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掛川開城

2018年12月28日 18:21

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/28(金) 01:16:16.37 ID:pBe2OoRD
(掛川城の戦いの時)

掛川城中では朝比奈備中守泰能(泰朝)・小倉内蔵助資久らがとりどりに評議し、

「これまでは今川旧好の輩が馳せ集まり堅固に当城を持ち固めたが、今は遠江一円が徳川殿に帰服し、当城は兵糧が
次第に尽きて飢えに臨んでいる。これでは長く籠城は叶い難し。氏真は小田原に避けなさって北条を頼まれ、開運の
時節を計られるのがしかるべし」

と評議は一決した。しかしながら、氏真は疑念深く未だ決定しないので、小倉内蔵助は諸々に諫言した。折しも奥平
美濃守貞能も神君(徳川家康)を諫めて「氏真を許して御和睦なさり、早く遠江を平均なさるべし」と申すと、神君
はもとより御同意であった。

その時、今川方は朝比奈弥太郎泰勝(原注:子孫は今水府(水戸藩)に仕える)を使者として石川家成・酒井正親の
方まで和睦を申し請うて来た。(原注:『東遷基業』)奥平貞能は久野宗能・浅原主殿助と和睦を相計り、4月8日
に主殿助が御使者として城中に入り、小倉内蔵助と対面して仰せの旨を伝えて仰せ送られたことには、

「家康が幼年より今川義元の扶助を得ていた旧好は、今においてもどうして忘れることだろうか。家康に氏真を敵と
する心はない。如何せん氏真は讒佞を信じて私を仇とし、矛盾に及ばれたのでやむを得ず合戦に及んだが、まったく
もって本意ではない。只今のような状況では、遠江をも駿河と同じく武田信玄に奪われることだろう。速やかに駿河
を私に避けて渡されたならば、私はまた北条父子と相計って氏真を駿河へ還住させ申す」

内蔵助は大いに喜んで氏真を諫め、内蔵助が氏真の使者として双方誓詞を取り交わし御和睦は整ったので、内蔵助は
また小田原へ赴き、北条父子へこの由を告げた。よって北条からは北条助五郎氏規を氏真の迎えに掛川へ遣わした。

氏真は5月6日に掛川を出て掛塚の浦より船で小田原へ赴けば、神君からも松平紀伊守家忠をもって送らしめられて、
海路を守護させなされば、つつがなく伊豆戸倉に着岸した。今川・北条の者どもも「徳川殿は情けある大将かな」と
感心した。

これより掛川城は酒井左衛門尉(忠次)・石川伯耆守(数正)・本多作左衛門(重次)が受け取り守衛したが、同月
22日に神君が掛川に入りなさって軍士を饗応せられ、当城を石川日向守家成に賜った。

これより以前、(三河が)一円に御手に属した時、三河の国人を二組に分け、酒井左衛門尉とこの家成の両人に属せ
られて両人を左右の旗頭と定められたが、家成が当城を賜った後は旗頭を甥の伯耆守数正に譲って、自身は大久保・
大須賀・松井と同じく遊軍となり、本多広孝・本多忠勝・鳥居元忠・榊原康政らは御旗本を警衛した。

(原注:今川と御和睦の事は『武徳大成記』には今川より朝比奈泰勝が使者として申し越したとあり、『東遷基業』
も同じである。『家忠日記』には徳川家より御使者を小倉資久へ遣わされたとある。本文は両書を合わせ意を迎えて
綴ったものである)

この頃に石川に属したのは、西三河の松平源次郎直乗・松平宮内忠直・内藤弥次右衛門家長・平岩七之助親吉・鈴木
喜三郎重時・鈴木越中守重慶。(原注:『東遷基業』では、石川の組に酒井正親・鳥井平蔵・松平三蔵・松平信一を
加える。いずれが是であるかはわからない。よって両説を備える)

一方で酒井に属するは、東三河の松平右京亮親盛・松平内膳家清・松平源七郎康忠・松平玄蕃頭清宗・松平又七郎
家信・松平弥九郎景忠・設楽甚三郎貞通・菅沼新八郎定盈・西郷新太郎家員・松平丹波守康長・奥平美濃守貞能・
牧野新次郎康成。

