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大津城の合戦の最中、

2023年05月06日 16:15

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/05(金) 20:06:58.24 ID:D4ZMWEXl
九月九日から始まった大津城の合戦の最中、
九月十一日の夜、城中から敵陣へ夜討ちせんと
赤尾伊豆守、山田大炊、三田村安右衛門の面々が五百の兵を選出し
赤尾と山田が率いる二百人は筑紫広門の陣を襲撃し散々に打ち破った上で
筑紫家の馬印を奪って勝鬨を上げて城へ引き返した
一方、三田村安右衛門率いる三百人は立花宗茂の陣に攻めかかろうとしたが
宗茂は知勇兼備の猛将で油断なく、足軽に玉薬を入れた縄襷をかけさせ早合による銃撃で応戦した
三田村の「何程のことあらんかかれ」という下知を受け京極勢は風雨のごとき玉矢を事共せず攻めていき
中でも丸毛万五郎と名乗る者が薙刀を水車のごとく回して、一人当千離倫絶類の有様で敵を突破していった
立花の陣屋より六尺あまりの仁王のごとき大男が現れ、大音声で十時摂津(連貞)と名乗り勝負せんと
三尺八寸ほどの重く厚いダンビラをかざし丸毛の元に走ってきた
丸毛は薙刀で十時の胸板を突き貫こうとするが十時は事も無げに薙刀を真っ二つに斬り折ると
太刀を抜こうとする丸毛の隙をついて無手で取り押さえ、腰より縄を取り出して搦め上げた。
それを見た中江式部という者が韋駄天のように駆けて来て十時に斬りかかり鎧の外れを斬ったが、
十時に振り返りざま件の太刀を打ち据えられ露と消えた
京極方の箕浦備後という者は敵3人を討ち取り一息ついていたが十時の働きを見て首を投げ捨てて
一文字に十時に向かって行き無手で組み伏せようとした
備後は家中でも剛力の名を取りたる者であったが、十時は物ともせず逆に備後を押伏せ生け捕りにした
夜討ちの大将である三田村安右衛門は丸毛と箕浦が生け捕られたのを見て、
南無三と十時に向かって行ったが小石につまづき倒れたところを立花勢の村井平六という者に捕えられた
平六が「今宵夜討ちの大将を村井平六が生け捕った」と高らかに名乗るのを、
安右衛門の嫡子である三田村平助が聞き、父を取り返さんと立花勢の真っただ中へと駆け入ると
天命か村井平六が安右衛門を連行するところに出逢った
平助は怒る目に血を注ぎ、いかなる鬼神も倒さんという有様で向かってきたため村井は大いに驚き退くが
平助は平六に追い迫り平六が振り返ろうとするところを一刀に切り倒して父を救った
十死を逃れ一生を保った安右衛門だが、立花勢が備えを固め新手を繰り出してきたのを見て
今はこれまでと敵兵を突破し城へと引き上げた

大津籠城合戦記



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「続武家閑談」から「高橋立花秋月三者縁組のこと」

2023年04月25日 19:37

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/25(火) 19:27:30.85 ID:uI6jtdb3
続武家閑談」から「高橋立花秋月三者縁組のこと」

立花宗茂は幼名を千熊といい、父の高橋紹雲のところから立花道雪のもとに行って遊んでいた。
あるとき罪人を道雪の前で討った。
道雪は「不意のことなので千熊も驚いただろうか」と千熊の懐中に手を入れてみたが、鼓動は少しも激しくなっていなかった。
こうして道雪は千熊が立派な武人となると考え養子とした。
千熊の弟の主膳(立花直次)とが高橋家を継ぐことになり、秋月種実の婿となることが決まっていた。
筑紫広門はこれを聞いて「高橋・立花・当家は、九州の英将である秋月にも対抗できる三羽の弓である。
しかし高橋・立花・秋月三家が合体するとなると、当家秋月家は間違いなく滅びるだろう」と仰天した。
そのとき何とかという侍が
「それがしに姫をお預けください。
高橋の岩屋城に行って主膳殿を姫の婿といたしましょう。
もし承知しないようであれば、姫を斬り私も腹を切ります」
と申したので広門と秋月と高橋の縁組の破棄が叶うなら、と姫を預けた。
こうして侍が姫を連れて岩屋城に行き、高橋紹雲に詳しく述べると
高橋紹雲は「前代未聞の珍事である。秋月の娘を貰うことは決まっているのだから広門との縁組はならぬ。
早々に姫を連れて帰られよ」と言った。
侍は「このように御返答あることは予期しておりました。
三家合体であれば筑紫家が滅ぶのは必定。
後日貴家と当家との合戦の時に討ち死にするも、ただいまあい果てるのも同じことなので、娘を殺し、私も腹を切り、御座敷を汚しましょう」
と思い切って申した。
紹雲も侍の忠義のほどに感心し、そのまま娘を留め置いて主膳の妻とした。
このため秋月は憤り、薩摩に対して「必ずや高橋を滅ぼしましょう」と申した。



