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武士が武士を褒める作法

2023年03月01日 19:45

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/28(火) 22:50:36.52 ID:gOxpirZ4
穴山伊豆守(信君)殿が又、馬場美濃守(信春)に尋ねられた
「では、三河の徳川家康は人に優れて利根なる仁か」

馬場美濃守
「穴山殿は信玄公の御従弟であり、しかも惣領聟であられますが、失礼ながらそのような御言葉を他国の
家中の者に聞かれては、笑われてしまうでしょう。武士が武士を褒める場合、作法が定まっております。

第一に、謡、舞、或いは物を読んで受け取りの早い人を、利根と云います。また、所作の様子、又は品の良い
人を器用と申し、さらに性発とも才知とも名付けられます。

第二に、座配良く大身小身と打ち合わせや取りなしに困りあぐねる事も無く、軽薄でも無く、術でもなく、
いかにも見事に仕合せする者を、利発人、公界者と申します。

第三に、芸つきも無く、器用に座配をすることも出来ないが、武辺の方にかしこい場合は、利口者と申します。
またこの者を、心懸者、すね者、仕さう成者と名付けて呼びます。

大身、小身共に斯くの如くであり、このように分けてそれぞれに名付けて言わなければ、報告を受けた
国持大将が合点出来ません。

(中略)

このように、三河一国を持ち遠州まで手をかけた家康の事を利根と呼ぶのは愚かです。利口と褒めるのも、
その術を知らぬ仰せられようです。家康については、『日本に若手の甚だしき弓取り』と申すべきでしょう。
必ず穴山殿、御心得なされよ。」

そのように馬場美濃守が申すと、穴山伊豆守は謝り「卒爾に問うてしまった。宥し給え馬場美濃殿」と言うと、
その後どっと笑って、互いに座敷を立たれた。

甲陽軍鑑



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現代、織田信長は天下に意見するほどであるが

2023年02月27日 19:31

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/26(日) 20:07:30.52 ID:X2ZD+Z14
ある時、穴山(信君)殿が馬場美濃守(信春)に尋ねられた
「現代、織田信長は天下に意見するほどであるが、聞き及んで人の手本に用いるような軍法が一つも無い。
これは一体どういうことだろうか。」

馬場美濃、答えて曰く
「信長の敵は、美濃衆相手に七年にわたって手間取ったばかりで、残りは皆、信長に怯える人々です。
故に軍法も必要ありません。その上、信玄公は長尾輝虎との戦いの中で、おおかた世間で考えられるほどの
手立て、はかりごとを成しました。そのため他国の弓矢は御当家においては、さほど面白く思えないのです。

殊更、信長も当年三十八歳、天下においても三好殿を押し退け、都の事をまことに自身で意見するように
なったのは、去年七月からのことです。軍法というものも、大敵、強敵に遭遇しての行いです。
信長は国を隔て、信玄、輝虎とは終に武辺の参会が無く、そのような中に現在では、信長は嫡子の
城之介(信忠)殿を、信玄公の聟にとある、武田の縁辺となっています。そう言ったわけで、信長は
手立てすべき敵はさほどありません。

十二年前、今川義元との合戦(桶狭間の戦い)の時は、信長は二十七歳で無類の手柄を成しました。
その頃、信長は小身であり若く、大敵に対し様々なはかりごとを行って、勝利を得られました。

はかりごと、手立ての軍法が無い弓矢(合戦)は、例えば下手が集まって催す能を見物するようなものです。
しそこなわないかと思い、見ながら危なく感じます。

信長の弓矢というものも、美濃国と七年の間取り合いをしたことで、武功の分別が定まりました。
信玄公の弓矢は、村上(義清)殿との取り合いにて、武功の分別を定められました。当時、村上殿は
信州の内四郡、越後一郡ほどの、合計五郡を領していましたが、広き国なる故に、甲州と比較して一国半ほども
ある勢力でした。その上強敵でもありました。

また、徳川家康はこの頃の日本において、北条氏康、武田信玄、上杉謙信、織田信長の四大将に続いて
名を呼ぶほどの大将である十三人の中でも、殆どの者が家康の名を一番に上げる程であり、今年か明年の間には、
この家康と一戦せざるをえないでしょう。そうなった時は信長も、後を考えて、現在でこそ当家の縁辺として
無事であると雖も、家康に対して加勢を行うでしょう。その時は両家を相手になさって信玄公は合戦を遂げられ、
都まで誉れを上げねばなりませんから、これには猶以て軍法を必要とするところです。」

そう、馬場美濃は穴山殿に申し聞かせた。

甲陽軍鑑



梅雪様の申しようはごもっともです

2020年08月20日 17:17

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/19(水) 21:23:05.13 ID:9dfXvoM4
長篠合戦記』より
珍しくかっこいい穴山梅雪

