5 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/02(木) 00:00:46.70 ID:Sn0YtVyX
治衛門と今治城
前スレのラストに投じた今治城築城の逸話シリーズその2
下記参考サイトより抜粋。
今治城(別に吹揚城、美須賀城ともいいます。)は、慶長五年(1600)関ヶ原の戦功により、
宇和島七万石より二十万三千石に加増された天下の名将藤堂高虎が築いたものです。
この当時の城は、丘陵を利用して築いたものが普通でしたが、今治城は、台湾にオランダ人が築いた
ゼーランジャ(開国城)用式を取り入れたものともいわれ、海岸近くに平城を造り、三重の堀をめぐらし、
海水を導入した当時としては最新式の珍しいものといわれています。
本丸の天守閣についても、五層の立派なものが健造されていたようです。
(藤堂家の記録をもとに編集された『宗国史』と言う書物に書かれています。)
─慶長七年(1602)六月から、同九年(1604)九月まで、二年三か月とわりと早い年月で築城されています。─
(ここまで抜粋)
さて、この今治城が完成に至るまでの陰の功労者として石屋、小田治衛門等石工左官の者ら十二名の
存在が挙げられるという。
治衛門は豊臣秀吉の大坂城の築城の際に石垣づくりの人夫として働いて石垣づくりの技術を身に着け、
のちには西条(愛媛県西条市)の禎瑞の干拓にも貢献したという。
この功績を認められて今治城の石組みを任された治衛門と十一名の石工左官の者らであったが、
治衛門は彼らの頭領として相談を受け、城の抜け道の工事にあたった。
しかし、古今東西よりこうした城の秘密に関わる部分というのは城主と一部の人間だけの極秘情報であり、
今治城が完成を見る時、それは即ちこの抜け道の造成にあたった治衛門達が秘密の口封じのために命を
奪われる時でもあった。
治衛門ともう一人の某を除く十名の石工左官達は城の完成と時を同じくして捕らえられ、即刻処刑されてしまったという。
このことを事前に知った治衛門と某は竹で筏を組むと夜に蒼社川よりこの筏に乗って海に出、すんでのところで
難を逃れて大島(今治市の沖合)に逃れ、治衛門は同島宮窪町の余所国にある念仏山に隠れ住み、そこで処刑された十名を
弔って余生を過ごしたという。
大島の余所国には鐘撞堂という地名が残っており治衛門によって築かれたという素晴らしい組み方の石垣が残っており、
そこは治衛門の住居跡ではないかといわれている。
また、余所国に御新田踊りという踊りが今も残っているが、これは治衛門が伝え広めたかは定かではないが、一説には今治城で処刑された
十名を弔うためのものではないかとも言われているという。
処刑された十名の塚の所在はいろいろ言われているもののはっきりとした場所は定かではないが、
今治市に在住の小田通俊氏は、治衛門の十七代目の直系であるといわれ、余所国の大島石材工業株式会社の
小田満氏も治衛門の子孫に当たるという。
参考サイト:今治地方の伝説集 今治市商工会(逸話63)
https://www.imabaricci.or.jp/今治地方の伝説集/#ryuumonzanzyousyu
四国の瀬戸内側では、丸亀城にも石垣を組んだ人物が攻略法を熟知していたために井戸に落とされて
殺されたという逸話があったりするけど、こういう秘密に携わる下っ端の立場にあたる人々は何時の世も
吹けば飛ぶような命の軽さだったのだなと何かシンミリした今日この頃・・・。
生駒親正の丸亀城の石垣・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-701.html
6 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/02(木) 00:22:35.48 ID:Sn0YtVyX
補足情報
石屋治衛門伝説!