拙者の人数はいよいよ繰り越しで

2022年12月18日 16:21

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/18(日) 10:10:32.74 ID:ZivHAIKe
関ヶ原の後(色々あって)、九州では立花左近(宗茂)殿の御城は肥後守殿(加藤清正)が接収した。

これに出兵していた黒田如水も、この扱いによって事済んだのだが、その夜に入ると同時に、立花に対した陣を
引き払うと薩摩へと取り掛かり、肥後の先、佐賀関という場所に陣を替えた所で、島津殿は居城へと入った。

この事について、如水の分別によって、金吾殿(小早川秀秋)の御国である筑前の仕置を申し付け、
三千石の金吾殿の御蔵米を借り受けたのだが、それは薩摩陣への用意であると言われた。

三千石の兵糧は早くも佐賀関に到着した。案の定、(徳川家康より)薩摩陣と仰せ出された所で、
肥後守は如水へこのように断りを入れた

「薩摩への入り口は肥後国です。如水の御国は後方ですから。先手は私が仕るべきでしょう。」

これに対して如水の返事は
「我々は(薩摩との国境に)既に到着しております。そちらがこちらに着けば、拙者の人数は
いよいよ繰り越しで先に出陣すべきでしょう。」

この返事について肥後守殿の分別は
「御所様(家康)が現状の御分別を変更し、突然扱い(和平)となる可能性もあるのに、如水は
指し争い早くも薩摩に入ろうとしている。これは指示を受ける下の立場の者が事を破るにも似ている。」

そのように考え様子を見ていた所、案の定、島津陣は来年の春と仰せ出になったために、如水も国へ引き取った。

川角太閤記



立花家家臣、樺島家と壇家の断絶と復興

2022年04月22日 17:26

450 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/04/21(木) 23:14:59.11 ID:dsm5+nL8
立花家家臣、樺島家と壇家の断絶と復興

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利輝元と石田三成の西軍に属して戦った立花宗茂とその一族郎党であったが、 関ヶ原の戦いはご存じのとおり西軍の敗北に終わり、
立花宗茂は残兵をまとめて大坂城に戻り、そこから紆余曲折を経て 領地である柳川に戻り、そこで鍋島・加藤・黒田の軍と一戦交えたのちに開城降伏した。

関ヶ原以後の立花宗茂の紆余曲折
西国無双 吼える
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13139.html
関ヶ原の戦いにおける宗茂
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3443.html
名将の降伏
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4344.html

その後、立花宗茂は改易となるが加藤清正はじめとする諸大名からの仕官の誘いを断り、肥後の玉名郡高瀬村の清源寺に入って 加藤清正の客分として遇されることとなり、
正室の立花誾千代は肥後国玉名郡腹赤村に寄宿することとなった。
改易された立花家に代わって柳川藩主として入ったのが田中吉政である。

慶長7年(1602年)7月11日、柳川と肥後の境近くにある面の坂にてこの前日に松風の関で 田中家の関守に捕らえられた松延村の樺島彦左衛門益義と本郷村の壇七郎兵衛忠重と
その一族の者らが磔刑に処され、 彼らの父親、松延村の庄屋・樺島式部(旧松延城主)は自宅にて切腹し、本郷村の庄屋・檀大炊介(旧松延城主)は 矢部川の川原にて斬首と相成った。

そして、樺島・壇両家は庄屋職を解かれた上で断絶となる。

何故にこのようなこととなったか?樺島・壇の両家とその一族は密かに当時は国(藩)をまたいでの 輸送は禁じられていた米と金品を塩と偽って塩俵に隠して、
味噌などと共に大八車に積んで毎月のように 旧主である立花宗茂と立花誾千代に届けていたのである。

肥後側の南関は清正から関守を任された加藤美作が色々目溢しをしていたようであるが、何者かが密告したか たまたまバレたのかは定かではないが、田中家の領内で捕まった樺島・壇の人々は僅か一日で処刑され、
それから3カ月ほどのちにはこの事件が原因かは分からないが、立花誾千代も34歳の若さでこの世を去ってしまうのである。

加藤清正、立花誾千代に兵糧を送る http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13129.html
この逸話もひょっとすると、今回のこの話に絡んでいたのかも知れない。 また、樺島・壇両家の仕送りに対して宗茂は脇差を礼として送っていたとも言い、 立花宗茂田中吉政とその家臣を毛嫌いしていた?という既出の逸話もあり、
今回の逸話のことも 一因だったのではないか?とも個人的には思う。


>>450続き 本スレに投稿出来なかったのでこの場をお借りして

庄屋職を解かれた上に一族断絶とされた樺島・壇の両家であるが、 樺島益義壇忠重、忠重とともに処刑された従弟・久左衛門にはそれぞれ子がおり、
久左衛門の一歳の子は折地村の下川家に匿われて育ち、のちに京で学んで医者となり 同地に戻っている。

また、幼かった益義の一子・益仁と忠重の一子・重貞も方々に匿われて成長したのち、 柳川藩主・田中家による難を逃れ、のちに吉政の死後、
跡を継いだ嫡子忠政が早世して田中家が無嗣断絶となって、立花宗茂が柳川藩主として旧領への復帰を果たした際、目通りを果たし、
それぞれ大庄屋として復帰し、10石どりの士分の立場と帯刀を許され再び立花家に仕えることとなった。
(旧柳川藩志などより)

