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掛川開城

2018年12月28日 18:21

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/28(金) 01:16:16.37 ID:pBe2OoRD
(掛川城の戦いの時)

掛川城中では朝比奈備中守泰能(泰朝)・小倉内蔵助資久らがとりどりに評議し、

「これまでは今川旧好の輩が馳せ集まり堅固に当城を持ち固めたが、今は遠江一円が徳川殿に帰服し、当城は兵糧が
次第に尽きて飢えに臨んでいる。これでは長く籠城は叶い難し。氏真は小田原に避けなさって北条を頼まれ、開運の
時節を計られるのがしかるべし」

と評議は一決した。しかしながら、氏真は疑念深く未だ決定しないので、小倉内蔵助は諸々に諫言した。折しも奥平
美濃守貞能も神君(徳川家康)を諫めて「氏真を許して御和睦なさり、早く遠江を平均なさるべし」と申すと、神君
はもとより御同意であった。

その時、今川方は朝比奈弥太郎泰勝(原注:子孫は今水府(水戸藩)に仕える)を使者として石川家成・酒井正親の
方まで和睦を申し請うて来た。(原注:『東遷基業』)奥平貞能は久野宗能・浅原主殿助と和睦を相計り、4月8日
に主殿助が御使者として城中に入り、小倉内蔵助と対面して仰せの旨を伝えて仰せ送られたことには、

「家康が幼年より今川義元の扶助を得ていた旧好は、今においてもどうして忘れることだろうか。家康に氏真を敵と
する心はない。如何せん氏真は讒佞を信じて私を仇とし、矛盾に及ばれたのでやむを得ず合戦に及んだが、まったく
もって本意ではない。只今のような状況では、遠江をも駿河と同じく武田信玄に奪われることだろう。速やかに駿河
を私に避けて渡されたならば、私はまた北条父子と相計って氏真を駿河へ還住させ申す」

内蔵助は大いに喜んで氏真を諫め、内蔵助が氏真の使者として双方誓詞を取り交わし御和睦は整ったので、内蔵助は
また小田原へ赴き、北条父子へこの由を告げた。よって北条からは北条助五郎氏規を氏真の迎えに掛川へ遣わした。

氏真は5月6日に掛川を出て掛塚の浦より船で小田原へ赴けば、神君からも松平紀伊守家忠をもって送らしめられて、
海路を守護させなされば、つつがなく伊豆戸倉に着岸した。今川・北条の者どもも「徳川殿は情けある大将かな」と
感心した。

これより掛川城は酒井左衛門尉(忠次)・石川伯耆守(数正)・本多作左衛門(重次)が受け取り守衛したが、同月
22日に神君が掛川に入りなさって軍士を饗応せられ、当城を石川日向守家成に賜った。

これより以前、(三河が)一円に御手に属した時、三河の国人を二組に分け、酒井左衛門尉とこの家成の両人に属せ
られて両人を左右の旗頭と定められたが、家成が当城を賜った後は旗頭を甥の伯耆守数正に譲って、自身は大久保・
大須賀・松井と同じく遊軍となり、本多広孝・本多忠勝・鳥居元忠・榊原康政らは御旗本を警衛した。

(原注:今川と御和睦の事は『武徳大成記』には今川より朝比奈泰勝が使者として申し越したとあり、『東遷基業』
も同じである。『家忠日記』には徳川家より御使者を小倉資久へ遣わされたとある。本文は両書を合わせ意を迎えて
綴ったものである)

この頃に石川に属したのは、西三河の松平源次郎直乗・松平宮内忠直・内藤弥次右衛門家長・平岩七之助親吉・鈴木
喜三郎重時・鈴木越中守重慶。(原注:『東遷基業』では、石川の組に酒井正親・鳥井平蔵・松平三蔵・松平信一を
加える。いずれが是であるかはわからない。よって両説を備える)

