fc2ブログ

「武家閑談」から朝鮮出兵の時の加藤清正と福島正則

2023年03月07日 19:00

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/06(月) 23:10:13.65 ID:h0QaWSzD
武家閑談」から朝鮮出兵の時の加藤清正福島正則

高麗陣中で肥前名古屋(名護屋)へ注進状を送るため、諸大名が判(花押)をすえることになった。
加藤清正の判形が細かくて手間がかかっていた。
福島正則は「清正の判はむずかしい。だいたい判というのは無造作なのがよい。
重い病となって遺言状に判を書くことになったら困るだろう」と申した。
清正は「われは戦場で国の土を枕として死のうと思うゆえ、病死の時に臨んで遺言状を書くことなど考えもしない。
この判で問題はない」と申したという。

死因が病死なので悪い話の方に投稿しておこう。
スポンサーサイト



関ヶ原前の緊迫した通信事情

2022年10月04日 19:12

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/03(月) 19:27:03.40 ID:HQYAPPYE
慶長年中卜斎記』より
関ヶ原前の緊迫した通信事情

(七月十九日申の刻)増田長盛から石田、大谷蜂起の風聞を知らせる書状が家康方に到来。家康は写しを先手に遣わした。また、急ぎ代官衆に命じ、百姓による一里飛脚を宇都宮まで整備した。その後も風説あり、風説は収まるなどと真偽不明の書状が何通も届き、すべて写しを先手に送った
(二十一日)家康が岩槻に渡御してから上方の飛脚と書状が届かなくなった。その子細は織田常真が敵になり、美濃関ヶ原に軍勢を置き書状と飛脚を通さなかった。天を飛ぶよりほか、地上を歩いて届けるのは無理だと取り沙汰された
(二十二日)金森法印のもとに石田から書状が届いたが、金森は書状箱を開けず封をしたまま家康に差し出した。その状の内容は誰も知らない
(二十四日)この頃、上方からの飛脚状は3、4寸(10センチ前後)四方で結った髪の中に入れてやってきたそうだ。編笠の緒により混んで来たものもあったという。この二人が誰の遣わした使者だったかは忘れた
(八月十日、江戸)家康はご機嫌がよく、料理の間に午の刻にお出になり、「俺が料理をする。鶴を料理しろ」とおっしゃったので鍋を掛け火を起こした。御前には本多忠勝、某(卜斎)、全阿弥の三人がおり、料理は忠勝にご馳走され、家康は囲炉裏の近くにおられた。どこから届いたものか、家康はいかにも細かい字で書かれた書状を目に近づけてご覧になった。そして「去る朔日(ついたち)に伏見城が落城した」と誰にいうでもなくつぶやき、西の方角を向いてはらはらと涙を流された
(二十八日)福島、池田から書状到来。去る二十三日に岐阜城を落として首を進上した。川を渡って陣取りしたので御出馬あれとの内容。家康は「首は芝口に架けろ」と命じた
(九月三日、小田原着陣)永井直勝のもとに小早川秀秋の使者が到来したので報告すると、家康は「せがれ(秀秋=年が若い者をいやしめる蔑称)の言うことは真実ではないから取り合う必要はない」と命じた



この御用を蒙ること、全くその武功に寄るもの

2022年08月27日 18:40

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/27(土) 18:28:50.89 ID:nJHAYYUM
元和二年四月十七日、東照大権現が御他界されたことで、駿府詰めの面々は皆江戸へと帰った。
同五年夏、台徳院殿(徳川秀忠)御上洛され、伏見において福島左衛門(正則)の領国を
召し上げる時、その家老である福島丹波が明け渡しを拒否致した故に、中国四国の大名が
芸州広島へ発向することとなり、安藤対馬守(重信)、永井右近太夫(直勝)、戸川肥後守(達安)が
三奉行として出陣した。彼らに対して中国四国の列侯が、崇敬すること斜めならぬものであった。

しかし、安藤、永井は将軍家昵懇の家柄であるのでさもありなんが、肥後守は外様の身分でありながら
この御用を蒙ること、全くその武功に寄るものであった。

この時、加藤左馬介(嘉明)に先鋒が仰せ付けられたのだが、嘉明は
「正則は在国しておらず、国元は家来ばかりなのですから、私一人でも打ち潰すことは容易の事です。」
と申し上げた。

これらの事は伏見において仰せ付けられ、諸家段々に広島へ押し詰め、重ねての御下知を待っていた所、
伏見より花房志摩守を使いとして江戸に遣わし、江戸の福島正則に仰せ遣わされた所、正則は心服して、
滞りなく御請け申し上げ明け渡すように、とする証文を正則の自筆にて広島へ遣わした。
福島丹波はこれを見て、「然る上は」とて無事に城を渡した。

正則は越後に蟄居し、四万石がくだされた。

戸川記

福島正則改易についての戸川記の記事



「朝野雑載」から福島正則改易

2022年07月12日 19:29

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/12(火) 19:22:02.94 ID:q/RBtAIe
朝野雑載」から福島正則改易

秀忠公が御家中の老中におっしゃることには
福島正則の身上を取り潰せという家康公の上意であるが、当家に対して不忠もないのに身上を潰せとはどういうことであろう」
すると本多佐渡守(福島正則の改易自体は家康と本多正信の死後のはず)が進み出て言うことには
「仰せの通り、三成への七将攻めの折には家康公の裁定に従い、関ヶ原の折には黒田長政の勧め通りに居城を家康公に明け渡して御本陣にいたしました。
また秀頼公の二条城会見の折には、秀頼公が一番に頼りにした将でありながら仮病で罷り出でませんでした。
これらは徳川家に対して二心がないゆえであります。
しかし仁心がなく、武勇一辺倒であり、悪逆無道の挙動のみ多い方です。
とくに嫡子八助(福島正之)を殺したのは不仁の至りです。八助に罪があったとはいえ骨肉分身の儀を少しは思うべきです。
また入国の時に水主に「今日の風はなんという風だ?」と尋ねたところ
水主が「地あらし、という風でございます」と答えたため
「入国の際に地が荒れるとは何事だ!」とたちまち水主を誅戮したことがありました。
また、備後名物の畳を上様に進上したところ、他の大名たちより畳表が悪かったため、畳問屋を畳の上にうつ伏せにして、大槍で諸人の前で突き殺したことがありました。
このようなことは数えきれず、家中の士も大小に関わらず、心に叶わなければたちまち殺害、あるいは自身で打擲されました。
このゆえに福島正則の領地では歴々の士や人民を問わず、みな八大地獄の苦しみを味わっているということです。
かくなるうえは正則を滅ぼして人民を救うことこそ、天命に叶っていると言えるでしょう。
徳川家に忠であるからと言って天命に背くわけにはいきません」
と申したところ、秀忠公も納得し福島正則滅亡と決まった。
しかしながら世の人はこの趣きを知らないため、「福島正則が武勇に優れたのを忌みなさって無理やり滅ぼしたのだ」と言っている。



