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北条氏所縁の娘、香沼姫

2020年02月29日 17:14

香沼姫   
705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/29(土) 17:03:14.81 ID:boR2oEzY
北条氏所縁の娘、香沼姫


小田原城郭の百姓曲輪跡の西に、地元では"おみともさん"と呼ばれる墓がある。

『新編相模国風土記稿』によると、北条氏綱の娘香沼姫の邸跡であり、終身処女で暮らしていた。
香沼姫は氏直の内室(家康の娘、督姫)と親しく、いつも和歌の贈答などがあった。
北条氏の没落後、香沼姫が(藤原)定家の真蹟歌集を持っていることを家康が知って
督姫から旧好のよしみとして御所望があったので、(香沼姫はその歌集を)献上した。
その褒章として化粧田を賜うようにとの命があったが(香沼姫は)固辞し、居邸の地の
永代の諸役免除を願ったので免許され、家康から直筆の御消息が下されたという。

元和三年四月二十日香沼姫が亡くなったので、その遺言により居邸を山本外記の屋敷とし
その山上に葬られた。そのことを示す石碑が今もある。
山本外記は、元は渡邊外記といって北条氏の命令で傅役となっていたが、香沼姫の側仕えをしていた
山本氏の娘(香沼姫の母方の親戚)が外記に嫁したので、山本姓を名乗ったという。



706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/05(木) 23:57:58.83 ID:zFSGFA/Q
なんだか性格が優しい感じが伺えるね
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彼女は獰猛な牝ライオンのように

2018年10月27日 11:20

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 22:28:54.76 ID:K7WJMRDm
彼女は獰猛な牝ライオンのように


播磨の国の殿(池田輝政)が住む城と御殿に接する異教徒たちが住む町で
悪魔がある女に取り憑くということがあった。彼女は獰猛な牝ライオンのように
家から出て誰も彼女を阻止出来なかった。そしてこの勢いと狂暴さをもって
城に入った。城の女房にさえ容赦せず、ついには無数の狼藉を働いた。
しかしその女房に仕えるあるキリシタン女に出会い、彼女に気づくと悪魔に
憑かれた女は逃げ出し、顔を覆って「キリシタンは恐ろしいものだ」と言った。

女房は腰元(あるキリシタン女)に
「この女はなぜお前から逃げたか」
と問いました。腰元は
「自分が首にかけている守り袋(アグヌス・デイ)のせいだろう」
と答えて、(悪魔に憑かれた)女の上に守り袋を置くと、女は静かになった。
異教徒たちは守り袋を拝むようになり、キリシタンの話を聞くことを望んだ。

その国で受洗した人たちの中に、公方(家康)の息女であるその国の領主の奥方(督姫)に
仕える高貴な若い婦人が二人いた。彼女たちはその御殿の他の女たちが、やはり
以前に行ったように、我らの聖なる教えの真実をよく理解して受洗した。


――『十六・十七世紀イエズス会日本報告集』



後北条氏の家宝「酒伝童子絵巻」

2018年10月11日 13:12

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 00:56:08.17 ID:6aO+yd8d
後北条氏の家宝「酒伝童子絵巻」



現在サントリー美術館に収蔵されている重要文化財「酒伝童子絵巻」は
江戸時代は鳥取池田家に伝来していたが、元は後北条氏の家宝であった。

北条氏綱は京文化への造詣が深く「酒伝童子絵巻」を作るにあたって
絵を狩野元信、詞書を前関白の近衛尚通、定法寺公助、青蓮院尊鎮ら
奧書を三条西実隆と当代を代表する絵師や能書家に依頼した。
特に尚通とは格別の交流があったらしく、正室・養珠院に先立たれた氏綱は
継室に尚通の娘・北の藤(勝光院)を迎えた程であった。

その後は家宝として伝わっていたが、天正19年(1591年)に北条氏直が病死し
後家となった督姫が、池田輝政に再嫁する際に引出物として持ち込んだという。

池田家伝来のものでは、同じく重文の「後三年合戦絵巻」(現:東京国立博物館)や
北条高時の執事長崎為基の佩刀で、『太平記』に出てくる来太郎の太刀「面影」*
なども、元は後北条氏の家宝で督姫を経由して伝来したものとされる。


