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「続武家閑談」から「高橋立花秋月三者縁組のこと」

2023年04月25日 19:37

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/25(火) 19:27:30.85 ID:uI6jtdb3
続武家閑談」から「高橋立花秋月三者縁組のこと」

立花宗茂は幼名を千熊といい、父の高橋紹雲のところから立花道雪のもとに行って遊んでいた。
あるとき罪人を道雪の前で討った。
道雪は「不意のことなので千熊も驚いただろうか」と千熊の懐中に手を入れてみたが、鼓動は少しも激しくなっていなかった。
こうして道雪は千熊が立派な武人となると考え養子とした。
千熊の弟の主膳(立花直次)とが高橋家を継ぐことになり、秋月種実の婿となることが決まっていた。
筑紫広門はこれを聞いて「高橋・立花・当家は、九州の英将である秋月にも対抗できる三羽の弓である。
しかし高橋・立花・秋月三家が合体するとなると、当家秋月家は間違いなく滅びるだろう」と仰天した。
そのとき何とかという侍が
「それがしに姫をお預けください。
高橋の岩屋城に行って主膳殿を姫の婿といたしましょう。
もし承知しないようであれば、姫を斬り私も腹を切ります」
と申したので広門と秋月と高橋の縁組の破棄が叶うなら、と姫を預けた。
こうして侍が姫を連れて岩屋城に行き、高橋紹雲に詳しく述べると
高橋紹雲は「前代未聞の珍事である。秋月の娘を貰うことは決まっているのだから広門との縁組はならぬ。
早々に姫を連れて帰られよ」と言った。
侍は「このように御返答あることは予期しておりました。
三家合体であれば筑紫家が滅ぶのは必定。
後日貴家と当家との合戦の時に討ち死にするも、ただいまあい果てるのも同じことなので、娘を殺し、私も腹を切り、御座敷を汚しましょう」
と思い切って申した。
紹雲も侍の忠義のほどに感心し、そのまま娘を留め置いて主膳の妻とした。
このため秋月は憤り、薩摩に対して「必ずや高橋を滅ぼしましょう」と申した。



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生の松原合戦の事

2023年01月29日 17:35

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/29(日) 16:22:59.59 ID:zGUfX6EG
悪いスレで名前にだしたので
大友興廃記」から「生の松原合戦の事」

筑前国高祖(たかす)から三里離れたところに生(いき)の松原という場所がある。
先年(天正二年、1574年)、原田親種が高祖城で謀反のため誅されたが、原田親秀は高祖城で秋月種実と内通し、大友からの離反を企んだ。
それを知った立花道雪は小野和泉守(小野鎮幸)、由布雪可(由布雪下、由布惟信)を先陣の大将として三千騎余で城下に放火しつつ、高祖城に迫った。
これに対して原田親秀は林慶に六千余騎を率いさせた。
林慶は多勢の力で立花軍を二里半ばかり追い、生の松原に陣取った。
立花道雪は引き返さず、海を背にして陣取った。
原田の軍兵は「こちらは多勢で勢いもあるので今すぐ攻めましょう」と諌めたが
林慶は「今は満潮であり、こちらが攻めると向こうは背水の陣で死に物狂いで戦うであろう。潮がひくのを待つべきだ」と言った。
一方、小野和泉守も立花道雪に対し
「今は満潮でありますが、潮がひいて干潟となれば兵どもにも臆病の心が生じましょう。
こちらは小勢とはいえ、今攻めるべきです。」と諌めた。
立花道雪は「原田勢が攻めてこないのもおそらくそう考えているからであろう。
敵も思慮深い者であるから、しばらく人馬を休めたのちに、こちらから押し寄せよ。」と言った。
そののち小野、由布それぞれ五百騎を率い原田の先陣に撃ちかかり、立花道雪も追撃した。
原田軍は高祖の城下までいったん退却したが、林慶は大剛の者なので、逆に小野和泉守を一、二町追い返した。
そこへ由布が横槍を入れて林慶を取り囲み、ついに小野和泉守の手で林慶を討ち取った。
立花道雪率いる後陣もその勢いに乗り、高祖城の二の丸、三の丸まで攻め込み、焼き立て、勝鬨を上げて帰還した。
この戦で原田勢の手負・死人は千二百余。
それに対し立花勢は手負三十人、死人十人だったという。
潮の干満を兵の剛臆に関連づける分別は、林慶も小野和泉守も同じように持っていた。
しかし立花道雪ほどの人を二里半も追い立てて、そのまま城に引き取っていたならば大勝利と言えただろうに、討たれてしまったとは、林慶の軍配が外れたというべきであろう。



髑髏敵を取る事

2023年01月29日 17:34

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/28(土) 23:12:19.22 ID:ODKO6Zvw
大友興廃記」から「髑髏敵を取る事」

筑前国生の松原合戦(大友宗麟に誅された原田親種の残党と立花道雪との戦)の三年ほど前、一人の中間がこの松原を通ると、道のわきに一つの髑髏があった。
中間は「これは我が昔討ち捨てた者の髑髏だ。なぜいまだにここにあるのだろう」と嘲笑って蹴回した。
ちょうど持っていた槍の石突で刺し貫いて、抜こうとしたがどうしても抜けなかった。
そこで松の枝に引っ掛けて両手で「えい」と前に引くと、槍の柄が抜けて槍の先端が、中間の肝から後ろに突き抜けたため死んでしまった。
死ぬ前に、ちょうど通りかかった人々にことの一部始終を語ったため、その頃の人たちはこれを聞き
「因果の道理は多いとはいえ、昔から今に至るまで、舎利首が敵をとったためしは少ないだろう。不思議なことだ」
と言いあったという。



683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/28(土) 23:52:52.06 ID:DwGfU4BG
ちょっといい話にも見える

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/29(日) 10:15:22.26 ID:ZWbxHB0m
自分の体の中心に向けて槍を引っ張ったのかな
不自然なような気もするが、まぁ話だからな

井田次郎を討ちとる事

2022年06月25日 15:37

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/24(金) 22:26:12.05 ID:DUnRauTi
大友興廃記」より「井田次郎(井田親氏)を討ちとる事

