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「朝野雑載」から石田三成と田中吉政

2023年04月23日 17:37

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/22(土) 20:28:49.01 ID:HFxUyFUP
朝野雑載」から石田三成田中吉政
(前半は有名だけどついでに)

関ヶ原での敗戦後、田中吉政石田三成の捕縛を命じられた。
吉政は「三成は風流ゆえ、もし途中に匂いのある鼻紙が落ちていたら気をつけろ」と下知した。
石田三成は古橋村の与次郎大夫のもとに匿われていたが、近辺の村まで吉政の追及が及んでいると知った三成は与次郎に自分を突き出すよう命じた。
与次郎は拒んだが、三成は「病が重く歩行もままならぬ。このまま探し出されるようなら汝も罰せられるだろう」と説得したため、与次郎はしかたなく訴え出た。

田中吉政石田三成を乗り物に乗せて連れて来させ、対面した。
吉政は慇懃に挨拶したため、三成は太閤から賜った秘蔵の貞宗を吉政に授けた。
吉政は三成が下痢を患っていると聞いたため、韮雑炊と薬を勧めた。
三成は「こうなっては薬を服用しても意味があるまい。田兵もおかしなことを言うものだ」と言ったが、
吉政が「命を救うためではなくお苦しみを和らげるためです」と勧めたため、三成は承知して保養した。
三成が囚人となってもいつも通り「田兵(田中兵部大輔吉政)」と言ったのは、さすが秀吉の寵臣だけはある。

しかし太閤御在世の時に伏見城で家康公と田中吉政が碁を打っていた時、家康公に助言する者が多かったのを見た三成が
「この碁は敵が多いため、田兵の負けであろう」と言い捨てたのは、おのれの権威を誇って無礼をなす悪人と言うべきであろう。

また三成が小西行長、安国寺恵瓊とともに囚人となった時、家康公から服を与えられた。
小西は「これほどのご厚情を受けようとは」と恥ずかしがり、
安国寺は何も言わなかったのに対し
石田は取次に対して「この小袖は誰から賜ったものだ?上様から?秀頼公のほかに上様がいる者か」
とカラカラと笑ったため、みな石田を憎んだという。



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「博多記」から神屋宗湛

2023年04月16日 16:20

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/15(土) 19:04:07.05 ID:9+E2Bn0r
「博多記」から神屋宗湛

神屋宗湛は肥前国唐津に仮住まいをしていた。
そのころ天下に名の知れた茶人である千利休や天王寺屋宗及(津田宗及)にも会い、自分も名を世上に知らしめようと唐津を出て入京した。
茶道において有名な京大坂の僧俗の間でも抜きん出ていたため、秀吉公がはなはだ感心なさった。
天正十五年(1587年)正月三日、秀吉公が大坂城で諸大名を招き茶会をなされたときも宗湛を召して茶をあがらせた。
この時、石田三成の取り持ちで名器を秀吉公に進上した。
虎皮二枚、豹皮一枚、照布(上等の麻布)二編、沈香一斤であった。
天王寺屋宗及がこれを取り次いだ。
このときから秀吉公の寵を受け、茶会でも近侍し、諸大名にも招かれた。
秀吉公の弟の大和大納言秀長卿も、大和郡山城に在城されていた時も参謁した。
こうして秀吉公恩顧の者となったため、秀吉公が筑前に下向された時もつき従い、(島津軍により)焦土となった博多を御覧になった時も御供した。
また天正十五年六月十九日、秀吉公は御陣所にて神屋宗湛と島井宗室にお茶をくださり、
二十五日には筥崎赤幡坊で秀吉公へ宗湛は御茶を立てた。細川幽斎も御相伴であった



「博多記」から島井宗室についての話をふたつ

2023年04月14日 20:14

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/14(金) 16:51:10.92 ID:q22LVapy
鶴田自反「博多記」から島井宗室についての話をふたつ

島井宗室の家に名物の楢柴という茶入(楢柴肩衝)があったのを、秋月種実が所望した。
秋月が押しかけるという風聞があったため、島井一家は宗室に「秋月に譲ってしまえ」と意見した。
こうして秋月から遣いがきたため、宗室は数寄屋で饗応し、楢柴の茶入れを渡した。
使者が門外に出るやいなや、宗室は数寄屋を崩した。
秋月からは楢柴の茶入の礼として大豆百俵が参ったそうだ。
そののち秀吉公が島津征伐に御下向の時、秋月種実は嘉麻郡芥田村までまかり出て茶入を献上したという。

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/14(金) 16:52:27.12 ID:q22LVapy
秀吉公が大坂城で島井宗室をお呼びになったため、島井宗室は夜に日を継ぎまかり出た。
大坂川口で石田三成が出迎えて宗室に言うには
「このたびその方を呼んだわけだが、朝鮮征伐を秀吉公が思しめした。
その方は朝鮮にも度々渡海いたしておるため、詳細をお尋ねになるであろう。
そこでこのように申し上げよ」
といちいち申し合わせた。
さて秀吉公が御対面あそばされ
「このたび朝鮮征伐を思い立ったため、その方を呼んだ。
ついては思うことをいちいち申せ」
との御意であったため、宗室は
「朝鮮は韃靼につづく要害の地で日本とはかなり異なります。
征伐はなさらぬが良いでしょう。」
と石田三成の教えの通りに申しあげた。
ことのほか秀吉公は御機嫌を損し
「われが思い立てば、唐土四百州を押し潰すことでさえ、たなごころをかえすほどである。
商人ゆえにそれさえも知らぬようだ」
と仰せになり、奥にお入りになられた。
宗室はこれ以来、秀吉公に呼ばれなくなったという。



744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/14(金) 19:29:09.22 ID:0Zo8UGwy
https://i.imgur.com/alxP07H.jpg
https://i.imgur.com/7rDgat9.jpg
天下三肩衝と言われた楢柴肩衝といえど命には換えられない
(大豆百俵は安すぎるけど)

