吉田九郎左衛門、秋田左内の誅殺

2015年08月09日 10:15

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/09(日) 01:28:14.50 ID:F058AzdF
慶長5年、関ヶ原の勝利の後、福島正則は領国である尾張国清洲に戻り、家臣たちの労をねぎらったが、
この時、吉田九郎左衛門秋田左内という者を誅殺した。

その理由はこういうことだった。清州城から南に行くと、岩塚という所がある。ここに、
吉田内記守氏入道長英という者が在住していたが、彼はかつての尾張守護、斯波武衛家の一族で、
代々岩塚の城主であった。斯波家が衰え信長が勃興した頃には、この吉田入道は隠居し、息子二人と
その他同姓の者達の多数は信長に従っていた。

長男の内記は、永禄11年9月13日に、信長が伊勢大河内を攻めた時、大手の長坂において
織田下総守と共に討ち死にした。その弟、並びに嫡孫二人とも、祖父長英の扶持にて成人し、やがて
織田信雄に仕えた。

しかし織田信雄が後年、小田原の役の時、故あってその領国の尾張、伊勢を没収されると、彼らも牢人となり
また岩塚に引き篭もったが、関白秀次が尾張伊勢を知行すると、その土地の国士を選んで旧領を与えた。
この時長英の嫡孫は岩塚を領した。叔父の石橋彦四郎は、後に吉田修理と号し越前松平家に
京都詰めとして仕え、武辺知謀もあり厚遇された。

しかし秀次事件で秀次が滅亡すると、その家臣は、或いは誅殺され或いは流罪となり、
その他は牢人となり、この吉田兄弟は再び岩塚に蟄居した。

そんな中、清洲城主となった福島正則が徳川家康にお伴して会津征伐に向かうと、その後から
石田三成が挙兵し、これに西国・中国の諸大名残らず一味した。
この発端は、豊臣家の幼主秀頼が徐々に徳川にその権威を奪われ、今双葉の内に切らねば
後の斧を用いても切ることができなくなる、という危機感を秀頼の補佐をしていた者達が考え、
これに故太閤温故の人々の多くも与したのである。

福島正則も豊臣家の厚恩によって民間よりい出て、いまや半国の主となったのだから必ず石田に
与するだろう。清洲で留守居をしていた正則の家臣たちですらそう思ったという。
これによって、吉田兄弟、長男は太郎左衛門、弟は長蔵といったが、彼らは

「我家再興の時が来た!福島正則は石田方への合力のため、近日中に関東を捨て駆け上って
くるであろう。その時、三河国刈谷あたりで城を乗っ取り、関東勢の御先手をつかまつるべし!」

彼らは水野忠重と交流があり、水野と深く談合し、密かに一族旧功の者たちを語らい、
武士30人余に足軽700人を集めた。ところが水野が不慮に加賀井重望によって横死させられたため、
この密約も崩れ如何せんと一族の中で評議を繰り返していた所に、福島正則は家康に味方して
先陣を仕り、現在西軍と戦うため進軍しているとの情報がはいり、更に当初の想定は崩れた。

長兄の吉田太郎左衛門は従兄弟の秋田左内という者に相談し、両人同道して清州城に入った福島正則
元に出向き申し上げた

「私達は御領分の牢人ですが、今度の御大事に罷り出まして、一奉公仕りたいと存じます。
そのために旧功の者ども700人余を従えて参りました。私達を上方への先鋒として
仰せ付けて下さい。」

正則はこれを聞いて、「なるほど、お前たち一族のことはかねがね聞いていた。その志のほど
神妙である。何か案内を申し付けるであろう。」と行ったが、そこで彼らを捕らえ監禁した。
これは正則が、彼らが正則を討つ謀略を進めていたことを既に探知していたためであった。

関ヶ原の戦いの後、正則は下知して二人の首を刎ねた。その表向きの理由は、織田信雄が
家康との旧盟も忘れて三成に一味し、旧領である尾張伊勢の国人、有縁の者たちを扇動したが、
この両名もそれに応じた一揆の張本人であったのだの正則に訴え出たものがあったから、
という物であった。
勿論この理由は偽りである。

(明良洪範)



167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/09(日) 09:55:11.57 ID:4PVOWkND
もちろん、市松はシラフじゃなかったんだな?

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