御留守に任じて

2017年07月02日 21:15

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/01(土) 22:30:01.06 ID:or08M729
大阪冬の陣勃発の時、黒田長政福島正則も大阪攻めの御供を望んだ。
その頃は未だ太閤秀吉取り立ての大名が多かったが、その中でもこの両名はとりわけ武功の勇将で
あったため、人々も様々に気遣いしていた。

そこで本多佐渡守(正信)が両将を茶の湯に事寄せ饗応し、談じた

「まことの事かどうか知りませんが、今度の大阪のことで、御供の望みがあると承りました。
これが本当であるとすれば、心得がたい事です。
何故なら、あなた方が秀吉卿莫大の恩顧・御取り立ての身であると言っても、当家において関ヶ原の時分、
まさしく御忠節を申し上げた故に、大国を下され、以降誠に二心無く御奉公の御志をなされていると
見ています。

さりながら、大阪の城には秀頼が立て籠もられております。先主秀吉の息男が在城しているのを、時に従う
習いであるからと寄せ手に加わり攻められても、人は良いようには思わないでしょう。
また、だからといって寄せ手に加わりながら成すこともなく居るのも後ろめたいではありませんか。

ここを以て察するに、今度の御供の願い、非常に愚案であると言えるでしょう。
しかし各々に、特別なご存分もあるのでしょうか?」

この言葉に両人屈服し
「さあれば、御辺を以って、御留守に任じて頂けるよう申し上げていただきたい」
そう申したという。

(士談)



924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 06:40:34.79 ID:EcUAn0qX
「心得がたい」ってのはどう解釈すべきか

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 07:12:03.53 ID:PA608L7X
心得が鯛

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 07:43:58.18 ID:OVzA0S6z
納得しかねる、みたいな
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こんなことを言わずに謀叛すればいい

2017年06月20日 16:47

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 01:38:54.99 ID:Xbr5DYuZ
こんなことを言わずに謀叛すればいい


家康が諸大名を集めて名古屋城を築かせたときの話。

皆々が寄り合いしていたとき、福島正則池田輝政にささやいて
「近ごろ江戸や駿府の築城続きで人夫もみな苦労して働いた。しかしながら
 天下の押さえとなる城なのでみな苦労と思う者はいなかった。
 今度は子の居城を築くようにと命じられる為ではないのだ。
 貴殿は大御所の親戚である、我一人の為に言上しろという訳ではない」
と申せば輝政は答えなかったが、加藤清正が奮然として正則を戒めて
「ああ粗忽なことをのたまう人だな、貴殿が普請に苦労することが
 不興ならばこんなことを言わずに謀叛すればいい。謀叛が
 出来ないのなら、命を違え斯様なことを申すべきではなかったな」
と荒々しく言ったので、正則はそれを恥じて何も言わなかった。
輝政は笑って戯言ということにした。

その後神君(家康)がお聞きになってみなの心を推察し
ある日輝政を呼ばれ諸大名に対して
「お前たちが普請を頼まれたくないと言うのを度々聞くが、それならば
 国に帰り城を堅く堀を深くして私が行くのを待つがいい」
と仰せがあったので、輝政がこれを諸大名へ申せばみな大いに恐れ
急に人夫を雇って名古屋城の石垣を築き、土地を四面に開いて
二十万人の人夫でもって西海南海の大名共を伊勢三河の大船で運送し
石垣を築き堀を掘れば不日の間に名古屋の城普請は成就した。


――『武徳大成記』



897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 07:31:40.10 ID:DKMfXt+W
これ、面白いな。
有名な福島と加藤だけのバージョンを元にこれができたのか、これを簡略化したのが有名なバージョンなのか、気になる。

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 18:39:34.42 ID:kl2FAQ/4
イライラ清正

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 21:23:17.42 ID:w64DAeEm
>>896
これで名古屋城に立て篭もれば面白いのに

岐阜城攻めと城受け取りの時の争論

2017年04月15日 18:59

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 15:19:54.21 ID:84ycGhCm
岐阜城攻めと城受け取りの時の争論


岐阜城攻めの日にあたり、大手の主将(福島)左衛門大夫正則を初め
細川越中守忠興、加藤左馬助嘉明、生駒讃岐守一正、寺沢志摩守広高
蜂須賀長門守至鎮、京極侍従高知、井伊兵部直政が萩原の渡りを越え
敵地の家屋に放火して太郎堤に陣した。

搦手の主将は池田輝政で浅野幸長、山内対馬守一豊、有馬豊氏
一柳監物直盛などは河田川岸を臨む所にいたのだが
岐阜城からは百々越前守(綱家)が三千ばかりの人数で新加納に出張して
川端へ備えを出して持ちこたえようとしてきた。

一柳直盛は(尾張国)黒田城主なので、川口の渡り瀬を心得ており一番に
川へ乗り入れ、その配下が瀬を渡っていくのを見てから、輝政は先手に
伊木清兵衛を初め家中一同を上の瀬に渡らせた。
したがって浅野、堀尾などその他の軍勢も各々川を渡り向こう岸へ馳せ上る。

(岐阜方の)兵が弓鉄炮を持って防ぐのだが、大軍が一度に押しかければ
悉く崩れてしまい引き返していった。
また飯沼小勘平(長資)を池田備中守長吉(輝政弟)自身がこれを討ち取った。
城方の主力は新加納に控えて防戦しようとしたが叶わず城中へ引いた。
搦手へ向かう途中新加納での競り合いでは敵の首級を七百余り討ち取り
そのことを輝政が江戸と太郎堤(大手側)にも知らせた。

すると正則は大手の諸将達に向かって
「各々はどう思われるか、搦手へ向かった面々は新加納で首尾よく
 逢えたそうだが、こちらは敵勢が出てこなかったので逢えなかった。
 ただそれだけのことではあるが、明朝の城攻めのとき千万に一つも
 搦手の面々に先を越されてはどうにもならないのだから
 今夜中に岐阜の城下まで人数を押し詰めるのがよいと思う」
と申されたので、みなこれに同意して急ぎ支度を調えて、酉の下刻から
戌の上刻までに繰り出して、岐阜の町はずれ近くまで押し詰めた。

