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【ニュース】九鬼氏に剃髪禁じる書状 石田三成ら五奉行通達

2020年06月12日 17:43

126 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/06/12(金) 12:01:16.61 ID:U6CsS30m
ニュース「九鬼氏に剃髪禁じる書状 石田三成ら五奉行通達 鳥羽市教委」
https://news.yahoo.co.jp/articles/e55878b95cf98410de3d035aa58aa1fc1ba67758


許可なくハゲると怒られるでござるの話



129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/15(月) 19:00:38.89 ID:FUJyT+vk
>>126
そら、人望なくすわな、
ハゲをハゲと言うだけでも謀反ものだのに。

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/16(火) 12:37:23.76 ID:lklO+LpT
嘉隆はともかく、
守隆は子供も居ないのに急にハゲたら
何事かあった→秀吉死んだと受け取られるのはありえるから
ほいほいハゲられても困るってのはよく解る

日曜大工中にペンキが髪にかかったからついでに丸刈りにしたらいつのまにか浮気がばれて頭丸めたことになったのでよく解る(隙自語)

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/17(水) 23:42:29.47 ID:crQi+9Pc
秀吉の死に際して古田織部の親父が殉死してるけど
こういう殉死も怒られたり、やめろって通告出したりしてたんだろうか

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/18(木) 07:18:19.29 ID:ZRrTS4LA
大名じゃないし勝手にすれば?

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/22(月) 21:00:53.80 ID:e7wXX+Ce
>>132
そんなにふるおりの親父が秀吉から恩顧を受けたか微妙だよなあ。美濃出身だし、ふるおり自身も直接的な関わりは中国征伐からだろうし、人脈的にはどっちかというと光秀よりだし
息子を見いだした秀吉に感謝していたのかな、そこそこの禄ももらったみたいだし。そんな人はたくさんいるけど
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当家続き申す内は、今度の御恩忘れ申しまじき

2020年03月27日 17:44

799 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 11:21:43.27 ID:zmuEJTUZ
(豊臣秀吉の死後)
前田肥前殿(利長)が、細川忠興様の元を訪れ、このように仰られた

「石田治部少輔(三成)が、大納言殿(前田利家)にこのように申し上げました
『家康の事ですが、早くも我儘を申し、御寄合場へ切々と出てきません。今のままで召し置いておけば、今後
秀頼様の御為には悪しき事になるでしょう。ですので今すぐにでも、討ち果たすべきです。』
そう色々に申したことで、大納言殿も尤もに思し召され、討ち果たすという事になり、大阪より伏見へ御上がりに
なりました。これ程の事をあなたにお知らせしなければ、以後に御恨みが有ると思い、その要体を語り申します。

討ち果たす手立てとして、治部少輔申す所によると、
『家康の屋敷は落窪に有り、向かいの高い場所に有る宇喜多屋敷より火にて焼き立てれば下々騒ぎ出すでしょう、
そこで表に出てきた所を、宇喜多屋敷より出て討ち取る。もし裏から出たならば、我等(石田家)の者達で討ち取る。
兼ねてからそのように考えていたので、家康の屋敷の後ろは私の下屋敷にしてあり、只今佐和山より動員している
人数が四千有り、手間の要ることではありません。』

そのように申しているのです。」

そう肥前守殿が語った所、忠興様はこのように仰せになった
「家康公を討ち果たすとの事ですが、治部少輔の手立てではうまく行かないでしょう。」
「それはどういう御分別で、そのように思われるのでしょうか。」
忠興様のお答えに、肥前守殿はお顔の色が変わられた。忠興様は仰られた
「私を縁者であると思し召し、一大事をお知らせに成ったことが既に、御後悔しているように見えます。
この事は破れるのも、無事に成るのも御父子の御分別次第です。

この事が破と成った時は御身上が逃れたいと思っても、人は逃さないでしょう。
また私の身上も、逃れたくとも人は逃さないでしょう。
破と極まるのであれば、何時も一所と心得ましょう。

私の考えとしては、治部少輔にとって日本に恐ろしいと思っている人物が二人あります。一人は内府であり、
もうひとりの大納言殿は既に病であり、大納言殿が果てられた以後は、己が主人となろうと考え、色々様々に
申しているのです。あなたを批判するような事を言いますが、大納言殿が御死去なされたら、あなたの事は、
今の十分の一も人は用いないでしょう。御分別を専らにするべきです。
今後、内府を主人とするのか、治部少輔を主人とするのか。
私は治部少輔を主人とするなど罷りならぬことだと考えています。」

肥前守殿はこれを聞くと、
「一々至極と承った。然れば大納言殿に御異見を申したいのだが、蓮々御存じのように、私が申すことは
たとえ良いことであっても聞いてくれない。ましてやこの事については既に、治部少輔の言うことを尤もと
思われている。それを、私の無調法な口では中々説得する事は出来ないだろう。是非御同道してほしい。」
そう、たって仰せに成ったため、大納言殿の元へ御出に成った。

大納言殿が居られる又次の間まで進むと、そこからは先ず肥前守殿がお入りに成り、要体を語られた所、
病にて臥せって居られた大納言殿はむくと起き上がり、畳を叩き悪口を仰せになった。これに肥前殿は
「私は口不調法にて、物のあやを申せないため、御合点参らないのでしょう。そのため越中殿をここまで
御同道しました。」
そう仰せに成ると「然らば越中殿を出候へ」と仰せにつき、大納言殿の居られる間にお入りになられた。

800 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 11:22:02.91 ID:zmuEJTUZ
そうして忠興様が要体を語られると

「其の方の仰せになる所は解ったが、内府が何の御談合にも出てこないという事をしている以上、このままでは
以後秀頼様の御為に成らない。私の息のある内に、家康を討ち果たすべきだと考えている。」と仰せになった。
忠興様はこれに
「批判を申すようですが、御分別を更に重ねられるべきと存じ奉ります。例え家康に対して御談合の場に出ることを
堅く無用と申したとしても、家康が御座有った頃と同じようには出来ません。貴殿が合点していただければ、
家康が出てくるように仕りましょう。そのようにすれば如何でしょうか?」

「家康さえ出てくるのであれば、何も言うことはない。常々、意趣が有ったわけではない。」
大納言殿はそう仰せに成ったため、忠興様は直ぐに、家康公を大納言殿の元へ同道なされ、入魂の御盃を取り交し、
首尾よく家康公は御帰りになった。
忠興様は残り、大納言殿へ仰せになった

「家康の現在の屋敷は無用心であるので、向島へ移されるべきだと考えます。」
「この上は如何様にも。其の方に任せよう。」

そのように仰せに成ったため、即刻向島へお移りになった。

この一ヶ状は三斎様の御物語で承った事である。そして家康公と御老中御連判状に、
『当家続き申す内は、今度の御恩忘れ申しまじき。』とある、六、七人の御連判状を私(細川忠興軍功記の作者)が
預かったことがあり、覚えている。

細川忠興軍功記



802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 12:19:08.70 ID:28ctvBqZ
徳川の治世と豊臣の治世だったら当然豊臣のほうがいいだろうなあ
徳川に味方して得たものはなんなのさw

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 13:25:20.20 ID:k+lBAxIa
少なくとも領地は広がったな。前田も細川も

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 13:33:31.03 ID:JVQBGdYo
豊臣だったら領地は増えてないな

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 15:31:27.93 ID:xqag71KY
○ 太閤蔵入地の解消
× 基本的に政権運営に参画できない

国持クラスの大名はともかく、中小の大名なら江戸幕府の方がやりやすいだろうね
まあ、財政的に余裕が無くて悠々と藩経営できてたケースは少ないけど

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 15:48:32.81 ID:SfIo6kA4
大大名も必ずしも政権運営に参画したかった訳でもないと思うぞ
というか極論三成だけが異常にやりたがってたようにも見える

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 16:18:25.61 ID:pQMysm+j
三成よか輝元のがあやしい

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 17:19:12.35 ID:00FCvUDV
伊達政宗が娘を松平忠輝と結婚させたのは、中央政界への発言力を求めてのことだったのだろうか?

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 17:19:12.35 ID:00FCvUDV
伊達政宗が娘を松平忠輝と結婚させたのは、中央政界への発言力を求めてのことだったのだろうか?

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 18:22:26.61 ID:SfIo6kA4
政宗が誰を嫁にしようと老中にはなれない
変に梟雄的に取り上げられることあるけど
普通に安定求めた婚姻だわな

輝元は三成に乗せられたお調子者だね
乗せられた分野心あったと言えるが

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 01:00:33.06 ID:rNuJGc1p
参勤交代が藩財政を逼迫させたんじゃないの?
知らんけど

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 02:02:34.16 ID:enxJZdyv
参勤交代は徳川家光の時の政策だし、そもそも江戸在府が基本だった大名への
負担軽減策だったわけで。

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 02:06:14.65 ID:MVE+KsKB
ずっと当主が天下人の城下に屋敷構えて許可ないと全然帰れませんよりよっぽど安く済むらしいわよ、参勤交代
しかも当主が遠国にいるから領国の統治もむずいし下手すりゃ領地で政治執るやつが実権握りかねんし

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 07:19:02.81 ID:EEZk3pD1
>>813
太平の世で大っぴらに出来る貴重な軍務。
我が武威を世間に見せ付けられる場なのでどの藩も行列を豪華にすべく無駄金使ったせいでもあるので。

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 09:16:16.15 ID:Zk6eD4N+
江戸時代の武家財政の逼迫は本質的には
何も生み出さない雇用守らなきゃ行けないから