徳川家康、贔屓について語る

2023年01月18日 19:35

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/17(火) 22:06:13.58 ID:an6A5pJj
武家閑談」から「徳川家康、贔屓について語る」

権現様の御言葉によれば
「侍の贔屓強さといえば、今時のものは偽である。
まことの贔屓というのは佐竹義宣が石田治部(石田三成)を贔屓したようなのをいうのだ。
治部が結城少将(結城秀康)を証人として佐和山に送られる時、佐竹は
「道中で治部を討とうという者がいれば我らが相手となる」
と言って人数を出して待機していたいう」

「駿河土産」には「佐竹義宣は律儀なるもの」としてほぼ同じ話があるが、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11433.html
律儀なる佐竹義宣

「律儀」とはちがい「贔屓」だと特定の人物に対してだけ、となって意味が異なる気がする



569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/18(水) 20:24:02.20 ID:/Jl3ViJy
武家閑談」には、上の贔屓の話の前に秀忠の律儀の話に家康が正信を通じて苦言を呈した話もあった。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4879.html
徳川秀忠「内府様の嘘、自分の嘘」
(昔出ていたこの話では「嘘」とされてるが「武家閑談」では「何事を言っても」となっている)

親の加賀守の分別を以て

2022年12月16日 19:23

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/15(木) 22:49:24.71 ID:wmHpMfPX
これは要らぬ義にて御座候へども、そのあらましを書き付けておく。

関ヶ原の時、国大名衆の中でも、分別を以てその家を恙無く存続させた人物としては、
鍋島加賀守(直茂)と申し、今の鍋島殿(勝茂)の親父が有る。その当時までは達者で居られた。

加賀守は御所様(徳川家康)が東へ御馬を出された事を聞くと、
「おそらくその跡で御謀反を企てる衆が出てくるだろう。御所様への御馳走として、
国大名衆はあらかたその御供に参ると聞いている。
我が家は東への御供を仕らないが、国を失わないための分別が有る。

銀子五百貫目を東へと持って下り、尾張国から御所様御分国は申すに及ばず、上杉景勝との境目までの
国々の町方にて、五貫匁程づつ、見合い見合いに兵糧を買うために、その町々の年寄共に預けおくべし。

上方に事が起きたとの情報を聞いた時、御所様へ申し上げる内容としては
『鍋島は御所様への御馳走をする覚悟であった所に、上方が蜂起したため、もはや鍋島がそちらへ
出ることは非常に困難になりました。ですのでこの兵糧は我々には必用がなくなりました。』
そう云って、町々において兵糧を差し上げ奉るように。」

そのように申し付け、奉行三人を東へ差し下した。

御所様がはや宇都宮に到着したのと等しく、治部少輔(石田三成)の謀反の情報が入った。
かの鍋島の者共は御所様に先の御断を申し上げ、早くも宇都宮において兵糧を差し上げた。
そして奥州境目までの兵粮米を買い置いていた事を目録にして、尾張からの兵糧米を進上したという。
この時御所様の御分別にも「さては鍋島、心中は別状無い」と思し召したと聞こえている。

鍋島の奥意は、実際には状況を伺っていたのだと言われているが、親の加賀守の分別を以て
(改易で)国から離れる事が無かったのだと、世間ではその頃専ら申していたという。

川角太閤記



関ヶ原前の緊迫した通信事情

2022年10月04日 19:12

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/03(月) 19:27:03.40 ID:HQYAPPYE
慶長年中卜斎記』より
関ヶ原前の緊迫した通信事情

(七月十九日申の刻)増田長盛から石田、大谷蜂起の風聞を知らせる書状が家康方に到来。家康は写しを先手に遣わした。また、急ぎ代官衆に命じ、百姓による一里飛脚を宇都宮まで整備した。その後も風説あり、風説は収まるなどと真偽不明の書状が何通も届き、すべて写しを先手に送った
(二十一日)家康が岩槻に渡御してから上方の飛脚と書状が届かなくなった。その子細は織田常真が敵になり、美濃関ヶ原に軍勢を置き書状と飛脚を通さなかった。天を飛ぶよりほか、地上を歩いて届けるのは無理だと取り沙汰された
(二十二日)金森法印のもとに石田から書状が届いたが、金森は書状箱を開けず封をしたまま家康に差し出した。その状の内容は誰も知らない
(二十四日)この頃、上方からの飛脚状は3、4寸(10センチ前後)四方で結った髪の中に入れてやってきたそうだ。編笠の緒により混んで来たものもあったという。この二人が誰の遣わした使者だったかは忘れた
(八月十日、江戸)家康はご機嫌がよく、料理の間に午の刻にお出になり、「俺が料理をする。鶴を料理しろ」とおっしゃったので鍋を掛け火を起こした。御前には本多忠勝、某(卜斎)、全阿弥の三人がおり、料理は忠勝にご馳走され、家康は囲炉裏の近くにおられた。どこから届いたものか、家康はいかにも細かい字で書かれた書状を目に近づけてご覧になった。そして「去る朔日(ついたち)に伏見城が落城した」と誰にいうでもなくつぶやき、西の方角を向いてはらはらと涙を流された
(二十八日)福島、池田から書状到来。去る二十三日に岐阜城を落として首を進上した。川を渡って陣取りしたので御出馬あれとの内容。家康は「首は芝口に架けろ」と命じた
(九月三日、小田原着陣)永井直勝のもとに小早川秀秋の使者が到来したので報告すると、家康は「せがれ(秀秋=年が若い者をいやしめる蔑称)の言うことは真実ではないから取り合う必要はない」と命じた



老いたりとも槍の又左

2022年09月29日 15:54

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/28(水) 21:56:23.61 ID:TRfck96B
利家夜話』より
老いたりとも槍の又左、というお話
長いので要約、かぎかっこ内のみ読み下し