貴殿と私の武辺は互角である

2022年06月21日 20:25

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/21(火) 13:22:33.00 ID:5AhDOXhB
関ヶ原合戦の時、備前中納言(宇喜多)秀家卿の後勢七、八〇ほどが、福島左衛門大夫(正則)の先鋒、
福島丹波(治重)の備先を通ったが、地形が低かったため丹波の位置からは見えなかった所、正則の
旗本が見つけ、青木清右衛門を使いとして早々にこれを知らせた所、丹波は若者五、六〇を遣わし、
かの秀家卿の勢を追いかけさせた。

この時、黒田家の臣・後藤又兵衛が丹波の元に乗り来て「退き遅れたる敵が七、八〇ほど、対面を
横切って通っているが、能き仕物に候。追いかけて若者共に取らせ候へ」と言ってきた。
これを聞いた丹波が笑っている所に、先に遣わした五、六〇の若者たちが、皆首を取って帰ってきた。
これを見た又兵衛は「ぬからぬ丹波かな」と感じ入った。

ところがこの後、世の取り沙汰に、この時の戦いは後藤又兵衛が指図して、組勢に高名をさせたのであり、
全く又兵衛のおかげである、と言われた。丹波はこれを聞いて、「疑いもなく後藤の過言である。」と
奇怪に思い、いっそ対面して真偽を正そうと思っていたが、そのような中、又兵衛は浪人して、上方に
上がるとして、宮島で潮待ちをしていた。

この事を、安芸の領主と成った福島正則が聞きつけ、丹波を使いとして、「又兵衛を福島家で抱えたい。」と
申したが、又兵衛は「三万石ならば御奉公申すべし。」と言った。
丹波は戻りこの旨を正則に申し上げると、正則は頭を振って
「譜代のその方や小関岩美ですら二万石であり、三万石など思いもよらない!」
と言った。しかしこれを丹波は諌めて曰く

「又兵衛を三万石にて召し出されば、石見も拙者も威光が付きます。何故なら、又兵衛でさえ三万石
になるのなら、石見、丹波などは、外へ出したら四万石の侍であり、譜代故に小身のままなのだ、と
言われるでしょう。ならば、拙者までの面目なのです。」

そのように諌めたが、正則は承諾せず、再び丹波を使いとして、又兵衛に断りを申し遣わした。
そして暇乞して帰る時、先達ての世上の取り沙汰を思い出した。

「先年、関ヶ原にて備前勢の退き遅れた者達を我が手が討ち取った。ところがそれを、貴殿の指図にて
私に手柄させたのだと世上で申されているという。虚か実か、承り届けん。」

そう言って又兵衛に詰め寄ったが、又兵衛はこれに冷笑して
「貴殿と私の武辺は互角である。戦場において貴殿の指図を私は請けない。
然れば、私の指図も貴殿が請けることはないだろう。」

そのように返答したという。

(新東鑑)



近衛信尋と伊達政宗と福島正則

2022年05月25日 18:02

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/24(火) 21:54:11.27 ID:UW7pG4Rp
槐記享保十年八月十三日の記事より

近衛信尋伊達政宗福島正則 後半部分は既出ですが

この度関東の姫君様(徳川継友に嫁した家煕の息女安己姫)が御逝去されたため、御忌とて奥にあらせられた。お伽に参ったが、とても寒々しくて何の興もなかったが、更け行くうちに雨も晴れ、おぼろげながら月も顔を出して少し興も出てきたので、女中の吉岡於秀と左兵衛尉のみで四方山話をしていると、(家煕様が次のように語られた)
「この奥座敷はいにしえ桜の御所にあった名物の御書院で、奥州の政宗や福嶋大輔(福島正則)などがしばしば参会したところであった。この押し入れは昔は二畳敷きであったが、ある時鼠が入って騒がしかったのを、応山(近衛信尋)が『鼠であろう』と仰るよりも早く、片目政宗と福嶋大輔の二人とも続いて押し入れに入ってここかしこと探し求めたが、外から応山がしきりに『取り逃がしたか』とお尋ねあったが、残念ながら取り逃がしてしまった。二人が押し入れを出るなり『どうであった。どうであった』とお尋ねあり、大輔、『無駄骨折って取り逃がしたのは無念の至りです。人ならば取り逃がしはしまじきものを』と謹んで申し上げたとのことだ。いかにも人ならば取り逃がしはしまじき者どもであった、実に可笑しいことであったと応山公はよくお話になった」

「福嶋大輔は普段はいたって物柔らかな人で、人に噂されているような人物ではなかった。ある時応山公が滋野井を供にして、福嶋の京の屋敷へ茶の湯をされにおいでになった。待合まで福嶋がお迎えに出ようと中門を通ろうとすると、蜘蛛の巣が福嶋の顔にひたとかかった。
福嶋が手で蜘蛛の巣を押しぬぐって、ご挨拶を申し上げようとするのを見て、滋野井、『これは大変なことになった。ここを掃除した者はすぐに手打ちになるに違いない。可哀想なことだ』と心に思った。
応山が『今日は何よりも珍しい馳走にあずかりました。待合につくなり、あちらの松の高枝から蜘蛛が舞い降りて中門の袖垣かけて巣を織り、やっと出来上がったところへ亭主殿がお出でになられ、今少し見ていたいものだと実に名残惜しく思われました。あの蜘蛛の振舞いようはかねてよりお申し付けになられていたのではありませんか』と御冗談を仰ると、大輔も実に興あることだと感じて名誉に思い、掃除のし残しには全く気が付かなった。このことはのちに犬徒然草という仮名物に記載してある」

信尋の生年は1599年、正則の1619年の改易以前だとすると信尋はこの時十代。前半の言動の子供っぽさからすると十代前半か。
正則は五十台半ばから後半、政宗は五十前後。槐記の他の信尋の逸話からも感じられるが、人懐っこい人好きのする人柄だったのではと思われます。
ちなみに、槐記では基本、武家は姓プラス官位で呼ばれていますが、政宗は政宗呼びで、片目政宗も原文ママ。
秀吉と家康も諱呼びしているので有名人扱いということなんでしょうか。



仁愛を以て衆を率いるに若かず

2021年10月20日 18:00

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/20(水) 17:08:03.84 ID:OZ7buXZc
ある時、島津忠恒公より、父・義弘公へ申し上げられた。

「当国の諸士は我儘であり、触れ渡した事であっても間々背いてしまいます。
最近、私は上方に上った折に、他国の風を聞き申した所に、福島左衛門大夫(正則)などは
背く者には死罪を用いている故に、何事を申し渡しても家中の皆々畏まって受け入れるそうです。
当国も見せしめとして二、三人も成敗申し付けてはいかがでしょうか。」
そのように御相談された。すると義弘公の御返答に

「尤もな事を申される。ではあるが、私は悪しき者を見出すほどの横目を持っていないので、
御身もよくよく気をつけて、そういう人物を見出すように。私も気をつけて見出すようにしよう。

さてまた、福島左衛門大夫の事を申されたが、彼はきっと一代にて家が断絶するだろう。
諸人に死罪を当てて恐れさせるよりも、先ず我が身の行いを正しくし、仁愛を以て衆を率いるに若かず。」
との御意であった。

軍神島津義弘公



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/21(木) 22:12:23.94 ID:OldyoVL2
>>703
父親の忠言などどこ吹く風だった忠恒の悪い話かな?

