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あの鉄砲は狭間くばりといって

2021年02月21日 19:09

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/21(日) 17:35:22.72 ID:jMSoTC5v
大阪冬の陣の時、寄手は西南北東、大方軍勢が揃った所に、城中より大小の鉄砲を、つるべ放ちに
事も夥しく撃ち出した。

これに諸方の寄手は色めきあったが、このような所に古田大膳(重治)殿の家中にて、高禄を受け
日頃は用に立つ人と聞こえている老武者が、鉄砲の音に驚き、
「大将に御物具まいらせよ!各々覚悟せよ!」
と勧めたため、物に慣れない若者たちは、「すわ、敵が出てくるのか!?馬よ、物具よ!」と
罵りひしめき、上を下へと騒ぎ立てた、

このような所に、先手の組頭である森次郎兵衛原十兵衛の二人が馳せ来た。
「これは何事に騒いでいるのか!?狼狽えたことを申して、大将をも驚かし参らす事、
沙汰の限りである!
あの鉄砲は狭間くばりといって、城攻めの時の大法である。この事を大将に申されよ。
何れも心安くして、静まり候へ!」

そう言い捨てて、それぞれの持ち口に帰っていった。

この森次郎兵衛は戦場において、度々の高名があった中にも、三木城攻めの時、太閤、その時は
羽柴筑前守殿と云って、付城をなされたが、敵の別所方より押し返して来た所に、次郎兵衛が
走り出て、門を支えさせ、合い鑓を合わせて追い払った。その振る舞いが比類無かったため、
筑前守殿より召され、陣羽織を手づから給わった。

また原十兵衛稲葉一鉄に仕えていた時の手柄、また八王子にて度々比類なき働きが有った。
後には森内記(長継)殿に仕えたという。

備前老人物語



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見聞談叢より斎藤内蔵之助の最後

2020年08月31日 19:05

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/31(月) 18:11:12.37 ID:Zlebf2X1
見聞談叢より斎藤内蔵之助の最後
長いので二つに分けます

斎藤内蔵之助と那波和泉守は、二人とも稲葉一鉄に仕えていたが、仔細あって両者浪人し
た。両人光秀と内々懇意であったため、光秀を頼んで信長公に訴えた。信長公が一鉄に詫
びて、那波は帰参したが、斎藤は少しわけあって切腹を命じられた。しかし、光秀が信長
公のそば仕えの猪子兵助を頼んで、斎藤を家臣にした。

明智光秀が没落して家臣が四散するなか、斎藤内蔵之助は近江に逃れたが、堅田で捕らえ
られた。太閤は三井寺の客殿の前に座を据えられ、内蔵之助を引き出してこう言った。
「お前は一鉄入道のところで不行跡があって勘気をこうむったが、光秀のおかげで今まで
永らえた。光秀の逆心のおこりもお前が張本人である。罪深すぎて裁判を行う筋もない。
すぐに磔に申し付けるだろう」と言って、「何か言うことはあるか」と二度もおっしゃっ
たが、斎藤、さして臆した様子もなく、後ろを見まわして、「綱を取っておられるのは、
侍か、雑兵か。左の手を少しゆるめて下さい」と言った。太閤が「望みどおりにせよ」と
おっしゃったので、少し縛りをゆるめた。そこで、斎藤、左の手を地面につけ、「私めは
光秀の家来になっておりましたので、光秀の申し付け通りに働きました。私自身は信長公
に恨みはありませんが、光秀が恨み申したため、家来ゆえ逆心の場まで付き従いました。
逆心をしきりに止めたのは、私でございます。こう申し上げるのは死罪を免れんがためで
はありません。罪人とのお言葉を頂戴したので、申し開きを致したのです。早く命をお取
り下さい」と申し上げ、「この一巻をご覧に入れたい」と言って、左手で右手に括り付け
てあった繻子の守り袋を差し出した。関口左門という御小姓がそばへ寄って右手で受け取
ろうとすると、その様子を見て内蔵之助は、「推参ながら、囚人のそばでは右手は出さな
いものです」とにこやかに言った。太閤がその一巻を開いてご覧になると、いつのまにし
たため置いたものか、光秀の逆心を止める諫めの書状と、それに対する光秀の返事だった。
「お前がこのたびこれを戦場まで持ち来ったのは、隙を見て降参して、この書状で恩賞を
得ようという心づもりだったのだろう。沙汰の限りの者だ」と太閤がおっしゃると、内蔵
之助、「それは普通の人の言葉、筑前守どののお言葉とは思えません。私めが心底光秀を
大切に思っていたことを、死後まで世の人々に知らしめたいばかりでございます。早く命
をお取り下さい」と言って、その後色々とお尋ねあったが、「もはや申し上げても詮無い
ことです。お許しあれ」としか答えなかった。