黄金百枚の儀

2020年03月25日 18:11

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:24:30.66 ID:K2dn1Ud1
細川忠興様は豊臣秀次公より別して御懇にされており、どうしたわけか、黄金百枚を拝領していた。
その上秀次の家老である前野但馬守(長康)殿の子息・出雲守(景定)は忠興様の聟であり、
秀次事件が起こると、御縁者故「秀次の一味である」と治部少(石田三成)の申立があり、これに
是非無く思し召され、聚楽の屋敷へは米田助右衛門(是政)殿が遣わされ、伏見での状況次第では、
御上様(正妻)、御子様たちを仕舞(生害)させ、御屋敷へ火を掛け、助右衛門殿は切腹するようにと、
忠興様は命ぜられた。

伏見に於いて、黄金百枚の儀は、「薬院法印(施薬院全宗)の肝煎りで秀吉公(秀次の間違いか)より借用した
ものであって、拝領ではない。」との弁明を、米田助右衛門、徳善院(前田玄以)より、太閤様へ申し上げた所、
太閤様はこのように仰せになった

「先年、明智謀反の時、信長公への御恩を存じ出、明智に一味しなかった。
たとえ今度、秀次と一味したとしても、その時の忠節により赦免しよう。」

この旨を徳善院が仰せ渡すと、忠興様は御安堵なされ、この時も助右衛門殿の一命をとした御奉公であったと、
忠興様より度々そのお話を承った。

細川忠興軍功記



788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:29:19.10 ID:5/kImDAj
>>787
しれっと治部と太閤を貶める悪い話。

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:36:18.45 ID:airvD0sC
金借りただけなんですもらってないんです、って言い訳になるんだろうか

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:39:25.29 ID:/mRIgf+N
佐吉があえなく負けた理由がよく分かるな

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 21:37:06.12 ID:NfHJ2VF6
この話へうげものにあったね

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 22:54:05.24 ID:aUbdaYvf
>>789
猪瀬直樹、徳洲会の5000万円事件思い出した

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/25(水) 13:15:13.15 ID:jvpr6x/q
口先で借りただけだから許せやって話じゃなく
だから御公儀にお返しするので許してください
って話なので

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/25(水) 19:33:11.35 ID:5lQO7ZEJ
>>794
なるほどそういう文脈なのか
これは勉強になりました

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/26(木) 20:29:48.46 ID:MxcE7X8S
石田さんほんとにどういう人だったんだろな
全員にこんな感じでちょこちょこ当たってたんだろうか

これは皆、其の方のためではないか

2020年02月27日 17:01

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/27(木) 01:13:44.70 ID:CSksC/7s
豊臣秀吉公が御他界された時、その嫡子である秀頼公は幼少であったため、御遺言に寄って天下に
四奉行(原文ママ)を定め置かれた。そして東国表に事が起これば家康公鎮め給えと有った。

さて、石田治部少輔(三成)は天下を奪うべき邪念を持っていたが、家康公を先に滅ぼさねばそれは
成り難しと考え、上杉景勝と申し合わせて景勝に反逆の色を立てさせた。これに対して家康公御父子は
軍勢五万八千にて御発向された。そして家康公は下野国宇都宮まで御下向され、秀忠公は同国小山に
御陣を据えられた。

この時、真田安房守(昌幸)も家康公に相従い下野国佐野の天明(現在の佐野市天明町)まで出馬していた。
天明より宇都宮まで上道九里、宇都宮から小山へは天明の方向に向かって四里という場所であった。
ここに於いて、石田治部少輔方より真田へ書状を以てこのように伝えてきた。

『今度景勝反逆の事は、某が申し含めた、家康を討ち取る企てである。其の方もこれに与し、家康を
討ち取るのだ。さすれば、其の方の本国である信州は申すに及ばず、甲州も其の方の故主である信玄の
国であるから、この両州に駿州も加えて与えるであろう。』

そう熊野の牛王に誓紙血判して遣わされた。
これを見て真田は俄に心変わりをし、家康公を討とうと考え、幸いにも子息の伊豆守(信之)が家康の
御旗本に在ったため急使を遣わし『談合すべきことあり、急ぎ天明へ来たれ』と伝えた。
そして伊豆守が天明に到着すると、安房守はこのように言った

「其の方を呼んだのは他でもない、今度の上杉景勝の反逆の事、彼一身の企みではない。石田治部少輔と
牒を合せて、家康を討つという謀計なのだ。景勝の反逆として家康が関東に向かえばその跡より軍兵を
起こして家康を討ち取るという。然ればこの安房守には、景勝と牒を合せて味方すれば信甲駿の
三州を宛行うとの盟誓の状を石田方より差し越した。であれば、其の方のため、又子々孫々のためであるから、
其の方が家康を討ち取るのだ!」

これを聞いた伊豆守は
「最もな仰せであります。ですが其の事は是非に及びません。何故ならば、家康公はその威儀を見るに、
中々謀にて打てるような人物ではありません。逆に石田に与すれば、幾程もなく滅びてしまう事明らかです。
家康公に与し給われば、子孫長く永福となるでしょう。」

これに安房守は
「其の方には分別が無い!どうして三ヶ国を領すると思っているのか。私には既に余命がない。これは皆、
其の方のためではないか!」

そう強く翻意を促したが、伊豆守は頑なに同意しなかった。安房守は仰天し、立腹して
「其の方は妻子に心が残っているのか!これは勇士の業ではない!」と色々の悪口に及んだため、
伊豆守はその座を立ち破り、馬に乗り鞭を揚げて宇都宮に帰り、家康公にこの趣をありのままに申し上げた。
家康公はこれを聞いて

「伊豆守が忠義の程、山よりも高く海よりも深い。これはそれを忘れまじき証拠である。」
として、差されていた脇差の下緒の先を切って伊豆守に与えた。

眞田記

いわゆる「犬伏の別れ」についての内容ですね。この場合は天明という場所ですが。



筋目の事ですので

2019年12月24日 18:14

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/24(火) 17:25:07.07 ID:5KvSs45W
筑前中納言秀秋が小早川隆景公の御養子となられ、その節に私(清水景治)も中納言殿に仕えた。
当時、知行三千石であったのだが、山口玄蕃宗永(秀吉より秀秋に付けられた家老)の申す所によれば、
「清水の事について太閤様が度々仰せになられていると承っている。そのような人物に三千石では
隆景公が不足に思われるだろう」という事で、五千石を下された。

その後、筑前中納言殿は越前へ御国替えとなったが、この時私はお暇を頂くことを申し上げ、
「筋目の事ですので、宗瑞公(毛利輝元)に御奉公したいのです。」
と申した所、石田治部少輔(三成)より、安国寺恵瓊が使いとして参り
「宗瑞公に仕える事は断念し、中納言殿の元に参るように。そのようにすれば当面三百人扶持の上、
七千石が与えられるだろう。」
そう申して来たのだが、これを断り、御家(毛利家)に罷り帰った。

(淸水長左衛門尉平宗治由來覺書)

石高増やしてもらっても金吾の所は嫌だったらしい清水さん



685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/24(火) 18:56:03.58 ID:/YRjfqII
>>684
ただの忠義者ではなく見る目もあったなw

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/24(火) 20:16:09.32 ID:ZCiNnBz+
>>685
無嗣断絶は置いといても、転封が多すぎてやってられなかったろうなぁ…。

丹波亀山 10万石→筑前名島 30万石→越前 北ノ庄 15万石に減封→また筑前でなぜか50数万石に加増→備前岡山55万石。

たったの数年で何回転封してるんだよ…

687 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/12/25(水) 10:20:38.11 ID:wAqUySn3
七光だけで出世したって言ったら金吾殿に失礼かも知れないが、若くしてあまり苦労や現場経験少なくして大名となった人だから、隆景さんの譜代からしたら不満は多かったろうとは思う。
秀吉系からの家臣ですら諫言した者がムッコロされたりしてるし…

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/25(水) 13:21:37.21 ID:PEKeR4Zy
養子ともなれば派遣元からぞろぞろ上層部に入ってきて元々いたのが締め出されるからね
早目に退去するのが正解なんじゃない?それに毛利に帰属すれば地元に戻れるわけだし

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/25(水) 13:53:53.99 ID:fTTdlNyz
>>686
現代で言うところの社長のバカ息子(三男)って感じだな…

扨々、聞及たるよりも気違にて候

2019年12月12日 17:46

652 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/12/12(木) 11:31:17.84 ID:g+fbVvyj
(慶長五年)九月上旬に、徳川家康公は濃州勝山にお着きに成り、九月十五日に関ヶ原で敗れた
石田治部少輔(三成)は伊吹山へ逃げ隠れていたが、田中筑前守(吉政)の家臣が捕えて家康公の
元に送り、小西摂津守(行長)、安国寺(恵瓊)両人も方々にて捕縛された。
三人共に洛中を引き廻しにされたのだが、この時太夫殿(福島正則)はこの三人に小袖を二つづつ
与えた。中でも治部少輔は「太夫殿の御心指し感じ奉る」と悦び、衣類を着替え、太夫殿の与えた
小袖を着て洛中を引かれ三条河原にて首を切られた。

石田治部の弟である石田杢(石田杢頭(正澄)、実際には兄)、家老の島左近は佐和山の留守居であったが
(島左近は実際には関ヶ原で討ち死にしている)、佐和山城が攻められた折二人共切腹した。
徳川家康公は海手を通られ大津城に在陣され、三左衛門殿(池田輝政)、太夫殿は道中のそれぞれの
宿に制札を立て、百姓や山中に逃げた者達を帰宿させた。

その後太夫殿は山科に在陣し、子息(養子)の刑部殿(福島正之)を北政所様への御見舞に遣わした。
この時、京三条口の番をされていた稲図書殿(伊奈昭綱)の番頭が、ここに柵を付けて鉄砲の者
三百人でこの番所を堅めていた。ここを福島刑部殿は理を入れ京へと通過したのであるが、その後に
刑部殿へ急用があるとして、太夫殿家臣の佐久間嘉右衛門と申す者、知行二百石取りの侍を刑部殿の
元に遣わしたのだが、この嘉右衛門も番所にて、急用であることとを理り申したのだが、当時は
厳しい時分であり、番所では通そうとしなかった。この時嘉右衛門は「慮外では有るがここの番の
責任者である図書様に理由を申し上げたい。」と色々と言ったのであるが、とにかく通さないと申し、
竹杖にて押しのけられた。この時少し竹杖が当てられた。

