話も嘘だよ。
実際は真田昌幸程度だと流罪が妥当。
徳川方の被害もたいしたことなかったし。

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/18(月) 22:13:17.31 ID:1x/2qN4b
>>543
悪い話ダナー

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/18(月) 22:22:34.83 ID:noPVwmW4
もう、真田幸村で定着しちゃってるんだな

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 08:11:06.26 ID:/FGASa5h
「幸村」って名前で出てくる時点で話に信憑性がないよね


548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 12:42:49.99 ID:7l9E/FCE
真田昌幸本人も本多正信が動いてくれてるからじき赦免されるだろと軽く考えてるから
流罪で妥当、十分重い刑という認識だからね。ただ赦免は結局かなわなかったが。
そして家康の意向を受けてるあるいは影響を与えられる正信が動いて好感触でも反故って事は
正信-家康ラインの外からの横槍があったと考えられ第一候補は将軍となる
大坂の陣で関ヶ原がトラウマになってる事を窺わせる書状と併せて考えれば
死罪は無いにしても秀忠激おこはあっただろうなとつらつらと

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 13:02:46.52 ID:xIAoJ1OI
天正壬午の乱を思えば初陣さんには無理げー

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 15:23:07.70 ID:ImIZUG93
逸話スレ見てると秀忠は賞罰に私情を挟むタイプではない気もするから、横槍を入れるとしたら将軍側近で親子で痛い目に合わされた大久保忠隣の方がありそう。
で、面子を潰された正信の讒言で大久保長安事件が…と妄想してみた。

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 07:05:37.96 ID:DCj7IRhz
>>546
ここは逸話の中身の信ぴょう性なんてどうでもいいスレだよ。
投稿者が自作した逸話はノーサンキューだけど。

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 10:48:42.16 ID:9ODF2SZe
>>548
話聞かないけど昌幸って本多正信と交誼でもあったんかね?

室賀はそれに納得しない態度を見せたため

2016年04月09日 18:33

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 21:46:41.33 ID:wX2tR8C9
天正10年は、織田信長、武田勝頼のご生涯があったため、都鄙兵乱止むことがなかった。
信濃国には、徳川家康、上杉景勝が出兵し、上州には北条氏政・氏直父子が出兵した。

真田昌幸徳川家康に出仕を遂げるべしとて、伊奈の家康陣へ父子にて出仕した。
そのほか。禰津、矢澤、室賀、八代、芦田、保科、常田といった人々、何れも伊奈に出仕し
御礼申し上げた。しかし当時、家康は秀吉との合戦の最中であったため、国々の地頭も居城に引き籠もり、
我が意に任せて大身は小身を掠め、強は弱を侵し領地を争ったため、片時も合戦は止まなかった。

ここに信州室賀の城主、室賀兵部大輔(正武)は文武智謀の勇将であった。
遠く先祖を尋ねるに村上源氏義清公の類葉であり、禰津宮内大元直の嫡子長右衛門尉利直の舅であり、
その上昌幸とは甲府数代の傍輩、知音の仲であったが、真田昌幸が甲州没落後、信濃衆が諸方へ行動を
起こす時、まるで大将のようにこれを取り仕切り、多くの一族はその通り、万事昌幸の指図を
受け入れていたが、室賀はそれに納得しない態度を見せたため、互いに疎遠になっていった。

このため真田昌幸は室賀を退治しようと、禰津に行った。
禰津の家臣である加澤与七郎、別府若狭の両人は、智謀の勇兵であった。彼らに昌幸は、
矢沢頼綱を通じて様々に指示を出し、これによって室賀の家来である室賀九右衛門、松江、堀田らに
調略を廻した。この際別府・加澤に昌幸が与えた証文によると

『おのおのの調略によって室賀家中の過半は我らに納得し、同意したこと、これは忠信の至りであり
感悦している。彼の地について本意を遂げれば、そこから一所を宛がうであろう。

天正十年四月三日                  昌幸
                   別府若狭殿
                   加澤与七郎殿


このような事があって、4月下旬、昌幸は室が城に攻め懸けたが、室賀も聞こえる兵であれば
打ち取ること出来ず、居城に戻り、互いに互いを討つことを計った。

(加沢記)



鐵(かね)兵衛殿と呼ぶべきか

2016年03月31日 12:15

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/31(木) 05:18:15.10 ID:D7dfEllj
武田家滅亡の後、織田信長は武田の分国への仕置をなし、関東の管領として滝川左近将監一益を
上野国群馬郡厩橋の城に移した。武蔵・上野の旧武田分国の武士は残らずこれに出仕した。
真田昌幸は信州、上州両国に領地が在ったため、厩橋にも出仕した。

滝川一益は厩橋城で昌幸と対面した時、こう声をかけた

「あなたは承った所によると、以前は武藤喜兵衛と名乗っていたそうだ。しかし今回、つつがなく
武田が没落した以上は、鐵(かね)兵衛殿と呼ぶべきかな?」

そう、座興として言ったそうである。(喜兵衛を音が似ている金兵衛とかけた駄洒落である。)

その頃沼田の城は甲州の乱によって北条殿に横領され、藤田信吉は越後に浪人していた。
そこで一益は沼田の城に甥の滝川義太夫を城代として入れた。
一益は国中より人質をとったが、真田からの人質はなかった。これは真田信幸の姉が、人質として
安土に遣わされたためである。

(加沢記)