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/31(月) 18:15:08.68 ID:Zlebf2X1
(続き)
光秀の屍が捜索の末探し出されると、首をつなげて粟田口で磔にせよという命令が下さ
れた。内蔵之助も同じ場所で磔にされることになった。光秀の槍取りは澤村権七という
足軽、内蔵之助の槍取りは伊澤十平という足軽だった。両手を釘で固定されるときに、
内蔵之助が「左手より右手が下がっています。これでは顔が真正面を向きづらくなりま
す。釘を打ち直して下さい」と言った。そのため、釘を打ち直すと、にっこりと笑って
「今少しお待ち下さい」と言って両目を閉じると、

屍ハ草野ニ埋ムト雖モ 魂魄遠天ニ帰ル 生死風前ノ燭 悟ルガ故ニ胸中鮮ヤカナリ
柳ハ緑花亦タ紅 三界眼前ニ尽ク

と大声で右の詩を唱え、「死後、この詩を丹波、亀山の永元和尚へ伝えて下さい」と奉
行に頼み、「万が一お忘れになってしまっては本意ではないので、もう一度申し上げま
しょう。書きつけておいて下さい」ともう一度唱えた。奉行が矢立で紙に書きつけると
「これにて人界からお暇しましょう」といって目を閉じた。両脇を槍でつかれた後、
また目を開いて、「因果深いとは、私のことを言うのでしょうか。まだ息が絶えないで
います。もう一度急所を強く突き通して下さい」と言って、また目を閉じて唸り声を上
げて死んでしまった



揖斐氏顛末

2020年06月04日 18:44

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/04(木) 01:24:22.53 ID:pW5SX5wd
国枝正則の討死後。>>106

しかるに国枝の舅である清水城主・稲葉伊予守良通方へ、名礼の戦いで命を逃れし者一両輩が逃げ
込み、その様子を告げると良通大いに驚き、現在の婿を討たれて打ち捨て置けるはずもなく、速や
かに馳せ付け仇の光就(揖斐光就)を討ち取らんと即時に士卒を下知して清水を乗り出した。

戦場目指して馳せたところ、深坂の峠で国枝の家来がまた一両輩逃れ来たり「主人はすでに討たれ
て候。揖斐は早や兵士を纏め、城中に引き入りました」と申した。良通は無念骨髄に徹し、むなし
く揖斐の方を睨んで見つめ、歯噛みするといえども光就はすでに居城へ引き入ったので、力無く馬
を返して清水へと帰った。

光就はすこぶる勇剛の士なれば、容易には誅し難し。そこで折を窺って油断を見済まし、不意に押
し寄せようと月日を送った。天正8年(1580)に至り、12月下旬に及び、清水で良通急病な
りと沙汰した。これによって家の子や郎等は騒動する様子で、近辺を行き違う輩引きも切らず。揖
斐では稲葉の振る舞いを気遣い思うところであったから、これを聞いて事実と思い大いに喜んで油
断をなす。

すでに12月の大晦日なので早春元朝の儀式などを取り繕ったが、明ければ天正9年巳正月元日で
ある。良通は形の如く士卒に令を伝え、大晦日の夜より出馬の用意をなし、兵糧など十分にしてそ
の夜の丑三過ぎる頃に清水を出陣し、揖斐坂(原注:揖斐というのは谷汲道にして、白石から深坂
へ越える坂である)の辺りから打ち上り、山続きに押し通って城際へ押し詰めた。

揖斐の城中では元日新玉の儀式をしてそうとも知らずにいたところ、やがて寅の一天に至れば、城
の前後より一同に鬨を作り攻め立てた。城中大いに騒ぎ立ち「こは敵に不意を打たれたり!面々持
ち口に至り防ぎ候へ!」と、上を下へ大慌てした。そこを良通は下知し、数多の松明を灯し連ねて、
城の四方山上の樹木へ一同に火を掛ければ、たちまち猛火が八方へ燃え上がり、煙の下より寄手短
兵急に攻め立てれば、堀池備中守、その子・千代寿丸、大西源吾、花木藤五郎以下は思いのまま戦
い討死した。

城将・光就ももはや討死と馳せ出たのを士卒らが制し「一先ず城を落ちて逃れ給え!」と勧める故、
光就も力無く城の西より桂の郷へ逃れ出て、山岸勘解由左衛門光信の隠館へ落ち入ったが、東南の
風が荒く吹き来たり、山上の猛火はたちまち桂の郷へ焼き下って、その辺りは残らず一片の煙とな
り残さず焼亡した。この時、堀池父子、宇佐美平馬、稲川治左衛門、大西、佐藤、花木、畑野など
数多の勇士が討死した。稲葉の郎等では、加納悦右衛門が比類無き武功を顕した。