この輩に加え、また石川伯耆守の弟・半三郎は猛勇の士であったため、先に攻め落とされた堀川を下され、その地に
土着して土人を主宰せしめなさる。よって気賀の徒は屏息して大いに恐れ、この後に一揆を起こす者はいなかった。
(原注:『東遷基業』『武徳編年集成』)

――『改正三河後風土記』


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「曲淵討たすな!」

2018年09月10日 21:09

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/10(月) 17:51:10.78 ID:EDTskGAK
(天正壬午の乱の時)

北条氏直4万余の大軍が梶ヶ原まで迫り乙骨の徳川諸将は撤退を決した。一番は酒井(忠次)、二番は
大須賀(康高)、三番は石川(康通)、四番は大久保(忠世)、五番は本多(広孝)、六番は穴山、

七番は岡部(正綱)と定まった。ちょうどその折に甲州侍の早川弥惣右衛門(弥惣左衛門尉幸豊か)が
見舞いに来た。岡部正綱が「よくぞ来た。一手立て頼む」と言うと、早川は心得て勝沼郷に10人,

20人ほどずつをもって竹槍を使い大勢の伏兵がいるように見せかけた。また衣類を解いて旗のように
見せ、鉄砲少々を用意して北条勢に向かってこれを放った。北条方は伏兵がいるのではと怪しんだ。

こちらは時刻良しと7隊が段々と陣屋を焼き払って引き取った。北条勢はそれ追い掛けよと大軍が雲霞
の如く嵩にかかって敵を見下し、先を遮らんと競い進んだ。

味方は少しも騒がずに敵を嵩に見て、7隊一度に立ち止まり旗を立てて踏み堪えたため、敵はあぐねて
進みかねているところを、足軽を出して鉄砲を射ち掛けながら引き退き、10町ほど引いてはまた敵に

攻め掛かる風情で旗を立て直し踏み堪えた。北条勢がこれを見て少し挫けたところへ神君(徳川家康
は状況を聞こし召し、石川伯耆守数正を加勢に遣わされた。板垣(信方)の旧臣・曲淵庄左衛門吉景が

案内者となり地形を見定めて数正に備を立てさせた。そのうえ曲淵は北条の使番・山上郷右衛門顕将と
言葉を交わして槍を合わせた。伯耆守は「曲淵討たすな!」と命じ、石川勢が打って掛かれば、

氏直はこれを見て「敵は新手なり! 人数を引き上げよ!」と命じ戦を収めて若神子の方へ廻ったため、
味方は難無く新府へと引き返した。今日、忠次は先に引き取ったが、岡部正綱は後殿し、敵は5万に

近い大軍で味方は3千の人数をまったく7里の間に敵を引き付け、1人も手を負わずに引き取ったこと
は古今あるまじきこととして、後々までもこの6手の将を賞美したということである。

(原注:原書(三河後風土記)では、乙骨において双方大合戦があったように記すが誤りである。いま
武徳大成記・三河物語・柏崎物語に拠って改正する)

――『改正三河後風土記』


人々は康政に

2017年02月10日 14:10

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/09(木) 19:29:50.26 ID:s+N83Bmb
榊原康政は尾州小牧山の陣の折、秀吉の不義を誹謗し、所々に札を立て、

『秀吉は織田家取り立ての臣であるのに、その主君の公達に敵し、神戸三七信孝を滅ぼし、
今度は北畠殿(信雄)に敵した。八逆罪の者である。これに与する者には、どうして天罰を
被らないことがあるだろうか。』

そう書いて人々に見せた。
これに秀吉は激怒し、
「榊原小平太を生け捕りしてきた者は、卑賤凡下を問わず、千戸候を以てこれを称する!」
そう諸将に触れた。

その後、秀吉が関白に任官し京都に滞在していた頃、織田信雄を通じて、徳川家康
秀吉は和睦をした。秀吉は妹を送って縁を結ぶとの事に成り、その事相調い三河より結納を
遣わすことに成ったが、このとき秀吉は、「その使者として榊原小平太を遣わすように」と
所望した。家康がこれを康政に伝えると、彼は畏まり、早速上京した。

康政が京に到着したその夜、秀吉が突然、康政の旅宿へ現れた。
「今回の使節に汝を名指しして呼んだのは、他でもない、先年小牧山対陣の時、この秀吉を誹謗して
高札をたてた憎さよ!汝が首となった姿をひと目実たいとずっと思っていた。