仙石久勝最後の戦い

2021年09月29日 18:37


624 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 22:41:21.23 ID:4mwlR5+s
仙石久勝最後の戦い

悪い話スレ>>63の続き

寛永15年元旦(1638年2月14日)、板倉重昌による原城への総攻撃は失敗に終わり総大将・板倉重昌は討死、
総攻撃に参加した諸藩の兵も4千に達する死傷者を出した。

土佐藩・山内忠義から派遣された使者の雨森九太夫をはじめとする手勢も多くの損害を出し、使者代表の雨森九太夫自身も一揆勢の銃弾で重傷を負ったため、
翌1月2日に着陣した仙石但馬久勝と土佐藩使者代表の役割を交代し、本国土佐へ帰還することになった。

ここで仙石久勝の素性を紹介したい。彼の弟はかつて三国一の臆病者と謳われた仙石権兵衛秀久である。福島正則に仕えて広島藩・三原城番を務めた
人物でもある。福島家が改易となった後は広島城受け取りの役を果たした土佐藩主・山内忠義に招かれ土佐藩の中老となっていた。
この度の土佐藩使者として、子息3名(嫡子・左近、二男・勘兵衛、三男・八左衛門)と忠義の馬周り・毛利久八と5名の飛脚に多数の兵を連れ島原へ赴いていた。

さて、久勝は同時期に島原へ着陣した正使の幕府老中・松平信綱、副使・戸田氏鉄に面会するとこう申し出たという。

仙石久勝「我ら土佐藩兵に一所攻め口を与えていただきたい。」

先の総攻めに参加した雨森九太夫同様、久勝も一揆勢への攻撃に加わるつもりである。
これを聞いた松平信綱と戸田氏鉄

( ゚Д゚) ( ゚Д゚)

( ゚Д゚) ( ゚Д゚ ) (ゴニョゴニョ)

(; ゚Д゚) (; ゚Д゚) 「「却下」」

(中略)諸国之使者え責口は不被下候間左様ニ相心得候得 「山内家資料」

表向きは各国からの使者には攻め口を与えないということで松平信綱と戸田氏鉄に却下された。
とはいうものの、

仰渡尤但馬儀福島以来場数名誉之者ニ候間軍之差引御談合可被成ニ付老躰旁座上自由ニ仕候得と被仰付御本陣近被差置候

攻め口を与えること自体は断ったものの、松平信綱は福島家以来の軍のやり取りに秀でた者として、久勝を信綱の戦の相談役にして
山内家と久勝の面子を立てたのである。

こののち、久勝の嫡子3人と毛利久八は2月27日の最後の総攻撃に加わり、彼ら久勝の子息らについては

同月二十七日惣責之節は嫡子左近二男勘兵衛三男八左衛門毛利久八右孰も城中え乗入候由中ニも八左衛門儀一揆二三人槍にて
突倒し其身も冑をしたたかに打たれ候得共ためし鉢ニて強ハ痛不申名誉なる仕合といづれも申あひ候と申傳候

このように記録されている。

こうして、仙石久勝最後の戦いである島原の乱は終結した。

そして、久勝は島原の乱終結の翌寛永16年(1639年)3月8日に死去。享年88歳。
戦傷で亡くなった雨森九太夫とは異なり、彼の最後については詳細は記録されていないものの、
恐らくはこの時の良き思い出と共に安らかに亡くなったのではないかと個人的には思う。

戦国の世を駆け抜けて土佐藩に仕えたもう一人の武人の最後の戦いの記録である。
参考:島原の乱の使者の戦い(4)土佐藩の場合
https://www.shokei-gakuen.ac.jp/univ/wp-content/uploads/sites/2/2019/07/86509874ddc951b05fc5872251d94c78.pdf
※PDF注意


625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/28(火) 23:08:50.66 ID:kR2UOwai
東郷隆のいくつかの小説で主人公として描かれてたっけ>仙石久勝
「決戦!関ヶ原2」収録の短編「戦さ神」だと高知市の愛宕神社が仙石久勝が山城国愛宕権現を勧請したものとかいう話があった

豊臣秀次の切腹

2021年09月06日 17:11

16 名前:1/2[sage] 投稿日:2021/09/06(月) 14:57:33.61 ID:rIgZ8UGP
文禄四年、秀次事件の勃発により、秀吉の嫌疑を受けた豊臣秀次は高野山に登り、法体にならせ給い、道意居士と
申された。供奉の人々もみな髻を切って、偏に後世を祈り、上使を今や今やと待っている所に、
福島左衛門大夫(正則)、福原左馬助(長堯)、池田伊予守(秀雄)を大将として、都合一万余騎が、
七月十三日の申の刻に伏見を立ち、十四日の暮れ方に高野山へ到着した。

三人の上使は上人の庵室に参ったが、そのころ入道殿(秀次)は大師の御廟所に詣でようと奥の院に
居られ、木喰上人よりこの旨が伝えられると、すぐに下向され三人の上使と対面された。

左衛門大夫は畏まって、御姿がすっかり変わられたのを見て涙を流したが、これを入道殿はご覧になって
「いかに汝等は、この入道の討手に来たのだな。この法師一人を討つために、事々しく振る舞うものだ」
と仰せになると、池田左馬助畏まって「さん候。御介錯仕れとの上意に候。」と申した。
これを聞くと秀次は

「さては我が首をお前が討つつもりか。いかなる剣を持っているのか。入道も腹切れば、その首を
討たせるためにこのように太刀を持っているぞ。汝等に見せよう。」と言って、三尺五寸ある
金作りの御佩刀をするりと抜き、「これを見よ」と仰せになった。
これは池田左馬助が若輩でありながら推参を申すと思われ、重ねて物申せば討って捨てようとの
ご所存のように見えた。
秀次公の三人の小姓衆は、御気色を見奉り、『上使たちが少しでも動くようなら、中々秀次公の
御手を煩わせるようなことはしない』と、互いに目と目を見合わせて、刀の柄に手を掛けて控える
その形勢は、いかなる天魔・鬼神も退くように見えた。