夜が明けるのを待って段々と攻め上っていくところに、搦手も主将輝政を
初めとして着陣し攻め上ってきた。
そこに正則は大手方の諸勢を押し上げるため、大橋茂右衛門、吉村又右衛門に
申し付けてそのまま左右にある家に火をつけて焼いてしまった。
それで煙が山下へと吹きかかるので、池田を初め搦手の軍勢はここから
攻めることが出来なくなったので、輝政は大いに怒って軍勢を引き返させ
長良川のあたりにまわって水の手より攻め上った。

大手口では木造百々津田などが突いて出て坂中で防戦するので
寄せ手は大軍だったが直ちに攻めることはできなかった。
搦手からは城兵が出てこなかったので瑞龍寺の砦まで進んだ。
この砦には石田方から加勢として樫原彦右衛門、川瀬左馬助を主将として
二千人余りで守っていたが、浅野左京太夫幸長の家中の者共が一番に
攻めかけたのを見て、搦手の軍勢は一同に攻め寄せ急に乗り入った。
城兵がこれを防ぎかねている所、さらに大手勢が次々に攻め入ったので程なく
出丸は落ちて、樫原彦右衛門を浅野幸長の家人の岸九兵衛尉が討ち取った。
川瀬左馬助は二の丸に行った後本丸にこもったという。

(中略)

さて大手搦手の軍勢が悉く攻め上り、城兵が余りにも多く
討ち取られてしまったので敵は二三の曲輪を捨て本丸へとこもったが
池田家の旗奉行は武功の者だったので城内へ手早く旗を入れた。
したがって岐阜城は輝政が一番乗りしたように見えた。

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 15:20:30.78 ID:84ycGhCm
(織田)秀信の家老の木造左衛門が正則方に降参し、主人の秀信の助命があれば
本丸を明け渡すことを伝えると、正則は差し支えないと返答した。
家人の可児才蔵に使番の侍共を添えて味方に矢留めのことを触れ回らせた。

その後寄せ手の諸将が集まったとき、秀信を助命するのはどうかという話になり
左衛門太夫が
「秀信は自身の不了簡で内府(家康)へ敵対されたが、信長公の嫡孫であることは
 間違いなく、味方の中には信長の厚恩に預かった筋目の方もいるので
 この正則の計らいをよもや悪くは思わないだろう。我は織田を贔屓する
 筋目ではないが助命を承り、左様に心得て返答に及んだことなので
 今更変えようとは思わない。秀信の助命のことが内府卿の心に
 叶わなかったら、我の今度の骨折りを無にしてもらうまでのことだ」
と申されたので、その後あれこれと申す人はいなかった。
秀信は正則の世話で芋洗という所に逗留された後
関ヶ原御合戦後は紀州高野に登山して程なく病死したという。

秀信が出城した後、城受け取りのことについて正則と輝政とで争論があった。
正則は城主秀信から助命があれば城を明け渡すと申してきたので、願いの通り
助命するから城を空けるようにと返答した上は我らが受け取るほかないという。
輝政はそのことはもっともだが、我らの旗を一番に城内に入れたのは間違いなく
弓矢の古法に照らして、城を我らが受け取れないことがあるだろうかという。
大手搦手の諸将はみな並んでおられたが、面々には関係のないことである上
難しき争論の話なので、みな口を閉じ仲裁する人もいなかった。

井伊直政と本多忠勝が二人の間へと入られ、正則に向かって
「先程よりここで聞いていましたが、御双方ともに根拠があることですから
 御両人の御家来を立ち会わせて受け取るのはどうでしょうか」
と申されたが、正則は
「それは普段、人がいる城などを受け渡しする時のことで
 攻め落とした敵の城を受け取るときは、左様にはしない」
と申されて埒が明かなかった。

そのとき本多中務(忠勝)は一柳監物の側に寄り、何事か小声で申した。
輝政は近い所にいたので監物に
「中務はそこもとに何を申されたのか」
と尋ねられたので、監物は
「『今度の逆徒追討で各々命を投げ打たれ
  内府へ合力して下さる以上は、少々の不足があっても
  内府の為によきようにしたいと思って下さるのだと考えていた』
 と申されました。もっともだと拙者なども思います」
輝政はそれを聞かれて
「本当に中務の申されることはもっともだ。内府の為に
 不足を取るべきなのはそれがしより他にはいないのだから
 正則が城を受け取るのがもっともだ」
と言われ事が済んだという。

そのとき正則は
「最初に両人の衆(井伊・本多)が申された通り、両家の立ち会いで
 受け取るので輝政の家人も出されるように」
と申されたが、輝政は
「我らの家来を出すには及ばない。時が過ぎてしまったので
 早々に城受け取りの片をつけた方がよい」
と申されたという。

岐阜城攻めのときの正則と輝政の争論と世に知られているのはこのことだと
一柳助之進(直良)が語ったのを聞いて書き留めた。
きっと親父の監物殿が雑談されたことがあったのではないかと思う。


――『落穂集』



817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 15:25:04.56 ID:WMM//8tO
岐阜城は見た目は堅城そうなのに
あっさり陥落し過ぎだよな
http://i.imgur.com/4PTFNsx.jpg
ぎふ

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 16:51:46.84 ID:2QxKWdjF
常真さんでも落とせる岐阜城

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 18:04:45.57 ID:RKT7CIGM
後詰めなけりゃ落ちるわ

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 18:51:08.08 ID:VwHS4dM6
岐阜城は水源が少なくて大勢で籠城するとあっという間に干上がる、と聞いたことがある。

岐阜城攻めのくじ取り

2017年04月14日 16:35

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 17:11:05.49 ID:87GdGGbi
岐阜城攻めのくじ取り


岐阜城攻めのとき、(福島)正則と(池田)輝政とで大手搦手の争論があり
井伊直政、本多忠勝が輝政に異見を申したので収まったという様に
旧記等には見られるが、左様ではなかった。

なぜなら大身小身に係わらず敵地へ近いところの領主を
先手と致すのが日本の古来からの武家の定法であるので
尾州清須の城主である正則を一の先手、それに続いて
三州吉田の城主である輝政を二の先手ということにしたのだ。