しかし今、徳川家と縁を結ぶに至り、あらためて其方の忠誠を一入感じ入った。まことに汝には
武臣としての実義がある。
私はこの事だけを言いたくて汝を呼び寄せた。但し、だ。我が妹を遣わす結納持参の使者が、
無官というのはいかがであろうか?」

そう言うと即座に奏達し、康政は従五位下式部大輔に叙任された。総じて徳川家の諸将の官名は、
この頃まではその殆どが僭称であった。しかし榊原はこの時初めて、式部大輔の位、口宣等を
受領したのである。

その後、秀吉よりの饗応も善美を尽くしたものであり、そこには相伴として、先に三河を出奔し、
十二万石の大名となっていた石川伯耆守数正が、あえて馳走に出されていた。
しかし康政は終始、数正と一言も口をきかなかった。
その後、秀吉に御暇申し上げ、三河へと帰った。
人々は康政に、節操を感じた。

(武野燭談)



大河内政房の忠義

2015年10月10日 18:39

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/10(土) 09:15:53.55 ID:8ZCLhqrc
大河内政房の忠義

天正2年、武田勝頼が高天神城へ出兵した。城将小笠原与八郎長忠は目付の大河内源三郎政房と籠城したが、城の兵糧は尽き兵も疲弊していたので小笠原は
後詰めが間に合わないことに怒って降伏してしまった。
政房は松平清康の室華陽院の甥であり、降伏することを肯んじなかったので、小笠原に捕えられ、石牢へ押込められた。
勝頼は降伏すれば本領に加え知行地を倍にすると呼びかけたものの、政房が応じなかったので、怒って牢の鍵を閉めていった。
これより高天神落城まで8年間牢中にあったが、城に在番していた武田の横田甚五朗(尹松)は政房の忠節に感じ入り、懇ろに労わった。

落城の際、石川伯耆守数正に救い出された時にはすっかり足が萎えており、莚に乗せられて家康の前まで連れられていった。
家康は長年の苦労を思って涙し自ら褒美を与えたが、政房は生け捕られたことを恥辱と思っていた。
周りの者は「虜囚となったのは小笠原の不義のためで、忠節を貫いたのだからむしろ誉れだ」と言ったが、やはり無念であったのか剃髪して「肖空」と号した。
その後、家康の命によって尾張津島の湯にて養生し、足の萎えも治り、遠江の稗原の地を与えられたが、長久手の戦で討ち死にしてしまった。

『常山紀談』
どっかの軍師さんよりよっぽど苦労し(ry




814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/10(土) 09:55:13.65 ID:a9KQbZ1+
人質交換すらさせて貰えなかったただの目付さんカワイソス

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/10(土) 11:00:52.60 ID:sJpBltH4
うーん確かに見方を変えると、8年以上も見捨てられていた悪い話しだよな

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/10(土) 12:10:25.18 ID:q5GibUct
石川さんも家康の忠義に感じ入ったことだろう

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/10(土) 16:52:10.63 ID:ScZR6GY0
アンサイクロペディアの三河武士のページに、
大河内さんの戦闘力9000とか書かれてたの思い出した

徳川家康との間には意趣があるのに

2014年05月27日 18:51

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/26(月) 20:05:56.89 ID:tgrGdUju
豊臣秀吉は小田原陣の前に、関東の地図を見ながら作戦を立てていた。この時、徳川家康
これに近侍していた。
この座の末席には真田安房守(昌幸)の姿もあった。秀吉はふいに、昌幸に声をかけた
「安房!来てこの図を見よ。汝を中山道の先手に云い付ける!」

この時のことを昌幸は後で「私を家康と同輩のように呼ばれ地図を見せていただいた。この事、
国郡をどれほど拝領するよりも忝い事だ。」と言った。

この安房守は、伊豆守(信之)の父である。徳川家康との間には意趣があり、仲悪き人であった。
その後、秀吉は昌幸を近くに召して言った

「お主は家康の所に礼に行って、関係を良くするのだ。長きものには巻かれろと言うではないか。
また、旅先であるから不如意でもあるだろう」と、家康への礼物として袷二十、進物まで与え、
富田左近(一白)を副えて、家康のもとに遣わした。秀吉の仰せであるので、家康も是非無く対面した。