入道殿は御佩刀を鞘に収め、「いかに汝等、入道がこの時に至るまで、命を惜しんでいると、
臆しているように思っているだろう。これまでの路において、如何にもなるべしと思ってはいたが、
上意を待たずに相果てれば、『やはり身に誤りがあったからこそ切腹したのだ』と、それに連座して
故なき者共が多く失われる事の不憫さに、このように長らえている。

しかし、今は最後の用意をしよう。私は故なき讒言によって相果てるのであるが、仕えている者共は
一人も罪ある者は居ない。この事を秀吉公の御前に宜しく申し上げ、この入道の供養として、命を助け
得させよ。面々、頼むぞ。」
と宣われたのは、有難き御心底であると一同感じ入った。

それより座を立たれ奥に入られたが、ここで木喰上人を始め一山の衆徒会合して、三人の上使に向かい
「当山七百余年以来、この山に登った人の命を取ったこと、更に無し。一旦この事を秀吉公に言上し、
御願い申し上げる。」と、大衆一同が申したが、上使の三人はこれを聞くと
「そういう事ではあるのだろうが、とても叶うまじき事である。」と再三断り、衆徒たちと問答となった。
衆徒の意見が止まらない中、福島正則が進み出て言った

「衆徒の評議、尤も殊勝であると私も思う。さりながらこれ以上時間がかかれば我々も秀吉公の御勘気を
蒙り、切腹しなければならなくなるだろう。そなたたちが是非にも言上すべきと思慮しているのであれば、
まずこのように申している私を、各々の手にかけて殺すべし。その後は心次第にせよ。」
そう、膝を立てて申し直された。

17 名前:2/2[sage] 投稿日:2021/09/06(月) 14:58:17.28 ID:rIgZ8UGP
その夜はこの評議に時移った。翌日の巳の刻頃(午前十時頃)、入道殿は付き従っていた人々を
召されて、「汝等これまで来たる志、返す返すも浅からぬ。多くの者達のその中で、五人、三人が
最後の供をするのも前世の宿縁なのだろう。」と、御涙を浮かべられ、三人の小姓に対し
「どうしても若者であるから、最後の程も心許ない。その上私が腹を切ったと聞けば
雑兵共が入り乱れ、事騒がしく見苦しい状況になるだろう。」

そう言って、先ず山本主殿に國吉の脇差を下され、「これにて腹切れ」と仰せになると、主殿承り
「私は御後にこそと思っていましたが、御先へ参り、死出の山、三途にて
倶生神(が生まれた時から、その左右の肩の上にあってその人の善悪の所行を記録するという二神)に
路を清めさせましょう。」と、にっこりと笑い戯れた様子は、悠々とした態度に見えた。そして
かの脇差を推し頂き、西に向かって十念して、腹十文字に掻き切って、五臓をつまみだした所で、
秀次公が御手にかけて討たれた。この年で十九歳であった。

次に岡三十郎を召して、「汝もこれにて腹切れ」と、原藤四郎の九寸八分あるものを下された。
「承り候。」と、これも十九歳であったが、さも神妙に切腹すると、また御手にかけられ討たれた。

三番目は不破万作であった。これにしのぎ藤四郎を下され、「汝も我が手にかかれ。」と仰せになると、
「忝なし。」と、御脇差を頂戴した。生年十七歳。当時、日本に隠れ無き美少年であり、雪に見紛うほどの
白き肌をおし肌脱ぎ、初花が漸くほころぶ風情であるのを、嵐に吹き散らされる気色にて、弓手の乳の上に
突き立て、馬手の細腰まで曳き下げたのをご覧になり、「いみじくも仕りたり。」と太刀を上げると、
首は前に落ちた。

誠に彼等を人手にはかけないと思し召す、その御寵愛の程こそ浅からぬものであった。

そして入道殿は立西堂を召して「その方は出家であるのだから、誰が咎めるだろうか。急ぎ都に上り、
我が後世を弔うように。」と仰せに成られたが、「これまで供奉仕り、只今暇を給わって都に上っても、
一体何の楽しみがあるでしょうか。私は厚恩深き者ですから、出家であっても遁れられないでしょう。
僅かに命を永らえようとして都まで上がり、人手にかかるなど、思いもよりません。」と申し切って
居られた。この僧は博学多才にして、和漢の書に明るく、当檀那の辯を持っていたため、秀次公の御前を
去らず伺候して、酒宴遊興の伽僧となられ、最後の供まで致されたのは、他生の縁であったのだろう。

さて、篠部淡路守を召されて、
「この度、跡を慕いここまで参ったその志は、生々世々報じがたい。汝はどうか、私の介錯をした後
その供をせよ。」と仰せになった。淡路守は畏まって、
「今度、御供を仕りたいと思っている者がいかばかりも有る中に、私が武運に叶い、御最後の御供を
申すのみならず、御介錯まで仰せ付けられたことは。一生の望み、何事かこれに過ぎるでしょうか。」
と、大いに悦んだ。

これを見て入道殿は心地よさげに笑われ、その後両眼を塞ぎ、「迷悟三界誠悟十方空」と観念あって、
「では、腰の物を」と仰せになった。この時、篠部は三尺三寸の正宗の中巻きしたものを差し上げた。
秀次公はこれを右手に取り、左手にて胸元を繰り下げ、弓手の脇に突き立て、馬手へキッと引き廻し、
御腰骨に少し懸ると見えた所で、篠部淡路守が立ち廻ろうとしたが。「暫く待て」と宣ってまた取り直し、
胸先より押し下げられた所で、御首を討ち奉った。惜しいかな、御年三十一を一期として、南山千秋の露と
消え給わった。哀れと言うにも余りある。

立西堂は御遺骸を治め奉って、これも供を致した。篠部淡路守は関白殿の御遺骸を拝し奉って後、
三人の検使の所に向かい、「その身不詳に候へども、この度慕い参った恩分として、介錯を仰せ付けられた
事は、誠に弓矢取っての面目と存じます。」と言うやいなや、一尺三寸の平作の脇差を太腹に二刀差したが、
切っ先が五寸ばかり後ろまで突き通し、さらに取り直し、首に押し当てて左右の手をかけて前にふつと
押し落とすと、首は膝に抱かれ、骸は上に重なった。見る人目を驚かし、
「天晴大剛の者かな。腹を切る者は世に多いが、このような有り様は伝えて聞いたこともない。」と
諸人一同に感嘆して感じ入った。