格別なことなので両人には小山の御陣所で、内府公が
直に仰せ渡したので両人の争論などはなかったのだが
その他の大身小身共には大手七曲り口に向かうことを好み
搦手の寄せ手を嫌うものがいた。

大手、搦手と犬山城の押さえは必要だというのは各々の相談で
決まったのだが、人数割りをどうするかは埒が明かなかったので
井伊本多両人の衆は御列座の衆を二つに分けてくじ取りをさせ
誰は大手、誰は搦手、誰々は犬山の押さえと決めたので
人数割りが差し障りなく済んだという。

この説は旧記とは違うのだが大猷院様(徳川家光)の御代に旗本へ
召し出された大道寺内蔵助[若い時は遠山長右衛門と名乗っていた]は
岐阜城攻めの時は福島正則方にいて大手口で働きなどしていて
老後になってこのくじ取りの物語をしたので書留めた。


――『落穂集』



811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 17:22:29.50 ID:6dYoS0ds
苦労してるな

獄司所用の鑓之事

2017年02月23日 10:17

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/23(木) 07:41:29.69 ID:NtmEGZmh
獄司所用の鑓之事

 概して人へ刑罰をおこなうとき、獄司が用いる槍は柄が朱黒の段塗である。
予も引廻し晒し者に行きかかったときに度々見た。
宗耕が言うには、磔罪のときもこの槍で突くという。
 さて、この槍は初めは福島左衛門(正則)の家の槍であったが、
故あって何者かの物となり、それより獄司に転じたという。
その次第は聞いたが忘れた。
福島は違っていないはずだ。

(甲子夜話三篇)


清正の花押筆画多かりし事

2017年01月31日 15:47

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 23:54:08.09 ID:eGddXOW8
清正の花押筆画多かりし事

朝鮮より、諸将が連判の書を太閤秀吉に送るという時、加藤清正の花押が特に画数が多く、
書き上げるまでやや時間がかかったのを、福島正則は苦笑して
「こんな事では、仮に病が重くなって、いざ遺言を書くという場合にも差し障りがあるだろう。」

清正はしかし
「私はそうは思わない。戦場に屍を晒そうとも、汚く逃げてしとねの上に死のうとは考えもしていない。
であれば遺言状など問題ではない。」


これに正則は返す言葉もなかったという。
(常山紀談)

しかし

清正の花押
http://i.imgur.com/E988uIr.jpg
SnapCrab_No-0103.jpg

正則の花押
http://i.imgur.com/zBL2r6X.jpg
SnapCrab_No-0104.jpg

それほど手間に違いがありそうには見えないがw




567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 08:39:47.30 ID:NzQiGzf/
>>566
その花押はあからさまに家康に影響されたタイプだから、唐入りの頃とは違うでしょ。

鳥居家に似合わぬ軍法かな

2017年01月17日 17:47

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 01:47:21.03 ID:iEWAFcbK
福島大夫(正則)を御改易の時、防備のために鳥居左京亮(忠政)は
御城の近辺に人数を出し置いたのだが、

馬を御堀の方に立て置きなさっていたのを、牧野駿河守殿(忠成)は
見なさって曰く、

「鳥居家に似合わぬ軍法かな。敵が攻め掛かって来たならば、馬は
たちまちのうちに掘へ追い込まれることであろう」

――『武功雑記』



豊臣秀次の最期

2017年01月12日 08:39

501 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/01/11(水) 19:41:29.26 ID:JXo5ixzE
豊臣秀次は高野山に上り、木喰上人の坊へと案内された。木喰上人は秀次の来訪を大いに驚き、
急ぎ招き入れ「只今の御登山は思いもよらぬことです。」と涙を流した。秀次は何も言わず、
袖を顔に当てて涙にむせんでいたが、
「私はこのような事が起こるとは思いもよらず、世にあった頃、気をつけることもなかった。
今更浅ましいことであるが、今にも伏見より検使がくれば、私は自害する事になるだろう。
そうなった跡の事は、一体誰に頼めばいいだろうか。」
そう、涙ぐんで尋ねた。

「御諚ではありますが、当山の衆徒一同に訴えれば、太閤殿下がどれほど憤り深くあられようと、
どうしてその御命令を承知するでしょうか?」
木喰上人はそう頼もしく答えた。

秀次はそこで法体と成り、道意居士と名乗った。供の者達も皆髻を切って、ひとえに来世を祈り、
上使を今か今かと待っていた所、福島左衛門大夫正則、福原左馬助長堯、池田伊予守景雄を大将として、
都合1万余騎、7月13日の申の刻(午後4時頃)伏見を立ち、14日の暮れ方に高野山に到着した。
3人の上使は、木喰上人の庵室に入った。この時秀次は大師の御廟所に詣でるため、奥院に居たが、
これを知らされ戻り、3人と対面した。

福島正則は畏まり、法体姿に変わった秀次を見て涙を流した。秀次は言った
「汝らは、私を討ちに来たのだな。この法師一人を討とうとして、由々しき振る舞いではないか。」

福原が畏まって申し上げた
「その通りです。御介錯仕れとの上意にて候。」

「さては我が首を討とうと思ったか。しかしお前はいかなる剣を持っているのか?
私も腹を切れば、その首を討たせるために、形のごとく太刀を持っているぞ。さあ、汝たちに
見せてやろう。」

そう言って3尺5寸ある金造の帯刀をするりと抜き、「これを見よ」と言った。
秀次は福原左馬助が若輩であり、推参を申したと思い、重ねて物申せば斬って捨てると考えているようであった。
秀次の3人の小姓は秀次の気色を見て、少しでも動けば、秀次が手にかけるまでもなく自分たちで
斬り捨てるのだと、互いに目と目を合わせて刀の柄に手をかけていた。その有様はいかなる天魔鬼神も退くように思えた。

秀次は刀を鞘に収めると、
「お前たちは私が今まで存命しているのを、さぞや臆したためだと思っているだろう。
私も伏見を出た時に、どうとでも慣れと切腹を思ったが、上意を待たずに切腹すれば
『はやり自身に誤りがあったからこそ自害を急いだのだ』と言われ、これにより責任の無い者たちまで
多く命を失うことになるとの懸念から、今まで生きていたのだ。