――『小田原市史』『池田家履歴略記』など

* 為基の後は、小弓公方・足利義明が敗死したとき佩いていたという。(『後鑑』)
 鳥取城にあったが享保5年に火災で焼身になり、再度の火災で焼失した。


督姫、母の供養のために宗旨替えをする

2018年09月29日 18:38

督姫   
324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/29(土) 11:47:06.40 ID:NRTWlHBq
督姫、母の供養のために宗旨替えをする


慶長14年、督姫は姫路から息子らを連れ駿府に行き、父の家康に拝謁した。
そのときに督姫
「母(西郡局)の御宗旨が日蓮宗であるので、私が宗旨を受け継いでいますが
 松千代(輝澄)に宗旨を譲り、自身は父の御宗旨(浄土宗)に致したく存じます」
と願ったので(家康は)もっともに思って松千代を膝下に召し寄せて
「母の願いなのだから、祖母西郡の宗旨とするのがよいだろう。
 そうであるなら父三左衛門の名字の池田を改め、祖父の名字松平とするように」
との上意により、松千代は松平氏と吉光の脇差、船の形をした黄金の文鎮を
授かった。(『譜牒余録』)(『寛政重修諸家譜』)

西郡局は慶長11年に伏見城で亡くなったが、その際の葬式法事は家康の命により
娘婿の輝政が執り行い、菩提を弔うため姫路城東方の野里に青蓮寺を建立した。
同寺には長谷川等伯筆の西郡局の肖像画や、井伊掃部頭(直孝)、藤堂和泉守(高虎)
土井大炊頭(利勝)連名の木札が納められていたという。(『蓮葉院余光記』)

輝澄は慶長20年に、兄忠雄から領地を分与される形で山崎藩を立藩した。
池田家が姫路から転封された際に、青蓮寺は輝澄の領地に移り(現・宍粟市山崎町)
輝澄の改易後も、その由緒から寺領百石の御朱印を有した。


大坂冬の陣で家康から感状を得た横河次太夫重陳の話

2018年08月24日 10:15

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/23(木) 19:10:59.80 ID:t0gJgy7I
大坂冬の陣で家康から感状を得た横河次太夫重陳の話


池田輝政が姫路に入国した際、横河次太夫*は船大将として召し抱えられ
高砂城の築城に際し、巨石を運んだ功があったという。
大坂の陣のときには、輝政の三男で13歳の忠雄の家臣となっていた。

さて、そのときの横河次太夫の水主に高濱十兵衛という人がいた。
この人は元は相撲取りで鉄砧と名乗っていたが、世に優れる大力の持ち主で
あるとき播州の海岸で喧嘩があった際、仲裁し和談をすすめた十兵衛に対して
逆に大勢が掴みかかってきたのを、十兵衛は左右の手に櫓櫂を二つ持って
振り回し、蜘蛛の子を散らすように退散させたことがあったという。

その頃横河次太夫は高砂に住んでいたが、次太夫も相撲好きであった。
それを知った十兵衛が次太夫を尋ねて来たので、次太夫の方も十兵衛を歓迎し
十兵衛は次太夫のところで逗留することになった。
その内に大坂へ出陣する風聞が立ったので、十兵衛が同道したい旨を次太夫に
頼んできたので、水主として次太夫に付いていくことになった。

池田忠雄は、薄田隼人(兼相)が守る博労淵(伯楽淵)の砦を攻めることになった。
隼人はその日神崎の娼婦の家に泊まり込んでいたため、砦を守る兵達も勝手に
知り合いがいる陣屋に行ってしまい、砦には四、五十人程しかいなかった。
蜂須賀至鎮の手勢がまず先に夜討ちを仕掛け、火花を散らして戦ったので
砦の者達の中で犬死を恐れる者がおり、本城へと引き取っていった。