近世軍記

豊臣秀次の切腹について


今治城の石集め

2021年09月01日 15:14

997 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/31(火) 23:04:19.68 ID:f6XXyc02
今治城の石集め

関ヶ原の合戦の戦功で宇和島8万石に今治12万石を加増された藤堂高虎であったが、
従弟の藤堂良勝を板島丸串城(宇和島城の旧名)の城代に任じ、自身は今治へ居を移すと
慶長7年(1602年)より渡辺勘兵衛を築城奉行、現地の武士である木山六之丞を普請奉行
として今治城の築城を開始した。

この時、最も苦労したのが石垣づくりのための石材集めとその搬入であったという。
これに対し藤堂高虎は一計を思いつく。

「石を持ってくれば米と交換する」

こうお触れを出したことで、人々は船や生竹で編んだ筏に沢山の大石を積んであちこちから築城現場へと
持ち込んだ。高虎はある程度の石が集まったのを見計らうと

「石はもういらね。捨てるのも構わぬが海中へ捨てられては船の航行に邪魔となるから捨てるな。さもなくば持ち帰れ。」

こう命じた。船頭たちは持って帰るに持って帰れず、仕方なく海岸に石を積み上げ放棄して各々帰っていった。

さて、船頭たちが居なくなったのを見計らった今治築城班はさっそく捨てられた石を城づくりに活用し、彼らの努力と
石を運んできた船頭たちの献身もあって今治城は着工からわずか2年で完成を見たという。

さて、この逸話であるが福島正則が慶長7年(1603)年から築城を開始した海に面する今治城と似た構造の広島の小方城(亀居城)
にも全く同じ逸話がある。
自分が3年ほど前に投稿したので藤堂高虎にも全く同じ逸話があったので驚いたのだが、隣国の大名で徳川寄りでもあるし、
ひょっとしたらこの今治城の成功体験を藤堂高虎公が福島正則公とシェアしたのかもしれない?

福島正則「石一個に対し米一俵差出候」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11124.html
大竹市歴史研究会(亀居城)
http://otake-history.halfmoon.jp/localhistory/ogata/亀居城/

参考サイト:今治地方の伝説集 今治市商工会(逸話96)
https://www.imabaricci.or.jp/今治地方の伝説集/#ryuumonzanzyousyu



「過分に存じ奉ります」

2021年04月08日 19:39

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/08(木) 14:59:30.05 ID:/oR0YyLC
福島正則は)今度(関ヶ原)忠節の仁であるので、福島殿へ安芸、備後両国を遣わすことになり、
その御使として本多中務大輔(忠勝)、井伊兵部少輔(直政)両人が遣わされた。
そして両国を遣わされる事を、福島殿がもし不足に思っていてはと、両人も間を取り、申出して、
如何かと様子を見ながら、御意の通りに両人が申すと、福島殿は思いの外機嫌よく

「過分に存じ奉ります」

と申した。両人は大いに喜んだ。

慶長年中卜齋記



100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/09(金) 12:29:03.81 ID:xFBl5jAz
直政不死身かよ

『武功雑記』より、雑記

2020年10月08日 17:23

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/07(水) 23:36:29.82 ID:GcERk3uE
武功雑記』より、雑記

加藤清正福島正則の不和
加藤清正より、福島正則に平野長元を遣わし申し入れようとしたのは「秀頼公のご恩をお忘れではないでしょう。そうであれば、わが軍の兵船があまたあるので、兵を乗せ、出船します。そのとき、福島殿も兵をあまた上らせてください。(途中に)家康の婿の池田輝政がいますが、押し攻め『フミツフシ』てしまえば、苦もないでしょう。そうなれば大坂までは『大道』を歩くよりも安心して進軍でえきるので、御意を得たい」という内容だった。
この件を申し入れる隙がなかったので、京都へ古田織部の茶会に正則が赴いたとき、長元も出向き、外露地で「卒度」(そっと)申し伝えると、正則は「いやいや、それがしは承知しがたい。家康公から大国を賜った厚恩は忘れがたい」と返事をした。
このことを長元が帰国して清正に伝えた。すると、清正は「福島はさてさて、ふがいない者だ」と腹を立て、清正と正則の仲が悪くなった。長元は平野長泰の弟である。(平野権兵衛から話を聞いた)

・島津維新の親父ギャグ
島津義久(ママ、義弘)は剃髪して維新と号した。大脇差を差し、樫の木の棒を常についていた。
あるとき、小姓たちが囲炉裏にて、火箸を焼いて慰みにしていたところに義久が現れ、小姓たちは驚いて火箸を灰の中に差し込んだ。
すると、義久は知らずに火箸を握ったが、少しも熱いという表情をせず、火をおこし、静かに灰の中に差し込んだ。
のちに西郷壱岐守に語ったのは「小姓どもが悪さをして手を焼かされている」といって、手を見せると「手ノ内焼フクレ」ていた。

・やはり面倒くさい三河武士(というより彦左)
永井善左衛門の邸宅へ板倉重宗が振る舞いに出向いた。相客は石谷十蔵、横田甚右衛門(尹松)、井上太左衛門、戸田半平、大久保彦左衛門(忠教)、今村九郎兵衛だった。
このとき、今村は鑓奉行、大久保は御旗奉行だった。
今村が言い出すには「それがしは小牧長久手のとき、人が十人で挙げるほどの手柄をどの鑓合戦の場所でも立てた。それなのに何のお褒めもなかったが、彦左はなにも優れた手柄がなかったのに、よい役職を得ているのはなぜだ?」と問うた。
彦左衛門が返答したのは「それがしは鬼神のごとくに聞こえたる岡部元信を長篠で切り落とし、本多主水に首を取らせた。そのほか『チクチク』(細々)としたことはあまたあるが、甲州者みたいなやつから逃げたことは功名なのか?」。
(元武田家臣の)横田はそれを聞いて、「それがしが(武田方として徳川軍の攻勢から)高天神城に籠城したのは運を開くためではなかった。勝頼が(後詰めに)同心しなかったので、仕方なく務めを果たし、どうしようもなくなれば敵を切り抜け、勝頼の元に参るという君臣のちぎりをかわしていたからだ」。
それに彦左衛門は『(城の)狭間くぐり』というのだ」。
横田は「何を言うか。三河者の頭の上を越えて活路を開いたのだ。手助けする者もいなかった」。
彦左衛門は「その(手柄の)ほかになにかあるのかねえ(何ソアルベキカヌ)」
横田は「(本能寺後の)蘆田小屋(春日城)でも前のように私こそ働いた」。
彦左衛門は「いかにも蘆田小屋では横田が逃げたとは聞かなんだ」。
横田は「これを聞かれよ。三河衆は『口ガワルクテ』人の武功に難癖をつける『意地ノアシキ』ことだと言われている。近藤石見守に起請文を書かせて語らせれば、有り体に話してくれるだろう」。
そのとき、板倉重宗は「みんなもう、老年なんだから、孫や子のことだけ考えていると思ったが、武功争いをしているのは近頃、珍しいことだ。若い者のためにもいいことだ。気が済むまで争ってください。とてもいいことですよ」。
その言葉で座敷は静まりかえった。