嘉右衛門は無念に思ったが、多勢に無勢であり、その上番所でも有ることから是非無く、命ぜられた
急用も打ち捨てて太夫殿の元に帰ると、直に罷り出て

「今度のお使い、御急用を打ち捨てて罷り帰った事、なんとも御迷惑をおかけしたと思っています。
しかしながら稲図書殿御番所にて色々とお理りを申し上げたのですが通してもらえず、あまつさえ
竹杖にて押し出され、杖も当たりました。これでは男が罷り成りません。只今より私は切腹仕ります。
相手は図書殿でありますので、哀れと思われ敵を取って頂ければ、有り難く存じ奉ります。」

このように申し上げた。太夫殿は「それは卑下すべき事ではない。多勢に無勢だったのだから
仕方がない。」と言ったのだが、嘉右衛門はそのまま帰って切腹した。

653 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/12/12(木) 11:31:45.63 ID:g+fbVvyj
この事を太夫殿がお聞きになると
「さてもさても不憫な事だ。」と涙を流し、この嘉右衛門の首を取り寄せ、井伊兵部少輔(直政)殿の
元ににこの首を送り、先の嘉右衛門についての事を伝え「稲図書の首を見せるべし。」と荒々しく
申し入れた。兵部殿はお聞きになると大いに驚き
「ご立腹は尤もです。しかしこれは稲図書が存じているわけではありません。この上はその場で
番をしていた三百人の者達を首にして進ずるので、それでご納得頂きたい。」と返答したが、
太夫殿はこれを聞き入れず

「嘉右衛門の相手は図書である。嘉右衛門はそう申し置きをした。どうしても図書の首を見なくては
ならない。この事を家康公に申し上げて頂きたい。その上で御同心無いのであれば、御忠節はこれまで
である。おっつけ大津へ向かい、家康公に直にお断りを申し上げるだろう。」

このように申し越してきたため、兵部殿は更に驚き、「さてさえ是非もなき義である。」と思われ、
とにかくそれぞれと相談すべきであるとして、浅野紀伊守(幸長)殿、細川越中守(忠興)殿、
池田三左衛門(輝政)殿、黒田筑前守(長政)殿に、この件の扱いを成されるよう頼んだ所、
この四人も内々に太夫殿の性格を存じており、「家康公に申し上げるしか無いでしょう。」との
意見であったため、これを報告した所、家康公は
「それならば三百の番の者達に切腹させ、それにて堪忍するように伝えるべきだ。」と仰せになった。
兵部殿は「先だってそのように申したのですが、まったく聞き入れず『それならば直にお断り申す』と
言っております。」と申し上げた所、家康公は

「さてさて、聞き及んだよりも気違いである(扨々、聞及たるよりも気違にて候)、今は大事の前の
小事であり、是非に及ばず。図書には切腹させよ。」

との上意にて、稲図書は切腹し、その首は太夫殿の元へ遣わされた。太夫殿は大いに悦び
「このようにして頂いて過分に忝ない。」と、すぐに大津へ御礼に参った。

図書は一万石取りの、直参の衆であった。
(福島太夫殿御事)



654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/12(木) 12:47:09.85 ID:t+lw0CPa
>>653
>聞き及んだよりも気違いである
酷いけどそのとおりで草
影武者徳川家康でみたなーこの話

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/12(木) 21:53:44.99 ID:ZtdUB/mz
だったら番兵三百人の首を送ればいいんじゃないか

今の感覚だと十分気違いだけどな

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 00:05:02.32 ID:YZgR0DVQ
「七分の一の命事件」
ならぬ
「三百分の一の命事件」
として人権教育のネタにされそう

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 00:13:10.73 ID:PYMzNtB9
まあ福島さんですし

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 08:00:56.52 ID:s4xg30G0
三百石と一万石の首じゃ釣り合わんなぁ、三百人犠牲にしろというのもやむなし

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 10:17:23.42 ID:mPdwyCZg
鉄砲傷受けた直後にこんなことで煩わされるんだから、そりゃ直政も死ぬわな…

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 13:36:01.77 ID:8Mf1pdbu
WIKIだと

>>この事件はその後に福島正則が改易される遠因となったともいわれる。

そりゃそうだ

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 19:44:49.92 ID:ibMCuezW
稲?伊奈?

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 23:25:36.92 ID:kT2im1w3
しかしさあ、加藤清正も福島正則も加藤嘉明も、
丹羽長秀の最期を知っているはずなのに、
どうしてそこから学ばずに天下取りの野望を持つ者に擦り寄って一時の大領を得る事を選ぶかねえ。

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 23:30:59.34 ID:7tRh0pW4
当人に責任があるのは正則だけのような
それに自分が上に立てないなら次の覇者に接近するしかないでしょ

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/14(土) 00:43:50.77 ID:B9HMV06b
戦って散れということか

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/14(土) 18:04:06.30 ID:6Qt5nNWK
>>662
中途半端にすり寄るからじゃないのかな、藤堂高虎ぐらい尻尾を振れば生き残れるのに

たとへ串に指候共男之ひけにハ罷成間敷候

2019年12月11日 16:39

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/11(水) 09:27:08.05 ID:u570j9EU
慶長三年八月十八日、太閤様(豊臣秀吉)は他界された。その前に示された御遺言では、
徳川家康毛利輝元が一年交代で大阪に詰めて仕置をするように御頼みなされ、その他の諸大名も、
一年交代で大阪に詰めるようにとされ、秀頼に無沙汰ないよう、それぞれに起請文を書かせた。
これにより諸大名は残らず
起請文をしたが、この時家康公は、

「上杉景勝は来年大阪に詰める予定であったのが、越後から奥州への国替えが有ったため三年間の
在京が御免されている。しかしそのため諸大名の中で景勝一人誓紙を出していない。景勝も上洛して
誓紙を出すべきである。」
そう景勝に対し伝えたが、景勝からは
『三年間在京御免となっており、上洛はしない。』
との返事であった

家康公は再三景勝に対し仰せ遣わしたが、とにかく心得る事無く、荒々しい返事を送り返した。
このため家康公はご立腹され、「では私が迎えに参ろう」(我等迎に可参)と、江戸へ御下りになり、
諸大名も「景勝謀反」と、追々関東へ下った。家康公の御先手をする者達は何れも宇都宮まで
出陣していた所、上方では石田治部少輔が謀反を企てていた。

石田が『家康公は私の仕置を成し不届きであり、毛利殿が御上がりになって大坂の御番を成されるように』
と安国寺恵瓊より伝えさせ、毛利輝元は早速大阪に上った。

この事が宇都宮に聞こえると、家康公は諸大名に
「そなたたちは景勝を退治した上で上方に打ち向かおうと申されているが、各々の妻子は大阪に在る。
であれば構わないので、ここから早々に上方に上がり候へ」

そう仰せに成られた時、福島左衛門太夫(正則)が申し上げた
「私に治部少輔と一味する筋目はありません。また大坂の妻子は治部少輔に渡した人質ではありません。
たとえ串刺しにされようとも、武士の躊躇う理由にはならず、捨て置きます。」
(私義治部少輔と一味仕候筋目無御座候。大坂へ妻子治部少輔に渡し人しちにへハ無御座候。
たとへ串に指候共男之ひけにハ罷成間敷候間、捨候)

そう言うと、跡継ぎである刑部(福島正之)をその場に召し、
「これを家康公への人質に進ぜます。これより私は、上方への先手を仕ります。上方に於いての
軍勢の兵糧については、私が故太閤様より十万石を代官所に預かっており、また七年分の米が
尾張に納め置いてありますので、都合三十万石ほど御用に立てることが出来ます。
景勝については先ずは捨て置かれ、上方に御出馬成されるべきと考えます。」

そのように申し上げたのである。このように左衛門太夫様が様々に申したため、細川越中守(忠興)殿、
池田三左衛門(輝政)殿、浅野紀伊守(幸長)殿、田中筑後守(吉政)殿、堀尾信濃守(忠氏)殿、
その他諸大名が家康公にお味方仕ると申し上げた。

(福島太夫殿御事)

いわゆる小山会議のお話ですね



忍城開城顛末

2019年12月03日 17:57

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/03(火) 06:19:31.82 ID:RCYAL5ym
小田原の役の折

この頃豊臣秀吉公の右筆に、山中山城守長俊という人物が居た。彼は元々、近江源氏
佐々木承禎(六角義賢)に仕えていたが、牢人と成った後久しく殿下に仕え。その文筆によって
優遇を受けた。また彼は連歌を好くし、彼の時々の秀歌は人口に膾炙していた。

忍城の成田氏長兄弟もまた以前より連歌を嗜み、臨江斎(里村)紹巴の元に時々、百韻の批評を
求めてはるばる京まで送るなどしていたため、山中山城守とは面識はないが、風雅の友として
長く文通しており、また了意という連歌の道の達人を上方より招いて扶持を与えていたが、
先年故郷に帰った折に、里村紹巴に誘われて殿下に謁見した時、秀吉公は成田の噂を聞かれて
「関東筋に必要なことがあれば、その時は手引を頼むと、内々に伝えるように。」
と伝えた。

このような事があったので、秀吉公は山中山城守を呼び出して言った
「忍城が未だ落ちていない。汝は成田と旧知であるから、彼に書簡を送って我が方に
帰降するよう勧めてみよ。」
と宣われたため、山城守は直ぐに一書を認め六月二十日、夜に紛れて成田氏長の陣所に遣わした所、
氏長より「一段同心」の返事が送られた。これに殿下は大いに喜ばれ、
「これにて事は成った。敵城の没落ほど、敵を討つための策の基はあるだろうか!」
そう言って徳川家康公へ成田よりの返書をご披見に入れられ、これを北条氏直に見せ、