秀次事件で連座しそうになった浅野長政親子
石田治部と増田右衛門と仲が悪く密告され、左京(幸長)は舅の利家を頼った
利家はさっそく、秀吉と北政所を密かに訪ねようとした
すると、伏見城の城門外には抜き身の槍がわざとたくさん並んでおり、奉行が左京を挑発しているようだった
それを見た利家は乗り物から下りて、激怒する

「おのれら何事ぞや。今は日本の侍は申すに及ばず、唐まで従ひ中、浅野弾正(長政)父子程の者、自然不届の事に極り御成敗なられ候とも御門際に抜身を仕まつること、さてもさても沙汰の限りなり。左様の事をば奉行の奴原知るまじ。算用の事や人の口にて痛き申す事などは存ずべし」と音声高らかに叱った
「おのれらめ。その槍の鞘はめましき(お飾りくらいの意か)か」と怒ると、御威光を恐れて奉行衆は櫓の中で小声になり、「さやはめ候へさやはめ候へ」と申したので、さっと鞘をはめた
お供していたものは、かように気味のよいことは見聞きしたこともない、初めて見たと話した

なお、前後に磯貝なる者が「似せ判」をしたとあるんですが、これはなんなんでしょうか



421 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/09/29(木) 17:35:41.44 ID:GnixVJCR
>>419
幸長の舅って利家でした?と思ったけど婚約だけしてたんだね

戸川記に見える関ヶ原合戦の模様

2022年08月10日 19:06

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/09(火) 21:33:24.95 ID:OpEL8oi0
関ヶ原の御陣は、(小早川)金吾秀秋の裏切りがあり、大谷刑部(吉継)がここで命果て、
その他の上方勢は総崩れとなって伊吹山の方へ敗走した。島津の一手のみは備えを崩さず海道を直に
引き退いた。他家の落人も、これを頼んで続いて行った者は、大阪まで無事に引いた者が多かったという。

肥後守(戸川達安)は加藤嘉明の先手に加わり、治部少輔(石田三成)陣に迫った。
すると石田家の者六、七十騎が柵を破り一同に突出した。これに嘉明勢は左右に開き押し包み、
一人も逃さず打ち殺した。
この手の惣衆はその側に備えて、抜け落ちの者があれば打とうと、先手にここは働かせて、その他は
後ろで見物していた。他家の衆はこれを見て、「さても見事なる討ち様かな」と称美した。

三成は軍評議のために他の備えに行ったままで、我が陣に帰ることも出来ず敗走した。
嘉明の先手と戦い斬死した大将は、島左近であるという。

関ヶ原の没落後、佐和山の城も屠られた。その時肥後守も諸勢と一同に乗り込んだ。
そして家臣の与右衛門が兜首一つを取って肥後守へ差し出した。この与右衛門は合渡川の戦いに於いても
働きがあった。故にこの兜は与右衛門に与えられた。
この兜は後々まで岸本家の家宝となった。

戸川記

戸川記に見える関ヶ原合戦の模様



331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/10(水) 10:50:59.00 ID:LosKS1LF
死に体の石田陣に詰め寄るヘタレ共でしたw

奸臣・石田三成と忠臣・浅野長政

2022年07月10日 13:10

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/09(土) 21:34:26.58 ID:2gq925Tz
朝野雑載」から奸臣・石田三成と忠臣・浅野長政

太閤は薨ずる時に「喪を秘すように」と御遺言されたにもかかわらず、石田三成は家臣・八十島助左衛門を家康公に遣わして告げてしまった。
その後、浅野長政が「太閤口切の茶壺です」といつものように家康公に持ってきたが
家康公は顔色を変えて「茶壺は庭に捨てよ」とおっしゃった。
浅野があわてて理由を尋ねると
家康公「すでに太閤が薨じられたことは石田から聞いているので、このような策略は無駄である。
だいたい貴公は昔、太閤から御勘気があったのを、我が取り直したというのに忘れられたのか」
すると浅野長政が「ああすでに石田が申したのですか。
わたしも貴殿の旧恩を忘れたわけではありませんが、御遺言ということで近臣みなで喪を秘すべし、と誓ったのに。
すぐに破るとは神罰を省みない不義の至極であります」
と申したため、家康公も御心をやわらげた。
そののち三成が佐和山に蟄居になったのち、家康公は何を思ったのか、空き家となった大坂の石田三成の屋敷で居住なさった。
そののち、家康公は西の丸に移られるということで増田長盛・長束正家は家康公のために大広間と天守を建て奉った。
増田・長束は大広間・天守を進上しただけではなく、土方雄久・大野治長・浅野長政の陰謀(家康暗殺計画)も告げるという、一国を賜るべき大功もなした。
それなのに関ヶ原ののち、長束正家は切腹、増田長盛は流浪の身となり、土方雄久と大野治長は召し出された。
また浅野長政は五奉行とはいえ秀吉公御台所の兄弟であった。
太閤の御遺命を守って内府に知らせなかったばかりか、内府を刺殺しようとしたため、いかなる刑罰にも値するところ、かえって子孫が代々繁栄するところとなった。
これも主君に忠を尽くしたのを、内府は賢将なので御心に感じなさったゆえであろう。
もしくは忠臣に天佑が味方したゆえ、かく栄えているのであろう。



士たる者は、平生より

2022年06月27日 16:03

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/26(日) 22:05:18.83 ID:mmbd0jN2
真田左衛門佐信仍(信繁)(本書に、世に幸村と云うは誤りなりと云々)は、家康公に御敵対申す始めより、
千子村正の大小を常に身を放たず帯していたという。村正の道具は、徳川家に祟るという説を真田が聞いて、
調伏の心としたのであろう。士たる者は、平生よりこのような忠義を含み、心を尽くすべし。

また石田治部少輔(三成)は悪しからざる者である。如何なる人であっても、各々その主人のために
命を軽んじ、義を立てて事を行う者は、敵であっても悪むべきではない。これは君臣共に心得るべき
事である。