白井百人衆を謀る

2016年03月17日 14:39

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/16(水) 19:50:36.70 ID:AOgP06Dt
天正12年の正月上旬のこと。
上州白井長尾の家中には、百人衆と呼ばれる徒歩の侍の集団が有った。
その頃、真田昌幸の家臣であった沼田衆の林太郎左衛門、吉野太郎右衛門、吾妻衆の井上金太夫は、
私曲の事があって沼田を立ち退き白井に属し、白井においてこの百人衆に組み入れられた。
しかし、この3人はどうにかして昌幸に忠節を立て、故郷に立ち返りたいと考えていた。

この3人、談合してその事を昌幸家臣の高橋右馬充に伝えると、右馬充はこれを金子美濃に相談した。
金子美濃は「其方、上田に参り注進すべきだ。」と勧めたため、右馬充は上田に参り、丸山土佐守、
木村戸右衛門を通じて申し上げると、真田昌幸は大喜びした
「神妙のことである!卒爾無きように謀るべし!」
そして高橋右馬充は戸鹿野へと戻った

さて、かの3人は白井において、傍輩の者たちをたぶらかした
「沼田、戸鹿野には有徳(金持ち)の者が多い。夜討ちして金銭を奪い取ろうではないか!」
こうして130人ほどが申し合い、この林、吉野、井上を案内として、戸鹿野へと忍入った。

彼らが侵入し終わると、かねてからの計略通り、橋を外し、彼らを四方より取り巻き、討った。
突然の事に、瞬く間に白井の者達は120人余が討ち取られ、水練の達者の者5,6人だけが助かり、白井へと
逃げ帰った。

この忠節により、高橋右馬充には知行が与えられた。

(加沢記)




男であったら今弁慶

2016年03月15日 11:24

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 10:50:34.72 ID:wXXKRlD6
第一次上田合戦でのこと
小縣上田原染ヶ馬場に、徳川軍の大久保、鳥居勢が出撃し、真田信幸の軍勢と合戦と成った。
この時、真田勢は劣勢となり、昌幸は禰津助右衛門尉に下知して三百騎あまりを救援に向かわせる。
これに森右近の軍勢が二千騎あまりにてかかり来ると、救援軍の加澤世間兵衛は大薙刀を水車に回して
それと戦った。しかし鳥居軍中根の二百人あまりがこれに駆け寄り、加澤は取り囲まれた。

この時、加澤の妻が上田城大手の櫓より、敵に囲まれている旗印が、夫の用いるすわまに鷹の羽の紋で
あることに気がついた。

彼女はこの櫓に禰津主膳が置いていた馬に打ち乗ると、粥を飯籠に入れさせ、”はた織”という下女に
これを持たせ召し連れ、染ヶ馬場へと突撃した。

そして敵兵ニ百人余りの中に割って入ると、夫婦一緒に成って敵を四方へと追い散らし、
小高い場所へと上がって散らばっていた兵を集め粥を与え、殿して城中へと引き入れた。
この女房、城に帰って自分の体を見ると、鉄砲の弾が五つ当たっていた。

彼女は禰津の一族、別府閑斎の娘であった、父は信州において隠れなき剛の者であったが、
昌幸は「さすが別府の娘である。男であったら今弁慶とでも呼ぶであろう。」と賞賛した。
そして上田合戦が終わった後、小縣郡西田澤において五貫文の知行が与えられた。

(加沢記)



468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 11:49:52.95 ID:M7rnYvQk
>>467
無双キャラ決定か

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 12:32:37.76 ID:hyAM4yJg
>>467
粥食わしてる暇あるならさっさと戻れよw
あえて戦場で食べる示威効果とかもあるのかな。

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 15:19:14.78 ID:X083umLf
「お腹がすいてもう動けないよ~」的なアレだろ

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 16:16:42.85 ID:8+mdhNud
はた織もお粥持ちながら奮戦したんだろうな

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 16:31:22.71 ID:fCODIKy5
ふむ、前に見た上田真田を舞台にしてるアニメで
「一番いけないのはお腹が空いていることと、一人でいることだから」という
家訓があったがこれが元ネタだったのか(真顔

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 23:43:45.89 ID:bijnJOfb
てっきり熱々のお粥を敵兵めがけてブチ撒けるのかと思ったら、普通に食うのかよ

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 23:59:37.88 ID:hdMqxwPy
>>474
食い物粗末にする訳ないだろ、籠城の時に敵に浴びせるのは
熱々の糞尿と楠木正成の時代から決まってる

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/16(水) 00:59:29.18 ID:BOz2xNr+
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3356.html
真田や楠木の粥云々は前に色々話題になってた

室我入道謀殺

2016年03月14日 18:31

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/14(月) 17:54:03.61 ID:Yc5G3ZeV
天正壬午の乱の結果、信州一国は徳川家康に属することになったが、ここで天正11年6月、
真田安房守昌幸は国中を従えんと企て、先ず室賀を討つべしと一門を一手に引き連れ
室賀の館に押し寄せた。

しかしこれに、室賀兵部太夫(正武)は自ら打って出て、篠山において火が出るほど激しく戦い、
互いに多くの郎党が戦死したため、双方ともに引いた。しかし翌日、真田は再び取って返して押し寄せ、
これに室賀より和睦を請うてきたため、これを許して帰国した。

室賀入道は真田に従属したことを無念に思い、翌天正12年6月、高井彦衛門尉を通じて
遠州の徳川家康に訴えた。これに対し家康は、「謀を以って真田を討つべし」との返答を得た。
室我入道はこれに大喜びし、それから上田に見舞いに参ること甚だ頻りとなった。

