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稲津重房とその母、妻

2016年06月11日 21:00

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/10(金) 21:21:03.04 ID:hbwty/xh
稲津次兵衛尉重房は、永正の頃、綾の地頭であった稲津越前守重頼の孫であった。
伊東家の日向没落の時は僅かに14歳であり、伊東義祐への供奉に遅れ、心ならずも
薩摩島津家の幕下に属し、その後、島津家大阪邸に勤務し、母と妻は薩摩に留め置いていた。

そのような所に、伊東祐兵に日向国飫肥が拝領されたとの話を聞き、「累代の旧君を他所から見るのは
快からず。たとえ死すとも帰参せねば」と思い立ち、譜代の郎党たちを呼び

「私の心底はこの通りだ。お前たちは早急に薩州に下り、母と妻を連れて飫肥へ脱出せよ。
私はその頃合いを合わせて、この邸を立ち退き飫肥に到着するようにしよう。」

こうして郎党たちに早船を求め、薩摩に向かって下らせた。そして稲津は、郎党たちが薩摩の近くまで
行ったであろう頃合いに、にわかに邸を脱出した。

薩摩邸の番頭は稲津が逃亡したことに気がつくと、すぐに早船を仕立ててこの事を国元に報告した。
ところが、稲津の郎党たちが乗った船ははるか以前に大阪を出たのに、海上が風波悪しく、殊の外
到着が延び、却って番頭からの注進の船より1日遅れて薩摩に着いたのであった。

この時島津家では「この事について寛大な処置を取れば、家中の他の、旧伊東家の者達への差し障りとなる。」と、
稲津重房の母と妻は殺されるに至った。

稲津重房は飫肥に帰参し、これに伊東祐兵はニ百石を与えた。
その後慶長5年10月9日、木脇口にて戦死した。37歳であった。

(日向纂記)



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稲津重房の帰参

2013年08月12日 19:51

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/12(月) 02:42:17.05 ID:sRHr9IkJ
稲津二郎兵衛尉重房は日向伊東家の譜代の家臣であったが、伊東義祐の日向没落(伊東崩れ)の時は
未だ年齢は14で、三位公(義祐)に伴することが出来ず、心ならずも薩摩島津氏の幕下に属した。
その後、島津家の大坂屋敷に勤務し、母と妻は薩摩に留め置いてあった。

そんな所に、伊東祐兵が豊臣秀吉より、旧領である日向飫肥を拝領する、という話が聞こえてきた。

稲津は「累代の旧君を余所の君主として見ることは快からず。大名として旧領に復帰されるからには、
たとえ死すとも、帰参しなければならない!」と思い立ち、自分の譜代の郎党を呼び、
この決意を話し

「我が心底は以上の通りである。お前は急ぎ薩摩に下り、我が母と妻とを伴って飫肥に
連れてくるのだ。私はその頃合いを考えあわせて、この大坂屋敷を立ち退き飫肥に向かう。」

そう命じて早舟を求め、これに乗せて薩摩へと下した。そして郎党がもはや薩摩に着いたと思われる
時期に、稲津は密かに島津の大坂屋敷を脱出した。

稲津重房の逃亡を知った大坂屋敷の番頭は、早舟を仕立ててこの事を国元に知らせた。
ところが、である、

稲津の郎党の乗った早舟は、はるか以前に大坂を出たのであるが、海上の波風が悪く、
殊の外到着が遅れ、却って大坂屋敷の番頭の出した注進の早舟のほうが、1日早く
薩摩についてしまったのである。

この注進を受けて島津家では、『この処分を寛大にしてしまえば、これまで我が家に降参した者達に
非常な悪影響を与える。』と考え、稲津重房の母と妻を殺した。

稲津重房は飫肥に帰り着き、伊東祐兵は彼に200石を与えた。
のち、慶長5年10月9日、木脇口にて戦死した。享年37歳であった。
(日向纂記)

稲津重房帰参における、悲劇についての逸話である。