樺島・壇両家が大八で米を運んだルート
ttps://i.imgur.com/bLMvJfV.jpg
bLMvJfV.jpeg

ちなみに、この事件を機に面の坂はハタモン場(処刑場)となり、度々関所破りが囚われ処刑された松風の関跡は
現在も心霊スポットとして 当地にて語り継がれているのだという。
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  \ヽ, ,、
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   /                     r''ヽ、.|
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  |    / , ‐'"´       ``''‐、  \  |
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  ヽ,  y'   /` ‐ 、    ,.. -'ヘ   ヽ. }ノ
   ヽ,'     /   /`,ゝ' ´     ヽ   Y.
.    i    ,'     { {        ヽ   `、
    l    ,イ─- 、.._ ヽ ,, _,.. -─:}   !
.    |  r‐i| ー=ェェ:ゝ ,.∠ィェェ=ー' |r 、.  l
   |  {ト」l|.      : | "    ``: |!トリ  |
.  │  ヽ、|      ;.」_      |'ソ    !
.  │     ヽ     r──ッ    /ノ    |
    |      lヽ    ̄ ̄     / イ    │
.    !    丶ヾヽ    ~   , ' ノ │   !
    ト.    ミ.ゝ ヽ.____./  /  l   /
    ヽ  ヽ           イ ,' / , '       ┼ヽ  -|r‐、. レ |
     \.             ノレ'/         d⌒) ./| _ノ  __ノ



西国無双 吼える

2021年08月25日 17:35

464 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/25(水) 06:58:55.01 ID:iSd1b4il
西国無双 吼える

慶長5年(1600年)、9月15日の関が原での西軍の敗報を受けて立花宗茂は弟の立花直次と大坂城に戻り毛利輝元に東軍との決戦を具申した。
しかし、返答が無かったため宗茂は柳川への帰国を決め、先ずは人質となっていた母・宋雲院らの救出を御座船の船頭である鶴田・村田の両人に
命じた。
両人は忍びの術の達人であったため命がけの冒険の末、宋雲院と島津公の夫人(島津亀寿)を救い出して島津夫人を薩摩邸に送り届け、主人・宗茂の元へ
戻り、こうして母子相伴って帰国の途についた。

その途上、犬子島(現在の大阪市西区江之子島)の関にて番卒がこれを誰何し宋雲院を抑留しようとした。
これに対し宗茂は

「さらば番人を悉く踏み殺し急ぎ馳せ過ぎよ」

と大喝し、従士吶喊して番卒を撃破し主従なく乗船して柳川への海路に入り3日後に無事九州へとたどり着いた。
https://i.imgur.com/i0XcWAx.jpg
i0XcWAx.jpg

立斎(公)旧聞記』『柳川史話

鬼武蔵といい、またも理由なき理不尽な暴力が関守を襲った悲しい出来事であった。
いやまぁね、彼らは彼らでただ真面目に勤めを果たしてるだけなんですけどね。
事態が事態、相手が相手だけに仕方ないんだけどね。

恐らくまだ出てなかったと思うのですが、既出だったら相すみませぬ。



465 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/25(水) 07:57:42.48 ID:uqmKi5tY
https://i.imgur.com/Xbw0J6c.jpg

立花宗茂と直次の母・宋雲院

2021年08月22日 16:54

宋雲院   
943 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/22(日) 10:04:55.98 ID:2Egr4wVK
立花宗茂と直次の母・宋雲院

天正14年(1586年)の岩屋城の戦いでは落城後に島津の捕虜になるも救出。

慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦い時は人質として在坂または在京の身。戦後、宗茂が奪還して柳川帰国のちまた徳川の人質として上洛。

以後、息子・宗茂の浪人時は同行してたのかどうかは不明ながらも慶長16年(1611年)に江戸で死去。

当時はこう言う人生はざらかも知れないけど、凄い激動の後半生だと思う。夫・高橋紹運を死に追いやり、自身を捕虜にした島津勢と旅路を共にした時とかどう言う心境だったやら…

高橋紹運とその許婚・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-410.html?sp

(参考:立花資料館 天叟寺所蔵宋雲院肖像)
https://i.imgur.com/CpPieZt.jpg
https://i.imgur.com/ZIocOtP.jpg
CpPieZt.jpg
ZIocOtP.jpg



立花宗茂、小野鎮幸から借金する

2021年08月22日 16:52

942 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/22(日) 09:38:05.88 ID:2Egr4wVK
立花宗茂小野鎮幸から借金する

1600年9月、関ヶ原での合戦が終わり大坂城へ戻った立花宗茂(当時は親成)は毛利輝元に東軍との決戦を主張するも、輝元は既に東軍への恭順を決めておりそれを覆すことはなかった。

