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太夫殿からの意見

2019年12月16日 18:36

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/16(月) 14:57:54.04 ID:r8/T39Ix
慶長十九年八月下旬、片桐市正(且元)は江戸に呼ばれ、家康公より
豊臣秀頼による大仏再建の成し様が悪い。」との事で、御袋(淀殿)か秀頼が江戸に下るように、
との仰せがあった。市正は大阪に帰るとその通りに申し上げたが、御袋様も秀頼も「江戸に下る
事は出来ない。」との意向で、秀頼に至っては、市正が江戸にて心変わりしてこのような事を
言っているのだと思った。その後色々有って、太夫殿(福島正則)の意見を聞きたいという事になり、
太夫殿より、堀田角左衛門という侍が大阪によしみが有ったためこれを上らせ、このように申し上げた

「ここは御袋様が江戸に御下りになり、家康公と御対面あった上でまた大阪に戻るべきです。
御姉妹方(妹のお江の方)へ御挨拶遊ばすという事にすれば宜しいでしょう。」

太夫殿からの意見はこのようなものであったが、全く御同心無く、逆に非常に御立腹されて
「重ねてこのような意見を申してはならない。」との返答をされた。

この返事が持ち帰られると、太夫殿は未だ見ぬ内に、使者の堀田に申し付けた
「大坂からの御返事を頂いた以上、これは直に家康公に差し上げるべきだ。」
こうして返事は家康公の元に届けられ、家康公はこれを一覧すると以ての外に御腹立ちに成り、
即座に京への出陣を命じ、諸大名も尽く軍勢を連れ大阪へと向かった。

この時太夫殿はこのように申し上げた
「私は秀頼を攻めることは出来ません。ですので嫡男の備後守(福島忠勝)を上らせたいと思います。
この太夫には江戸の留守を仰せ付けられますように。」
これを「如何にも尤もな事だ。」と思われ、「備後守を急ぎ上らせるように。」として、
備後守は大阪へと上った。

(福島太夫殿御事)

秀頼から福島正則への返答に家康公激怒し大坂の陣に



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斎宮わるものにて

2019年12月15日 20:02

674 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/12/15(日) 11:41:47.53 ID:ejsf4hb3
太夫殿(福島正則)の家来に来島左門と申す者があり、知行千石取りであったが、たいへんな
かぶき者であった。また杉村四郎兵衛と申す侍の小舅である、林傳兵衛と申すかぶき者が居たが、
彼は牢人であり杉村四郎兵衛に頼って彼のもとに居住していた。

ある時、この林傳兵衛がいかにも長い刀を研ぎ屋にあつらえさせていた所、この研ぎ屋に来島左門が
参り、長々しい刀が坪に立て掛けてあるのに気が付き、「その刀を少し見せよ。」と手に取り、
「さてさて、この刀は一体何者が指しているのか。これは役に立たない。」と言った。
ところが丁度この時、刀主の傳兵衛がそこに在った
「その刀は私の刀である。役に立つと思ってこうして拵えさせている。それを役に立たないとは
不審に存ずる。」
そう申した所、左門は
「誰が刀主とは知らず申したのだが、言った通りであり是非に及ばぬ。この刀は其方の刀か、
このような刀は役に立たぬ。」
これに傳兵衛は
「いかにも役に立てて見せよう!」と申し、長々しい口論となった。

さて、竹中斎宮と申す五百石取りは太夫殿の側小姓であったが、彼もまた大変なかぶき者であり、
羽織などに『生過ぎたりや廿五』と大紋などに散らして、それを太夫殿の前でも着していた。
彼が先の牢人・林傳兵衛と日頃より親しくしており、故にあの来島左門と傳兵衛の口論の事を
聞かされた。ところがこの竹中斎宮はわるものであり(斎宮わるものにて)、来島左門の知り合いの者に
「研ぎ屋で牢人である林傳兵衛の刀を左門が見た事で、散々にやりつけられ非常に見苦しい様子で
あったそうだ。」と悪口を言った。知り合いの者はこれを左門に語ったが、左門は
「それは牢人の嘘だ。彼は私に返す言葉もなかったのだ。」と申し、これを聞いた斎宮は傳兵衛に
またこれを語り

「このままでは男として成がましい故、来島左門と果し合いをすべきである。私は助太刀を致す。」
と申した。そしてその後斎宮は左門に
「其方に林傳兵衛が果し合いをするそうだが、殊の外身の用心をして人を数多連れておくべきである。」
と申した。左門はこれを聞くと
「さてさて、その牢人が私と果し合いをすると申しているのか。やさしき申し分であるが、かの者に、
何時であっても私は一人で歩く。そう心得られよと伝えて頂きたい。」と申し、それより左門は毎日、
広島の街中を草履取りも連れずただ一人でで、20日ほども歩いたが、特に変わったことも無かった。

ある時、2月の彼岸に海善寺という浄土宗の寺で談義の有る時、来島左門は小姓一人を連れて
この寺に参ったが、林傳兵衛はその彼の跡を付け、左門のいる場所に密かに人の中を分け入り、
左門の後ろに忍び寄った。この時竹中斎宮は彼の助太刀を約束し、傳兵衛の後ろに忍んでいた。

傳兵衛は左門を討ち取ろうと「おぼえたるや!」と言葉をかけ刀を抜いた、左門は「心得たり!」と
申すや太刀速に傳兵衛を一刀で討った。そこに斎宮が、左門が立ち上がろうとした所を長刀にて
突き殺した。左門の小姓は刀で斎宮としばし戦い、斎宮はそのまま引き帰った。そこから直に城へ
参ると太夫殿へ
「来島左門が牢人と喧嘩をし、海善寺にて果てました。」と報告した。

675 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/12/15(日) 11:43:28.73 ID:ejsf4hb3
一方、左門の小姓は寺から直ぐに、左門の叔父で四千石取りの村上彦右衛門の所に参り、今までの仔細を
伝えると、彦右衛門は驚き、先ずは御城に参り、太夫殿へ申し上げた
「左門が喧嘩をした所、竹中斎宮が助太刀し、左門を突き殺しました。斎宮に処罰を仰せ付けられます
ように。」
太夫殿はこれを聞くと「斎宮はたった今、左門は喧嘩で果てたとだけ言っていた、不審なことである」
と申された。これに彦右衛門は
「左門の小姓がその場に居合わせ、斎宮の長刀とせり合い、長刀の柄に切れ込みを入れたと申して
おります。斎宮の長刀をご覧になって下さい。」
そう申し上げたため、斎宮の長刀を取り寄せご覧になった所、柄に切れ込みが在った。

