乗打騒動

2018年02月24日 11:30

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/24(土) 08:46:34.62 ID:ZPsYMZ55
伏見城の普請の時、福島正則の衆は過半が幟町より城へ参っていた。道が遠いため、何れも
馬にて通勤していたのだが、この時、越前三河守殿(結城秀康)が京より伏見へ向かっていた
先を、福島正則の家臣の侍が、馬にて通った。三河殿はこれを見て「乗打をしている者を捕らえよ!」
と命じ、家臣たちが追いかけたが、その者はそのまま乗り通ってしまい、後にいた挟箱持ちを捕え
「乗打した者は誰か、申せ!」と厳しく尋問した所、下者であったのですぐに申し上げた。

これにより、三河守殿より正則へ使いが送られた。
「御内である梶田八左衛門と申す者、乗打を致した故、我々に引き渡すよう仰せ付けられるように。」
使いはこれを非常に荒々しく要求したが、正則は
「御尤もです。いかにも詮索してこちらよりご返事申し上げましょう。」
そう申し、その後家中を詮索した所、梶田八左衛門

「当日、京より伏見へと向かいましたが、横合いには誰も見えませんでしたので、乘り通ったのです。」

このように申し上げた。これに正則も「それは乗打ではない。梶田は少しも気遣う必要はない。」
そう納得し、後日三河守殿へも「乗打の事について様々に詮索しましたが、我々の家中の者では
ありません。何者かが、嘘の名を証言したのでしょう。」と返事をした。

そして正則は「三河守殿は近頃になく不合点な人である」と、交流しなく成ったという。

(福島太夫殿御事)



555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/24(土) 10:15:36.90 ID:JXhtM3Nn
まるで別人だな。同一人物の台詞とは思えん気配り…
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木造長政の警護

2018年02月23日 19:35

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/23(金) 19:23:08.02 ID:800FetQ9
福島正則が病死した時、その葬礼の場には、一町四方に木の柵を結い、四方に門を立て、
この警護には木造大膳(長政)、本多対馬両人の人数が当たった。
二町は木造の人数が受け持ち、彼の人数は長柄鑓をひしと立ち並べ、その次に控える
木造手前の侍たちは鑓を段々に飾り、その様子は殊の外見事であると、人々は褒め称えた。

残る二町は本多対馬の担当であったが、ここには長柄もなく、それぞれが自分の持ち鑓を装備し、
そのため長いもの短いものがバラバラであり、大変見苦しいと人々は悪しく申した。

日頃より木造大膳は、要らざる所に大気が過ぎ、そのため経済的に苦しく、御用の役には立たない、
などと謗られていたのだが、このことがあって以降、そういった悪口は止んだという、

(福島太夫殿御事)

正則から恥をかくほど叱られた木造長政さんですが、その正則の葬式にはこうして男を見せたというお話



福島正則、散々に叱りつけ

2018年02月22日 18:34

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/22(木) 18:29:27.56 ID:7/fd5rz0
福島正則が安芸に入部して、広島城の普請のおり、正則は石垣の据え方が悪いと、近江坂本より雇った
穴太衆たちを叱りつけ、さらに石垣の普請を担当する、丹波、石見、久之丞といった者たちにも
「お前たち一人ひとりの首を切ってやるぞ!」(おのれら一々首を切くれん)と、散々に叱りつけた。

さらに気が治まらなかったのか、元織田秀信の家老であった木造大膳(長政)の持ち場へ行くと
「木造殿は岐阜中納言(秀信)をしたいままにあしらっていたというが、それは間違いだったようだ!」
そう罵り、散々に叱りつけ、それは朋輩たちに対しても恥ずかしくなるほどの叱り方で、木造大膳は
面目無く無念に思い、そのまま宿舎へ帰り

「只今このように主人より叱られた事、不覚である。もはや男として立つことも出来ない。
二万石の所領と軍役の人数をみな返納し、船にて上方へ退く所存である!」

そう言って支度を始めたところ、石見、丹波、久之丞その他組頭の衆がやってきて様々に異見し、
そうしてどうにか、留まることになったという。

(福島太夫殿御事)



551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/22(木) 18:45:54.29 ID:cwMgupbs
市松はほんと人間としての器が小さいな

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/22(木) 19:11:38.00 ID:8gtNielT
さては、一杯引っかけてたな

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/23(金) 14:28:14.95 ID:g1a5qSNi
のちの台風で石垣崩れたんでしょ、正則の一喝が無かったら天守崩落してたな

団右衛門を逃がす

2018年02月16日 21:42

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/15(木) 22:45:59.12 ID:iuGNdXUY
加藤左馬(嘉明)殿の家臣であった塙団右衛門(直之)と申す者を、福島正則が召し抱えた所、
左馬殿より『団右衛門の事は私が深く構い(奉公構)をした者であるので、御扶持は御放しと
されますよう』と申し来た。

正則は団右衛門を呼び、このように言った
「左馬殿より、お主がお構いされていることを申し来た。どうだ、私の肝煎りにて、加藤家に
帰参しないか?」

しかし団右衛門は
「有り難きことと存じます。ですが、どんな事があっても帰参するつもりはありません!」
そう、直に申した所、正則は
「そういう事なら、退去させよう。左馬殿よりの使者の者たちに馳走を出させ、待たせておくように。」
そしてこの間に急ぎ早舟を準備させ、これに団右衛門を乗せ早々に出船させた。

これを確認してから、正則は加藤嘉明の使者を呼び出し、直々に返答した
「塙団右衛門の事、お構いされていることを知らずに召し抱えてしまった。そのため早速、扶持を放した。」
これを聞くと使者たちは直ぐに帰っていった。
しかしこの時既に団右衛門は順風の中、大阪へとはしりぬけ、そこに隠れ住んだ。
加藤嘉明は使者の報告を聞くとすぐに、団右衛門への討手を四方へ派遣したが、ついに発見できなかった
という。