これは水戸黄門光圀卿は宣われた事だという。

新東鑑



「朝野雑載」より六角義郷の話

2022年03月08日 15:20

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/07(月) 20:13:21.67 ID:o+u3g8Om
朝野雑載」より六角義郷の話

義郷の父である六角義秀は近江国守護であったが暗愚の将であったため近江の大方は攻め取られ、家臣にも所領が奪われ、義郷が相続したのは十八万石に過ぎなかった。
しかも石田三成の讒言により義郷が死罪になりそうだったのを、秀吉公により名族ということで領地没収のみで許された。
さて三成が義郷を讒言した理由だが、義郷の家人、多良尾彦六入道道賀というものの娘、おまんというものが有名な美人で義郷の妾となっていたのを
三成がうらやみ、道賀に頼んでおまんを所望したのを、主君の妾だとして道賀が断った結果、義郷を殺して妾を奪い取ろうと思うにいたったということだ。
義郷浪人後、おまんのことを聞きつけた関白秀次公はさっそく聚楽第に呼び込んでしまった。
三成は大いにあきれ、この上はと秀次公も讒言した結果、おまんはほかの三十余人の秀次公の女房たちと共に首を刎ねられてしまったということだ。
このように三成が多良尾の娘を取ろうと、罪なき義郷、秀次、および両家一族、幕下の諸将やその家族まで幾千万人も死罪、追放、流刑にしたためその怨念が石田にかえってきて
その身はもちろん、一族縁者家人までことごとく断絶し、末世にいたるまで大悪無道の名を残した、なんとあさましいことだろうか。

六角義郷:六角氏の子孫を称した澤田源内の偽書「江源武鑑」に出てくる架空の人物
ただし「江源武鑑」では三成が義郷を讒言した理由について、家人同士が争って三成側に死者が出たからとしている

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/07(月) 20:25:17.89 ID:o+u3g8Om
ついでに多良尾道賀(多羅尾光俊)はたしかに娘のおまんを秀次に側室として送り込んでいるが
六角氏没落時点で六角を見限って信長についている
また「江源武鑑」では義郷が秀次に連座した理由として、義郷の部下である鯰江権佐の娘のおこほ、が秀次の側室になっていたからとしていて微妙に違う



【ニュース】細川忠興が記した書物の裏に石田三成らの自筆書状

2021年09月18日 18:40

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 10:21:23.91 ID:heYgV3tr
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210917/k10013263731000.html
NHK 細川忠興が記した書物の裏に石田三成らの自筆書状

2021年9月17日 6時27分

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、細川家が九州の有力大名となる礎を築いた細川忠興が記した書物の裏に石田三成古田織部の自筆の書状があることが
東京大学史料編纂所などの調査でわかりました。専門家は豊臣秀吉に仕えた武将たちの素顔がうかがえる貴重な史料だとしています。

細川忠興は戦国時代から江戸時代初期の武将で、豊臣秀吉などに仕え、細川家が九州の有力大名になる礎を築いたほか、茶道などにも通じた文化人としても知られています。

細川家の史料を保管している東京 文京区にある永青文庫と東京大学史料編纂所は共同で巻物になっていた忠興が記した書物を調べたところ、忠興が受け取った書状などの裏側を再利用していることがわかりました。

その中には、1586年ごろ、秀吉に一緒に仕えていた石田三成古田織部が自筆で忠興に宛てた書状が含まれていました。

石田三成の書状では、秀吉から受け取った金の使いみちについて忠興に「自分たちは恵まれているのだから、金をため込むのではなく周りに配るよう」説いていて、
専門家は押しつけがましいともとれるほど生真面目な三成の性格や人間性がよく表れているとしています。

また、古田織部の書状は、織部を名乗る前の「左助」という名前で「刀を貸してほしい」という趣旨が記されていて、専門家はほとんど残っていない織部の若い頃の書状だとしています。

戦国時代の武将の書状は、公的なものほど書き記す家臣によって代筆されたものが多く、調査を行った史料編纂所の村井祐樹准教授は「緊密に交流する様子が
自筆の書状からわかり、豊臣秀吉配下の武将たちの素顔がうかがえる貴重な史料だ」と指摘しています。

46 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/18(土) 10:22:16.34 ID:heYgV3tr
今回、調査されたのは細川忠興が能に関して記し、その後、巻物にして保管されていた書物です。

調査を行った東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授によりますと、一部で裏側に書かれた文字が透けて見える部分があり、何かの裏紙を再利用したものと思われていましたが、
詳しいことはわかっていませんでした。

解体すると15点ほどの書状や記録の裏紙が使われていました。

この中には、石田三成古田織部、それに前田玄以といった一緒に豊臣秀吉に仕えていた武将から忠興に送られた書状が5点、忠興が自分で記した書状の下書きが3点、
闘茶と呼ばれるお茶を飲んでその銘柄を当てる当時の遊びを行った際の記録が3点などでした。

石田三成の書状は、前段部分であいさつとして忠興が参加した茶会の感想を尋ねたあと、秀吉からもらった金の使いみちについて記しています。

三成の自筆の文字は黒くはっきりと記されていて、後段にいくにつれ書きたいことを詰め込むように行の間隔が狭くなっています。

また、古田織部からの書状では、忠興に対して「刀を貸してほしい」という趣旨に続いて、「あまり大きいものは困る」と細かい要望を記しています。

専門家はこの時期に行われた後陽成天皇の即位式に持って行くための刀を借りる用件だったと考えられるとしています。

古田織部からの書状は合わせて3点あり、いずれも織部を名乗る前の「左助」という名前が差出人として記されていました。

このほか、忠興が記した書状の下書きには、秀吉配下の武将である蒲生氏郷や高山右近などと連れだって京都の相国寺に行く途中に、予定を変更して秀吉のところに行ったことが記されています。



47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 11:46:31.16 ID:Y7Yr55+I
専門家もツッコんでるけど
褒美としてもらった金の使い道について横から口出しするの、まじで押し付けがましいな

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 12:13:26.31 ID:4EEgrKPK
へうげものキャラでそのまま想像できるなw

51 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/18(土) 15:34:47.84 ID:4JKoITUS
>>49
豊臣秀次からも借金が有ったと言うし、本能寺から豊臣政権下で戦も重なってたとはいえ、現代感覚だと道楽とも取れる茶の湯やその他の趣味にも三成からチクリと言われちゃうほど注ぎ込んでいたのかねぇ?

