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神子田正治、宮田光次について

2021年12月19日 15:31

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/18(土) 20:39:09.35 ID:ANtCCoBN
山鹿素行武家事紀」から神子田正治宮田光次について

神子田半左衛門尉
肥前守が子なり。秀吉凡賤の時より勤仕して、度々軍功をあらわし、宮田・尾藤・戸田と四人の列、もっとも神子田を第一とす。
秀吉中国退治のために播州を賜わる。この時四人五千石を与えたまう。(四士、長浜に於いておのおの二百五十貫、黄母衣士なり)
この時、おのおの会談して
「大国を領せらるる上は、いずれにもまたそれぞれの城地、または分内広所を賜わりてこそ、年来の勇労をも慰むべきに、
わずか馬の飼料に五千石を得ることもっとも不快なり。これよりおのおの逃亡すべき」
と相催しけるに、神子田いいけるは
「いずれもが分別大いに違えり。中国征伐として、大国拝領にいずれもさせる益なしと、秀吉の志あるゆえにこの小知を賜わる。
それにあっては五千石は過分なり。いそぎ長浜より引っ越して以前のごとくいよいよ忠戦を抜くべし」
と諷諫して長浜を仔細なく引っ越すや、三木城攻めにおのおの相ともに力戦す。
三年の城攻めにつき、城をかまえ持ち口を定め、度々城兵と相戦い、賤ヶ岳の役に、神子田一方の将として相備う。
長久手の役ののち、五月朔日、秀吉師を濃州にかえしたまう。
小牧より付くべきの間、しんがりは二重堀の諸将これを勤むべしと命ぜられ、秀吉みずから青塚に馬を立ちたまい、黒田孝高(如水)、明石与四郎(左近)が兵を傍にそなえしめたまう。
二重堀の諸将、一番神子田半左衛門、二番日根野兄弟、三番木村常陸介・加藤作内、四番長谷川秀一、五番細川忠興なり。
小牧より北畠信雄、兵を出してしたがうべきとありしを、源君(家康)これをとどめたまう。
しかれども信雄の勢二十余人かけだして付きしたがう。
神子田・木村・日根野が兵、見崩(戦う前に崩れること)いたし敗北。細川忠興が兵士しんがりして、信雄が勢と相戦いて追い散らし引き取る。
この時、秀吉じかに青塚にいたまいて見物なり。
「去月長久手において三将討ち死に、今日細川忠興が働きによって長久手の色直しなり」とのたまい、
すなわち細川が兵士に感状ならびに熨斗付きの刀などを賜わる。
今日、神子田一番に敗軍いたし、敵も付かずに見崩、諸手之によりて騒動せしむ。その罪のがれがたしとあって、その夜改易せらる。
のち神子田、豊後に漂泊す。秀吉ついに殺害せしめたまうて、その頭を一条戻橋に獄門にかけ、自らその罪科を札に記さしめ立ちたまえりとなり。
(あるいは云う、神子田はじめ長久手において首級を得て帰る。秀吉大いに感じ、これを賞す。
神子田、その首を棄てて云う「予のごときは自らその首を得るに、公なんぞ叱らざるや。匹夫の功、あに賞するに足らんや」と。
二重堀退去の時、公、青塚に在りてこれを見る。近臣に示す。
「この神子田、抜群の勇戦あるべし。汝らこれを視るべし」と。
しかるに神子田、大いに敗る。公、もっともこれを羞(は)じてにくむ。
すなわち彼を呼びてその罪を糺(ただ)すに、神子田云う。
「我兵士を率いざる。故に敵を防ぐの士なし」と。
公、大いにこれを怒りて「汝、我に仕えしはじめ幾人を携えて来たるや?」と。
ついにこれを改易す、うんぬん)

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/18(土) 20:47:31.63 ID:ANtCCoBN
宮田喜八郎
幼若より秀吉につかゆ。武勇絶倫、秀吉母衣の勇士一員たり。
秀吉長浜を領られしより、播州に移りたまう時に至るまで宮田・尾藤・神子田・戸田をこゆる勇功の士あらず。
三木城攻めに天正六年五月、宮田戦死。秀吉もっとも嘆惜す。