このため竹中斎宮は自身の屋敷で蟄居していた所、村上彦右衛門らがにわかに押し込み、塀を破って
切り入らんとした所、内より理り申して来たことにより、扱いと成って斎宮に腹を切らせた。

その後に太夫殿はこのように申された
「杉村四郎兵衛もにくき奴であるので、内々法度にて申し付けよう。牢人を抱え置いて喧嘩をさせたのは
曲事である。」と、彼の組頭である蜂屋将監を呼び出し「杉村四郎兵衛も切腹させるように」と
申し付けた。この時四郎兵衛の屋敷は闕所となったため、四郎兵衛の馬をどうするべきかと、この
馬を持ち去った。太夫殿はこれをお聞きになると

「さてさて、四郎兵衛はにくき奴で心がけが専一で無かったが、蜂屋将監に預け置いたのに、
将監の申し渡しは覚悟が無い。大事の侍を預け置いた所に馬を持たせないのは大いなる間違いである!
今後のためにも将監は罰金として銀20枚を出すように。」
との事で、銀20枚をお取りになった。

(福島太夫殿御事)

いろんなとばっちりだらけの話



676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/15(日) 22:41:22.10 ID:GGURV1yb
こんだけ血気盛んな奴らばかりなのに、なんで幕府相手に一戦かまさなかったのかね

679 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/12/16(月) 18:27:38.91 ID:RnBCNb55
>>676
格下には強く、格上には弱い。
お家存続とプライドの両立にはこれしかない。

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/16(月) 21:41:13.66 ID:2dd4nNln
>>679
最低じゃないですか~

神前にて鉄火を取らせるように

2019年12月14日 21:48

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/14(土) 11:24:20.94 ID:gZ81JtYR
藤松次右衛門と、津田野小源太と申す者があり、藤松次右衛門は舅、津田野小源太はその婿で
あったのだが、両人がそれぞれを相手取って公事(訴訟)を起こした。しかし非常にたわけた公事で
あったため、この訴訟を裁こうという者は誰も居なかった。

この事を太夫殿(福島正則)がお聞きに成り、
「さてさて、憎き奴らにて何とも申し付けようがない。である以上、神前にて鉄火を取らせるように。」
と申し付けられた。これにより、神前に竹棚を拵え器を重ね、それから黒鉄を長さ8寸、幅2寸に
仕り(1寸は約3センチ)、フイゴを立てて真っ赤に熱した。

両人は裃を着し、舅の次右衛門が先ず、熊野の牛王神符を三つ折りにして、両手に牛王の端を大結に
包むと、その上で鉄火を金鋏にて挟んで両手の上に乗せた、次右衛門は三歩あゆみ、いかにも静かに、
素早く器の上に鉄火を置いた。牛王神符は塵となり、器も焼けた。

婿の小源太も同じように手にとった牛王神符に鉄火を乗せ、いかにも足早に、少し手前から器に向かって
鉄火を投げた。

それから両人の手を布の袋に入れて3日過ぎて見てみると、次右衛門の手は火傷で腫れ上がり、
小源太の手は火傷していなかった。これによって次右衛門は切腹し、そして小源太は、訴訟が鉄火にまで
及んだため御奉公致し難く、御暇を下されるよう申し上げた。

太夫殿はこれを聞くと
「小源太は若年の頃より側で使っていたため、多少ひいきがましく思っていたが、にくき奴で、
殊に馬鹿な事をした。そこで腹を切らせろ」
(小源太若年よりそばにつかい被申候故、少ひいきかましく被存候得共、にくきやつ
殊にばか成仕形、其にて小源太腹切らせ候へ)

と言って、切腹させた。

(福島太夫殿御事)

鉄火をした意味が良く解らない。



666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/14(土) 14:31:35.78 ID:weGXiG/K
ノブが鉄火禁止にしたんじゃなかったのか。

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/14(土) 15:32:12.05 ID:LyzXRgMA
>>665
たわけた揉め事なので鉄火でいいってのは論理的だなw

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/14(土) 16:23:38.59 ID:q3vyqnhr
結局、両者切腹かw

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/14(土) 19:13:00.61 ID:gZ7AuHZc
こんだけ手間かけといて鉄火まで行ったのを理由に辞めるとか舐めた事言い出したのか

毛利の大阪退城も島津の臣従も

2019年12月13日 16:59

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 11:27:07.05 ID:PSwBmWQk
関ヶ原の戦いの後、安芸の毛利(輝元)は大阪に居たのだが、吉川(広家)と申す家老が
太夫殿(福島正則)に徳川家康公と講和のための扱いを成して欲しいと申してきたため、家康公に
その事を申し上げた所、「そういう事であれば扱いをされるように」との事で、吉川と講和の条件を
協議した所、「周防長門の二ヶ国を下される形で扱いを成して頂きたい。」とこ申すに付き、この旨を
家康公に申し上げた所、直ぐに二ヶ国下されることに同意された。
この時太夫殿は

「扱いが成った後から二ヶ国を下される事を違われれば、私が表裏者に成ってしまいます。
ですのでそうお考えの場合は今より私が広島への先手を仕り、毛利を退治いたします。」

との旨を申したため、二ヶ国は相違なく遣わされ、扱いが成った。これにて毛利は周防長門二ヶ国を
下され大阪を明け渡し長門へと参った。

また島津兵庫(義弘)殿からも、「私も太夫殿が扱いをして頂ければ家康公に従いたいと思います。」
と望んできたため、太夫殿は
「申し分が有れば承り、その上で扱いを入れますので、その時は急ぎ畿内に上って下さい。」と、
使いの家老にしっかりと申し遣わした所、島津殿は望みとして「天下普請を免除して下さる形で
扱いを成して頂きたい。」と頼み入り、この事を太夫殿より家康公に申し上げた所、
「確かに遠国の者故、天下普請は免除しよう。」と申されたため、扱いが成り島津殿は御礼に上洛した。
なお、これにより現在も島津殿は天下普請を致されないのだという。

