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その日に目出度く御祝言を上げた

2022年12月30日 17:13

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/30(金) 13:00:00.90 ID:fPD5q2c/
>>516の続き

それから、岐阜、そのほか国々、城々へ、先の夫婦で社参したいという断りを、下向の時に申した所、
「安き御事に候。来年は夫婦連れにてお下り候へ。分国においては随分御馳走いたしましょう。」と、
方々と約束し、磯伯耆守(磯野員昌)は国へと帰った。そして翌年の六月頃、先に計画していた
調義仕り、乗物七丁の中に、小侍従と申す物書きの上手なる上臈衆を召し連れ、これを内儀のように
もてなし国を出た。

考えていたように、道先の城下においては、城主の裏方(奥方)より音信文など参った。かの小侍従は
物書き故に自らその返事を仕った。
そのように道々を罷り通り、東の四ヶ国の社参を仕り、その後清須まで戻り、信長公の御妹を申し請け、
七丁の乗物の、上臈衆、および三十四、五人の下女、はした共を入れ替え、信長公は御自分の上臈衆、
はした者以下に至るまで、御手廻り衆を御妹子に付け、これに伯耆守がお供して近江へと上がった。

その際、それまで連れていた下女達は清須に置いていったが、先に申した小侍従と申す物書きの女は、
乗物の中に入れた。それは帰国途中の城々より文などが届いた時、先の筆跡と違わないようにとの
配慮からであった。

浅井殿の領分に近づくと伯耆守は、『このように調義仕り、信長公の妹の御供をして罷り上がっております。
ですので御家中の年寄その他残らず、境目まで御迎えに出られますように。』と申し上げた。
このため浅井家中の者たちは残らず御迎えに出、その儀式、残る所無く御輿を迎え取り、御城へ直に
入れ奉り、その日に目出度く御祝言を上げた。
この時、信長公より川崎と申す侍が、商人の姿に変装し、小さ刀すら帯びず、この御祝言を見届けると
清須へと戻った。信長公はこの報告を受けると、「喜悦これに過ぎず」とお祝いされたという。

川角太閤記

お市の方の、浅井家への輿入れについて



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目出度く来年の御祝言、相調いました

2022年12月26日 19:29

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/26(月) 17:37:30.57 ID:hS9JgHQL
>>665の続き

浅井家の重臣である磯伯耆守(磯野員昌)は内々の分別に、
「天下を、この織田三郎信長が一度は取るという異見がある。また彼には妹が有るという。
備前守(浅井長政)には内儀が無く、方々より縁組について申して来ているが、どうにか分別して頂き、
信長殿の御兄弟に致したいと思っているのだが、信長への通路が敵に塞がれており、分別が成り立たない。
ところで私の煩いが東国へも聞こえたのは確かである。そこで国々へ使者を立て、手引してみよう。」

そう考え、道々の城々へ道を乞うてこのように申した
「私は当春、不慮に煩い存命も定かではない状況でしたが、両親がこれを悲しみ、神々へ命乞いをしてくれた為か、
不慮に助かることが出来ました。この時親は、東は伊豆箱根三島の明神、富士の御山へ立願をかけました。
そして神慮がこのように成ったため、そこまでの道の口を通行することを御赦免して頂きたいのです。
私は今年の六月を心懸、これらへの社参を遂げたいのです。」

そのように使者を立てて申し出た所、小田原までの間の城主は尽くこれに同意し
「御煩いの様子は承っております。さては神々への命乞いでしょうか。神慮に対し仕り通過を許可しましょう。」と、
小田原から江州までの道の口を請う事ができた。
さればとて、その夏に伯耆守は美々しい様子にて社参と称して東国へと下った。道々の城からは残る所無く馳走された。

清須まで到着した時、そこにおいて「霍乱(日射病、熱病)になってしまいました。信長公に御医者を頼みたく
存じます」と申し上げた。すると「御道中であり、安き事である。ここに暫く逗留して養生されるように。」と
御馳走を残る所無く仰せ付けられ。五、三日の間、養生として逗留した。

その夜、伯耆守は佐久間右衛門(信盛)殿をにわかに呼び寄せた。
「談合したい仔細があります。承った所に寄ると、信長公には御妹が居られるそうです。
我が浅井備前も未だ内儀がありません。そこで、御妹を申し請けたいのです。」

このように右衛門殿へ申し渡し、これは信長公の御耳に入ったが、信長公からは
「浅井との間には敵が多い。妹を送る道をどのように仕るべきか。その分別さえ確かに有るのなら
妹を遣わそう。そういう事なので直談したい。」との御返事であった。