その後、大阪の合戦の時、豊臣秀頼が彼を召し抱え、その時松平安房守(蜂須賀至鎮)の陣所に
夜討ちに入り手柄を成し、明けて夏の陣にて討ち死にした。

(福島太夫殿御事)


過分の扶持

2018年02月14日 18:28

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/13(火) 21:57:53.00 ID:tsCLngb4
小田孫兵衛という、元森家の武士が落ちぶれて、福島正則の家臣である梶尾出雲という者を頼り、
福島家の広間の御番であってもしたいとの望みを、梶尾より正則へ申し上げた。
梶尾は此のように言った

小田孫兵衛という人物は、森家の武士でありましたが、只今落ちぶれ、御広間の御番なりとも
いたしたいと、御家に仕えることを望んでおります。この者、かつては備中小田の城主でありまして、
少しばかり世間の覚えも有る者でした。また侍道の諸芸にも達している人物で、召し抱えて頂ければ
過分に存じ奉ります。」

正則はこれに答えた
「そういう者であれば抱えよう。追っ付けまみえ、五十人扶持を遣わそう。」

梶尾は驚いた
「さ、左様に過分に下されるような者ではありません!百五十石か二百石下されれば、過分に
存じ奉ります。」

「その方」正則は言った
「先ほど、彼は小城の主をも致した者だと申したのではなかったか!?そのような者に二百石や三百石
取らせても、後日主の役には立たぬものだ。」

そして小田孫兵衛にこう伝えられた、「千石の知行にて召し抱えられる」
孫兵衛は肝をつぶし、「一夜検校(急に金持ちになること)と成った!」と、それまでの
紙子の衣服を脱ぎ捨てて、天晴大名のような出で立ちとなった。
孫兵衛はこの時、72歳であった。
惣じて福島正則は、家中の者の跡目の事についても、親は子のために、一命を捨てて主の用に
立ったのだと、跡継ぎが少年であっても子供であっても、親の知行を相違なく継承させたという。

(福島太夫殿御事)



635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/13(火) 23:01:48.56 ID:3jtaZ7qU
>>634
ほんと、酒さえ飲まなければ

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/14(水) 14:32:31.02 ID:vSXtVQp5
72歳に千石はさすがにどうなんだw

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/14(水) 15:01:04.96 ID:qAT1fi0C
広く人材を募るなら待遇を良くするのが正道だからね
先ず隗より始めよ、みたいな話じゃね

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/14(水) 16:16:25.84 ID:G4VisRUK
その千石で兵士を養うんだから問題ない
戦巧者が育てりゃ強いだろ
千石の価値は出る

福島正則「石一個に対し米一俵差出候」

2018年01月13日 21:10

473 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/01/12(金) 22:20:42.25 ID:gD8tCq/c
福島正則「石一個に対し米一俵差出候」

関ヶ原の戦いの後、安芸と備後を与えられた福島正則が広島城を中心として国内の要地に多くの支城を築いたのは二つの逸話で既に語られているが、その一つで西の毛利に備えて築いた小方城(亀居城)の築城にまつわるお話。

1603年、福島正則は周防との国境付近の小方(広島県大竹市)にある海に面した標高88メートルの山に築城を開始した。
城の石垣を作るため、福島正則

「石一個に対し米一俵差出候」

との御触れを出したところ、小方の海に石をどっさりと積んだ船が現れた。しばらくは石と交換で米を振舞って居た福島正則だったが、
ある程度石と米を交換したのを見計らうと、
「もう石は余るほどになったので持ち帰ってくれ」
と言って、石と米の交換を止めてしまいました。

約束が違うと腹を立てた船頭は、小方の入江に、石を投げ捨てて帰って行きました。

船が去ったのを見届けた福島正則
「さぁ、石を陸揚げして城の石垣を築け」
と命じ、捨てられた石を人夫に拾わせ小方城の石垣を組ませ、その後五年の歳月をかけて完成した小方城は亀の形をしていたため、亀居城とも呼ばれ、
11の郭(「本丸」・「二の丸」・「三の丸」・「有の丸」・「なしの丸」・「詰めの丸」・「松の丸」・「名古屋丸」・「捨ての丸」・有りの丸の南に「鐘の丸」・亀の頭に当たる海に突き出ているのが「妙見丸」)を持ち、
西側は山陽道(西国街道)苦の坂峠、北は懸崖の山が人を寄せ付けず、南は海に面した港を持ち、更に石垣で囲み上げた城壁を加えて、まさに難攻不落の城として完成した。
だが、この難攻不落の小方城は既に語られている通り諸事情により完成より僅か3年で破却される事となったのである。
現在では1977年に調査発掘と整備が行われ、1000本の桜が咲き誇る桜の名所、亀居公園として近隣住民に親しまれている。

http://otake-history.halfmoon.jp/localhistory/ogata/亀居城/



474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/13(土) 06:31:29.20 ID:8l3z3ru4
せこい

475 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/01/13(土) 08:34:23.34 ID:Id8JCoMt
>>474
リンク先に
>いつの日か、旅の僧侶が小方の里に入り「この町には異様なものが漂っている。昔お城を築いたとき、たくさんの犠牲者が出ているが、今日まで誰も弔っていない。
だから霊が浮かばれておらず、この町は栄えないのだ。この大事な犠牲者を弔うものはいないのか」と言い残して立ち去ったといいます。


と有るので市松さん、供養費もケチった可能性が…
広島城近くの堤防を作った時は人柱の代わりに自分の剣を8本埋めさせて、更に金出して年一で祭りをやらせて参加者には参加費として、
堤防を補修する為の石を持って来させて、堤防の上で躍らせて堤防を踏み固めさせたと言う逸話もあるんですけどね