太夫殿は安芸備後の二ヶ国を家康公より遣わされ、五十万石の御役儀を勤めた。

(福島太夫殿御事)

毛利の大阪退城も島津の臣従も福島正則のお陰だった、という内容。



410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 12:15:01.35 ID:syHFqi/1
天下普請を免除されたが美濃の堤防や駿河の堤防はやらされたのか。

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/14(土) 09:58:28.03 ID:qOQsaKRJ
>>410
美濃の堤防の話はちょっと悪い方に上がってたっけ?
幕府黒すぎだよな

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/15(日) 23:59:18.76 ID:yX6xKPHX
薩摩は薩摩で真っ黒だけどね

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/16(月) 00:39:26.58 ID:YZiNpUgO
>>412
薩摩の琉球・奄美支配はなぁ…

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/16(月) 01:07:45.88 ID:5BFPRxRK
かといって琉球の元々の統治が良かったかといえば
結構なアレなのがなぁ…

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/16(月) 21:41:32.62 ID:2dd4nNln
>>412
確かに…

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/16(月) 22:02:38.12 ID:54PzpnWo
>>412
黒酢に黒豚か

扨々、聞及たるよりも気違にて候

2019年12月12日 17:46

652 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/12/12(木) 11:31:17.84 ID:g+fbVvyj
(慶長五年)九月上旬に、徳川家康公は濃州勝山にお着きに成り、九月十五日に関ヶ原で敗れた
石田治部少輔(三成)は伊吹山へ逃げ隠れていたが、田中筑前守(吉政)の家臣が捕えて家康公の
元に送り、小西摂津守(行長)、安国寺(恵瓊)両人も方々にて捕縛された。
三人共に洛中を引き廻しにされたのだが、この時太夫殿(福島正則)はこの三人に小袖を二つづつ
与えた。中でも治部少輔は「太夫殿の御心指し感じ奉る」と悦び、衣類を着替え、太夫殿の与えた
小袖を着て洛中を引かれ三条河原にて首を切られた。

石田治部の弟である石田杢(石田杢頭(正澄)、実際には兄)、家老の島左近は佐和山の留守居であったが
(島左近は実際には関ヶ原で討ち死にしている)、佐和山城が攻められた折二人共切腹した。
徳川家康公は海手を通られ大津城に在陣され、三左衛門殿(池田輝政)、太夫殿は道中のそれぞれの
宿に制札を立て、百姓や山中に逃げた者達を帰宿させた。

その後太夫殿は山科に在陣し、子息(養子)の刑部殿(福島正之)を北政所様への御見舞に遣わした。
この時、京三条口の番をされていた稲図書殿(伊奈昭綱)の番頭が、ここに柵を付けて鉄砲の者
三百人でこの番所を堅めていた。ここを福島刑部殿は理を入れ京へと通過したのであるが、その後に
刑部殿へ急用があるとして、太夫殿家臣の佐久間嘉右衛門と申す者、知行二百石取りの侍を刑部殿の
元に遣わしたのだが、この嘉右衛門も番所にて、急用であることとを理り申したのだが、当時は
厳しい時分であり、番所では通そうとしなかった。この時嘉右衛門は「慮外では有るがここの番の
責任者である図書様に理由を申し上げたい。」と色々と言ったのであるが、とにかく通さないと申し、
竹杖にて押しのけられた。この時少し竹杖が当てられた。

嘉右衛門は無念に思ったが、多勢に無勢であり、その上番所でも有ることから是非無く、命ぜられた
急用も打ち捨てて太夫殿の元に帰ると、直に罷り出て

「今度のお使い、御急用を打ち捨てて罷り帰った事、なんとも御迷惑をおかけしたと思っています。
しかしながら稲図書殿御番所にて色々とお理りを申し上げたのですが通してもらえず、あまつさえ
竹杖にて押し出され、杖も当たりました。これでは男が罷り成りません。只今より私は切腹仕ります。
相手は図書殿でありますので、哀れと思われ敵を取って頂ければ、有り難く存じ奉ります。」

このように申し上げた。太夫殿は「それは卑下すべき事ではない。多勢に無勢だったのだから
仕方がない。」と言ったのだが、嘉右衛門はそのまま帰って切腹した。

653 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/12/12(木) 11:31:45.63 ID:g+fbVvyj
この事を太夫殿がお聞きになると
「さてもさても不憫な事だ。」と涙を流し、この嘉右衛門の首を取り寄せ、井伊兵部少輔(直政)殿の
元ににこの首を送り、先の嘉右衛門についての事を伝え「稲図書の首を見せるべし。」と荒々しく
申し入れた。兵部殿はお聞きになると大いに驚き
「ご立腹は尤もです。しかしこれは稲図書が存じているわけではありません。この上はその場で
番をしていた三百人の者達を首にして進ずるので、それでご納得頂きたい。」と返答したが、
太夫殿はこれを聞き入れず

「嘉右衛門の相手は図書である。嘉右衛門はそう申し置きをした。どうしても図書の首を見なくては
ならない。この事を家康公に申し上げて頂きたい。その上で御同心無いのであれば、御忠節はこれまで
である。おっつけ大津へ向かい、家康公に直にお断りを申し上げるだろう。」

このように申し越してきたため、兵部殿は更に驚き、「さてさえ是非もなき義である。」と思われ、
とにかくそれぞれと相談すべきであるとして、浅野紀伊守(幸長)殿、細川越中守(忠興)殿、
池田三左衛門(輝政)殿、黒田筑前守(長政)殿に、この件の扱いを成されるよう頼んだ所、
この四人も内々に太夫殿の性格を存じており、「家康公に申し上げるしか無いでしょう。」との
意見であったため、これを報告した所、家康公は
「それならば三百の番の者達に切腹させ、それにて堪忍するように伝えるべきだ。」と仰せになった。
兵部殿は「先だってそのように申したのですが、まったく聞き入れず『それならば直にお断り申す』と
言っております。」と申し上げた所、家康公は