その後、家康は富田にこのように言った。

「先日の真田の件は、仕方のない事であった。しかしこれに続けて、石川伯耆守(数正)にこのような事を
仰せ付けられぬよう、執り成しを頼む」

この石川という人もまた、家康との間に大いに意趣があって関係が悪かったのである。
しかし秀吉は、この石川数正もまた小田原陣の最中に家康に礼に遣わしたのである。

(老人雑記)

良かれと思ってなのか、親切に見せた嫌がらせなのか、秀吉、家康と仲の悪い人間を
押しかけさせる。というお話。





井伊直政が大政所を送って上洛した時

2013年05月01日 19:50

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/01(水) 17:48:42.99 ID:r7gPLnkR
井伊直政が大政所を送って上洛した時、直政は豊臣秀吉に召されて饗応が行われた。

この時、石川数正も直政の昔の傍輩だからということで接伴に召されたが、
直政は数正に背を向けて、面をも合わせなかった。

秀吉が自ら茶を点じて与えようという時にも、数正はまた接伴したが、直政は側の人に向かい、

「これにおります数正は、数代相伝の主君に背き参らせ、殿下に従った大臆病の男なので、
直政は彼と肩を並べて膝を組むことは御免蒙りたく思います」

と言ったので、御前に居合わせた人々はみな舌を振るわせた。

――『責而者草(藩翰譜)』




478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/01(水) 19:25:14.40 ID:I6ZCd8uD
秀吉が気を利かせて昔のよしみで数正を同席させた中の御前での啖呵だからスゴいね
さすがにめんどくさい家臣団の中での筆頭だけある
てか、ラスボスは直政が懐かしがって喜ぶとでも思ったのだろうか…

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/01(水) 19:33:02.09 ID:ctIUhIVi
三河者の譜代なんてしょっちゅう裏切るからなあ
そのくせ苦労してると聞けば帰参したり
松平の殿様と今の主君は別腹って感覚なのか?

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/01(水) 20:04:41.99 ID:4/41+WON
そんなにしょっちゅう裏切ってるかなあ?
清康広忠のときはカオスだから仕方ないと思うけど

家康のときは、石川、大賀、一向一揆以外に誰か裏切ったっけ?

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/01(水) 20:34:40.60 ID:nZuPJVUE
三河者の場合、主君に嫌気が指しての裏切りというか出奔じゃないからね

本能寺の変の一報が徳川家一行に届いた時のお話

2012年01月03日 22:01

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 18:14:25.37 ID:KEOch0MY
本能寺の変の一報が徳川家一行に届いた時のお話


天正10年(1582年)6月2日深夜、織田信長・信忠親子に謁見するべく堺から京へと向かう最中の飯盛山で徳川一行が休息を取っていると、
先に京へと向かわせていた本多忠勝茶屋四郎次郎が慌てて引き返してきた。

ただならぬ様子に家康は井伊、榊原、酒井、石川、大久保等の重臣たち以外を遠ざけ、
加えて織田家からの案内役である長谷川秀一のみが本多と茶屋からの報告を聞いた。
本能寺の変の仔細を聞いて一番動揺したのは他ならぬ家康であった。


家康「我はこのとし頃織田殿とよしみを結ぶこと深い。もし今少し手兵がいたならば、光秀を討って織田殿の仇を討つべきなのだが、
   この無勢ではそれも叶うまい。
    生半な事をして恥をかくよりは、急いで京に上って知恩院で腹を切って織田殿と死を共にする。」

と言い出した。
すると長谷川秀一も「家康殿さえかく仰るならば、まして私は年来の主君。一番に腹を切ってこの程の如く
御道しるべとなります。」と言う。

という訳で本多忠勝茶屋四郎次郎の二人がまた先に掛けて京を目指したのだが、20町ほど進んだ所で忠勝は引き返してくると
石川数正らに言った。

忠勝「我、君(家康)の御大事が今日に極まったので、若輩の身を顧みず思うところを申させて頂きたい。
   君が年頃の信義を守り、織田殿と死を共にするという事が
   義のあたる所としてどうして適切と言えようか。織田殿の為に年頃の芳志に報じようというなら、
   本国に戻り軍勢を催して光秀を追討し、
   その首を切って手向けとすれば織田殿の幽魂も祝着し給うでしょう。」