立花城主・戸次道雪(立花道雪)、岩屋城代・高橋紹運がある時会合して評定することには
紹運「秋月種実は宗麟公に属せず、古所の城に籠り、われらが領土を塞ぐのみならず、ややもすれば立花・岩屋に手を回し人民を悩ましておる。
宗麟公も近日中に古所の城に押し寄せ、一戦すべしと思われていることだろう。」
道雪「かねてから我もそう思っていた。
とはいえ、かの城は三方は険阻にして山が高く鳥でなければ通えぬところで、一方は平地に続くといえど道が狭小な天然の要害である。
力攻めでは利を得ることはなかろう。
近くの大日寺は後ろに石垣山があり、前は平地である。
立花・岩屋、両城の兵六千人を出し、屈強な兵三千人を石垣山の後ろに隠しておいて
足軽の者を三百人ほど出し、種実の城下のあちこちに放火をさせ、秋月勢を誘い出すのはどうであろう。
足軽たちには弱々しく逃げさせ、大日寺まで引き上げさせれば、秋月兵は勝ちに乗じて寺まで来るであろう。
そこへ石垣山に伏せていた諸軍勢で四方から攻め寄せて、一人も残らず討ち取るのがよかろう」
紹運ももっともだと賛成し、ひそかに諸軍勢を石垣山に控えさせたあと、翌日の早朝からその企てを実行した。

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/24(金) 22:28:29.96 ID:DUnRauTi
秋月種実は城下への放火の件を聞き、井田左馬之助(井田親之)の嫡男、井田次郎(井田親氏)を近づけ
「急いで道雪・紹運の雑人らの首を刎ねよ」と命じた。
井田次郎は「それがし不才でありながら弓馬の家に生まれ、十三より侍一与の頭を仰つけられ、二十の今日にいたるまで数度の高名をあげました。
これはすべて君恩の厚きによるものです。
勝敗は軍勢の多寡で決まるものではなく、時の運によるものです。
このたび敵が小勢だからといってあなどるのは良将とはいえません。
とはいえ時を急がねばならぬ時に猶予するのは臆したと思われるでしょうから、すぐ出向きます」
と千人の兵を引き連れて道雪・紹運の足軽どもに打ち掛かっていったところ、足軽どもは大日寺を指して逃げていった。
秋月兵たちが五里ほど休まず駆け、疲れたところに石垣山に伏せていた兵、四千余が襲いかかって来たため、秋月勢は驚いた。
しかし親氏は下知して軍勢を鶴翼に開き、魚鱗の敵に当たり、命を惜しまず戦った。
とはいえ秋月勢は疲労のうえ小勢であったため、次々討ち取られていった。
親氏が討ち死にの覚悟を決めたところに、道雪の従者、十時摂津守(十時連貞?)が
「御名字を名乗りたまえ、組み打ちをいたそう」と言って来た。
親氏「名は名乗らぬが、組み打ちには応じよう」
と馬上でむずと組み、ともに落馬した。
十時は老武者で(連貞は当時35歳くらいのはず)、親氏は若武者のため、十時は押し伏せられて頸を掻き切られそうになった。
そこへ駆けつけてきた十時の郎党が親氏を打ち、親氏が弱ったところを十時は頸を掻き切った。
十時が親氏の相貌を見たところ、年の頃は二十ほどで、容顔世にすぐれ、たとえれば梨花が春雨に濡れて綻びているような美しさであった。
死骸をあらためると油箪に入れられた横笛が出てきたため、顔貌といい、常人ではあるまいと道雪・紹運に横笛とともに首実検ということになった。

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/24(金) 22:31:35.24 ID:DUnRauTi
両大将とも涙を流し、誰であろうと思っているところに紹運の兵に見知ってる者がいて
「これこそ秋月種実が家老・井田左馬之助親之が一子、井田次郎親氏と申す者です。
十二、三歳の時より勇者の誉れを得て、秋月家中では文武両道の忠臣として崇敬を集めている者でありました」
と申したため、道雪・紹運とも感涙し
「人の親として子を想う気持ちは誰でも同じである。親之も不憫なことだ」
と死骸に笛を添えて丁重に親之の方へ送り届けた。
親之は道雪の使者に「弓矢を取る者のならいとはいえ、戦場では子より先に死のうと心を定めておったのに、
ただ一人の息子である親氏に先立たれるとは、跡に残れる老いぼれの身こそ口惜しいことよ」
と不覚の涙を流し、使者もともに涙を流した。
親之は「愁嘆にひたってしまい、道雪の情けに礼を言わずすまなかった」と言ったのち、主君・秋月種実に息子・親氏の訃報を知らせた。
種実は驚き、いそいで井田の私宅に駆けつけ、頸と死骸を自分の膝の上に抱き寄せ、髪を掻き撫でて咽び泣いた。
種実「ああ幼稚の頃より我が膝の上にのせ、成人後もその才を頼もしいものと思っていたのに短命で死すとは
噫天喪予(ああ、天われをほろぼせり)」
と泣いては口説き、息絶えるかのようにのたまった。
そののち種実からも道雪に、親氏の死骸を送り届けたことへの礼があった。
老父・親之は「ただ一人の息子に先立たれ、老衰の身として甲斐なき命をながらうことよ」
と明け暮れに嘆いていたが、しばらくして合戦が起きた時
「このたびの合戦にて必ず討死すべし」と思い定め、
出陣の朝、親氏を葬った寺に詣で、本尊に暇乞いをしたあと、一首の歌を仏壇の左の柱に書きつけた。
「子を思ふ、道にはよしや迷ふとも、後の世照らせ、有明の月」
親之はその日の戦において先駆けをし、比類なき働きをしたあと、戦場のうちに命を留め、名を九州の青天に挙げたということだ。



「大友興廃記」より「城中水に渇すること」

2022年02月09日 18:18

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/08(火) 22:15:24.76 ID:EhFZQJMw
まともな白米城伝説を