ある時、上方より囲碁の上手が上田へと参り、これに室我入道は招待された。
室賀は「よき時節なり」と考え、日限を定め、一門の室賀孫右衛門を以って
「来月7日、真田の居城に囲碁に参りますが、この時真田昌幸を討ち取ります。
ですのでご加勢下さるように。」
と、徳川家臣の鳥居氏に申し送った。

ところが、この室賀孫右衛門は内々真田昌幸に通じていたため、その書状を直に上田に持って行き、
その内容を語った。真田昌幸は大いに喜び、孫右衛門を馳走して反した。

一方、室我入道は全てうまく行っていると思い、家の子である桑名八之助、相澤五左衛門尉、
堀田久兵衛などを従えて上田に参ると、昌幸は兼ねて用意してあった通り、書院に招いて
囲碁を始めた。
この時、長野舎人、木村戸右衛門が討ち手に決められており、合図を出すのは禰津宮内太輔、麻利子藤八郎、
長命寺、安楽寺であった。

長野、木村は次の間より太刀を抜き出し、室が入道を無常にも殺した。
室賀の家臣である桑名、相澤、堀田はこの騒ぎを聞くより早く殿中に斬り入り、散々に戦った。
しかし、たとえこの3人が項羽の勇を顕したとしても、多勢に取り巻かれ、最後には生け捕りにされた。
この3人は後には心を変じて真田に仕え、無二の忠を成した。
この時、桑名八之助は深手を負った。

室賀の妻子たちはこのことを聞くと、取るものも取りあえず早々に甲州へと落ちていった。

(加沢記)



真田昌幸の娘の行方

2016年03月10日 11:36

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/09(水) 18:50:21.20 ID:Ya1EF9Tr
※大河の今後の展開のネタバレが入っていると思われるので注意して下さい


本能寺の変が起こってから、真田昌幸が安土に出した人質である娘の行方は全く解らなくなり、
昌幸の御母堂の嘆きは止まること無かった。
真田の一門、家老の人々は日々集まってこの事を協議した

「この事、行方は覚束なく、落涙する外無い。しかし信長公の御台様や公達は、日野という所に
蒲生忠三郎が忠義を以って引き取り、御扶育されているとのこと。もしや姫様もそちらに
ご一緒しているのではないだろうか?」

「いやいや、未だ織田に対してさほどの忠節を見せたわけでもないのに、その人質を日野まで
伴っているだろうか?ただ、傍若無人な者の手に渡り、いかなる御身に成り果ててしまっているか…」

とにかく人数を出して探し出すより他無いと、手分けして尾張、近江、遠江、三河、甲斐、駿河の
6ヶ国の在所在所を草の根を分けて手の及ぶ限り探したが、やがて豊臣秀吉の時代になり、世の中が
静謐となってもその行方はわからなかった。御母堂は片時も彼女のことを忘れず、嘆きは深まるばかりであった。

さて、彼女が行方不明に成って翌年の春、真田昌幸が上洛した折、桑名の渡守の所に真田家の下郎達が入って
休息していると、20歳ばかりの女房が走りきて聞いてきた

「今日、御上洛の殿様は何という大将で、国は何処でしょうか?」

「これは信州真田殿の上洛だ。」

これを聞いて女房はさめざめと泣いた
「信濃とは懐かしい。私も信濃の者ですが、いささか仔細があってこの国に有ります。
ですが本国ですから母を一人持っています。在所は上田の城…」

そう言いかけたが、言い直し
「上田の城町の喜兵衛と申す者の所に、これを届けて頂けないでしょうか?」

そう、紙包みを一つ渡した。彼らは下郎であったので、とくに何も考えず「心得たり」と懐に入れ、
帰陣まで何もせず上田に持ち帰った。
そして『城町の喜兵衛』という人物を尋ねたが、上田の城主(真田昌幸)の名が喜兵衛であるため、
外にその名を付けているものは一人もなかった。

この事、追々足軽大将に聞こえ、彼が預けられたという紙包みを開いてみると、まさしく姫様よりの
御文であった。早々に山田文右衛門に渡し、そのまま奥方にさし上げると、喜ぶこと限りなく、
すぐに桑名へと人を遣わし、渡守に褒美を与え、彼女を向かえ取った。
渡守は安土の乱の時に彼女を奪い取ったが、大切に思い深く隠し置いたのだという。
浅ましい話で、2年間の憂き目のほど、思いやられていたわしく、聞く人ごとに哀切の気持ちは増した。

彼女は後に、小山田殿の御内室になった。

(加沢記)

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/09(水) 21:23:18.02 ID:IAi8UN//
おやまだ結婚してなかったのか

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/10(木) 01:27:53.74 ID:rGWTfnmK
座布団どうしようかなぁ

おしき武士を討ってはならない

2016年03月01日 10:45

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/29(月) 22:33:38.22 ID:T189vIaX
武田家の滅亡後、真田昌幸が室賀兵部を攻めていた時のこと。
室賀の城より、6尺(約180センチ)あまりの大男がただ一人、5町(約500メートル)ばかり出て
物見をして、馬に乗って帰っていった。

これに、昌幸の配下である大熊五郎左衛門の足軽が一人追いかけ、「逃さじ!」と声を上げたが、
この武者は少し振り返っただけで、そのまま静かに退いた。

その姿を見た昌幸が左右の者達に「あれは何者ぞ!?」と尋ねると、何れも
「あれこそ聞こえる、松澤五左衛門です!」と申し上げた。

彼を追いかけていた足軽は、3町ばかりの内に追いつき、斬りかかった。
五左衛門、手を差し伸ばしてこの足軽の髻を掴んで引き伏せ、足で踏んで首を掻き落とし、
田の中へ捨てると、何事もなかったかのように再び退いた。

