浅利頼平毒殺疑惑と実季そして家康

2015年11月30日 07:20

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/29(日) 20:25:07.76 ID:EqQyOhlD
浅利頼平毒殺疑惑と実季そして家康

比内浅利独立騒動は秋田・石田VS浅利・浅野の構図だったがそこへ徳川家康が浅利・浅野の
肩を持つようになった
浅利有利になる可能性もあった中で浅利家当主・頼平は上洛中に急死する
タイミングから秋田実季による毒殺が疑われた
結果的に五大老筆頭のメンツを潰された格好になった家康がこのことに激怒したのか
その後実季はわざわざ家康家臣の永井直勝に弁明書を出している
この場は何とかしのいだものの、関ヶ原後に常陸宍戸に転封される
東軍で働きながら加増もなく実質の減封処分…
こうなったのは西軍加担疑惑に加え浅利頼平毒殺疑惑も響いた可能性もある
最も浅利毒殺がクロと判ったら実季は間違いなく切腹、秋田家は改易だったろう



スポンサーサイト

秋田実季、そのトラブルの連続

2015年11月29日 17:10

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/29(日) 15:23:37.20 ID:EqQyOhlD
前に秋田実季のネタが出たけど家督を親父から継いだ時からトラブルの連続だったんだなと思う

・家督相続後、戸沢や南部たちに支援された従兄の豊島通季と湊系家臣団に造反される
・由利十二頭や津軽の助力もあって一応豊島たちを撃退し秋田家当主の座を守る
・湊系家臣団を抑えこむことには一応成功するものの遺恨はずっと燻り続ける
・湊合戦のこともあり津軽為信独立を支援したことで南部信直にはさぞ恨まれたろう
・小田原参陣時には蠣崎氏にちゃっかり離反・独立される
・その後南部の調略で重臣・五十目兵庫に離反される
・比内浅利領をヒャッハーしたことで浅利独立騒動が勃発
・小田原仕置の時と同じく石田三成のおかげで浅利独立は何とか阻止
・しかし浅利側についていた浅野長政の顔を潰すことに
・ついでに小田原仕置後、秋田・浅利の和睦に尽力した津軽の顔も潰している
・南部信直が没しても後継が利直ではやっぱり分が悪い
・ちなみに強敵の一人・戸沢盛安は若くしてとっくに没してた
・関ヶ原役では一応東軍についたが最上義光の讒言もあり常陸に減封の上転封
・三成と親しかったことがここでアダになった(義光は大の豊臣・石田嫌い)
・義光が伊達政宗に当てた書状では馬鹿扱い
・それを見て政宗が実季をどう思ったかは想像に難くない
・内政はお世辞にも上手とは言えなかった
・嫡子・俊季と対立
・元々実季に遺恨持つ湊系家臣団はこぞって俊季に付く
・そんなこんなで遂に藩主の座を追われ伊勢朝熊に配流
・勝手に出家して幕府を怒らせ俊季が釈明に追われる
・このことを細川三斎が息子・忠利に当てた書状でdisっている
・最後は凍蚓と名付けた自身の木像を話し相手に生涯を過ごすことに

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/02(水) 22:39:09.32 ID:lsnV0mh3
桶狭間の戦いから丁度100年経った1660年
伊勢朝熊で蟄居中の秋田実季は83歳で没した
その2年前には真田信之が93歳で没している
大坂の陣を戦った人間で生き残っていた大物は徳川頼宣や松平忠輝(蟄居中)ぐらい
彼らでも生まれは秀吉の天下統一以降である
実季こそ秀吉の天下統一前の時代を知る最後の人間と言っても過言ではないだろう

ちなみに「秋田実季、そのトラブルの連続」 ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9635.htmlに登場した他の大名家の当主の移り変わりはこうなっている

秋田家:実季→俊季→盛季
戸沢家:盛安→光盛→政盛→正誠
南部家:信直→利直→重直
津軽家:為信→信枚→信義→信政
最上家:義光→家親→義俊(改易)→義智(寄合旗本)
仙台伊達家:政宗→忠宗→綱宗→綱村
芸州浅野家:長政→幸長→長晟→光晟
肥後細川家:忠興→忠利→光尚→綱利

由比正雪の乱ですらもう10年近く前の話
伊達騒動が勃発するのはこの11年後

上には上がいるとはいえいかに実季が長生きだったかがよくわかる

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/02(水) 23:06:37.84 ID:LgiqV54Z
泳いで参ったの人も長生きだぞ!って1655年没か。
どうでもいいけど、宇喜多秀家って活動範囲が広すぎ。
紀州征伐、四国征伐、九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役
関ヶ原、薩摩へ逃亡、駿河久能山へ幽閉、八丈島へ島流し等。
生涯に移動した距離は戦国一では?