彼に使われる者、一人として強兵でない者はおらず

2017年12月20日 18:57

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/20(水) 06:07:04.23 ID:QZLUeOTl
福島正則が士を愛した話はすこぶる多い。家老の木造大膳(長政)が
病気の時、正則は毎日行水して裃を身に着け、天照大神へ祈願をかけ、

「大膳をいま五年御助けおき下されば、代々神楽を献上します」という
願書を納めて、数十日精進したのだといわれている。

その愛情の深さは、この一事でも知ることができよう。また正則の兵の
強さもつまるところ彼が士心を得た故である。

彼に使われる者は一人として強兵でない者はおらず、一人として忠臣
でない者はいないというのは、当時すでに世に認められたところである。
この一事は他の諸将で決して及ぶ者がいなかったという。

かの伊奈図書(昭綱)の首所望も、思うにこの心より出たのであろう。

――『福島正則伝』


心中では上野介をいかばかり

2017年12月16日 09:57

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/16(土) 06:32:33.16 ID:X70udXRS
南葵文庫の蔵書によれば、福島正則は死ぬ7日前に刀・脇差・金銀の
目録を作って遺物の分配を定めた。

この事を取り扱ったのは上月文右衛門である。この人は広島で2千石を
領した物頭である。その目録の終わりに、

“右の公儀及び御旗本衆まで分配致すのも、市之丞(福島正利)のため
である。私めのためではない”とある。そのいかに子孫を思う情の厚き
人であるかと知ることができよう。

正則は遺書を記して分配品の目録を作ったが、その中に正則ともっとも
懇親の間柄だった本多上野介への遺物がない。本多の同役たる土井・
酒井・阿部などへはそれぞれ遺物がある。これは甚だもって不審である。

『健斎自言』に、正則の配流というものは、まったく本多上野介の姦計だ
との由が記される。上野介が友を売り、君を売り、もって自己のためを
謀る人物であること世説に定評がある。

よって、その事をよく調べると『福島没落記』という古写本がある。正則の
没落より79年目、宝永2年に肥前大村藩主・大村因幡守純長が筆記した
もので、老人の物語を聞き記したという奥書があるため、正則の没落を
見聞した老人の話に拠ったものであろう。それによれば、

“広島城が洪水で大破に及んだため、正則はかねてより昵懇の上野介へ
相談に及び、破損の場所を普請致したい由を上様へ言上頼み入る旨を
申し出た。

上野介が申すには少しの普請は言上に及ばず、内証にて致すべしとの
指図である。正則はなおも御目付・竹中采女(重義)へ、上野介はかよう
申されるが、しかし念のために他の老中へも

御話致したほうがよろしいかと尋ねた。采女は答えて、上野介御承知なら
他の御老中へ申すに及ばず、上野介は今御威勢至って良く、この御方の
申される事に誰が否と申すだろうか、と言った。

正則はこのため他の老中へは申さず普請致したところ、上野介は佞人で
正則は天下の御大法に背き、城普請仕り候と申し上げたため、御改易
となってしまったのである。

広島へ城を受け取りに参った衆中は「僅かな普請である。これ式の事で
両国を召し上げられることは、いたましいことだ」と申されたという。”

しかるに正則は御咎めを受けた折、流石は武士なれば上野介の指図にて
仕り候とは言わなかった。涙を呑んでそのまま御受け申し上げて大人しく
両国を差し上げたが、心中では上野介をいかばかり恨んでいたか計り難し。

――『福島正則伝』




412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/16(土) 07:04:04.11 ID:Rz51mSaN
>>411
最後の思い出に一杯やったんかな

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/16(土) 09:43:40.61 ID:tVG1WpAW
>>411
実際は無届けで修理してたんだから正純にとってはとんだ風評被害だな。

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/16(土) 09:55:14.70 ID:qlVFd2SG
>>413
葵三代だと、家光政権下で正純は干されかけてて、話を通してても意味が無かった、って解釈になってたな

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/16(土) 10:21:27.09 ID:tVG1WpAW
>>414
さすがに古いから今の通説とは真逆の話(猪熊事件)とかもあるけど、あれは良い大河だった。
微妙な内容は視聴者に判断を委ねたり、何をやってもうさんくさく見える津川家康の名演とかね。

話を戻すと正純は家光が将軍になる前に失脚しとるので、秀忠の代の話ですな。
取次を務めてる大名は多かったけど、権勢は確かに土井利勝などの秀忠側近へと移ってますね。

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/16(土) 21:48:10.32 ID:yZGRFt92
それなら本多派の福島を土井らが陥れたとも言えるな
土井らへの遺品分配は付け届けとも取れる

御留守に任じて

2017年07月02日 21:15

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/01(土) 22:30:01.06 ID:or08M729
大阪冬の陣勃発の時、黒田長政福島正則も大阪攻めの御供を望んだ。
その頃は未だ太閤秀吉取り立ての大名が多かったが、その中でもこの両名はとりわけ武功の勇将で
あったため、人々も様々に気遣いしていた。

そこで本多佐渡守(正信)が両将を茶の湯に事寄せ饗応し、談じた

「まことの事かどうか知りませんが、今度の大阪のことで、御供の望みがあると承りました。
これが本当であるとすれば、心得がたい事です。
何故なら、あなた方が秀吉卿莫大の恩顧・御取り立ての身であると言っても、当家において関ヶ原の時分、
まさしく御忠節を申し上げた故に、大国を下され、以降誠に二心無く御奉公の御志をなされていると
見ています。

さりながら、大阪の城には秀頼が立て籠もられております。先主秀吉の息男が在城しているのを、時に従う
習いであるからと寄せ手に加わり攻められても、人は良いようには思わないでしょう。
また、だからといって寄せ手に加わりながら成すこともなく居るのも後ろめたいではありませんか。

