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「続武家閑談」から「高橋立花秋月三者縁組のこと」

2023年04月25日 19:37

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/25(火) 19:27:30.85 ID:uI6jtdb3
続武家閑談」から「高橋立花秋月三者縁組のこと」

立花宗茂は幼名を千熊といい、父の高橋紹雲のところから立花道雪のもとに行って遊んでいた。
あるとき罪人を道雪の前で討った。
道雪は「不意のことなので千熊も驚いただろうか」と千熊の懐中に手を入れてみたが、鼓動は少しも激しくなっていなかった。
こうして道雪は千熊が立派な武人となると考え養子とした。
千熊の弟の主膳(立花直次)とが高橋家を継ぐことになり、秋月種実の婿となることが決まっていた。
筑紫広門はこれを聞いて「高橋・立花・当家は、九州の英将である秋月にも対抗できる三羽の弓である。
しかし高橋・立花・秋月三家が合体するとなると、当家秋月家は間違いなく滅びるだろう」と仰天した。
そのとき何とかという侍が
「それがしに姫をお預けください。
高橋の岩屋城に行って主膳殿を姫の婿といたしましょう。
もし承知しないようであれば、姫を斬り私も腹を切ります」
と申したので広門と秋月と高橋の縁組の破棄が叶うなら、と姫を預けた。
こうして侍が姫を連れて岩屋城に行き、高橋紹雲に詳しく述べると
高橋紹雲は「前代未聞の珍事である。秋月の娘を貰うことは決まっているのだから広門との縁組はならぬ。
早々に姫を連れて帰られよ」と言った。
侍は「このように御返答あることは予期しておりました。
三家合体であれば筑紫家が滅ぶのは必定。
後日貴家と当家との合戦の時に討ち死にするも、ただいまあい果てるのも同じことなので、娘を殺し、私も腹を切り、御座敷を汚しましょう」
と思い切って申した。
紹雲も侍の忠義のほどに感心し、そのまま娘を留め置いて主膳の妻とした。
このため秋月は憤り、薩摩に対して「必ずや高橋を滅ぼしましょう」と申した。



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西国無双 吼える

2021年08月25日 17:35

464 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/25(水) 06:58:55.01 ID:iSd1b4il
西国無双 吼える

慶長5年(1600年)、9月15日の関が原での西軍の敗報を受けて立花宗茂は弟の立花直次と大坂城に戻り毛利輝元に東軍との決戦を具申した。
しかし、返答が無かったため宗茂は柳川への帰国を決め、先ずは人質となっていた母・宋雲院らの救出を御座船の船頭である鶴田・村田の両人に
命じた。
両人は忍びの術の達人であったため命がけの冒険の末、宋雲院と島津公の夫人(島津亀寿)を救い出して島津夫人を薩摩邸に送り届け、主人・宗茂の元へ
戻り、こうして母子相伴って帰国の途についた。

その途上、犬子島(現在の大阪市西区江之子島)の関にて番卒がこれを誰何し宋雲院を抑留しようとした。
これに対し宗茂は

「さらば番人を悉く踏み殺し急ぎ馳せ過ぎよ」

と大喝し、従士吶喊して番卒を撃破し主従なく乗船して柳川への海路に入り3日後に無事九州へとたどり着いた。
https://i.imgur.com/i0XcWAx.jpg
i0XcWAx.jpg

立斎(公)旧聞記』『柳川史話

鬼武蔵といい、またも理由なき理不尽な暴力が関守を襲った悲しい出来事であった。
いやまぁね、彼らは彼らでただ真面目に勤めを果たしてるだけなんですけどね。
事態が事態、相手が相手だけに仕方ないんだけどね。

恐らくまだ出てなかったと思うのですが、既出だったら相すみませぬ。



465 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/25(水) 07:57:42.48 ID:uqmKi5tY
https://i.imgur.com/Xbw0J6c.jpg

立花宗茂と直次の母・宋雲院

2021年08月22日 16:54

宋雲院   
943 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/22(日) 10:04:55.98 ID:2Egr4wVK
立花宗茂と直次の母・宋雲院

天正14年(1586年)の岩屋城の戦いでは落城後に島津の捕虜になるも救出。

慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦い時は人質として在坂または在京の身。戦後、宗茂が奪還して柳川帰国のちまた徳川の人質として上洛。

以後、息子・宗茂の浪人時は同行してたのかどうかは不明ながらも慶長16年(1611年)に江戸で死去。

当時はこう言う人生はざらかも知れないけど、凄い激動の後半生だと思う。夫・高橋紹運を死に追いやり、自身を捕虜にした島津勢と旅路を共にした時とかどう言う心境だったやら…

高橋紹運とその許婚・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-410.html?sp

(参考:立花資料館 天叟寺所蔵宋雲院肖像)
https://i.imgur.com/CpPieZt.jpg
https://i.imgur.com/ZIocOtP.jpg
CpPieZt.jpg
ZIocOtP.jpg



水野勝成、山家付城兵糧入れ

2013年07月12日 19:50

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/11(木) 20:04:36.76 ID:UXpdGKNA
天正15年(1587)肥後国惣国一揆の時のこと、私(水野勝成)は佐々内蔵助(成政)に支えており、
方々に働いた。