するとこれを聞いた石川数正酒井忠次ら老臣達もこう述べた。

「年長けたる我々もここに心付したい。返すべすも恥ずかしいと思い由を聞いていたが、君はつくづくと聞き召されよ。
我ら本国に帰って軍勢を催促し、光秀を誅殺する事は元より望むところである。しかしながら主従共にここに来るのは初めてである。
だが、知らぬ野山に彷徨って山賊一揆の為にここかしこで討たれる口惜しさに、都にて腹を切るべきとは思わない」

これを聞いて家康も冷静になって三河に帰る事を考えたようだ。すると長谷川秀一は怒りに涙を流しながらこう言った。

秀一「我ら悔しくも此度、家康殿の道案内に参りて主君の最期の共もせず、また
   賊軍一人も切り捨てずにこのまま腹を切って死ねば冥土黄泉の下までも恨みなお深く残るでしょう。
   家康殿がご帰国して光秀を誅伐する軍を挙げた時は、その先手に参じて討ち死にする所は本望です。
   ただし、帰路の事を危うく思うのであれば、
    この辺りの国士どもは殿に参謁する時は、皆私が取り次ぐ事になっているので、私の申事に背くものは無いでしょう。
    それ故にこそ、今度の道しるべの役にも参じさせていただきたい。」

どうやら長谷川も内心悔しく思いながらも十分に冷静さを取り戻しているようだ。
彼の言い分を聞いた酒井や石川や忠勝も「御道のことは長谷川殿に任せるべき」という事でまとまり、
こうして伊賀越えへの旅が始まったのであった。




233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 19:36:07.27 ID:+xcGHnOJ
>生半な事をして恥をかくよりは、急いで京に上って知恩院で腹を切って織田殿と死を共にする。

前から疑問だったんだが、
信長は京(本能寺)で襲われたのに京(知恩院)に行こうって発想はどうなんだろうか?
厳戒態勢だろうし捕まったりした方が「生半な事」になると思うんだが。

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 19:43:21.23 ID:TNzX3LXj
>>233
創作ないし社交辞令だと思うが、
明智軍に捕まっても武士の情けとかいえば明智の将立ち会いのもと切腹はできたんじゃないかな。

伊賀越えは奇跡だったけど、もし家康が数百の精鋭を率いて信孝、丹羽長秀に合流して
山崎の戦いに加わっていたら面白そうだな。

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 19:54:27.65 ID:mrCHm2pM
伊賀越えの功労者として長谷川の名が挙がる事って殆どないよね。

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 20:01:58.14 ID:ce7aIi/9
>233
家康って浄土宗だから、浄土宗の寺で腹切ろうって意味なのかと思ってたわ

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 20:59:14.11 ID:FtSiNovc
家康の心底を疑って別行動を取った穴山信君が気の毒だ

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 21:53:43.99 ID:r9bTckOE
>>237
当然の報いじゃあ

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 21:54:11.27 ID:bHbVWmrv
武田を裏切った後の穴山は散々なイメージしかないし
最近になってもそれを覆す様な話が出てきた記憶もないな

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 21:54:59.48 ID:XjxWbxf4
>>236
それで合ってるんじゃない?
浄土宗の総本山で切腹しようという発想は自然だと思う
もちろん、無事に知恩院までたどり着けるかは疑問だけど

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 23:40:34.26 ID:TNzX3LXj
>>239
穴山は落ち目の武田存続も兼ねて寝返ったんだろうし気の毒。

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 00:05:24.61 ID:ZqQOCizz
後の保科正之を保護したという功績

・・・奥方の話だけど

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 09:05:17.05 ID:U9zUCjWA
血縁者が敵味方に分かれて家を残そうとするのってこの時代じゃ当然のことなのか?
それとも、そこまでして家を残したいのかと蔑まれるのか?

