伊東家による宮崎城攻め

2017年02月23日 10:18

668 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/02/22(水) 23:37:40.04 ID:KEyHajol
当家(伊東家)が(西軍についた高橋家の飛び地の)宮崎城を攻めるという内容が島津家に届いた為、(島津領の)穆佐、倉岡、綾、木脇の諸将は会合して「もし本当であれば佐土原と申し合わせて宮崎城に援軍を出し、その勢いのまま(伊東家の)清武城を攻め取ろう」と佐土原に伝えた。

佐土原もまた同様に評議して軍を準備しているところに宮崎城が落城したという内容が届いたので途方に暮れる限りであった。

縣(延岡城)の高橋家でも家老の花田備後守が宮崎城での急を聞いて不安に思ったので加勢として士卒雑兵合わせて300人余りを向かわせた。

しかし穂北村に到着した夜、宮崎城が落城して城代の権藤父子を始め城兵が残らず討ち死にしたという報告を聞いたので肩をおとして空しく引き上げた。

669 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/02/22(水) 23:38:12.24 ID:KEyHajol
掃部助(稲津重政、伊東家の家臣)が考えたように、陣立てに時間がかかり宮崎城が一日持ちこたえるようなことがあれば、敵の援軍が次々と競い集まり容易に攻め落とすことは難しかったはずである。

掃部助の用兵は雷風の速さのようで、神速で攻め寄せた為に狙い通り僅か子の上刻から卯の上刻(23時から5時)までの間に城を攻め落とす大功を成した。

特に夜襲であれば必ず同士討ちがおこるものなのに雑兵に至るまでその誤りが無かったのは、朝鮮の陣以来伊東祐兵公が士卒と辛苦を共にし、家中の士もまた今一度主君を一国の主にしようと各々勇を奮い立たせ一致団結した為に巧みな駆引をしてこのようになったのだ。

黒田如水の検使、宮川伴左衛門も
「掃部助の軍略は言うに及ばず家中の諸士の勇敢なる振る舞いは筑紫の立花家の家風によく似ている」
「島津は大敵といえども恐れるに足らず。この旨を帰国して如水様に申し上げなくてはならない」
と褒め称えること限りないこととなった。

(日向纂記)

関ヶ原の裏で起きた伊東家による宮崎城攻めとそれを如水の検使が評して


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稲津掃部助の妻

2016年07月05日 21:29

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/05(火) 00:01:06.88 ID:vt/+c1Fu
稲津掃部助(重政)の妻は、豊後大友家の一族である田北相模守の娘であり、任世政成の妹である。
慶長2年、大友家滅亡の時、任世政成は年齢11歳で、母妹とともに、周防国柳井という所に流れ着いた。
母は土佐の一条安房守房基の娘であり、伊東義益の奥方であった於喜多夫人と姉妹であり、現当主たる
伊東祐慶の母、松寿夫人にとっては伯母であったため、周防国に漂泊したとの話を聞くと、松寿夫人は
使いを周防国に遣わし、母子供に招いた。その頃、伊東家重臣の川崎大膳亮祐賢が妻を失い独身で
あったため、この母を娶って後妻となした。その時、この女児も母に従って大膳亮の養女となり、
後に稲津掃部助の嫁いだのである。

だが、程なく伊東祐慶は、稲津掃部助を誅すると決めた。この事を知らされていた実家の
川崎氏は、「母が病気になったので、帰ってきてほしい」と迎の者を遣わした。
妻は本当に病気になったのだと思い急いで飫肥へと向かったが、途中、山假屋に至った時、
迎の者達は真実を告げた。

妻はこれを聞くと大いに驚き嘆き、迎の者達に向かい叫んだ
「私はこれより、再び夫の元に帰るので、駕籠を返しなさい!」

しかし迎えの若党たちはこれを聞こうとせず、無理にでも母のもとに伴い帰そうとした。
妻は大いに怒り、薙刀の鞘を外し

「我が下知に従わざる者はみな、斬って捨てる!」

そう叫ぶと、若党たちも何も出来ず、踵を返して清武へと戻った。

帰ってきた妻を見て、稲津掃部助は
「女の身なのだから、母のもとに帰るのだ!」
そう勧めたが、妻は承知せず
「私は女として生まれましたが、夫の最後を見捨てて帰るような存念は有りません。」
妻には少しも怖れる色無く、今日こそ討ち手の軍勢が押し寄せると聞こえれば、心しずかに
身支度を整え、掃部助に付き添い、最後の様子も、いかにも勇ましかった。

これを聞いた人たちは、涙を流さぬもの居なかったという。

(日向纂記)