大友興廃記」より「城中水に渇すること」
永禄十一年十月、毛利の吉川小早川が中国兵十万余騎をもって立花の城に攻めてきた。
立花の城代は鶴原掃部助、田北民部であったが、大友宗麟は戸次道雪、臼杵田原などに筑後の蒲池などを加えて五万五千八百騎の勢力をもって中国勢の後に陣を取らせた。
こうして18余度の合戦があったが立花の城はよく持ち堪えた。
ある時、城から「五月雨では物具にもかびが生えることでしょう、笑止なことです」ということで
「五月まつ はなたちばなの 城ぜめは くさるよろひの 袖の香ぞする」と送った。
一方中国陣からは「すぐに落城の嘆きが思いやられていたわしく思います」ということで
「あはれおもふ 人は矢倉の 夜の雨に なみだをそふる 山しろのうち」と返してきた。
その後、城中は水に渇し、久しく雨も降らなかったため人馬ともに難儀であった。
中国方は金ほりにたくみなものが多く、水の手を全て掘って絶ってしまっていた。
鶴原、田原の下知で白米に灰を入れ、山城高いところで多くの馬を出して湯洗いの真似をした。
(灰が混ざった白米はそのまま馬の飼料になったという)
これはまだ城には水があると敵に見せるための謀であった。
のちには米を袋に入れ、岩根の湿気のあるところに埋め置き、とりあげ、煎って食べた。

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/08(火) 22:33:26.16 ID:EhFZQJMw
ここから先はいい話

その後、水もなくなり勇力も尽き、こうなれば討死覚悟で撃って出よう、それこそ勇士の本意であろう、しかしその前に宗麟公に申しておこうと
宗麟の元に吉田弥六兵衛という忍びの上手を遣わしたところ
宗麟「思う仔細あり、早々に降参すべし」と仰られた。
城中に戻った吉田からそのことを聞いた鶴原・田北は吉川・小早川に降参した。
なお降参兵は元就の命令でみな宗麟の陣へ送り届けられた。
その後、大内の生き残りの大内輝弘・武弘の親子が宗麟より送られた三千余の兵とともに周防・山口に打ち入ったところ国人の多くが輝弘方についたため、毛利は劣勢となった。
こうして毛利は立花城を引き払い中国に戻ることになったが、誰も後に残ろうと言い出すものはなかったため、御一門の端ということで桂能登(元澄)が残ることになった。
その時、坂田新五左衛門と浦兵部という勇士が後に残ることをかってで、都合三百余人で籠城し、ほかの兵が中国へ戻るまで大友軍の足止めをした。
毛利兵は山口の小郡というところで輝弘軍を破り、輝弘は切腹した。
こうして役目も達せられたため、城中に残った将は切腹しようとしたところ
攻めての道雪は「中国勢残り居候をうちはたさんこと、籠鳥をころすと同じ。今度残り候者は、元就以来用に立ち候ども者なり。
このたびわずかの人数にて敵国に残りし志の勇者を、むざむざと打ち果たすこと、不便の至りなり。
鶴原、田北がこともあれば、中国へ送り届けしかるべき」
と城中に「忠節の至り感じ入り候。城中の衆、城を渡し、中国へおかえりあるべき」と道雪が申したところ、城中は同意した。
こうして籠城していた兵は道雪の志に感動しことごとく中国へ帰還した。
道雪は立花の城を任せられ、それ以来、立花道雪と名乗った。



328 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/08(火) 22:40:45.56 ID:7DijzLVu
>>326
東伊豆の河津城には少しだけ違った白米伝説がある。

この城は伊勢宗瑞の伊豆侵攻戦で落城したと云われる。
独立した山頂に在って水が乏しい城で、伊勢軍の火矢から起きた火災を消す水が無い。
そこで代わりに大量の白米をかけて消火した、と。

なお、
河津城の考古学調査に於いて十五世紀末期から十六世紀初頭の出土遺物群に不自然なほど多量の炭化穀物粒が認められている。

我に均き者は誰ぞや

2022年01月23日 16:40

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/23(日) 14:41:00.24 ID:bLWM9gEP
戸次(立花)道雪は豊後の鎧岳の城主であった。能く士を愛護した故に、士卒は度々殊功を立てて
彼の危難を救った。

道雪には寵童があった。しかしこれに近侍の士が密かに情を通じた。道雪はこれを知れども
問い糾す事はしなかった。
近侍の士の友人が、道雪が近侍の士と寵童との関係を知っていることを識り、近侍の士を諌めて
出奔するよう促したが、近侍の士はこれを聴かなかった。しかし友人は近侍の士が刑せられることを
恐れて、道雪への夜話の中に、このような事を語った。

「誰とは知りませんが、東国の大将に愛幸の侍童が有りました。しかし大将の昵近の臣が、この侍童と
深夜枕を並べていたのです。大将は怒って昵近の臣に腹を切らせ、侍童は放逐しました。
これは主君の目を晦ました者ですから、理でありましょう。ただこれは商人が物語ったものですので、
その始末は詳細にはわかりません。」

と、作り話をして、道雪の返答を試みようとしたのである。
道雪は曰く

「大将たる者、忌妬の心がある時は狭窄となり、物を容れる度量が無くなる。
物を容れる度量が無ければ、士は悦服しない。
その他の理由で戦うのと、悦服して戦うのとでは、その強靭さは同日にも語れないほどの差がある。

暴悪の如きに対しては国法によって規制されるが、有り難い世俗の習いに染まって、その非を識らないという
類は、詐偽、欺瞞に比すべきではない。どうして命を断つに至るだろうか。」

友人は退いて、これを近侍の士に語った。近侍の士は感嘆斜め成らなかった。

ある年、道雪が薩摩の軍に攻め掛かられる事があった。道雪は城を出てこれを防いだが、薩摩軍に
中を絶たれて城に還り入ることが出来なくなってしまい、士卒の多くが壊乱した。

この時、かの近侍の士が大声で叫んだ

「鏃刀を帯びるのは畳の上で酒茶を喫するようなものだと思っているが、弱敵を破る事に何の
気勢があるだろうか。我等はこのような強敵に遭って命を損じ名を留めようと、兼ねてから言っていたでは
ないか!
今、俄に期せる事が来たのだ。面々、ここを逃げて誰に再び面と向かうことが出来るのか!」

そう勇んで敵を防いで大いに驍勇を奮った。この姿に壊乱していた者達も励まされて踏み留まり、
次々と闘死した。この間に道雪は城に還り入ることを得た。

ここでまた、近侍の士は叫んだ
「悉く城に還り入ろうとすれば。門を閉じることが出来ずこれに付け込まれ攻め落とされる事が有るだろう。
五人でも十人でも、ここで必死を極めて城を全うすれば稀世の忠義たるべし!
私は今、ここに残る。我に均き者は誰ぞや!」