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/02(水) 23:18:15.97 ID:TC7U/Vtp
支倉…

秋田実季の所業

2015年11月26日 16:44

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/25(水) 20:12:23.81 ID:OTpElVKD
古き人の語る所によると、秋田実季は子息・俊季に家を譲るという時、
俊季にはわずか1万石の地を与えてそこに5万石の賦役を勤めさせ、それ以外の領地は
全て自分が押し取って、郡中の民に重い租税を課した。

それだけではない。実季は家を作り、垣を結い、カマドを作り、窓を穿つ事にすらも一々に銭を賦し、
強制的に徴収した。
このため貧しき民は、家の軒が傾き壁が破れても、修理することが出来なくなった。
男は髷を結い、女はお歯黒をつけるべき年齢を遥かに過ぎても、ただ童のような姿のままであった。
民は親子兄弟、皆嘆き悲しんだ。
嫡男である俊季自身もその家来たちも苦しみ困窮したことは言うに及ばない。

それだけでも酷いというのに、実季は我が子俊季に対し、筋無き事を幕府に訴えるなどしたため、
終には伊勢朝熊へと流された。

その後、俊季が大阪城の守衛を命ぜられ上る時に、実季は道に出迎え、対面しようと伝えた。
実はこの時、実季は内心息子を殺害しようと考えており、俊季の家臣たちは素早くそれを察し
対面を決して許さなかった。

秋田実季の振る舞いは、こう伝えられるほど酷いものではなかったと考えられるが、
彼によって苦しめられた民衆が、その恨みを悪し様に語ったため、このように伝わったのであろう。
しかし大相国家(徳川秀忠)のお耳にも達し、実際に罪を被った事でもあるので、完全に
事実無根というわけでもないのだろう。

(藩翰譜)


これより秋田領は5万石とされたが

2015年11月22日 07:45

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/22(日) 07:37:26.48 ID:Ugx+z1MX
秋田実季は天正18年の秋、小田原征伐に下向した関白豊臣秀吉にはじめて見参した。
明けて19年、九戸の乱が起こると秀吉政権の催促に従い馳せ向かい、城を攻めた。
朝鮮の役が起こると、これもまた催促に従い、軍勢を率いて筑紫の陣に馳せ来た。

いずれの時であったか、秀吉は実季に「お主の所領はいかばかりか?」と尋ねた。
実季はどう思ったのか、僅かに「租入、4,5万石ほどでしょうか。」と答えた。
「であれば、軍の賦役はその額に従うべし。」秀吉はそう仰せ下した。
これより秋田領は5万石とされたが、実際には20余万石あったとのことである。

(藩翰譜)



673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/22(日) 08:47:13.95 ID:s76zDYMx
冷害込みじゃね?
貿易で儲けてるのかもしれんが

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/22(日) 09:26:37.97 ID:BeN7x4Xm
>>661
あったな
内灘海岸だっけ

675 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/11/22(日) 11:21:45.14 ID:z4uYDD4v
徳川家の半分は水野一族の狂気な血で出来てます
特に越前系とか

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/22(日) 11:27:17.70 ID:AAlTs53h
ラスボス「5万石?じゃあ残りは太閤蔵入地な」
実季「・・・・」
ちゅうことか

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/22(日) 17:54:10.25 ID:raQEjblr
>>672
こういうのもあるから

上杉景勝越後転封裏話・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1164.html

慶長5(1600年)10月8日 最上義光、秋田実季宛書状

2015年11月18日 06:51

5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/17(火) 23:48:14.57 ID:ZH/DUF6/
それぞれの駆け引き

慶長5(1600年)10月8日
最上義光から秋田実季宛の手紙
(´・ω・`)「大柿(大垣)に籠居候治部(石田三成)・刑部(大谷吉継)・備前中納言(宇喜多秀家)・嶋津(島津義弘)なとあをのゝ原へ罷出、人数十二万ほとにてひかへ候処へ
内府様(徳川家康)御人数八万ほとに候而被切懸候処に敗軍之躰に候処に、又筑前之中納言(小早川秀秋)後切を被成候故、尚々たまらす敗北仕候
治部・刑部事者主一騎にて伊吹をさして逃候を、被御触を廻、此等之者共生捕にいたし参候へよし被仰候間、定而百姓共とらへて参候ハんと申候
大柿之事者そのまゝ焼却被成候
、佐和山之事者十七日に落城仕候」