(長篠の合戦が敗勢になり)勝頼は「討ち死にすべし」と言って、少しも退却するそぶりを見せなかった。そんなところに穴山梅雪がやってきて、「早く退却されてください」と進言した。
勝頼はまったく聞き入れなかった。すると梅雪は大いに腹を立て、「日頃からわがままで、家老の言うことを聞き入れないが為に、いまこのような状況になっているのです。この上でも聞き届けないなら、覚悟のないことだ」と言って刀に手をかけたが、それでも勝頼は聞く耳を持たなかった。
そこで初鹿野伝右衛門が両人の間に入って刀に手をかけ、梅雪に悪口を吐いた。
梅雪が話すには「伝右衛門はそういうが、なんとしても勝頼様を退却させたいからこそ申しているのだ。早く馬にお乗せしろ!」
さすがに伝右衛門もかしこまり、「梅雪様の申しようはごもっともです。いまのご無礼はお許しください」と言って、「小姓ども、それそれ!」と言い、馬に勝頼を抱いて乗せた。
勝頼は「そうであれば仕方ない、力のないことだ。馬に乗ろう」と話し、それより押し太鼓を鳴らし、整然と退却していった。


いろんな角度から史実とはとうてい思えない話でもありました。
ちなみに前段では家康使者の小栗大六が「信長が助けてくれないならしらないよ。上野を勝頼にあげる代わりに尾張もらうから。家康が先陣で尾張を攻めたら信長困るでしょ」と放言し、それを立ち聞きした信長が改心するストーリー。



諸士は難儀に及んでいたと云々

2020年07月12日 17:38

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/12(日) 13:15:27.07 ID:TOB5fOEN
天正十年三月二十一日、甲州征伐を果した織田信長の元へ、武田穴山(陸奥守入道梅雪)が徳川家康の取り持ち
によって出仕した。國久の太刀一腰、金三百両を進上。信長からは半俗の脇差の三つ刀を下された。そして
今回の甲州征伐における穴山梅雪の行動を信長は誉められ、甲斐駿河の本領を安堵した。
信州松尾小笠原掃部太夫も同じく出仕し、太刀、馬を進上し、本領を安堵された。
相州の北条氏政より太刀、馬、金千両、江河の酒十樽、白鳥十、漆桶二千が進上された。

二十三日、滝川左近(一益)に上野国、並びに信州の内二郡を添えて下され、上州厩橋に移り、また御腰の物も
下された。
深志之城に武田軍の残した兵糧が有り、陣中の衆に下された。
上野国の小幡上総介、織田信忠に出仕し、貞宗の脇差、金五百両を進上した。信忠よりは左文字の脇差が
下された。

北条氏政より、白米二千石が進上された。また徳川家康よりも兵糧の進上が有った。これらは織田軍の陣中にて
諸士に充てがわれた。諸士は(兵糧不足で)難儀に及んでいたと云々。

当代記

甲州征伐で、実は織田軍が兵糧に苦しんでいたとされる記事ですね。



190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/12(日) 16:33:50.28 ID:z1pyTWFl
>>189
家康の接待とはいえ、のんびり物見遊山しながら御一行は帰ってるんだよなあ

穴山梅雪の使い

2020年02月04日 18:09

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/04(火) 04:33:50.85 ID:dDz2W3gf
甲州の穴山梅雪が越後の上杉謙信に対して、越後北の庄龍峰寺まで、空庵という僧を指し寄こした。
彼はこのようなことを伝えた

「いささか故あって、武田信玄は近来、総領の太郎義信を押し下し、庶子である伊奈四郎(勝頼)を
後継として立てようとしています。そのいざこざが猶も止まず、内戦に至らんとする機が既に顕れています。
そういう事であるので、謙信公が義信を養子としてお取り立てに成って頂ければ、梅雪が彼を連れて越後へ
罷り越します。信玄の家中にも四、五名が義信を支持しております。ですので更科より侵入されれば、
信州は大方、謙信公のお手に入るでしょう。これによって多年の御願望である、村上義清を本領に帰還
させる計策も成すことが出来るでしょう。」

この口上を聞いた謙信公の近習である諸角喜介、本郷八左衛門は、次の間に控えていた先手七組の諸老に
相談した。七組の衆は
「これは大吉の事である。甲州を謀る術の便りなのだから、早々に謙信公へ御披露すべきである。」
との意見であったので、諸角、本郷両人は謙信公の御前に罷り出て委細報告した。

謙信公はこれを聞くと「その僧をここに召し出すように。直答するべし。」との仰せであったので、
それに従い間もなく空庵は御前に参り謁見した。謙信公は空庵にこのように言った

「御坊、よく聞いて梅雪に伝えるように。
義信の使いを以て信州を取れとの義、この謙信には合点できぬ。どうしてもそれが必要なら、私は
人手を借りることはない。義信はまだ若いので仕方がないが、梅雪は何故にこれほどうつけたる言葉を
出すのか。身を寄せる所がないからそのような事を頼み入るという話であれば、この謙信としては何とも
慮外であると言わざるを得ない。