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 15:49:47.42 ID:akBVD7N6
三成面白いキャラしとるわ

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 13:55:19.49 ID:0ISUQ5f6
まぁ三成の性格からして公儀から貰ったお金なんだから
公的な事(部下への褒美とか内政)に使えよって考えなのは理解できる
忠興は数寄関係でで金使ってたし

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/19(日) 01:28:08.62 ID:mMAai4VO
>>51
刀貸してくれって織部に言われる辺り
見栄えの良い刀も数持ってたんだろうなって想像つくし
甲冑のデザインしてたって事は相応に色んな甲冑も所持してるだろうなって思うと
趣味に思いっきり散財してそうな感じではある

雨森九太夫のこと

2021年09月15日 17:42

530 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/14(火) 22:39:53.85 ID:eGQD6OyZ
雨森九太夫のこと

土佐雨森氏の初代である雨森九太夫氏康は元は近江の人で親子で石田三成に仕え、小田原の陣から朝鮮の役など
秀吉の数々の戦に参加した兵である。

石田家に仕えた時分は九兵衛と名乗っていた。隙を見て契約を迫る白いアレではない/人◕◡◡◕人\ボクトケイヤクシテマホウアシガルニニナッテヨ。

関ヶ原の合戦でも当然西軍に属し、前哨戦である九月十四日の大垣表の戦では2つの首を取って島左近に称賛されたという。
翌十五日の関ヶ原本戦でも奮戦したが苦戦し、そして彼の属する西軍は敗北・潰走する。

生き残った他の西軍将兵と同様に戦場を離脱しようとする九兵衛であったが、落ち武者を捕えんとする東軍の検閲は厳しく多数の元仲間たちが
次々と囚われていた。

そして九兵衛の前に立ちはだかったのは・・・
人斬り兵部が率いる井伊の赤備えであった。

(# ゚Д゚)「何者だ!?」

赤鬼どもに強く詰問される九兵衛。絶体絶命である。

(;゚Д゚)「そ、それがし・・・」

(# ゚Д゚)「あぁん!?」

(;゚Д゚)「山内対馬家中の者でござる!!!」

九兵衛は己が知己に山内家の者がいたことを思い出し、思いっきり嘘をついた。

( ゚Д゚)「なんだ味方か、よし通れ。」

(;゚Д゚)「失礼仕る」

こういうやり取りだったかどうかは定かではないが、いずれにせよ山内家の家臣を詐称したことで彼の命は関ヶ原の露と消えることはなかった。

雨森九兵衛氏康はのちにこう語っている。

( ゚Д゚)「山内家の御威光を借り不思議と命助かり申した。」

そして戦の論功行賞も終わり、慶長六年(1601年)山内一豊は遠江国掛川・5万1000石から土佐一国・9万8000石への加増転封となった。
この時、雨森九兵衛は山内家に仕官し関ヶ原の縁があってか召し抱えられることとなった。

石田家時代に450石だったが600石での召し抱えであったという。

九兵衛は九太夫と改名し、山内家によく仕えてのちには大坂冬の陣や福島家改易の際の広島城受け取りなど、大いに働きその天寿を全うすることと・・・

はならなかった・・・。

今宵はここまでに致しとうござりまする

参考:島原の乱の使者の戦い(4)土佐藩の場合
https://www.shokei-gakuen.ac.jp/univ/wp-content/uploads/sites/2/2019/07/86509874ddc951b05fc5872251d94c78.pdf
※PDF注意



532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/14(火) 23:45:30.33 ID:oB2QnFu8
土佐の酒乱王となんかあったのかな

533 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/15(水) 07:23:51.13 ID:EnSSGzM9
>>532
アル中とは特に何もないけど主命に殉じたと言う感じかなぁ。

534 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/15(水) 07:48:23.10 ID:aPQMpRJM
雨森って見ると、はだしのゲンを思い出すのう

おどりゃクソ森! ギギギ…

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/15(水) 11:00:26.27 ID:4zUx+g5Y
バカボンパパの声を・・

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/15(水) 13:47:38.18 ID:kME7rw3o
雨森って言ったら浅井氏のトリオユニットの一員だけど
元近江の人って事だし親族だったのかな

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/15(水) 14:16:33.21 ID:r3+yBC2H
雨森氏といえば、キッセイ薬品の創業者は雨森氏だったそうな
雨森氏の紋が橘紋なのにちなんで橘生化学研究所
のちに読みを改めてキッセイに

538 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/15(水) 15:17:12.95 ID:bttUh3TW
近江なら山内一豊も長浜にいたことがあるし、その時に何か縁が既に有ったのかも知れないなぁ。

山内家仕官にあたっては山内康豊の推薦もあったみたいだし

540 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/15(水) 23:45:05.51 ID:j9vATaNG
>>536
>>537

https://kijidasu.com/?p=30981

恐らく一族に間違いはないと思う。

蒲生氏郷は藤原房前の大臣六代の嫡孫

2021年09月07日 18:08

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/07(火) 17:03:23.04 ID:3jQ6lCF7
蒲生氏郷は藤原房前の大臣六代の嫡孫、鎮守府将軍俵藤太秀郷の後胤である。

永禄十一年に織田信長公は江州に討って入り、佐々木(六角)を攻め傾けられた時、
氏郷の父である蒲生兵部太夫賢秀が信長の味方に参り、子息鶴千代十三歳の時、証人として
信長へ進じると、近習に伺候され、奉公した。