さて光就は桂を出て安八郡大垣へ落ち行き、氏家左京亮直元(直昌の誤り)を頼んで蟄居した。そ
の後、氏家は勢州桑名へ移ったので同じく桑名へ赴き、その後の文禄元壬辰年(1593)、濃州
石津郡駒野村で卒去した。56歳なり。

さて稲葉良通は光就を討ち得ずといえども、揖斐の一城焼落し大いに喜んで清水へと帰った。この
時に揖斐山上の城は断絶した。天正9年正月元日の事、未明に落城なり。これ故に今揖斐で俗説に
「朝寝すると城が落つる」というのは、これが例となったのである。今の揖斐中で元日の礼勤を朝
未明より行うのは、この例を引いた事なのだと言われている。

さて、稲葉はこれより揖斐の山下三輪村の要害に嫡子・右京亮(稲葉貞通)を入れ置いて守らせた。
しかるに良通は婿の怨みだと揖斐光就を攻め出し、いささか憤怒を散じたといえども、三代相恩の
主君の連枝(揖斐氏は土岐一族)を攻め落としたので、勇士の本意あらずと思ったのか、その年の
秋に清水北方の山の麓、長良村の釣日寺で法体し“一鉄斎”と号しける(原注:一説に岐阜長良の
崇福寺ともいう)。

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/04(木) 01:25:47.57 ID:pW5SX5wd
しかるに光就落去の折に子息3人あり。長男を栄千代丸という。この時より江州坂本に至り、明智
の養育によって成長し、後には江戸将軍に仕えたという。二男は早世、三人目は女子なり。成長の
後に他家へ嫁いだ。光就の室はこの折より尼となって横倉寺に入ったという。また徳山五兵衛(則
秀)に嫁いだとも聞く。

さて今回の放火によって桂の郷は皆類焼し、鎮守八幡宮も焼失したが本地はつつがなしという。後
に当社へ、明智光秀の霊を祭った。

さてまた周防守基信の妾腹の子に、揖斐六郎太夫基行という者あり。桂の郷戸(虫損)渡という所
に住んだが、弘治元年卯(1555)8月病死。その子・六郎太夫貞行は山岸勘解由左衛門の婿な
り。後に勢州近士の家に養子行ったという。晩年は明智に仕えて近士となり、四手衆の内なり。天
正10年6月2日、京都本能寺で湯浅甚助友俊(直宗)と組み合い、双方刺し違えて死す。

貞行の子を揖斐造酒三郎という。後に作之丞貞次という。母は山本対馬守和之入道仙入斎の娘なり。
貞次は明智の山崎合戦の前日に光秀の遠計に従って濃州に落ち来たり、後に江戸将軍に仕えて子孫
は関東にあり。

康永元巳年(1342)3月に揖斐出羽守頼雄が初めて当城を築き在住してより以来、揖斐氏代々
ここに住し、240ヶ年の星霜を経て、天正9年正月元日ついに落去したりけり。当城は山上に本
丸あって山下三輪村には要害があり、侍屋敷満々たり。山上落去の後は山下の要害だけであった。
故に後にこれを城に改築し、矢倉、塀、堀などを修復してよき一城である。

さて揖斐というのは庄の名で甚だ広大である。城のある所は揖斐の庄三輪村という。しかしながら
揖斐の本城があるので三輪とは言わず、ただ揖斐と称す。揖斐の庄の村々は数多し。三輪村を始め
として桂、南方、北方、房島、仁坂、中津、原野村もその内である。現在、この揖斐は岡田伊勢守
(善同。幕府旗本、美濃郡代)の陣屋である。

――『美濃国諸旧記



揖斐落城のこと

2020年06月03日 17:57

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/02(火) 22:27:47.54 ID:VzM8DUrR
義龍の子・龍興の代に至り、ついに信長のために当国を奪われる。この時に光親(揖斐光親)は
稲葉山で織田勢と戦い討死したと沙汰するも、その説は詳らかではない。しかればこれより揖斐
も織田家に降参し、相続いて揖斐に在住した。

さて揖斐落城のことを尋ねるに、その頃の池田郡本郷城主に国枝大和守正則という者あり。これ
は安藤一族の国枝大和守藤原守房の末孫である。数代本郷村の城主で、また本郷の内に良徳寺と
いう禅寺がある。当時は稲葉良通(一鉄)の父・臨仁定門が隠居していたので、正則と良通は折
節参詣した。

