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「賞功不踰時」というのはこれなり

2019年03月05日 18:08

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/05(火) 17:59:17.91 ID:kXHf7c1b
(柴田勝家討伐後)

今回の柳瀬表で秀吉が切り崩した時の一番槍はことごとく近習の輩である。

その面々は、福島市松正則・脇坂甚内安治・加藤孫六嘉明・加藤虎助清正・平野権平長泰・片桐
助作直盛(且元)・糟屋助右衛門尉(武則)・桜井左吉(家一。原注:秀長近習也)である。

石河兵助一光(石川一光)は一番に駆け入り、冑の内を突かれて討死した。これにより、舎弟の
長松一宗を召し出して家督となしたものである。

その9人はよき席を設け盃を下して領知を遣わし、添えて黄金羅帛と感状あり。その文言に曰く、

 今回の三七殿御謀叛により濃州大垣に陣替えした時、柴田修理亮は柳瀬表に至り出で立った。
 そのため一戦に及ぶべく秀吉が一騎で馳せ向かうところに、心掛け浅からぬ故、早々と駆け
 つけて、眼前で一番槍を合わせた。比類なき働きなので褒美(原注:あるいは3千石。ある
 いは5千石)となして宛がう。ますます今後も軍旅の忠勤を抜きん出れば、勲功を計るもの
 である。よって件の如し。

  天正11年(1583)7月1日 秀吉判

軍書に曰く「賞功不踰時」というのはこれなり。

――『天正記(柴田退治記)』



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石川一光の戦死

2015年10月18日 15:07

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/18(日) 09:37:52.88 ID:G0YrFzzC
石川一光の戦死

賤ケ岳の戦いの前日、石川兵助(一光)と福島市松と口論し、刺違えようとしていた。
座に居合わせた者達は「明日の戦に身を捨てて高名を追い求めるべきだがこれはどういうことだ」と制止させた。
石川は「皆の前でろくに口も開けない市松に戦で活躍なんてできるわけがない!明日は俺の後ろ姿でも見てるんだな」と言い捨て出ていった。
合戦が始まると石川は直に柳瀬目指して只一人突き進んでいき、討死してしまった。
人々は「石川の勇気は立派だったが、怒り任せはよくなかったなぁ」と言いあった。

秀吉は石川の弟長松に感状を与えたが、その文には
 「今回の、三七殿が異心を抱いたため美濃大垣に出陣し、柴田修理亮勝家が柳瀬に出向いたので一戦に及んだ際、
  兄の兵助は一番に槍を合わせて討死を遂げたこと、抜群の働きであった。
  お前はまだ若造ではあるが、兵助の勇志を想い千石を与える。より一層の忠節を尽すべし」
とあったそうな。
            
『常山紀談』



黒田家譜より、『賤ヶ岳の七本槍』

2013年11月15日 18:58

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 07:22:08.01 ID:iDc7XhX1
賤ヶ岳の戦いにおいて、羽柴、柴田両軍は南北の峰を本陣として対峙した。
両軍の先手は谷に降り合って槍を合わせる。
この時、秀吉方より先に、勇士を出して挑戦をさせた。
秀吉方の福島市松(正則)先駆して首を取り、秀吉の御目にかけた。

その他秀吉方の勇士、加藤虎之介(清正)、加藤孫六(嘉明)、平野権平(長泰)、脇坂甚内(安治)、粕谷助左衛門(武則)、
石川兵助(一光)、片桐助作(且元)、この7人が進み戦って柴田方の先手を北の嶺へと追い上げ、分捕り数多して
比類なき高名をなした。
これを以って世俗に『賤ヶ岳の七本槍』と号するのである。石川兵介はここでやがて討ち死にした。

福島市松は戦功優れたと言えども、別の戦場に居たため七本槍の数には入らない。

(黒田家譜)

黒田家譜より、「福島正則は七本槍じゃないよ」という指摘である。




752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 07:45:11.00 ID:nUvtZ25J
桜井さんは?