宗茂は人質となっていた母・宋雲院を奪取すると本領柳川を目指して進発。同じく薩摩へ撤退する島津勢と道中共にし、柳川へ辿り着く。

宗茂の帰着後の10月半ば、柳川へも東軍側の黒田、加藤に西軍から降った鍋島の三軍が攻め寄せて来る。
家康への恭順姿勢を見せるため宗茂は出陣せず小野鎮幸が大将として出陣し、殺る気満々の鍋島軍と激戦を繰り広げた末に鎮幸は銃創と矢傷で重傷を負い、立花軍は数々の犠牲を出しながらもよく持ち堪え、
最終的には家康からの宗茂と弟の直次らに対する「身上安堵之御朱印」が届いたことから黒田如水と加藤清正の説得に応じ、10月25日に降伏した。
この時、連れ帰っていた母・宋雲院を徳川への人質として再度上洛させることが決まっていたのだが、度重なる戦への出費で宗茂は手元不如意であった。

(´-ω-`)和泉ごめん、母上上洛のために銀10貫ほど貸して。国替えになっても来年の秋には返すから…

( ´-ω-`).。oO(命は助かったけど、最悪国替えだろなぁ)

開城時点ではこの様に考えていた?宗茂であったが…
   ____
   /ヽ__//
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  / 改 易 /_//
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     ̄ ̄ ̄
現実(家康)はより非情であった…

  (=゚ω゚)
   ( x)
   )ノ
   (
   )

c⌒っ。ω。)っ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

こうして永きに渡る立花宗茂の愉快… じゃなくて苦労一杯の浪人生活が幕を開けることとなったのである。

(参考:立花資料館所蔵 立花親成書状)
https://i.imgur.com/mXdwK7M.jpg
https://i.imgur.com/W8XgnUL.jpg
mXdwK7M.jpg
W8XgnUL.jpg



944 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/22(日) 16:32:14.15 ID:fo84XfBI
>>942
清正や三歳様はじめ東軍側の色々な人からの取り成しもあったんだろうけど、秀吉の小田原攻めの時の大道寺政繁みたいにならなくて良かったと思う。

945 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/22(日) 22:38:32.40 ID:2Egr4wVK
宗茂「借りた金返せねぇぞ♪はした金じゃねぇぞ♪ orz」

加藤清正、立花誾千代に兵糧を送る

2021年08月19日 17:13

441 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/19(木) 13:04:28.11 ID:3psnQ4c0
加藤清正立花誾千代に兵糧を送る

1601年に書かれたと推定される加藤清正小野鎮幸に宛てた書状より

「左近殿御内儀へ御兵粮まいらせ候ところ、御礼として飛脚給うについて御状に預かり候、誠に御隔心がましき御礼など候へば、かえって迷惑せしめ候、しかるべき様に御心得頼み入り候、左近殿御身上落着の儀、到来候はば示し預かるべき候」

関ヶ原の戦の後、食客的立場で肥後の加藤清正の元にいた立花宗茂は故あって少数の家臣達を連れて清正の元を離れた。
清正に仕えた旧立花家臣団のまとめ役として肥後に残った宗茂の元家老である小野鎮幸に対して清正が送った書状には、鎮幸の旧主の奥方である立花誾千代に"兵糧“を差し入れたことなどが記されている。

左近(宗茂)殿の奥様に兵糧を送りました。御礼の書状が飛脚で届きました。気兼ねさせてご迷惑かけることになってないかな?(´・ω・`) 以下略


当方、古文に疎いため拙い意訳なのでアレですが加藤清正立花宗茂立花誾千代、その旧臣達に色々気遣いしていたことが判る書状が残っている。詳細翻訳は詳しい方お願いします。

しかし、立花誾千代への差し入れに対し"兵糧"って書いてるのはよほど関ヶ原後に清正が攻め入った時の立花誾千代の姫武者ぶりが強く印象に残ってるのか、洒落なのか?

立花誾千代の出陣・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-365.html



小野鎮幸宛加藤清正書状 小野文書141より』(立花家資料館所蔵)



443 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/20(金) 13:06:23.32 ID:CHsfUeX3
>>441
原文はネットにあるのかな?


450 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/21(土) 13:00:33.64 ID:YfJQA42z
>>443
https://i.imgur.com/L2FACvx.jpg
L2FACvx.jpg

原本自体はGoogle Arts & Cultureで加藤清正書状と検索すると出て来るよ。

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/21(土) 14:29:06.72 ID:DBOy4uXM
>>443
翻刻はネットにはないんじゃないかな
柳川市史 史料編V 近世文書(前編)には収録されてたよ

立花統虎(宗茂)8万国・(高橋)統増2万国に対する軍役等

2020年09月28日 18:10

361 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/27(日) 19:02:02.01 ID:63wy7W1Q
日本戦史 朝鮮役(経過表・附表附図)参謀本部編 偕行社(大正13)

天正19年立花統虎(宗茂)・高橋統増(立花直次)軍役表

秀吉より浅野長吉をして立花兄弟に命じたもの、統虎8万国・統増2万国に対する軍役である
立花2400高橋600の軍役であるが両家合計

将士
騎士150 
  馬卒300(非戦闘員)
歩士150
  挟箱持150(非戦闘員)

兵卒
鉄砲足軽200
  小者200(非戦闘員)
弓足軽100
  小者100(非戦闘員)
槍足軽500
昇足軽100
  小者200(非戦闘員)
徒差物足軽200