「関八州の諸将はこのように我が方に服従している。籠城に全く利はない。早く講和すべきである。」

そう調義を入れるようにとし、家康公より小田原城中に向けてこの調略を入れると、城内は色めき立ち
雑説紛々たる状況になった。
北条氏直成田氏長に「議したいことが有るので急ぎ片曲輪に出席するように」と使いを三度まで
出したが、すべて病気と称して出ようとしなかった。そこで医師である田村安栖を彼の持ち口に
遣わし、「そなたに二心の風説が有る。その実否を糺したい。」と言い送った。
これを聞いた氏長は

「敵は大軍を以て忍城を侵し攻め、士卒足軽等に至るまで皆殺しになるかと思うと情けなく、
思うに堪えず、山中山城守を通して降伏を乞いました。虚報ではありません。」
と答えた。これに氏直は怒り、成田の陣所の四面に柵を設置させ、山上郷右衛門の組の侍八十余人に
よってこれを警護させた。

その後、秀吉公より石田治部少輔の元に墨付が送られ、成田氏長が帰降する事を城中へも
知らせるようにと有り、石田より諸将に通達し、龍淵寺の僧を使いとしてこれを城中に伝達
すると、城兵たちもどうすることも出来ず、同月二十七日、浅野左京大夫幸長に対し城を
明け渡した。

(関八州古戦録)

忍城開城の顛末。

前編
彼らを謀ったのである


彼らを謀ったのである

2019年11月29日 16:55

628 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/11/29(金) 14:29:18.61 ID:tnZCnaZ3
豊臣秀吉の小田原征伐に於いて、先に武州の石築、筑井の両城の攻め手として向かっていた
浅野左京大夫幸長、木村常陸介重茲、同伊勢守定重父子、赤座久兵衛直保、以下この方面が落ち着いた
ため人馬を暫く休めていた所、忍城が未だ落ちていないという事が笠懸山の本陣に聞こえ、秀吉より
急ぎ忍城攻めの加勢に向かうようにとの下知が有り、そこで直ぐに忍城へと向かった。

ここに、同国大里郡の久下城主、市田太郎という者があった。彼は武蔵七党の一員であり、また
重代の国侍であったが、僅かの分限であったので成田家の旗下に属し、当時は成田氏長の妹婿であった。
である以上、事ある砌は氏長より、忍城の留守居である成田近江守の助勢に駆けつけるよう定められ、
普段は久下を守っていた。この度は成田氏長、泰親兄弟が小田原に籠もったため、久下は小領であり、
また非常に僻地でも有ったので、そこは放置して忍城に籠もることを申し合わせ、本丸に入って
共に籠城した。

その頃、忍城では『小田原城内にて成田氏長が二心を起こし、上方勢に内通した。」との話が
聞こえてきた。そのため留守居の者達も両端を持す態度を取るように成り、市田太郎の姉は、北条方の
福島伊賀入道(賢成ヵ)の妻であったので心定まっているとして、市田並びに成田近江守を共に
持田口へ出して外郭の警護に当たらせた。

ところがこの処置に成田近江守は憤り、密かに浅野幸長の陣へ使いを立てて内応する旨を伝えた。
この事について、幸長の家老たちは石田三成に相談した所、三成は
「わが陣へも敵方より返忠の約を成す者があり、既に条件などを議定している。なので明日にでも
総攻めをすれば、簡単に城を乗っ取る事が出来ること疑いない。」
との返事であった。故に浅野家中はこれを事実と心得、軍勢の準備をした。

ところが、実は石田治部少輔は以前より忍城攻めのため在陣しているというのに未だ功を顕すことが
出来ておらず、加勢の手によって城を攻略されてしまえば面目が立たないと思い、浅野家を欺き、
彼らが功を立てることが無いように彼らを謀ったのである。

629 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/11/29(金) 14:29:48.02 ID:tnZCnaZ3
こうして翌日、木村常陸介兄弟が下忍口に押し寄せ、持盾械盾を並べてその陰より大筒小筒を
激しく打ち掛け攻め懸った。これを見て城方は、坂巻靱負尉が合図の鐘を鳴らした所、近辺の持口より
援兵が出た。寄せ手は頻りに競い進んで深泥を踏み越え塀へ乗ろうとした所を、城兵が矢弾を
夥しく放ったために多くが討たれた。

浅野幸長は長野口に陣していたが、西南の方から鬨の声や鉄砲の音が聞こえてくると
「すわ、搦手にては戦いが始まったようだ、者共進め!」と長野口へ押し寄せ、堀を越え柵を破って
城門の際まで攻め懸ったため、城兵たちも「これは持ち堪える事はできない。」と思い、ここを捨てて
大手の行田口へ引き取りはじめると、幸長の家人である浅野平右衛門、沖小平太が真っ先に進み、
この撤退に付け入ろうと追いかけた。

城兵の柴崎和泉守、三田加賀守、同次郎兵衛、吉田和泉守、同新四郎、鎌田次郎左衛門、秋山宗右衛門、
成澤庄五郎らがこれを支え防ぎ戦っている間に、雑兵たちは尽く行田口に逃げ入った。
浅野、大谷、松浦、鈴木の軍勢が既に大手の橋前まで詰め寄せたが、この八騎が橋詰にて踏み堪え、
槍衾を作って防いだため、寄せ手も更には進みかねた。

この時城中より、今村佐渡守、福島勘解由、坂本将監、島田出羽守以下三十余人が城門を開いて
突いて出、先の八騎の武者と一体となり、ここで敵も味方も勇戦し、寄せ手の浅野平右衛門が
討死し、沖小平太も福島勘解由に討たれ、大谷家の家人である飯沼主水正は今村佐渡守に組討され、
同じく家人の高田喜太郎も島田出羽守に付き伏せられた。これによって寄せ手が怯んだ様子に、
城方は「良き頃合いである。」と城に引き上げたが、城方も成澤庄五郎、秋山宗右衛門が討死し、
鎌田次郎左衛門は食い止められ橋の上で鑓を合わせていたが、彼は覚えの者であったので、鑓で
戦いながら「城門を早く閉ざせ!」と叫んだ。そこで城兵が木戸を閉めている間に、鎌田はそこで
討死した。彼の死を惜しまぬものは居なかった。

寄せ手は城門を破ろうと、寄り集まって押し掛けたが、最初の合図の鐘を聞いて佐間口を固めていた
正木丹波守以下五十余人が町家を廻って寄せ手の弓手に向けて鉄砲を撃ちかけ「裏切りが出たぞ!」
と叫んで真っ直ぐに打って掛かった。寄せ手は敵の規模を知らず多勢であると思いこみ、とうと崩れて
引き退いた。これを見て城兵はまた木戸を開いて切って出て、正木の人数と一つになり散々に戦い、
寄せ手はたまりかねて長野口方面へと引き上げた。

この時、長束正家および結城勢は佐間口を受け持っていたのだが、行田口、下忍口にて合戦が始まったと
聞いたため、「我々も攻め口を乗っ取ろう。」と押し寄せたが、この口を守る正木丹波守は行田に
救援に行っており無勢であったものの、福島主水正、櫻井又右衛門、内田孫六郎らが鉄砲を使って
ここをよく支えた。長束の家人である家所帯刀が先導して、有坂宮内丞、一宮善兵衛などという勇士
たちが続々と城門に取り付き後よりも大勢が続いた。すわこの口は破られると見えた時、正木丹波守が
行田口の敵を追い払って自分の持ち口に取って返る所を寄せ手が見て、「敵には後詰めが有るぞ!」と
心得、色めいて撤退した。この時城兵はまた打って出て追い打ちをかけたため、寄せ手は多く討たれたが、
城兵の被害は微小であった。総じてこの一日の戦いで、寄せ手の死傷者は数百人、城兵の討ち死には
五十五人、手負いは四十余人であったという。

石田治部少輔、並びに佐竹宇都宮勢は終始軍勢を出さず、徒に黙殺していただけであった。

このようであったので、市田成田の内応のことについても失敗し、寄せ手の面々はまた、城を遠巻きに
するのみであった。

(関八州古戦録)

忍城攻めで三成が浅野幸長を陥れたお話。

前編
忍城の戦い
続き
忍城開城顛末


630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/29(金) 17:14:26.33 ID:hQb+dwiO
大谷や長束まで巻き込むユニークスキル

631 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/11/29(金) 19:38:34.49 ID:6I18+3aO
>>629
フレンドリーファィアで有名な某政○家が頭に浮かんだ。
しかし政敵ならいざ知らず、主人の一門格になんちゅう事すんねん。
結局それが後に自分に返ってくる訳だけどさぁ…

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/01(日) 13:00:24.75 ID:6Y7LonhJ
三成「亡き太閤殿下から御恩を受けた連中が揃って東軍にいるのか全く理解できん」

忍城の戦い

2019年11月28日 18:45

624 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/11/28(木) 14:18:17.20 ID:oSsDNnzT
小田原の役の折

武州忍城の城主である成田下総守氏永は、舎弟左衛門佐泰喬(泰親)、及び田山豊後守、奈良、玉井、
以下五百余騎にて小田原城に籠もり、忍城には留守を置いていた。(中略)

忍城では豊臣軍が迫ると、近隣のすべての地下の農民、商人、社家、山伏、さらに15歳以上の
小冠者(元服して間もない若者)までもかき集めて、彼らを堀裏に置いて旗を差させ、敵方に
多勢が城に籠っているように見せかけ、また鉦や太鼓を用意しておき、敵が不意に攻めてきた場合は
これを打ち鳴らして他の手より救援させるようにと重々に仕組みを手配して、忍城には都合
二千六百二十七人が立て籠もった。

