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軍法というもの

2014年10月15日 18:50

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/14(火) 21:00:58.05 ID:qBeoyuNj
ある時穴山殿(信君)が馬場美濃(信春)に問われたことがあった

織田信長は今や天下を意見するほどの人です。ところが聞き及ぶ限りでは、彼の軍法で
人の手本に出来るほどのものはひとつも有りません。これはどういう事でしょうか?」

馬場美濃はこれに答えた
「信長の敵は、美濃衆に7年ほど手間取ったばかりで、残りは皆信長に怯えた人々ばかりでした。
なので軍法も必要としなかったのです。
それに信玄公は上杉輝虎との間で、おおかた世間にあるほどの手立て、はかりごとは行いましたので、
他国の弓矢の事は御当家において、さほど面白く感じないのです。

織田信長は今年38歳。天下も三好殿を押しのけ、都のことで本当に自分の意見を通せるようになったのは
去年7月からのことです。

軍法というものは大敵、強敵に逢っての手立てですから、信長は国を隔てているため、信玄輝虎とは
終に武辺の参会が無く、なかんずく只今は信長の嫡子城之介殿(信忠)を信玄公の御聟にとある
縁辺であります。であるに付き信長が手立てを考えねばならない敵はさほども有りません。

12年以前の今川義元との合戦の時、信長は27歳で無類の手柄を立てました。そのころ信長は小身であり
若かったので、大敵には様々なはかりごとを使って勝利を得ました。

はかりごと・手立ての軍法がない弓矢は、例えば下手が集まって行う能を見物するようなものです。
失敗するんじゃないかと思い、見ながら危なく思います。

信長の弓矢は、美濃国と7年の間取り合いをして武功の分別が定まりました。
信玄公の弓矢は、村上殿(義清)との取り合いで武功の分別を定められました。
村上殿は信州の内四郡、越後一郡の、合わせて五郡の領主でしたが、広い国であるため
彼の支配地は甲斐一国の一倍半ほどもあり、その上強敵でした。

現在我々と対立している徳川家康は、今の日本国において北条氏康、武田信玄、上杉謙信、織田信長
四大将に続く存在で、名のある大将十三人を選べば、おおかた家康はその一人に入るでしょう。
我々は今年か来年の間には、その家康と必ず一戦せねばなりません。
でありますから、織田信長も後のことを考え、今でこそ当家と縁辺の無事を保っていますが、
家康に信長が加勢すれば、我らは両家を相手にしなければならなくなります。

信玄公が合戦を遂げられ、京都までその誉れを輝かせるためにも、ここでは猶以って軍法が必要となります。」

そう申し聞かせたのである。

(甲陽軍鑑)




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元亀4年(1572)2月 浅井長政書状

2012年06月10日 21:02

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/10(日) 16:11:17.85 ID:YCk9mbPc
武田信玄の上洛戦により信長包囲網が活発化する中の、元亀4年(1572)2月の浅井長政書状

『(上欠)書状を拝見したところ、懇ろな言葉をいただき恐悦に思っています。
去年12月22日の御合戦(三方原合戦)の次第を承り、耳目に驚愕を覚えました。
三河のことは、これも又信玄様の思い通りに掌握されたとのこと、その事は追々聞いております。
実に珍重であります。
日をおかず尾張・美濃に進軍なされること、偏にお待ちしております。

公方様(足利義昭)も立場を明確にされ、御内書を作られ信玄様に送られました。
こちらの方面でもその後威光を以って、(近江)滋賀郡全体が我が手に属しました。
朝倉義景は緊急に出陣することに決まりました。

申し上げている内容について、我々の方では油断はありません。
織田方から甚だ多くの調略などが行われるでしょうが、猶以て別して我らとご入魂頂ければ、恐悦に存じます。
詳しいことは使者に申し含めました。信玄様に直接申し伝えます。恐惶謹言。

元亀四年二月廿二日              長政(花押)

武田左衛門大夫殿(穴山信君)人々御中


(土屋文書)

『                浅井備前守
                     長政
(越中)勝興寺 御同宿中

前回お便りをしたところ、懇ろなる返報に恐悦に思っています。
そちらの方面の状況を承り、満足に思っています。

及ばずながら申し上げます。今は堅固な備えを構築することに専念すべきです。
輝虎(上杉謙信)との講和をお望みになっているようですが、武田信玄にご相談なくそのような行動をするのは、
全くあなた方にとって勿体のない話です。敵の計略に乗せられる可能性もあります。
我々は示し合わせ同盟をし、互いに同心を誓った、別格の関係なのです。
この事は常々、御門主様(本願寺顕如)の御意も得ています。

また、今月13日に公方様(足利義昭)も立場を鮮明にされ、朝倉義景、そして私に御内書を下されました。
そのためこれをあなた方にもご披見していただきたいと思います。

当国(近江)の滋賀郡も、全体が我が方に属しました。
東国では遠江・三河は申すに及ばず、東美濃の加治田、津保、鉈尾の三ヶ所の城が、揃って武田信玄
属し、甲州勢の先発隊は東美濃に乱入しました。
朝倉義景は我が方面への早々の出兵を決定しました。

申し上げた内容は、着々と進行しております。
諸方面の態勢をこのまま進めていけば、我らの目的が達成されるのは確実です。
どうか活動を停滞させることなく、積極的に策動していくことが肝要です。なお、度々ですが御備えの方は
宜しきように整備してください。

追ってまた申し入れます。恐惶謹言

(元亀四年)二月廿六日               長政(花押)


(勝興寺文書)

浅井長政が信長包囲網間の連絡調整に尽力しているのが、よく解る書状である




882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/10(日) 16:18:02.29 ID:CX7wcsOz
9月には滅んだんだっけ浅井

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/10(日) 22:36:12.04 ID:oGF3ZDbo
浅井タン・・・(*´д`)/ヽァ/ヽァ

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/10(日) 22:41:55.71 ID:qglBnDHt
信玄の病死まで、あと一年と少し・・・

886 名前:sage[] 投稿日:2012/06/10(日) 23:22:45.80 ID:z6kcZuJ3
信長包囲網の調整役か。
どんな心境だったんだろうね。