そう言って鑓を膝の上に置いて平座した。これを見て残った者は三人。彼等は皆、敵五人七人を斬って
戦死し、両軍の目を驚かせた。

道雪がこの急難を免れたのは、近侍の士のおかげであった。

志士清談



978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/23(日) 15:44:09.34 ID:uoK+KPRM
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2351.html
立花道雪 、若者は斬らず


似たような話を前に見たと思ったけど
近習が女中と不義密通したところ道雪から許されて勇敢に戦死した話だった

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/25(火) 00:21:45.24 ID:mGEpN3uT
東国の大将って芦名さんかな

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/25(火) 20:03:27.94 ID:inYP3U+d
まあ作り話なんで、ここではないどこか遠くの話、ですな

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/26(水) 03:34:17.84 ID:nDDm0RyX
フェナリナーサ?

武士の討ち死にすべき所はここにあり

2021年03月31日 17:00

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/31(水) 16:12:19.86 ID:ePGgZhvl
立花道雪の側に仕える女に対し、心を通わす者が有ったのだが、道雪はそれを知りつつ知らぬ体で居た。
ところがこの事を知る者が居り、ある夜の物語の時申した

「東国の大将の、誰とは知らないのですが、寵愛の女に密かに情を通わす者が居たのを誅したそうです。」

そう、あらぬ事を態と言って、道雪の答えを試みた。
道雪はこれに笑い出し

「若き者が色に迷ったのを、必ずしも誅しない事も有る。人の上に居て君と仰がれている以上、
仮初のことに人を殺せば、人が背く基である。国の大法を犯した事とは異なる。」
と語った。
かの者、これを伝え聞いて心に慙じ、また道雪の仁愛に感じ入った。

その後、薩摩との戦で鎧ヶ嶽の城を攻める時、道雪は城を出て戦ったが、大軍が押しかかり危うい状況に
なった。そこにかの者が大音上げて乱れる味方を恥しめて散々に戦った。その間に道雪は城近くへと
引き取ったが、敵はなお厳しく追撃し、城門を閉じることも出来ないほどであった。
そこに、かの者取って返し

「武士の討ち死にすべき所はここにあり!各々、是にて討ち死にすれば、城を敵に奪われまじ!
返せや人々!」

そう言う間に鑓を横たえ踏み留まると、返合する者三人あった。彼らが面もふらず戦って討ち死にする
間に、城門を閉じた。

常山紀談



神職の射る弓、立つか立たぬか、受けてみよ

2020年01月11日 15:44

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/11(土) 13:54:27.89 ID:jm076ULv
この頃、筑前国糟屋郡立花の城主は大友入道宗麟の股肱の臣である、戸次入道道雪であった。
道雪は智勇仁の三徳を兼ねた人物であったので、筑前に召し置かれ、原田、秋月、千葉、千手、筑紫、高橋を
攻めて豊後の屋形の幕下に成した。また肥前国・龍造寺隆信も攻め従え。これにより薩州の島津と九州全体を
かけての争いの構図と成った。

しかしながら宗像の大宮司は大内殿の頃より山口に参勤して幕下となり、全羨(陶晴賢)が滅んだ後は
毛利元就に属して大友に従わなかった。
この状況を見て道雪はこのように考えた

「先ず宗像を攻め従わせる事ができれば、龍ヵ岡の城主・杉十郎貫並も、烟の城主・香月七郎経孝も、
山鹿城、花尾城、剣嶽城までも残らず手に入れられるであろう。幸い、近年宗像の当主である氏貞は、
城普請に財を費やし家中に十分の一の役料をかけ、民百姓にも課役をかけて領内衰微し、粮乏しく、
その上名のある老臣武勇の士は、山田の怨霊のため取り殺され(前の当主であった氏男が大内義隆の跡を
追った後、氏男の子女と後妻は陶晴賢の指示などで殺され、怨霊となり宗像家中に祟る)、その身は
博多津・聖福寺の玄蘇和尚を招いて禅法を修し詩歌を事とす。故に家中もその風に靡き、武事を怠っている。
この虚に乗じて宗像を攻め滅ぼすべし!」

こうして、大山対馬守、小野和泉守、由布美作守、薦野三河守、安部、十時、森、原田、吉弘といった人々を
始めとして、永禄十年九月に立花を打ち立ち、飯盛山に陣を取った。

宗像氏貞はこれを聞くと、「急ぎ飯盛に向かい彼らを追い返すべし。」と、吉田伯耆守重致、許斐安芸守氏鏡、
占部右馬之助氏時、石松但馬守、米田比修理進貞兼、畔口伊予守益勝、吉田左近貞延を始めとして都合二百余騎が
飯盛山に押し寄せた。

この時、敵は先ず許斐の城を攻めて、その後蘿ヵ嶽に寄せんと支度をし、飯盛にて諸卒に兵粮をつかわそうと
野陣をした所であったので、慌て騒ぐ事限りなかった。
宗像勢の中より黒糸縅の鎧を着て、栗毛の馬に銀幅輪の鞍を置かせ打ち乗った武者が一騎駆け出て、
「吉田勘解由左衛門致晴!」と名乗り真前に進み出て声を懸けた

「日頃立花の人々は、宗像大宮司の長袖烏帽子のヘロヘロ弓矢、何ほどの事があるかと嘲弄されているよし
承り及んでいる。神職の射る弓、立つか立たぬか、受けてみよ!これ神通の鏑矢なり!」

そう能く引いて放った矢は、真前に進んでいた原田源五郎の胸板を射通し、後ろに控えていた原田源助の
草摺の端まで射通した。

これを軍の始めとして、互いに揉み合って戦ったが、日既に暮れに及んだため、小野和泉守が諸卒に下知して
「日暮れて他領に陣すること不覚なるべし。急ぎ引き取れ。」と、筵内新原を指して引き退き、立花の城へと
帰った。この時宗像勢が討ち取った首級百七十三は蘿ヵ嶽に送られた。