城将の成田氏長の正室は太田美濃守入道三楽斎の娘で、息女が一人有あったが、この娘とともに
この城に籠城した。彼女らは母娘共に容貌麗しく、優れて甲斐甲斐しく操ある女性であった。
「私達は女の身であると雖も、父祖も夫も、数代の弓矢の家に生まれ、たとえ氏長が留守であろうとも
このような時に至って武名を貶めること有るべからず。」
そう言うと、城代の成田肥前守をはじめ、一族家臣等に下知し、士卒の心を一つにして、城を枕に
すべき旨を、心から申し渡した。すると城兵たちは恥の有る者も無い者も、女性にてさえかくの如き
なのだと、感じ入らぬ者は居なかった。

寄せ手は、石田三成大谷吉継長束正家を大将として二万余騎にて館林城を落とすと、一両日
人馬の息を休めて、六月四日に忍城へ押し寄せた。生田口と下忍口は石田治部少輔、早見甲斐守、
北条左衛門太夫、並びに佐竹・宇都宮の衆七千余人、人丸墓山を本陣として大宮口までを打ち囲んだ。

佐間口は長束大蔵少輔、伊東丹後守、結城左衛門督晴朝、水谷伊勢守勝隆、岩上但馬守らが加わり
四千六百余人、

長野口は大谷形部少輔、松浦安太夫、鈴木孫三郎以下六千五百余人、これは北谷口までを受け持ち
陣を張った。

これらの攻め口は全て水田の池地であったため近づくことが出来ず、遠巻きに構えていた。皿尾口は
中江式部少輔、野々村伊予守、および江戸川越の五千余人、ここもまた僅かに細道が有る程度で、
左右は深い沼であり、足を踏み入れれば進むことも退くことも自由にならない有様であった。
それでも寄せ手は砦をひとつ乗っ取りそこに陣を付けた。そして持田口の一方をわざと開けておいたが、
これは城兵を放心させて城を攻め落とそうという術であった。

そもそもこの忍城のあるこの地は全体が大沼であったのを、成田氏長の祖父である中務少輔親泰が
多年多くの人力を用いて築かせた城塁であり、さりながら今なお四面深田であり人馬の駆け引きも出来ず、
故に今度の豊臣軍も、寄せ手は攻めあぐね暫くは攻めるのを見合わせたものの、だからといって
攻めねば城の落ちることはないと諸隊は相談し、鬨の声を挙げて矢鉄砲を打ち込み戦うものの、
足場が悪いため死傷者は数しれぬ有様であった。

そのような中、城方では下忍口にて別府小太郎、野澤金十郎の二人、共にこの時二十歳であったが、
先駆けして奮戦し、小太郎は深手を負って倒れ、これに寄せ手の武者が駆け寄り首を取ろうとした所に、
小金井善忠の郎党・橋爪孫兵衛という者が馳せ合わせ、かの武者を討ち取り別府を城内に引き入れた。

また皿尾口にては寄せ手は馬より下りて徒士となって攻めかかったが、城兵の松橋内匠助という
鉄砲の手練が、大筒で試しに撃ち出した所。進軍してきた寄せ手の兵七、八人がたちまち命を落とし、
これによってこの方面の軍勢は裏崩れを起こして引き上げた。中江、野々村はこの体たらくを怒り、
「この口は足場が悪いので力攻めは無理だ、策を以て攻めるべきである、」と、井楼を二ヵ所に作り
そこに大筒を仕掛けて城に向かって撃ち込んだ所、暫くは城方からの攻撃が止まったという。

625 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/11/28(木) 14:19:06.84 ID:oSsDNnzT
ここで石田治部少輔が提案した
「この城は要害の地であり、また兵糧、矢弾も多く籠め置いてあると聞く。であれば、早期に陥落させる
事は難しいだろう。そこで城郭の四方に堤を築き、そこに利根川荒川より水を引いて水攻めにすべきだ。」
そういう訳で、近隣にこの工事のことを触れ、過分の米銭を与えて人足をかき集め、昼夜を問わず
土石を山のように運ばせ四面に堤を築かせた。

ところが、この時忍城内に籠もっていた農夫、商人らも、夜中に密かに抜け出て土石を運び賃銭を取り
それにて米穀を買い求めまた城中に入った。工事を担当する奉行の者達はこの事を聞きつけて

「この城に糧を入れるのは木の根に水を与えるようなもので、こんな事ではいつまで経っても
城が落ちることは有りません。城内より出てくる人夫は搦め捕って首を刎ねるべきです!」
と訴えたが、石田治部少輔はこれを聞くと頭を振って

「いやいや、そのような事をすべきではない。堤さえ出来れば城兵は片端から溺れ死ぬのだから、
たとえ米穀が城内に充満していても何の意味もない。また、もし彼らを誅殺した事で、これに関係のない
外の人夫たちが恐れて逃げ去ってしまっては、堤はますます完成しなくなる。何も知らぬ体にて
堤の完成を急ぐのだ。」

そう言って、日夜下知を励ますと、幾程もなく堤は完成した。
「それでは」と、利根川を防ぎ留めて江原堤に水を流したが、この時、五月雨の時期が終わると
炎天が続いていたため水の流れも乏しかった。そこで荒川を防いで水を流した所、水は滔々と流れ
溢れた。これに城兵たちは高地へ集まったが、それほど困った様子もなかった。

そのような中、同月十六日の申の刻(午後四時頃)より空曇り雷鳴轟き、夜間には豪雨と成った。
ところがこれによって、寄せ手の築いた堤が、川西という所より五、六間も切れたかと思うと、
新しく築いた堤だったためあちらこちらが押し破られ、逆水となって寄せ手の陣所に押し寄せ、浸水に
よって若干ながら人馬が溺死に及んだ。その後水は引いたが、道は深泥の如くと成り、馬の蹄も
立たない有様で、寄せ手も遠巻きにして徒に時を過ごすしか無かった。

(関八州古戦録)

「忍城の戦い」について

続き
彼らを謀ったのである


館林城と決定命婦荒御前

2019年11月27日 16:07

385 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/11/27(水) 13:07:06.45 ID:pmzO3enF
豊臣秀吉による小田原の役の折

東上野の館林城主は北条美濃守氏規であったが、彼は豆州韮山に立て籠もっていたため、
この城は南条因幡守が城代として在り、板倉の真下越前守、飯野の淵名上野介、大島の片見因幡守、
小泉の富岡六郎、藤岡の富田又十郎、以下五、六千人がこれを守っていた。

この館林城攻めの軍勢として、石田治部少輔三成、長束大蔵少輔正家、大谷刑部少輔吉継、
早見甲斐守守久、野々村伊予守雅春、伊東丹後守長実、中江式部少輔直澄、松浦安太夫清長(宗清)、
鈴木孫三郎、並びに佐竹義重、宇都宮国綱が東国の先方衆の陣代としてこの軍勢に列し、五月二十二日、
館林城へ押し寄せた。

この城の盗難は躑躅ヶ崎といって渺々とした深い湖沼であり、人馬が通行するのは不可能であれば、
攻め手は味方を三手に分けて、三方より攻め掛かった。西の大手は石田、速水、中江、並びに
佐竹宇都宮勢七千余騎、佐川田の渡を越えて佐野口より押し詰め、大谷原の松林に陣を取った。

東方は下外張口の搦手より長束、野々村、伊東ら六千八百余騎が、東北の加保志口は大谷、松浦、鈴木ら
五千六百余騎、都合一万九千四百余騎にて三方より囲み鬨の声を上げた。

一方、館林城中は多年激しい戦に慣れている勇士達であり、手ぐすねを引いて集まった者達が、
殊更に屈強の要害に籠もっているのだから、ここに支えかの所を防ぎと頑強に防衛し、簡単に
落ちそうに無く、寄せ手は遠攻めをして三、四日が過ぎた。
この時、石田三成が諸将に対してこのように提案した

「この城の東南に大沼があり城方にとって手明きとなっている。このため彼らは残りの三方に
集中して防戦し、故に屈強に抵抗している。そこで、人数を分けて大袋山に入って大木巨木を
切り倒してあの沼に投げ込ませ、また周辺の家を破却し、これらを用いて道を付けて攻め寄せれば、
敵兵は持ち口が分散され味方が攻めるのに有利と成ると考えるが、如何であろうか。」

これを聞くと諸将は皆然るべきであるとして、近くの郷村に触れを回し、料足(賃金)を与えると
呼びかけると、人夫二、三百がたちまち集まり、近辺の山林より大木を刈り出し昼夜を分かたず
大沼へ投げ込むと、二、三日の間に八、九間ばかりの二筋の道を付けることが出来た。
その間三方の寄せ手は意図を汲んで隙を与えず攻め立てたため、城兵はこの防御に手一杯となり、
大沼の方面へ人を出すことが出来ず、攻め手は難なく道を付けることが出来たのである。

さて、明日は四方より押し詰め総攻めにすべしと、手分け手配も定め、夜が明けるのを今や遅しと
待ち受けていた所、その夜、松明が二、三千ばかり灯され、続けて夥しい人の声がどよめき響き、
また普請している音も聞こえた。寄せ手は「城中に多数の者達が居るとも見えないのに、堀切、柵などを
付けているのだろうか。」と訝しみ囁きあいながらこれを聞いた。

一方で城中の方は敵勢を見て「何と夥しい敵兵であろうか。今はもはや四面このような状況であり、
我等はもはや牢の中の獣、籠の中の鳥の如くであるから、城から落ちることすら出来ない。
明日は潔く一戦をして討ち死にしよう。今生の暇乞いに、今宵は快く最期の酒盛りをすべし。」
と一献を催し、夜明けを待った。