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 09:08:10.41 ID:4AXx5oKx
当然だったんじゃない?
そんなことは源平の昔からあった事。

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 09:11:59.39 ID:DqY5eRaL
というか家を残すのが最優先課題じゃないかな、家さえ残ればぶっちゃけ血縁すらどうでもいいレベル

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 15:45:09.44 ID:KqhVrGjC
>>252
まったく血筋ない養子とかな。
徳川だと平岩さんや石川家成さん。

「寄 り 道 し て よ っ て い く ぞ。」

2011年09月28日 22:02

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/28(水) 00:13:57.52 ID:dUleUS2Q
時は三方ヶ原の戦いの直前。
徳川家康の家臣が、軍勢を率いて織田家の加勢のため近江に向かっていた。
ダガシカシ、武田信玄が迫っているとの報が届き、慌てて引き返した。
「信玄が来襲するまでに、すぐに浜松に帰らねば!」
と急く家臣たち。だが、軍勢を率いている武将が
「このちかくに浅岡さんっていう弓矢の名人がいてさー、一度行ってみたかったんだよね。」
「との、まさか・・・。」
「寄 り 道 し て よ っ て い く ぞ。」
マイペースである。おまけにその武将がその弓の名手浅岡に教わったのは弓ではなかった。
射掛けという弓の手袋の緒の正式な結び方を教わったのである。
いや、結べたら何でもええやんという周りの家臣のツッコミに、当人は

「もし、今度の合戦で討ち死にした時、射掛けが正式じゃなかったら哂われるやん。」

と答えたとか。彼は三方ヶ原でまっさきに戦端を開いた。
その男とは、徳川家のナンバー・ツーといっても過言ではない人、
西三河衆を率いる石川数正だった。




819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/28(水) 00:27:59.12 ID:IArBNC1c
そうか数正さんはマイペースな人だったんか
つーかこれは良い話なのかwww

家康一筋・井伊直政

2011年03月16日 00:01

321 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/03/14(月) 21:29:32.56 ID:bGRGhOGR
小牧・長久手の戦の後、家康は大阪に訪れ秀吉に臣従することになり、井伊直政はその間の人質として
岡崎城に送られてきた大政所・なかの警護を任された。毎日のようになかの元に通ってはお菓子を振舞うなどして
機嫌を伺った直政は大いに慕われ、事あるごとに

「井伊殿、井伊殿。」と声を掛けられたという。

「あまりにへりくだった態度である。」同僚から指摘されると、

「秀吉の元にいる家康様に万一の事あらば、速やかに大政所を殺さねばならないから、
 顔を覚えておく必要がある。」

と答えたと言うが、無事岡崎城に帰った家康と入れ替わりに大政所が京に戻る際も警護を任される程
信頼は絶大だった。
その後、直政は警護の慰労として大阪城で秀吉に接待を受けたのだが、元徳川家家臣で
秀吉の家臣となった石川数正を見ると、

「主君に背き殿下(秀吉)に従う臆病者とは同席できない!」

と大声を張り上げ退出してしまった。また、秀吉が

「貴殿に豊臣の姓を与えよう」と申し出ると、

「井伊家は由緒ある名家である。」と言う理由で辞退した。

理由としては、恩賞や賞賛の言葉で他家の家臣を手なづける秀吉のやり方に強い不快感を持っていたからだと言う。

以上、井伊直政のどこまでも家康一筋なお話。個人的には、直政は三成と友達になれたような気がする。




329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/15(火) 08:27:55.47 ID:h+4B8Nf1
>>321
理由としては、恩賞や賞賛の言葉で他家の家臣を手なづける秀吉のやり方に強い不快感を持っていたからだと言う。

そんな直政は家康の竿による快感で手なづけられてるのであった。

でも味噌で手なずけられるよりはいいか。
一応家康は主君だし。


330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/15(火) 09:25:27.89 ID:+yDHCx+e
井伊家ってちょっと調べてみたらもともとは今川家の被官で、重代の譜代ってわけじゃないのな
道理で少し毛色が違うと思ったわ

335 名前:_[sage] 投稿日:2011/03/15(火) 12:28:33.63 ID:LBBGsEdQ
>>330
たしかにそうなんだけど、かといって井伊家は今川の家臣、というわけでもなかったようで。
井伊家も元は独立した国人領主で、本拠の引佐、井伊谷って、長篠あたりから遠州側に
峠越えたすぐ向こう側だし。家を保つために今川の傘下に入ったという意味では、三河
の国人領主達と立場は一緒。
直政の祖父直満、父直親は、内応を疑われてそれぞれ義元、氏真に誅殺されてるし。
桶狭間後の混乱を経て、岡崎が膨張していく過程で、多少の早い遅いはあっても、家康軍団
に取り込まれて面倒くさくなっていったwという意味では、やっぱり直政も同類だと思われ。