ここを以て察するに、今度の御供の願い、非常に愚案であると言えるでしょう。
しかし各々に、特別なご存分もあるのでしょうか?」

この言葉に両人屈服し
「さあれば、御辺を以って、御留守に任じて頂けるよう申し上げていただきたい」
そう申したという。

(士談)



924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 06:40:34.79 ID:EcUAn0qX
「心得がたい」ってのはどう解釈すべきか

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 07:12:03.53 ID:PA608L7X
心得が鯛

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 07:43:58.18 ID:OVzA0S6z
納得しかねる、みたいな

こんなことを言わずに謀叛すればいい

2017年06月20日 16:47

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 01:38:54.99 ID:Xbr5DYuZ
こんなことを言わずに謀叛すればいい


家康が諸大名を集めて名古屋城を築かせたときの話。

皆々が寄り合いしていたとき、福島正則池田輝政にささやいて
「近ごろ江戸や駿府の築城続きで人夫もみな苦労して働いた。しかしながら
 天下の押さえとなる城なのでみな苦労と思う者はいなかった。
 今度は子の居城を築くようにと命じられる為ではないのだ。
 貴殿は大御所の親戚である、我一人の為に言上しろという訳ではない」
と申せば輝政は答えなかったが、加藤清正が奮然として正則を戒めて
「ああ粗忽なことをのたまう人だな、貴殿が普請に苦労することが
 不興ならばこんなことを言わずに謀叛すればいい。謀叛が
 出来ないのなら、命を違え斯様なことを申すべきではなかったな」
と荒々しく言ったので、正則はそれを恥じて何も言わなかった。
輝政は笑って戯言ということにした。

その後神君(家康)がお聞きになってみなの心を推察し
ある日輝政を呼ばれ諸大名に対して
「お前たちが普請を頼まれたくないと言うのを度々聞くが、それならば
 国に帰り城を堅く堀を深くして私が行くのを待つがいい」
と仰せがあったので、輝政がこれを諸大名へ申せばみな大いに恐れ
急に人夫を雇って名古屋城の石垣を築き、土地を四面に開いて
二十万人の人夫でもって西海南海の大名共を伊勢三河の大船で運送し
石垣を築き堀を掘れば不日の間に名古屋の城普請は成就した。


――『武徳大成記』



897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 07:31:40.10 ID:DKMfXt+W
これ、面白いな。
有名な福島と加藤だけのバージョンを元にこれができたのか、これを簡略化したのが有名なバージョンなのか、気になる。

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 18:39:34.42 ID:kl2FAQ/4
イライラ清正

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 21:23:17.42 ID:w64DAeEm
>>896
これで名古屋城に立て篭もれば面白いのに

岐阜城攻めと城受け取りの時の争論

2017年04月15日 18:59

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 15:19:54.21 ID:84ycGhCm
岐阜城攻めと城受け取りの時の争論


岐阜城攻めの日にあたり、大手の主将(福島)左衛門大夫正則を初め
細川越中守忠興、加藤左馬助嘉明、生駒讃岐守一正、寺沢志摩守広高
蜂須賀長門守至鎮、京極侍従高知、井伊兵部直政が萩原の渡りを越え
敵地の家屋に放火して太郎堤に陣した。

搦手の主将は池田輝政で浅野幸長、山内対馬守一豊、有馬豊氏
一柳監物直盛などは河田川岸を臨む所にいたのだが
岐阜城からは百々越前守(綱家)が三千ばかりの人数で新加納に出張して
川端へ備えを出して持ちこたえようとしてきた。

一柳直盛は(尾張国)黒田城主なので、川口の渡り瀬を心得ており一番に
川へ乗り入れ、その配下が瀬を渡っていくのを見てから、輝政は先手に
伊木清兵衛を初め家中一同を上の瀬に渡らせた。
したがって浅野、堀尾などその他の軍勢も各々川を渡り向こう岸へ馳せ上る。

(岐阜方の)兵が弓鉄炮を持って防ぐのだが、大軍が一度に押しかければ
悉く崩れてしまい引き返していった。
また飯沼小勘平(長資)を池田備中守長吉(輝政弟)自身がこれを討ち取った。
城方の主力は新加納に控えて防戦しようとしたが叶わず城中へ引いた。
搦手へ向かう途中新加納での競り合いでは敵の首級を七百余り討ち取り
そのことを輝政が江戸と太郎堤(大手側)にも知らせた。

すると正則は大手の諸将達に向かって
「各々はどう思われるか、搦手へ向かった面々は新加納で首尾よく
 逢えたそうだが、こちらは敵勢が出てこなかったので逢えなかった。
 ただそれだけのことではあるが、明朝の城攻めのとき千万に一つも
 搦手の面々に先を越されてはどうにもならないのだから
 今夜中に岐阜の城下まで人数を押し詰めるのがよいと思う」
と申されたので、みなこれに同意して急ぎ支度を調えて、酉の下刻から
戌の上刻までに繰り出して、岐阜の町はずれ近くまで押し詰めた。

夜が明けるのを待って段々と攻め上っていくところに、搦手も主将輝政を
初めとして着陣し攻め上ってきた。
そこに正則は大手方の諸勢を押し上げるため、大橋茂右衛門、吉村又右衛門に
申し付けてそのまま左右にある家に火をつけて焼いてしまった。
それで煙が山下へと吹きかかるので、池田を初め搦手の軍勢はここから
攻めることが出来なくなったので、輝政は大いに怒って軍勢を引き返させ
長良川のあたりにまわって水の手より攻め上った。