今は最期の用意をしよう。故なき讒言によって私はこうなってしまったが、私に仕える者に一人も
罪有る者は居ない。良きように言上し、申し扶けて、私への饗応にしてほしい。
この事、相構えて汝らに、頼むぞ。」
一座の者たちはこれを聞き、有り難き御志と感じ入った。

そうして座を立つと、最後の用意を初めた。しかしここに木喰上人はじめ一山の衆徒が集まり、
3人の上使に対して抗議をした
「当山は七百余年このかた、この山に登った人の命を害したこと、その例ありません。
一旦この旨を太閤殿下に言上していただきたい!」

3人はしかし「そうではあろうが、とても叶うことではない。」と説得した。それでも衆徒の抗議は
止まなかった。ここで福島正則が進み出て
「衆徒の言うこと、尤もである。だがこれ以上時刻を費やせば、お前たちまで太閤殿下の勘気を蒙り、
腹切れと言われるだろう。それでも言上したいと言うなら、先ずここに居る我々3人を衆徒の者達が
手に懸けよ。その後はお前たちの心次第だ。」
そう、膝を立てて言うと、所詮は出家の事ゆえ、上人はじめ一山の衆徒も、力及ばず立ち去った。

その夜はこのような評議に時遷り、漸く曙になると、巳の刻(午前9時頃)に秀次の御最後となり、その有様は非常に神妙に見え聞こえた。
彼は付き従った人々を召して、
「汝らこれまでの志こそ、返す返すも浅からぬ。多くの者達のその中で、数人が最後の供をするというのも、前世の宿縁というものだろう。」

502 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/01/11(水) 19:42:20.88 ID:JXo5ixzE
そう涙を流した。そして3人の小姓たちに
「若き者達だから、最後の程も心もとない。その上自ら腹切ると聞けば、それを妨害しようと雑兵共が
乱れ入って、事騒がしくなるのも見苦しい。」
そう考え、山本主膳に国吉の脇差を与え、「これにて腹切れ」というと、主膳承り、
「私は御介錯仕り、その後にこそと思っていましたが、先に参り死出三途にて、道を清めておきましょう。」
そう言ってニッコリと笑い戯れた姿は優美ですらあった。
彼は脇差を押しいただくと、西に向かい十念して、腹十文字に掻っ切って、五臓を腹から繰り出した所を、
秀次が手にかけて討った。この時19歳。

次に岡三十郎を召して「汝もこれにて腹切るべし」と、厚藤四郎の9寸8分を与えた。
「承り候」とこれも19歳であったが、さも神妙に腹を切り、また秀次が手にかけて討った。

3番目の不破万作には、しのぎ藤四郎を与え、「汝も我が手にかかれ。」というと、「辱し」と脇差を頂戴した。
彼はこの時17歳。日本に隠れなき美少年であり、雪よりも白い肌を押し開き、初花がやや綻ぶ風情なのを、
嵐の風に吹き散らされるように、弓手の乳の上に突き立て、目手の細腰まで引き下げた。
秀次はこれを見て「いみじくも仕りたり!」と太刀を振り上げると、首は前に落ちた。
誠に彼らを人手に掛けたくないと思われた、その寵愛のほどこそ浅からぬものであった。

その後、秀次は僧侶の立西堂を呼んで伝えた
「その方は出家であるから、誰も咎めるものは居ない。ここから急ぎ都に上り、私の後世を弔うように。」
しかし
「これまで供奉仕ったというのに、今更都に上って何の楽しみがあるでしょうか?
私も厚恩深き者ですから、出家であるからと言って逃げることなど出来るでしょうか?
僅かに命を永らえるために都に上り、人手に掛かるなど考えもできません。」そう言い切った。
この僧は博学多才、和漢の書に詳しく当檀那の弁を持っていたのに、秀次の酒宴遊興の伽僧となった事で、
多くの人々から宜しからぬ人物と思われていた。それが最後の供まで仕るのも不思議な事である。

次に秀次は篠部淡路守を召して
「この度私の後を慕い、ここまで参った志、生々世々まで報じ難いものである。汝は特に、私を介錯した後、供をせよ。」

淡路は畏まり、大いに悦んだ。
「今度、その跡を慕い参らんと思っている者達はどれほど居ることでしょうか。その中でそれがしは
武運にかない、御最後の供を申し付けられただけでなく、御介錯まで仰せ付けられました。今生の望み、何事かこれに過ぎるでしょう。」

これを聞いて秀次は心地よさげに静かに笑い、両目を閉じ、「迷故三界城悟故十方空」と観念して後、
「ならば、腰の物を」と申し付けた。
篠部は1尺4寸の正宗の脇差の中巻きしたものを差し上げた。
秀次はこれを右手にとり、左手で心元を押し下げ、弓手の脇に突き立てると、目手にキッと引き回し、
腰骨に少しかかったと見えた所で、篠部淡路守が刀を構えた。しかし秀次は「暫く待て!」と、
さらに取り直して胸先から押し下げた。ここで篠部は秀次の首を討った。

惜しむべきかな。御年31を一期として、南山千秋の露と消えられたのだ。哀れと言うにも余りあるではないか。
そして立西堂は死骸を収めると、これも秀次の供をした。

篠部淡路守は関白秀次の死骸を拝して後、3人の検使に対し
「それがしは不肖ですが、この度秀次様の後を慕った恩分に、介錯を仰せ付けられました。誠に弓矢都っての面目です。」

そう言うやいなや1尺3寸平作の脇差を腹に二回刺したが、切っ先が五寸ばかり背に貫いた。
更に刀を取り直し、首に押し当て、左右の手をかけて、前へと押し落とすと、頸は膝に抱かれ、身体はその上に重なった。
これを見た人は目を驚かし、諸人一同に「嗚呼」と感じ入った。

木村常陸も摂津茨木にて腹を斬った。その子木村志摩助は北山に隠れていたが、父の最期を聞いて、その日寺町正行寺にて自害して果てた。
熊谷大膳は嵯峨の二尊院にて腹を斬り、白井備後は四條大雲院、阿波木工は東山にて腹を斬った。
有為転変は世の習い、盛者必滅の理とはいいながら、昨日まで聚楽の花の春の宴も、今は野山の秋の露と、皆散り果てられた事も哀れである。

(石田軍記)