また揖斐光就も時々参詣したのだが、光就、良通、正則が良徳寺に参詣して碁会を催したところ、
光就と正則は碁の勝負のことで互いに口論に及んだ。良通はこれを仲裁して双方を宥め、ようや
く怒りを晴らしてその日の参詣は終わった。しかし光就の利はもっとも正しきものであった。良
通は正則の舅故に非を曲げて、無礼に扱った振る舞いであった。これによって、光就は甚だ憤り、
これより遺恨を差し挟む。

その後、天正6年寅(1578)8月18日のことであるが、正則は大野谷汲の観音へ参詣のた
め、わずかな主従で本郷を出て株瀬川を越え、道行の慰みに四方の景色を遊覧して赴いた。光就
はこの由を聞き大いに喜び、日頃の憤りを散ずべき時至れりと郎等を下知し、正則の来る道筋で
ある名礼の崎の広野に伏勢を隠し置いて、揖斐城の裏手へ出て待ち受けた。

そうとも知らずその日の巳の刻に至り、正則はわずかの士卒を引き連れやって来たのを、光就は
すは掛かれと呼ばわって大声を揚げ、「過ぎし頃の碁会の遺恨、良通の不道の扱い!その憤りを
晴らさんがため、早くよりここで待っていた!逃すまじ!」と呼ばわった。

正則大いに驚き、覚えのある事なれば、心を決して少しも恐れずに郎等を下知して切って掛かる。
揖斐勢も槍刀を打ち振り血戦したが、国枝勢もここを先途と戦った。折しも木陰より揖斐の伏勢
50余人がドッと叫んで突いて掛かれば、国枝も仰天してここまでなりと心を定め、太刀を持ち
自害しようと思った。そこへ揖斐の郎等・大西太郎兵衛が切り掛かり、ついに首を取ったりける。

正則すでに討たれければ、残る郎等は七転八倒の働きをしてことごとく討死した。(中略。国枝
方と揖斐方の戦死者を列挙)しかし光就は大いに喜び、兵士を下知して早々に城中へ引き入った。
本郷勢の13の輩の死骸を取り集め、名礼・結城村辺りの土中に埋めて13ヶ所に葬った。その
形は今も残って、谷汲道の傍らにある“十三塚”というのがこれである。

――『美濃国諸旧記

続き
揖斐氏顛末


109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/03(水) 03:18:02.59 ID:PNJemRL3
>>106
だから賭け麻雀はだめなんだ

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/03(水) 11:05:40.10 ID:ahKb3dTD
>>109
アハッ

さて通貞は

2020年05月16日 18:17

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/15(金) 18:51:02.51 ID:RLxOE1g1
一、大野郡清水の城主  稲葉伊予守良通入道一鉄斎 始めは安八郡曽根の城主なり。
  安八郡大垣の城主  氏家常陸介友国入道卜全  元亀2年太田村にて討死。
  厚見郡鏡島の城主  安藤伊賀守守就入道道足  天正11年に討死。
  安八郡西の保の城主 不破河内守通定(光治)  天正9年に病死。

  右の四家を“西美濃四人衆”と号して、土岐氏代々相恩の旧臣である。もっとも各々天文・弘
  治・永禄・元亀・天正の頃の人々である。土岐頼芸より義興に属して龍興の代に至り、永禄
  7年(1564)の頃より織田信長に随身した。右の内、稲葉は子孫繁昌、氏家は内膳・志
  摩守が関ヶ原で終わる。不破は彦三郎より北国に果てる。安藤は関東にいるという。

一、さて通貞(不破光治)は土岐の旧臣にして、美濃の国四人衆の内より土岐頼芸・一色義龍・
  斎藤龍興に属し、永禄7年の秋より心変わりして織田信長に属した。

  この人は勇猛武功のことについてさしてその名は無い。しかしながら、その気質温和にして
  人愛深く、その姿に威厳の相あり。殊に弁舌奇麗にして談合仲裁の事に良くその理明白の人
  であった。しかしながら戦功においては、生涯の中で一立の優れた働きを知らない。時に天
  正9巳年(1581)8月に亡くなった。

  その子・彦三郎通家(直光)は柴田勝家の与力として北国征伐の烈将であった。よって越前
  国に居住し、後には加州に移った。天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦では前田家に組
  し、度々武功をあらわした。子孫はどこにいるのか、その名を知れず。

  今、濃州不破郡にも不破氏を名乗る小百姓など少々ありといえども、通貞の子孫とも見えず。
  いずれにせよ彦三郎の子孫は北国にいると見える。今、西の保村にも少しの堀の跡、ならび
  に小高き丘などのようなものが見える。これすなわち河内守居城の跡と見えたり。