大手口では木造百々津田などが突いて出て坂中で防戦するので
寄せ手は大軍だったが直ちに攻めることはできなかった。
搦手からは城兵が出てこなかったので瑞龍寺の砦まで進んだ。
この砦には石田方から加勢として樫原彦右衛門、川瀬左馬助を主将として
二千人余りで守っていたが、浅野左京太夫幸長の家中の者共が一番に
攻めかけたのを見て、搦手の軍勢は一同に攻め寄せ急に乗り入った。
城兵がこれを防ぎかねている所、さらに大手勢が次々に攻め入ったので程なく
出丸は落ちて、樫原彦右衛門を浅野幸長の家人の岸九兵衛尉が討ち取った。
川瀬左馬助は二の丸に行った後本丸にこもったという。

(中略)

さて大手搦手の軍勢が悉く攻め上り、城兵が余りにも多く
討ち取られてしまったので敵は二三の曲輪を捨て本丸へとこもったが
池田家の旗奉行は武功の者だったので城内へ手早く旗を入れた。
したがって岐阜城は輝政が一番乗りしたように見えた。

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 15:20:30.78 ID:84ycGhCm
(織田)秀信の家老の木造左衛門が正則方に降参し、主人の秀信の助命があれば
本丸を明け渡すことを伝えると、正則は差し支えないと返答した。
家人の可児才蔵に使番の侍共を添えて味方に矢留めのことを触れ回らせた。

その後寄せ手の諸将が集まったとき、秀信を助命するのはどうかという話になり
左衛門太夫が
「秀信は自身の不了簡で内府(家康)へ敵対されたが、信長公の嫡孫であることは
 間違いなく、味方の中には信長の厚恩に預かった筋目の方もいるので
 この正則の計らいをよもや悪くは思わないだろう。我は織田を贔屓する
 筋目ではないが助命を承り、左様に心得て返答に及んだことなので
 今更変えようとは思わない。秀信の助命のことが内府卿の心に
 叶わなかったら、我の今度の骨折りを無にしてもらうまでのことだ」
と申されたので、その後あれこれと申す人はいなかった。
秀信は正則の世話で芋洗という所に逗留された後
関ヶ原御合戦後は紀州高野に登山して程なく病死したという。

秀信が出城した後、城受け取りのことについて正則と輝政とで争論があった。
正則は城主秀信から助命があれば城を明け渡すと申してきたので、願いの通り
助命するから城を空けるようにと返答した上は我らが受け取るほかないという。
輝政はそのことはもっともだが、我らの旗を一番に城内に入れたのは間違いなく
弓矢の古法に照らして、城を我らが受け取れないことがあるだろうかという。
大手搦手の諸将はみな並んでおられたが、面々には関係のないことである上
難しき争論の話なので、みな口を閉じ仲裁する人もいなかった。

井伊直政と本多忠勝が二人の間へと入られ、正則に向かって
「先程よりここで聞いていましたが、御双方ともに根拠があることですから
 御両人の御家来を立ち会わせて受け取るのはどうでしょうか」
と申されたが、正則は
「それは普段、人がいる城などを受け渡しする時のことで
 攻め落とした敵の城を受け取るときは、左様にはしない」
と申されて埒が明かなかった。

そのとき本多中務(忠勝)は一柳監物の側に寄り、何事か小声で申した。
輝政は近い所にいたので監物に
「中務はそこもとに何を申されたのか」
と尋ねられたので、監物は
「『今度の逆徒追討で各々命を投げ打たれ
  内府へ合力して下さる以上は、少々の不足があっても
  内府の為によきようにしたいと思って下さるのだと考えていた』
 と申されました。もっともだと拙者なども思います」
輝政はそれを聞かれて
「本当に中務の申されることはもっともだ。内府の為に
 不足を取るべきなのはそれがしより他にはいないのだから
 正則が城を受け取るのがもっともだ」
と言われ事が済んだという。

そのとき正則は
「最初に両人の衆(井伊・本多)が申された通り、両家の立ち会いで
 受け取るので輝政の家人も出されるように」
と申されたが、輝政は
「我らの家来を出すには及ばない。時が過ぎてしまったので
 早々に城受け取りの片をつけた方がよい」
と申されたという。

岐阜城攻めのときの正則と輝政の争論と世に知られているのはこのことだと
一柳助之進(直良)が語ったのを聞いて書き留めた。
きっと親父の監物殿が雑談されたことがあったのではないかと思う。


――『落穂集』



817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 15:25:04.56 ID:WMM//8tO
岐阜城は見た目は堅城そうなのに
あっさり陥落し過ぎだよな
http://i.imgur.com/4PTFNsx.jpg
ぎふ

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 16:51:46.84 ID:2QxKWdjF
常真さんでも落とせる岐阜城

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 18:04:45.57 ID:RKT7CIGM
後詰めなけりゃ落ちるわ

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 18:51:08.08 ID:VwHS4dM6
岐阜城は水源が少なくて大勢で籠城するとあっという間に干上がる、と聞いたことがある。

岐阜城攻めのくじ取り

2017年04月14日 16:35

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 17:11:05.49 ID:87GdGGbi
岐阜城攻めのくじ取り


岐阜城攻めのとき、(福島)正則と(池田)輝政とで大手搦手の争論があり
井伊直政、本多忠勝が輝政に異見を申したので収まったという様に
旧記等には見られるが、左様ではなかった。

なぜなら大身小身に係わらず敵地へ近いところの領主を
先手と致すのが日本の古来からの武家の定法であるので
尾州清須の城主である正則を一の先手、それに続いて
三州吉田の城主である輝政を二の先手ということにしたのだ。

格別なことなので両人には小山の御陣所で、内府公が
直に仰せ渡したので両人の争論などはなかったのだが
その他の大身小身共には大手七曲り口に向かうことを好み
搦手の寄せ手を嫌うものがいた。

大手、搦手と犬山城の押さえは必要だというのは各々の相談で
決まったのだが、人数割りをどうするかは埒が明かなかったので
井伊本多両人の衆は御列座の衆を二つに分けてくじ取りをさせ
誰は大手、誰は搦手、誰々は犬山の押さえと決めたので
人数割りが差し障りなく済んだという。