尾藤、神子田に比して戸田、宮田は記載に乏しい。

神子田については過去に五千石と秀吉への口答えの話も両方出ていたが、

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1832.html
神子田半左衛門と五千石の加増・悪い話


http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3315.html
神子田さんが改易された話逆バージョン


五千石についてはここでは秀吉に大望があるため城地を与えなかった、と以前の話とは違った解釈だった。
それにしても、尾藤知宣、戸田勝隆、神子田正治宮田光次を合わせて羽柴四天王と呼ぶらしいが、誰がはじめに言い出したんだろう



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下人などは如此こそころすべけれ

2018年11月02日 20:25

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 23:35:10.04 ID:eJY+p62H
神子田半左衛門(正治)が家来の者を手放にするとして、縁側で爪を切っていたが、その爪を切る
小刀が下に落ちた。神子田はかの咎人を呼び、「縁の下に小刀が落ちた。取ってくるように」と言いつけ、
彼が縁の下にくぐった所、上から刺殺した。そして人を呼び死骸を取り出させた。

この時神子田は
「放し討ちなどといって、確実性のない成敗を好むのは然るべからざる事である。
下人などはこのようにして殺すのだ(下人などは如此こそころすべけれ)」
と。申したという。

(士談)



400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 11:47:36.51 ID:75FhpIpu
秀吉軍初期メンバーだけど、物語でも扱いが悪くて当然の人か

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 12:36:14.43 ID:vMEsZMso
潔いと思うが
偽善者は暗殺者送って素知らぬ振りだからな

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 13:03:32.56 ID:SDHbTpAD
人が死んでるから悪い話なんだな

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 19:11:58.57 ID:9eOVVS3q
これって放逐する事を明言した訳ではなくて
内心で決めてたけど未発表の段階で抹殺したって事だよな
同じ殺すにしても誅殺や手打ちに比べてなんか汚いというか
陰湿というか…何かこう嫌な気持ちにさせる振る舞いというか

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 19:24:46.01 ID:x5p+lKo9
朝倉宗滴みたいな現実派だよな

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 23:20:50.57 ID:lOaOtw/w
>>403
なんで放逐せなあかんねん
これは上意討ちや
対象が領内におらん時は放逐やない出奔や
逃げる前に討つのは当然のこと
ひとかどの将なら宴で酔わせて討つ
下人なら手打ちでおk

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/03(土) 07:42:43.02 ID:PUgQnT4P
>>403
「放し討ち」ってのは、相手にお前は死罪と決まったから、抵抗するなら抵抗しろ、って言って
罪人と討ち方が切りあいになるやり方のこと。
罪人が名のある武士の時や、討ち方が罪人側に同情している時に取られる方法で、
返り討ちにあったり、その場を切り抜けて逃げられる危険が当然ある。

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/03(土) 13:46:13.09 ID:IcnH0ZmW
実はいい話なのか

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 07:40:45.16 ID:7Ayt5tas
>>406
立花家の黒門の放し討ちが有名かな

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 17:44:58.36 ID:xFrMk15D
>>406
>>399の1行目の手放しってのはどういう意味なんだろう
解雇の事なのか処刑の事なのか
いずれにしろそんな事を申し付けた後に2行目のような小間使いをさせるのは
考えられないから処罰を申し付ける前の話なんだろう
どういう理由で処刑されたのかは不明だが仮にも家来に対して
罪状も告げずにだまし討ちというのは如何な物なんだろう
確実に殺せるけど他の部下や同僚上司はどう思うか

戸次川合戦後の讃岐について

2017年11月10日 21:30

290 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/10(金) 11:19:14.92 ID:2QZmOQNt
戸次川合戦後の讃岐について

ある時十河猪兵衛に会い、豊州利光川の戦(戸次川合戦)
存保戦死について問うたところ
猪兵衛曰く、我は幼主千松丸に属せられ参陣せず
父の猪右衛門、十河但馬、松田宗閑などの忠臣は皆死をもって従った
存保の命を伝えて来る者もあり、死亡を逃れて来る者もあるゆえ
我が見ていない事を語っても益はないだろう、と前置きし語り始めた