彼は他と異なるほど利根発明であったため、信長の御意に叶い、ある時宣われた、
「汝が眼晴は常ならない。おそらく只者ではない。我が婿にするぞ。」
と、契約された。

元亀元年、信長が越前国に発馬の時、氏郷は十五歳にて鑓を合わせ高名を成した。これが初陣であった。
その後濃州岐阜の城にて元服あり、その頃信長は弾正忠であったため、「忠」の字を給わって、
蒲生忠三郎賦秀(または教秀)と名付けられた。
秀吉公の代に至り、「秀」の字を憚って氏郷と改められた。
元亀元年の初陣より文禄四年まで、氏郷自身の高名は三十六度であった。

太閤秀吉の時、氏郷を羽柴飛騨守参議宰相に叙任された。初めて南伊勢五郡十二万石を領した。
その後数度の忠戦、秀吉公の感心斜めならず、その賞とりて奥州会津七十万石を給わり、また
奥州での軍功によって二十万石の加恩地が下され、それらを合わせて百二十万石となった。

しかし、石田三成が企んだ如く、関白秀次公を思いのままに亡ぼしてから、直江兼続との密談の通り
蒲生氏郷を失わせる事を図って、文禄四年の春の頃、瀬多野掃部と内通し、能く示し合わせて
氏郷を掃部の茶の会盟に招き酒を勧め、毒を飼った事によって、同年二月七日、氏郷は四十歳にして
俄に心身悩乱し逝去されたのは、いたわしいことである。

近世軍記

氏郷の通称の忠三郎が、信長の官途名の弾正忠から、というのは珍しいパターンの気がするのだけど、
こう言った例って他にあるのかな?

参考
思いのままに謀を廻らせた


思いのままに謀を廻らせた

2021年09月05日 17:57

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/05(日) 15:51:47.61 ID:Icad6qo4
ある時、石田三成は直江山城守(兼続)と、ただ両人差し向かい、深夜まで酒宴して遊んだが、
密かに山城守に向かって申した

「侍と生まれ弓矢に携わる者で、天下に望みがないのは男子と称するに足りない。
差し当たって秀吉公は、匹夫であったと雖も天下をその掌握に帰された。
私も一度は四海を治めたいとの深い思いは止むことがない。
しかし秀吉公御在世の家は思い立たない。御他界ある上にて、旗を揚げんと思う。

御辺も景勝の逆心を勧め、旗を揚げさせ。天下を覆せば景勝を滅ぼし、御身が関東の管領と
なり給え、我等は将軍となり、京・鎌倉の如く、両人にて世を治めるべし。」

直江も大胆なる者であったので、この謀事を快く思い、

「左用思し召し立っているのならば、上杉家中のことは一向に私に任せ給え。
それについて、謀事を廻らして見るに、蒲生会津宰相氏郷は武道逞しき人であり、
御所公(徳川家康)に差し続く大将である。またこの人の子の藤三郎秀行は御所公の婿であり、
領分は奥州と下野に接している。これは御所公の後ろの強みであり、このため事なしである。

たとえ貴殿が思い立ったとしても、御所公、氏郷と指し続いていれば、中々退治するのは難しい。
先ず氏郷を殺し、そのあとに景勝を国替えさせ、東西より立ち挟んで討ち果たすことが然るべき」

と囁いた。これを三成は承引し、氏郷を毒害し、その後で藤三郎秀行の家老達をそそのかり、
蒲生家中に大いなる騒動を起こさせ、その咎にて秀行百二十万国を没収し、僅かに十八万石にて
野州宇都宮に所替させ、会津には上杉景勝を入れ替え、思いのままに謀を廻らせた。

近世軍記

石田三成の野望と陰謀について。まあ典型的な三成陰謀論みたいな話ですが、むしろこのくらいのほうが
魅力的な気もする。



三家については以上の通りであり

2021年08月05日 17:23

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/05(木) 16:06:56.12 ID:tRQNg+FM
上杉景勝公は石田三成と陰謀を示し合わされた

石田三成が上方に於いて逆謀の色を顕せば、諸国より三成と内通していた者達が打って出て、
徳川家康と取合いを始めるだろう。私はそれを聞いて兵を発し、奥羽筋を打って上方と首尾を
あわせるべきか。であれば、仙台の(伊達)政宗(筆者注・この頃は岩出山城)、出羽の最上(義光)、
越後の堀(秀治)、この三人は燐競にて大身であると雖も、三人共にこの景勝の、物の敵とは思われない。
何故ならば、

一に、堀久太郎(秀治)は昨今の若将であり、弓矢の術を知らず、家法正しからずして家中は
二、三に割れ、殊に上方風であり。押し掛けには強いが後道に弱く、領民は堀家の新仕置に飽きはて、
古主である上杉家を慕っている。
また堀家を取り立てた太閤の御厚恩を忘れて家康に従う不義の兵であるから、これを踏み潰すに
手間はいらないだろう。

二に、伊達政宗は久しき家では有るが、その父である輝宗より二代に渡って境争い、坪弓箭をも
賢く取り、政宗一身の覚悟も無類で、能き大将である。
しかし家中は前代の悪風儀に慣れ、我儘を仕る士共は、現代の新仕置を迷惑がり、それを実行しようとすと、
手荒き政宗であるとし、心で疎み身を虚しくして。家中は意志が一致していない。

また大敵であると言っても上杉家と比べれば小身である。七手組の頭が、一両備えで押し向かえば、
政宗が手を出すことは出来ないだろう。
殊に政宗の心の有り様は、弓箭の正道について誠の吟味も入れようとせず、ただその時節に任せて
敵にも成り味方にも成り、自分の家を恙無く相続する事こそ至高であるとの奥意であるから、
我が方に少しでも強みがあると判断すれば、すぐに手のひらを返し当方に頼み従うだろう。