御坊、その黒衣に免じて、今回は無事に帰す。すぐに立ち去れ。(御坊黒衣に対して今度は無事に帰すとく去れ)」
そう、きつと白眼で睨むと、空庵は色を失って走り去った。

松隣夜話

義信事件に関して、こんなお話もあったのですね。



604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/04(火) 12:11:35.13 ID:T1G3qkQP
>>602
信玄の謀略くさいね

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/04(火) 15:14:53.67 ID:u69+w5aj
>>602
上手く行けば儲けもの、失敗しても義信処分って感じ

甲斐は結局信玄の子の代で滅び

2019年05月03日 16:27

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 16:23:18.51 ID:g74bPE9v
さて東照宮(徳川家康)は浜松にいらっしゃった。信玄方から度々攻め寄せられて難儀であったのを、
信長が救はれたことにより別条なし。

駿府には穴山(信君)という大名がいた。東照宮とともに信長に帰す。ある時、両人が同道して上京
することがあって、方々を見物し、京から大坂和泉に行くが、堺にいらっしゃる内に明智が謀反して
信長を弑逆する。

これより両人は伊勢路を越え本国へ帰るが、穴山は路次で一揆に殺されたという。また東照宮の所為
であるともいう。

さて駿府も易々と東照宮の御手に入る。甲斐に河尻与兵衛(秀隆)という者がいたが、これも東照宮
が討ち滅ぼして甲斐を取った。甲斐は結局信玄の子の代で滅び、信長に攻め付けられ天目山で自害す。

――『老人雑話』



久能山城

2018年12月03日 21:01

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/03(月) 07:03:54.33 ID:cI3SPXlp
武田信玄は駿府を焼き払わせ自身は久能に在陣した。そのため今川家を亡命した将士どもは降人に出て人質を
献ずる者は日々夜々に絶間なし。信玄は奥津の横山という所に要害を構え、穴山陸奥守信忠入道梅雪をここに
置いて守らせた。奥津に続いている山下という地は梅雪の所領なので、便宜のためにそう定めたのである。

ここにまた今川家の家士に庵原弥兵衛といって小身の者ではあるが、数度の高名比類なき剛の者がいた。特に
山本勘助入道道鬼の第一の弟子である。信玄は弥兵衛を召し出して「小勢で立て籠もり、大敵を引き受けての
防戦が容易な地形はあるか」と尋ねたところ、弥兵衛が申したことには、

「この久能山と申す場所は後ろは山の尾が長く引いて深山に続き、三方は岩石高くそびえて谷深く、そのうえ
用水も乏しくはありません。その中に1つの細道があって羊腸を踏んで雁歯に沿う難路です。秦の函谷、蜀の
剣閣もこれ以上とは覚えませぬ。実に一夫が怒れば三軍の士でさえ押して向かうことはできません。もっとも
要害の名地であります。

この山に城を築いて兵糧を多く蓄え置き、10人の勇士が心を合わせて弓鉄砲を掛け置けば、日本60余州の
総軍勢が残らず押し寄せようとも、容易く落城することはありますまい。

前述のことは先年、山本勘助が浪人して当国(駿河)にいた時に語ったものです」

と弥兵衛が申すと、信玄は大いに喜んで「それならば日を置かずにこの地に城を築かん!」と縄張り地祭りを
執り行い、土木の功が成就すると兵糧や馬の飼料までつぶさに点検して、今福常閑(長閑斎友清)とその子・
丹波(虎孝)に与力40騎を差し添えて、都合3百7十余人をここに籠め置いて守らせ、信玄は一先ず甲斐へ
帰陣したのであった。

また神君(徳川家康)は先年、御異父同母の御弟・松平源三郎康俊と酒井左衛門尉忠次の娘を今川家へ人質に
出されていたが、氏真はかねてよりその家人・三浦与一に預け置いていた。ところがこの度の駿府没落により、
与一も信玄に降参したため、与一は何かしら勤功にしようと思って氏真がかねがね預け置いていた人質を伴い、
甲府へと連れて行った。

これによって信玄は大いに喜び「この人質を我が方に留めて置けば、徳川殿も後々には私めの幕下に属される
ことは必定である!」とその人質を受け取り、甲府で番人に厳重に申し付けて守護させたのである。

――『改正三河後風土記』


穴山梅雪の計略

2018年10月12日 18:59

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/12(金) 18:33:44.02 ID:b1m9QGCZ
穴山梅雪は曽根内匠と共に駿河江尻城の番手であったが、徳川家康へ内通せんとした。
しかし梅雪の妻子は人質として甲府に有ったため江尻を引き払うことは難しく、しかもその頃は
武田勝頼が梅雪のことを疑っていた。

そこで梅雪は密かに家康に内通を打診した。そして徳川方より『返忠可被仕』との書状を携えた
使節が来たのを忽ちに殺し、その書状およびその頸を勝頼へ送った。
勝頼はこの計略に偽られて、梅雪を疑う心が和らいだため、彼は妻子を引き取ることが出来た。

(士談)