存保筑紫にて戦死の日は十二月十二日である
その日の八つ時分に、兵卒三百人ばかりが旗十流ばかりを靡かせ
十河の城に入るのを田畝に耕す農人が見た
次の日、近境の者どもが還陣を賀そうとやって来たが
城中の者はそのような有様を知らず、不思議な事だと言い合った
そんなことがあった数日後に、豊州戸次川にて
存保が戦死を遂げられた報告が届いたそうである
家人どもは十河家息男千松丸に付き従い、十河の城に留まり
仙石秀久は豊州の敗軍を恥じて讃州に入らず
直に高野山に入ったと聞いている

(続く)

291 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/10(金) 11:20:29.39 ID:2QZmOQNt
また天正十五年正月、讃岐の国を尾藤甚右衛門尉賜いて入部し
兵卒を催し、筑紫陣(秀吉の九州平定)の用意をすることになった
去年の年貢は残っておらず、今年の収穫も先のため、手だてなければ
寺社領、神社仏閣の敷地まで検地を入れ、軍中の資用を宛て課した
国中の商家遊民に課役をかけて催促したが
はかばかしく財産も集まらなかった
仙石氏出陣の時と比べ、三分の一の形相にも及ばずして
九州へと赴いた事を思えば、高城の夜戦の際(根白坂の戦い)
尾藤氏が痩せたる兵をもって島津方の逞兵にあたり
固く守りて出なかったのは、己を知る者であったからである

神子田中左衛門は信長卿の御家にて
竹中半兵衛と両半と言われし弓矢巧者であり
この度、秀長卿の介添として日向の国に発向したが
高城の夜戦の際、善ヨウ坊を救わずをもって
改易されると言う人あるが、我はその実否を知らない

292 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/10(金) 11:21:17.92 ID:2QZmOQNt
それ小軍夜に紛れていくさを起こし挑む事は、大軍にとって大事である
総軍皆出でて戦う時は、彼我を分かたずして、同士いくさするものだからだ
各陣固くして夜の明くるを待ち、敵の退き口について朝合戦をなすべきで
これぞ大軍の手だてである
秀吉公は勇戦を好まれるがゆえに、その時勢を糾さずして
尾藤が落ち度として讃州を没収されたのである

(南海治乱記)




その死期に望んで

2017年08月30日 11:41

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/30(水) 09:52:36.49 ID:QcrXrpWd
神子田半左衛門(正治)は常にこう言っていた
「人間のならい、何事にて失命するか計り難い。その死期に望んで、一言『神子田半左衛門なり』
と話して死ぬのが、一期の思い出、日頃の嗜みと言うべきだろう。」

豊臣秀吉によって彼が成敗される時、彼は残された人々のため、多くの書状をしたためた。
下人が「時間が遅れます」と注意すると、「今ひとつ残っている」と、心静かにこれをしたため、
行水し、立ち腹を切った。
ところが、介錯の者が切りそこない、頸を落とせなかった。
神子田はよろよろと膝を折り、左手にて顎を押して、首を切らせたという。

(士談)



189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/30(水) 13:39:32.46 ID:x7PIFI9f
立ち腹って立った状態で切腹したってことか?

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/30(水) 16:05:17.49 ID:pDb7X0ma
鈴木主水の立腹は立ったまま切腹だった

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/30(水) 19:04:45.99 ID:wVyiwil1
鎧の人は腹切ったまま屋敷に戻って文書の隠滅を図ったとかなんとか

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/30(水) 21:41:01.68 ID:QmuPPF5I
立腹とは

古代中国、宋から来日した禅僧の蘭渓道隆が建長寺で披露した
腹で茶を立てる茶礼のこと

民明書房刊「茶の歴史」より

下人などは、このようにして殺すものだ

2017年08月28日 18:27

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/28(月) 15:06:36.58 ID:cFxc+vWP
神子田半左衛門(正治)が家中の者を手打ちにするという時、縁側において爪を切っていたが、
その爪を切るための小刀が下に落ちた。そこでその咎人を呼び

「縁の下に小刀が落ちた。取ってくるように」

と命じた。
そこでこの者が縁の下に入った所を、縁の上からそのまま刺殺した。
そして人を呼び、死骸を取り出させた。

神子田は言った
「放し打ちだからと言って、確実さのない成敗を好むべきではない。下人などは、このようにして
殺すものだ。」

(士談)



177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/28(月) 16:33:42.03 ID:X7RjkNXz
>>176
いい話…?