386 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/11/27(水) 13:07:52.31 ID:pmzO3enF
夜が明け日が既に曉天に至った頃、石田治部少輔、佐竹、宇都宮ら四千余騎にてかの大沼に押し寄せ、
持ち盾械楯を先に立てて、それぞれに馬を乗り放って進み、近づいて見てみた所、二筋まで付けた
道の材木が尽く泥中に沈み込んでおり、どうにも渡れる状況ではなかった。
これに寄せ手は大いに驚き「さては前夜の人夫の音はこれであったか!」と言い合ったが、猶も
不審は晴れないまま、他の三方の攻め口にこの事を伝えた。

丁度その頃、山中城が落城し、そこを守っていた北条左衛門太夫氏勝は降伏、豊臣軍の案内として
こちらに着陣していたのであるが、これを聞いてはたと思い出した
「これは全く城兵の仕業ではない。かつて赤井但馬守がこの城を築き始めた時、野狐の変化が
地形の指南をしたという。その野狐は今以て城中にて祀られ鎮守の神として崇められていると聞く。
尾引曲輪がそれである。かつて永禄九年の秋、南方(北条)の軍勢が当所に押し寄せた時も、
このような神変があって囲みを解いた事がある。決定命婦荒御前というのがその野狐の名であるが、
これが成したことであろう。」

このように申し、また諸将も手をこまねいて奇異の思いをなしており、このような所に長陣は
無益であり、ここは和議をなして片時も早く忍城へ向かうべきだと考えていたため、この氏勝より
城内の南城、真下、富岡等へ矢文を射込み扱いを入れると、城方もこれに同意し、同月晦日に
城兵は退散した。これによって石田大谷が城を請け取り、数百ほどの番兵を置いて忍城へと向かった。

(関八州古戦録)

館林城の狐については、まとめentry-144.の『赤井照光と狐と館林築城・いい話』を参照


行長も心ならず引き立てられて共に敗北し

2019年10月08日 15:30

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/07(月) 18:34:53.73 ID:mLJwIBqg
(前略 >>455

すでに夜が明ければ、石田三成・島津兵庫守義弘と舎弟の中務大輔家久(豊久の誤り)・小西摂津守行長ら
は関東勢の旗の手を見て関の藤川を渡り、小関の南辰巳に向かって備える。備前黄門秀家も手勢の大軍を率
いて同所に備えた。大谷吉隆(吉継)・平塚為広・戸田武蔵守重政(勝成)と子息の内記重宗・津田長門守
信成は石原峠を引下し川を渡り、関ヶ原の北野に出て西北の山を後ろにあて、不破を左に見て辰巳に向かう。

家康公の旗本は鶴翼に備え、16段に備を定めて先陣は福島正則、鉄砲8百挺・弓5百張を段々に組み合わ
せてまず矢合わせの鏑を石田の先手へ射掛けた。さて鉄砲を一度につるべ放ち、金鼓を鳴らして鬨を揚げれ
ば東兵も共に同じく太鼓を打ち、楯の端や胡ロクを叩いてこれを助け、都合7万5千3百余人が鬨をどっと
作れば、西国勢13万8千6百余人も同じく鬨を合わせつつ、諸手一同に戦を始めて白刃を交えたのである。

福島父子は弓鉄砲の迫り合いを経て長柄を揃え錣を傾け三成に突いて掛かれば、小西行長も相掛かりに掛か
り揉み合った。これを見て東国方の細川・黒田・加藤は走り合わせ、命を鴻毛よりも軽くする。また西国方
でも島津兵庫守・宇喜多・島津中務大輔と掛かり合い、互いに魚鱗鶴翼の秘術を尽くし命を限りに攻め戦う。

中でも小西は手の者共に目合わせし「敵は大勢、味方は小勢、通り一遍では利はあるまい。羽武者共に目を
掛けるな! 大将に組んで討て!」と風の散る雲の如くに群がり、千騎が一騎になるまでも引くなと、互い
に恥しめて面も振らず相戦う。流石に広き関ヶ原、錐を立てる地も無く敵味方20余万は、算を乱したる如
くなり。

行長は諸将に構わず自兵を引き纏い、三国黒という長さ9寸余の名馬に一鞭当てては馳せ散らし、取って返
し蹴散らし、千変万化の勇を振るう。その形勢、脱兎の網の裏を飛ぶが如し。

家康公が大音声で宣ったことには「敵の旗色は騒ぎ立っている。戦は味方の勝ちなるぞ! 総勝鬨を作って、
旗本の先陣は一同に馬を入れよ! 近習の輩も前一軍は備を崩して石田・小西の横合を打つべし!」と朱旄
を揚げて自ら御駕を進めなされば、御旗本の先陣、16段の先手共は槍の穂先を揃えて馬の鼻を雁行に立て、
大山の崩れる如く突いて掛かると、さしも金石の如く勇を励み備を堅める石田・小西も、この時に駆け破ら
て四方に散乱し、伊吹山・草の谷・伊勢路に掛かって落ちる者もあり、あるいは谷へ落ち入って死ぬ者もあ
り、右往左往に逃れ走った。

行長も心ならず引き立てられて共に敗北し、伊吹山の東粕賀郡に知音の寺があったのでかの寺へ馳せ入り、
しばらく息を継いで世の有様を聞いていた。

(後略)

――『古今武家盛衰記』

続き
小西行長捕縛


496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/07(月) 21:09:37.76 ID:n4Znc1LY
小西行長が寺に?
伊吹山にはイエズス会の薬草園があったとか言うけど
ふつうに仏教寺だよね

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/08(火) 11:58:14.65 ID:LC7+7kuF
>>496
キリシタンが寺に居るなどと誰が考える?
アホはそうやって騙されるんだよ

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/08(火) 16:22:44.93 ID:bTgXE5VC
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541597/9
「南蛮寺興廃記」の薬草園の箇所

速やかに討死して名を万代に留めよ

2019年09月27日 16:24

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/27(金) 15:17:22.03 ID:zJaqhU3P
前略 >>443

石田を初め諸将が行長の奇計を用いず狐疑したのは、家康公が賢慮を巡らされ、敵が大垣へ出張した後にあ
らかじめ伊賀・甲賀の忍功者の輩を敵陣へ多く入れ置いて諸々の説を言わせられ、この流言に驚いて諸将は
互いに隔心し勇気は挫け、皆引く心が付いたのであった。

これより西国勢は敵からかえって夜討が来るだろうと、石田を初め島津・宇喜多などの諸将は慌てふためき
9月14日酉刻に陣所を払い、牧田の閑路を経て関ヶ原へ引き退く。殊にその夜は大雨で諸軍は大いに迷惑
し、その様子はさながら落人の如し。

この時、小西(行長)が付け置いた忍どもが走り来たりてこれを告げた。行長はまったく驚かず「どうして
そんな事があろうか。引き退くならば、我が方へもどうして一往告げないことがあろう」と事実とも思わず
にいたが、追々に告げて来るので不思議ながらも物具を堅めて馬に乗り、諸将の陣々を回り見るによくよく
慌てふためいたと思われ、兵糧・器財・弓・鉄砲・槍長刀・太刀・甲冑が捨ててあって、足の踏み所もない。

小西も興覚めながら自陣へ人を馳せて人夫5百余を召し寄せ、心静かにこれを拾い集めさせて夫駄に負わせ、
自分の陣所をも引き払って関ヶ原へ急いだ。

さて、諸将の方へ使を立て「各々の陣所に捨て置かれた兵具などを敵に拾われて、善し悪しの批判をされる
のも口惜しく、行長が広い集めて持たせて来た。御用次第に取り寄せなさるべし」と申し送り、関ヶ原から
八幡の西北、小池村の間に兵具などを並べ置いて所望に従って渡すと、皆面目なく見えた。行長は家子郎等
に向かって、

「このような臆病者とは知らず三成に頼まれ、犬死する口惜しさよ。しかしながら今これを捨てれば、節に
臨み義を忘れるようなものだ。ただ私が人を知らざる故なれば、今更恨むような様もない。汝らの数年の軍
功を無きに等しくしてしまうことは、返す返すも残念でならない。さりながら宿世の誓約と思い切り、今度
の最後の戦で悪びれて(気後れして)世人に笑われるなよ。速やかに討死して名を万代に留めよ!」

と情を含み勇を励まして語ると、従臣どもは「仰せまでもなし!」と誓いを立てて申したので大いに喜び、
「実に頼もしき心底よ! 最後の酒宴をせん!」と互いに打ち解け終夜舞い謡い、その後に手配りを定めて
明けるのを遅しと待っていた。

(後略)

――『古今武家盛衰記』

続き
行長も心ならず引き立てられて共に敗北し


456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/27(金) 15:32:51.16 ID:GToyzteL
>これより西国勢は敵からかえって夜討が来るだろうと、石田を初め島津・宇喜多などの諸将は慌てふためき
9月14日酉刻に陣所を払い、牧田の閑路を経て関ヶ原へ引き退く。殊にその夜は大雨で諸軍は大いに迷惑
し、その様子はさながら落人の如し。

どうしようもねーな
こんなん聞いてると水鳥の羽音で平家が逃げたとか信じそうになるぞ

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/27(金) 20:59:55.87 ID:d0XnWwP+
大垣城から関ケ原に引いた時点で、もう負け確定だったんだなぁ…。

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/27(金) 23:03:11.80 ID:xvfY22wf
>>454
大村家って平安期からその地に居てキリスト教関係でめちゃくちゃやったのに
秀吉家康時代も転封なしって運がいいというか身の処し方が上手いんだよな
キリシタンの厄介な場所とはいえ、島津家や宗家ほど地域の特殊性もないのに治世任せられてる
戦後まで当主が辻政信を匿ったり大村市長になったりしてるし

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/28(土) 10:43:51.63 ID:bhDpweX0
>>455
誇張もあるんじゃないかな
石田三成だけならまだしも他の将まで揃ってとは

味方の中に勇士はいなかったのだ!

