秀頼母子は正則の書状に、

2016年01月04日 22:11

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/04(月) 09:24:24.23 ID:KADeL/Yu
慶長19年9月、大阪冬の陣起こる。
10月7日、駿府の大御所・徳川家康は江戸より馳せ来た竹中重利を召して言った

「汝は福島正則と親しく相語る者であれば、我が為に再び関東に趣き正則にこう申してほしい。
今度大阪の軍が起こったこと、秀頼の心とは思えない。これは偏に、織田有楽、大野、木村、渡辺といった
者達の計らいであろう。

尤も正則は元より故太閤のゆかりであり秀頼にも親しく、又この家康父子にも疎いわけではない。
ならば、正則の身にとっては、何れの方に与すべきとも考えられないだろう。
正則がたとえ我々父子に与しなくても、大阪に味方するという疑いを持つことはない。
ただ、暫く正則は関東に留まり、嫡子備後守に軍勢を付けて参らせてほしい。」

同月11日、大御所は駿府を出立し、13日中泉に至った時、福島正則の使者が、竹中重利
書状を持って馳せ参った。
書状の中で竹中は、正則の発言の旨をこのように述べた

『仰せ、謹んで承りました。私も、今度の大阪で兵の起こったことは、最も不思議と言うべきだと考えます。
であれな仰せ下さったように、秀頼母子がこのような事を思いつくとも考えられず、近習の輩の計らいに
よる事、疑いありません。
である以上、私はかの御母子を諌め参らせるため、二人の使者を立てて我が方の消息を通しました。』

本多正純が、正則が大阪に送ったという書状を取って見るとこのように書かれていた。

『今度の大仏修造の事について両御所を怨まれるという判断は、只事ではありません。偏に御家運を
傾かせられる時が至るだけです。ただ、速やかに御母子の御心を改められ、過ちを謝し申されんため、
御母上をして駿府か江戸に参らせ置かれるべきです。

正則は近年、関東の御恩蒙る身となり、二心を思いません。また妻子も関東にあります。
いま諌め参らせた旨に従われないのなら、この正則は天下の軍勢に先立って馳せ向かい、
速やかに大阪城勢を打ち破って見せるでしょう。その時になって後悔なさっても最早意味がありません。
御家運のめでたく渡らせ給うのも、そうならないのも、そちらの御計らい次第なのです。」

同16日、再び正則の使者が、大御所の岡崎の陣に馳せ参り一通の書状を献じた。
正則が先陣を賜って馳せ向かい、速やかに大阪勢を誅すべき事を望む、という内容であった。
大御所は
「正則の申す所神妙である。ただ、其の儘に江戸に在って妻子尽く城中に参らせ置くように」
と仰せになり、使いを返した。

22日、大御所は永原の陣に竹中重利を召され、「急ぎ正則の領国に下り、備後守正勝と共に
軍勢を催して大阪に向かうように。」と命じた。

翌23日、都に入った日に、正則の使者が大阪より帰って参上した。
「秀頼母子は正則の書状に、何も答えなかった。」と報告し、また江戸へと下った。

(藩翰譜)




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