輸卒
手明夫(予備輸卒)650(非戦闘員)

戦闘員1400
非戦闘員1600

計3000

362 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/27(日) 19:03:06.51 ID:63wy7W1Q
兵力の実数で輸送部隊の配分まで書いてあるのはあんまなかったんでちょっと転記してみました
日本戦史 朝鮮役は現在文庫版も出てますが、要約版なので一部図表が省略されています
国会図書館デジタル版を参照ください
でも詳細は別ページって書いてあるのにそのページの画像が抜けてるんですよ国会図書館さん・・

363 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/27(日) 19:06:12.71 ID:63wy7W1Q
同じく

文禄元年(1593)五島純玄隊編成表
五島氏1万5千石のうち1万石での兵賦
軍奉行は参謀役、用人は経理役
小人は将士などの従卒・馬卒、下夫は輸卒

将士
侍大将1(馬1)
奉行(軍・旗・鉄砲・弓・長柄)5(馬5)
使番3(馬3)
用人・大目付2(馬2)
騎士11(馬11)
医師・祐筆・僧侶5(馬5)
歩武者40

兵卒
鉄砲足軽
弓足軽
長柄足軽
旗手
計120

雑卒
小人38
下夫280
船頭・水夫200

計705
馬27



364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/27(日) 21:29:54.49 ID:qEYXjif2
>>363
戦う人が少な過ぎるって思うけどこんなもんなんだろうな

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/28(月) 08:20:28.11 ID:sqc6Mded
>>363
1593年のせいか、投石部隊はいないんだな、もしくは刀みたいな予備武器扱いとか?

366 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/28(月) 16:59:20.13 ID:V8D2h7iY
時期としては朝鮮の役序盤だから、末期は鉄砲の比率がどれくらい高まったものなんかな

それ以前に末期だと戦力を輸卒に振り分けられる余裕があったんだろうか

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/28(月) 17:10:20.65 ID:oHCG034a
非戦闘員といっても刀振り回す事くらいは出来たと思うし単に身分制度のせいで下っ端の者が請負ってた仕事だったんだろ、知らんけど

清水景治と朝鮮の役

2019年12月22日 17:18

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/22(日) 03:32:34.06 ID:KhFbavMu
高麗御陣の時、私(清水景治)は小早川隆景隊に属し辛労を仕っていた所に、高麗の都に至り、
蔚山の城が小西摂津守(行長)に仰せ付けられた。所がここに大明勢数万騎が押し寄せ、これを
攻め破ろうとした。これに備前中納言(宇喜多秀家)が先手をすると仰せになり攻めかかったが、
散々に仕損じたため、代わって小早川隆景に先手が仰せ付けられ、立花飛騨守(宗茂)殿もその
一手として仰せ付けられ、同じ場所で合戦に及んだ。

その時私は、鉄砲百挺を御預けされ、井上五郎兵衛の一手として、一番備にて働いた。二番備は
粟屋四郎兵衛に佐世與三左衛門が鉄砲百挺で在った。

大明勢は大敵であり、味方は一度は踏み留まったものの、中々の強敵であったため叶わず、味方は
崩れ足になった所を、清水五郎左衛門(景治)が踏み留まり鉄砲を撃ち立てたため明軍も引き足となった。
ここで一番備、ニ番備が明軍ともみ合いになり、終に勝利を得た。この時、日本の諸侍は多く討ち死にし、
当家(小早川家)の歴々も討ち死にした。

その日の働きについて、清水五郎左衛門は「自身が踏み留まった為に勝利を得た」と申し上げた。
井上五郎兵衛は「某が踏み留まった故に、相組の諸勢も踏みこたえたのだ。」と言上した。
粟屋四郎兵衛は「一番備が崩れたにもかかわらず、ニ番備が堅固に控えていたからこそ、一番備も
大崩れすることが無かったのだ」と申し上げた。

これについては、互いの詮議、上よりの御下知も済まないまま日本への帰陣となり、名護屋に於いて
詮議を成すこととなった。

ここで、右の三人は、同じだけの働きがあったと御詮議相済み、
井上五郎兵衛粟屋四郎兵衛、其方(清水景治)は、同意の働きであり神妙に思し召す』との御感状が
下された。残りの二人(立花宗茂、佐世與三左衛門)にも、同じ御文体にて御感状が遣わされた。
並びに、同日に印二つの御感状下され、一日に両度の御判物を頂戴仕り置いたのである。

(淸水長左衛門尉平宗治由來覺書)

清水景治の朝鮮役での活躍と、戦功の認定が意外とめんどくさいことに成ってたらしいというお話



立花宗茂と舞

2019年07月18日 13:46

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 01:57:19.10 ID:tnxIIaJa
一、正月3日の御謡初に、外様より立花ならびに有馬左衛門佐様などが先例によって今も御登城
  なさる。

  古左衛門佐様(有馬直純)の御話によると、権現様(徳川家康)が駿河に御在城の時、御先
  祖は乱舞を御好みであったので御能をなされた。その折に御相手として呼びなさり、度々登
  城されたという。