2019年09月26日 15:56

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/25(水) 18:18:47.04 ID:8prqcSXc
(前略 >>436

去る程に慶長5年(1600)9月12日、石田らは濃州大垣城に籠って岐阜城へ加勢を遣わし、島左近
株瀬川(杭瀬川)へ出して戦の手始めをさせたところ岐阜はたちまち落城し、左近は利を得たけれども味方
は大勢討たれたので三成は驚いて諸将を集め、「この上は関ヶ原まで引き退き、味方の多勢と成り合って広
野において戦せん。如何だろうか」と言う。島津・宇喜多・安国寺らも心臆したのか皆もっともとこれに同
意した。行長(小西行長)1人は知らぬ顔でいたがこれを聞き、怒声をして高らかに言ったことには、

「こは臆したる評議かな! およそ戦の勝ち負けは5度も10度も戦い負けて、1度の勝ちに大利を定める
ものぞ! ましてや日本が2つに分かれて戦うというのに、10度20度の合戦に変わりがあろうか!それ
に味方の負けは岐阜ばかり、株瀬川の戦は大勢が討たれたが軍利を得て大敵を追い払った! さて敵方の負
けは大津城、丹後の田辺、伊勢の津城、伏見城である! これは我らの勝ちではないのか!

東国勢は多しといえど7万5千3百余兵、味方は13万8千6百余人! 敵に若干倍するのではないのか!
それを岐阜落城に物を懲らして逃げ支度する謂れはない! 今ここに有り合う勢をもって敵と戦うのに不足
はあるまい!

それで覚束ないのならば関ヶ原の兵をここへ招き寄せて快く一戦し、万一利が無ければ大坂城に籠り、また
勢を分けて所々の城に籠め置けば、敵は手配りしてこれを攻めることだろう! 多からぬ関東勢を分散させ、
その虚を窺って家康の旗本へ突き入れば、どうして勝利を得ないことか!

また岐阜中納言秀信は生得愚魯の闇将、臆あって勇なし! 弱将の下に強兵無き故、家臣らはまた浄き戦も
せずにたちまち首を伸ばして降参した! これは戦の咎にして天利とするべきではない! それを味方の兵は
臆して敵兵は気に乗ったとこの陣を退くことは後世の謗り、そして今においては戦の損、一方ならぬ誤りで
ある!

私が思うに家康は今日赤坂へ着陣して備は未だ定まっていまい。今夜こちらから逆寄せし、一戦すべきでは
ないか。つらつら思うに家康は広野の合戦に妙を得て、人数を見切り進退し、軍兵を指揮することは誰が雌
雄を争えよう。各々も見給う如く、姉川・長篠・長久手・楽田・羽黒などの戦場で僅かの手勢をもって大敵
を切り崩したその形勢は、神変無双の驍将である。尋常の如くこれと戦してはまったく利はあるまい。

まず今夜、夜討して敵の変化を窺い見て、重ねて術を巡らすべし。ただ運を天に任せて味方の勢を三分し、
一手は家康の本陣へ夜討させ、一手は旗本近き陣を攻め、一手は援兵の通路を断じ、所々の陣々、赤坂の町
屋在家を一同に放火してその変動に従って戦わん!」

と言うが、諸将は聞き入れず。石田は言う。「小西殿の計りは図に当たるといえども、味方の中に二心の者
は大勢いると聞く。しからばこの謀も敵に洩れるのではないか。なまじ夜討して味方の若干が滅びるよりは
速やかにここを退いて味方の大勢と心を合わせ、一戦の功を立てるに如かず」と用いず。行長はまた言う。

「夜討の術が各々の心に入らないのならば、ともかくもここを退いて関ヶ原まで引かれんことは甚だすべき
ではない! 戦の習いで一足でも進むとなれば鼠も虎の威に同じ、一足でも引く時は虎も鼠の如しと言われ
ている。岐阜が落城して味方の兵は気を失い、勇の挫けるところでまたここを退けば敗軍に等しく、ますま
す味方は力を失い、敵は未だ戦わずして勝軍の猛威を振わん! これは敵に勇を付け味方の気を弱めること
なれば、自然と心を変ずる者もあろう。重ねて戦っても利は無い!」

とするが諸将は肯定しない。小西は大いに怒り、座を立って大声で罵ったことには「それほど味方を疑って
は、いずれも戦はできない! 臆病神が付いた以上は百万の勢があろうとも負け戦になろうぞ! 思うに味方
の中に勇士はいなかったのだ!」と、悪口して陣所へ帰った。

石田を初め諸将が行長の奇計を用いず狐疑したのは、家康公が賢慮を巡らされ、敵が大垣へ出張した後にあ
らかじめ伊賀・甲賀の忍功者の輩を敵陣へ多く入れ置いて諸々の説を言わせられ、この流言に驚いて諸将は
互いに隔心し勇気は挫け、皆引く心が付いたのであった。

(後略)

――『古今武家盛衰記』

続き
速やかに討死して名を万代に留めよ


444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/25(水) 18:20:33.61 ID:Dlm/oppg
戦犯小西

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/25(水) 18:21:51.54 ID:U38ZVahv
三成って安定択しかとれないイメージ

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/25(水) 18:54:19.25 ID:UhsvF/OK
前線の武将は熱いな
モタモタするより速攻で1回戦って団結した方が良さそう

447 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/25(水) 20:20:18.64 ID:Rn6zhfmt
三成は家康はもとより、同世代のNGMSや市松他東軍諸将連中と比べても前線や陣頭指揮の経験が豊富かって言うとそうでは無いしなぁ…
かと言って総大将としての戦略も…

結局、毛利と小早川が調略されてる時点で詰みよねぇ…

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/25(水) 22:49:49.78 ID:e8AHqd1y
猪武者でも頭良い人けっこういるんだよね
三成は頭に寄りすぎ
融通利かなすぎ

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/26(木) 15:47:14.39 ID:QTP1VGvV
簡単に岐阜を抜かれたのが痛いね
天下の名城だし諸将への動揺が大きかったと思う
態勢を整える為にも一旦下がるのは誰もがやる手法だろうね
伊賀者甲賀者が暗躍してる時点で夜討は効果ないでしょ
看破されて撃退されるのがオチ

20万石余 小西摂津守行長

2019年09月24日 15:37

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/23(月) 19:30:46.75 ID:cwZ3+KTm
20万石余 小西摂津守行長

肥後州宇土城主・従四位下侍従行長、父は泉州堺累代の薬商・小西清兵衛入道如清という。彼は子息の
清九郎(弥九郎行長)を伴って朝鮮へ渡り、薬を買って往来すること数ヶ年。

太閤は天下草創の以前より朝鮮を征伐せんと心掛けられた故、小西が案内を知っていることを聞いて、
子息の清九郎行長を召し使われたが、行長は武勇才智あって太閤は喜び、播州在城の時に初めて2百石
を賜う。行長はなお武を学び和漢の兵書を考えてもっとも兵道に達する故、太閤はかつて播州一国を領
せられた時より、天下平均、かつ朝鮮攻めまでの合戦でついに不覚を取らず。

さて太閤は備中出陣の時は小西清九郎が先手に進み戦功あり。帰陣の後に1万石の感状を賜り、従五位
下内匠頭と受領す。後にまた段々加増、10万石に至り摂津守と改める。

この時、宗対馬守義智に一女あり。小西の智勇を感じ入り太閤へ願い婿とする。しきりに戦功を積んで
天正13年(1585)に10万石の加恩を賜い四品に昇り、肥州宇土の城を賜う。

さて、太閤は宿望の通り朝鮮征伐を企て、行長を先手の大将たらしむ。行長は案内者である故、やがて
かの国の通事数人を語らい懐け、路次の便を調え諸将へ下知案内を司る。行長はかつ勇猛智謀をもって
朝鮮の王城数ヶ所を攻め抜き、敵の首を斬ること諸将に10倍す。その働きは『朝鮮征伐記』に詳しい。

しかしながら元来卑賎の者である故、己の武勇に驕り諸将の誓約を変じ、己1人の功を立てんことを業
とする故に交わり親しむ者なし。行長はこれを悟らず、人を嫉み世を恨む。石田(三成)とは懇意故、
かの逆意に与しその為に軍法を談じるといえども、石田の運が尽きたのか小西の謀を用いざること多し。

(後略)

――『古今武家盛衰記』

続き
味方の中に勇士はいなかったのだ!


440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/24(火) 10:25:43.22 ID:oBX6SoJl
>>436
持ち上げて持ち上げてからのハシゴ外し w

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/24(火) 10:36:01.80 ID:/PMrZ76R
元来卑賤てwそれ太閤もやん

左吉の容貌起居は他に優れたことによって

2019年09月02日 15:54

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/01(日) 16:40:38.13 ID:RmXpuKDJ
石田治部少輔三成は幼名・左吉、その父は佐吾右衛門で江州石田村の地士にして一村の長で
あるが、家は貧しく左吉を近郷の真言寺の小小姓とした。

ある時に秀吉公がこの寺へ参詣し、左吉の容貌起居は他に優れたことによって、住持に乞う
て近習の臣とし、次第に昇進して江州佐和山18万石と代官所7万石の合わせて25万石を
領知した。

――『志士清談』



只今石田を殺したならば

2019年08月28日 15:51

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/28(水) 14:17:08.67 ID:9gs3r0Od
秀吉公御卒去の折、諸大名五奉行は大坂に参会した。この時、伏見で石田(三成)をこのついでに諸将は
殺すべく評議した。これに神君(徳川家康)は、密かに石田を御助けして御落としなされた。寄り合った
諸将は石田を重々憎み、殺したく思いなさった。しかしながら、家康公に従い奉るべしとは思わなかった
のだという。

この時に石田を御囲いなされたことは、本多佐渡(正信)の申し上げ故である。佐渡が申すには、

「只今石田を殺したならば諸将は皆公に背き申しましょう。今は石田を憎んで皆公に組しています。石田
の様子は、この分際でいるような者ではありません。大いに催して打ち出ることでしょう。その時に討ち
果たしなさるべきなのです。これ当理の謀なり」