・信長と根来衆と餅と馬糞
根来を織田信長が天下(畿内)を取る3年前に通ったとき、根来の法師は信長が器量の大きな人と思っていた。
そこで大きな折を進上しようとをこしらえ、3つ進上した。
信長は馬上でそれを見て、「奇特である」と言い、折を開けて笄で餅を貫いて食べ、そのほかの折は「侍ども、食べるがいい」、大庭にぶちまけると、餅が馬糞の上に転び出た。
すると、どの侍もちょうだいして食べた。
その様子を根来の法師は見て、「位のある大将だ」と感じ入った。
その後、信長が天下を取って根来に軍事行動すると、かの人は怖じ気づき、さっそく降参した。



621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/08(木) 00:54:40.99 ID:ehS9sQ5G
この辺りから実像と違う通説の福島や加藤像とか信長像が若干できつつある感じしますね

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/08(木) 01:32:01.01 ID:hneWQDBE
「甲州ものなどに、逃げたるが高名になりたるがあると云。」は
 甲州の者で、逃げたのが武功であるかのようになってる者が居る(と謂われてる)な

「三河のものゝ頭の上をこえて通りしに、手さすものもなかりし」は
 (狭間をくぐるようにこっそり逃げたのではなく)三河者の頭の上を越えて活路を開いたが、(三河者で)手を出してくる者もいなかったぞ

ではないかと

>岡部元信を長篠で切り落とし、本多主水に首を取らせた。
『三河物語』でも特記してる位の彦左衛門の(本当は)高天神城での自慢話のついでに
第二次高天神城攻防で脱出した横田をあてこすってるというのがこの話の流れかと

余談
「大久保党が徳川家裏切ったことがない」って話で大久保VS横田の第ニラウンド始める模様

汝は福島左衛門大夫正則の友人であるので

2020年09月26日 17:53

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/26(土) 17:01:50.27 ID:rnApk812
慶長十九年十月八日、今日、竹中伊豆守(重利)が御普請の隙が明き、江戸への参府のため
大御所(家康)に御目見した。この時大御所の仰せに

「汝は福島左衛門大夫正則の友人であるので、彼のもとに使いをしてもらいたい。その内容は、
今度秀頼が野心の巧を起こしたが、これは秀頼が行ったことではない。織田有楽、大野修理、
木村長門、渡辺権兵衛、その他若輩の者達が秀頼に悪逆を進めたのだろう。

正則は太閤に好まれていたことで、秀頼とも疎遠ではない。しかしながら今度の秀頼の別心について
どのように考えているかという事について、彼が我等父子に対して逆心など有るはずもないが、下々は
狐疑を作るものである。
であるので、手元より人数を国元に下し、息男である備後守(忠勝)を添えて、大阪表の攻め口に加勢し、
正則は江戸に在るように。」

と仰せになり、江戸に遣わしたという。

駿府記

正則をむしろ気遣っているっぽい



588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/26(土) 17:58:21.29 ID:FUSAutg7
そりゃあ広島49万石がトチ狂って大坂方に付かれたら大変だからな、気も遣うだろ

589 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/26(土) 19:04:56.47 ID:NnWHuGt1
有楽が野心の側近連中に加えられてるのね
まぁ息子がバリバリの過激派だしそれ掣肘してないしそうも見えるか

大阪の豊臣秀頼が家康公に謀反のため

2020年09月12日 16:33

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/12(土) 12:08:21.19 ID:QHtbi35F
慶長十九年十月二日、雷が頻繁に鳴り響いた。美濃国加納の松平摂津守(奥平忠政)が逝去した。

大阪の豊臣秀頼が家康公に謀反のため、兵糧を貯め、去る八月、近国に金銀を遣わして相調えた。
福島左衛門大夫(正則)は大阪に八万石の兵糧が有ったが(この時江戸に在った)、秀頼より
借用したいと言ってきた。これに対し正則は飛脚にて『兎も角も秀頼御意次第』の旨を返答した。
その他、家康公の蔵米が三万石、諸国大名の米三万石、并びに町方の売買する米が二万石、
これらを大坂城に収納した。町人の米は代銀を以て速やかに決済した。

また秀頼は去る慶長五年(関ヶ原)の敵方の士、所々に隠れ居た所を、今これを招き、数百人扶持した(但し
人質を出さない者は抱えなかったと云々)。

これらに対し大御所自ら、大阪に使者を遣わした。それは大野修理(治長)の弟で、大野壱岐守(治純)であった。

当代記

大阪冬の陣直前の様相について



厳島の祟

2020年08月22日 18:29

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/21(金) 20:58:15.99 ID:31c7bMi9
慶長十一年六月二十七日、安芸国厳島の祭事にて、そこの代官である山本小兵衛という者がこの祭りの場で
狂気して、七日の間物に狂い、たちまち滅した。
この厳島の社領は、毛利輝元の時代は三千石が寄付されていたのだが、去る子年(慶長五年)、
福島左衛門大夫(正則)が拝領して以降、これらは悉く取り放たれ、まったく寄付が無く、下民たちは
代官の狂気を「その祟である」と言い合った。

福島左衛門大夫の息男が死んだのもこの神罰であるとして、この年よりわずか五十人扶持を寄付したのだとか。
その上で、末社の堂宇、并びに鳥居一つを建立したという。

当代記



286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/21(金) 21:33:31.18 ID:D1gAgxaA
慶長12年に乱行が目に余るとして正則に幽閉されて
翌年没した正之の死が神罰?