この説は旧記とは違うのだが大猷院様(徳川家光)の御代に旗本へ
召し出された大道寺内蔵助[若い時は遠山長右衛門と名乗っていた]は
岐阜城攻めの時は福島正則方にいて大手口で働きなどしていて
老後になってこのくじ取りの物語をしたので書留めた。


――『落穂集』



811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 17:22:29.50 ID:6dYoS0ds
苦労してるな

獄司所用の鑓之事

2017年02月23日 10:17

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/23(木) 07:41:29.69 ID:NtmEGZmh
獄司所用の鑓之事

 概して人へ刑罰をおこなうとき、獄司が用いる槍は柄が朱黒の段塗である。
予も引廻し晒し者に行きかかったときに度々見た。
宗耕が言うには、磔罪のときもこの槍で突くという。
 さて、この槍は初めは福島左衛門(正則)の家の槍であったが、
故あって何者かの物となり、それより獄司に転じたという。
その次第は聞いたが忘れた。
福島は違っていないはずだ。

(甲子夜話三篇)


清正の花押筆画多かりし事

2017年01月31日 15:47

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 23:54:08.09 ID:eGddXOW8
清正の花押筆画多かりし事

朝鮮より、諸将が連判の書を太閤秀吉に送るという時、加藤清正の花押が特に画数が多く、
書き上げるまでやや時間がかかったのを、福島正則は苦笑して
「こんな事では、仮に病が重くなって、いざ遺言を書くという場合にも差し障りがあるだろう。」

清正はしかし
「私はそうは思わない。戦場に屍を晒そうとも、汚く逃げてしとねの上に死のうとは考えもしていない。
であれば遺言状など問題ではない。」


これに正則は返す言葉もなかったという。
(常山紀談)

しかし

清正の花押
http://i.imgur.com/E988uIr.jpg
SnapCrab_No-0103.jpg

正則の花押
http://i.imgur.com/zBL2r6X.jpg
SnapCrab_No-0104.jpg

それほど手間に違いがありそうには見えないがw




567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 08:39:47.30 ID:NzQiGzf/
>>566
その花押はあからさまに家康に影響されたタイプだから、唐入りの頃とは違うでしょ。

鳥居家に似合わぬ軍法かな

2017年01月17日 17:47

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 01:47:21.03 ID:iEWAFcbK
福島大夫(正則)を御改易の時、防備のために鳥居左京亮(忠政)は
御城の近辺に人数を出し置いたのだが、

馬を御堀の方に立て置きなさっていたのを、牧野駿河守殿(忠成)は
見なさって曰く、

「鳥居家に似合わぬ軍法かな。敵が攻め掛かって来たならば、馬は
たちまちのうちに掘へ追い込まれることであろう」

――『武功雑記』



豊臣秀次の最期

2017年01月12日 08:39

501 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/01/11(水) 19:41:29.26 ID:JXo5ixzE
豊臣秀次は高野山に上り、木喰上人の坊へと案内された。木喰上人は秀次の来訪を大いに驚き、
急ぎ招き入れ「只今の御登山は思いもよらぬことです。」と涙を流した。秀次は何も言わず、
袖を顔に当てて涙にむせんでいたが、
「私はこのような事が起こるとは思いもよらず、世にあった頃、気をつけることもなかった。
今更浅ましいことであるが、今にも伏見より検使がくれば、私は自害する事になるだろう。
そうなった跡の事は、一体誰に頼めばいいだろうか。」
そう、涙ぐんで尋ねた。

「御諚ではありますが、当山の衆徒一同に訴えれば、太閤殿下がどれほど憤り深くあられようと、
どうしてその御命令を承知するでしょうか?」
木喰上人はそう頼もしく答えた。

秀次はそこで法体と成り、道意居士と名乗った。供の者達も皆髻を切って、ひとえに来世を祈り、
上使を今か今かと待っていた所、福島左衛門大夫正則、福原左馬助長堯、池田伊予守景雄を大将として、
都合1万余騎、7月13日の申の刻(午後4時頃)伏見を立ち、14日の暮れ方に高野山に到着した。
3人の上使は、木喰上人の庵室に入った。この時秀次は大師の御廟所に詣でるため、奥院に居たが、
これを知らされ戻り、3人と対面した。

福島正則は畏まり、法体姿に変わった秀次を見て涙を流した。秀次は言った
「汝らは、私を討ちに来たのだな。この法師一人を討とうとして、由々しき振る舞いではないか。」

福原が畏まって申し上げた
「その通りです。御介錯仕れとの上意にて候。」

「さては我が首を討とうと思ったか。しかしお前はいかなる剣を持っているのか?
私も腹を切れば、その首を討たせるために、形のごとく太刀を持っているぞ。さあ、汝たちに
見せてやろう。」

そう言って3尺5寸ある金造の帯刀をするりと抜き、「これを見よ」と言った。
秀次は福原左馬助が若輩であり、推参を申したと思い、重ねて物申せば斬って捨てると考えているようであった。
秀次の3人の小姓は秀次の気色を見て、少しでも動けば、秀次が手にかけるまでもなく自分たちで
斬り捨てるのだと、互いに目と目を合わせて刀の柄に手をかけていた。その有様はいかなる天魔鬼神も退くように思えた。

秀次は刀を鞘に収めると、
「お前たちは私が今まで存命しているのを、さぞや臆したためだと思っているだろう。
私も伏見を出た時に、どうとでも慣れと切腹を思ったが、上意を待たずに切腹すれば
『はやり自身に誤りがあったからこそ自害を急いだのだ』と言われ、これにより責任の無い者たちまで
多く命を失うことになるとの懸念から、今まで生きていたのだ。