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/28(月) 16:49:35.76 ID:IAXy0+oW
効率のいい話なんだろ

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/28(月) 19:08:56.72 ID:4Ke1VAXr
現代日本人は命ならなんでも大切だと思ってるから困る

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/28(月) 21:38:11.37 ID:OraP3Sqx
>>179
誰が困るんだよw

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/28(月) 23:24:41.70 ID:r7dpqF/e
        _,,:-ー''" ̄ ̄ ̄ `ヽ、
     ,r'"           `ヽ.
 __,,::r'7" ::.              ヽ_
 ゙l  |  ::              ゙) 7
  | ヽ`l ::              /ノ )
 .| ヾミ,l _;;-==ェ;、   ,,,,,,,,,,,,,,,_ ヒ-彡|
  〉"l,_l "-ー:ェェヮ;::)  f';;_-ェェ-ニ ゙レr-{   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 
  | ヽ"::::''   ̄´.::;i,  i `'' ̄    r';' }   | 久々にワロタ 
 . ゙N l ::.  ....:;イ;:'  l 、     ,l,フ ノ   | こういう成敗が好まれた
 . |_i"ヽ;:...:::/ ゙'''=-='''´`ヽ.  /i l"  < のが昔の武士なんだよな 今の新参は昔の
   .| ::゙l  ::´~===' '===''` ,il" .|'".    | 武門の心得を知らないから困る
    .{  ::| 、 :: `::=====::" , il   |     \________
   /ト、 :|. ゙l;:        ,i' ,l' ノト、
 / .| \ゝ、゙l;:      ,,/;;,ノ;r'" :| \
'"   |   `''-、`'ー--─'";;-'''"   ,|   \_

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 09:01:19.68 ID:8ssQuzbj
>>180
更生の見込みが乏しい元懲役囚のそばに住んでる人とか

神子田は戦功多しと雖も

2017年04月10日 17:46

羽柴秀吉の下に、天正の初めの頃、軍功度重なる輩として、神子田半左衛門(正治)、宮田喜八(光次)、
戸田三郎四郎(勝隆)、尾藤甚右衛門(知宣)の四人があった。彼らは戦のたびに必ず戦功を等しく成し、
世に広く知られていた。

秀吉が初めて播州を領した時、彼ら四人を賞して、録五千石が与えられた。
宮田、戸田、尾藤はこれに甚だ不満で悦ぶこと無かった。
しかし神子田ひとり大いに喜び、拝領の礼を整えようとした。
これに他の三人は異議を唱えた

「四人は同じく戦功を致した者たちなのだから、他の三人が同じように礼を致していない以上、
神子田もこれを請けず、三人と同じようにするべきだ。」

神子田はこの意見に
「私が大いに悦んでいるのは、領地を与えられたことを悦んでいるのではない。
我等四人の事は、その手を尽くしての勤功、誰が超える者があるだろうか。

今、秀吉様は播州の大国を領せられた。これまでに比べてその余分の多いことも知っている。
であるのに我等には「家中に分配して余りが無いため、先に少知を与える。」と命ぜられた。

この言葉は、我等を無知無才の者扱いしている。
無知無才の我等と考えれば、この五千石も身に過超しているではないか。
ここを以って悦んでいるのだ。」

そう答えたという。

神子田は戦功多しと雖も、常にこれを誇って秀吉を蔑如していた。

(士談)



728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/10(月) 21:32:49.38 ID:eowKfctM
神子田って面倒くさいけど権現様のところならうまくやっていけたような気がする

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/11(火) 14:06:36.84 ID:f2YAzpKz
神子田はそういうんじゃなく三成の武官版みたいな印象。