「さてさて、聞き及んだよりも気違いである(扨々、聞及たるよりも気違にて候)、今は大事の前の
小事であり、是非に及ばず。図書には切腹させよ。」

との上意にて、稲図書は切腹し、その首は太夫殿の元へ遣わされた。太夫殿は大いに悦び
「このようにして頂いて過分に忝ない。」と、すぐに大津へ御礼に参った。

図書は一万石取りの、直参の衆であった。
(福島太夫殿御事)



654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/12(木) 12:47:09.85 ID:t+lw0CPa
>>653
>聞き及んだよりも気違いである
酷いけどそのとおりで草
影武者徳川家康でみたなーこの話

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/12(木) 21:53:44.99 ID:ZtdUB/mz
だったら番兵三百人の首を送ればいいんじゃないか

今の感覚だと十分気違いだけどな

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 00:05:02.32 ID:YZgR0DVQ
「七分の一の命事件」
ならぬ
「三百分の一の命事件」
として人権教育のネタにされそう

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 00:13:10.73 ID:PYMzNtB9
まあ福島さんですし

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 08:00:56.52 ID:s4xg30G0
三百石と一万石の首じゃ釣り合わんなぁ、三百人犠牲にしろというのもやむなし

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 10:17:23.42 ID:mPdwyCZg
鉄砲傷受けた直後にこんなことで煩わされるんだから、そりゃ直政も死ぬわな…

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 13:36:01.77 ID:8Mf1pdbu
WIKIだと

>>この事件はその後に福島正則が改易される遠因となったともいわれる。

そりゃそうだ

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 19:44:49.92 ID:ibMCuezW
稲?伊奈?

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 23:25:36.92 ID:kT2im1w3
しかしさあ、加藤清正も福島正則も加藤嘉明も、
丹羽長秀の最期を知っているはずなのに、
どうしてそこから学ばずに天下取りの野望を持つ者に擦り寄って一時の大領を得る事を選ぶかねえ。

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 23:30:59.34 ID:7tRh0pW4
当人に責任があるのは正則だけのような
それに自分が上に立てないなら次の覇者に接近するしかないでしょ

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/14(土) 00:43:50.77 ID:B9HMV06b
戦って散れということか

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/14(土) 18:04:06.30 ID:6Qt5nNWK
>>662
中途半端にすり寄るからじゃないのかな、藤堂高虎ぐらい尻尾を振れば生き残れるのに

たとへ串に指候共男之ひけにハ罷成間敷候

2019年12月11日 16:39

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/11(水) 09:27:08.05 ID:u570j9EU
慶長三年八月十八日、太閤様(豊臣秀吉)は他界された。その前に示された御遺言では、
徳川家康毛利輝元が一年交代で大阪に詰めて仕置をするように御頼みなされ、その他の諸大名も、
一年交代で大阪に詰めるようにとされ、秀頼に無沙汰ないよう、それぞれに起請文を書かせた。
これにより諸大名は残らず
起請文をしたが、この時家康公は、

「上杉景勝は来年大阪に詰める予定であったのが、越後から奥州への国替えが有ったため三年間の
在京が御免されている。しかしそのため諸大名の中で景勝一人誓紙を出していない。景勝も上洛して
誓紙を出すべきである。」
そう景勝に対し伝えたが、景勝からは
『三年間在京御免となっており、上洛はしない。』
との返事であった

家康公は再三景勝に対し仰せ遣わしたが、とにかく心得る事無く、荒々しい返事を送り返した。
このため家康公はご立腹され、「では私が迎えに参ろう」(我等迎に可参)と、江戸へ御下りになり、
諸大名も「景勝謀反」と、追々関東へ下った。家康公の御先手をする者達は何れも宇都宮まで
出陣していた所、上方では石田治部少輔が謀反を企てていた。

石田が『家康公は私の仕置を成し不届きであり、毛利殿が御上がりになって大坂の御番を成されるように』
と安国寺恵瓊より伝えさせ、毛利輝元は早速大阪に上った。

この事が宇都宮に聞こえると、家康公は諸大名に
「そなたたちは景勝を退治した上で上方に打ち向かおうと申されているが、各々の妻子は大阪に在る。
であれば構わないので、ここから早々に上方に上がり候へ」

そう仰せに成られた時、福島左衛門太夫(正則)が申し上げた
「私に治部少輔と一味する筋目はありません。また大坂の妻子は治部少輔に渡した人質ではありません。
たとえ串刺しにされようとも、武士の躊躇う理由にはならず、捨て置きます。」
(私義治部少輔と一味仕候筋目無御座候。大坂へ妻子治部少輔に渡し人しちにへハ無御座候。
たとへ串に指候共男之ひけにハ罷成間敷候間、捨候)

そう言うと、跡継ぎである刑部(福島正之)をその場に召し、
「これを家康公への人質に進ぜます。これより私は、上方への先手を仕ります。上方に於いての
軍勢の兵糧については、私が故太閤様より十万石を代官所に預かっており、また七年分の米が
尾張に納め置いてありますので、都合三十万石ほど御用に立てることが出来ます。
景勝については先ずは捨て置かれ、上方に御出馬成されるべきと考えます。」

そのように申し上げたのである。このように左衛門太夫様が様々に申したため、細川越中守(忠興)殿、
池田三左衛門(輝政)殿、浅野紀伊守(幸長)殿、田中筑後守(吉政)殿、堀尾信濃守(忠氏)殿、
その他諸大名が家康公にお味方仕ると申し上げた。

(福島太夫殿御事)

いわゆる小山会議のお話ですね



福島堤

2019年11月27日 16:10

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/26(火) 19:13:27.56 ID:njxBcZBd
福島正則が安芸に入部したころのこと。
防芸の国境を流れる木野川(小瀬川)はたびたび氾濫を起こす川で、正則の統治時代に流域の数カ所で大規模な河川改修が行われた。
大掛かりな工事だったが作業自体は恙無く成功裏に終わり、落成した堤防を検分に訪れる。 誰もがお褒めの言葉もあろうかと思っただろうが、到着した正則は現地を一目するや血相を変えて棟梁を呼びつけた。
「これはいかなることか。不届き千万、切腹を申し渡す!」
正則が怒ったのも無理はなく、湾曲した川の流れの中、新造された堤防は大きく川幅半ばほどにまで張り出していた。
先述の通り木野川は防芸の国境を流れる川、すなわち福島領と毛利領の中間点。
まして芸州はもとより毛利の本貫の地、関ヶ原の結果とはいえ正則が入部していることに含みがあろうことは明らかだった。正則は自家に明らかに非がある形で公事に発展することを恐れたのだ。
結果、みごと堤防は落成したにもかかわらず棟梁は切腹。その甲斐あってか、はたまた正則もまた程なく川中島へ減封となったためか、木野川の堤防は問題とされることなく残った。
この堤防群は福島堤と呼ばれ、今も当時の威容を残しているという。



