FC2ブログ

ある男が大坂城内の長宗我部盛親を訪ねて来た

2012年03月06日 21:50

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/05(月) 20:51:13.58 ID:dNvaIcjz
慶長19年(1614)12月下旬、幕府方と大坂方で和議が結ばれ、大坂冬の陣は終了した。ある者は帰国の準備を進め、
またある者は次なる乱を想定し準備を進める中、ある男が大坂城内の長宗我部盛親を訪ねて来た。

「盛親様、お久しゅうございます。」
「お前は!・・・攻め手に加わっていたか。どの手勢にいたのだ?」
「今は、井伊掃部殿の配下におりまする。」

「そうか。4日の朝、真田丸の戦いにも居たのか?」
「居りました。本日は、あの時に討ち死にした者の遺品を引き取りに参りました。」
「あの戦いで井伊家の者は何人死んだ?」
「名のある者、17人が討ち死にを遂げました。」

「そうか・・・皆の衆、この者の申したことは本当ですぞ!」
盛親は周囲の者にそう言い放つと近習に、戦利品である17本の旗指物を運ばせて、男に渡した。
指物の中に知人のものを見つけ、密かに涙する男を眺めつつ、盛親は言葉を続けた。

「この者の祖父も父も、わが父や兄の用に立ち、その馬前で死んでくれた勇士であった。
それに比べて、わしは・・・ハハ・・・・・・和議成ったばかりでの役目、大儀。杯を取らせる。」
「かたじけなし。」
盛親の杯を飲み干した男は、丁重に礼を返して大阪城を去った。(福留覚書)

男の名は、福留半右衛門
『福留の荒切り』と呼ばれ、伊予攻めで戦死した福留飛騨の孫で、『蛇もハミもそち寄れ、隼人殿のお通りじゃ』
と、その武勇を童歌にまで称えられ、戸次川の戦いにおいて長宗我部信親とともに死んだ福留隼人儀重の子である。

関が原の戦いの後、牢人となった半右衛門は諸大名を転々としており、大坂の陣の時は井伊家に属し、
戦後は尾張徳川家に仕えて生涯を終えた。

半右衛門自身の生い立ち、戦場における同僚との他愛ない交流、一時期仕えた加藤嘉明家での気に食わぬ上司等、
克明に記された『福留覚書』において大坂の陣、特に夏の陣のことは、淡々と足早に書かれている。




264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/05(月) 22:45:24.34 ID:hmxE2oEs
旧主と戦ってんだモンな、そりゃー色々思うところもあるだろうしなあ

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/05(月) 23:27:18.60 ID:dS8mE8KI
関ヶ原からこっちのgdgdで改易された上に三代に渡る忠臣の家が
今じゃ敵ときたら盛親だって泣く事も笑う事も出来んよなあ…

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/06(火) 00:37:40.52 ID:rY59UG3G
しかも本来だったら東軍だったんでしょ

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/06(火) 00:39:49.20 ID:zHC8wvM9
盛親さんは過小評価

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/06(火) 02:00:37.15 ID:EYPfSLoi
実際のところ親忠兄さんはどれくらい優秀だったんだろうね?

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/06(火) 07:38:41.73 ID:4+6SQZHw
夏の陣では盛親は井伊隊と闘っているよな
「徳川方第一の戦功は井伊掃部」とか言って
その際に」長宗我部の忠臣だった男のこともいろいろと思いを馳せたんだろうな
スポンサーサイト