http://murakamitakeyoshi.blog122.fc2.com/blog-entry-3365.html
今治城と蒼社川、大島念仏山の地理関係
https://i.imgur.com/W0UDSHK.jpg

7 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/02(木) 00:47:00.27 ID:Sn0YtVyX
戦国時代の逸話とは別だけど、今治市と言えば老舗焼き鳥屋の五味鳥がおすすめ
https://i.imgur.com/vwXjEXm.jpg
https://i.imgur.com/2ad0W75.jpg
https://i.imgur.com/mz87knh.jpg
旨ぇんだこれが。コロナ落ち着いたらまた行きたいなぁ。
チラ裏すまそ
8 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/02(木) 06:16:13.42 ID:Sn0YtVyX
さらに余談:今治の焼き鳥の由来
https://i.imgur.com/inSkDrO.jpg
治衛門と今治城
前スレのラストに投じた今治城築城の逸話シリーズその2
下記参考サイトより抜粋。
今治城(別に吹揚城、美須賀城ともいいます。)は、慶長五年(1600)関ヶ原の戦功により、
宇和島七万石より二十万三千石に加増された天下の名将藤堂高虎が築いたものです。
この当時の城は、丘陵を利用して築いたものが普通でしたが、今治城は、台湾にオランダ人が築いた
ゼーランジャ(開国城)用式を取り入れたものともいわれ、海岸近くに平城を造り、三重の堀をめぐらし、
海水を導入した当時としては最新式の珍しいものといわれています。
本丸の天守閣についても、五層の立派なものが健造されていたようです。
(藤堂家の記録をもとに編集された『宗国史』と言う書物に書かれています。)
─慶長七年(1602)六月から、同九年(1604)九月まで、二年三か月とわりと早い年月で築城されています。─
(ここまで抜粋)
さて、この今治城が完成に至るまでの陰の功労者として石屋、小田治衛門等石工左官の者ら十二名の
存在が挙げられるという。
治衛門は豊臣秀吉の大坂城の築城の際に石垣づくりの人夫として働いて石垣づくりの技術を身に着け、
のちには西条(愛媛県西条市)の禎瑞の干拓にも貢献したという。
この功績を認められて今治城の石組みを任された治衛門と十一名の石工左官の者らであったが、
治衛門は彼らの頭領として相談を受け、城の抜け道の工事にあたった。
しかし、古今東西よりこうした城の秘密に関わる部分というのは城主と一部の人間だけの極秘情報であり、
今治城が完成を見る時、それは即ちこの抜け道の造成にあたった治衛門達が秘密の口封じのために命を
奪われる時でもあった。
治衛門ともう一人の某を除く十名の石工左官達は城の完成と時を同じくして捕らえられ、即刻処刑されてしまったという。
このことを事前に知った治衛門と某は竹で筏を組むと夜に蒼社川よりこの筏に乗って海に出、すんでのところで
難を逃れて大島(今治市の沖合)に逃れ、治衛門は同島宮窪町の余所国にある念仏山に隠れ住み、そこで処刑された十名を
弔って余生を過ごしたという。
大島の余所国には鐘撞堂という地名が残っており治衛門によって築かれたという素晴らしい組み方の石垣が残っており、
そこは治衛門の住居跡ではないかといわれている。
また、余所国に御新田踊りという踊りが今も残っているが、これは治衛門が伝え広めたかは定かではないが、一説には今治城で処刑された
十名を弔うためのものではないかとも言われているという。
処刑された十名の塚の所在はいろいろ言われているもののはっきりとした場所は定かではないが、
今治市に在住の小田通俊氏は、治衛門の十七代目の直系であるといわれ、余所国の大島石材工業株式会社の
小田満氏も治衛門の子孫に当たるという。
参考サイト:今治地方の伝説集 今治市商工会(逸話63)
https://www.imabaricci.or.jp/今治地方の伝説集/#ryuumonzanzyousyu
四国の瀬戸内側では、丸亀城にも石垣を組んだ人物が攻略法を熟知していたために井戸に落とされて
殺されたという逸話があったりするけど、こういう秘密に携わる下っ端の立場にあたる人々は何時の世も
吹けば飛ぶような命の軽さだったのだなと何かシンミリした今日この頃・・・。
生駒親正の丸亀城の石垣・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-701.html
6 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/02(木) 00:22:35.48 ID:Sn0YtVyX
補足情報
石屋治衛門伝説!
http://murakamitakeyoshi.blog122.fc2.com/blog-entry-3365.html
今治城と蒼社川、大島念仏山の地理関係
https://i.imgur.com/W0UDSHK.jpg

7 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/02(木) 00:47:00.27 ID:Sn0YtVyX
戦国時代の逸話とは別だけど、今治市と言えば老舗焼き鳥屋の五味鳥がおすすめ
https://i.imgur.com/vwXjEXm.jpg
https://i.imgur.com/2ad0W75.jpg
https://i.imgur.com/mz87knh.jpg
旨ぇんだこれが。コロナ落ち着いたらまた行きたいなぁ。
チラ裏すまそ
8 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/02(木) 06:16:13.42 ID:Sn0YtVyX
さらに余談:今治の焼き鳥の由来
https://i.imgur.com/inSkDrO.jpg
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