関連
大政所女房衆、鬼に会う
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5205.html

雑談・石川数正の寝返りについて

2010年09月27日 00:01

250 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/09/26(日) 19:15:41 ID:BEdTIvEM
家康公は秀吉に
「高価な茶器は持ってないが、
命を投げ打つ家臣を宝物と思っている」
って言ってやったからなぁ。

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/26(日) 19:19:00 ID:F0OTWzHV
秀吉から高価な茶器を貰って
石川数正はさっさと寝返り

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/26(日) 19:33:46 ID:hbg7prsO
高価な茶器をもらうより 安くても忠義貫くほうが美しい
めんどくさすぎて 傷ついてる人もいるけど
さんざん我侭言ったあと 家康公への思いは変わらないけど
みえてる(秀吉の)優しさに 時折負けそうになる

ここにあなた(家康公)が いないのが寂しいのじゃなくて
ここにあなた(家康公)が いないと思うことが寂しい
WowWow

でも負けないこと投げ出さないこと逃げ出さないこと信じ抜くこと
徳川家に仕官するなら それが一番大事

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/26(日) 19:38:50 ID:yjOvcgUs
>>252
この糞暇人がw
この歌はおっさんしかわからんだろwww

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/26(日) 19:47:54 ID:5OJRKoap
忠義(あい)は勝つ

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/26(日) 19:48:30 ID:TZGgvw9J
>>253
ヒットしたのが20年前だもんな~

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/26(日) 21:26:18 ID:BJxN1NEL
>>251
石川数正の寝返りって結局なんだったんだろうね?
別にそれで豊臣側が大して有利になったわけでもないし、寝返ったことから嫌われてそうな石川家は
徳川幕政下でもきっちり大名として生き残ってる。
山岡荘八の小説の「豊臣と徳川の架け橋になるために上方へ走った。家康も事情を理解していた」説が
意外と本当じゃないかと思う。

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/26(日) 22:00:40 ID:bgI0snSh
石川数正の出奔は、戦国最大の謎の一つになってるね

司馬さんなんかは、数正は姑息で冷徹な家康のやり方に嫌気が差した、という解釈をしてる
ただ、この件に関しては司馬史観はあまり広がってないように思う

山岡さんは、数正が本多作左衛門と共謀して、徳川方の強硬論を抑えるためにやったと言っている

以前見た映画では、秀吉が欲しかったのは数正よりも、以前数正の与力だった服部半蔵であり、
数正が半蔵を連れずに出奔してしまったので、秀吉は大層がっかりした、というお話だった

資料がない分、歴史作家としては話を膨らませやすいんだろう

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/26(日) 22:05:17 ID:ZqTZrxR+
秀吉さんは、徳川家臣団のだれでもよかったんじゃね?

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/26(日) 22:11:57 ID:49NCz2C3
秀吉の義弟の浅野長政が家康と親密だったあたり、世に言うほど家康は、打倒豊臣な
陰険タヌキ親父一辺倒でもなかったんじゃ?

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/26(日) 22:30:14 ID:OS0IU9ND
>>259
だって司馬遼太郎は家康大嫌いだものw

出奔まで数正は股肱の重臣として大活躍してたんだから
>>260みたいな意見はいくらなんでもかわいそうだ。

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/26(日) 22:35:14 ID:6lsQRuHN
>>258
>寝返ったことから嫌われてそうな石川家は徳川幕政下でもきっちり大名として生き残ってる。
数正の系統は後できっちり全員改易されちゃったじゃん
家成の系統のことを言ってんの?

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/26(日) 22:59:56 ID:hbg7prsO
>>263
> 数正の系統は後できっちり全員改易されちゃったじゃん
それは数正の出奔に関わる話ではなく、数正嫡男の石川康長、次男の康勝、三男康次も
関ヶ原では東軍について大名として所領安堵されている。

後に二人とも大久保長安事件に巻き込まれて改易されているが、これは必ずしも
数正の息子だからではなく、康長の娘が長安の嫡男の嫁という、長安にあまりに近いポジションに
いたためだと思うぞ。
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