案の如く石田は関ヶ原で大勢を語らい打ち出た。これ皆佐渡の智謀なり。後々年に至り、公が佐渡の申す
ことに御同心無き時に「何ぞ杉戸の際で申したことを御失念なされましたか」と度々申し上げられたのは
この事である。

黒田甲斐守(長政。原注:如水軒)が申されるには、「あの折に伏見で治部少輔を重々殺したく思った。
しかしながら、家康公に従い奉るとは思わなかった」と後々申されたのだという。(原注:右は如水軒が
光政公へ御直談申したのを(光政が)仰せられたと覚え申すものである)

――『烈公間話』




165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/29(木) 13:01:27.64 ID:bI7TkIMY
石田三成がいなくても、宇喜多秀家の動き次第では…。

166 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/08/29(木) 16:35:08.65 ID:lniIquuh
その時は金吾が総大将だな

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/29(木) 19:35:06.83 ID:BCVHUVku
それは無いな。宇喜多は内紛でそれどころじゃないし小早川秀秋は家康と争う理由が無い

さては宇治・淀川の運上は万石に及んで

2019年07月24日 16:33

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/24(水) 16:25:33.09 ID:aHDSHdOS
23万5千3百石 石田治部少輔三成

三成の先祖は江州粟津ヶ原で木曽義仲を射落とし、その忠賞によって右大将頼朝より豆州に3千町を賜った
石田判官為久にして大織冠(藤原鎌足)の末裔である。

元々は三浦一族であるが、三浦家が衰微すれば共に流浪し、為久より八世の石田藤右衛門尉為成という者が
江州の山家に居住した。二子あって次男を左吉宗成と称す。後に所謂、石田治部少輔三成と称すはこれなり。
嫡子は木工介重成という。

しかるに左吉宗成は穎悟聡明、幼くして文武の道を学んでかつ諸芸に達し、良将に仕えることを望む。時に
太閤は播州半国を領し姫路城にあって、羽柴筑前守と称す。左吉はこれを聞いてここに至る。太閤は左吉の
由緒才智を憐れみ3百石を賜った。時に18歳(原注:一説に150石で右筆に出たという)。

後に太閤が中国三州の主となった時、家人の領地をあまねく加増した。石田は新参だが忠勤によって5百石
の新恩を加えた。この時に太閤は曰く「ただ所存の旨を申せ」と。石田は恩を謝して曰く、「そればらば、
宇治・淀川の両脇に毎年生じる荻と葦を、郷民らはほしいままに刈り納めていますが、この運上を賜ったな
らば恐れながら5百石を返上して、かつ1万石の軍役を勤めましょう」と。

往古よりこの運上を取って来る例ではあるが、その才を試すためと太閤は思案あってこれを許した。また軍
役については追って申し付けるとのことであった。石田は大いに喜び宇治・淀の川上から数百里川下まで生
じた葦・荻を、1町にどれくらいとの運上を定めて刈り取らせたところ、その穀高は幾許であった。

その頃、信長は波多野石右衛門大夫秀治の追討をして太閤が先手の大将であった。時に左吉は団扇九曜に金
の吹貫を垂れた旗を先に立て、華やかに鎧をつけた武者は金の吹貫を皆一様に腰印とし、数百騎を纏って遥
かに引き下って押し来る。

太閤は顧みて怪しみ、軍使を馳せて問うと石田佐吉宗成と答えた。「さては宇治・淀川の運上は万石に及ん
で、今度の軍役を勤めたのか」と、太閤はますますその才智を感心なされた。かくて後に太閤は天下の主将
となり、恩寵はなお深く、ついに江州佐和山23万5千余石を賜り、官四位に至って五奉行の随一となった。

――『古今武家盛衰記』



石田三成の「三献茶」の元ネタがこれ

2019年06月22日 15:05

千利休   
34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 00:16:16.65 ID:5DKbWtYD
利休が法華寺で「喉が渇いているので茶がほしい」と所望された所、新発意(小僧)が大服(量が多い)に
茶をぬるく点てて出した。「非常に良かった、もう一服」と利休が再び所望すると、今度は前より少し熱く、
少し小服にして出した。するとさらに「いま一服」と所望されると、小僧は熱く小服にして出した。

利休は感心して「さてさて、気の利く人だ。彼を私に遣わして下さい、数寄を教えたい。」と言った。
そして点前そのものよりも、心を数寄にすることが肝要だと言って召し使った。
この小僧がのちの、京の喜斎(土屋喜斎)である。

(茶道四祖伝書)

石田三成の「三献茶」の元ネタがこれ



35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 01:01:16.28 ID:RmuGq9nn
何たる小賢しさ。十五か十六でこんな小細工を弄する奴は
何となくひね媚びていかにも器の小さい感じがする。

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 08:22:16.90 ID:h6DMzvzQ
>>34
近い時代に元ネタあったんだな

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 09:08:18.69 ID:5DKbWtYD
>>36
出てくる人間の時代は近いけど、三成の三献茶の逸話の初出が1716年の『武将感状記』なので、
お話として改変されたのは『茶道四祖伝書』が出てから7,80年後だな。

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 10:18:49.11 ID:0AogUSfh
昔の人って平気でパクるよね

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 11:07:31.24 ID:696jtPWY
まあ、その辺もいい加減だったというかOKな時代なんかな
そもそも読んでる人も限られてるだろうし

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 11:28:38.53 ID:Hb5MJrxT
>>35
十五歳は成人だぞ

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 11:38:59.74 ID:5DKbWtYD
>>40
>>35は昔光栄が出した『信長の野望覇王伝・武将FILE』の石田三成評の一部。ぼろっくそで有名

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 12:10:14.52 ID:Hb5MJrxT
>>41
(TT)

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 12:25:31.08 ID:h6DMzvzQ
>>37
そんなに時代空いてたんだ、当時なら誰にもバレなかったろうなぁ
むしろそんな前の時代のネタよく引っ張ったもんだ

ガスパールの茶会事件

2019年02月28日 19:14

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/28(木) 12:41:33.39 ID:Eo1e9caG
 ルイス・フロイス著「日本史」には茶会の席で起きた事件についての記述がある。

 堺の町人 日比屋了慶(洗礼名ディオゴ)は豪商として有名で、また彼の一族は
キリシタンばかりであることも知られていた。彼はモニカという洗礼名を持つ娘を
宗札(洗礼名ルカス)という男に嫁がせたが、モニカは宗札との間に二人目の子を
産んだ後で体調を崩してそのまま亡くなってしまったので、今度は次女のサヴィナを
宗札に嫁がせて改めてまた娘婿とした。
 サヴィナと夫婦になって幸福な生活を送っていた宗札であったが、
天正14年のある日、日比屋了慶の弟のガスパールから茶会に招かれたことにより、
人生が一変する災難に見舞われることになった。

 ガスパールの茶会に招かれたのは宗札本人の他に宗札の弟のリョーカン、そして、
日比屋了慶ならびにガスパールの弟にあたるトーアン、隣人の小島屋道察である。
日比屋了慶本人も招かれていたが、客人をもてなす用事があったので
茶会には参加しなかった。
 茶会は穏やかな雰囲気のまま終わったが、帰り際になっていきなりリョーカンが
隠し持っていた短刀を抜いてトーアンに襲い掛かって刺殺してしまった。さらに
リョーカンは短刀を小島屋道察に突きつけつつ、ガスパールに対して「私は
トーアンの命を奪ったが、この件は私に責任がないということを関白秀吉様宛ての
手紙に書け」と脅してきた。
 やむなくガスパールは指示通りに手紙を書いて渡すと、受け取ったリョーカンは
満足げな笑みを浮かべてから今度はガスパールに襲いかかってその命を奪った。
そこへかけつけたガスパールの下僕たちが殺人犯を取り押さえようとしたところ、
リョーカンは観念したのかその場で自害してしまった。
 犯人のリョーカンはかねてよりトーアンとは不仲で、キリスト教の信仰について
口論していたそうだが、詳しい動機は不明である。

 当時、堺は豊臣秀吉の直轄領であったので、この事件の捜査を担当したのは
堺の代官を務めていた石田三成である。彼はただ単に現場に居合わせていた
宗札を犯人の兄だからという理由で捕らえ、それに連座して宗札の妻子も捕まえて
堺から大坂へ連行した。それだけでなく、小島屋道察、および彼の家族、そして、
被害者のトーアンの家族もまとめて逮捕し、あげくのはてに彼らの財産を没収した。
 
 突然2人の弟を失った日比屋了慶は娘婿の宗札が理不尽な理由で家族ごと逮捕された
だけでなく、宗札の一家がいずれまとめて死刑にさせられることを聞かされて、
いてもたってもいられなくなり、四方八方手を尽くして助命嘆願に奔走した。
徳川家康や北政所、千利休、高山右近など多くの有力者たちがとりなしてくれたが、
秀吉の反応は思わしくなかった。
 そして、天正14年11月22日、宗札は何の罪もないのに磔にされて処刑された。
当初は妻子も一緒に処刑される予定だったが、北政所や宇喜田秀家夫人らの嘆願が
功を奏して宗札の妻子は許されて日比屋了慶のところへ引き渡された。
 多くの人が捕らえられた事件であったが、結局、処刑されたのは宗札だけで済んだ。
けれども、小島屋道察は財産没収により茶の湯の名品2点を秀吉に取られたりしたので
散々であった。

 翌年の天正15年に宣教師の追放令が出ていることから、この強引な捜査は秀吉の
意向によるキリシタン弾圧の一環ではないかと疑われている。石田三成がおこなった
この事件への対処があまりにひどかったせいか、ルイス・フロイスは三成について
「キリシタンの敵であり、野心家で傲慢な悪徳に満ちた人物」と手厳しく評価している。