この手紙は10月1・2日に長谷堂で米沢へ退く直江兼続を追撃して後、谷地城に取り残された下吉忠を包囲していた時に書かれたものである



「御前落とし」

2014年04月01日 18:38

849 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/01(火) 15:07:32.53 ID:1KwSB2JV
北天の斗星こと安東愛季は戸沢氏との合戦で陣没した。
後を継いだのは若干12歳の安東実季。これに強い不満を抱いたのは叔父の豊島道季だった。
彼は小野寺氏や戸沢氏と同盟し、謀叛を計画した。
実季の湊城を攻めるには安倍千寿丸の双六城が邪魔である。そこで先ず、双六城を急襲した。
突然の攻撃に双六城は落城、安倍千寿丸は自害し、奥方は崖から身を投げた。

これを重く見た実季は自ら出陣するも敗れ、湊城も奪われるなど苦戦したが檜山城に籠り道季を撃退した。
徐々に盛り返した実季はついに道季を大破し、道季は討死したとも落ち延びたとも伝わる。
道季の奥方も落ち延びたが、双六城のあたりで囲まれ、もはやこれまでと崖から身を投げた。そこは奇しくも
安倍千寿丸の奥方が身投げした崖であった。

いつのころからか、二人の奥方が飛び込んだ場所は「御前落とし」と呼ばれるようになったという。

男鹿の昔話です。
結構、いろんなパターンがあって謀叛を起こしたのが腋本五郎だったり安東友季だったり、
道季さんが従兄弟だったり叔父だったりするんですが、多分3回あった湊騒動が混ざってるんだと思います。
余談ですが、道季さんは改名し南部に仕えたとか。





秋田実季老人、関ヶ原を振り返る

2010年08月22日 00:00

591 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/21(土) 19:20:32 ID:aRSQDJ+T
大岩祐夢「たとえ小さくとも家を残すことは武家にとって肝要である」

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 19:23:18 ID:suCFD1Sf
実季「関ヶ原の時の話を聞きたいってわざわざ朝熊まで来てくれた人が居るよ」
凍蚓「関ヶ原か……あの頃は実季ちゃんも24、5歳だったね」
実季「あの戦いの後に、最上義光さんに因縁つけられたんだよね」
凍蚓「そうそう。実季ちゃんから小野寺さんに出した手紙が西軍に付いていた証拠だって
    最上さんが本多佐渡守に訴えたんだよね」
実季「六月の日付の手紙がどうして証拠になるのか、理解できなかったよ、凍蚓くん」
凍蚓「そもそも、この手紙……『お互いよくよく相談して公儀の為に奉公しましょう』っていう内容だけど
    これが最上さんに渡ったのが十月の末だったか十一月の頭だったかな?
    まだ庄内地方が騒がしい時だったね。実季ちゃんは未だ西軍として城に籠もる小野寺さんに
    実季ちゃんが『天下は収まったんだから、降伏しにおいで。命は助かるよう運動してあげるから』
    って勧告したんだけど、小野寺さんは最上さんの方に降伏したんだよね」
実季「小野寺さんとはウチも最上さんも仲が悪かったけど、関ヶ原の時は最上さんには余裕がなかったからね。
    西軍の小野寺さんを攻めたのは私と六郷だったよ。だから小野寺さんは私に頭を下げたくはなかったんだろうね」
凍蚓「小野寺さんはそういう人だよね」
実季「でも最上さんまでそういう衝動的な行動を取るとは思わなかったね。
    小野寺さんが点数稼ぎに差し出した手紙を、日付も確かめずに幕府に提出するなんて」
凍蚓「上杉の攻撃を凌いで浮かれてたんだろうねぇ。甥っ子の政宗君に『羽後の連中みんなバカスwww』なんて手紙残しているもの」


実季「会津征伐の時は家康公から朱印状を貰って帰国していたんだよ。
    それでも先発隊は最上さんに助力できるよう山形に残しておいたんだけど、最上さんが『帰って、帰って』って
    何回も言うもんだから、先発隊も引き上げたのに、それを『西軍に応じたから』と言われたら困るよね」
凍蚓「それで上杉がやっぱり最上に攻め入ったって聞いたから、今度はちゃんと最上さんの了承を得て援軍に行こうとしたんだっけ?」
実季「そうだね。金山城主にその話を通してお墨付きを貰ったんだ。
    だけど由利郡の矢島で小野寺の息がかかった連中が一揆を起こしたせいで、兵力をそっちに回さなきゃならなくなった」
凍蚓「八月下旬、それから九月中旬の二回だったかな。一揆を鎮圧したら、今度は戸沢と小野寺が協力して
    実季ちゃんの領地との境になる淀川に城を再建したんだよね。太閤秀吉の天下の時に破棄した城を」
実季「戸沢には『小野寺を一緒に攻めよう、それがムリなら貴方の領内を通して欲しい』って、何度も言ったんだけどね
    早く最上さんの援軍に行かなきゃって私もその時は必死だった」
凍蚓「仕方ないから南部さんに『戸沢を牽制して』ってお願いしたら『一揆起きてるからムリ!』って言われた」
実季「その一揆って伊達の政m……」
凍蚓「最上さんを助けるための援軍が、最上さんの甥っ子のせいで足止めを食らってしまったんだね」