三に、出羽の最上(義光)は数代相続の家であるが、弓箭について然りとするような誉れが無く、
身にかかる火を払うばかりにて、他国遠国へ取り掛かるような武道のこだわりも無く、
家中の者共は事毎に居丈高にばかり仕り、武功誉れの者が有っても、新参譜代筋どちらでも、
小身であれば家老や出頭人の前では頭を挙げさせぬ故に、彼らが十考えている内三、四を言ってすら、
家老や出頭人の威に押され、一言を躓いただけでも善悪の批判を受ける。

そのため言葉少なく手短に計り言おうとして、その理屈が伝わらず、四つ言ったとしてもその内三つは
みな戯言となり、残った一つの理も、相手には生聞こえとなり、それを言った人物が不合点者と
取りなされる。故に以後は控えて物も言わなくなる。或いは、いかほど能き者であっても、口が
不調法であっては面出しも成らぬ。故に下の理が上に達しない。

最上家中では新参であっても大身であれば、譜代を押しのけ上座に在り、我意を振る舞う。
元より古参にて大身であれば、心は鈍くても我儘に口をきく。
執権に於いてこのような国法なのだから、軍法も未練なものであろう。であれば、上杉家に対せば
手に立つような事はない。

三家については以上の通りであり、であれば、石田が上方にて兵を起こせば、私は奥北国を
討ち靡かせるか、でなければこの大身の三家には押さえを置いて、家康の持つ関東へ働き出れば、
常陸の佐竹を始め当方への志の衆、東国にも多いのだから、攻め上がり家康を取り挟んで
一戦を遂げれば勝利を得るだろう。」

管窺武鑑

上杉景勝の堀家、伊達家、最上家への評価について。



902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/05(木) 16:37:19.76 ID:WRarKSNv
管窺武鑑って黒歴史ノートなのか

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/12(木) 17:35:12.09 ID:fqhsEK9r
>>896
>>901

べらべらよく喋る景勝だな
無口って誰が言ったんだ

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/12(木) 19:47:27.12 ID:TruHcJ9v
>>920
上杉景勝は一言も喋ってない。
心の声として芥川隆行のナレーションが流れてるだけだ。

親類二人を迎えに越し申し候

2021年06月10日 16:45

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/10(木) 10:06:50.60 ID:EvlcOtgV
直江山城守兼続は、木曽(義仲)殿四天王の樋口次郎兼光の末である。
ある時、聚楽御城中において、諸大名列座されている中、伊達政宗が懐より金銭を取り出し、
直江山城を呼んで、

「城州、これを見よ。昔にはない物である。このように金銀にて銭を鋳る。見事なるものである。」
と、直江にこれを渡して見せた。
山城守は扇を抜き、少し開いて金銭を請けて、跳ね返しながら見て「実に珍物に候。」と言った。
この様子を政宗見て「城州、手に取って見よ。」と言われた。これに直江は申した

「私は輝虎(謙信)の目利きにて、用にも立つべきものと思われ、景勝に付けられました。
何時であっても采配を執る手であり、このようなむさき器は触らぬものであります。」
そう言うと金銭を畳の上に、扇より移した。これに政宗は赤面し、一言の返答も無かったという。

また、慶長三年、会津に景勝が移封される砌、横田式部という者が、召使いの茶道坊主を斬罪とした。
しかし、元よりこの茶坊主には誤りが無かったため、坊主の親類大勢が決起した。

丁度この頃、国改として京より前田徳善院玄以、石田治部少輔三成が当地に下向しており、
かの親類達はこの両人に対して訴えた。玄以、三成は「その事は直江方に申すべし。」と指図したため、
彼らは直江方に詰めかけた。

兼続は彼らに対面し「皆々の申し分は尤もである。であれば、主人である横田式部より、
詫び言として銀五十枚を出させるべし。それにて堪忍せよ。」と扱った。しかし訴訟人たちは
これに納得せず、怒って帰っていった。そして再び玄以、治部に訴えたが、彼らはこれを
取り合わなかった。そのため又山城守方に詰めかけた。

直江は「そう言うことであるのなら。銀七十枚を出させよう。」と扱いをしたが、彼らは
「七十枚が七百枚であっても、死したる人が帰ってくるでしょうか。中々分の無いことを
申される!」と、ごねた。
兼続はその時、札を一枚取り寄せ、一筆書きにて、直に持って出て、彼らに対し「訴訟人共の内、
張本人は幾人あるか」と尋ねた。「その坊主の兄と伯父であります。」と、両人出た。
彼らに対し山城守

「どのように扱おうとも、汝らは納得しない。もはやこの上は、かの坊主を再び今生に
呼び還さねば、汝らの心に叶わないであろう。ではあるが、誰であっても呼び返すための
使いが無いので、その者の兄と伯父の二人を、迎えに遣わそう。
この高札を持って早々に地獄に参り、閻魔王に見せて、かの坊主を召し連れて帰るべし。
乃ちその文を聞け」

と、山城守は高札を読んだ

『未だ御意を得ずと雖も、一筆申し入れ候。されば横田式部が召し使っていた茶道坊主を、親類どもが
呼び戻したいとたって申すに付き、即ち親類二人を迎えに越し申し候。きっと御返信有るべく候。
恐々謹言

                    直江山城守兼続
二月十日
  閻魔大王殿 参』

そう書き付け、読み聞かせ、かの張本の二人をその場にて斬罪し、かの高札を前に立てて、
二人の首を獄門にさらした。それ故にかの徒党達は蜘蛛の子を散らすように逃げ失せ、
以後国中で嗷訴(大勢で喧しく訴え出る)するもの一人もなく、静謐となった。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記



266 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/06/18(金) 12:03:01.16 ID:6npJKe2o
>>260
直江兼続って金の価値わかってないからただの馬鹿だねってエピソードだね
(樋口兼光の子孫というのも自称であって確証がない。これは俺は武田だから武田信玄の末裔だというレベル)