616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/26(火) 20:02:43.66 ID:tMteSYMN
棟梁は結果的に死に損だったな

617 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/11/26(火) 20:52:16.90 ID:qbnfwHsR
広島県大竹市と山口県美和町から岩国市に掛けての辺か…あの辺りは市松自身の差配で対毛利用に堅牢な出城の亀居城も作ったけど、
一国一城令が出る前に築城から僅か3年で廃城にしてたり、徳川家相手に相当気を遣ったのかねぇ?
しかしあの辺りは元々の川の流れのせいかこの工事のせいかは知らんが、車で走ると道がくねってる上に狭めで難儀な場所だわ。

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/26(火) 20:52:26.68 ID:RiijQ3KX
正則のクセに公儀に気を使ってんじゃねーよ

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/26(火) 21:49:50.99 ID:3ZFS8SM2
高田榊原藩「もっと川が渡りやすくなるように、改修しといてくれれば良かったのに…」

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/27(水) 04:29:24.61 ID:KeSnhB3n
>>618
かなり気を使っているぞ、市松。

駿府派の本多正純とのつながりが強かったせいで、
江戸派の土井利勝、酒井忠勝らとの対立に巻き込まれる形になって、
結果改易食らったいうのが今の定説だし。

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/27(水) 11:53:05.20 ID:man8xGao
授業の教育テレビで見せられたせいで、福島正則は改易の時に大権現様が生きていればって暗い城内で泣いてるイメージ
その前のシーンで当の家康が生前から潰す気満々で悪巧みしてて、どっちにしろ潰されるんですけどねって解説が入る

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/27(水) 12:55:52.94 ID:OpahBc85
メチャクチャな治世といえば、市松よりもよほど虎之助のほうが…。
熊本ではいまだに「せいしょこ」「せいしょこ」と慕われているけどさ…

韮山城、十八町口の戦い

2019年11月04日 17:08

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/04(月) 14:38:25.43 ID:fzeD9f8w
小田原役、豊臣方による韮山城攻め。

寄せ手の明石左近将監(則実)と前野但馬守長康は十八町口へ押し寄せていたが、突然城中より
丹波、富野、根府川、小野、広瀬ら三百余人が門をさっと開くと、どっと大波が押し寄せるように
打って出た。このため明石、前野の勢はたちまち谷底へと落とされ、思わぬ死傷者を出した。

これを見て、同じく寄せ手の福島左衛門太夫正則は、鐘や太鼓を鳴らし鬨の声を上げて横合いより
攻め込ませた。その中から福島丹波守治重、同式部丞、長尾隼人正一勝、村上彦左衛門、
大崎玄蕃允、可児才蔵、林亀之助、以下百人ばかりが抜け出し、城方へ逆襲した。

これに城主の北条美濃守氏規も七百人ばかりで打って出た。氏規はその軍勢を二つに分け、
左右より敵を押し包もうとした。福島正則もこれを見ると六、七百余騎を率いて自ら打って出て、
たちまち乱戦と成った。敵味方入り混じり、火の出るような戦いがしばらく続いたが、ややもすると
上方勢がまくしたてられ危うく見えた。しかしここで寄せ手の控えの勢が一斉に打って出れば、
敵を圧倒し城も落とせるように思われたが、この韮山城攻めの総大将である織田内府信雄の
下知はなく、控えの部隊はただじっとその戦いを見ているだけであった。
そこからやや有って、織田内府の陣よりついに合図の法螺貝が鳴り、寄せ手の総攻撃となった。

しかし北条美濃守は、これを聞くと即座に兵を退いた。その進退の時期を得た絶妙さは敵も味方も
驚くほどであった。それに対し、追い打ちをかけに福島正則の一隊が突き入ってきた。この時
城兵は未だ城内に入る橋を渡り終えていなかったため、美濃守は立ち止まって長刀を振るい、
追手を六人まで堀へなぎ落とした。その勇猛さは阿修羅のごとく凄まじいものであり、不動明王かと
思われるほどの憤怒の形相に敵が怯んだ所へ、城中より再び、横井越前守、小机修理亮、工藤次郎三郎
以下六騎が取って返し、橋詰に並んで敵を防ぎ、その間に城兵尽く城中へと入った。その後より、
美濃守以下六騎が悠々と引き上げたのである。

ここでまさに城門を閉めんとした時、首二つを掲げていた福島正則の家人・可児才蔵吉長が
その首を投げ捨て持っていた鑓をその扉の間にさっと入れた。このため門に隙間ができ、すかさず
才蔵はえいと声をかけその扉を両手で押した。これに城方も内より大勢で支えて押し返した。
寄せ手は才蔵に続き福島丹波守、林亀之助が駆けつけ才蔵に力を貸した。内でも再び押し返す。
負けじと才蔵たちが押している所に味方がどっと駆けつけた。

この時城の堀の上と門脇の狭間より一斉に矢弾が飛んできて、寄手二十人ばかりがたちまち討たれた。
それでも寄手は大崎玄蕃允、福島丹波守の郎党・小林平蔵、岡田新六郎なども加わり扉を押した。
またも狭間より鑓や薙刀が突き出され、小林と岡田が討たれ、可児才蔵と大崎玄蕃允の浅手を負った。

こうして双方がえいえいと押し合っているうちに、才蔵が差し挟んでいた鑓のケラ首が折れて扉は
完全に閉まった。この間にも長尾隼人正は三度まで塀によじ登ったが、二度は内より突き落とされ、
三度目はその口に敵の鑓の穂先が突き刺さって深手を負った。

このように福島正則の部隊はよく粘ったが、城兵もよく戦って防いだので、正則は終に退却の貝を
吹かせ、まだ城門で戦っていた四人を招き返した。才蔵は穂先のなくなった鑓に最前捨てた首を
もう一度拾ってくくりつけ、悠々と引き上げた。