ならばとて、伯耆守はすぐに御対面し申し上げた
「この事についての仔細ですが、今回、私はこのあと、東へと通過します。北条殿、義元、その他へこのように申します。

『道の口を通過する御赦免を頂いたおかげで、遂に社参が出来ました。この上、また御詫び言を申し上げたいの
ですが、今度は女たちを召し連れ、夫婦共に社参仕るべしとの立願を成したく、来年は夫婦ともにこちらへ
下りたいのです。』

そのように東の大名衆に御詫び言を申し上げます。夫婦連ねてという事であれば、なお以て別状は無いと、
道の口通過を免除していただけるでしょう。その同意をとりつけた上での帰りに、また御談合いたしましょう。」

翌日、伯耆守は東へと向かい、四ヶ所の宮々への社参を遂げ、北条殿、義元などへ先の御礼を申し上げ、
「来年は夫婦連ねて通行することをお許しください。」と断り申した所、案の定「安き事である。
神慮に対し仕る上は、御心安く来年、夫婦揃って御社参されるように。」との約束を堅く仕った。


そして清須に戻ると、再び霍乱気となったと申し出た。その上で
「東国ではこのように、来年妻たちを召し連れ下ることについてしっかりと申し極めました。
しかし私の妻を召し連れはしません。乗り物七丁、下女はした者に至るまで、三十四、五騎を召し連れ、
これを夫婦揃ってと称して下ります。そしてこの女共を入れ替えて、御妹を申し請けに罷り上がります。
これであれば、少しも問題はありません。」

信長はこれを聞き届け、「ならば妹を御目にかけよう。」と、伯耆守一人を召し連れて奥へ入り、伯耆守は御妹の姿を見奉った。

「目出度く来年の御祝言、相調いました」
そう直談仕り、帰国したという。

川角太閤記

続き
その日に目出度く御祝言を上げた


であれば、私の煩いは東にも響き渡っただろう

2022年12月21日 19:18

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/21(水) 19:01:33.82 ID:o5VOkXtJ
これは要らぬ義ではあるが、書き付けておく。
『信長記(信長公記)』に書かれていないと言うことなのだが、その仔細は、信長記をあらかた作った、
信長殿の家臣であった太田又助(後和泉守・牛一)が、この当時は未だ若かった故に、日帳を付けていなかった
ためだと承っている。

永禄元年午年、但し信長公二十五歳の御時、尾張一国をようやく御方に付けられたが、岐阜や伊勢などで
御競り合いがあり、尾張の内においても時々競り合いがあった。そのような時期の事である。

この時期、朝倉殿は越前より天下を望み、浅井殿は江州小谷より天下を望んだ。
同国観音寺山には佐々木(六角)承禎が、伊勢、岐阜、清須は信長殿、三州、遠州、駿河の辺り、
殊に駿河は(今川)義元、小田原には北条殿、このように方々に大きな勢力が在った。

そのような時節、信長殿は御妹を以て、江州北の郡の浅井備前守(長政)を妹聟に成されたが、
この事は浅井殿の臣下である磯伯耆守(磯野員昌の事と考えられる。なお実際には丹波守)の
分別故であると言われている。

浅井殿の家中では、この伯耆守は一大名であった故、世間にも聞こえる程の者であった。
例えば正月頃、彼が大病を煩い、もはや伯耆守はあい果てたと、東は北条家まで響き渡った。
しかしその頃、彼の大熱気、傷寒は突然持ち直した。
回復した彼は夢の覚えのような心地をしていて、何事も覚えていなかった。
「煩っていたのか?」と彼が申したことで、周りもそれに気がついた。

親、内儀達は「その事についてですが、殊の他の大熱気でありましたが、このようでは(病気のことを)
覚えておられるだろうか、と申すほどの大変な煩いでありました。」と申した所、伯耆守は心静かに分別し

「であれば、私の煩いは東にも響き渡っただろう。」と。信頼できる者たちに、物参りをする体に変装させ、
東の街道筋で情報を収集させた。彼らに「「磯伯耆守が果てたか」という話がどこまで伝わったか、
東は小田原まで聞き届けて罷り帰るように。」と申し付けて遣わした所、
「浅井殿内伯耆守は大病にて果てた。」と申す所もあり、「いやいや、思いもかけず生き延びたという。
その立願に於いては日本の神々に、『親二人が悲しむ故、立願を以て命を乞うたのだ。』」とも
取り沙汰している所もあった。