そもそも政宗の叔父の伊達実元が越後守護の上杉家の養子で謙信の長尾家は守護代
家の格が伊達家>長尾家

267 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/06/18(金) 12:07:04.04 ID:6npJKe2o
さらに上田長尾家(景勝)で相手にならない

政宗は伊達宗家の跡取りである他に三浦氏の蘆名義高の子孫でもある(女系)し結城氏の子孫でもある(女系)
母親の家は斯波氏の流れを汲む最上氏で
近隣大名を分家化している立場で、樋口某がどうこうってレベルじゃないんだけどね。

これね結局のところ戦で上杉が伊達に勝ったことない
輝宗のせいで新発田の乱がおきて
政宗のせいで白石城奪われて
伊達家は上杉領を浸食して撤退戦はしているけど伊達領は上杉に戦で奪われていない
事に関しての後米沢藩士たちの妄想日記なんだよ

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/18(金) 18:22:31.81 ID:aEvDc5Pw
>>266-267
左京大夫乙

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/19(土) 05:27:22.71 ID:G/F/j9ep
>>266
実元が養子って、新しい資料でも出て養子入り頓挫ってのが覆ったのか?

只今秀吉公御死去

2021年04月29日 17:38

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/29(木) 14:39:47.50 ID:f09WRf9y
庚午(1630年)十二月に書写、丁巳(1617)年、池田光政様が御咄遊ばした。

秀吉公の御卒去は深く秘密とされたが、この時石田治部(三成方)より八十島と申す者が
使いとして、東照宮(家康)へ内密に申して曰く

「只今秀吉公御死去」

と申し上げた。

その後、秀吉公の御使者より東照宮に、蜜漬けが届けられた。
そしてその後、浅野弾正(長政)が御使として、御肴を持参して参られるということを
東照宮に申し上げた。

普段であれば、御使者が参った時は袴、肩衣を召して御馳走遊ばされていたのだが、
この時東照宮は以ての外の御様体にて、「弾正これへ」と召した。
弾正参り、御口上を申し上げた。
神君はややあって、以ての外の御機嫌にて

「今まで、死したる人の方より、使者を以て音信が有るという事は承ったことがない。
先程来た蜜漬けにも大毒満々たる故、この庭のふみ石にて打ち破って置いた。」と仰せになった。

弾正は
「そのようなことは有りません!」と色々弁明を申し上げた。
神君は
「治部方より御死去の日、注進があり、委細聞いたのだ。」と仰せに成られた。
浅野は申した

「石田を始め、堅く誓紙を取り交わしたというのに、彼が約束を変じた故に面目を失いました。
この申し分が実際の所であり、重ねて御奉公申し上げるでしょう。」
と申した。

その心の故に、関ヶ原にて御味方仕ったのである。

烈公間話



691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/01(土) 08:27:11.36 ID:yZrxDgdY
>>689
老人に甘いものは毒、もう糖尿病なんてあったのか

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/01(土) 10:36:30.64 ID:xYlT6RcQ
>>691
米を大量に喰うから糖尿病(飲水病だっけ?)はあったけどこの文の趣旨はそれじゃない

家康の伏見城入城

2021年04月13日 17:50

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/13(火) 13:29:09.18 ID:XJHU+raM
(慶長四年二月、徳川家康石田三成等による伏見の家康屋敷襲撃の風聞などにより、伏見城の支城である
向島城へと移ったが)
「向島に御座されるのは如何か、伏見の城を明けるのでお移り然るべし」と、三奉行(長束正家
増田長盛前田玄以)が頻りに申してきた。大谷刑部少輔(吉継)が内々の使いとして肝煎と成り、
雅楽頭(酒井忠世)、帯刀(安藤直次)、式部少輔(榊原康政)が表の使いとしてこれに合意し、
四月六日、伏見城にお移りと成った。(創業記に閏三月十三日午の刻伏見の城お移りとあり)

鑓五十本持たせ、御先の小姓、その他の詰衆五十余輩が歩行にて御供をした。御乗物、鑓二本、
長刀一、挟箱二、御跡に三河守殿(結城秀康)が馬に御乗りになり、白き袷袴にて、供の衆二十人ばかり
お連れに成った。御家人については、いつであっても罷り出て御目に掛かるべしとの事で、
この日は上記の人々のみで、他には誰も御供には罷り出なかった。

慶長年中卜齋記

家康の伏見城入城について



伏見の島津屋敷に於いて、

2021年04月11日 18:50

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/10(土) 20:55:27.87 ID:028L8sFM
伏見の島津屋敷に於いて、伊集院幸侃(忠棟)を島津中将(忠恒)が茶湯に呼び、そこで成敗した。
(慶長四年三月九日)

俄のことであり家康公も殊の外ご不審遊ばした。伊集院幸侃の息子たち五人は、薩摩に於いて領分に
立て籠もったが、家康公はこの扱い(和解)のため、山口官兵衛(直友)を二度、伊奈図書(昭綱)を
一度薩摩へ遣わした。その時、治部少(石田三成)と争いになった。落着については薩摩の者が
存じている。(伊集院成敗は、根本は治部の計らいであると後に人々言い合った)

家康公は、兵庫頭(島津義弘)に殊の外御懇情であり、彼に借金がある旨を聞かれると、それを
完済するように、その借金七百枚を遣わした。

慶長五年、家康公が会津征伐のため大阪をお立ちになる頃、伏見城松の丸を兵庫頭に御預けになるのでは、
との沙汰があったが、御預けは無く、若狭少将(木下勝俊)殿へお預けに成った。少将殿は
武田万千代(家康息:武田信吉)殿の舅であった。そして伏見の城は難しい沙汰(西軍による攻撃)
出来て、少将殿は松の丸を明けて若狭国へ引き退かれた。

乱後に万千代殿御内がどのように成ったのかは詳しく知らない。

慶長年中卜齋記