これを見た真田勢は何れも槍を押し取り馬に打ち乗り五左衛門を追いかけようとしたが、
昌幸は采配を以ってこれを止めた

「室賀は小身者である。おっつけ踏み潰して私は、あの五左衛門を我が手に付けるであろう。
おしき武士を討ってはならない。」

その言葉通り後年、松澤五左衛門は真田の臣となった。

(名将言行録)



403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/29(月) 22:54:14.29 ID:Nzh5sqjC
真田丸のおかげで室賀という名前に聞き覚えがある
信濃の豪族衆で昌幸に突っかかる小物って感じだけど

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/01(火) 05:28:41.27 ID:w14DspfW
>>403
黙れ小童!の印象が強すぎて強すぎて…

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/01(火) 07:53:07.53 ID:S6X9nm2V
童貞に見えた

一度後れては3年失せぬ

2016年02月26日 17:14

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 14:59:51.90 ID:BOOoXAE2
島原の役の時、真田信之細川忠利にこう言った
「今回、板倉内膳正重昌が討ち死にした事で、敵を急ぎ踏み潰すためにあなた方を
遣わされるようですが、ただし、手間取って思ったようには成らないでしょう。
そのように心得ておくべきです。

私が昔、忍城の成田氏を攻めた時のことです、
軍勢は勇まず、下知を聞こうとしませんでした。帰陣した後、私は父の安房守(昌幸)に言いました
『あのような腰抜けばかりを選んで私に付けられたので、今度の合戦で勇まないのです。』
安房守は怒って申しました
『若輩者が!何を不智な事をいうか!?それはお前が、去年合戦で後れを取ったためだ。
一度後れては3年失せぬものである!』

今度の島原も、内膳正は討ち死にし、軍勢は損害を受け、みな恐怖心を持っているでしょうから、
軍勢は勇もうとしないでしょう。であれば、手間取ります。
その分別をして、ご出陣すべきです。」

(名将言行録)



239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 15:29:09.86 ID:wJbS32Th
そりゃあ総大将がアレですから

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 16:05:21.65 ID:linV+D2a
>>238
小童!ではないのか。

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 17:55:57.98 ID:DxkpIThN
去年合戦で遅れをとった、て名胡桃城取られたこと?
信幸に責任あったっけ

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 18:23:49.08 ID:rVEZlCrD
沼田の責任者だからだろ

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 18:34:42.29 ID:vERWSTmf
そのお陰で北条攻めの名分が出来たのに…

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/27(土) 12:16:09.29 ID:fqUtjaJs
>>242
その時沼田は小田原に割譲済だけど?

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/27(土) 12:27:16.72 ID:nDdVzJi9
つ名胡桃

金の馬鎧

2016年02月25日 19:10

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 19:32:41.00 ID:OZ8/vebl
天正の初め、武田軍は中山、上野の尻高、中山、白井の諸城を攻め、真田勢もこれに随身した。
しかしそれらは屈強の要害であり、吾妻勢は度々利を失った。そこで真田昌幸は、
忍を入れて城を焼き落とすべしとして、唐澤玄蕃にこれを申し付けた。

唐澤はこの旨承り、割田新兵衛尉を相語らい、尻高城に忍入り放火した。

中山城に忍入った時、城主の中山安芸守は鼓を打って酒宴をしていた。中山は鼓が非常に下手であった。
百のうち一つもまともに鼓の音を出せなかったので、世の人は『中山殿の鼓にて百一つ』と語り合っていた。

そうして夜もふけ、皆寝静まり夜廻のものも油断した頃、唐澤玄蕃は中山城の納戸に忍入り、ここかしこを
捜索していると、金の馬鎧を発見した。これは畢竟の事だと思い、放火せずにこの馬鎧を盗みとって
帰陣した。

この馬鎧は、中山安芸守が、関東管領・上杉憲政の元に出仕した時拝領したもので、それを今度
唐澤に取られたのである。

唐澤玄蕃は一本気な若者で、その後合戦があればこの馬鎧を着けて出陣した。
ある時、西上野に出陣した折、唐澤は真田の軍勢に属していたが、これが信玄公(原文ママ)
の目に止まり、真田信綱を召して「あれは信州松山合戦の時に見た馬鎧だ」と仰せになった。
その頃は乱世であり、金の馬鎧など見ることは殆ど無かったという。その時「あれは何者か?」と
お尋ねになったので、「唐澤です」と申し上げた。このため、唐澤玄蕃は不意に高名を上げたのである。

(加沢記)

加沢記より、真田の忍・唐澤玄蕃のお話。後半の信玄は勝頼の間違いですかね?



377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 20:26:08.23 ID:IqQWvIY0
唐沢玄蕃といえば、
歴史秘話ヒストリアの真田昌幸・真田信之回でこの話をやってて、
金の馬鎧に目を輝かせて思わず盗んでしまう、おちゃめな忍者として描かれていた
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org753051.png
唐澤

殿には腰が抜けられたと見えました!