  ――『美濃国諸旧記



土岐頼芸の美濃没落と後半生について。

2020年01月24日 16:42

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/24(金) 02:22:41.06 ID:bm+Lmzcj
土岐左京大夫頼芸は、織田信秀の情けにより。天文年中、大桑に入城した。彼は山城守(斎藤道三)のやり方を
深く憤り、どうにかして彼を滅ぼそうと、父子共に密々に計略を廻らせていたが、その陰謀が山城守に聞こえ、
秀龍大いに怒って即座に大軍を率い、天文二十二年、大桑に押し寄せた。

大桑城では思いもかけない事態であったので防ぐことも出来なかった。その日は揖斐光親がたまたま参り合わせ、
これを見て一番に駆け出て防ぎ戦ったが、お目にかかりに参るためだけに率いていた人数でしかなく、
続く味方はなく、その上深手を負い叶わず在所へと引き退いた。

山城守は勝ちに乗じて城に火をかけ焼立てた。このため、頼芸父子の近習である山本数馬、不破小次郎、以下
七騎は、一旦越前へと落ちて頂き、その上で再び一戦を遂げるべきでありますと申し上げたことで、父子とも
城の後方、青波という所に出て、そこから山伝いに山本数馬の在所である大野郡岐禮という里に落ちられた。

山城守は逃さぬと追手を掛け、河村図書国勝、林駿河守通村を両大将としてこれを追わせた。
しかしこの時、林駿河守が心変わりをしたのか、佐原という場所からどこともなく落ちて行った。
また河村図書も、三代相伝の主君に弓を引く事は冥罪恐れ有りと思い、頼芸方の山本数馬へ密かに矢文を
射掛けて内通をした。山本数馬もこれを心得、やがて七騎の侍とともに後ろの山に登って喪服を着し、
「太守御父子は生害された!」
と披露して葬礼を執り行い、柴を積んで火を放ち、火葬の体に見せた。
また河村は川を隔てて戦うふりをして乱れ矢を射掛け、合図の勝鬨をあげて井ノ口に引き取り、稲葉山城に
入り、かくと告げた。

これにより頼芸主従七騎は越前の方へ落ちられ、朝倉義景を頼ったが、しっかりと取り合ってもらえず
甚だ疎略に扱われたため、ここにも永く有ることは出来ず、遥かに上総国に落ち行き、萬喜という所に、
幽なる体にて居られた。武運の突きた故だろうか、眼病を患って程なく盲者となり、入道して
名を宗藝と号した。

天正十年、稲葉伊予守良通入道一鉄が、この頃は大野郡清水に居住していたが、この頼芸の事を聞いて
いたわしいと思い、昔の好を忘れず、君臣の義黙し難しと、同国厚見郡江崎の里に忍び居たる、頼芸の
六男・一色蔵人頼昌を御使として遣わした。

天正十年二月十八日に江崎を出発し、その日に清水に参り、十九日に太田に泊まり木曽路を経て、
三月二日に上総国萬喜に到着した。彼は変わり果てた父の有様を見て涙を止めることが出来ず、
かれこれと日を過ごし、四月七日に岐禮の里に着いた。そこに、新たに小さな館を設え、下女二、三人を
置き、大変丁重に扱う様子が見えた。これに頼芸も有りし昔、この里を落ちたこと、また一鉄の志浅からぬ
事を感じ、御落涙をなされた。

それより直ぐに、一色頼昌は七郎右衛門を以て先立って清水の一鉄のもとに、かくと申し使わした。
一鉄法師も翌日参られ、懇ろに申され、山本数馬に委細を申し付けて帰られた。数馬は後に、山本次郎左衛門と
名を改め、頼芸に始終付き従い奉公をした。また稲葉一鉄公より合力として二百石、数馬に十人扶持を給い、
頼芸は心安く暮らしたが、程なく病に伏し、老病の故であろうか、同年十二月四日、八十一歳にして
卒せられた。庵室の号を用いて、東春院殿左京兆文官宗藝大居士と号した。

(土岐累代記)

土岐頼芸の後半生について。



伊予の身において誉れとすべし

2018年11月11日 16:24

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/11(日) 03:32:25.39 ID:KKOyQnSl
(姉川の戦いの直前)

終夜火を焚く敵方を見た織田信長は龍ヶ鼻本陣への敵襲を悟り味方の備定めをされた。毛利新助(良勝)を神君御陣
へ使者に遣わし「明日の合戦で信長は越前勢に向かう。徳川殿は浅井に向かいなされ。しかしながら、御勢は多くは