  この例によって(有馬家などの当主は)今も御登城なされるのだという。

一、立花飛騨守(宗茂)は大献院様(徳川家光)の御合口で御夜詰にも御登城されたという。

  ある時の御酒宴は長くなって各々順の舞が始まり、品々の芸を尽くして御興を催された。立
  花の順番になり、(家光が)何ぞ御肴に一曲と御所望されたところ、御次の間で支度をなさ
  り、羽織をかぶって尻を端折り(着物の端を折って帯に挟み)、扇を咥えて鷺舞(八坂信仰
  の伝統舞踊)を舞われて出なさったので、甚だ御機嫌であったという。

  久野左門殿(宗辰。御小姓となり一時期御勘気で阿部忠秋に預けられた)の御話である。
  
――『石道夜話(石岡道是覚書)』



94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 10:36:52.65 ID:L637dIKf
>>92
ほい

京都・八坂神社にて津和野の鷺舞を奉納
https://www.youtube.com/watch?v=uwCH6lhQS2w


101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/20(土) 10:44:59.33 ID:cnhTDBxw
>>92
宗茂って本当に芸達者だったんすねぇ…

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/20(土) 12:59:56.13 ID:SUvmqEbQ
>>101
文武どころか芸事まで達者とは、ほんと完璧超人

御このミ候て可被下候

2017年12月18日 17:38

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/17(日) 15:39:43.58 ID:+fdPV11u
慶長の役の時、日本軍が南原城を攻略した際、釜山にいた立花宗茂
毛利高政に戦勝の祝状を送ったのだが、その返書で高政から鉄砲の手配を頼まれた。
それに対して宗茂が送った書状が次のものである

於南原之御感状之御祝言申入候処、御懇報上戦状を承乃候、数度之御手柄弥以被聞召届、
近々御朱印可為御頂戴候、御大慶、御祝言重々可申承候、目出度存候、仍鉄砲之儀、
ゑなミや(堺の榎並屋か)所可被仰付之由、承乃候、一つ書候て申入候、
一 四文目丸 長さ其外様子は貴殿様御このミニまかセ申候、 壱ちやう
一 三文目丸 右同前 一ちやう
一 又壱ちやう、これハいかやうにも、貴殿様御分別ニて、御このミ候て可被下候、
何もやをミ流仕度存じ候、よくよくねんを入、あたりを専ニ仕度候、
何も明日京へのほセ候者を、それへ可進之候間、能々被仰付可給候、恐惶謹言、
十一月朔日(慶長二年)                                   立花親成
(佐伯 毛利高政文書)

この頃は好みに応じた鉄砲が作れるんだね



512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/17(日) 23:28:33.62 ID:xUCTczY0
>>511
清正も朝鮮出兵中に細々とスペックを指定して発注してたから
鉄砲鍛冶は注文に応じて作ってたんでしょうね。

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/18(月) 00:05:22.26 ID:Ni8MtvjF
朝鮮陣では短い鉄砲のが便利だったっつー話だろ

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/18(月) 12:22:04.46 ID:bqkgk5UT
発注受けて作ってたら数揃えられないだろ

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/18(月) 15:59:42.93 ID:Ii/PF++M
数打ちと特注はまた別やろ

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/18(月) 18:40:29.28 ID:ks1azkFx
毛利高政は津田監物を流祖とする津田流の砲術を学び
後に自ら伊勢守流を創始している鉄砲の名手で
閻魔王という大鉄砲を好んで使ってたようなんだけど、
小さめの鉄砲を特注で手配してもらってるのが興味深い

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/18(月) 19:03:22.99 ID:5mdMzvkZ
高政所用の閻魔王は佐伯市歴史資料館に所蔵されてるね

毛利高政所用大鉄砲 閻魔王
SnapCrab_No-0303.jpg
http://saiki-rekishi.com/main_exhibit

備の場にて馬を

2017年11月08日 20:28

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/08(水) 12:43:43.33 ID:twusLRGw
備の場にて馬を取り放してしまっては、必ず味方の破れにつながるので、聊かも疎かにしてはならない。

賤ヶ岳の合戦で、柴田方であった前田利家の備が敵と交戦する前に崩れたのは、前田の家臣であった
三吉左吉という者が馬を取り放してしまい、それゆえに備が乱れ。佐久間玄蕃同時に崩れたのだ。

この時、前田の旗奉行である横山半喜(長隆)という者が討ち死にした。これはあの横山山城(長知)の
父である。旗の立てよう、見事であったという。

また関ヶ原の時、近江大津城攻めは9月15日に行うと決定していたが、13日に毛利方の吉川家の者が
陣屋において馬を取り放し、殊の外なる騒ぎとなったのを、共に大津城攻めに参加していた立花家の者達が

「さては中国衆は、我々を出し抜いて城を攻めるのか!」

そう勘違いをし、柳川衆はそうはさせるかと攻め掛かり、二、三の郭を乗っ取った。
柳川衆のこのような行為を見て、中国衆もまた攻め掛かった。

これらは、みな馬を取り放してしまったために起こったことである。故に、陣屋、備の場ともに、
馬を取り放さない心得がなくてはならないのだ。

(士談)