2015年12月11日 07:32

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/10(木) 20:26:11.02 ID:GAXiWdNB
関ヶ原のあと、真田父子(昌幸、信繁)は助命かない、両人とも剃髪して染衣を着し、
高野山に赴くこととなった。この時、安房守昌幸は57歳で、于雪と号した。

この真田の譜代の士に、窪田正助という者があり、彼は昌幸に、供をしたいと強く乞うた。
しかし昌幸

「その志は嬉しいが、私が召し連れる人数は上より定められている。
である以上、我が心のままには出来ないのだ。」

それでも正助は
「ならば、私は草履取り代わりに参ります!」

「それは尚宜しからず!士を草履取りにするとは、後日の世の聞こえも如何か!」

これを聞いて正助は立ち上がり
「殿には腰が抜けられたと見えました!私をお役に立たないものと見定められましたか。
もはや存命しても申し甲斐ない!」

そう言い捨てその座から去ると、たちまち自害して果てた。
これを、昌幸は甚だ惜しんだという。

(明良洪範)



海野能登守父子謀殺

2015年01月12日 18:46

226 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 02:21:57.43 ID:2R3C01cP
真田昌幸が沼田城を奪取したあと、昌幸は海野能登守(輝幸)を城代として置いていた。
彼は昌幸より吾妻郡岩櫃城の支配も許され、権勢高く、城代といえどもまるで本主のようであった。

時に、海野信濃守棟綱の三男、矢沢薩摩守頼綱と言う者があった。すなわち真田弾正入道一徳斎(幸隆)の
弟であり、昌幸にとって叔父であった。
また海野能登守の嫡子・中務に娘を嫁がせ、舅となっていた。
そんな矢沢頼綱が、昌幸にこう進言した

「海野能登守はその心、至って猛勇であり志も高く、仮にも人の風下には立たないと欲している人物です。
ですので、彼を速やかに誅罰すべきです。
そうしなければ、彼は北条か上杉景勝に与して我々に逆心を企て、沼田や吾妻を我が物としてしまうでしょう。」

昌幸はこれに
「仰るように、私も内々そう考えていた。ただし尋常に討ち取ることは難しい。不意を突いて討たなければ。」

そして舎弟である真田隠岐守信尹を大将とし、田口又左衛門を検使として差し遣わし、これを北条と戦う
軍勢だと言って十月二十二日、沼田に到着した。

海野能登守は、この軍勢が自分に向けられたものとは知らなかったが、翌朝妹婿である摂津守が馳来たり
密かに告げた

「北条方が攻めてきて、それを防ぐためとして隠岐守殿が軍勢を率いてお越しになりましたが、
昨夜ある者が来て知らせるには、一体どういうことでしょうか、殿を討つために来たとのことなのです。
どうかご油断ありませんように。」

能登守は城代であったので、二の丸北条曲輪にあった。真田隠岐守は本丸へと入っていた。
能登守はこの話を聞いても信じられず、「どうしてそのような事があるだろうか?汝、本丸に行って
事の体を聞いてまいれ。」と摂津守を遣わしたが、彼は本丸においてたちまち討ち取られ、
帰って来ることはなかった。

摂津守が帰ってくるのがあまりに遅いので、不審に思い能登守は「見てくるように」と富澤某を遣わした。
これも討たれ、帰って来ることはなかった。
これにより二の丸の人々の気色もにわかに変わり、足音も高く、騒然とした雰囲気となった。

能登守は言った
「本丸に遣わした二人は、両人共に討ち取られたと思われる。何と不憫なことをさせてしまったのだろう。
これは我が身に降り掛かった珍事である。然れども我においては、天のご照覧もあれ!全くもって
逆心はない。定めて佞人のために讒言をされたのだろう。であでば、今一度使いを立て弁明をしたい。」

そうして安中勘解由という者を召して、
「事の安否を見聞きしてまいれ。先に遣わした者達は二人ながら帰らぬ。充分に用心するように。」
そう忠告して三度遣わした。

案の定、二の丸から本丸に通る橋詰に武士たちが待ち受けていた。勘解由が橋を通っている最中、
彼らのうち逸った若武者が馳せ来て撃ち掛かり、棒を以って強かに打たれたため、橋より打ち落とされた。
それでも勘解由は起き上がったが、堀を伝って落ちていった。

227 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 02:24:59.11 ID:2R3C01cP
勘解由の伴をしていた童が急ぎ帰りこれを伝えると、能登守は子息・中務に言った
「私が本当に逆心したのであれば、例え百万騎に囲まれたとしても、彼らを打ち破って出ることたやすい。
しかし私には毛頭そんな気持ちはない。ただお前の妻子のため、私は加葉山に向かい、誤りのないことを
申し訳する。それでも承知無くば、寺にて自害しよう。」

これに中務
「仰せ然るべしと思いますが、このような火急の状況になった以上、もはや陳謝も立ち難いでしょう。
我が妻は薩摩守(矢沢頼綱)の娘ですから、危害が加われることもないと思います。
子供については、例え敵に捕まり馬の蹄に掛けられたとしてもかまいません。
さあ、早くあの者達を蹴散らし、いづ方へでも行って運を開きましょう!」

そう言って諌めたが、能登守
「私はもう年老い、この身も惜しくない。
そして罪なき孫達をはじめ、下人たちに憂き目を見せる事こそ口惜しい。
唯我に任せよ。」
そして馬に打ち乗り従僕に下知した
「敵を討ってはならない!ただし敵が打ちかかってくれば打ち払って押し通れ!
上田・沼田に武士多きといえども、私と太刀組み出来るような者は居ない!」
そして雑兵百五十あまりを率いて突撃した。