ないので、誰でも加勢を申し付けよう」との口上をした。神君は聞かれ「私がここに来た以上は水をも火をも避ける
わけにはいきません。朝倉・浅井のどちらでも受け取り申しましょう。しかし左様な打ち込みの合戦はまったく本意

ではありません。強敵と覚える一方を受け取り勝負を決します。浅井の8千を我が3千で戦うことは、人数において
不足なし。されども加勢を添えて下さるならば稲葉伊予(良通入道一鉄)を差し遣して下さい」との御返答であった。

新助は帰り、信長はこれを聞かれて「徳川殿は伊予に将略があるのを知られて加勢に望まれた。この事は伊予の身に
おいて誉れとすべし」と仰せられ、伊予守に加勢を命じられ、重ねて織田勢を13段に定められた。1番は坂井右近

(政尚)、2番は池田勝三郎(恒興)、3番は木下藤吉郎(秀吉)、4番は柴田修理亮(勝家)、5番は明智十兵衛
(光秀)、その他に中条将監(家忠)・簗田出羽守(広正)などを堂々整々として備え、また丹羽五郎左衛門長秀・

氏家常陸介卜全・伊賀伊賀守範秀(安藤守就)などは横山城の押手と定められた。徳川勢は酒井左衛門尉(忠次)と
石川伯耆守(数正)を先手になされ、松平甚太郎家忠・松井左近(松平康親)・大須賀五郎左衛門(康高)・高天神

の小笠原与八郎(信興)など総じて2千余騎を2陣となされ、中軍の御大将左右に榊原小平太(康政)・本多豊後守
(広孝)が備え、稲葉伊予守を後軍として都合6千余騎なり。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』


信長の人の目利き

2014年12月20日 17:31

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/20(土) 01:47:51.53 ID:YjAWy6I4
野田福島の時は、美濃国の土岐殿の譜代筋である稲葉伊予守(一鉄)という侍を頼んで、信長の普代衆もこの伊予守の命令に従えと、
信長自筆の手紙を稲葉に与えた。
尾州の譜代衆は、以前に滅ぼした美濃国の者の采配に従うことは口惜しいと立腹するのももっとものことであった。
さて敵は大坂堺衆に、阿波・播磨からも加勢があった。
しかも敵は大将のいない寄合衆なので、普通とは異なっているという意見が出ていて、いつ仕掛けてくるかわからなかった。
信長の旗本は木幡山にいるので、いずれ大事になると用心して、
稲葉伊予守は陣の周りに堀をほり、柵をつくり、筵や薦を張って中の見えぬよう下知を出し、
篝火を焚いてはならぬ、夜回りの声を立ててはならぬと命令すれば、
信長譜代の大身衆は、陣で篝火をたかず、夜回りの声を立てず、そのうえ敵の大将は一向宗の坊主であるのに、
柵を作り、筵を張って用心するとはなんということだと稲葉伊予を大小上下ともに悪口を言っていた。
さて信長と比叡山と敵となり、また越前から軍勢が引き出てくるとの注進を聞いて、坂本での朝倉義景との対陣に懲りたのか、
野田福島の先鋒陣に飛脚を寄越しただけで、信長は早々に岐阜ヘ立ち退いた。
この知らせを聞いて、信長の先鋒衆が夜中に陣を引いた時、稲葉伊予守がさきに命じたことが良い判断であったので、
悪口を言っていたものはそれぞれ、稲葉伊予守を褒めた。
この時も、信長は若いが、良き大将であるので、人の目利きが優れていると、信玄公は家中でも褒めなさった。
(甲陽軍鑑)




「洪水見物」

2012年11月19日 19:51

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 12:45:14.65 ID:mYCjmfy1
稲葉一鉄が伊予守だった頃、軍糧奉行の助左衛門は亭を建てて閑暇の折には
そこで友人と一緒に楽しんでいた。

ある時、長く雨が降り続き洪水が田畑に溢れ亭の辺りに水が流れた。
これを聞きつけた助左衛門は「良い見物になる」と友人を連れて遊興にふけった。

雨はますます降り続き日々水が増していたので「洪水見物」と人は皆
助左衛門の亭にやって来て酒宴を催した。これを耳にした一鉄は驚愕した。

「兵糧は軍国の第一であるのに、それを掌る身分として作毛の豊凶に心を用いず、
田畑の冠水を楽しんで酒宴に及ぶとは言語道断。その罪は決して軽くない。
しかし、かの者はいつも正直だからこの一件のために見棄てるべきではないな。
それに不所存者に大切な役目を任せたのは私の過ちだった」