503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/11(水) 20:07:35.12 ID:dM5tBKtA
グロ、と書きたくなるわ

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/11(水) 20:13:45.93 ID:BSUyfD/D
そんなこと言ってたら戦国時代行けないぞ

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/12(木) 10:43:58.52 ID:6QVQ91xf
秀次事件て秀次はどうでもいいけど連座させられた人たちがかわいそうで仕方がない

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/12(木) 15:55:20.00 ID:SCP5Kk/o
女性陣が悲惨すぎて草も生えない
当時女性への極刑は珍しかったのになんやあれ(ドン引き
秀吉ぐう畜過ぎ

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/12(木) 17:46:30.88 ID:ApKa+Wr8
畜生塚、て呼ばれたってことは当時の人から見たら秀次たちがぐう畜扱いされてたのでは

池田輝政「もし槍先ならば」

2016年12月30日 18:19

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/29(木) 22:43:08.83 ID:nt8Yb9I9
池田輝政「もし槍先ならば」

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-226.html
↑の話の詳しい版

輝政卿の親しい同輩の大名福島正則など二、三人が集まって物語りをしていたとき
輝政へ出入りする盲人がその場にいたので、輝政に申し上げさせるようにわざと
「三左衛門(輝政)は今大国を領しているといっても、畢竟は大御所の婿だからだろう
 我らは槍先で取った国だが、陰茎の先で取ったのは格別だ」
と言ったので、盲人が果たしてこのように告げると、輝政は笑われて
「『輝政が領する国は陰茎にて取ったが、もし槍先ならば天下を取ってしまうので
 槍を用いなかったのだ』と各々にこう申せ」
と仰せられたので、同輩の衆はその滑稽を笑われたのだという。

実際は岐阜城攻めのときに、(輝政は)正則と先を争い共に大功を立てたが
輝政は五十万石を賜ったのに対し、正則には四十九万石だったため
正則がかねがね不満に思っていたのを、輝政は知っておられ
当たらず触らず戯れ言を以って返事なされたのだとか。


――『藩鑑』



人で葺く

2016年12月26日 16:03

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/25(日) 20:41:55.00 ID:rz8P6Z61
名古屋城普請の時、諸大名が福島(正則)のところに集まって
饗応があったのだが、

ことのほか暴雨暴風で、小屋の屋根は持ちこたえられないほど
であったのに、少しの別儀もなかった。

さて、相仕が退去の時に屋根を見なさると、諸侍がことごとく
かっぱを着て、屋根の上に伏していた。人で葺いたのである。

小屋の上であるのに上がる音もせず、咳払いの音もしなかった
ということである。

浅野紀伊守(幸長)はこれを見て、家来の供の者に「これを見よ」
と、申されたということである。

――『山鹿素行先生精神訓』



462 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/26(月) 10:32:15.16 ID:pDCciezT
人間屋根って、男塾に有りそうなエピソードやな

福島正則と人柱 八振りの剣と雨夜踊り

2016年12月14日 16:58

415 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/14(水) 06:49:15.78 ID:0su8vjI9
福島正則と人柱 八振りの剣と雨夜踊り

関ヶ原の戦の後、防長へ改易となった毛利家の代わりに福島正則が芸備へ入封。
福島正則は国境の支城築城、国内の再検地や治水などの内政事業を次々と進めていく。
その中で困難を極めた事業の一つが本拠地である広島城下の治水であった。
毛利輝元が太田川下流の三角州を埋め立て作った広島城の周辺は新造の埋め立て地であるが為地盤が弱く当時度々洪水に悩まされており、
その中でも城の北東側に位置する猿猴川は何度工事しても堤防が決壊していた。
土地の者はこの上は川の神様を宥め、強い堤防を造る為には堤防に人柱を入れるしかないと決め、堤防には人柱を埋める事となった。
しかし、それを聞いた福島正則
「それは大変不憫な事である。人柱の代わりに我が持つ八振りの剣を堤に埋めよ」
と、秘蔵の名剣八本を箱に納めて堤に埋めて工事させ、堤防を修復した。
この時埋められた八本の剣の剣霊を祀って、当地には小さな祠が建てられ、今も八剣神社(広島市中区の牛田大橋南詰付近)として福島正則の治世を後世に伝えている。
またこの牛田周辺では7月15,16日の夜に雨夜踊りが行われていた。これは度々堤防の修復が行われ、その堤防を踏み固めて強固にする為、地元の人々を集めて堤の上で躍らせたのが起源であると言う。

(知新集)



419 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/14(水) 18:19:19.84 ID:OjGZ6yzm
>>415
猿猴「市松っつあん、剣やなあてアンタの好物の酒にしちゃりんさいや」

小倉侯数具足の由来

2016年11月26日 16:34

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/26(土) 00:03:56.94 ID:XVutE/OC
小倉侯数具足の由来

 当年(天保五年、1834年)二月の火災で、両国橋向こうの小倉侯の別荘で具足のいくつかが焚亡した。
この具足というのは、往年の福島氏が改易されたときかの家の物が散逸していたのを、
小倉侯の収めていたものだという。
よってその具足はみな福島の家紋があったという。

 福島は豊太閤の初めから神祖御成業のときまで、
剛勇武功の人で皆知るところである。
その遺物がこのように亡んだのは、誠に痛感に堪える。


(甲子夜話三篇)


なぜ小笠原さんが正則のものを?