そこで城中より、この四人を敵ながら天晴であると、その名を名乗るように言ってきた。
四人は橋の上に留まって、城へ向かって大音声で「福島左衛門太夫正則が家臣誰々」と名乗って
退いた。

この時城内の兵で、隙を狙って彼らを撃とうとする者があったが、美濃守はそれを止めて
「あたら冥加の武士を無碍に誅すれば、てきめん軍神の怒りに触れよう。必ず手出ししてはならない。」
と戒めた。かくて四人は何事もなく自陣へと帰った。

この一戦で、蒲生氏郷の手の者四百三十余人、福島正則の手の者六百八十余人が討たれ、手負いは
数限りなく有ったという。

(関八州古戦録)



313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/04(月) 19:57:42.66 ID:OTSVAPN0
>>312
両方かっこいいなぁ、しかし信雄もいい味出しとるw

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/04(月) 20:09:12.00 ID:lxC86Rew
美濃守ここまで来ると出木杉くんだろ

福島左衛門大夫の家来に名高き者多し

2019年05月03日 15:10

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/02(木) 22:20:24.99 ID:lymMTQXw
福島左衛門大夫(正則)の家来に名高き者多し。

福島丹後(正澄)、村上彦右衛門(通清)、大崎玄蕃(長行)、蒲田弥吉、可児才蔵(吉長)、
上月、大橋茂左衛門、吉村又右衛門(宣充)などは小姓達で当時は彼らの数に入らず。

――『老人雑話』

文章に区切りがないからどこからが小姓達なのか分からず



当分は太閤は怒り給えども

2019年05月02日 17:59

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/02(木) 16:03:57.64 ID:lymMTQXw
福島左衛門(正則)・加藤主計(清正)は賤ヶ岳の時分は2百石の身の上なり。賤ヶ岳高名の後、
七本槍の衆中は大方が3千石を下されたが、左衛門は5千石になる。後に播磨龍野で6万石、ま
た後に尾陽で20万石、後に安芸で50万石となる。

福島は賤ヶ岳の軍法を破った罪により、刀脇差を取られて御勘気を蒙っていたが、隠れ出て高名
した。当分は太閤は怒り給えども、実は喜ばれた故に恩賞は他より優れた。

――『老人雑話』



870 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/02(木) 16:44:41.20 ID:pHaXRwu5
>>869
一族衆だった事もあってやはり期待のホープとして優遇された感じだったんだろうか?

岐阜をもって降参し、これ故に敗軍した

2019年04月24日 16:46

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 00:18:57.62 ID:2NRXAsO+
景勝追討の時に相従う大名は7人、小名は46人、総じて53頭(原注:上方御譜代とも)であるという。
江戸を1日程に出て小山に至ると上方より注進あり。「石田謀反して日本一味す」と。

東照宮(徳川家康)及び諸大将は大いに驚いて、何も言えなかった。即時に江戸へ帰り、評定が行われた。
上方御譜代衆を各々一人ずつ召し出して方策を問うと、皆答えることができなかった。

上方衆の中で只一人、福島左衛門大夫(正則)が進んで曰く「太閤の遺言の如く、秀頼を立て給うならば
私が先手を致そう」と言う。諸将はこの時に皆同意する。左馬(加藤嘉明)も言うことができなかったが、
福島が言い出した後に、「我が心もこの如し」と言った。譜代の衆も一人も言い出す者はいなかったが、
ただ井伊兵部(直政)が進んで曰く、「私が先手を致そう」と言った。

評定の後に諸将が皆言うには、「妻子が人質となっている。この事があるので一旦偽って『降る』と言お
う」とのことだった。東照宮はこれを許され、諸将は打ち立って上方へ上った。しかしながら、東照宮の
後陣は至らず、7月に事が起こって9月にようやく到着した。

美濃青野ヶ原(関ヶ原)で合戦があったが、初めは治部方に利あり。後に筑前中納言殿(織田秀信)が岐
阜をもって降参し、これ故に敗軍した。

――『老人雑話』

関ヶ原一乱の勝敗は岐阜陥落で決まったとのこと



822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 00:41:26.90 ID:y+S9JmHK
これいい話っていうか間違った話だろ

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 08:35:47.43 ID:bs3dFm3P
>>821
秀秋で決まったのは後世の影響で岐阜城陥落の時点で勝敗決まってたそうだが、
この時代にもそういう見方はあったんだな、ていうかまだ後世の創作の影響がなかったからか

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 15:35:49.04 ID:8I/LPCNJ
>>821
筑前中納言は秀信じゃないでしょ

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 16:38:02.82 ID:1ua9YfKL
参謀三法師

「賞功不踰時」というのはこれなり

2019年03月05日 18:08

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/05(火) 17:59:17.91 ID:kXHf7c1b
(柴田勝家討伐後)

今回の柳瀬表で秀吉が切り崩した時の一番槍はことごとく近習の輩である。

その面々は、福島市松正則・脇坂甚内安治・加藤孫六嘉明・加藤虎助清正・平野権平長泰・片桐
助作直盛(且元)・糟屋助右衛門尉(武則)・桜井左吉(家一。原注:秀長近習也)である。

石河兵助一光(石川一光)は一番に駆け入り、冑の内を突かれて討死した。これにより、舎弟の
長松一宗を召し出して家督となしたものである。

その9人はよき席を設け盃を下して領知を遣わし、添えて黄金羅帛と感状あり。その文言に曰く、

 今回の三七殿御謀叛により濃州大垣に陣替えした時、柴田修理亮は柳瀬表に至り出で立った。
 そのため一戦に及ぶべく秀吉が一騎で馳せ向かうところに、心掛け浅からぬ故、早々と駆け
 つけて、眼前で一番槍を合わせた。比類なき働きなので褒美(原注:あるいは3千石。ある
 いは5千石)となして宛がう。ますます今後も軍旅の忠勤を抜きん出れば、勲功を計るもの
 である。よって件の如し。

  天正11年(1583)7月1日 秀吉判

軍書に曰く「賞功不踰時」というのはこれなり。

――『天正記(柴田退治記)』



可児に好まれて辞し難し

2018年12月24日 15:21

辻小作   
594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/23(日) 23:02:09.52 ID:x2Amun2S
辻小作は福島正則に仕えており、同僚の可児才蔵と親友で、共に世に聞こえた者であった。