一鉄は自分を戒めて三日の間、酒肴を絶ち粗食ばかりを食して自らの過ちを
家臣に示した。また助左衛門には「助左衛門の一件は、その職分をわきまえなかったこと
不届きである」と五十日の閉門を申し付けた。これにはいずれの者も大いに畏服した。

――『良将言行録』




417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 13:14:55.03 ID:u86furky
   /     /     /      /  /  / /
/     /     /     /     /   /
             ビュー   ,.、 ,.、    /   /
    /    /       ∠二二、ヽ    / /
  /    /   /   (( ´・ω・`)) ちょっと田んぼの様子見てくるお
               / ~~ :~~~〈   /
       /    / ノ   : _,,..ゝ   /
    /    /     (,,..,)二i_,∠  /    /

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 13:16:27.36 ID:u86furky
______________________
  ロ   ◇     ロ   ◇     ロ   ◇     ロ
 (( ))  ◇     (( ))  ◇     (( ))  ◇     (( ))
  ロ  ◇      ロ  ◇      ロ  ◇      ロ
     ◇        ◇        ◇

   Λ∞Λ  Λ_Λ       Λ_Λ
   ( ´∀`)  ( ´∀`) (祭)  (・∀・ )
  / ヽ у 〉 /`___У__」つY   /) 〕〕 〕〕つ  洪水見物とは風流ですな
  l゚ |ニニニ|゚ ゚ |_|__|      ゚|_|| | |||
 △(__)_)  (__)_)      (__)_)

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 13:17:52.19 ID:u86furky
  ∧_∧
⊂(#・ω・)  兵糧は軍国の第一だろうになめとんのか!
 /   ノ∪
 し―-J |l| |
         人ペシッ!!
       __
       \  \

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 14:25:04.34 ID:wY2zrM6X
讃岐の住民「美濃にあふれるぐらい降るならこっちに降ってくれよ」

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 19:34:04.72 ID:RbQCKCwP
>>416
不良学生に苦心する教師みたいだ

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/19(月) 20:02:58.01 ID:5duFWdRW
もうどうにでもなーれって感じじゃないのかw

武辺咄と小姓鶴千代

2011年09月15日 22:16

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/15(木) 19:55:52.69 ID:doU4rY8z
織田信長は、平時の夜には配下の猛将・勇士を招き、若い小姓や近習に、その武辺話を聞かせた。
ところが若者たちは昼間の疲れからか、しばらく話を聞くと居眠りを始める者、話を聞くこと自体を嫌がり、
「拙者、ちと所用を思い出しまして・・・」などと口実を設け、逃げる者がほとんどだった。

そんな中、鶴千代という小姓だけは、時間になると「待ってました」とばかりに信長や話し手の近くに座り、
話が深夜に及んでも、身を乗り出して熱心に武辺話に耳を傾けるばかりか、
「そ、それをどう致したのですかっ!?」とか「それは何ゆえ、そのような事になったのでしょう?」
と、話の先をしきりに催促した。

また、鶴千代は一回聞いた話を驚くほど良く覚えており、
「以前のお話と、つじつまが合いませぬな。なぜ違ってきたのでございましょう?」
などとツッコミを入れるので、かえって話し手が閉口させられ、やりにくい事この上なかった。

その夜の話し手・稲葉一鉄も、武辺話が終わって鶴千代らが退出した後、信長と顔を見合わせた。
「すまぬな、一鉄よ。どうも鶴千代だけは、おれも扱いかねるわ。」
「いや、しかし信長様。あの鶴千代、ただ者ではございませぬ。必ずや衆に優れた者となりましょうぞ。」
「うむ、おれもそう思う。あやつは目つきからして、尋常ではないわ。」


その後、武辺話の最中に居眠りをしていた者は、信長の近習の任を解かれ、出世することはなかった。
口実を設けて立ち去った者は暇を出され、親元へ帰された。

ひとり鶴千代は、信長の婿にまでなって出世を重ね、会津九十二万石の大大名にまで成り上がった。
すなわち、蒲生氏郷である。(藩鑑より)




618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/15(木) 20:18:17.73 ID:CIBVxVbA
ガモウうじさと

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/15(木) 21:23:37.59 ID:Fc11k8N9
嫌味ったらしいのは子供の頃からなのか

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/15(木) 21:26:21.77 ID:X9cJJGcw
最近読んだちょごろー先生の武将列伝で
物凄く絶賛されてたなガンモ 先生こういうのが好きなの?