家康が茂助を遣わしたのは

2016年11月22日 09:34

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/21(月) 21:26:40.39 ID:vJTZkj8O
慶長5年8月末、美濃まで進出した東軍の先手は、徳川家康の軍勢が江戸から出立しないことに苛立ち、
特に福島正則は殊の外立腹、池田輝政と口論となり、その場に在った本多忠勝井伊直政がどうにか
宥める有様であった。

その翌日、村越茂助が家康の使者として参着した。福島正則は茂助に対し「家康公はどうして出立
されないのか!?」と詰問すると、茂助は

「ご出立されないわけではありません。ですがあなた方が敵に対して手出しをなさらないため、
ご出馬が無いのです。手出しさえ有れば、即急に御出馬されるでしょう。」

これを聞いて正則は、扇を広げ茂助の顔を2,3度仰ぎ
「尤もな事だ。すぐに敵を攻撃し、それそ注進していただこう!」
そう答えた。

本多忠勝井伊直政は、正則と輝政が口論をした翌日であったので、このやり取りに手に汗握り、
茂助の言った事も非常にぶしつけではないかと諸人も思った。

茂助は事前に、忠勝、直政に使いの内容を一言も喋らなかった。家康がこの大事の使いに茂助を遣わしたのは、
茂助が自分の言った内容を有り体に伝えると、よく見知っての事であった。
日本国中の心ある武士たちは、この事について有り難き積りであると語り合った。

9月朔日、家康は出馬した。

(慶長年中卜斎記)



北野天神の奇特

2016年11月16日 22:02

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/16(水) 02:56:44.66 ID:IXpkThrf
・この春(慶長13年2月)、秀頼公が疱瘡をお患いになった時、天神の御使い
によって、色々な吉瑞があったという。

・この頃、大坂の秀頼公は疱瘡をお患いになり、はなはだ危急であった。
西国・中国衆は密々に秀頼公を見舞った。これは家康公の前を憚りなさった
ものか。中でも、福島左衛門太夫(正則)は、急いで大坂に参上したという。

・秀頼公の患いがようやく本復した。北野天神が影向する奇特があったという。

――『当代記』



この話が誰の逸話なのか

2016年08月26日 21:13

116 名前:sage[] 投稿日:2016/08/25(木) 23:35:53.38 ID:TMSmuVQp
誠に申し訳ございませんが
この話が誰の逸話なのか教えて頂けないでしょうか。

話の内容
柴田勝家か福島正則の家臣(違うかもしれません)
無頓着な性格でとりあえずの生活を送っていた殿さまです。
ある日大女(しこめ)が来て殿さまはおおらかな人だから
雇ってくださいというが、頭の悪い家臣ほど雇うなという。
でもその殿さまはまず雇えといい、次に力を見せろといい
家臣に相撲を取らせ、仕事に来てくれよといい、大女を喜ばせる
大女いわく”おらを見るだけでぶさいくだとののしり、
見世物をしたいから相撲をとれと言われ全部勝っても
、次にやっぱり雇わね。そればかりなのに
殿さまはおらを初めに”雇う”といって相撲を取らして
そのうえで採用してくれた。すごい殿さまだ!
殿さまはそんな
こた~ねえよ。明日から仕事がんばれよと…。
大女は殿さまの思いに応え一生懸命に仕事で答えた。
そのうち殿さまの状況が悪化してどんどん家臣が財産を持ち逃げして
逃げだした。殿さまも最後には無一文になって、最後に残った家臣たちと
途方に暮れたが大女が皆をだまして(?)不正金(?)をためて
真の忠臣と後世の人が言わしめた。
お家の再興のため、尽力し、殿さまが有力藩に呼ばれたのと対象に
どこともなく消えてしまったこの大女の正体はたぶんわからない
と思いますが、せめてこの殿さまが誰かだけでも教えて頂けないでしょうか。

117 名前:sage[] 投稿日:2016/08/25(木) 23:47:29.65 ID:TMSmuVQp
申し訳ありませんsageです
途中話が抜けておりました
【 】の中の話も読んでいただいた上で
教えて頂きましたら幸いです…。

途方に暮れたが大女が皆をだまして(?)不正金(?)をためて

【倹約や工夫してこっそりためた金だ。
殿さま再興のために全部つかってくんろ。
殿様曰く、これはお前がいろいろ頑張って貯めた金だ
お前の退職金として全部もってゆけ
大女はいらぬという、ならば殿さまは半分ずつ持っていこうと
それでお互い納得したという。その後の大女の行方は分からない】

真の忠臣と後世の人が言わしめた。



118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/26(金) 00:54:00.82 ID:6pNeKdGU
「名将言行録」の福島正則家臣、大崎長行のことだろう
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782779
海音寺潮五郎「史談と史論」の
「仙女伝」では大橋玄蕃とお柳と書かれている

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/26(金) 01:07:53.50 ID:6pNeKdGU
ついでに「史談と史論」のそのあたりの話(名将言行録もほぼ同じ内容)

庭にあった二抱えほどもある大きな岩を大女のお柳が転がすとその下は穴蔵のようになって奥深い。
お柳は次々に大きなツボを2つ取り出し、座敷で開けるとそれぞれ板銀と小判がつまっていた。
「これは皆殿様のものでございます」
「どうしたのだ、これは?」
「清須からこの国におうつりになりましてから、段々にたくわえておいたものでございます。
殿様はたくわえなどまるでお心掛けのないお方でございますが、何か急なことのある節は、
金銀がなくてはならぬと存じましたので、お家のしおき万事を任せていただいていますのを幸いに、
殿様にかわりまして、ご費用をつつましくしては、投げこんでおいたのが、いつかこんなにたまったのでございます。
されば、これは皆殿様のものでございます」
「さて、その方の心づかい、まことにかたじけない。しかし、これはその方の苦労で出来たものなれば、おれが皆
もろうわけには行かぬ。小判の方なりと、板銀の方なりと、いずれかをその方取れい」
「とんでもないことでございます。これは殿様のものでございます」
「見よ。こうして金銀をひとつにかきまぜた。これを互いに一つかみずつ取っていくことにしようではないか」
こうして、とりわけた。
数日の後、玄蕃は一先ず大阪を志すとて、鞆の港から便船をもとめて去った。お柳はこれを見送った後、
自分も小舟にのって、いずれへか立ち去った。
二三年後、玄蕃は秀忠の命で、紀州家に召し抱えられた。彼は依然として独身であったので家のとりしまりのため、
またお柳を予防としたが、その行くえはまるでわからなかった。



123 名前:116[] 投稿日:2016/08/26(金) 17:02:12.53 ID:zqzBsphw
116です。この度は読みにくい文であるにもかかわらず
ご回答いただきまして誠にありがとうございました。
これですっきり致しました。
お礼申し上げます。

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/26(金) 19:34:52.46 ID:+d1KeDna
真柄のお秀みたいなものかな?