中務は恩愛浅からざる妻子を打ち捨て出撃しようとしたが、この時8歳になる娘が
泣き悲しんで後を追いかけ、袖にすがりついて「私も連れて行って下さい」と叫んだ。
中務は人に弱さを見せてはいけないと強いて袖を振りきって出撃した。
海野能登守はこの様子を見て、「さればあの娘も連れてくるように」と、馬に乗せて連れた。

二の丸を囲んでいた者達は、出撃した能登守勢を恐れ、風に木の葉が舞い散るように逃げ散り、
あるいは堀へと落ちた。こうして加葉山に向かって馳せ退く。

この前に、真田昌幸は隠岐守にこう言い含めていた。
『能登守父子の事だが、中務の妻子を絶対に失う事無いように、よくよく奪い取れ。』
この言葉があったので、隠岐守は下知し、中務の娘の乗っている馬と能登守たちの間に
大勢の兵を入れ分断した。そのため分断された者達はみな散々に逃げ落ちた。
娘に付いていた舎人は道端の畑に馬を引き退き、彼女を馬から下ろすと、
能登守が孫娘に持たせた、金銀を入れた小袋を奪い取って逐電した。

海野能登守・中務父子は追いすがる敵を打ち払い、田口又左衛門、木内八右衛門といった豪の者達も
討ち取ったが、やがて中務が敵を追い立てるのを能登守止めて

「罪無く殺すな。先刻、その方の娘が敵に押し隔てられてから姿が見えない、おそらくは敵に
捕虜とされたのであろう。

我ら父子が連れ立っていけば、敵が何千騎あっても打ち破ることは出来るだろうが、
孫娘はもはや逃れるすべはない。
先に二の丸で言ったように、私に逆心はない。陰謀によってこのようになってしまった。
しかし私の誠心は、死後に知ってもらえるだろうから、今はもはや、思い残すことはない。
さらば、刺し違えよう。」

そういって父子ともに追手の田口又左衛門の死骸に腰掛け、同音に「これに勝ることがあるだろうか?
なんとも面白い今の気分である。」と歌い、父子刺し違えて相果てた。
隠岐守がこのことを昌幸に注進すると、昌幸は大いに喜んだという。
(羽尾記)

真田昌幸による、海野能登守父子謀殺の逸話である。



228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 09:12:32.73 ID:v3sulBcy
被害多すぎじゃね?

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 09:43:38.19 ID:eEne3kgX
悔いたんじゃなくって喜んだのか...。

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 10:29:10.80 ID:/xsyciHV
汚いさすが真田汚い

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 11:54:15.17 ID:2o0UyTcL
武田氏配下時代の真田信尹って昌幸の家来でも寄騎でもないし色々とおかしいね
まあそもそも当時の名からして違うとかは大目に見るとしてもさ

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 13:29:50.01 ID:MtzFMxeZ
何でこんな策略大好き人間から、忠義一徹の真田幸村が生まれたんですかね

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 18:58:29.92 ID:V30zpDvx
>>232
どこぞの心理学によると子は親をコピーしたような性格か真逆の性格になるらしいぞ。

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 21:50:03.98 ID:liC2NIq+
じゃあ親爺と一緒で家康が嫌いなだけか

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 22:01:59.20 ID:lQFIXTT3
親父も祖父も忠義は貫いてたぞ。

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/12(月) 22:06:20.94 ID:qd0IuZhm
長篠で死んだ伯父2人も入れて

真田昌幸による沼田城奪取

2015年01月11日 17:07

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/10(土) 06:12:11.24 ID:TvfmqqMH
天正6年(1578年)、上杉景勝は武田勝頼に上州沼田を譲ると約束し、勝頼は真田安房守(昌幸)に
これを受け取らせに向かわした。

しかし、昌幸が沼田に入ろうとすると、沼田城主の沼田平八は使いを以ってこのように申し遣わした

『この城は先祖より代々、我々が保ってきた城であり、簡単にお渡しすることは出来ない。
どうぞお帰りあるように。』

これに昌幸はこう返答した
『沼田の城地をあなた方が代々保ってきたのは事実でしょう。しかしながら私は、武田勝頼の
恩賜によりこちらに罷り越したのです。もしこれにご意見があるのでしたら、沼田を譲ると約束した
上杉景勝に対し訴えるべきです。我々に言うべき事ではありません。

しかし、お渡し下されないのであれば仕方なし。一戦仕らん。』

こうして沼田の所々にて戦闘が行われたが、そのうちに昌幸より沼田城に使者が送られた。

『このように日々攻め合いをするのは詮無いことであり、我ら双方にとって全く利がありません。
ここは曲げて、城をお渡しいただけないでしょうか?
もしお渡し頂ければ、沼洲に新しい城を作り、そこをあなたに差し上げましょう。
その上今の沼田城下の町も、沼洲に引っ越しをさせ、新たに町を作らせましょう。

もし、この事もご承知無いというのなら、近日中に沼田に乱入いたします。
この是非を申し述べていただきたい。』

これに沼田平八は、運の末の悲しさというものだろうか、この提案を誠であると信じてしまい、
拒否すること無く開城した。すると真田昌幸

「虚に乗じるのは疾風の如くせよという!」
そういって開城した沼田城に、息をも尽かさず押しかけ攻め立てた。
これに沼田平八は、痛ましくも先祖伝来の地から没落していったのである。

(羽尾記)


真田昌幸による沼田城奪取についての逸話である。




信玄の天下の仕置

2014年11月26日 18:50

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 00:44:53.72 ID:ZRAx/03K
>>861の続き