この後は糟屋宗像は折々小勢を出し、年々戦止むこと無かった。しかし元亀半年に両家の家臣共の計らいにより、
氏貞の妹をして立花に嫁がしめ、双方無事と成った。

(宗像軍記)

宗像と戸次道雪勢との戦いについて。



503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/11(土) 18:23:51.08 ID:ZGhu7hD1
>>502
戦国時代は神主も強いから困る

504 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/11(土) 20:28:31.68 ID:yG9ZxbxY
立花って本当は弱い

505 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/11(土) 23:32:42.91 ID:Ihnuve94
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| 0M0)
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戸次道雪勢の宗像攻め

2018年05月24日 20:01

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/24(木) 19:58:03.65 ID:TakCX18k
筑前国糟屋郡立花の城主は、大友宗麟の股肱の臣、戸次入道道雪であった。
この道雪は、智仁勇の三徳を兼ねた人であるので、筑前に召し置かれ、原田、秋月、千葉、
千手、筑紫、高橋らを攻めて豊後の屋形の幕下となし、肥前の龍造寺隆信をも攻め従え、
薩摩の島津との九州支配をかけた争いの時に備えた。

しかし宗像の大宮司は、大内殿の頃より山口に参勤して幕下となり、陶晴賢が亡びた後は
毛利元就に属して大友に従わなかった。

これについて道雪は考えた。
『先ず、宗像を攻め従えれば、龍ヶ岡の城主・杉十郎貫並も、烟ノ城主・香月七郎経孝も、
山鹿城、花尾城、剣嶽城までも、残らず手に入れることができる。

幸いにも近年宗像氏貞は、城普請に財を費やし。家中に十分の一の役料をかけ、民百姓にも
課役をかけて、領内衰微し粮も乏しい。
その上、名のある老臣、武勇の士は山田の怨霊によって取り殺され、氏貞自身も博多津の
聖福禅寺の玄蘇和尚を招き、禅法を学び詩歌ばかり成し、家中もその風に靡いて武事を
怠っているという。

この虚に乗じて、宗像を攻め滅ぼすべし!』

こうして、大山対馬守、小野和泉守、由布美作守、薦野三河守、安部、十時、森、原田、吉弘
を始めとして軍勢を集め、永禄十年九月に立花を出立して飯盛山に陣を取った。

宗像氏貞はこれを聞いて、急ぎ飯盛打ち越して追い払うべしと、吉田伯耆守重致、許斐安芸守氏鏡、
占部右馬之助氏時、石松但馬守、米多比修理進貞兼、畔口伊予守益勝、吉田左近貞延を始めとして
都合二百余騎の軍勢にて飯盛山に押し寄せた。

その頃、敵は先ず許斐の城を攻めてその後維ヶ嶽に攻め寄せんと支度をし、飯盛山にて諸卒兵粮を
つかわしめんと、野陣をしたばかりであったため、この宗像勢の急襲に慌てふためいた。

宗像勢より黒糸縅の鎧を着て栗毛の馬に銀幅輪の鞍を置いて打ち乗った武者、一騎駆け出して
「吉田勘解由左衛門致晴である!」と名乗り真っ直ぐに進んで

「日頃、立花の人々は、『宗像大宮司の長袖烏帽子のヘロヘロ矢、何程の事があろうか。』
などと嘲弄されていると承る。神職の者の射る矢が立つか立たぬか受けてみよ!これ神通の
鏑矢なり!」

そう弓を引き絞って射放った。その矢は、正面に居た立花方、原田源五郎の胸板を貫き、
その後ろに控えていた、原田源助の草摺の端まで射通した。

これを合戦の始まりとして、互いに揉み合って戦ったが、既に日暮れに及び、この立花勢を
率いていた小野和泉守は
「日が暮れて他領に陣する事は不覚である。急ぎ引き取れ!」
と撤退を指示し、莚内新原方面に退き、立花城に帰城した。この時宗像勢の討ち取った首
百七十三は、のちに立花に送り届けられた。

この後、立花勢と宗像勢は小規模な衝突を繰り返したが、元亀元年、両家の家臣たちの計らいにより、
宗像氏貞の妹を立花に嫁がせ、双方講和を結んだ。

(宗像軍記)

宗像と戸次道雪との合戦についての逸話。合戦のきっかけが「怨霊で弱ってるからチャンス」というのも珍しい


山田の怨霊


947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/24(木) 20:32:06.26 ID:4Xit32je
ヘロヘロ矢
こう言う擬音使うんだね
なんか和むわ

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/24(木) 23:17:08.94 ID:JBrXXdXb
怨霊などと苦しい言い訳だな

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/24(木) 23:21:14.32 ID:3MSEcnfi
まあ、後継者問題で家中がゆれてたんだろうな。その隙を狙われたけど、撃退に成功したわけだ。

其方の頸は私が

2017年12月15日 18:36

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/15(金) 17:33:51.39 ID:ydNZ0fJp
天正の初めの頃、天下未だ戦国の時、九州では筑紫家と立花家の領分は入り混じっており、
双方の侍たちで里に住居する者たちは、家族のように朝夕参会していた。

立花家の侍に、中島右京という者があった。彼の所へ、筑紫家の家臣・帆足という者が来て
飲食酒宴の折に、突然の触れがあった

『明日、秋月筑紫の両家が一同に、立花の岩屋表に寄せくる』

立花家の中島も、筑紫家の帆足も驚き、不慮の思いを成したが

「明日は敵となり互いに相戦うこととなった。定めなき世の中にて、
筑紫と立花はまた、手切れと成ってしまった。」

そう言いつつ、連れ立って暇乞いをした。
この時中島は、戯れのように言った

「明日の合戦では、其方の頸は私が取るよ。」

帆足はこれに何も答えず、その日はこのまま別れた。
しかしその後、言葉のごとく中島は帆足を討ち取った。

(士談)


すると敵は驚き気圧され

2017年08月21日 18:38

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/21(月) 16:59:46.80 ID:uGfwiSOk
立花道雪が筑後にての合戦で、敵が山上の道雪の軍に敗退し、道雪軍はこれを追撃した。

敵がすでに下山した時、道雪は味方に下知して進軍を止め、先に斥候を出した所、
案の定敵は山の下に降り立ち、それぞれに備えを固め道雪の軍を待ち構えていた。

そこで道雪は合図を定め、静かに備えを山下に下ろし、ゆっくりと敵に接近した。
そして槍が届くほどの間近と成った時、合図とともに一斉に鬨の声を発し槍をばっと持ち上げた。