正則にしてみたら養子(正之)が死んで実子・忠勝に跡を継がせられるわけで神罰と言えるのかどうか

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/21(金) 21:56:55.20 ID:HXX7KAOx
察しのいい子は嫌いだよ

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/21(金) 23:08:05.75 ID:dX0iVFsh
まあ、徳川バンザイで豊臣系にはとことんきつい表現をする当代記だから…

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/22(土) 20:44:00.98 ID:sTKKz/hx
寄付しないと祟りが~っと言って金を貰ってそう

彼は時分を待っているのではないか

2020年08月09日 18:14

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/09(日) 12:42:13.86 ID:2a8mygWz
慶長十一年の頃、江戸の普請中に福島左衛門大夫(正則)と池田三左衛門尉(輝政)の間で云い事が
起こりかけた。どういう事かと言えば、福島正則の下女が欠落ちをして池田輝政の屋敷に居たのだが、
正則の中間が輝政の屋敷の外を通った時に彼女を見つけ、門内に入り台所の前に押し付けこれを捕らえた。
しかしそこに池田家の侍中間が出てきて、「狼藉者である」として、この中間は搦め捕られた。

福島正則はこれを報告されると
「国を出る時、家中の上下に触れたように、今度の江戸普請中、喧嘩致すべからず、人に頭を叩かれたとしても
堪忍した者には褒美を与え、喧嘩を仕掛けた者は一族妻子まで同罪とするという旨を下知しておいたのに、
このような儀は是非に及ばない。三左の屋敷に搦め置かれた中間、并びに女をこちらに返されるよう使いを
以て述べ、返し遣わされればこれの首を刎ねる。
この中間を搦め捕った三左衛門の中間たちに関しては、あい構わず、折檻などなさらないように。」

このように正則より申し入れがあり、輝政も「神妙の御存分、承った。」と申し、正則の宿所に自ら赴き、
礼謝に及んだ。正則も翌朝、輝政の宿所に参り、「昨日の御出忝ない」と申し述べたことで、この件は
無事に落着した。

この左衛門大夫正則という人物は短慮かつ荒々しく、被官以下は常に戦慄していたのであるが、
今回このように神妙な存分は奇特であると、その頃の人々はみな感じ入ったという。
また「彼は時分を待っているのではないか。」とも云われた。

当代記



440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/09(日) 12:53:13.60 ID:v6EIud7L
伊奈図書の時と大違い

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/09(日) 13:05:51.10 ID:UMJ2Jo/g
この時代の人はすぐに感じ入るよな

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/09(日) 17:04:49.08 ID:fVDrMUUd
正則がシラフとか
この時期何かの病気だったんじゃないか

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/09(日) 21:09:46.74 ID:ngSxZ2q8
酒が入っていなければ名君

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/10(月) 00:12:12.55 ID:wPKUX87e
暴走族が捨て猫を拾うと褒められる理論でもある

加藤肥後、黒田筑前については別ですので

2020年07月11日 17:25

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/11(土) 12:15:57.34 ID:EFbVF9nF
此あぢ分別肝要候事


以下は細川忠興が嫡男・忠利に送った書状の意訳。

  わざわざ申すべきのところ、江戸へ(忠利が)人を下されたので申します。

一、上洛する道中で、羽三左(池田輝政)、羽左太(福島正則)、蜂阿州(蜂須賀至鎮)などの家臣と
  行き違いました。どの家中も我々への慇懃さ(礼儀正しさ)が申せない程(よいもの)でした。
  それにつき、我々が諸大名に(今までのように応対すると)たちまち無礼になってしまうので
  右の衆のほかも(我々の)奉行衆が諸大名に対して無礼がないように、堅く申し触れて下さい。
  横目(監視役)も置いて、無礼の者があれば厳しく申し付けるようにしましょう。ただし成敗はせず
  押し込めてこちらへ申し越されるのがよいでしょう。

一、加藤肥後(加藤清正)、黒田筑前(黒田長政)については別ですので、そのつもりで申し付けて下さい。
  ただし両人の家中も、あなたがその場にいるときは上手く捌いてくることもあるでしょうから
  そういうときは見合わせて指図するのがよいでしょう。もしあの家中の者があなたに対して無礼を
  したのに、こちらの者が両人に対して慇懃にいたせば曲事になってしまいます。
  この案配の分別は大切です。[原文:此あぢ分別肝要候事]

一、右の条々は、一度申し触れただけでは変わらないでしょうから、度々申し触れて下さい。
  岡村半右衛門・中嶋左近・戸田助左衛門にもこの書中を見せて下さい。恐々謹言。
       (慶長十五年)三月廿三日            忠(花押)
                内記殿 

――『細川家史料 一六九八号文書』



その身利根才覚に優れ

2020年02月14日 16:49

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/13(木) 20:36:06.84 ID:UALFhqby
その身利根才覚に優れ


元和七年に毛利輝元が嫡男・秀就に宛てた二十一箇条の訓戒状の中で
改易された福島正則について触れているので抜粋&意訳。

一、福島左衛門(正則)などは、その身利根才覚に優れ上様の御前から漏れることが
  ないような方でしたが、国での行儀が悪いことを、内々に(上様が)お聞きに
  なってしまいましたので、かくのごとく(改易に)なりました。

――『毛利家文書 一一五三号』



853 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/14(金) 20:48:37.35 ID:HXa/yUPB
        _,.... -─-r‐- 、 __
       /,シ/ィ /lj !ヽヽヽヽ\
     // / ///l|ハl | ヽ丶ヽヽヽ
    ,.'// 川 | | |l-ゝ! 、 ! | l l | l ヽ
    !イ //!j !l | l、ゝ==、` lj y'jヾjノ
     | !/,.- 、!|ヾ!` ヽヾ;;シ   ィ;}'´
    l ハ rソミ、    `''"  丶ヽ
    ヽ!j,ヘ、ヽ,!   ""     _   j
       ゞ彡ゝ、  u     /
       | rヽ`フヽ     _____/
      ! lハYゝ,l     !
     j /∠ミヽ ヽ、_   ゝ- 、
      l/ l    ヽミΞ=-ニヽ_!lト、

   御前賀 夕菜(1991~ 日本)

太夫殿からの意見

2019年12月16日 18:36

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/16(月) 14:57:54.04 ID:r8/T39Ix
慶長十九年八月下旬、片桐市正(且元)は江戸に呼ばれ、家康公より
豊臣秀頼による大仏再建の成し様が悪い。」との事で、御袋(淀殿)か秀頼が江戸に下るように、
との仰せがあった。市正は大阪に帰るとその通りに申し上げたが、御袋様も秀頼も「江戸に下る
事は出来ない。」との意向で、秀頼に至っては、市正が江戸にて心変わりしてこのような事を
言っているのだと思った。その後色々有って、太夫殿(福島正則)の意見を聞きたいという事になり、
太夫殿より、堀田角左衛門という侍が大阪によしみが有ったためこれを上らせ、このように申し上げた

「ここは御袋様が江戸に御下りになり、家康公と御対面あった上でまた大阪に戻るべきです。
御姉妹方(妹のお江の方)へ御挨拶遊ばすという事にすれば宜しいでしょう。」

太夫殿からの意見はこのようなものであったが、全く御同心無く、逆に非常に御立腹されて
「重ねてこのような意見を申してはならない。」との返答をされた。

この返事が持ち帰られると、太夫殿は未だ見ぬ内に、使者の堀田に申し付けた
「大坂からの御返事を頂いた以上、これは直に家康公に差し上げるべきだ。」
こうして返事は家康公の元に届けられ、家康公はこれを一覧すると以ての外に御腹立ちに成り、
即座に京への出陣を命じ、諸大名も尽く軍勢を連れ大阪へと向かった。