使いが帰ると、これらを伯耆守はよく聞き届けたという。

川角太閤記

続き
目出度く来年の御祝言、相調いました


姉川勝利

2018年11月22日 18:15

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/22(木) 02:44:20.60 ID:hd5SfMHy
(姉川の戦いの時)

浅井長政も叶い難く小谷を目指して敗走すると、味方は矢島郷の尊照寺・田川辺りまで追い討ちした。安養寺
三郎左衛門経世(氏種)は生け捕りとなり、信長の前に引き出された。信長はかねてよりその名を

聞き知っておられたのでその命を許され、「私はこの軍威に乗じてただちに安養寺に案内をさせて小谷を攻め
ようと思うがどうだ」と問われた。安養寺は答えて「長政は今日は敗走したといえども、父の下野守久政の勢
1,800ほども備えて城を守っていますので、軽々しく押し寄せなさるのは御遠慮あるべきでは」と言った。

信長はその言葉をもっともであるとして、「小谷はまたのことにしよう」と安養寺を助命し、そのうえ願いの
ままに小谷へ送り帰しなさった。かくて今日討ち取った敵の首を数えると3,170級。多くは徳川勢の討ち
留めたところである。信長は神君の大功を感心されて、

 今日の大功は殊更に言うまでもない。前代に比類なく後世の誰が雄を争えようか。当家の綱紀にして武門
 の棟梁というべきものである。(今日大功勝て言う可からず。前代比倫無し。後世誰か雄を争う。当家の
 綱紀武門の棟梁と謂う可き也)

以上の感状に長光の刀を添えて進上された。この刀は光源院将軍(足利義輝)の秘蔵でその後に三好下野入道
謙斎(政勝)が所持した世に優れた名物である。(原注:『柏崎物語』にこの時、信長より源為朝の用いた

矢根を進上され、御当家で槍にされたと見える)その他氏家・稲葉・伊賀の3人(美濃三人衆)も横槍の功を
賞して感状を賜り、諸手の将卒の勲功も漏らさず褒美なされ、姉川で勝利の凱歌を奏せられた。

姉川の戦い大勝により信長は頻りに礼謝の言葉を尽くされ、神君は御勢を引き連れられて三河へ凱旋された。
信長はただちに横山城を囲んで攻めなさった。大野木土佐守・三田村左衛門・野村肥後守・同兵庫頭などは
随分と防戦するも叶い難く、ついに城を渡して小谷に引き取ったため、ここは木下藤吉郎秀吉に守らせ、

姉川で討ち取った首は京都へ遣わして、義昭将軍の実検に備えて六条河原で梟首せしめた。京都では「ああ、
おびただしい首かな」とこれを見る貴賤ともども驚嘆して肝を潰したということである。信長は7月に至り
軍勢を進めて、磯野丹波守(員昌)が籠る佐和山城を囲み攻められた。この城は険阻な要害の地であり、

丹波守はさる老練の宿将で防戦の術を尽くしたので容易に攻め取り難く、そのうえ織田方の軍勢は打ち続いた
合戦で人馬も大半が疲れたため「この城はまた攻めるとする」と城の近辺に獅子垣を結い回し、鳥居・本口・
百々屋敷に向かい城を取って丹羽五郎左衛門(長秀)に守らせ、北方の尾末山に市橋九郎左衛門(長利)、

南方の佐渡山には水野下野守(信元)、西の彦根山には河尻与兵衛(秀隆)などと定め佐和山を押さえさせて
信長は入洛なさり、義昭将軍に謁して姉川の戦い勝利のことを告げられ、7月8日に岐阜城へ帰られた。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞・織田真記)』


主君替え、三人目

2011年08月21日 23:01

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/21(日) 01:15:40.75 ID:EmIpp6OI
主君替え、三人目

浅井家の家臣でありながら、小谷城攻めで織田信長の軍門に下らざるをえなかった
磯野員昌は、なるほどひとかどの武将であった。
与右衛門の、浅井家・阿閉家での刃傷沙汰を不問に付し、
その実力のみを認め、八十石で召抱えてくれたのだ。

ここにきてようやく、初めての禄を得た与右衛門の働きようといったら。
いよいよ本領発揮である。が、
現場で血と汗を流す与右衛門のあずかり知らぬところで、
織田信長による主君の入れ替えが粛々と行われていた。

信長の甥、織田(津田)信澄を磯野員昌の養子とし、
員昌自身は隠居するよう命が下ったのだ。
「右近さまというお子もあるのに・・・・」
与右衛門は、員昌の胸中をおもんばかった。

磯野家家臣のほとんどはほぼ流動的に、若くてそこそこ綺麗な織田信澄の家臣となった。
与右衛門もまたしかり。
「俺とひとつしか違わねえや」
与右衛門、十九歳の頃であった。