すると敵は驚き気圧され、容易く敗北したという。

(士談)


果して、宗茂公は二十年振りに

2016年11月25日 08:19

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 19:33:07.38 ID:DqhLpzHV
柳川の日吉神社の太郎稲荷大明神由来に似た話があったな

戸次道雪は、稲荷明神の信仰が厚く出陣には、護軍の神として御幣を奉じ毎戦勝利の加護を受けられた。
藩祖立花宗茂公は、慶長五年九月大津城を攻め破り、武勲をたてられたが、
関ヶ原で西軍は敗れ危険な道を切り抜けはるばる西下された。
暗夜、筑後川の岸神代の広い芦原で道に迷われた時、一条幽光が先導したので浅瀬がわかり無事柳川城に入られた。
宗茂公の室誾干代姫は、父道雪公の志を受けついで稲荷明神を守り神と信奉された。
姫は、肥後腹赤村で明神が「夫君守護の為、しばらく姫のそばから離れるのだ」と告げられる夢を見て宗茂公は
必ず帰国されるを確信された。
果して、宗茂公は二十年振りに奥州棚倉藩主から柳川に帰国された。
入城後、直ちに肥後に居た僧金剛院誉を召し帰国して城濠の中の島に稲荷大明神を勧請しお城の守護神とされた。




7歳の女城主誕生

2016年10月12日 14:09

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/12(水) 11:04:47.29 ID:KK0uFwxp
7歳の女城主誕生

立花山城督・戸次道雪には後を継がすべき男子がいないのが老齢の本人のみならず大友家の
悩みの種になっていた。そこで大友宗麟は道雪の猶子・鎮連の子で実の大甥に当たる男子(統連か?)を道雪の養子として
立花山城督を継がせその男子が成長するまで道雪と鎮連に後見させてはどうかと道雪と鎮連に諮った
しかし道雪はこれを断り次女(長女は夭折)のギン千代に立花城の城督・城領・諸道具の一切を譲った
姫が家督を継ぐのは異例だがこれは然るべき婿養子を迎えるという算段が道雪にあったから出来たこと
道雪には誰を迎えるかの算段がすでにあった。それが宝満山城主・高橋鎮種の長男・千熊丸だった
道雪は弥七郎が幼少のころから目を掛け(スパルタ教育を施し)ていた

一例:ある時二人が食事をしていた時、千熊丸が骨を取りつつ鮎を食しているのを見て道雪は怒り

「武士の子にあるまじき軟弱者!武将たるもの魚は骨ごと食べるべし」

とடりつけたとされる

参照:涙をこらえつつ少年宗茂は
URL:http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7089.html

このように厳しい指導を幼少時から道雪から受けていた千熊丸改め高橋統虎は
道雪の婿養子になりのちに「西国無双」と称されるまでの武将に成長する
一方、ギン千代以前の立花山城督になってたかもしれない戸次統連は父が島津への内通を疑われ
義統に誅殺された後に戸次氏の家督を継ぎ名を統常と改め父の汚名を注ぐために島津氏と戦うことを決意する
最後は戸次川の戦いに豊臣勢として参加して長曾我部信親や十河存保らと共に戦死した

ギン千代が立花家を継いだ話を少年期宗茂や戸次統常の話と織り交ぜてアップしてみた




238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/12(水) 19:29:05.57 ID:zRqAX6S/
>>236
統常は母親が烈女だからなあ
母子揃って最期は壮絶すぎる
仮に親父の無謀が義統の謀略だったらやるせない

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/12(水) 22:09:56.86 ID:KK0uFwxp
>>238
統常は戸次川に赴く前に自分の子を宗茂夫妻に託して戸次本家の血を残している
ちなみに統常の妻の父が吉弘鎮信だから後年石垣原で戦死した統幸とは義兄弟

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 07:28:48.33 ID:M+xN9isV
大友家って家臣はすごい人多いのに主がどうしてああなのか

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 20:58:15.04 ID:c64bFhbI
宗麟のDNA

ある戦陣での戸次道雪と朽網宗暦・宗策のやりとり

2016年10月10日 10:09

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 16:57:25.24 ID:t9v3aFpB
ある戦陣での戸次道雪と朽網宗暦・宗策のやりとり

豊後朽網山野城主・朽網宗暦(鑑康)は息子の宗策(鎮則)ともどもキリスト教贔屓で知られた人物である
1553年には朽網地方に宣教師や修道士が訪れキリスト教の布教が始まりやがてキリスト教日本八大布教地にまで発展していく
翌1554年には豊後で初の教会を建てルイス・フロイス「日本史」にその教会の美しさを絶賛する様子が書かれている

それはさておき、ある戦陣で朽網宗暦・宗策親子が総指揮官・戸次道雪の元へ訪問する際のこと

宗暦「そなたも知るように道雪殿はキリシタンを好まれぬので(胸にかけた)そのロザリオを御目に触れないように隠しておけ」
宗策「……」

最初は父の言に従ってた宗策だが道雪の前にくるや父の言を翻しこれみよがしにロザリオを取り出しはじめた
宗暦はこれを見て慌てて(ちなみに宗暦は以前耳川の件で志賀道輝(親守)共々戦いぶりを道雪に糾弾されたことがあった)

宗暦「この倅は馬鹿者でござる。ここに罷り出るに先立って貴殿はロザリオをお好み遊ばさぬ故に取り外すように注意しておきましたるに取り外すどころかこのようにわざと出してみせる始末」
道雪「ご懸念無用。何となれば優れた兵士は初志を貫徹すべきで後退してはなりますまい」

こう言って宗策の行為をやり過ごし宗暦を安堵させたという

ちなみにこのやりとりをフロイスは
「このことから言い得るのは日本人がいかに理性的で答弁にあたっていかに分別があるか、ということである」と評した

キリスト教嫌いな人物には基本ミソカス(例:ラスボス・爆弾正・信玄・宗麟正室奈多夫人)なフロイスから珍しく褒められた道雪の分別



230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 21:35:49.12 ID:f8T0paXC
フロイス「戸次鑑連はロザリオおkだから許す」
道雪「武士なら初志貫徹すべき」