信長公の時代に勇者と申した者は

2016年07月20日 10:25

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 03:46:26.93 ID:cFB0egY4
信長公の時代に勇者と申した者は、

菅谷九右衛門(菅屋長頼)、安藤与兵衛、神子田半左衛門(正治)などである。
半左衛門は八右衛門の弟である。八右衛門の子の四郎右衛門は、大坂で討死した。

また他の説では、信長の時代の勇者というのは、稲葉伊予守(良通)、池田伊与守、
氏家卜全(直元)である。

美濃西方の三人衆というのは氏家卜全、稲葉伊予守、伊賀伊賀守(安藤守就)である。

――『武功雑記』




949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 09:59:34.15 ID:ZNGYzNmM
あと、鬼武蔵を止めようとした瀬田の橋の番人

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 12:29:48.39 ID:daAkwI4G
勇者として菅屋の名前があがるんだねえ
どちらかというと官僚をイメージしていただけに意外だった

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 12:56:10.58 ID:dOYI8WFy
美濃三人衆って何で4人いないの?

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 14:12:18.92 ID:nMsEvtnS
伊賀伊賀守って喉風邪の親玉ですか

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 22:24:15.75 ID:2PTcoJ25
>>952
つ 不破光治

神子田半左衛門は豊後にて切腹した

2015年11月08日 06:45

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/07(土) 21:38:52.73 ID:7xZwe7U+
豊臣秀吉創業の頃からの家臣であった神子田半左衛門(正治)は豊後にて切腹した。この時半左衛門は

「私がこのように成った上は、秀吉の心にかかることは最早あるまじ!」

そう言ったという。

神子田半左衛門は長久手の戦いの時、頸一つを取ってきた。
秀吉はこれを見て、敵の襲来を半左衛門が構わず匹夫の功を立てたことを怒った。
しかし半左衛門も反論し、ついに雑言に及んだ。これによって彼は牢人と成り、
後に豊後にて切腹したのだ。

秀吉は半左衛門の頸を一条の戻橋に晒し、そこに『天下の大臆病者なり』と札を立てたという。

(武功雑記)



600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/07(土) 21:55:17.07 ID:dvXvBD1j
成金と同じでプライドと見栄の塊だよな

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/07(土) 23:03:20.38 ID:pLYiESxG
羽柴四天王ってなんか報われないな

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 01:25:32.95 ID:wwFiG7we
九州征伐あたりからちらほらラスボスの片鱗が見えるよね
それを考えたらセンゴクは上手く泳ぎきったわさ

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 09:26:29.07 ID:J9xDjA1o
二重堀砦の撤退戦だよな
金ケ崎撤退戦の英雄としては譲れないところだったのでは

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 11:51:14.26 ID:hS/xgfqa
単独で離脱したらしく臆病者扱い
これ本当なの?

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/09(月) 21:09:35.80 ID:+1n/NtSK
>>604
秀吉軍の撤退中に最前線の二重堀砦は織田信雄軍に攻められ
しかも神子田が勝手に退却したので大ピンチなところを
細川忠興が救援に駆けつけ大勝利
ってのを三斎様が書き残していたような

神子田正治の失脚

2015年02月04日 18:53

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/04(水) 02:21:14.50 ID:IHCwOte5
天正12年(1584)、小牧長久手の合戦が膠着状態に陥ると、羽柴秀吉は7月の1日頃に6万の軍勢を
小牧野青塚あたりまで移動させ、徐々に軍の備えをさせた。

二重堀の仮要害を引き払うとき、ここには木村常陸(重茲)、神子田半左衛門(正治)、小寺勘兵衛(黒田如水)、
明石左近などが入れ置かれていた。この勢が二重堀を引き退くとき、敵の織田信雄勢が追撃したが、
細川越中(忠興)らが引き返してこれと戦い、多くの頸を得た。
この戦いを秀吉は青塚に上がって見ており、大いに感じ入った。

さて、その後秀吉軍は、備えを小口入りにして犬山城に至った。その日の暮れに、神子田半左衛門は
秀吉の前に居たのだが、秀吉はこのように言った
「今朝、二重堀に敵が来たのを、汝が軍を返して討たなかった事は非常に不甲斐なく思った。」
しかし神子田は
「軍勢を持っていなかったので、何事も思うままに出来なかったのです。」
と、言葉を返した。