家康は利根か

2017年09月22日 19:09

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/22(金) 15:43:53.29 ID:SmL/qRqe
ある時、穴山梅雪が馬場美濃(信春)の向かって聞いた

徳川家康というのは、人に優れて利根な人物か?」

これに馬場美濃
「なんという不案内なお尋ねか。

謡、舞、或いは物を読んでその理解が早いことを利根といい、
その所作がらが良いのを器用とも利発とも言います。

座配や時宜についての仕様が良く、大身とも小身とも、付き合って一つも軽薄な所がないのを
利発者、あるいは公界者と言います。

芸の理解が良くなく、座配なども良くないが、武義について勝れた者、放し打ちの一度も二度も
致したような者を利口者、
槍脇を勤め首尾の良きこと2,3度有れば甲斐甲斐しき者と言います。
そしてそのような働きが重なれば兵者(つわもの)とも、覚えの者とも言い、
その覚えが重なると、大剛の者、
その人物に、さらに分別工夫が有ればそれを名人と言います。

徳川家康は三河一国から遠江まで手をかけ、日本の弓矢取りの中でも若手の代表格と言えるでしょう。
そういった人物に対し、利根かどうかと尋ねるのは、いかがなものでしょうか?」

この話の内容から考えるに、利根、利発、利口、覚えの者、大剛の者などという区別であるが、
馬場の言っている理屈も正しいとは言い難い。これはその当時の、世俗における理屈を伝えている
だけなのだろう。

ただし、何事でもその道々に定まった言葉というものがあり、その弁えなく使ってしまっては、
その言葉の持つ意味が消えてしまう。
そういった意味で、例えば同じ学問僧を指す言葉であるが、教家においては所化と呼び、
洞下においては江湖と呼び、開山派では衆寮と呼ぶように、その品によってその言が変わるのだと
心に付けて、言葉に気をつけてその説を詳しく説明すれば、みだりな言葉の出ることは無い。

そういった中、「武辺者」という言葉を定まったものとして使う向きがあるが、この意味合いも
東西都鄙によって別であり、家によっても変化する。その文字の字義、理えお正し、言葉をみだりに
致さないこと、これも君子の戒めの一つである。

(士談)

言葉を使う時はその意味や定義をきちんと押さえておかないといかんよ、というお話



248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/22(金) 16:45:29.09 ID:j6deZQvo
いちいち呼び変えるのって大ふへんだなぁ

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/22(金) 17:38:47.63 ID:OQHDg4wR
なるほど、儒者の書きそうな書物だ

妻子を引き取る

2017年07月31日 12:09

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/31(月) 08:23:38.85 ID:zeMg4GZe
穴山梅雪は駿河国江尻に、曽根内匠と共に番手にあり、徳川家康に対し内通を申し出ていたが、
梅雪の妻子は人質として甲府にあり、これを引き払うことは難しく、殊にその頃は武田勝頼も梅雪を疑い始めていた。

そこで梅雪は密かに、徳川家康に内通を打診して、『返り忠仕るべし』との書状を持つ使節が来たのを、たちまちに誅殺した。
そしてその書状、並びにその頸を勝頼に見せた。
勝頼はこの計略に謀れ、梅雪を疑う心を和らげた。これにより梅雪は、妻子を引き取ることが可能になったという。

(士談)



25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/31(月) 08:27:55.27 ID:kaq0+LQg
妻子のために家康の使者を殺しておきながら家康に降るのか
のちに梅雪だけ死ぬのも仕方ないな

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/31(月) 08:54:53.00 ID:RR+3UwN9
曽根内匠といえば信玄の両眼の1人だけど
こっちは内通してなかったんだろうか

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/31(月) 11:02:37.61 ID:9PztAVDP
>>26
義信派だったらしいし徳川に無抵抗で降りてるから内通あったっぽい

依田信蕃の助命

2015年10月19日 14:02

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/19(月) 10:59:46.75 ID:ggK5PwQc
依田信蕃の助命
天正10年3月、東照宮は江尻に出陣し、成瀬吉右衛門正一を使者として田中城の依田右衛門佐信蕃に「武田の重臣は悉く寝返り武田の滅亡は間近である。早く開城するように」と開城を勧めたが、
依田は従わずに、「武田の重臣達の書状を見て真偽を判断したい。先年、二俣城で大久保忠世とは縁がありますので大久保に城を引き渡したいと思います」と申してきた。
東照宮も「尤もである」と言い、穴山梅雪に書状を送らせた。

 開城の後、「降参するならば信州の本領を与える」と東照宮は言ったが依田は「勝頼の命運がはっきりしないうちは承り難いことです」と言い、信州佐久郡葦田へと去っていった。
武田が既に滅びた後、織田信長は「勝頼に忠節を尽した者と雖も、武名ある者を諸将は召し抱えてはならない」と命じ、なおも隠れ潜む武田の旧臣を処刑しようとした。
東照宮はこのことを憐れに思い、依田を市川の陣に召し出し、主従六人を遠州飼東郡二俣の奥小川に匿った。その他にも東照宮の仁徳のおかげで助かったものは多かったそうな。