【ニュース】 立花宗茂の甲冑の袖「金白檀塗色々威壺袖」発見

2017年08月29日 21:07

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 19:38:00.68 ID:XAKbPvrn
立花宗茂のものとみられる甲冑の袖「金白檀塗色々威壺袖」が立花家臣の子孫の家から見つかった
柳川藩には、朝鮮出兵時の1593年、邪魔な袖を切り落として戦っていた小野成幸という家臣に
「袖がない具足は見苦しい」と宗茂が自らの鎧の袖を成幸に与えた逸話があるという。
その逸話の袖と思われるものが、2016年に小野成幸の子孫から柳川市に寄贈された。
袖は一対で安土桃山様式。長さ29センチ、幅23~27センチ、重さ720グラム。
鉄の小札に金箔を貼り、透明の漆で仕上げたもので、小札をつなぐ威は紫、紅、白の3色の糸が
交互に使われている。大友宗麟の重臣だった義父の立花道雪または宗茂自身が
大友家から与えられたものとみられ、杏葉紋の金物が付けられている。
(今月の25日に柳川市が発表したらしい)

記事(西日本新聞)
初代柳川藩主・立花宗茂 甲冑の袖発見 「家臣に与えた」逸話証明
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/353603/

立花宗茂の甲冑の袖「金白檀塗色々威壺袖」
201708260003_000.jpg



184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 19:59:22.89 ID:ciSXwA0A
>>183
400年も残ってたとは凄いな、子孫GJ

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 21:49:02.14 ID:yeu/2L19
>>183
なんとなく宗茂らしいエピソード

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 22:49:13.72 ID:XAKbPvrn
今日の知恵泉でもこの袖が紹介されたね

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 22:53:43.76 ID:ZaU8nUoY
やってたな
家臣がわざと取った袖を宗茂が勘違いして与えてしまって
それを見てた別の家臣がさらに宗茂に袖を献上したっつー

微笑ましいなぁ

それが白指山西琳寺である

2017年07月02日 21:30

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/02(日) 20:52:52.10 ID:PL4U7vUW
尾州の西琳寺という寺に順正という長刀の術に熟達した僧がいた。順正が祖始旧跡24輩の巡礼をなして
棚倉に到った時に霖雨のためしばらく逗留することとなった。
一夕、領主の立花宗茂公を訪ね意気投合し、公から寺をこの地に移すことを勧められた。
順正がそれを承諾したため、宗茂公は白指山の山号を自書して与え、それを以って証左とした。
尾張に帰った順正が転寺の準備をしていると、宗茂公が柳河に再封されたため、
順正は宗茂公に従って柳河にやってきた。宗茂公は一寺を創建して順正を開山とした。
それが白指山西琳寺である。
(旧柳川藩志)

尾張の僧侶が奥州棚倉で誘われて九州柳川に移住したという話



73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/03(月) 02:17:14.03 ID:pm5eutU1
筑紫町にあるんだな。今度訪ねてみようかな

ならばこれからは尚更に

2017年06月22日 15:45

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/21(水) 17:16:33.93 ID:QqZGxox/
立花飛騨守宗茂は一旦(徳川家の)御敵となったが、台徳公(徳川秀忠)の
御代に御許しを蒙り、旧領柳川11万石9千6百石を賜り、

入部してこの度の祝いの儀式として、家士の面々を饗応なされた。その席に
出て宗茂は物語りなされ、

「大昔に佐野源左衛門が本領を安堵されたのは罪無くして所領を失ったから
である。一方で私めは御敵となった者なのに、このように旧領を賜った。

これは誠にもって御厚恩である。されども一つには、当家の武勇は父・道雪
より以来、世に恥じること無く、

これらの事などを御賞翫されたのかも分からない。ならばこれからは尚更に
上下とも武備を忘れてはならない」

と仰せになった。

――『明良洪範』


牛頭天王の神慮

2017年06月16日 17:54

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/16(金) 04:20:17.65 ID:Yt7CmcZ5
立花家の紋所は古来より杏葉紋であったが関ヶ原の後に配流のある時、夜の夢で
筑後国祇園山が自身(立花宗茂)の頭上へ覆いかかる様を見て目を覚ました。

この夢より程なくして召し出されて、本国を賜った。これによって牛頭天王の神慮を
(宗茂は)かたじけなく思われ、かの社の守の形を家紋としたのである。

――『明良洪範』


男子これなく候へとも、

2017年06月11日 10:43

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 01:27:24.99 ID:ZNnSTgYf
立花宗茂の家臣に堀次郎右衛門という人物がいたのだが、立花家が棚倉から柳川へ戻って
ほどなくして没し、堀家には男子がいなかったため宗茂は次郎右衛門の娘のくろに次の書状を送った

父次郎えもん事、代々奉公、ことに東国まてまかり下り、へつしてしんらうの事に候間、
男子これなく候へとも、其方にたいして山間郡よしかい村之内、百石あておこない候、
後々は似合いのさい合をも申付候はんため、右之通りに候、仍如件
元和八年七月六日  宗茂(花押)
堀くろ女
『柳川市史資料編Ⅴ 鬼塚文書 立花宗茂知行宛行状』

江戸時代に藩主の配慮で女性に家を継がせたという珍しい事例



15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 02:10:37.92 ID:YQxDzO82
後家に化粧料を与えて、後で婿を取らせて家を再興させよう、って話じゃないの?