これに秀吉は気分を害した
「汝が初めて我を頼んだ頃、従っていたのは10人に満たなかったではないか!それを今程まで
してやったというのに、どうしてそのような言葉が出るのか!?」

そう言って怒り、神子田はその後咎めを受けたが、ついには自害させられた。

(豐鑑)

羽柴四天王とも呼ばれる秀吉配下の古参、神子田正治の失脚についての記事である。




神子田半左衛門正治、秀吉と不和と成る

2011年10月30日 22:00

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 13:27:24.99 ID:HGbriStF
天正12年(1584)5月1日、羽柴秀吉は徳川家康との決着がつかぬまま、ついに小牧長久手より撤退を始め、
本体六万は青塚方面へと移動した。

この時秀吉軍最前線の拠点である二十堀砦には、木村常陸守、神子田半左衛門正治、黒田官兵衛、明石右近などが
入り置かれていた。
彼らも撤退を始めたが、これを徳川軍が把握し追尾する。いよいよ徳川軍が襲いかからんとした所を、
細川忠興の部隊が取って返し徳川軍を牽制したため、かろうじて撤退を成し遂げた。
この状況を秀吉は、青塚からじっと見下ろしていた。

やがて秀吉軍が犬山に入ったところで日が暮れた。
その時御前にいた神子田正治に対し秀吉は言う

「今朝、二十堀に敵が襲来したのを、お前なら返り討ちにすると思っていたのに、そのかいもなく
不覚をとってしまったな!」

神子田は、これに反論した
「我々はあれだけの敵に対処できるほどの人数を持たされていませんでした。人数がなければ、ああいう時
どうにもできるものではありません。」

秀吉のそもそもの撤退戦略のミスを指摘したとも取れるこの口答えに、秀吉はサッと表情を変え、
神子田を睨みつけた

「人数だと!?そもそもお前が初めてワシの下に付けられた時、お前の家来など10人も居なかったではないか!
それを今の程までの身代にしてやったというのに、それがどうしてそのような口を利けるのか!」

激怒し、そう怒鳴った。

この事があってから、神子田正治は追放され、終には命を失うこととなった。
(豊鑑)




621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 16:58:40.61 ID:17zPE6cd
>>615
神子田さんにとっちゃ踏んだりけったりな話だと思うが
そういう時こそ主君の為に役立たなければならないから難しいな

神子田正治、賤ヶ岳にて

2011年10月29日 22:01

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:31:46.64 ID:mh++4qZM
天正11年(1583)賤ヶ岳の合戦の折のこと。

4月19日、柳ヶ瀬の佐久間盛政軍の攻勢により、中川清秀が討ち死にしたことが知れると、秀吉方の軍勢は、
主将の秀吉が居ないこともあり恐慌に陥り、秀吉軍は所々の付城すら崩壊しかねない状況となった。

ここで動いたのが、秀吉古参の神子田正治である。

神子田は大音声で

「明日、秀吉は大軍を率いて戻りこの緊急事態を救う!よって人々よ、ここを固く守るのだ!
少しも気弱になってはならない!」

そう、諸陣に触れ回った。

落ち支度をしていた者たちも、神子田のこの言葉に励まされ、そのまま留まった。

この事自体は神子田の当意による計略であったが翌日、果たして秀吉は軍を率いて救援に現れた。
美濃大返しが行われたのである。
(小川栄一氏所蔵文書)

中々記録が残っていない、神子田正治の活躍についての逸話である。





342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:55:18.50 ID:vI0iBPaO
>>340
えらくタイミングのいい話だ

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:59:21.06 ID:5fomMfXq
神子田は結構優秀な武将なんだよな
秀吉の初期からの家来だけど最後が悲惨だったな

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 18:25:44.92 ID:ayWuz64l
羽柴四天王なんていうのがあったのか
しかし七本槍なんかと比べてどれも良い印象ないね

サッカークラブがJFLからJリーグに昇格しても
選手がJリーガーを続けるのは難しいって事かな