『常山紀談』




新府城建設の経緯

2015年08月14日 14:24

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/13(木) 20:52:56.14 ID:kjx4sVmM
天正9年7月、穴山信君は武田勝頼に異見申し上げた

「信長、家康の勢力は次第に膨張し、遠州の城東郡も、最早今年3月に家康に取られました。
そのうえ小田原の北条氏政も敵となり、今後は信長、家康、氏政の勢力が一つとなって我らを攻める以上、
諸方の敵が蜂起すること疑いありません。そのような状況では、いずれの敵に向かうことも出来ません。
越後と和平を結びましたが、謙信の時ならば、信長、家康、氏政の3人にも勝つことが出来たでしょうが、
今の景勝は若く、同盟国としては居ないも同然です。

ですので、こちらに良き城をひとつお構えになるべきです。
信玄公の御武勇は尋常成らざるものであったので、お屋敷のみを構え、甲府四郡の内に御城が
ありませんでしたが、それは信玄公の御武勇という強い戒めが在ったため可能であったのです。
ではありますが、信玄公の御内意にも、かつて北条氏康が生きていた頃、氏康が使いを回して
上杉輝虎、織田信長、徳川家康と同盟を組んだという話が聞こえてきた時、駿河の久能、
甲州郡内の岩殿、信濃の吾妻の3ヶ所の城を視察されたのは、もしものときは籠城あるべきとの
事からでした。

しかしその時は、上杉謙信が「四人が組んで信玄一人を倒しても、信玄には四人がかりであったと
末代まで言われてしまう!」と、この盟約を破ったため武田家は何事も無くすみました。
また次の年には、北条氏康も他界しました。
ですが、現在は、上杉謙信のような弓取りはどこの大将にもおりません。」

これに武田勝頼も尤もの事だと思い、同年7月より、甲州韮山に新府城の建設を始めた。
しかしこれが武田家滅亡の元となるとは、後にこそ判った事なのである。

(甲陽軍鑑)

甲陽軍鑑より、新府城建設の経緯である。



見性院とは武田信玄の娘で

2013年09月30日 20:00

見性院   
231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/29(日) 18:16:33.47 ID:WGc2hdJ6
見性院とは武田信玄の娘で、穴山梅雪の妻である。

武田が滅び、梅雪が宇治で討たれた後、徳川家康は彼女を江戸に招き
世話をして、田安門内の比丘尼町という所に住まわせた。

この尼が参上してお目にかかる時には、家康はいつも上段より下って
厚く礼遇した。これも信玄の娘だからであろう、と人々は言った。

――『徳川実紀(以貴小伝、武辺咄聞書)』





232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/30(月) 01:50:46.95 ID:ViFLgWKY
後家大好き家康さん

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/30(月) 08:40:29.56 ID:+KIIzRkR
家康の手ついてる人?
秀吉だったら側室にしそう

この謙信、あえて慮外は言わぬ

2012年07月01日 21:06

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/01(日) 00:19:20.94 ID:KIbXmFfR
永禄4年、甲州の穴山梅雪の許より越後北庄の亀峯寺まで、空庵という僧が派遣された。彼は
上杉謙信家中にこの様な梅雪の意向を伝えた

『近年、信玄公は庶子の伊奈四郎勝頼君を愛され、御惣領の太郎義信君を疎まれておられます。
このため武田家中は二派に分かれ、今にも内戦に及ばんとしております。

何卒、謙信公は義信君を慈しませられ、御養子としてお取り立てあられるならば、微力ながらこの梅雪も
謙信公に従い御旗本に参り申します。そして更科よりお取次ぎがありませば、信州一円はご自身で動かれる
までもなく手に入り、また多年ご宿願である村上義清殿の領地へのご帰還も、事もなく果たすことが
出来るでしょう。

義信君をご援助の事、偏に頼み参らせます。』

これを聞いた謙信の近習、諸角喜助、本郷八左衛門、及び旗本七手組の面々は、甲州に介入する
良い便宜を得たと喜び、早速この事を謙信に報告した。
報告を受けた謙信は梅雪からの使僧、空庵を御前に召し出し、改めて来意を問いただした後、形を改め
こう言い渡した

「御坊、よく聞いて梅雪に伝えられよ。
義信の便宜を以って信州をとれとの儀、この謙信、一向に合点が参らぬ。
是非を論ずる場合において、人手を借りる謙信ではない!
特に子として親に歯向かうなど、不所存この上ない儀と心得る!