価値観が交わってないけど利害は一致してるだけのような

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 21:54:13.67 ID:Oau9qfpR
豪胆な人が好きなだけでしょ
優男なら罵倒してた

立花道雪足疵

2016年06月19日 15:59

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 14:43:24.11 ID:t7BOj0bT
立花道雪足疵

 立花宗茂の父は〔名は忘れた。道雪斎か〕は足の病で馬上におれず、
歩行も不自由なので、出陣のときは台に乗り士卒数人で担がせていた。
戦場に及ぶと、持っている青竹〔これは采配の代わりである〕で台のふちを叩きたてて、
台ながら敵中に持ち込んで、投げこめなげこめと下知したという。

 また上杉謙信の采配も三尺ばかりの青竹で、臨戦のときは鞍の前輪を叩きたてて下知したそうだ。

 神祖も御戦に及ばれるときは、采配を御鞍に打たれて士衆を下知されて、
御指の血が、御鞍に染みたという。

 家法印殿(松浦鎮信)の采配の柄も竹であったが、戦陣では士卒を下知されるとき、
常にらちがあかないと、鞍を打ち口にくわえなさったので、
采配の柄は歯痕で見苦しいほどに傷ついていたそうだ。
(甲子夜話)

行儀が悪い話



751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 21:12:25.78 ID:Yw8Kk2C+
爪を噛むよりええやん

“雷切”

2015年12月18日 17:01

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 02:20:05.09 ID:DWiYqAIF
豊後国南部藤北の鎧ケ岳の城主・戸次伯耆守鑑連入道道雪は、元来大友の類葉で、
親秀の次男・戸次左衛門尉重秀の末孫である。

累代武勇を励んだが、中でも鑑連は大友家にあって肩を並べる者がいないばかりか、
隣国にも類少なき士大将であり、智謀と驍捷を兼ねて達し、堅を砕いて利を破り、
奇正応変にして過ちはなく、

ある時は韓信が旗幟を変えて趙城を落とした計略を追い抜き、ある時は薛仁貴が三箭を
発して天山を定めた勇に続いたので、攻め取る戦の功は優れていて数え切れない。

ある時、鑑連が庭の木の陰で涼んでおられると、にわかに空は掻き曇り、黒雲白雨を
帯びて降り来る。雷霆はしきりに轟き、雷火がたちまち落下して、庭中を奔走した。

鑑連は側にあった“千鳥”という刀を取って飛び掛かり、抜き打ちに雷火を丁と切って
飛び去った。それからはこの刀を“雷切”と改名した。

しかしながら、鑑連も雷の余炎に当てられて身体のあちこちを負傷し、片輪者になって
しまった。そのため、出陣の時も乗り物に乗って軍士を下知なされた。

(原注:『岩屋物語』には“雷が左足に落ち掛かるところを、すかさず備前長光2尺5寸の
刀をもって抜き打ちに切りなさり、雷光は2つに切り割られて左右に飛び去った”とある)

――『筑後将士軍談(陰徳太平記)』




781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 11:06:56.17 ID:Iqvf/N9q
鑑連は雷火を切って飛び去った・・・!?!?

戸次道雪、大友義鎮を諌める

2015年03月07日 16:52

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/07(土) 16:47:23.10 ID:5liutiCy
当屋形である大友義鎮公は、幼少の頃より政道正しき大将であり、儒学の達者にて堯舜湯武の古き跡を
御尋ねになり、何事も、廃れた道を改め、古式の例に任せて御仕置をされた。
かねてより怪力乱神といった徒な事を聞くことはなかった。

所が、このような大将であったのに、いつの間にか性格が変わってしまった。
ある時、御簾の間に移って御酒宴の御慰があったが、その後踊りを見物したいと、国中から二十歳前後の女を
すべて踊り子にするため召し出した。義鎮公が行ったこのような事は限りなかった。

義鎮公は相手がいかなる野人であっても、色良き女をさえ差し出せば、機嫌よく御前に召し、財宝を与えた。
都より楽の役者を召し、酒宴、乱舞、詩歌、管弦に日を送り、偏に好色に傾いた。
美女に対する潰えは万民の苦しみであり、侍の権威は女に掠め取られた。これこそ傾城傾国の基であり、
次第に、日々猥らとなり、いつしか礼儀を忘れ、偏に好色に傾けば、国家滅亡となるであろうと、
これに眉をひそめぬ者はなかった。

戸次伯耆守(道雪)はこれを悔やみ、どうにかして制止したいと日々登城するも、御簾の内に入るのは
許されなかったため、どうにも出来なかった。
そこで戸次は踊り子を用意し、御簾の間にで日々夜々に踊りをした。

これを義鎮公が聞き及び、「伯耆守は月見、花見、酒宴、乱舞といったものを大いに嫌っていたのに、
今踊りを好むとは不審なことだ。きっと私への馳走のつもりなのだろう。見物したい。」と言い出し、
戸次の元へと出向いた。戸次伯耆守は大いに喜び、踊り子たちに三拍子という踊りを三度踊らせ、
それが首尾よく済むと、義鎮に向かって申し上げた

「恐れ多きことですが、請い願わくばその御不行儀を止めて頂きたい。
かつて、御父君である義鑑公の時代は、ご領内六カ国においてさえ、猥らがましきことばかりでしたが、
御屋形様がご若年で家督を継がれてからは、程なくその風潮も収まりました。これも偏に、御屋形様の
ご威光が浅からぬ故でしょう。

さりながら、近年は何事も御政道を投げ打たれ、御簾の間に移られ、家臣たちの言うことは何も聞きたくないと
仰せられました。これでは悪しき事も良き事も申し上げる方法がございません。

毛利陸奥守(元就)は立石合戦で利を失い、御屋形様を恨み、様々な武略を巡らせ、当家を滅ぼす時節を
待っております。
只今の大友家の御様態、御幕下は内より御屋形様を疎んでおります。
義鑑公の時代のように、世間で再び兵乱が始まってしまっては、なんと御勿体なき儀ではありませんか。」