真田安房守(昌幸)は再び高坂弾正に問うた
「大敵の押さえのためには、せめて配下に一国を与えなければ都が危うくなります。ここを考えれば、
信長が配下を大身にしているのも、この他に仕置の有り様がないからでは有りませんか?
彼の行っている仕置よりも、良い方法があるのでしょうか?願わくば高坂弾正殿の工夫を
お聞きしたい。」

高坂は申した
「私が存じているのは大したことではないが、4年前信玄公が御他界されたが、今も御在世ならば
天下の仕置をしていたこと疑いない。なぜならあの時、伊勢、越前、河内、和泉、四国、その他
紀伊国大和国の小身なる者達まで信玄公に内通し、その都入りを皆が待ち望んでいたからである。
であるからあの時は、三河の家康さえ押しつぶせば、信長がいくら大身でも、さほど手間は取らなかったであろう。
(このあと家康の攻略について色々書かれているが略)

家康さえ滅却すれば信玄公の都入りに問題はなかった。しかればその春、東美濃に発向なされる時、
3月15日、その前の14日に私を召し寄せられ、「信州勢1万5千の人数を預けるので、北越の輝虎を
押さえるように。」と命ぜられ、その時「私の煩いもこのように平癒したので、来年中には都に
旗を立てる」と言われた。

天下の仕置とは都をさして申す。何故ならそこに日本の主、帝王が御座なされているためである。
であるから、信玄公の煩いが後まで平癒し、3年の内に都に上がり参内を遂げ、勅命を以って都の意見を
仕るようになれば、天下(畿内近国)に信玄公が居ない時は危うくなる。
だからと言って都の周りに大身のものを置くのも危うい。

よって、都のある山城国は禁中への恐れにこれといった城はないので、屋敷構えを良くして
その屋敷のまもりに逍遥軒(武田信廉)を差し置き、都近国には敵を押さえるために、馬場、山縣、
内藤、小山田弥三郎、又は木曽殿、小幡、安中、相木など、そういった者たちを1国に1人づつ
郡代に定めて、その他は譜代の小身なる者たちをいかほども取り立て、仲の良し悪しを目付け・横目に
尋ねて、それをうまく組み合わせて一国の中に何人も置く。
その他、日本を皆治めれば、遠国にはまた、国の2つや3つもくれて置く仕置ならば、たとえ信玄公の
亡くなられた後、どれほど分別のない侍に跡を継がせたとしても3年は保つことができるだろう。

前の大将が死んで3年も保てるようにするのは、前代の手柄である。
4年目からは後を継いだ大将の分別が良ければ誉れを得て、悪ければ恥を得る。
中でも、天下の権を2代保つのは、ただの家を百代保つより弓箭を取っての誉れである。
信玄公がかつてそのようにおっしゃったのを存じている。

そこから考えれば、今、織田城介殿(信忠)、三介殿(信雄)は信長に良く似た若者たちであるが、
信長死後は危うい。」

そう、高坂弾正が真田安房守に信長に関する話をした。

(甲陽軍鑑)




895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 02:20:14.72 ID:q9TPqEjk
信玄の上洛開始時ってもう輝虎→謙信だよな
単に旧知だから輝虎と呼んだんかな
まあ甲陽軍鑑だからあんま細かい突っ込みはなしか

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 10:27:35.38 ID:G7qfaeAX
結局、それぞれ一国を任せるんかい

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 15:52:04.16 ID:E4HgbFfa
織徳同盟は両家の利害が見事に合致していたんだろうな

信長の仕置が

2014年11月23日 18:58

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 03:23:28.21 ID:DnDEKrTy
真田源太左衛門(信綱)、同兵部介(昌輝)は長篠で討ち死にした後、彼らの弟である
武藤喜兵衛に兄の後を継ぐよう武田勝頼が命じ、真田安房守(昌幸)と称した。

この安房守がある時、高坂弾正に問うた

織田信長は長篠において当屋形勝頼公に勝ち、その余勢を以って越前の朝倉、伊勢の国司を
完全に滅ぼしました。そうして四国、西国、関東奥州までも末には治めるであろうこと、
長篠の勝利を得て以降一層その姿勢を強めています。

ですが、信長の仕置が、源頼朝や執権の北条家、あるいは足利尊氏にように、代替りまで無事にあって、
末代までも人が沙汰するような仕置に、信長のそれもそうなると、弾正殿は見ておられますか?
願わくばこの事について、ご意見を伺わせて頂きたい。」

高坂弾正は答えた
「信長の仕置についてだが、今は先ず危うい。何故かといえば、家臣に大国を与え彼らを国主に
任じている。その中には才能ある人物が居ないということはない。

そうして、明日にでも信長が病死すれば、子息城之介(信忠)は大身の二代目であるから、
どうしても全てのことを仔細に見ることはない。

一方で出頭してきた侍は何事も明細であるから、元からの大身と出頭の大身とを比べれば、
同じ時代においては出頭の者が勝つものなのだ。

そうした家臣を必要以上に大身にすることを止めれば、そして信長の仕置さえ良ければ、嫡子城介信忠も、
その舎弟で伊勢国司に定められた三介(信雄)も、殊の外能く生まれついた大将だと聞いているので、
信長死後も治まるであろう。」

(甲陽軍鑑)

高坂弾正による信長の仕置についての批評である。




863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 11:38:04.18 ID:5tWOOnpY
丸で本能寺秀吉関ヶ原と見てきた人間が書いたようだw

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 12:12:38.50 ID:Yg3gQ5Ct
茶筅丸は有能なのか

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 14:57:01.40 ID:YMT1P9bd
信雄が能く生まれついた・・・?