義信殿は未だ若年である故もあろうが、梅雪程の老巧者がなにゆえこの様なウツケたる事を言い出すのか。
それも身の拠り所が無い程であるから頼み入るとの話ですらない。

この謙信、あえて慮外は言わぬ。御坊の黒衣を尊重して、この度は無事に帰す。
しかし重ねてこの様な事を言ってくるのなら、その時は容赦致さぬぞ!」

これには空庵も色を失い、這々の体で甲州に帰っていったとのことである。
上杉謙信言行録)





262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/01(日) 00:34:11.29 ID:v8TTcLMV
>義信殿は未だ若年である故もあろうが、梅雪程の老巧者がなにゆえこの様なウツケたる事を言い出すのか。

いやまあ逸話に突っ込むのも野暮だけど
義信のほうが梅雪より歳上だよね

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/01(日) 00:45:30.40 ID:o2kP2EXK
>>262
そうなのかと思ってwiki見てみたら・・・

武田義信(1538年生誕)
穴山信君(1541年生誕)

今の今まで知らなかったw


264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/01(日) 01:16:35.46 ID:qokirKKi
梅雪は、義信の妹のだんなだから、義信から見れば義理の弟だよね
永禄4年って第4次川中島合戦の年だけど、このころ梅雪20歳くらいか…
なかなか無茶苦茶な逸話だ

上杉謙信言行録って大正時代に成立した書籍らしいけど、
元ネタが明記されてないから怪しさ爆発してる
序文を見ると著者が
「英雄豪傑のことというと、兎角誤った話が伝えられている。
(中略)、態と誇張したり、潤色を加えたりするので、とんでもない間違ったものとなってしまったのである。
それを確かめるには記録や文書による他ないが、それは史家の任務で、研究結果も乾燥無味で
趣味性の読み物としては、ふさわしくない。
かといって、私は史料を離れて、雑書の説に盲従したのではない。
研鑽して得られるものは子細に研鑽し、事実と認めたところは雑書をも採用しているのである。
煙の立つところには必ず火がある。」
とか言ってる

なんだこのスレと同じことしてるだけかw

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/01(日) 04:45:03.30 ID:apRfMBK6
梅雪っていう法名がいかにも年寄りっぽく見えるんだよな

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/01(日) 06:36:09.14 ID:gqw7mYFI
三斎なんて若々しくて良いんじゃないか?


268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/01(日) 07:16:22.22 ID:Jp8Ke8at
逸話の元ネタがあったとするなら誰か別の人物から『裏切り者の老臣』イメージの穴山に
置き換わったというのはあるかな。
義信事件に穴山氏も関わってた可能性もあるみたいなので一族の年長の誰かとか

穴山信君謀反秘話

2010年11月24日 00:00

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/23(火) 02:56:17 ID:yzZil/kB
向こうで穴山信君と武田勝頼の話が出ていたのでこっちでも。
昔河口湖に合宿にいったときの古老(というほど年でもなかったが)に聞いた話。


木曽が裏切る前か織田が攻め入る直前か要領を得なかったが、そのあたりのころ。

滅亡直前の武田家には、織田家から頻繁に降伏勧告が届いていた。
その条件は、婚姻と従属という、和議ともとれなくもない譲歩したものだった。

武田の姫を織田の嫡男の正室にして、間に生まれた長男を織田の後継とし、
その後に生まれた適当な子を勝頼の養子として武田を継がせるというものだったらしい。

一族の会議ではこの案を受け入れることを決定したが、勝頼はこれを拒否。
勝頼は自分の身だけを考えていると非難囂々だったらしい。
(勝頼が腹を切れというわけじゃなかったみたいだが、分からない)

そこで穴山信君自らが新府城に登って説得しようとしたのだが、勝頼は聞かないばかりか
「織田を討つ」「御旗楯無ご照覧あれ」と言って人質(木曽の?)を殺してしまった。

穴山信君が謀反を起こしたのはそれからしばらくしてのことで、驚く人は誰もいなかった。
むしろ「穴山様が勝頼に代わるならば安心だ」とほっとしたのだという。

「このあたりの領主だった小山田さんも、それで勝頼の首を差し出して、穴山さんを新たな
殿様にして武田を立て直そうとしたんだけど、勝頼に逃げられちゃって、身代わりとして
信長に殺されるはめになったんだ。勝頼は自分の格好ばかりつけようとする悪い奴だ」  と語っていました。

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/23(火) 02:58:55 ID:yzZil/kB
あ、先に謝っておきます。 自分は穴山と一緒に寝返った人物の末裔ですので、
穴山信君に甘い聞き方をしていたかもですし、甘い書き方になってるかもです。




716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/23(火) 04:13:46 ID:9PWsLyeS
>>713
北畠の時と同じやないけw

さすが信長www

717 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/11/23(火) 09:29:54 ID:BcqWemlR
>一族の会議ではこの案を受け入れることを決定した
結局、勝頼は後継者って思われてなかったのかなぁ
この案の場合、勝頼の子の信勝は消されるんだろうか

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/23(火) 10:48:05 ID:vhuJVHgY
>>716
同じ言い草で命どころか御家まで丸々ぶんどった信長からこんな提案されたら首肯しかねるよなw

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/23(火) 11:02:12 ID:WJzUmZ63
史実では織田は武田の詫言(降伏)を拒絶してるのにな。
そういや河口湖近辺まで小山田領だったことに初めて思い至った。