数年後、員昌は信長によって追放される。
信澄に家督を全て譲るように命じられたが、これを拒絶したためとも言われる。
やがて板島城主となった藤堂与右衛門高虎は、
員昌の子、右近を千石で召し抱え、大阪の役ではさらに三百石を加増したのであった。






160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/21(日) 01:23:23.28 ID:ucfN/SHp
主君替えシリーズ好きだ
高虎は餅の件といい、本当に昔受けた恩を忘れないなあ

162 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/08/21(日) 06:48:31.53 ID:C6IJfvDM
晩年成功する人はなんというか昔のことを忘れないなあ~
家康さんとか。
べっべ別に孕石モンドのことではないから。

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/21(日) 08:49:06.41 ID:+oAipI1t
主水セレクション

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/21(日) 09:56:13.85 ID:yelZnl6P
太閤電化も松下を取り立てたし・・。

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/21(日) 12:39:35.61 ID:ucfN/SHp
>>164
電化と松下でパナソニック? と思っちゃった

長政は後藤又兵衛の件だって
あれは又兵衛が好きすぎて、他のところに行くんじゃねえ こっちに帰ってこい
というアプローチなんだなきっと

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/21(日) 13:04:49.11 ID:ztD4EdN3
口の悪いツンデレだらけの黒田家か……

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/21(日) 13:25:56.12 ID:H9Z+luVy
後藤又兵衛の出奔は細川の引き抜き工作だったフシがある。
そのため余計にこじれた感じ。

170 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/08/21(日) 18:11:25.35 ID:tscG6SzT
>>164
昔の「失敗を」忘れないって意味じゃないのか?

磯野員昌、お礼参りと称して

2011年04月03日 00:00

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/02(土) 11:14:42.32 ID:LFR3emiD
戦国乱世であるからには、政略結婚と一口に言っても、遠隔地に輿入れするのは容易なことではない。
間を美濃国の斉藤に遮られた尾張国の織田と近江国の浅井の場合は、次のような策を講じて信長の妹・お市を
浅井長政のもとに送り届けたという。

永禄3年正月、剛勇で鳴る浅井家家臣・磯野員昌は大病にかかるも九死に一生を得た。
ついては伊豆・箱根・三島明神・浅間神社に祈願した霊験のおかげなのでお礼参りをしたいと東海・東山道筋の
各城主に員昌の使者が送られた。

員昌は音に聞こえた勇士。戦乱の世とはいえ、お礼参りとあれば今川も北条も通行を許可しない訳には行かない。

しかし員昌のお礼参りは口実だった。
道中、尾張に立ち寄った員昌は織田家の佐久間信盛と密会し、お市と浅井長政との婚姻の話を取り決める。

翌永禄4年6月、員昌は再びお礼参りの旅に出る。今回は夫婦共に参拝したいと今川・北条に申し送り、女輿や
侍女を多く連れて東国を巡る旅となった。

そして、帰路に立ち寄った清洲にて、員昌の妻として輿に乗っていた替え玉の女性とお市とを入れ替えた。
その後、お市を加えた員昌一行は何食わぬ顔で小谷まで戻り、無事長政の祝言を執り行ったのである。

以上、後に姉川の合戦における十一段崩しで有名となる磯野員昌は意外と策謀にも長けていたという、
「川角太閤記」に記されたウソみたいな本当の作り話。




689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/02(土) 14:16:54.07 ID:cuHJRVlm
嘘みたいだろ、でもやっぱり作り話なんだぜ

691 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/02(土) 15:31:48.08 ID:n8K4t/gZ
普通に使者とかが往来してたんと違うの?

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/02(土) 16:43:16.50 ID:679CCU9z
著作権の問題で最終巻が発売されなかった『信長』だと
市自身のアイデアで対斎藤には囮の輿をしたて、市は少数の侍女を従えた旅人を装って小谷に入っていたっけ

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/02(土) 21:37:42.86 ID:ThEttSCr
>>692
メディアファクトリーから最終巻出てるよ
なぜか改訂版だと松永久秀の髪が黒くなってるがw

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 00:58:44.28 ID:UOCUQZ4x
桶狭間の頃から蘭丸が近侍しているね。
信忠もかなり早い頃から登場しているね。

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 05:56:44.83 ID:us+ZgtUB
>>694
森成利(永禄八年~天正十年)

ははは御冗談を

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 07:33:27.13 ID:HTW7epGZ
>>696
>>692>>693

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 07:37:05.19 ID:us+ZgtUB
>>697
なるそういう流れね