その刀は皆、正則から賜ったという。

2016年06月21日 21:14

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 00:24:29.16 ID:sc6DvSW+
今月三田侯〔九鬼長州隆国〕が隠荘を訪れられて、物語をした中で
かの臣に福島正則が除国の後に来て仕えた者が四、五家ある。
その家の何れにも村正の刀を所持している。
その刀は皆、正則から賜ったという。 
どういう故であろうか.
 
と語られたことがあった。
(甲子夜話)

当時の大量生産品だからね、仕方ないね



754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 07:36:13.81 ID:Y/t1TMOa
甲子夜話ができた頃には村正が公儀に差し障りがある、って認識ができてたのか

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 20:23:19.09 ID:QnhTDb55
村正の逸話は家康存命時代からあったんじゃなかったっけ

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 20:25:20.99 ID:BeJhKfHh
>>755
無いね。村正が云々言われるようになったのは江戸中期以降。

757 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/21(火) 20:36:07.02 ID:P9+DT3Zu
中期どころか江戸初期
寛永11年に長崎奉行が村正所持で切腹

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 21:13:22.65 ID:qBcS+riJ
>>757
それ「村正持ってたから」ってのは、後世の解釈じゃなかったっけ?

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/22(水) 12:18:41.72 ID:m7j9aCCZ
>>756-757
ファミコン版ウィザードリィが流行ってからじゃね?

あの小姓を、彼に恋した男のもとに

2016年05月03日 09:42

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 19:56:28.34 ID:+xSS6T0o
福島左衛門大夫正則は、諸将の中でも、とりわけ物狂わしい人物であった。
猟より帰って口をすすがず、その後の食次の時に「食物の中に砂有り!」と言って
料理人を殺した事も度々あった。あまつさえ、その頸を脇差しで貫き、くるくると回して
興ぜし事もあったとか。
しかし、思いの外なる話もある。

ある日、正則の一門衆集まって酒宴の時、正則の愛する何某とかいう小姓が、懐から
菓子を3つ4つ落とした。
正則はこれを見て、小姓が盗んだのだと考え、激怒した。
彼は小姓を引き寄せると、左手で頭髪を掴み、右手で刀を抜き持って小姓の股を突き刺した。
血がおびただしく流れたが、小姓は少しも動ぜず、何事もなかったかのように再び
給仕をした。

座の人々は何れも、正則の気質を知っているので、この小姓が終には死罪に及ぶことを
惜しみ、片脇へと引かせて「何か申し分が有るのではないか?」と尋ねた。
しかし一言も言葉を発しないため、人々も苛立ち

「侍の子たる者が、どうしてあのような卑劣なことをしたのか?その身が
死罪となっても仕方がない。そして死んでも、父兄弟の面汚しであるぞ!」

小姓、これを聞くと
「申すべきことも有りますが、人の命まで取ってしまうことと成り、それは私の本意では
ありません。その人の生命を助けていただけるのなら、仔細を語ります。
私の命は、許されるべきではありませんが、一門の名折れと仰せられることの口惜しさに、
申すことが出来ないのです。」

人々は何れも誓った
「其方のことは力及ばぬ。しかしこの事について、外の人の命は、我々が命に変えて救おう!」

そこで、小姓は語った
「彼の人も、殿様の御家中である若者ですが、彼は私に恋い焦がれ、数十通の文を頂きました。
しかし私は殿様の御座をも汚す身ですから、それらは取り上げてさえ見ることはありませんでした。
しかし、それから三ヵ年、日々に文を送ってくるその心の切なさに愛おしさを感じ、ある時
彼の姿を見て、その志を感じ、図らずも返事をすると、かの者はいよいよ耐えかね、虚労のように
煩ってしまったと聞いたのです。

私のために人の命を失う事の笑止さに、どうにかして一度逢って見たいと思いましたが、
出仕すれば常に殿のお側に有り、下がっても寄合部屋にて、仲間の目も忍び難く、下部屋にて
なんとか逢おうと思い、かの男を番葛籠に入れさせ、昨日下部屋にその葛籠を取り寄せました。
然れども折り悪く、三日三晩の御酒宴となり、致し方ない状況な上に、かの男が飢えることの
痛わしさに、この菓子なりとも遣わそうと懐中にした所、運が盡き、御前において取り落としたのです。

願わくば、彼の入った葛籠を、何事も無く外に出してください。私は生命を惜しむことありません!」

一門の人々、これを聞いて正則に対し
「あの小姓の命乞いをしても、承知なされないことはわかっています。しかし、彼が菓子を盗んだのは
卑劣な行為ではありません。ですからせめて、死後の恥辱を救ってください。」
そう事の顛末を語ると、正則はたちまち機嫌が直り

「私が側に召し使うほどの者らしく、卑劣の業は成さなかったか。
恋する男に逢おうとするのは、自分の目を盲にするのと似ているが、年少の者にはよくあることだ、
深く咎めるべきではない。
その上、彼の今日の様子、さすがに私の目鏡に違いなしと見えた。よって、彼の死罪を免ずる。
また、彼に心を懸けた者も、私の気質は知っているのに、是非に逢おうというのは、
これも用に立つべき者であろう。
あの小姓を、彼に恋した男のもとに遣わせ!」

そう命じた。この時正則は、大方成らぬ機嫌であったという。
(新東鑑)



682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 20:24:41.78 ID:SWwwf+k1
ホモにはみんな優しい

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 00:25:57.83 ID:tK/mOlVU
>>681
ミラクルやん「いいかい市松。人は刀で股を突き刺されたら出血多量で死ぬんだよ」

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 07:14:42.33 ID:OvJrnKm4
あんたは太ももじゃろ

秀頼母子は正則の書状に、

2016年01月04日 22:11

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/04(月) 09:24:24.23 ID:KADeL/Yu
慶長19年9月、大阪冬の陣起こる。
10月7日、駿府の大御所・徳川家康は江戸より馳せ来た竹中重利を召して言った

「汝は福島正則と親しく相語る者であれば、我が為に再び関東に趣き正則にこう申してほしい。
今度大阪の軍が起こったこと、秀頼の心とは思えない。これは偏に、織田有楽、大野、木村、渡辺といった
者達の計らいであろう。