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/23(火) 12:11:51 ID:Z69JN7gC
勝頼が言うことを聞かなくて滅亡へという筋書きにはどうも首肯し兼ねるんだよな。
勝頼の逸話には逆に言い分を懸命になって消化しようとする律儀な一面も透けて見えるし。

俺の身贔屓なんだとは思うけどさ。

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/23(火) 12:18:31 ID:0ILJiCxQ
親の因果が子に報いってことだろうね。
本人は頑張ったんだと思うけど親父のやり方では
甲斐武田家の末路はさもありなんとも思える。

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/23(火) 12:20:58 ID:nQ+OGLiP
>>722
信長「君はいい鴨であったが、君の父上がいけないんだよ。ハッハッハッハッハッ」

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/23(火) 12:56:26 ID:N/OkD4cG
>>722
信玄のせいで勝頼と武田が滅んだというのもどうもなあ
信長のせいで息子達と織田家が瓦解したのか
秀吉のせいで秀頼と豊臣家が潰れたのか
言い出したらどうとでもなるんじゃないか?

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/23(火) 13:58:12 ID:7pZQOhFf
家名を保てない当主は当主たりえないからなぁこの時代
どんなに正当性があっても引きずりおろされる

…逆に言えばどんだけボロ負けしようが家さえ保てば、ね?

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/23(火) 14:17:24 ID:28xKgT88
天庵「いや、いくらなんでもそれはバカすぎるだろw」

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/23(火) 14:53:20 ID:2oKc20PS
>>713
信玄の後継者としての責任やプライドがあるから、簡単に頭を下げられないのよ。

景勝も、相当なプレッシャーがあったので、滅びる時は仕方ないと、佐竹に手紙を送っている。


731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/23(火) 14:56:13 ID:2oKc20PS
>>724
秀吉は死ぬ直前に、大阪城の改修工事を徹底的にしてる。
思い切って、城を家康に渡すくらいしてれば滅びずに済んだ。


732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/23(火) 15:13:59 ID:c9u2mhOq
>>713
武田の姫と織田の嫡男が、松姫と信忠だったら面白いな。

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/23(火) 15:19:51 ID:RNqz7lWv
まあ信忠と松姫の話がすでにあったとはいえ
降伏勧告の内容が織田の嫡男に姫を継がせるぞ、って辺りが自分達(武田)の矜持なのかね
信忠の正室が空いていたのは内親王狙っていたんじゃないかと、個人的には思うんだが

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/23(火) 19:44:05 ID:yzZil/kB
>>732
多分そうじゃないですかね。まあ非常に一方的な主観を感じる逸話ですが、
それは下々に言い伝えられた逸話と言うことで処理してください。

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/23(火) 20:20:47 ID:HI9SiVRG
>>713-714
諏訪神社の神意やら願文うんぬんの話とか聞くと、
勝頼は既に滅亡やむなしって諦観があったんかなあと思ってしまう……

木曽や穴山、小山田は家を残そうと行動したんで普通の武家・領主なのかもしれんがね

穴山信君の勇気ある心遣い

2010年11月22日 00:00

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 00:06:31 ID:d7FKAjzh
穴山信君の勇気ある心遣い

長篠の戦いの直後、武田勝頼のもとに一門衆の穴山信君が訪れた。
戦後処理のために徳川と交渉することを許して欲しいというのである。

つまり徳川家に金品を贈って、捕虜の身請け、遺体や遺品の回収と弔いなどの許可を得たいというのだ。
ところが、これに対して勝頼は頑として許可を出さず、食い下がる信君に怒って罵声を浴びせた。
しかし、穴山信君にはどうしても戦後処理を進めねばならない理由があった。


wikipediaによると、戦死した主な武将について
>>武田四天王の山県、内藤、馬場を始めとして、原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、
 土屋昌次、土屋直規、安中景繁、望月信永、米倉重継
とあるが、これらは武田政権中枢の、言わば戦死した官僚たちである。
これらの武将たちが、武田の新領土である信州や山梨北部の領主なのもそれを表している。


しかし、本当に悲惨だったのは、河内(山梨南部地域)・木曽の半独立豪族たちであった。
特に戦場に近い河内では、下部左京、丹沢主馬、井出元輔、下村源助、市ノ瀬左衛門ら有力国人が戦死し、
兵卒も大損害を被った。

主従関係こそなかったようだが、これら河内衆の指揮を執っていたのが穴山信君であり、
責任を感じていたのであろう。
勝頼から許可が得られないと知ると、駿河の配下豪族・万沢氏に独自に交渉するよう命じた。無論彼の独断である。

信君の努力の結果、内々に許可が出た。戦死者の家族や部下たちは長篠に向かい、
人捜しをしたり弔いをしたりした。

これらは本来、勝頼が責任を持つべき部類の仕事だと思われるのだが、なぜ指示せず交渉も
却下したのかは分からない。
だが主君の怒りを恐れない信君の優しさに、家中の士卒のみならず河内衆みなが感激した。