そう、涙を流し申し上げると、義鎮も「ありがたし」と改心した。
翌日は七夕の御礼の儀があったが、諸士が登城すると、義鎮は例年通りの儀式において、
家臣たちと対面し御礼を請けた。このことに、豊後の国中喜悦の思いをなしたのである。

(大友記)



698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/07(土) 20:46:37.55 ID:P9TUOMNt
大友って盟主的な扱いだから義鎮本人の能力が分かりづらい
直接指揮した合戦もなさそうだし今川氏真と大差無さそう
あるいは一条兼定なみか

道雪の墓守

2014年05月07日 18:45

897 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/07(水) 01:54:43.27 ID:6sn+TDjP
道雪の墓守

立花山麓にある曹洞宗の古刹梅岳寺
立花道雪の墓所である
中央に母養孝院の墓所、右に道雪、そして何故か左に一回り小さな異名の墓石

主君から恩賞として死後も使えることを許され同じ墓所に葬られた
名を菰野増時という

898 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/07(水) 02:12:41.79 ID:6sn+TDjP
ミス 薦野だ
福岡県の現在地名だと新宮あたり
柳川立花藩改易後黒田に使えた理由の一つだとも
地味だけど忠誠が高い九州武将の典型だと思う




フロイス「日本史」より、立花道雪の話

2013年11月26日 19:01

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 16:14:42.98 ID:/L3nXWsc
立花道雪の話

二万近い兵士を擁する豊後勢は、先に筑後国で叛旗したクロギ(黒木)という城を包囲するために出動した。
(豊後勢は)優れた指揮官を欠き、隊列も整わず、十分な協議もせずに襲撃したところ、
城中の兵士は猛烈果敢に応戦して、豊後勢に三百名の死者と七百名ほどの負傷者を出さしめたので、
残りの者は意気阻喪し、怖気づいて、我先に豊後へと敗走し始めた。
だが豊後にいた他の諸城の指揮官たちは、退却してくる彼らを襲って全滅させるように打ち合わせていたので、
彼らは前進することも後方へ退くこともできなくなった。(※)

この事態はタチバナ城の城主に伝えられた。
七十歳をいくつか越えたこの老いた城主は、人々が語るところによれば、
ただちに豊後随一の優れた槍の鞘を払い、
「(某の)鎧に封印をせよ。かの城、および他の城を占領するまで、某はこの鎧を体から外さぬ」と言ったということである。
そして六、七千名の有能な兵を率い、筑後の国内を通過し、途中、通行を妨げる幾人かの敵と戦い、
難なく彼らを制圧し、四、五日の旅の末、ついに不安におののいている豊後勢がいる場所に着いた。
豊後の軍勢は、差し迫ったこの危機から自分たちの救出に駆けつけてくれた彼を見て、この上もなく喜んだ。
老人は、ただちに軍勢の指揮官たちを招集し、一同を厳しく叱責した後、激怒しながら言った。
「お前たちは。
 もし女なら、なぜ逃げぬのか。
 またもし男なら、卑しくも兵士と言われながら、なぜ戦わぬのか。
 よいか、合戦において卑怯な態度を見せたり、『豊後へ帰りたい』などと言いだす輩は、
 某が自ら殺してしまうから、よく覚えておくがよい」と。

(彼は)時を移さず、幾日もの旅の疲れを物ともせず、自ら先頭に立って、
地の利といい籠城している兵士の勇敢さといい難攻不落と思われた城に対し、果敢な襲撃を試みた。
最初の攻撃で彼らは城内に突入し、城内にいた敵の大部分を殺害した。
この間、味方が被った損失はごくわずかに留まった。
彼はこの勝利を得ると、気力を失い臆病風にとりつかれていた豊後の兵士たちを感奮させようと、
さらに他の二城を彼らと一緒に攻撃した。
それらの城はいずれも彼の武威に屈した。

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 16:15:48.91 ID:/L3nXWsc
この老人は深い思慮を備え、戦においては著名な指揮官であったが、異教に凝り固まっていたのでデウスのことを嫌悪していた。
その頃、豊後の殿の一人を父に持つ若者が(キリシタンの)説教を聴いていたが、突如出陣することになったので、
さしあたっては洗礼を受けることができなかった。
彼は自らの慰めとして、コンタツを首にかけて出陣した。
陣営では、朽網殿と称する異教徒である彼の父が、老いた総指揮官を訪問しようと思って息子を同伴した。
その際、父親は息子に、
「そなたも知るように、タチバナドノはキリシタンをあまり好まれぬので、そのコンタツを目に触れないように隠しておけ」と注意した。
若者はそのように見せかけたが、父と一緒に総指揮官のいるところに入ると、これ見よがしにわざとコンタツを表にとりだした。
父親は息子の仕業に赤面して言った。
「この倅は馬鹿者です。
 ここに罷り出るに先立って、貴殿はコンタツをお好み遊ばされぬゆえ、取り外すよう注意しておきましたが、
 このように出して見せる始末です」と。
老人が答えて言うには、
「貴殿、御懸念には及ばぬ。
 なぜならば、優れた兵士は初志を貫徹すべきで、後退してはなりますまい」と。

このことから言い得るのは、日本人がいかに理性的で、答弁にあたっていかに分別があるか、ということである。

(フロイス日本史より)
※の行の内容については、なぜ豊後の城主たちが豊後勢を攻撃しようとするのか、訳者いわく「事情を理解しがたい」とのことですが
 そのまま書きました。




712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 17:37:25.05 ID:gYfr5t4H
異教だってだけでクソミソなフロイスさんが武勇や思慮を称えるとか道雪さんとこは色々ぶれねぇなぁ・・・

「柳川3年、肥後3月、肥前・筑前朝茶の子」

2013年02月09日 19:51

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/08(金) 20:23:28.68 ID:QSJ/rZu2
大友家の全盛期に軍中ではやった戯歌があった

「柳川3年、肥後3月、肥前・筑前朝茶の子」

大友支配下の蒲池氏の居城柳川城の堅牢ぶりを唄った戯歌である。

しかし、その後の大友は朝茶の子呼ばわりした「肥前」の竜造寺に今山合戦で敗れ、肥後筑前の半分を失い、
柳川城も竜造寺に奪われ、
名将立花道雪が最晩年命を削って戦った柳川城攻略戦の敗退を見るに栄枯盛衰を感じさせる戯歌である。