蜂須賀勢も砦を押さえる程ではなく、一旦引き返してくるのと入れ違いで
横河次太夫は川を渡り、向こう岸に着いたと同時に陸に上がった。
夜討ちのときは物が多く落ちているので、逃げ散った者達が戻らぬ隙に
次太夫はなんでもいいから分捕ろうと槍を引っさげて、陣小屋と陣小屋の間を
進んだが城中には一人もいなかった。

実はその頃、本城へと引き取っていった者が三、四十人ほど連れ帰ってきたが
夜は既に白んできており、小屋より上に備前の船印(池田忠継勢)が見えたため
一人も進んでいく者はなく、本城の加勢を頼みに再度退却したという。
次太夫は"一人もやっていない"と言いながら、三、四町ほど追いかけたとか。

さて高濱十兵衛は槍を持たず刀だけ持って、味方の後を少し遅れて付いてきたが
後ろの葦原の中から”やらぬぞ”と声がし、槍で突きかかられた。
十兵衛はそれに気づいて引き返し、突いてきた槍の白刃を左手で引っ掴み
右手で白刃を握り直し手前に引き寄せると、大力の十兵衛に引っ張られて
相手が前の方へうつ伏せでべったり倒れたので、片手討ちにしたという。

そこへ敵を追うのを諦めた次太夫が帰ってきたので、十兵衛はこの旨を告げ
「我は新参の無名の者なので、自分の功には出来ません」
と次太夫に首をあげて辞退しようとしたところ、次太夫は
「その方の働きにて討ち取った敵の首を、次太夫が討ったことには出来ない。
 十兵衛が首を取って、その方の功名にしなさい」
と言ったので、十兵衛が手をかけてその首を取ったという。

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/23(木) 19:11:23.07 ID:t0gJgy7I
甲を脱がせると五十過ぎの老法師の首に見えたので、何の用にも立たない首でも
今日戦った証になるだろうと、敵の帯びた刀脇差を分捕り本陣へと引き取った。
この次第を申し上げたところ、心馳せの働きをしたことには変わりなく
大御所様への御奉公の証拠になるので、住吉の御本陣で言上するようにと
言われたので、首を高濱十兵衛に持たせ横河次太夫が遣わされることとなった。

大御所様がこの首をご覧になると
「よく討った、これは平子主膳めの首である」
と上意があった。
この平子主膳という者は、年若き頃より大御所様に恨まれるようなことをし
お憎みが深い者だったので、兼ねてからその行方を尋ねられていた者だったが
此度大坂に籠城して、十兵衛の手にかかり討たれたという。
老いても世に聞こえる大剛の者で、容易く十兵衛に討たれるような者ではないが
急な夜討ちで味方が逃げるのに遅れ、息を切らして葦原に伏していたところ
物音を聞いてガバっと起き上がり、槍を引っさげて十兵衛に声をかけたのだろう。
戦い疲れた老武者が、足が弱って引き倒されたことこそ、運の尽きであった、と。

このときに良正院様(督姫)の御女中から、横河次太夫に御感状が出たが
良正院様は御子様の御初陣に、御家人どもに功名させたいと思われていたので
程なくして大御所様へもその功を仰せあげられたという。
御姫様の御頼みなので、家中では敵の番船を乗っ取った箕浦勘右衛門と共に
次太夫も、大御所様から感状を下されたという。

十兵衛が平子主膳を討ち取ったこともお尋ねになり、事細かに上聞に達したものの
無名の者なので功名にはならず、次太夫の功名になったという。
しかし十兵衛は真実平子主膳を討ち取ったということで、御直参に召し出され
御知行五百石取りになり、子孫も御家中(鳥取藩)では知らぬ者はいないのである。


――『雪窓夜話』



209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/23(木) 20:52:17.21 ID:kogqW73A
>>207
>十兵衛は左右の手に櫓櫂を二つ持って
>振り回し、
宮本武蔵より強そう( ゚Д゚)

督姫、駿府の家康へ会いに行ったときの行列で

2017年08月03日 18:19

督姫   
33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/03(木) 11:14:05.46 ID:o7Tvq0XV
督姫、駿府の家康へ会いに行ったときの行列で