武田滅亡時、これら河内衆は武田庶家までほとんどが穴山信君に従って徳川に寝返ることになる。




396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 00:27:23 ID:d7FKAjzh
長篠だと、
「信君はお味方危うしと見るや、敵に背中を見せて一目散に逃走。武田逍遙軒と信豊も続き、ついに潰走が始まった」
というような認識が一般的だけど、実はこのあたりの記述は、例の甲陽軍鑑にしかないんだよね。

指揮下にあった武田の庶家衆まで討ち死にしているってことは、本当は奮戦したのかも知れない。

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 00:45:35 ID:L4DoOPR4
一門衆は後備えだから単に早く戦場から離脱できただけだろうな

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 01:06:27 ID:V3+RI8MR
酒井忠次の別動隊が長篠城を包囲していた部隊を壊滅させてたから
退路を断たれて全滅もありえた

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 01:07:21 ID:NWqfuSSQ
調べたら、市ノ瀬氏は馬場氏と同族で甲斐源氏。
下部氏は秋山氏や三枝氏と同族で甲斐源氏。
下村氏は井出氏と、穴山氏は丹沢氏と(ry


甲斐情勢は複雑怪奇なり

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 01:09:39 ID:gF9EBSbi
なぜ
「甲州情勢は複雑怪奇なり」
と言わない・・・と思ったら、甲斐と「怪」奇をかけているのか

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 01:11:58 ID:NWqfuSSQ
利口な奴は考えすぎるということだ(キリッ

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 01:12:14 ID:G+XKskO8
信長公記の記述だと武田逍遙軒も先陣として突撃している。
本来は脇備か後備を勤めてるはずの部隊も前面に出し兵力差を補ったんだろう。
そこから推測できる状況としては
予備兵力を前面に出してしまったことから酒井の片翼包囲に対応できず前に進むしかなく
精鋭たる本来の先手である山縣隊らとは錬度士気とも劣る親族部隊が
数時間の激闘に耐えられず、最初に敗走したって事だろう

軍鑑は本来軍事テキストで無理にでも理屈の通った敗因を作る傾向があり
穴山以外はその後も重用されてるから軍鑑の長篠の記述は鵜呑みには出来ないな

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 01:36:16 ID:M4yaFFC1
なんでもそうだけど説明しようとすると勝った方の意図通りになったから勝利を得たってなりがちだよね
(結果論で語る解説者とか)
軍記ものとか兵法書とか戦場の霧を無視してること大石

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 08:25:25 ID:JyqEQqUU
最初の予定と大分違ったけど勝っちゃったって事がそれほど多いかな?

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 10:07:59 ID:zeoTJXYH
古今東西、最初の予定通りに勝ちました、なんて戦争の方がよっぽど少ないよ
だからこそ参謀組織が発達していくんだから

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 10:22:48 ID:SIiAnx3i
>>397
典厩は違うだろ。

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 10:49:38 ID:ywZFe45s
ヤケクソで突撃かましたら敵総大将を殺っちまったZE!
ってのはあるのかね?

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 10:51:15 ID:SIiAnx3i
>>407
桶狭間www

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 11:23:54 ID:4a70b2O8
>>405
情報収集と的確な分析というのは強調されるけど、近代戦ですら「戦場で手に入る情報で確実なものはない。
全く正反対の噂が飛び交っていたりするから」
と言われてるくらいだしね

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 11:37:44 ID:tsfrYBQq
>>407
中国だと昆陽の戦いがややそれっぽい。
公称百万(実数は多説あり)相手に一万弱で籠城。
もちろんそのままじゃ落ちるだけなんで援軍呼んで挟撃するために13騎が夜間脱出。
劉秀は兄が反乱軍指導者の政敵のため、疎まれてか足止めのため周囲の地域から募兵後ゲリラ戦展開。

そこで本来文官で傍流皇族の劉秀が、うっかり雷雨の日に敵宰相を殺してしまってさぁ大変。
敵は虎の子の精兵が一気に瓦解するわ、従軍してた対異民族戦での歴戦の名将が散り散りに逃げて
分断された地域に逃げ込むわ。
味方は劉秀の兄の発言力が強くなりすぎて兄が粛清されるわ、そのごたごたで洛陽奪取を赤眉に先越されるわ。
予想外過ぎて敵も味方も大混乱に陥れてしまった。

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 12:09:29 ID:iI+QVGP9
宮城谷の今連載してるやつがちょうどそのあたりやってたような

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 12:35:48 ID:iz8X6d5W
また、完璧超人って感じ?

413 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/11/21(日) 12:57:53 ID:zu2BFfRz
そーなのかー

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 13:09:13 ID:iI+QVGP9
完璧超人であるということが、たれの辜であると言えるのか

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 13:44:36 ID:XJeSkVtC
>>399
みんなみんな♪親戚なんだ♪甲斐源氏な~ん~だ~~♪

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 16:10:54 ID:saAd/65U
ヤケクソで突撃?
こ、これは焼き味噌じゃ!!