中黒道随は石田三成の家臣で、三成が賓客のように待遇した者であったが、関ヶ原の敗軍の際、
石田軍の中で中黒は唯一人踏みとどまり、散々に戦っていたのを辻が見て、「いざ、討ち取らねば!」
と言った所。可児才蔵は「情けないことを言うなよ、助けてやれ」と言い出した。
これに辻「つまり生け捕れということか。可児にそう言われては断れないなあ。」
(可児なさけなき事をいふもの哉、たすけばやと云、辻さては生けどれとや、可児に好まれて辞し難し)

そう言い捨てると馳せ行く所に、中黒は馬を深田に踏み入れてしまい、身動きができなくなっていた。
辻は彼に言葉をかけた「日頃の好により助ける!早くこれに取り付け!」と鑓の石突を差し出したが、
中黒は「このような時に命を助けてどうするつもりか!?」と既に自害を成そうとしたのを、辻は
「どうして謀るだろうか、神明にかけて偽りは無い!」と約束したため、中黒は鑓の石突に取り付いたのを
辻は主従でこれを引き上げ陣所へと送った。可児はこれを見て大いに喜んだ。

さて、辻は中黒を引き上げると、物の具を脱いで仰向けに寝転がって、たった今まで敵であった中黒を
物とも思わず物語した。この態度に中黒は「あまりに侮りたる事よ」と心中怒りを覚えたが、命を助けてもらった
恩を思って我慢したのだと、後にこの事を笑いながら語ったという。

中黒は後に井伊直孝が招き、二千石を与えられた。

(常山紀談)



597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/24(月) 15:11:18.32 ID:CtIeQJYp
>>594
>物の具を脱いで仰向けに寝転がって、たった今まで敵であった中黒を
>物とも思わず物語した。
昔の不良漫画のノリを戦場でやるなwていうかこういうのが元ネタなんだろうな

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/25(火) 10:14:28.13 ID:tQK9BjNv
主君の命令で旧知の者が殺し合う世界
その主君が逃げたとあっては殺し合う義務はないでしょ

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/25(火) 19:24:47.96 ID:uIU2gABD
>>594
田中吉政の部下である辻勘兵衛重勝が関ヶ原の戦いで
ともに天下三勘兵衛と呼ばれた石田三成の家臣の杉江勘兵衛を討ち取った話を思い出した
(残りの1人は渡辺勘兵衛)

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/25(火) 19:30:48.26 ID:uIU2gABD
ついでに渡辺勘兵衛はその常山紀談の辻と中黒の逸話の最後に
丹羽山城、谷出羽、笹野才蔵、稲葉内匠、中黒道随、辻小作とともに兄弟の約束をして天下七兄弟と呼ばれたとかある

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/25(火) 19:39:22.20 ID:uIU2gABD
今しらべたら6047
『天下七兄弟』、辻小作と中黒道随

で義兄弟の話も辻が中黒をうたなかった話も常山紀談出典で既出だった、お目汚しすまん

福島正則、岐阜城を落とした後の書状

2018年12月09日 19:09

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/08(土) 21:11:53.48 ID:ad9LGzCa
福島正則、岐阜城を落とした後の書状


遠路よりの書状ありがたく拝見いたしました。私は羽三左殿(池田輝政)、
左京殿(浅野幸長)と相談しているところです。

一昨日の廿二日に三左衛門尉殿、左京殿、遠州衆が川越えをしようとした際
岐阜衆が少々出てきたので、一戦に及ばれ敵を追い崩し手柄とされました。
昨日は羽越州殿(細川忠興)、加左馬殿(加藤嘉明)と私が稲葉山へと取り詰め
すぐに(岐阜城は)落去しました。
中納言殿(織田秀信)のことですが、色々と降参のことを申されてきたので
小姓ども二、三人と共に尾州へ送りました。

こちらのことで歯がゆいこともあるでしょうが、羽三左、左京殿と談合し
秀頼様の御為によいようにするつもりですので、御心を穏やかにして下さい。
恐惶謹言

                        羽左衛門大夫
  (慶長五年)八月廿四日                 正則 
浅弾正様(浅野長政)


――『浅野家文書』


阿房丸

2018年03月19日 17:28

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 22:27:53.64 ID:1KNxa5v1
阿房丸


慶長年中、池田輝政が大船*を高砂川で作ったものの
その船を出すことがなかったので、朽ちるままになっていた。
福島(正則)殿がこれを笑って、その船を阿房丸と名付け天下の嘲弄とした。

(その後大坂の陣が起こったので)輝政の智謀は測りがたいと言われたという。


――『翁物語』

* 『池田家履歴略記』によると長さ三十三尋、横十三尋の大船と一緒に
  千石余りの大船を数百艘作ったとされる。



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 22:55:47.57 ID:EcVepkc3
正則も「ああ輝政のように船を用意しなかったばっかりに
むざむざ大坂の福島屋敷の兵糧を秀頼公の籠る大坂城に運び入れられてしまうとは」

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/19(月) 11:52:44.73 ID:uRoEdMkP
幕府の許可もなく大船を持つとはけしからん内地に国替えさせよう

そういった格好をするものは

2018年03月03日 18:07

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/03(土) 10:33:43.34 ID:3gUQqM5+
福島正則の家臣で内藤勘解由という侍は、知行千石を取っていたが、この者、番所に
皮袴、皮足袋、皮雪駄を履いて、正則が通る時、蹲に控えていた。
正則は彼の姿を見ると

「勘解由はよき男ぶりにて、釣り髭(ひげの先を上方にはねあげた口ひげ)も作り
結構なことだ。小袖を着重ね、皮袴、皮足袋、新しい雪駄で番をして、もし曲者が
駆け抜ければ、その装束で追いかけることは出来ないだろう。今、この徒士者と走り比べを
しても其方が負けるだろう。
そういった格好をするものは、必ず臆病で役に立たないものだ。」

そういって恥をかかせたという。

(福島太夫殿御事)