兵庫県加古郡播磨町北本荘にある蓮華寺には
古い礼盤(本尊の前で導師が礼拝し誦経するための高座)がある。
ttps://www.town.harima.lg.jp/kyodoshiryokan/kanko/rekishi/bunkazai/images/2012122316226.jpg
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平成に入ってから内側に墨書で、宥恵というお坊さんが礼盤の寄進者等の名と共に
慶長14年に見た督姫の行列の様子を記していることが発見された。
ttp://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/67/5499bb5e4cefffcc252b301616d6ab0e.jpg
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内容を意訳すると
『御前様(督姫)は、かご五、六十、お付の女性は三百人を超え、家臣などを合わせると
 総勢五千人余りの大行列で駿府に向かっていた。お供の贅沢で派手な衣装を見た人は
 目を驚かすばかりで「前代未聞有るまじき」と国中に広まる有様だった』

督姫は実際に慶長14年には息子の忠継、忠雄、輝澄を連れて駿府に行き
(夫の輝政は恐らく篠山城の普請中)6才の輝澄に松平氏を授かっているが
仮に墨書が本当なら、民衆には余りに大げさな里帰りに見えたのかもしれない。


督姫、池田家への入輿/伊庭惣兵衛の弓術

2017年01月07日 16:46

督姫   
491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/07(土) 00:05:16.87 ID:bmWHBbtu
督姫、池田家への入輿/伊庭惣兵衛の弓術


神君(家康)の次女督姫君(諱は風子)は、母は参州西郡の鵜殿善介長忠の娘で
神君の侍女であった。
督姫君ははじめ北条相模守氏直に嫁がれたが、小田原没落の後
太閤のお仲立ちによって国清公(池田輝政)に再嫁された。
文禄3年8月15日(一説には9月とも)、参州吉田の城で婚儀をあげられた。

このとき諸士はお迎えとして今切(浜名湖今切の渡し)に出ていたが
伊庭惣兵衛という者がただひとり弓を持っていた。
御輿副の人が使いをよこして
「人が多い所にひとり弓を持っているということは、聞いていた伊庭殿だろうか」
と問うと
「どうして尋ねられたのですか、私が伊庭です」
と答えたので、(御輿副の人が)また使いをやり
「それならば、この洲崎にハジロがひとつがい浮かんでいるので
 どうか一矢遊んでくれないだろうか、見物しましょう」
とされたので伊庭は心中で
(難儀なご所望だなぁ、両家の諸士の前で気兼ねするのに……)
と思いながらもしょうがないと矢をつがえて進み寄った。
間は30丈ほどだったが、彼の鳥はしだいに沖に出て遠ざかっていった。

伊庭は弓を十分に引き絞って余りにも長く保っていたので
どうしたのだろうと思って見ていたところに、忘れていたかのような矢が放たれ
ハジロの雄の胴を貫き雌の尻を射切ったので、両家の一同の声が洲崎に響いた。
所望した人がその鳥と矢を欲しいと言ったので持ち帰った。

伊庭の友が
「どうしてずっと放たなかったのか」
と問うと、伊庭は
「今日はご祝儀なので、いっそのこと"つがい"を射ようと思って
 鳥が並ぶのを待っていたが雌鳥を捕えられず残念だ」
と語ったという。

(督姫君は)御子がたくさんいらっしゃり、左衛門尉忠継殿
宮内少輔忠雄殿、石見守輝澄殿、右京太夫政綱殿、右近大夫輝興殿
伊達忠宗殿の御内室(振姫)、京極丹後守高広殿の御内室(茶々姫)など
みなお生みになられた。


――『池田家履歴略記』



492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/07(土) 00:13:41.83 ID:hrJF1YZ5
そして継子に毒まんじゅうを食わせて実子に池田家を相続させようとしたら
実子が継子をかばって毒まんじゅうを食らって死亡し、発狂したという噂話ができると
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3869.html
「風子」なんて「狂人」の意味を持つ名前なんてつけるからそんなことに

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/07(土) 15:34:22.27 ID:7TcVELI3
婚儀なのに番射るって縁起悪くないのかよw