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 15:42:57.59 ID:JtT4Q6pC
>>865
大名としてはポンコツだけど一領主としての統治能力はあるんでね?

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 17:18:38.37 ID:PyDVnSzn
その根拠は?

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 18:04:32.52 ID:fjKL9pZL
>>863
同感。典型的な事後予言にみえる…
「甲陽軍鑑」の価値が暴落した感じ

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 18:52:45.28 ID:DnDEKrTy
>>863
>>868
安国寺恵瓊の、信長が「左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候」もそう思うのか…w

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年積り候故、気根草臥れ候

2014年11月17日 18:55

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 21:22:39.81 ID:e8mJx3vo
割と有名な書状のようだが、ここではまだ出ていないようなので


「追って珍しからず候へども、はり(玻璃)の盆一つ、同じくとうさん(「灯盞」か)二つこれを進じ候、
書状の験までに候、次に左衛門佐慮外ながら御言伝申し入れ候、
『先書に申し上げ候ごとく、爰元(ここもと)永々の御山居、よろづ御不自由、御推量なさるべく候、
我等手前などの儀は、なほ以て大草臥れ者に罷り成り申し候、御察しに過ぐべからず候、以上、』
其の許の様子、久々承はらず候間、(青木)半左衛門相下し候、御息災に候や、承はりたく候、
此の方別儀なく候、御心安かるべく候、但しこの一両年は、年積り候故、気根草臥れ候、
万事此の方の儀、御察しあるべく候、委細は半左衛門申し述ぶべく候間、具にするに能はず候、恐々謹言、 

安房 三月廿五日 昌幸(花押) 豆州 参」

(追って珍しくはありませんが、玻璃の盆一つと、同じく灯盞二つを進上します。
書状のしるしまでに。次に出しぬけですが左衛門佐の言伝を申し入れます。
『前の手紙に申し上げた通り、(昌幸の)ここでの長い御山居、御不自由を想像してください。
私たちや家臣などのことは、なおさら大草臥れ者になってしまっています。
(これについては)心配しすぎないでください。』
そちらの様子を長らく聞いていないので、半左衛門を遣わします。御息災かどうか聞きたく思います。
こちらは特に変わったこともありません。安心してください。ただしこの一両年は年を取ったせいで
気根が草臥れてしまっています。万事こちらのことを察してくださるよう。
委細は半左衛門が申し述べるでしょうから、つぶさには書きません。)


文面から長年の蟄居による昌幸・信繁の疲れ具合が見て取れる、昌幸の晩年に書かれたらしき書状である。
昌幸から信之に物を贈っているのが珍しい気がしたので、個人的にいい話に





大谷吉継から真田昌幸に宛てた書状

2014年09月29日 18:51

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/28(日) 23:01:04.84 ID:Fkn7+NjH
真田家文書より、大谷吉継から真田昌幸に宛てた書状を二通紹介。


眞房州様 白以

貴札快然の至りに候、然る処久しく御意を得ず、御床しさにて候、御茶法御手前相極め候哉、
拙者式漸く相済み候条、御隙に於いては一夕おぼしめし□□(不明)候はば、本望たるべく候、
積欝御事、面上を以て申し承るべく候間、書中具にせず候、恐々謹言、

十二月九日 (花押)

(お手紙をいただき快然の至りです。このところ長い間お会いせず、お懐かしい気持ちです。
お茶の作法、お手前を極められたのでしょうか。私の用事はようやく済みましたから、
お暇な時には一晩思し召して□□くだされば本望です。
御心配のことはお会いして承りますので、手紙では詳しく書きません。)


眞房州様 白以

明朝、成らるべき旨忝く存じ候、尤も参を以て御礼申し入るべく候へども、
却って御六ヶ敷(むつかしく)思し召さるべくと其の儀なく候、常之御食時分に御出で成らるべく候、
何さま是より御左右申し入るべく候、恐々謹言、

十一月朔日 (花押)

(明朝、お出でになる旨嬉しく思います。もっともこちらが伺ってお礼を言うべきなのですが、
かえってわずらわしく思し召すと思いそれは致しません。いつものお食事時にお出でください。
いずれにせよこれよりこのお知らせを(注:家の者に?)伝えるつもりです。)


舅同士けっこう交流していたようだ。




901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 01:02:59.02 ID:ex4PbjiF
真房州ってかっこいいな

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 01:09:09.07 ID:24dHlvKC
>御心配のことはお会いして承りますので、手紙では詳しく書きません。
手紙は史料としての価値は高いけどこれが困る、後々の人の為にもっと詳しく書いて。

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 01:13:09.64 ID:RWi86YPV
吉継も兄ちゃんも短命だったのが惜しまれる

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 01:18:44.02 ID:vH8Rg91z
兄ちゃん充分長生きしただろ!

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 01:19:38.65 ID:hxlk00UX
兄ちゃんは色々ストレス抱えてたから仕方がないな

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 02:24:59.53 ID:dJvQXJbK
さる御仁曰く、人間の寿命は125歳らしいからな
93歳じゃ天寿を全うしたとは言えん

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 05:15:53.01 ID:hwXjMjDR
信之の母方の従兄弟の石田重家も103歳で死んだから
徳川に抗った親を持つと短命で死んでしまうんだな

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 15:32:39.08 ID:DQjemt6O
守光居士・成沢道忠「まだまだ若いのぉ」