今は最期の用意をしよう。故なき讒言によって私はこうなってしまったが、私に仕える者に一人も
罪有る者は居ない。良きように言上し、申し扶けて、私への饗応にしてほしい。
この事、相構えて汝らに、頼むぞ。」
一座の者たちはこれを聞き、有り難き御志と感じ入った。

そうして座を立つと、最後の用意を初めた。しかしここに木喰上人はじめ一山の衆徒が集まり、
3人の上使に対して抗議をした
「当山は七百余年このかた、この山に登った人の命を害したこと、その例ありません。
一旦この旨を太閤殿下に言上していただきたい!」

3人はしかし「そうではあろうが、とても叶うことではない。」と説得した。それでも衆徒の抗議は
止まなかった。ここで福島正則が進み出て
「衆徒の言うこと、尤もである。だがこれ以上時刻を費やせば、お前たちまで太閤殿下の勘気を蒙り、
腹切れと言われるだろう。それでも言上したいと言うなら、先ずここに居る我々3人を衆徒の者達が
手に懸けよ。その後はお前たちの心次第だ。」
そう、膝を立てて言うと、所詮は出家の事ゆえ、上人はじめ一山の衆徒も、力及ばず立ち去った。

その夜はこのような評議に時遷り、漸く曙になると、巳の刻(午前9時頃)に秀次の御最後となり、その有様は非常に神妙に見え聞こえた。
彼は付き従った人々を召して、
「汝らこれまでの志こそ、返す返すも浅からぬ。多くの者達のその中で、数人が最後の供をするというのも、前世の宿縁というものだろう。」

502 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/01/11(水) 19:42:20.88 ID:JXo5ixzE
そう涙を流した。そして3人の小姓たちに
「若き者達だから、最後の程も心もとない。その上自ら腹切ると聞けば、それを妨害しようと雑兵共が
乱れ入って、事騒がしくなるのも見苦しい。」
そう考え、山本主膳に国吉の脇差を与え、「これにて腹切れ」というと、主膳承り、
「私は御介錯仕り、その後にこそと思っていましたが、先に参り死出三途にて、道を清めておきましょう。」
そう言ってニッコリと笑い戯れた姿は優美ですらあった。
彼は脇差を押しいただくと、西に向かい十念して、腹十文字に掻っ切って、五臓を腹から繰り出した所を、
秀次が手にかけて討った。この時19歳。

次に岡三十郎を召して「汝もこれにて腹切るべし」と、厚藤四郎の9寸8分を与えた。
「承り候」とこれも19歳であったが、さも神妙に腹を切り、また秀次が手にかけて討った。

3番目の不破万作には、しのぎ藤四郎を与え、「汝も我が手にかかれ。」というと、「辱し」と脇差を頂戴した。
彼はこの時17歳。日本に隠れなき美少年であり、雪よりも白い肌を押し開き、初花がやや綻ぶ風情なのを、
嵐の風に吹き散らされるように、弓手の乳の上に突き立て、目手の細腰まで引き下げた。
秀次はこれを見て「いみじくも仕りたり!」と太刀を振り上げると、首は前に落ちた。
誠に彼らを人手に掛けたくないと思われた、その寵愛のほどこそ浅からぬものであった。

その後、秀次は僧侶の立西堂を呼んで伝えた
「その方は出家であるから、誰も咎めるものは居ない。ここから急ぎ都に上り、私の後世を弔うように。」
しかし
「これまで供奉仕ったというのに、今更都に上って何の楽しみがあるでしょうか?
私も厚恩深き者ですから、出家であるからと言って逃げることなど出来るでしょうか?
僅かに命を永らえるために都に上り、人手に掛かるなど考えもできません。」そう言い切った。
この僧は博学多才、和漢の書に詳しく当檀那の弁を持っていたのに、秀次の酒宴遊興の伽僧となった事で、
多くの人々から宜しからぬ人物と思われていた。それが最後の供まで仕るのも不思議な事である。

次に秀次は篠部淡路守を召して
「この度私の後を慕い、ここまで参った志、生々世々まで報じ難いものである。汝は特に、私を介錯した後、供をせよ。」

淡路は畏まり、大いに悦んだ。
「今度、その跡を慕い参らんと思っている者達はどれほど居ることでしょうか。その中でそれがしは
武運にかない、御最後の供を申し付けられただけでなく、御介錯まで仰せ付けられました。今生の望み、何事かこれに過ぎるでしょう。」

これを聞いて秀次は心地よさげに静かに笑い、両目を閉じ、「迷故三界城悟故十方空」と観念して後、
「ならば、腰の物を」と申し付けた。
篠部は1尺4寸の正宗の脇差の中巻きしたものを差し上げた。
秀次はこれを右手にとり、左手で心元を押し下げ、弓手の脇に突き立てると、目手にキッと引き回し、
腰骨に少しかかったと見えた所で、篠部淡路守が刀を構えた。しかし秀次は「暫く待て!」と、
さらに取り直して胸先から押し下げた。ここで篠部は秀次の首を討った。

惜しむべきかな。御年31を一期として、南山千秋の露と消えられたのだ。哀れと言うにも余りあるではないか。
そして立西堂は死骸を収めると、これも秀次の供をした。

篠部淡路守は関白秀次の死骸を拝して後、3人の検使に対し
「それがしは不肖ですが、この度秀次様の後を慕った恩分に、介錯を仰せ付けられました。誠に弓矢都っての面目です。」

そう言うやいなや1尺3寸平作の脇差を腹に二回刺したが、切っ先が五寸ばかり背に貫いた。
更に刀を取り直し、首に押し当て、左右の手をかけて、前へと押し落とすと、頸は膝に抱かれ、身体はその上に重なった。
これを見た人は目を驚かし、諸人一同に「嗚呼」と感じ入った。