福島正則は侍衆を叱った時

2018年03月01日 10:44

563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/01(木) 08:40:50.30 ID:iJLdX/jf
ある時、岩室萬右衛門が広島城の番所に詰めていた時、福島正則は他出しいていたが、
夜中に帰り、門を開けさせると、つくばいの場所で
「萬右衛門はどうして私を確認せずに、早く門を開けたのか!」
そう咎め始めた。

これに萬右衛門
「私は殿の御声を承り、御姿を見た上で門を開けました」と答えた

しかし正則
「ならばひぢ山の番所はどうして開けたのだ!?」

「ひぢ山の番所は何者が開けたのでしょうか?私は少しも御番を欠かしたことはありません!」

これを聞くと、正則はそのまま通っていった。
惣じて福島正則は侍衆を叱った時、相手が心強く自分の申し分を主張すると、
『この者は理を持っているからこのように強く申すのだ』と思われ、
逆に申し分が鈍いと、『その身に誤りがあるからこうなのだ』と考えられていた。

(福島太夫殿御事)



564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/01(木) 10:22:43.72 ID:b7Np7HDu
萬右衛門って信長の小姓をしていた長門の親類なんだろうか

正則って明朗快活なら多少のことは目を瞑ってしまうのかな

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/01(木) 11:07:22.95 ID:2BDBuY8x
大河ドラマ福島正則で真逆の人間を見てみたい

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/01(木) 23:43:07.76 ID:cQ+7Us1O
>>564
自分自身が物差しなんじゃなかろうか

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/01(木) 23:47:41.58 ID:JJljZG9g
自分を物差しにして物事を整える
つまり正則化か

悪い知行地

2018年02月28日 22:32

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/28(水) 00:04:07.42 ID:qMAVUeAk
福島正則の家臣で、野田忠介という侍は、知行五百石であったが、知行が水損し、毎年無作という
状況になったため、正則へ直訴した

「私に下された知行地は水損し、どうにも御奉公が出来難い状況です。どうか私に御暇を下されますよう。」

正則はこれを聞くと
「その方は大気者にて、終に只今まで私に直に訴訟を申したことは無かった。知行地が悪いのであれば
代わりの地を取らせよう。ただし、その上にても暇を貰うつもりか?」

忠介は申し上げた
「有難く存じ奉ります。そういう事ならば、いつまでも御奉公申し上げます。」

こうして忠介は知行地を所替えされ、さらに正則は、彼に今までの損米もつけるよう命じ、
損米の出た年数分の年貢、取れ高の6割5分が計算され残らず下された。これにより野田忠介は
殊の外富貴となった。

その後、日下部山三郎という者、これは二百五十石取の者であったが、彼も正則に申し上げた
「知行地が悪く、御役を勤めることが出来ません。どうか替え地を下さるよう、申し上げます。」

これを聞いて正則は
「せがれが憎き事を申す!そもそも山三郎には過ぎた知行地であるというのに、我儘を申しおって!
切腹させよ!」

そう激怒し、日下部山三郎は切腹をした。

(福島太夫殿御事)



559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/28(水) 10:50:58.17 ID:df5jKhFM
>>557
>知行地が悪く、御役を勤めることが出来ません

また酔ってたかと思ったが、こんな言い方されたらシラフの市松でも怒るわな

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/28(水) 14:53:15.22 ID:PMiJpjsl
>>557
昔話みたいw

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/28(水) 15:46:46.31 ID:AIbKzuOk
正直者と業突く張りな隣人のテンプレだよな

広島での知行割、屋敷割

2018年02月26日 17:22

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/26(月) 10:42:22.53 ID:hL/wCX1y
福島正則は安芸備後両国の検地を命じ、石持ちを多く任じるため、50万石を8つに分け、
そのうち6つ5分を家中の知行とした。大豆小豆は米の五割で一石、麦は倍、ヒエは4倍と計算し
役を務めるものとされた。
侍が困窮しては主人の用に立たないものであり、夏は良き帷子、冬は木綿の着物、紙子にて暮らすよう
申し付け、侍分は皆その装束にて暮らした。

侍屋敷はおおかた二十間四方で、角屋敷は小身者には与えず、二十二、三間に地形を均させ、新屋敷には
二十石、角屋敷には二十五石づつ米を与え、普請の費用とするよう申し付けた。
また、昔の毛利殿の時代より有る屋敷には、石垣四尺あまりの塀が付けられていたが、正則はこれを見て、
石垣を崩し二尺づつに作り直すよう命じた。これは、もし取り籠め者があった時、石垣が高ければ
それが盾となり仕寄りが難しいためと申された。

(福島太夫殿御事)

正則が広島入部してからの仕置について


乗打騒動

2018年02月24日 11:30

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/24(土) 08:46:34.62 ID:ZPsYMZ55
伏見城の普請の時、福島正則の衆は過半が幟町より城へ参っていた。道が遠いため、何れも
馬にて通勤していたのだが、この時、越前三河守殿(結城秀康)が京より伏見へ向かっていた
先を、福島正則の家臣の侍が、馬にて通った。三河殿はこれを見て「乗打をしている者を捕らえよ!」
と命じ、家臣たちが追いかけたが、その者はそのまま乗り通ってしまい、後にいた挟箱持ちを捕え
「乗打した者は誰か、申せ!」と厳しく尋問した所、下者であったのですぐに申し上げた。

これにより、三河守殿より正則へ使いが送られた。
「御内である梶田八左衛門と申す者、乗打を致した故、我々に引き渡すよう仰せ付けられるように。」
使いはこれを非常に荒々しく要求したが、正則は
「御尤もです。いかにも詮索してこちらよりご返事申し上げましょう。」
そう申し、その後家中を詮索した所、梶田八左衛門

「当日、京より伏見へと向かいましたが、横合いには誰も見えませんでしたので、乘り通ったのです。」

このように申し上げた。これに正則も「それは乗打ではない。梶田は少しも気遣う必要はない。」
そう納得し、後日三河守殿へも「乗打の事について様々に詮索しましたが、我々の家中の者では
ありません。何者かが、嘘の名を証言したのでしょう。」と返事をした。

そして正則は「三河守殿は近頃になく不合点な人である」と、交流しなく成ったという。

(福島太夫殿御事)



555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/24(土) 10:15:36.90 ID:JXhtM3Nn
まるで別人だな。同一人物の台詞とは思えん気配り…