FC2ブログ

城を抜く術

2014年11月02日 18:54

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/02(日) 00:06:37.91 ID:DlJhDHgw
毛利元就は厳島の戦いで陶晴賢を滅ぼすと、大内氏の本拠である防長に侵攻し、次々と攻略、
この事態に大内家当主義長は、重臣である内藤弾正忠(隆世)らとともに、長府(下関)の勝山に籠城し、
これを知った毛利元就は、一門の福原左近将監(貞俊)を大将として軍勢を派遣した。

福原並びに国侍の熊谷、阿曾などにより勝山城を取り囲み攻め立てた、しかし勝山城は地形が
険阻である上、城兵たちも勇を励み堅固に城を守った。
元就はこのことを聞くと、福原に密かに、城を抜く術を伝えた。
福原はこれに従い、城中に矢文を放った

『内藤弾正忠は陶晴賢に与した叛逆の者ですから、切腹させていただきたい。
義長については特に遺恨があるわけでは有りませんので、一命を助けて豊後へ送り返しましょう。』

この内容に、義長は「私は内藤とともに自害する!」と言い張ったが、内藤自身や杉等家臣たちが
様々に申し宥め、義長を長府の長福院に移し退け、その後内藤は切腹することに決め、福原に対し
検使を請うと、兼重左衛門尉が派遣され、その上で内藤弾正忠は切腹した。

ところが、福原は直後、義長のいる長福院に攻め寄せた。

大内義長も切腹させるよう、元就より申し来た。よって速やかに自害あるべき。』

これに義長は「覚悟していたことではあるが、福原に欺かれたことが口惜しい」と激怒したが、力及ばず、
行水にて身を清め、終に自害した。
吉弘右衛門太夫、橋爪美濃守、安田入道、杉民部らの家臣も、続いてみな切腹した。

また陶晴賢の家臣、野上紀伊守房忠は、晴賢の末子である6歳の鶴寿丸を山口に隠し置いていたが、
敵がこの命をよもや助けまじと思い、この子を長福院に抱き来て刺殺し、自身も共に死んだ。

(芸侯三家誌)

大内義長の最期についての逸話である




674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/02(日) 00:31:36.48 ID:Oz10yxRV
これでも元就は天寿を全うできたんだから怨みなんて役にたたないな

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/02(日) 00:41:10.54 ID:EHYnYJAt
役に立たないこともないだろ
怨みも、用心深さも、使い手次第だと思えば夢も希望もあるじゃないか

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/02(日) 05:48:48.50 ID:okk8Z5ME
息子を失ってるやん

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/02(日) 08:00:46.81 ID:LVP3RuBO
隆元さんが、厳島の三女神にお縋りして、元就に向けられていた呪いを引き受けたんですね

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/02(日) 10:07:10.82 ID:CkoMoT99
大友義鑑「茶碗はよ」

スポンサーサイト



この男、杉重良

2014年09月12日 18:56

杉重良   
770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/11(木) 20:50:08.13 ID:Fh9Jk2yU
この男、杉重良


杉重良は杉重矩の孫で重輔の子にあたる。
4歳の時に父が内藤隆世によって殺された。
しかし、重臣たちが毛利元就を頼ったことで大内家滅亡と相成った。

この一連の出来事がきっかけで毛利家は重良を気にかけるようになった。

重良もこれを気にしていたらしく、大友宗麟の豊前東部の所領安堵よりも居城を捨ててまでして
大内輝弘討伐を優先した。
大友宗麟の重良へのラブレターを毛利家に送り、忠誠を示したほどである。

大内輝弘討伐の功で公領である徳地2000貫を与えようとしたくらいである。

重良も毛利家を継いだばかりの毛利輝元の期待に応え、軍功をあげるなどの活躍をした。

1573年、輝元により福原広俊(10代当主)の妹を妻に迎えた。
重良が毛利家にとってどういう立場なのかわかるであろう。

1578年、今度は豊前の高橋家(高橋重種かその一族か)から誘いがあった。
市川元教(経好の子)は誘いに乗り、山口で謀叛を起こして内藤元輔・雑賀隆利(隆和)に捕らえられ自殺した。
重良は同じく誘いを受けた吉見正頼と共にこれを拒否した。

まもなく大友家は耳川の戦いで島津家に大敗し、勢力を大きく衰退させた。
重良はこれをどう思ったのか、好機と見て秋月家を中心に外交で豊前・筑前の豪族との関係修復し、秋月家から人質を出させようと画策した。

秋月家は一旦これに同意したかに見えたが、人質に受け取りに毛利側から畑田右近が使者として向かった。
しかし、秋月家がこれを約束実行を気配を見せなかったため、畑田は『重良謀叛』と輝元に報告してしまった。

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/11(木) 20:51:24.75 ID:Fh9Jk2yU
これに驚いたのは重良である。
面目を秋月家らに潰されただけでなく謀反人とされたのである。

重良は千二百の兵を率い、秋月家らから人質を連れ帰ろうと豊前蓑島(行橋市)へ渡った。
しかし、これを見た秋月種実は豊前長野家や高橋家らと連合して五~六千の兵で迎え撃った。

その結果、数で勝る秋月連合軍によって惨めな敗北を喫してしまった。


『重良謀叛』の報が毛利家に入ると、義兄の福原貞俊が毛利家中に詫びを入れるために奔走した。
これが功を奏したのか、1579年1月18日に毛利輝元は重良の行為を謀叛と認めつつも子・松千代丸の所領相続を認めた。