木村常陸も摂津茨木にて腹を斬った。その子木村志摩助は北山に隠れていたが、父の最期を聞いて、その日寺町正行寺にて自害して果てた。
熊谷大膳は嵯峨の二尊院にて腹を斬り、白井備後は四條大雲院、阿波木工は東山にて腹を斬った。
有為転変は世の習い、盛者必滅の理とはいいながら、昨日まで聚楽の花の春の宴も、今は野山の秋の露と、皆散り果てられた事も哀れである。

(石田軍記)



503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/11(水) 20:07:35.12 ID:dM5tBKtA
グロ、と書きたくなるわ

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/11(水) 20:13:45.93 ID:BSUyfD/D
そんなこと言ってたら戦国時代行けないぞ

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/12(木) 10:43:58.52 ID:6QVQ91xf
秀次事件て秀次はどうでもいいけど連座させられた人たちがかわいそうで仕方がない

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/12(木) 15:55:20.00 ID:SCP5Kk/o
女性陣が悲惨すぎて草も生えない
当時女性への極刑は珍しかったのになんやあれ(ドン引き
秀吉ぐう畜過ぎ

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/12(木) 17:46:30.88 ID:ApKa+Wr8
畜生塚、て呼ばれたってことは当時の人から見たら秀次たちがぐう畜扱いされてたのでは

池田輝政「もし槍先ならば」

2016年12月30日 18:19

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/29(木) 22:43:08.83 ID:nt8Yb9I9
池田輝政「もし槍先ならば」

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-226.html
↑の話の詳しい版

輝政卿の親しい同輩の大名福島正則など二、三人が集まって物語りをしていたとき
輝政へ出入りする盲人がその場にいたので、輝政に申し上げさせるようにわざと
「三左衛門(輝政)は今大国を領しているといっても、畢竟は大御所の婿だからだろう
 我らは槍先で取った国だが、陰茎の先で取ったのは格別だ」
と言ったので、盲人が果たしてこのように告げると、輝政は笑われて
「『輝政が領する国は陰茎にて取ったが、もし槍先ならば天下を取ってしまうので
 槍を用いなかったのだ』と各々にこう申せ」
と仰せられたので、同輩の衆はその滑稽を笑われたのだという。

実際は岐阜城攻めのときに、(輝政は)正則と先を争い共に大功を立てたが
輝政は五十万石を賜ったのに対し、正則には四十九万石だったため
正則がかねがね不満に思っていたのを、輝政は知っておられ
当たらず触らず戯れ言を以って返事なされたのだとか。


――『藩鑑』



人で葺く

2016年12月26日 16:03

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/25(日) 20:41:55.00 ID:rz8P6Z61
名古屋城普請の時、諸大名が福島(正則)のところに集まって
饗応があったのだが、

ことのほか暴雨暴風で、小屋の屋根は持ちこたえられないほど
であったのに、少しの別儀もなかった。

さて、相仕が退去の時に屋根を見なさると、諸侍がことごとく
かっぱを着て、屋根の上に伏していた。人で葺いたのである。

小屋の上であるのに上がる音もせず、咳払いの音もしなかった
ということである。

浅野紀伊守(幸長)はこれを見て、家来の供の者に「これを見よ」
と、申されたということである。

――『山鹿素行先生精神訓』



462 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/26(月) 10:32:15.16 ID:pDCciezT
人間屋根って、男塾に有りそうなエピソードやな

福島正則と人柱 八振りの剣と雨夜踊り

2016年12月14日 16:58

415 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/14(水) 06:49:15.78 ID:0su8vjI9
福島正則と人柱 八振りの剣と雨夜踊り

関ヶ原の戦の後、防長へ改易となった毛利家の代わりに福島正則が芸備へ入封。
福島正則は国境の支城築城、国内の再検地や治水などの内政事業を次々と進めていく。
その中で困難を極めた事業の一つが本拠地である広島城下の治水であった。
毛利輝元が太田川下流の三角州を埋め立て作った広島城の周辺は新造の埋め立て地であるが為地盤が弱く当時度々洪水に悩まされており、
その中でも城の北東側に位置する猿猴川は何度工事しても堤防が決壊していた。
土地の者はこの上は川の神様を宥め、強い堤防を造る為には堤防に人柱を入れるしかないと決め、堤防には人柱を埋める事となった。
しかし、それを聞いた福島正則
「それは大変不憫な事である。人柱の代わりに我が持つ八振りの剣を堤に埋めよ」
と、秘蔵の名剣八本を箱に納めて堤に埋めて工事させ、堤防を修復した。
この時埋められた八本の剣の剣霊を祀って、当地には小さな祠が建てられ、今も八剣神社(広島市中区の牛田大橋南詰付近)として福島正則の治世を後世に伝えている。
またこの牛田周辺では7月15,16日の夜に雨夜踊りが行われていた。これは度々堤防の修復が行われ、その堤防を踏み固めて強固にする為、地元の人々を集めて堤の上で躍らせたのが起源であると言う。

(知新集)



419 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/14(水) 18:19:19.84 ID:OjGZ6yzm
>>415
猿猴「市松っつあん、剣やなあてアンタの好物の酒にしちゃりんさいや」

小倉侯数具足の由来

2016年11月26日 16:34

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/26(土) 00:03:56.94 ID:XVutE/OC
小倉侯数具足の由来

 当年(天保五年、1834年)二月の火災で、両国橋向こうの小倉侯の別荘で具足のいくつかが焚亡した。
この具足というのは、往年の福島氏が改易されたときかの家の物が散逸していたのを、
小倉侯の収めていたものだという。
よってその具足はみな福島の家紋があったという。

 福島は豊太閤の初めから神祖御成業のときまで、
剛勇武功の人で皆知るところである。
その遺物がこのように亡んだのは、誠に痛感に堪える。


(甲子夜話三篇)


なぜ小笠原さんが正則のものを?