実季「結局、由利の方面から大回りして、小野寺の大森城を攻め落としたのが十月の十七日だった」
凍蚓「翌日の十六日に六郷くんが最上さんの手紙を持ってきたんだよね。最上さんの手紙は十月八日付けだった」
実季「その手紙の内容は『十月六日に家康公が関ヶ原で勝利した』っていう内容」
凍蚓「最上さんですら八日に知った家康公の勝利を、実季ちゃんはもっと早く知っていたの?」
実季「まさか。だってその日と言えば城攻めの真っ最中だよ?」
凍蚓「でも最上さんは実季ちゃんが家康公の勝利を知ってから城攻めを開始したって言いふらしていたよね」
実季「困ったものだね、あのお爺ちゃんは。あの手紙には『庄内へ援軍を出してくれると聞いて感謝感激』とか
    『上方の騒動も収まったから庄内は任せて仙北を平定してNE☆』とか書いていたのに」
凍蚓「人の心は移ろいやすいね、実季ちゃん」
実季「とは言え、ムリにでも庄内への出陣しておけば良かったとはあの時も、今も思ってるよ」




秋田実季老人、関ヶ原を振り返るの巻





598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 21:48:55 ID:D3o+eSMx
>>592
しかし実季の行動はあまりキレが無いなぁ
若いから仕方ないんだろうけど、
状況に完全に振り回されてる

家督継いだときもそうだし(年齢が年齢だけど)、
俊季との権力闘争にしてもそうだけど、
どうにも後手後手になるのは、
安東家の体質なんかねぇ



608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 23:30:29 ID:suCFD1Sf
>>598
実季自体は撫で斬り、暗殺(疑惑)と父親の血の片鱗を見せていると思いますよ
関ヶ原の時も、上杉を迎え撃つ為に戦力を集中させた為に空になる最上領に
同じ東軍の味方として居座わって領土化しようというのが実季の思惑だったのではないかな
その為にもこまめに榊原康政と連絡をとっていたわけだし
最終的に
「湯沢、増田で援助して貰いたい(湯沢、升田を被引助可給候)
 庄内の事はこちらで責任をもつので、仙北に攻め上ることを急いで貰いたい
 (庄内之事ハ此方より行等可申候間、仙登偽さりとてハ 可被相急候)」
という義光の手紙が届いた事で、実季は協定が成立したと考えたかと


しかし十一月八日付の伊達政宗宛の義光の手紙には
「さてまた仙北へ人衆越し申し候。その後とかく申すことも候わず候。
 由利秋田よりまかり出で候も、そこそこはひとつに談合候て、出たる体のよし申し候て
 なかなかに馬鹿けなることに候と、人々語り申し候。
 南部も二十四日に横手分に家の六つとか七つとやらん候を、代官にて焼き申し、その日に引き帰り候よし
 仙より申し越し候。いずれも上への儀を、以後の首尾口合わせまで科逃ればかりのことを仕り候」
とあり、この時点で羽後勢力の解体を義光が狙い始めたかと
羽後勢力を馬鹿と嘲笑う程に(アンタが仕掛けておいて)義光には徳川とのラインに自信があったのだろう

逆に実季は浅利氏との対立の過程で奉行衆との繋がりの方が強かったのがアダになった。
特に比内の浅利氏の独立を推していたのは対石田親徳川の浅野氏だったし



609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 23:30:30 ID:Pio0gt+Y
>>598
30にもならない実季と永禄年間から戦い続け、のし上がってきた義光では役者が違ったというか…

>>603
実季と凍蚓という誰もが絶対あり得ない組み合わせであるとすぐわかる>>592と
直江と景勝とか政宗と小十郎のような組み合わせを同列に語るのはナンセンスだと思う。


610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 23:54:00 ID:D3o+eSMx
>>608
なるほど
そうやってできた徳川との隙を義光に突かれたのか
肝心な所で上を行かれたのは、経験や環境の差かなぁ…
これが後に響いた事を思えば、実季にとっては痛恨事だったろうな

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/22(日) 00:16:11 ID:Vg/xQKqo
関ヶ原後の鮭様の有頂天とやりたい放題は
その後のお家騒動と最上氏改易を知っていると何とも言えんものがあるな
後世の人は因果応報と語ったが
しかし、遡って徳川とがっちり結び付くという勝ち組への一歩が
ラスボスに娘を殺された事と考えるとマジで人生の山と谷がはげしすぎる
塞翁が馬ってレベルじゃねーぞ