輝元が所領相続を認めた理由は以下の二点であった。
・重良の妻が重良に同意していなかったこと
・義兄の福原貞俊が丁寧に詫びを入れたこと

さて、輝元の裁断が下されるちょっと前の1月5日に益田藤兼は秋月種実にこんな手紙を送った。
「杉重良のことは我々が特別に相談してみる。先年からの筋目によって昵懇(入魂、じっこん)にされることが大切だ。」
といっている。
この手紙、何故か重良の子孫に伝わっているという。


重良が謀叛をしながらも、福原貞俊のフォロー・輝元が謀叛を大きく見なかったこと・益田藤兼が秋月種実をなだめたこと
毛利家が重良の謀叛を認めつつも一家断絶を免れさせたいい話


さて、謀叛起こした張本人の杉重良だが、1579年3月4日に高橋鑑種によって討たれているとされている。
異説では北部九州を転々とし、時には『田中源五郎』と変名したりし、最後は鍋島家の客分となったという。

1579年3月4日没としているのは子孫が憚ったのか、毛利家による杉家の名誉を守るための取り計らいかもしれない。

(杉新右衛門覚書)他
『山口県の歴史』、『楠町の歴史』より一部抜粋




元就の明察

2012年06月16日 21:05

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/16(土) 08:37:27.87 ID:Nfp8NyG6
 天文二十三年、毛利元就はそれまで手を組んでいた陶晴賢に反旗を翻し晴賢側の安芸の諸城を怒涛の勢いで攻略し始めた。
これに陶晴賢は船岡山の合戦などで高名を馳せていた宮川房長を派遣して元就討伐にあたらせた。
陶軍は各地で兵を募りながら膨れ上がり、その数は2万とも噂されるほどだった。
対する毛利軍はわずか3千余り。
対峙して元就はどうするべきかと作戦を練っているところに、敵方の様子を探らせていた斥候より一報が入る。
情報によると、今夜敵は秘かに軍を動かし兵を川岸に伏せ、明朝未明に合戦を仕掛けるやいなや
不意打ちをしようと目論んでいるとのことであった。

 そこで元就は福原貞俊宍戸隆家の両将に「急ぎ川岸に向かい、敵の伏兵を逆に不意打ちして討ち取れ!」と命じた。
両将は直ちに現場へ急行したが、元就は現場の地の利に不安を覚え
秘かに後を付け川がよく見渡せる川岸手前の小高い丘から現場を見渡した。
空は曇り月明かりさえも届かずあたりは漆黒の闇で、もちろん敵味方ともに伏兵として行動しているので
人馬ともに音を立てずひっそりとして静かであった。
なので丘から見渡しても敵味方の動きは何も見えず、気配すらわらかない有様だった。

 ところが、突然に元就は両将へ伝令を送り「直ちに現場から急いで引き上げよ!」と命じた。
両将は命令通りすぐに戻ってきたが、突然の命令であったため不審に思い元就に理由を尋ねた。
これに元就はこう答えた。
「敵陣や伏兵のありそうなところは暗闇で何も見えず全くわからなかったが、ただ川には数多くの蛍火があった。
ところが、突然川下の方で蛍火が乱れ、やがて一つ残らず逃げ失せた。
これは敵軍が我々の行動に気付き、不意打ちをしようとして川下を秘かに渡っているに違いないと思ったので
直ちに兵を引き上げさせたのだ。」
翌日、現場を確認してみると確かに川下を敵兵が渡った形跡があったので家臣たちはこの元就の明察に感じ入ったという。

折敷畑合戦で毛利元就が宮川房長率いる陶軍を壊滅させる数日前の出来事であった。




897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/16(土) 14:21:32.39 ID:ygzQ02WT
源義家と大江匡房に因んだ創作

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/16(土) 14:41:13.16 ID:2XxBulvc
祖先の兵法を知ってても不思議ではない

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/16(土) 16:44:39.13 ID:KFV2WIV2
八幡太郎さんの故事を読んだ経験がホタルを見たときにピンと合わさったんだろうな。
それを即自分の戦術に用いるのは良将の知恵
似ているから創作だと決めつけてしまうのがオタ知識

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/16(土) 17:49:44.21 ID:WyKotWyo
奇襲の情報はから相手方の罠だったんだろうなあ
それにしても蛍の動きを見ただけで相手の動きに気付くとはさすがに元就は戦上手だな

毛利家、賤ヶ岳の裏で

2011年10月05日 22:03

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 23:51:34.89 ID:ipCvu13n
天正11年4月、近江では賤ヶ岳の戦いが進行していた。

さて、柴田勝家は3月より備後鞆にある将軍足利義昭と連絡を取り、義昭の上洛を支持し、
義昭を通じて毛利が対秀吉の軍を出すことを求めた。
ちなみにこの義昭の上洛に関しては、徳川家康も支持を表明しているので、かなり大掛かりな
政治的策動があった模様である。

この義昭よりの要請に毛利家当主毛利輝元は、談合衆(毛利家最高幹部)の吉川元春小早川隆景
福原貞俊に意見を求めた。

彼らの出した結論は

『両軍の強弱が解らない以上、我らは両方にいい顔をして、動静を見守っているのが良いでしょう。』

方針はそのように決まった。

現実的といえば実に現実的、野心がないといえば実に野心の無い、なんとも毛利的な政治判断と言えるだろう。
(毛利家文書)




194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 00:10:45.93 ID:wZjgziK+
佐竹さんが羨ましそうな眼差しでこちらを見ています

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 08:50:36.51 ID:+/YwN+r7
関ヶ原とは状況が違うから比較できないけどな

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 15:58:58.06 ID:EJ5Trvwq
よっぽど秀吉軍がトラウマだったのか?