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牧村家督顛末

2019年03月08日 16:00

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/08(金) 13:12:56.98 ID:EifkUekl
 利休七哲として有名な千利休の弟子の中に兵部大輔の牧村利貞という大名がいる。
 彼は稲葉一鉄の孫であったが、父親が庶子であったため、稲葉家ではなく外祖父の牧村政倫の家督を継いで
美濃の牧村城の城主となった。
 利貞は秀吉のもとで出世して伊勢の国で2万600石の領地を与えられ、1593年には牛之助という息子が
誕生するが、不幸なことに牧村利貞はその同じ年の7月10日に朝鮮出兵で出陣した先で病にかかり亡くなった。
息子がまだ赤ん坊だったため、利貞の弟の稲葉道通が継いだ。もちろんこれは一時的なもので、牛之助が
成人したら家督をゆずる約束であった。
 稲葉道通は関ケ原の戦いで東軍について活躍し、その功績で加増されて伊勢田丸の4万5700石の大名となった。
 1607年、牛之助は15歳になったが、稲葉道通が家督をゆずる気配は全くなかったので不満をいだいた牛之助は
徳川家康にこのことを訴えて何とかしてもらおうと画策したが、その動きを察知した稲葉道通は刺客を放って
牛之助を亡き者とした。
 こうして完全に領地を我が物にした稲葉道通であったが、その後、半年足らずで急死してしまったので、
人々は甥の牛之助の命を奪ったたたりだと噂しあった。家督の方は稲葉道通の息子の紀通が継いだが、
1648年、幕府から粗暴な振る舞いについてとがめられたことが引き金となって自害し、そのことが原因で
改易処分となっている。
 親の因果が子供に報いをもたらしてしまったのであろうか。


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稲葉紀通の乱心

2015年01月27日 18:42

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/27(火) 02:18:35.68 ID:yuEBVXYo
慶長元年(慶安元年の誤り)、丹波福知山の城主・稲葉淡路守紀通は乱心し、
籠城すると下知した。

しかし、家老中は承諾せず、紀通を押し込めようと評議した。そんな折に紀通は、
鉄砲で樹上の鳩を一羽撃ち落とし、膝の上に置くと「私めの供をせよ」と言って、
その鉄砲で自ら胸を撃ち抜いて死んだ。

(家老中承引せずして押込んと評議する所に記通鉄砲にて樹上の鳩を一羽打落し
膝の上へ置き我等が供せよと云て其鉄砲にて自ら胸を打ぬきて死しける)

同国篠山の城主・松平山城守忠国は、福知山籠城の風説を聞き、淡路守乱心とは
知らず、大いに驚き、早速、京都所司代・板倉周防守(重宗)方へ書状を送り、

「早々に御下知するべきです。遅らせては一大事です」と申し送って、家士たち
に到るまで、皆出陣の支度をさせて下知をお待ちになった。

また、同国亀山の城主・松平伊賀守忠明(忠晴か)は山城守の弟だが、兄と違い
板倉へ問い合わせもしなかった。

後に淡路守の乱心が分かって騒動が鎮まり、兄・山城守は普段の心がけが
よろしいとの旨の御賞詞があった。

一方で、弟・伊賀守は、武備が疎かであるとの旨の御沙汰により、慎み(謹慎)
を仰せ付けられたということである。

――『明良洪範続編』




稲葉淡路守は生まれつき無道残忍にして

2014年09月05日 18:58

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/05(金) 17:41:30.50 ID:f7PHqXLI
稲葉淡路守紀通は丹州福知山の城主である。生まれつき無道残忍にして限度を超えた悪行をした。

ある時、代官を勤める家士に私曲があるということで、淡路守はその者を禁獄し、私曲の虚実を
正さずにその妻子を始め、忌み掛かる者(親族)を皆召し捕らえた。そして庭に穴を掘らせて、
妻子らを首だけ出してその穴へ埋めさせ、その首に小桶を被せておいた。淡路守は毎日小桶を
取って見て回り、それを慰みになさった。

妻子らが追々死んでいく中で、代官を勤めた者だけは未だに死ななかった。その時、淡路守は
「妻子を始め、類族どもは皆死んだというのに、お前一人未だ死なないとは、よくよく因業深き
奴だな」と、言って嘲弄した。その者はそれまで目を閉じていたが、その言葉を聞くと両目を開き、

「今までは何とかして存命し、この恨みを報じようと思っていた。だが、妻子や類族まで死んだ
以上は、もはやこれまでだ。そのうえ、例え私に罪があっても、刑罰のやり方は法もあること
なのに、こんな刑罰のやり方をしたことこそ、恨みに思うぞ。見よ見よ、今に思い知らせてやる」
と言うと、はたと白眼で舌を噛み切って死んでしまった。

それからの淡路守は乱心して狂い回った。そしてある日、自ら我が身を鉄砲で撃ち貫いて死んだ。
そのため、家は断絶に及んだ。家士は皆淡路守を疎んでいたので、すぐに思い思いに退散した。

その中で種田勘九郎という者は一人残り、納戸の道具類やその他の物をともに、自分の預かりの
分はことごとく同姓の大助のところへ贈り、翌慶長2年(慶安2年の誤り)8月20日の亡主
1周忌の折に、廟前で自殺して果てた。書き置きが残され、「去年以来の殉死の存念を遂げた」
とのことである。また「曇りなき 月の光りに 誘はれて 浮世の雲も 晴てこそ行け」という
辞世の歌があった。

菩提所は雑花院(雑華院)で、水南和尚は石碑に俗称を彫り、法号を『義嶺祖高』となさった。
当座の殉死は簡単なことだが、このように一年の月日を過ぎても志を翻さず、廟前で殉死すること
こそ、大丈夫の忠臣というべきである。

このような悪君にもまた、このような忠臣がいたのである。『忠臣は亡国に現れる』とは本当に
もっともである。同姓の大助はその至忠を感じ、勘九郎の一子を呼び出し、厚く扶持なさった
ということである。

――『明良洪範』



728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/07(日) 18:25:54.56 ID:WjP/WeLG
>>711
腹切るくらいなら早めに止めろや、というのは言っちゃダメか

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/07(日) 20:55:48.08 ID:S9b8+mKr
>>728
「忠臣は亡国に現れる」って例とはちょっと違う気がするよな
何にしろ、良い話とは全然思えない・・・

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/08(月) 07:16:18.45 ID:WufHteIh
主君ではなく主家に対して忠義を尽くしたとか
狂人にたいして諫死するよりも殉死したほうが名誉と考えたかもしれんし