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/15(木) 21:31:29.99 ID:X2uopfih
グーグーガンモの元ネタである

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/15(木) 21:40:09.32 ID:O3B3TDip
そういや西美濃三人衆の中で一鉄だけ生き残ったんだな
そしてこういう脳筋DQNじゃない話しが残っていてち


627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/16(金) 15:57:47.64 ID:MBwsl8jj
>>617
人質なのに娘婿になるとかどんだけ優秀なんだよ
ま人質なのに跡継ぎ候補になった景虎さんには負けるが

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/16(金) 16:15:16.89 ID:3DDRXnf4
>>627
信長の下に名門の子弟がたくさんいてその中で断トツの出世してるのでよほどの努力家なんだね

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/16(金) 16:27:00.08 ID:DFSCORkZ
>>627
名門蘆名の後継者になった蘆名盛隆とか
今川一門の娘を娶った権現様とか
人質といってそこまで悪い扱いを受けるものでもなかったり。

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/16(金) 17:42:03.95 ID:IdJp0cNs
将来の幹部候補としての側面もあるしね

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/17(土) 00:14:13.52 ID:/Qv2qDHD
>>617
「うむ、おれもそう思う。あやつは目つきからして、尋常ではないわ。」

殿いつの氏郷で再生された

森寺政右衛門忠勝「以後、ご自重あれ。」

2011年09月02日 22:04

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 00:32:59.02 ID:NkInj7FZ
出遅れた感もあるし、いい話か微妙だが引き続き池田勝入

池田恒興の家臣に、森寺政右衛門忠勝という男がいた。恒興の守役と言うべき藤左衛門秀勝の子であり、
若いころから恒興に仕え、伊木清兵衛忠次とともに恒興の両腕たる男であったが、「常山紀談」に
『優れたる荒者』と書かれるように武勇に優れ、そして荒々しい男だった。

ある日、恒興が政右衛門に徳利を見せた。「どうじゃ!備前焼の逸品だとか。稲葉一鉄にもらった物だ。」
徳利を見た政右衛門、一言「ニセモノですな。」
「何だと!?」
「今ごろ一鉄殿は、さぞかし笑っておりましょう。にっくき奴輩ですな。この徳利を一鉄殿の目の前で
割ってやったら、さぞかし痛快でしょうな。」
「そりゃそうだが、さすがに無礼だろ。というか、あの一鉄の前でそんな事、やれるモンならやってみろ。」

恒興の言葉を聞くが早いか、政右衛門は徳利を抱えて飛び出した。
「…いかん!アイツの気性では、本当にやりかねん!」

ようやく気づいた恒興だったが、時すでに遅し。屋敷の門前まで出てハラハラしながら待っていると、
政右衛門が五体満足で駆け戻って来た。「せ、政右衛門!お前、無事だったか!」
「おう、殿!これを御覧あれ!!」
政右衛門は懐から、首だけになった徳利を差し出した。
「やりやがったぁぁああ!!」

「使者と申して一鉄殿に対面し、縁側の柱に徳利を叩きつけて、木っ端微塵にしてやりましたわい。
『そやつを捕らえろ!!』と叫んだ一鉄殿の顔、殿にも見せてやりとうござるな。まあ、縁側に出ていた
おかげで、こうして逃げ延びて参りました。」
「な、何という事を……」

「殿が悪うござる。およそ人の主たる者、一言たりとも慎みあるべし。わしの発言は確かに無礼でしたが、
それを『やれるものならやってみろ』などと侍が言われれば、たとえ骨を刻まれようと、やらいでか!
今回、帰って来れたのも運が良かっただけ。以後、ご自重あれ。」




393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 00:38:47.83 ID:qltNker9
悪い話の方が良い気もするがw

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 01:05:13.46 ID:L6/ZS2/d
主君の失言に対し身をもって諌めた…といえば良い話なんだろうけど
そもそも政右衛門の偽物指摘が発端だからなあw

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 01:53:04.32 ID:2wEtdf1N
殿の胃腸がマッハ

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 02:22:38.95 ID:dqmKRenL
>今回、帰って来れたのも運が良かっただけ。以後、ご自重あれ。

これ一瞬恒興の言葉かと思ったら、割った本人の言葉なのかよw

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 02:58:07.90 ID:wNbJCAQ6
正直、どの辺がいい話か分からない
>>394の解釈にしても、失言ってほどでもないと思うしなぁ…

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 05:36:09.56 ID:hSSto5aG
政右衛門の度胸がいい話

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 05:56:11.51 ID:+Xlvpj6r
で、本当に偽物だったのかな?

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 06:39:41.89 ID:obEJMzYV
>>392
めんどくせえええええええ

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 07:17:33.71 ID:Os8P/mhs
一鉄の反応からして本物だったような気がw