佐々方は山家の城の近くに付城を一つ作り、そこには佐々が取り立てた三田村庄左衛門という者を
置いていたのだが、その城に兵糧を入れるという時、安国寺恵瓊を物頭として、毛利殿より
兵糧を入れることとなったが、一揆勢は兵糧を入れさせまいと、ウチノコカという場所から軍勢を出した。
そのため立花左近(宗茂)兄弟が軍勢をこれに詰めた。

兄の左近殿も手柄をなされたが、とりわけ弟の弥七郎殿(直次)、この頃20歳ばかりに見えたが、
残る所なく大いに働かれた。

天野源右衛門(安田国継・本能寺で明智方として森乱丸を討つ)は太閤様の御舎弟美濃殿(秀長)の
家来であったのだが、浪人し西国へと下ってきていた。美濃守殿の所に居た頃は安田作兵衛と
名乗っていた。この頃は立花殿に客分として在り、この戦いでも白に鶴の絵の指物を差し残る所なく
働いた。

佐々内蔵助の手勢では、私と遠藤助右衛門と申す者の二人が、この方面に出撃し戦っていた所、
立花殿の家臣で十時(連貞)と申す者と、先の天野源右衛門が合流し、弓をとって互いに言葉を合わせ働いた。

ところで私はこの時の立花殿の家臣の名を失念していたのだが、先年、肥後加藤家改易(寛永9年(1632))
による肥後の城の請取に参った時、立花三左衛門(鎮久)に逢い、原の町の茶屋で

「昔、肥後の山家の付城に兵糧を入れた時、そなたの朋輩で私が知っている居るはずなのだが、
久しいことでも在り名前を失念してしまった。何と申す人であろうか?」

「それは十時と申す者です。」

そう教えてくれた。その後、十時の倅である山弥が私のところにやってきて、肥後でお逢いした。

「あなたの親父殿は今も御息災だろうか?」

「去年、おこりを患い、だんだん悪化して、今は歩くこともかないません」

そのようなことを語ってくれた。

天野源右衛門は上方に在り、今も友人である。
(水野日向守覺書)


水野勝成、肥後国人一揆における兵糧入れについての証言である。





縁なき太刀

2013年04月06日 20:03

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 16:11:35.67 ID:mLTSXhPR
縁なき太刀
肥後から上京した高橋道伯(後の立花直次)が兄の立花宗茂を訪ねた時、刀の拵えがあまりにみすぼらしかったので
宗茂は自分の太刀を与えたところ、道伯も拵えのみすぼらしい自分の刀を宗茂に贈った。
「刀身を改めると、この刀も作は悪くない。もしや紹運様の仁王ではないか」
 仁王三郎と呼ばれた高橋紹運の愛刀ではないかと尋ねられた道伯はお察しのとおりと頷いた。父の遺品と聞いて
涙を目に浮かべた宗茂は目釘を抜くと銘を改めたが銘が潰れていて読めなかった。
「確かに仁王三郎清・・・・・・」 
 そこに戸次治部がご機嫌伺いに参上してきた。
「治部そちは、刀、脇差の運の吉凶を見るのが得意だったな。この刀をどう見る?」
刀を見るうちに何かに気づいたのか宗茂は、その鑑定眼に定評のある戸次治部に刀を渡した。治部は刀を一瞥する
となんの役にも立たぬ刀ですなと言いながら刀を投げ出した。
「治部、何を言うか」
あまりの無礼に、むっとした道伯とは対照的に宗茂は、治部もそう見たかと大きく頷くとこの太刀は差料にすることは
ないと道伯に言った。
「刀の銘で運の善し悪しは測れぬ。しかし道具の運の善し悪しは確かに印があることだ」
納得いかない道伯の顔を見た宗茂は、小姓に命じて所蔵している武具を道伯の前に運ばせると、その由来と運の善し悪し
を語り聞かせた。
「つまり刀の吉凶で指し主に悪しきことが起こるということか?」
宗茂の話を聞き終えた道伯は治部に問うと
「申すに及ばざるまでもないこと。悪しき刀は持ち主を守らず、故に持ち主と添い遂げることができないのです。
そして持ち主を転々とするのです。どんな傷物の刀でも三代伝われば重宝ともいうべきもの。そのような刀こそ持ち主を守り、
男冥利に尽きるものとなり、崇め奉れられる家宝となるのです」
 治部の言葉に大きく頷いた宗茂は、仁王三郎を紹運の遺品として扱い、差料にするなとの後代に言い残した。

武具の運の善し悪しを論じた立花宗茂のちょっといい話 (浅川聞書より)




936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 18:49:08.38 ID:SGabT4+b
宗三左文字とか見てると一理あるのかも

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 18:51:40.80 ID:JpyRAitn
使ったら減ってちっちゃくなっていくだろ
せっかくの名刀がもったいない

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 19:19:23.92 ID:0XjgTfLv
>>935
だったら錆びてても重宝になるのかな?

939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 19:51:24.22 ID:mLTSXhPR
>>937
 その昔、佐竹の若様が軍神の長刀を脇差に研ぎあげたという話がありました。
>>938
 錆びてる時点で重宝扱いしてないでしょう。

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 20:20:00.92 ID:mKPxWQjm
>>939
見事な大太刀を摺り上げて打刀に直す、というのもよくあったらしい
勿体ないけど実用品でもあるから仕方ないか