この時太夫殿はこのように申し上げた
「私は秀頼を攻めることは出来ません。ですので嫡男の備後守(福島忠勝)を上らせたいと思います。
この太夫には江戸の留守を仰せ付けられますように。」
これを「如何にも尤もな事だ。」と思われ、「備後守を急ぎ上らせるように。」として、
備後守は大阪へと上った。

(福島太夫殿御事)

秀頼から福島正則への返答に家康公激怒し大坂の陣に



斎宮わるものにて

2019年12月15日 20:02

674 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/12/15(日) 11:41:47.53 ID:ejsf4hb3
太夫殿(福島正則)の家来に来島左門と申す者があり、知行千石取りであったが、たいへんな
かぶき者であった。また杉村四郎兵衛と申す侍の小舅である、林傳兵衛と申すかぶき者が居たが、
彼は牢人であり杉村四郎兵衛に頼って彼のもとに居住していた。

ある時、この林傳兵衛がいかにも長い刀を研ぎ屋にあつらえさせていた所、この研ぎ屋に来島左門が
参り、長々しい刀が坪に立て掛けてあるのに気が付き、「その刀を少し見せよ。」と手に取り、
「さてさて、この刀は一体何者が指しているのか。これは役に立たない。」と言った。
ところが丁度この時、刀主の傳兵衛がそこに在った
「その刀は私の刀である。役に立つと思ってこうして拵えさせている。それを役に立たないとは
不審に存ずる。」
そう申した所、左門は
「誰が刀主とは知らず申したのだが、言った通りであり是非に及ばぬ。この刀は其方の刀か、
このような刀は役に立たぬ。」
これに傳兵衛は
「いかにも役に立てて見せよう!」と申し、長々しい口論となった。

さて、竹中斎宮と申す五百石取りは太夫殿の側小姓であったが、彼もまた大変なかぶき者であり、
羽織などに『生過ぎたりや廿五』と大紋などに散らして、それを太夫殿の前でも着していた。
彼が先の牢人・林傳兵衛と日頃より親しくしており、故にあの来島左門と傳兵衛の口論の事を
聞かされた。ところがこの竹中斎宮はわるものであり(斎宮わるものにて)、来島左門の知り合いの者に
「研ぎ屋で牢人である林傳兵衛の刀を左門が見た事で、散々にやりつけられ非常に見苦しい様子で
あったそうだ。」と悪口を言った。知り合いの者はこれを左門に語ったが、左門は
「それは牢人の嘘だ。彼は私に返す言葉もなかったのだ。」と申し、これを聞いた斎宮は傳兵衛に
またこれを語り

「このままでは男として成がましい故、来島左門と果し合いをすべきである。私は助太刀を致す。」
と申した。そしてその後斎宮は左門に
「其方に林傳兵衛が果し合いをするそうだが、殊の外身の用心をして人を数多連れておくべきである。」
と申した。左門はこれを聞くと
「さてさて、その牢人が私と果し合いをすると申しているのか。やさしき申し分であるが、かの者に、
何時であっても私は一人で歩く。そう心得られよと伝えて頂きたい。」と申し、それより左門は毎日、
広島の街中を草履取りも連れずただ一人でで、20日ほども歩いたが、特に変わったことも無かった。

ある時、2月の彼岸に海善寺という浄土宗の寺で談義の有る時、来島左門は小姓一人を連れて
この寺に参ったが、林傳兵衛はその彼の跡を付け、左門のいる場所に密かに人の中を分け入り、
左門の後ろに忍び寄った。この時竹中斎宮は彼の助太刀を約束し、傳兵衛の後ろに忍んでいた。

傳兵衛は左門を討ち取ろうと「おぼえたるや!」と言葉をかけ刀を抜いた、左門は「心得たり!」と
申すや太刀速に傳兵衛を一刀で討った。そこに斎宮が、左門が立ち上がろうとした所を長刀にて
突き殺した。左門の小姓は刀で斎宮としばし戦い、斎宮はそのまま引き帰った。そこから直に城へ
参ると太夫殿へ
「来島左門が牢人と喧嘩をし、海善寺にて果てました。」と報告した。

675 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/12/15(日) 11:43:28.73 ID:ejsf4hb3
一方、左門の小姓は寺から直ぐに、左門の叔父で四千石取りの村上彦右衛門の所に参り、今までの仔細を
伝えると、彦右衛門は驚き、先ずは御城に参り、太夫殿へ申し上げた
「左門が喧嘩をした所、竹中斎宮が助太刀し、左門を突き殺しました。斎宮に処罰を仰せ付けられます
ように。」
太夫殿はこれを聞くと「斎宮はたった今、左門は喧嘩で果てたとだけ言っていた、不審なことである」
と申された。これに彦右衛門は
「左門の小姓がその場に居合わせ、斎宮の長刀とせり合い、長刀の柄に切れ込みを入れたと申して
おります。斎宮の長刀をご覧になって下さい。」
そう申し上げたため、斎宮の長刀を取り寄せご覧になった所、柄に切れ込みが在った。

このため竹中斎宮は自身の屋敷で蟄居していた所、村上彦右衛門らがにわかに押し込み、塀を破って
切り入らんとした所、内より理り申して来たことにより、扱いと成って斎宮に腹を切らせた。

その後に太夫殿はこのように申された
「杉村四郎兵衛もにくき奴であるので、内々法度にて申し付けよう。牢人を抱え置いて喧嘩をさせたのは
曲事である。」と、彼の組頭である蜂屋将監を呼び出し「杉村四郎兵衛も切腹させるように」と
申し付けた。この時四郎兵衛の屋敷は闕所となったため、四郎兵衛の馬をどうするべきかと、この
馬を持ち去った。太夫殿はこれをお聞きになると

「さてさて、四郎兵衛はにくき奴で心がけが専一で無かったが、蜂屋将監に預け置いたのに、
将監の申し渡しは覚悟が無い。大事の侍を預け置いた所に馬を持たせないのは大いなる間違いである!
今後のためにも将監は罰金として銀20枚を出すように。」
との事で、銀20枚をお取りになった。

(福島太夫殿御事)

いろんなとばっちりだらけの話



676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/15(日) 22:41:22.10 ID:GGURV1yb
こんだけ血気盛んな奴らばかりなのに、なんで幕府相手に一戦かまさなかったのかね

679 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/12/16(月) 18:27:38.91 ID:RnBCNb55
>>676
格下には強く、格上には弱い。
お家存続とプライドの両立にはこれしかない。

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/16(月) 21:41:13.66 ID:2dd4nNln
>>679
最低じゃないですか~