尤も正則は元より故太閤のゆかりであり秀頼にも親しく、又この家康父子にも疎いわけではない。
ならば、正則の身にとっては、何れの方に与すべきとも考えられないだろう。
正則がたとえ我々父子に与しなくても、大阪に味方するという疑いを持つことはない。
ただ、暫く正則は関東に留まり、嫡子備後守に軍勢を付けて参らせてほしい。」

同月11日、大御所は駿府を出立し、13日中泉に至った時、福島正則の使者が、竹中重利
書状を持って馳せ参った。
書状の中で竹中は、正則の発言の旨をこのように述べた

『仰せ、謹んで承りました。私も、今度の大阪で兵の起こったことは、最も不思議と言うべきだと考えます。
であれな仰せ下さったように、秀頼母子がこのような事を思いつくとも考えられず、近習の輩の計らいに
よる事、疑いありません。
である以上、私はかの御母子を諌め参らせるため、二人の使者を立てて我が方の消息を通しました。』

本多正純が、正則が大阪に送ったという書状を取って見るとこのように書かれていた。

『今度の大仏修造の事について両御所を怨まれるという判断は、只事ではありません。偏に御家運を
傾かせられる時が至るだけです。ただ、速やかに御母子の御心を改められ、過ちを謝し申されんため、
御母上をして駿府か江戸に参らせ置かれるべきです。

正則は近年、関東の御恩蒙る身となり、二心を思いません。また妻子も関東にあります。
いま諌め参らせた旨に従われないのなら、この正則は天下の軍勢に先立って馳せ向かい、
速やかに大阪城勢を打ち破って見せるでしょう。その時になって後悔なさっても最早意味がありません。
御家運のめでたく渡らせ給うのも、そうならないのも、そちらの御計らい次第なのです。」

同16日、再び正則の使者が、大御所の岡崎の陣に馳せ参り一通の書状を献じた。
正則が先陣を賜って馳せ向かい、速やかに大阪勢を誅すべき事を望む、という内容であった。
大御所は
「正則の申す所神妙である。ただ、其の儘に江戸に在って妻子尽く城中に参らせ置くように」
と仰せになり、使いを返した。

22日、大御所は永原の陣に竹中重利を召され、「急ぎ正則の領国に下り、備後守正勝と共に
軍勢を催して大阪に向かうように。」と命じた。

翌23日、都に入った日に、正則の使者が大阪より帰って参上した。
「秀頼母子は正則の書状に、何も答えなかった。」と報告し、また江戸へと下った。

(藩翰譜)




何れにしても正則の心の中は

2016年01月03日 18:10

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/03(日) 18:04:03.86 ID:ygS9hngH
関ヶ原の後、慶長6年に結城秀康が越前の地を与えられ入部した時、福島正則は自ら
北庄に赴きこれを賀した。そこで、秀康の家臣の方を向いてこんなことを語りかけた

「私はこの後も常に門下として伺候したいのだが、滞在する家がないのでそれがかなわない。
家を作るべき土地を給わりたい。
また、その後正則が年来の好を忘れて参らなくなったとしても、守殿(秀康)に天下の御大事が
あれば、正則は必ずお味方仕るだろう。

さりながら、私には太閤殿下より仰せ置かれた旨があるので、この身が秀頼公の世にあるかぎりは、
なかなか心に任せることも出来ない。」

そういうと暇を請うて帰っていった。

私(新井白石)が想像するに、秀康公は太閤秀吉の養子であったので、正則はその好を思っていたのでは
ないだろうか。また秀康公の御身に天下の御大事あらんと言ったのは、秀康公は秀忠公の兄であったので、
家康公がお亡くなりになれば、必ず天下をめぐって争いが起こると考えたのではないか。

何れにしても正則の心の中は測りがたいことである。

(藩翰譜)

そして目が覚めると清右衛門を呼んだ

2015年12月05日 17:51

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/04(金) 17:42:42.38 ID:VxVL3kuy
福島正則が帰国するときは、いつも鞆の浦に着船していた。この時、そのまま小身の者は
木綿の衣服に着替える作法となっていた。

ある年、鞆の浦の船中において、福島正則は酒に酔っていたのだが、突然激怒して叫んだ

「先ほど木綿に着替えるように触れよと、柘植清右衛門に申し付けたのに、未だにそれを
触れていないようだ!清右衛門にくき奴!!」

しかし当の清右衛門はそのような命は受けておらず、家老なども出て
色々と詫び言を申し上げたが

「とにかく、清右衛門に腹を切らせよ!奴の頸を見せなければ船より上がらない!」

正則はそのように言いはった。
日は暮れに及び、清右衛門は「私一人のせいでこのような事になり、勿体なき儀です。」
そういうと船から町家に上がり、そこで切腹した。

こうして清右衛門の頸が届くと、それを見た正則は機嫌が直り、そのまま高鼾で一睡した。
そして目が覚めると清右衛門を呼んだ。

家老たちは、最前の委細を語った。正則はこれを聞いて肝をつぶし、声を上げて泣いたという。

(武功雑記)



734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/04(金) 17:47:40.00 ID:51NqAZBJ
>>733
バカすぎるだろw

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/04(金) 18:36:06.64 ID:yF8visZP
>>733
酒さえ飲まなければ…

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/04(金) 18:57:34.89 ID:hTL4TeBu
正則の酒乱逸話まだあったのかよw

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/04(金) 19:04:28.59 ID:bq4BMTJC
>>733
酒のことがなければ名君なのになー

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/04(金) 19:30:17.76 ID:X8JR6zUL
取り合えず寝てしまうまで粘れば良かったのに…
つか泣くのがまたうぜえw

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/04(金) 19:34:10.06 ID:Vm9DgHVh
シグルイのエピソードにありそうな残酷無惨ぶりに草しか生えない

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/04(金) 19:35:27.63 ID:GbYcR55m
酒関係の悪い話はいくつあるんだろうか

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/04(金) 19:40:06.00 ID:LqCB9C7n
嫌いな同僚を殺しても酒に酔った市松の命令でやった事にすれば完全犯罪だ

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/04(金) 20:04:06.22 ID:xRQfYwNK
酒のことがなければ名君とは言うものの本当の名君なら1,2回酒でやらかしたら自重するだろw

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/04(金) 20:10:11.27 ID:Cyu6sGEK
やらかしても懲りずに繰り返してこそ市松