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 02:12:55.86 ID:GSPWhLoP
関東管領憲政さまも戦死した家臣の女子に家督と城主の座を認める手紙を出してたなあ

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 02:23:11.93 ID:ZNnSTgYf
>>15
奥方じゃなくて未婚の娘に対してだから似てるけど違う感じだな

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 05:48:10.37 ID:FeToHE5W
普通に堪忍料を与えて再興の目を与えてるだけのような

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 18:48:07.31 ID:oqc2RtC1
>>14
山間郡は原文ママ?吉開は山門郡にある

果して、宗茂公は二十年振りに

2016年11月25日 08:19

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 19:33:07.38 ID:DqhLpzHV
柳川の日吉神社の太郎稲荷大明神由来に似た話があったな

戸次道雪は、稲荷明神の信仰が厚く出陣には、護軍の神として御幣を奉じ毎戦勝利の加護を受けられた。
藩祖立花宗茂公は、慶長五年九月大津城を攻め破り、武勲をたてられたが、
関ヶ原で西軍は敗れ危険な道を切り抜けはるばる西下された。
暗夜、筑後川の岸神代の広い芦原で道に迷われた時、一条幽光が先導したので浅瀬がわかり無事柳川城に入られた。
宗茂公の室誾干代姫は、父道雪公の志を受けついで稲荷明神を守り神と信奉された。
姫は、肥後腹赤村で明神が「夫君守護の為、しばらく姫のそばから離れるのだ」と告げられる夢を見て宗茂公は
必ず帰国されるを確信された。
果して、宗茂公は二十年振りに奥州棚倉藩主から柳川に帰国された。
入城後、直ちに肥後に居た僧金剛院誉を召し帰国して城濠の中の島に稲荷大明神を勧請しお城の守護神とされた。




そこに一人の山伏が現れた。

2016年11月24日 14:36

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 09:47:03.80 ID:GifEEbwp
島津兵庫頭(義弘)は関が原の合戦に負け、伊勢路を通り、伊賀国を経て和泉国に出、住吉の浦より
船に乗り、白地に黒十文字の旗を立て尼崎の方へ向かった。

この時、立花左近(宗茂)も西軍敗戦により大阪から船にて国元へと下っていた。すると横より
十文字の旗を立てた船が来るのを見て、宗茂は「加藤左馬介(嘉明)の船か、と思ったが、
その船より、『島津兵庫頭が合戦に負けたため国に下る船であること。同道いたしたい』との
使いが参ったため、同道して筑後国の国境まで同道した。

その先の肥前国は、当時の情勢として通過するのが非常に難しい国であったため、立花左近は兵庫頭に、
薩摩に行くのを諦め、一旦筑後に留まるようにと様々に説得したが、兵庫頭は謝絶し、薩摩へと
向かうことに成った。

しかし肥前と筑後の間には大河があり、しかも船がなく、どうやって船を求め川を越えようかと
思い悩んでいた所、そこに一人の山伏が現れた。

山伏は言った「この河は歩いて渡ることが出来ます。瀬を教えましょう。」
そうして兵庫頭一行を案内したが、その言葉に相違なく、無事大河を歩いて越えることが出来た。

兵庫頭は河を超えた所で山伏を呼んだが、山伏の姿は見えなくなっていた。
そのあたりの住民に山伏について色々と尋ねたが、彼らは一様に「そもそもこのあたりに
山伏はいません。」と答えた。
その後も島津兵庫頭、立花左近は様々に尋ねたが、ついに山伏は見つからなかった。

これは後年、立花殿が語ったことである。

(慶長年中卜斎記)



346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 10:30:52.61 ID:1sU8tIY/
パーフェクト伝説がまた増えたか

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 13:44:40.94 ID:3l/VneXT
薩摩まで船でいけないんだな

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 19:48:30.13 ID:8D69oZrn
>>345
山伏じゃなくてモーゼだったか

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 21:19:13.59 ID:R0KKCQ/z
>>345
なんで筑後方面に行ったんだろ?

豊後水道通って日向から薩摩に行ったほうが良いような?
勝手にそのルートだと思ってたんだが違ったのか。

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 21:49:07.97 ID:8D69oZrn
黒田や伊東が東軍だからじゃないかな?

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 22:19:18.84 ID:DqhLpzHV
義弘と宗茂は9月26日に周防国の大島で対面するまでは同行してたようだけど
その翌日に豊後水道を北と南に別れて、義弘は日向の佐土原に行ってから薩摩に帰ったみたい

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 23:06:03.85 ID:7ZS6/8Wc
まぁ実際は義弘の船は筑後方面には行ってないよね

だから黒田勢と別府湾あたりで海戦に及んでるし、日向の細島湊から上陸した際は、
島津方の村尾重侯らが伊東勢と合戦に及びながら義弘を迎えに来ている