一方で酒井に属するは、東三河の松平右京亮親盛・松平内膳家清・松平源七郎康忠・松平玄蕃頭清宗・松平又七郎
家信・松平弥九郎景忠・設楽甚三郎貞通・菅沼新八郎定盈・西郷新太郎家員・松平丹波守康長・奥平美濃守貞能・
牧野新次郎康成。

この輩に加え、また石川伯耆守の弟・半三郎は猛勇の士であったため、先に攻め落とされた堀川を下され、その地に
土着して土人を主宰せしめなさる。よって気賀の徒は屏息して大いに恐れ、この後に一揆を起こす者はいなかった。
(原注:『東遷基業』『武徳編年集成』)

――『改正三河後風土記』


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“嶺の松雪に圧さるる”

2017年01月06日 17:17

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/06(金) 02:32:46.80 ID:nc1d7jPq
石川日向守家政殿(家成)は、神君(徳川家康)の三方ヶ原御戦の折は、
掛川城にいたのだが、敗軍を聞いて、兵を率いてやって来た。

神君はこれを御喜びになった。そして家政は曰く、

「戦に先達て、私は夢を見ました。その夢で一人の老翁が一句の和歌を
詠じました。その詞に、“嶺の松雪に圧さるる”という意がありました。
翁は続けて、その意味を解しました。

『雪は信玄である。松は家康である。一旦、松を圧するとしても他日には
必ず雪は消えることだろう』と、言いました。

夢が覚めてその事を語ると、衆人は皆、不思議に思いました。しかし今、
我が軍が敗れて衆人はこれを信じました。その上、老翁の告げによって、
他日に主君は、必ず利を得なさることでしょう」

と言い、頼もしく思いなさった。

――『責而者草(君臣言行録)』



西ふさかりてあり今日明ケに参る

2016年11月02日 17:13

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/02(水) 13:32:43.29 ID:gymOnTOG
慶長5年9月朔日、徳川家康は西軍と戦うため、いよいよ江戸城西の丸(当時は隠居曲輪と人々は呼んでいた)
より出発した。この時、石川日向守が「今日は西ふさがりです。大事の合戦の門出としていかがでしょうか?」
と申し上げたが、家康は

「西が塞がっているから、今日、開けに参るのだ。」(西ふさかりてあり今日明ケに参る)

そう答えて出陣した。

(慶長年中卜斎記)

有名な、徳川家康江戸出御のお話。




『卒啄』

2012年05月22日 21:01

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 12:29:39.61 ID:6KNQfxU4
永禄11年、武田信玄は下條弾正に命じて酒井忠次に書簡を送り、
「これからは両家ともに仲良くしていきましょう」と伝えてきた。

その書には『卒啄』の2字が書かれていたのだが、誰一人として
その意味が分からなかった。

ちょうどその頃、伊勢の江南和尚が東国に向かう途中で岡崎にいたので
石川家成が字の意味を尋ねたところ江南

「鳥の卵殻を破るにその時節あり。早ければ水になり。遅ければ腐る」
と答えた。この事を耳にした家康は

「すべて万事に時を失わざるをもって肝要とす。主将ならばこのことを
忘れてはいけない」と言った。




293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 12:31:27.40 ID:AH8VRl2d
名探偵だな、その江南って和尚

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 12:43:34.04 ID:XfqFYeXL
禅語の教養があっただけだろ

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 12:45:38.46 ID:AH8VRl2d
今ググって禅の用語だと知った

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 13:37:58.32 ID:Sso/Rx7Y
三河者は一向宗ばっかだから仕方ないね(諦め)

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 13:43:39.80 ID:5gWc94pq
本多忠勝「三河者に文弱は不要! 政治なんぞ殿のやることを見ておれば自ずと分かるわ!」

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 13:49:23.19 ID:WA0wg0Ny
永禄11年っていつかと思えば武田が駿河に侵攻するあたりか。

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 16:08:44.14 ID:H/mT/ZGw
『卒啄』…? 寝起きの頭だと、豚キムチが何?って勝手に脳内変換した

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 20:48:26.14 ID:Tfjf9koH
松平家忠は禅宗だよ